司馬相如《上林賦 》(29) 武帝の上林苑とそこにくりひろげられる天子の狩猟のさまを,壮麗な美文で描きあげる。漢を代表する文学様式〈賦〉は,事実上この作品によって完成された。
》(29)―#10-4 文選 賦<110-#10-4>13分割38回 Ⅱ李白に影響を与えた詩934 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3218
梁王の死後,失職して四川の臨卭(りんぎよう)に帰り,不遇をかこっていたが,やがて〈子虚の賦〉が武帝の目にとまって,都に召し出され,宮廷文人の列に加わった。彼の文名を決定づけたのは,長編の韻文〈天子游猟の賦〉(《文選》では〈子虚の賦〉〈上林の賦〉の2部に分けられる)で,武帝の上林苑とそこにくりひろげられる天子の狩猟のさまを,壮麗な美文で描きあげる。漢を代表する文学様式〈賦〉は,事実上この作品によって完成された。
#10-1
「於是乘輿弭節徘徊,翱翔往來。
さて、この上林苑において天子は車馬に乗りあちこちを回って、そして、旋回し、そして、行きつ戻りつして、
睨部曲之進退,覽將帥之變態。
巡り行き、部隊の動き具合いや、指揮官たちの様々な姿をご覧になる。
然後侵淫促節,倐敻遠去;
その後、次第に、馬の歩調を速められ、たちまちのうちに、遠方へ駆け去って行かれる。
流離輕禽,蹴履狡獸;
小鳥たちをけちらし、すばやい獣たちを踏み倒し、
𨎥白鹿,捷狡兔;
白い鹿を車軸に当て、すばやい兎を捕獲される。
軼赤電,遺光耀,
さらに、赤い妖光を追い越し、その光を後ろに見て、
追怪物,出宇宙。
怪しい鳥獣を追い求め、天地の果てを超えて進まる。
#10-2
彎蕃弱,滿白羽;
古代からの良弓の蕃弱の弓をひき、白羽の矢を引き絞り
射游梟,櫟蜚遽。
走る梟羊、飛ぶ遽を射とめられるのである。
擇肉而後發,先中而命處;
天子の弓の腕前は、どの場所の肉に矢を当てるかを決めてから、矢を放たれ、その矢が命中する前に、その場所を口にされるほどである。
弦矢分,藝殪仆。
矢が弦を離れるやいなや、的となった鳥獣は倒れ伏すのだ。
然後揚節而上浮,凌驚風,
その後、天子は、馬あしを上に向け、空に浮かび昇られ、疾風を越え、
歷駭猋,乘虛無,與神俱。
つむじ風を横切り、虚空に上り、神霊に出会われる。
#10-3
藺玄鶴,亂昆鷄;
そこでは、黒い鶴を踏みつけ、昆鶉の群れを乱し、
遒孔鸞,促鵕䴊。
孔雀と鸞鳥に追いつき、鵕䴊を捕らえ、
拂翳鳥,捎鳳凰;
鳳の一種である翳鳥を払いのけ、鳳凰を打ち、
捷鵷雛,揜焦明。
鵷雛を促え、焦明を抑えてとるのである。
道盡塗殫,迴車而還;
やがて、道が窮まると、車を廻らせてお帰りになる。
招搖乎襄羊,降集乎北紘;
ゆったりと巡り行き、北の果てに、天から下り立ち、
率乎直指,晻乎反鄉。
そこから、上林苑まで、まっすぐに向かい、速やかにお戻りになる。
#10-4
蹶石闕,歷封巒;
石闕観を越え、封巒観を過ぎ、
過鳷鵲,望露寒;
鳷鵲観をぬけ、露寒観を眺めつつ、
下棠梨,息宜春。
棠梨観へと下り、宜春宮に休まれ、
西馳宣曲,濯鷁牛首;
西を指して宜曲宮に急ぎ、牛首池に船を浮かべ、
登龍臺,掩細柳;
龍台に登り、細柳観に留まられるのである。
#10-5
觀士大夫之勤略,鈞獵者之所得獲,
徒車之所𨏼轢,步騎之所蹂蹃,
人臣之所蹈藉,與其窮極倦𠙆,
驚憚讋伏,不被創刃而死者,
佗佗藉藉,填阬滿谷,揜平彌澤。
#10-1
「是に於いて乘輿 節を弭【なび】かして徘徊し,翱翔【こうしょう】として往來す。
部曲の進退を睨【み】,將帥の變態を覽る。
然る後 侵淫【しんいん】として節を促やかに,倐敻【しゅくけい】として遠く去る。
輕禽【けいきん】を流離し,狡獸【こうじゅう】を蹴履【しゅくり】す。
白鹿を𨎥【す】り,狡兔【こうと】を捷る。
#10-2
赤電を軼【す】き,光耀【こうよう】を遺【のこ】し,
怪物を追い,宇宙より出づ。
蕃弱【はんじゃく】を彎【ひ】きて,白羽を滿し、
游梟【ゆうきょう】を射,櫟蜚遽【ひきょ】を【う】つ。
肉を擇【えら】びて而して後に發ち,中【あた】るに先だちて而して處を命ず。
弦矢【げんし】分れて,藝【まと】殪【たお】れ仆【ふ】す。
然る後 節を揚げて而して上り浮かべ,驚風を凌ぐ。
駭猋【がいひょう】を歷【へ】,虛無に乘り,神と俱にす。
#10-3
玄鶴【げんかく】を藺【ふ】み,昆鷄を亂り、
孔鸞【こうらん】を遒【せめと】り,鵕䴊【しゅんぎ】を促【せめと】り。
翳鳥【えいちょう】を拂い,鳳凰を捎【う】ち、
鵷雛【えんすう】を捷【と】り,焦明【しょうめい】を揜【おお】う。
道盡き塗殫【つ】きて,車を迴らせて還える。
招搖【しょうよう】乎【こ】として襄羊【じょうよう】し,乎として北紘に降集す。
#10-4
率乎【そつこ】として直に指し,晻乎【えんこ】として反り鄉【おか】う。
石闕【せきけつ】を蹶【ふ】み,封巒【ほうらん】を歷【へ】、
鳷鵲【しじゃく】を過【よぎ】り,露寒を望み、
棠梨【とうり】に下り,宜春【ぎしゅん】に息う。
西のかた宣曲に馳せ,鷁【げき】を牛首に濯う。
#10-5
龍臺に登り,細柳に掩【とど】まる。
士大夫の勤略を觀て,獵者【りょうしゃ】の得獲【とくかく】する所を鈞【ひと】しくする,
徒車の𨏼【ふ】み轢【ふ】む所と,步騎の蹂【ふ】み蹃【にし】る所と,
人臣の蹈【ふ】藉【ふ】む所とを,其の窮極 倦𠙆【けんげき】し,
驚憚【きょうたん】讋伏【しょうふく】し,創刃を被らずしてに死する者に與り,
佗佗【たた】藉藉【せきせき】として,阬【たに】に填【み】ち谷に滿ちて,平【はら】を揜【おお】い澤を彌【わた】れり。
『上林賦』(29)―#10-4 現代語訳と訳註
(本文) #10-4
蹶石闕,歷封巒;
過鳷鵲,望露寒;
下棠梨,息宜春。
西馳宣曲,濯鷁牛首;
登龍臺,掩細柳;
(下し文) #10-4
率乎【そつこ】として直に指し,晻乎【えんこ】として反り鄉【おか】う。
石闕【せきけつ】を蹶【ふ】み,封巒【ほうらん】を歷【へ】、
鳷鵲【しじゃく】を過【よぎ】り,露寒を望み、
棠梨【とうり】に下り,宜春【ぎしゅん】に息う。
西のかた宣曲に馳せ,鷁【げき】を牛首に濯う。
(現代語訳)
石闕観を越え、封巒観を過ぎ、
鳷鵲観をぬけ、露寒観を眺めつつ、
棠梨観へと下り、宜春宮に休まれ、
西を指して宜曲宮に急ぎ、牛首池に船を浮かべ、
龍台に登り、細柳観に留まられるのである。
(訳注) #10-4
蹶石闕,歷封巒、
石闕観を越え、封巒観を過ぎ、
過鳷鵲,望露寒、
鳷鵲観をぬけ、露寒観を眺めつつ、
○蹶石闕……望露寒 石闕・封巒・鳷鵲・露寒の四老は、武帝が建元年間に建てた楼観で、雲陽県の甘泉宮の外ではあるが、苑内に造られた。
秦の始皇帝が前220年に首都咸陽(かんよう)の北西の甘泉山(陝西省淳化県)に築いた離宮の林光宮に始まる。漢の武帝が建元年間(前140‐前135)に高光宮,迎風館,通天台などを増築し,周囲19里(約7.7km),12宮,11台などを甘泉宮と総称した。別に山谷に沿って雲陽に至る周囲540里(約219km)の甘泉苑を設け,仙人,石闕(せきけつ),封巒(ほうらん),鳷鵲(しじやく)諸観など宮殿台閣100ヵ所以上があった。
下棠梨,息宜春。
棠梨観へと下り、宜春宮に休まれ、
○棠梨 甘泉宮の離宮であるが、『三輔黄圖』によれば、甘泉苑垣外、雲陽の南三十里に在ったという。
○宜春 『三輔黄圖』によれば、もと秦の離宮で、長安城の東南、杜県の東(陝西省西安の東南) に在ったという。
西馳宣曲,濯鷁牛首、
西を指して宜曲宮に急ぎ、牛首池に船を浮かべ、
登龍臺,掩細柳、
龍台に登り、細柳観に留まられるのである。
○西馳宜曲…‥掩細柳 宣曲は宮殿の名、昆明地の西に在った。牛首は池の名で、上林苑の西端に在った。龍台は楼観の名で、灃水の西岸、渭水に近い所に在った。細柳は楼観の名で、昆明池の南に在った。なお、『三輔黄園』によれば、上林苑には池が10か所あったという。ここまでの文章は、天子が天上から北の涯に降り、甘泉宮を経て、上林苑に戻る道程を述べたもの。
『三輔黄園』とは中国,長安(現,西安)を中心にその近郊に位置する三輔(京兆尹(けいちよういん),左馮翊(さひようよく),右扶風(ゆうふふう))の地域の,主として漢代の古跡を記述した地理書。宮殿,苑囿(えんゆう),陵墓などの来歴を述べ,ときにそうした場所にまつわる伝説も引用される。筆者は不明。原本は南北朝期にできたと考えられるが,中唐以降の付加になる部分もある。テキストには,古書の引用で現行本を対校したものがいくつかあるが,陳直《三輔黄図校正》が最も新しい成果である。