漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
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2014年05月

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しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。

index-26-1-2 《古風五十九首之三》Ⅳ-1 747年天寶六年47歳 464index-26-1-2> Ⅰ李白詩1146 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4278

 

 

古風,五十九首之三

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

明斷自天、大略駕群才。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

收兵鑄金人、函谷正東開。

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

刑徒七十萬、起土驪山隈。』

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

 
古風,五十九首之三

秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。

劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。

明斷 天よりき、大略 群才を駕す。

兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。

功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。

刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』

尚采不死藥、茫然使心哀。

しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。

徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。

額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。

大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか

徐市載秦女、樓船幾時回。

徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
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但見三泉下、金棺葬寒灰。

いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
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尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。

連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。

額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。

鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。

徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。

但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。

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泰山の夕日02

 

『古風,五十九首之三』 現代語訳と訳註

(本文)#2

尚采不死藥、茫然使心哀。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。

徐市載秦女、樓船幾時回。

但見三泉下、金棺葬寒灰。

 

(下し文)

尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。

連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。

額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。

鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。

徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。

但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。

 

(現代語訳)

しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
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(訳注)#2

古風,五十九首之三

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山に木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。始皇帝は天下巡遊を始めた。皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。

 

 toujidaimap216

尚采不死藥、茫然使心哀。
しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったにもかかわらず、思うようにならず茫然と心をかなしませた。
○尚採不死薬 「史記」始皇本紀三十二年「韓終・侯公・石生に仙人の不死の薬を求めさせた」。始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。
徐市らが「海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをする」と上書していうので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。
連弩 数本ないし数十本の矢を連続して発射できるような仕掛の石弓。

海魚 大鮫。

○連弩射海魚 始皇本紀、二十八年「斉の人、徐市らが上書して「海中に三つの神山があり、蓬莱・方丈・瀛洲と申して、仙人が住んでおります。斎戒して童男童女を連れ、仙人を探したいと思います」と言った。そこで徐市を派遣し、董男童女数千人を出して海上に仙人を求めさせた」。三十七年「方士の徐市らは、海上に神薬を求めて、数年になるが得られず、費用が多いだけだったので、罰せられることを恐れ、いつわって、「蓬莱では神薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられて、島に行くことができないのです。上手な射手を附けていただけば、現われたら連弩で射るのですが」と言った。……そこで海上に行く者に大魚を捕える道具を持たせ、大魚が出たら、始皇みずから連弩で射ようと、琅邪から労山・成山(いずれも山東省)まで行ったが、ついに現われなかった。之罘に行くと大魚が出たので、一魚を射殺した」。 

崔嵬 高くて急な、石山の形容。

 

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。
額と鼻は象のかたちをしておるのが五行説に基づく五嶽であるが、その鼻で大波をかき揚げ、雲雷を噴きだすのである。
五嶽 陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。

           東岳泰山(山東省泰安市泰山区)標高1,545m

           南岳衡山(湖南省衡陽市衡山県)標高1,298m

           中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)標高1,440m

           西岳華山(陝西省渭南市華陰市)標高2,160m

           北岳恒山(山西省大同市渾源県)標高2,016,m

神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。

この五岳を象徴図形にしたものが五岳真形図(「五嶽眞形圖」)である。

 

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。
大魚の方はひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これほどの物が護っている蓬莱など神仙三山がでどうして見られるというのか。
鬈鬣 ひれとひげ。○蓬莱 海上にあるといわれる仙人の島。

 

徐市載秦女、樓船幾時回。
徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。
徐市【じょふく】秦の始皇帝をだましたイカサマ師である。徐福ともいう。日本に来て住んだという。紀州にその墓がある。『史記』には「徐福または徐市は斉の国琅邪の人なり。」と記載されている。中国正史のなかで徐福について初めて触れたのは司馬遷であり、『史記』の「秦始皇本紀」および「准南衝山列伝」に取りあげられている。

楼船 二階づくりの屋形船。

 

但見三泉下、金棺葬寒灰。
いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。
三泉 始皇本紀に,「始皇初即位,穿治酈山,及並天下,天下徒送詣七十餘萬人,穿三泉,下銅而致槨,宮觀百官奇器怪徙藏滿之。」(始皇を驪山に葬る。始皇帝が初めて帝位に即いた時、驪山のふもとに陵をつくるため穴を掘り、天下をあわせたのちは、天下の徒刑の罪人七十余万人をつかって三泉の下まで掘り、銅を以て下をふさぎ、外棺を入れた。塚の中に宮殿や百官の席をつくり、珍奇な器物をいっぱい入れた)。司馬遷は『史記』で 「穿三泉,下而致椁,宫观百官,奇器异怪徙藏之。以水银为百川江河大海,机相灌上具天文,下具地理,以人为烛,度不者久之」とあり(秦の始皇帝の陵墓は、非常に地下深く掘られています。まず、溶かした銅の液で床を埋めた後、棺おけを置きます。地下宮殿には、文武百官の席を設けただけではなく、数え切れないほどの宝物を所蔵しています。また、盗掘を防止するため、宮殿の門に矢などの防止用の道具が設置されています。さらに、陵墓内で水銀による海や川を作り、機械の力でそれを流動させるようにしており、お墓の吹き抜けには太陽や月、星などを飾り、地下には実物を真似した山水やお城や村などの風景も見られます。そして、所々に人魚の油で火を点した(ともした)蝋燭があり、これらの蝋燭は長く点しても消えません。」)

三泉とは、地下水の層を三つ掘りぬいた深い地底。始皇陵:秦の始皇帝の陵墓。原名は驪山(りざん)(山とは陵墓の意味)。陝西省臨潼県の東約5kmに位置する。墳丘は方形台状で,高さ76m,基底部は東西345m,南北350mの正方形を呈す。二重の城牆をめぐらし,内城牆は幅10m,残高1m余。また外城牆は幅67m,残高1mで周長約6300mの南北に長い長方形をなす。内城には6門,外城には4門が検出されている。延べ70万人の刑徒を動員して造営したと伝えられる墳丘自体には,いまだ発掘調査の手がおよんでいないが,周辺には陵墓と関係のある秦代の遺跡が各所で発見されている。

○寒灰 つめたい灰。死骸は火葬しないが、次第に風化して灰になることをいう。

 

 この詩も、神仙を願うことに反対しているのではない。また始皇帝をひきあいにだして、玄宗を諷刺したというものでもなく、ただ神仙の道を求める資格が、なかったことをいっているのである。晩年の豪奢と強権、宦官に任せた始皇帝には、不老長寿を求める資格はない、たとえ徐市(徐福)に始皇帝を欺く意志があったとしてもである。

中國歴史rihaku00 

 ○韻 哉、來、才、開、台、隈、哀、嵬、雷、萊、回、灰。


        
 2014年5月31日の紀頌之5つのブログ 
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index-26-1-1 《古風五十九首之三》Ⅳ-1 747年天寶六年47歳 464index-26-1-1> Ⅰ李白詩1145 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4273

 

 

3巻一  

古風,五十九首之三

秦皇掃六合。虎視何雄哉。揮劍決浮云。諸侯盡西來。

明斷自天。大略駕群才。收兵鑄金人。函谷正東開。

銘功會稽嶺。騁望琅琊台。刑徒七十萬。起土驪山隈。

尚采不死藥。茫然使心哀。連弩射海魚。長鯨正崔嵬。

額鼻象五岳。揚波噴云雷。鬈鬣蔽青天。何由睹蓬萊。

徐市載秦女。樓船幾時回。但見三泉下。金棺葬寒灰。

 

 

李白は、神仙となって長命を得ることは道を得る機会が増えることであり、奨励されると考えており、真理としての宇宙観には多様性があるとするのが道教の思想であると考えていた。食生活においてはとりわけ、酒飲むことを基本とし、この相乗効果として、さまざまな食物を得ることで均衡が取れ、長生きすると考えていた。次に李白に人生の集大成とも思われる「古風」五十九首のうちで道教に関するものと思われるものを見ていこう。この詩は、神仙思想というものから見れば、始皇帝の行った数々のことはおろかなことである、神仙を愚弄したものであり、結果は、「金棺の寒灰を葬る。」と。

 

 

古風,五十九首之三

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

明斷自天、大略駕群才。

收兵鑄金人、函谷正東開。

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

刑徒七十萬、起土驪山隈。』

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

 

尚采不死藥、茫然使心哀。

連弩射海魚、長鯨正崔嵬。

額鼻象五嶽、揚波噴云雷。

鬈鬣蔽青天、何由睹蓬萊。

徐市載秦女、樓船幾時回。

但見三泉下、金棺葬寒灰。

しかもなお、不死の仙薬を採ってこさせようとして、思うようにならず茫然と心をかなしませた。

海中に恐ろしい大魚がいて仙島へ行くじゃまをするというので、数十本の矢をつづけさまに発射できる石弓でそれを射たが、あらわれたクジラは岩山のような大きさであった。

額と鼻は五嶽のかたち(象)をしており、大波をかき揚げ、雲雷を噴きだした。

ひれとひげは大空をもおおいかくししてしまう、これでどうして蓬莱などが見られるというのか

徐市は秦の童女をのせて出かけたが、その楼船は何時帰って来るのだろう。

いまはただ、三泉の深い地の底で、こがねの棺につめたい灰が葬られているのを見るだけである。

 

 

古風,五十九首之三

秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。

劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。

明斷 天よりき、大略 群才を駕す。

兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。

功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。

刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』

 

尚 不死の藥を采り、茫然として 心をして哀しましん。

連弩 海魚を射、長鯨 正に崔嵬。

額鼻は五岳に象かたどり、波を揚げて云雷を噴【は】く。

鬈鬣【きりょう】青天を蔽【おお】う、何に由りてか 蓬萊を睹【み】ん。

徐市【じょふつ】秦女を載せ、樓船 幾時か回える。

但だ見る 三泉の下、金棺 寒灰を葬【ほうむ】るを。

泰山の夕日02 

 

『古風,五十九首之三』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之三

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

明斷自天、大略駕群才。

收兵鑄金人、函谷正東開。

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

 

(下し文)

古風,五十九首之三

秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。

劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。

明斷 天よりき、大略 群才を駕す。

兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。

功を銘す 會稽の嶺、望を騁【は】ず 琅琊の台。

刑徒 七十萬、土を起す 驪山の隈。』

 

(現代語訳)

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

終南山03 

(訳注)

古風,五十九首之三

(秦の始皇帝を大らかにうたいあげる。)

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36の郡が置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。度量衡や通貨、荷車の軸幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路や運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山に木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。始皇帝は天下巡遊を始めた。皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にある舜が各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐市の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐市も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。

 

秦皇掃六合、虎視何雄哉。

秦の始皇帝は天下国家を一掃し平らげた、虎のような睨みは何と勇壮なことか。

〇秦皇 始皇帝は、中国戦国時代の秦王。姓は嬴、諱は政。現代中国語では、始皇帝、または秦始皇と称する。紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。 中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。。

〇六合【りくごう】天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。天下国家。始皇帝はまた五行思想(地、木、金、火、水)も取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は次の徳を持つとし、それは「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。

○虎視 猛虎がニラミをきかすこと。勢意の盛んで強いことのたとえ。

 

揮劍決浮云、諸侯盡西來。

剣をふるって浮雲を切ると、天下の諸侯は一人のこらず西へ来て秦始皇帝に降伏した。

○揮劍決浮雲 「荘子」に「天子の剣は、上は浮雲を決り、下は地紀(大地の根本)を断つ。」とあるのにもとづくもの。

○諸侯尽西来 戦国時代の諸侯、すなわち斉・楚・燕・韓・魏・趙の六国の王たちは皆降伏して当時は一番西に位置したので(西のかた)秦に来た。中国初めての統一国家とされているが、実質的には隋王朝の国の体をなした国家、すなわち、律令国家体制こそが初めての統一国家といえるもののではなかろうか。

 

明斷自天、大略駕群才。

英明なる決断力は天から啓示されたもので、大いなる計画は多くの才士を凌駕した。(頭初は人材をうまく使いこなした)

○明断 英明な決断力。

○大略 大計画。

 

收兵鑄金人、函谷正東開。

天下各地で叛乱を防ぐため兵と武器を都にあつめて権威象徴の鋳銅の大人形をつくった、都を守る要害の地函谷関も、東にむかって門戸を開き、天下巡遊を始め、五行思想を定着させた。 

○収兵鋳金人 「史記」の始皇本紀の二十六年の条に「天下の兵(武器)を収めて咸陽に集め、これをとかして鐘鐻(しょうきょ:鐘や鼓をかける台)と金人(銅製の大人形)十二をつくり、重さはそれぞれ千石(一石は普通人がかつげる重さ)で、宮廷に置いた」とある。

○函谷 秦の東境にある関所の名。いまの河南省の西端。秦は自然の要塞でもあるここを厳重守っていたが、六国を滅ぼして天下を統一したので「東に開」いたわけである。

 

銘功會稽嶺、騁望琅琊台。

天下巡遊は、南のかた、会稽山の嶺にのぼって、自分の功績を石に刻み、東は琅邪台にのぼって、はるかに東方海上を眺めまわした。

○銘功会稽嶺 「史記」の始皇本紀、三十七年に「会稽山(浙江省紹興)に登って大禹(夏の商王)を祭り、南海を望んで石を立て、文字を刻んで秦の徳をたたえた」とある。杭州が中国南部統治の要衝地であった。その象徴ともいえる山が会稽山である。地図上での南は海南方面であるが李白の時代唐時は交通手段が川・運河であったためこの地を南としていた。○騁望琅琊台 琅邪は琅琊とも、また琅邪とも書く。同じく始皇本紀、二十八年「南のかた琅邪山(山東省諸城県東南)に登って大いに楽しみ、滞留三か月、平民三万戸を琅邪山のふもとに移し、十二年間免税することにし、琅邪台を作って石を立て、秦の徳をたたえた」。この地が最東の要衝地であった。

 

刑徒七十萬、起土驪山隈。』

囚人七十万をつかって、驪山のふもとに土木工事、兵馬俑坑の建設をはじめた。

○刑徒七十万 同じく始皇本紀、三十五年「始皇は阿房宮を作った。東西五百歩つまり3,000尺・南北五十丈つまり500尺という。なお、メートル法に換算すると、乗数に諸説があるため東西600-800m・南北113-150mなどの幅がある。ウィキペディア中国語版では、693m116.5mと記述されている。 二階建で上は万人を坐らすことができ、下は五丈の旗を建てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。その建築に任じた刑徒の数は70余万に昇った。なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。」。○驪山 いまの陝西省臨潼県の東南、つまり咸陽の東の郊外にある山。泰山の道観 


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そもそも、後宮に生い茂る桂の実はひりひりとしてからいものであるから蟲などが喰うはずがないのである。梧桐の住まいに棲むといわれる天子と皇后とは讒言などに惑わされるものであってはならないのであるが、桂には蟲が付き、花は咲くけど実はならない、そこに天から、冰霜が降ってくるという厳しい寒気がおそったというのではたまらない。


        
 2014年5月29日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
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製作年:753  天寶十二年  53

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之二 

及地點:  紫微殿 (京畿道 京兆府 長安)     

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿     

 

 

古風五十九首之二

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)

蟾蜍薄太清。 蝕此瑤台月。

月の中にすむヒキガエルがのさばって大空に逼っている。ついに、天上の仙郷宮殿の上に輝く月を食べ始めて仕舞うという。

圓光虧中天。 金魄遂淪沒。

そういうことで月が天空の中天にあるというのに、その黄金の光は欠けてなくなっていき、仕舞には天空の中にしみ込んで消えたのである。いま、武惠妃が寵愛をほしいままにし、王皇后がこれを厭がって、その皇位から落されてしまったのが、この月の様子と同じである。

螮蝀入紫微。 大明夷朝暉。

そもそも、「螮蝀(虹:武惠妃)」が天空にかかって来るとその綺麗さに朝日(玄宗)も滅ぼされて仕舞う、武惠妃が後宮に入ってから、淫奔の行いをするようになり、開元の治といわれた玄宗の聡明さも全く消されてしまったのである。

(古風五十九首之二)

蟾蜍は薄太清に【せま】り。此の瑤台の月を蝕す。

圓光 中天に虧【か】け。 金魄 遂に淪沒す。

螮蝀【ていとう】紫微に入り。 大明 朝暉を夷【やぶ】らる。

 

浮云隔兩曜。 萬象昏陰霏。

こうして浮雲(浮気心)が日月を隔てて、すべての事柄・事象も陰晦の中に暗く霞んでしまった。玄宗と武惠妃との間は月日と共に隔離され、陰険なものにかわっていった。そこで、王皇后は廃され冷宮に幽閉されたのである。

蕭蕭長門宮。 昔是今已非。

それは漢の武帝が陳皇后をひっそりとした長門宮の一角に幽閉されたこととおなじことであるのだが、前後の関係からそれぞれを比較すると全く話にならないようなものなのである。

桂蠹花不實。 天霜下嚴威。

そもそも、後宮に生い茂る桂の実はひりひりとしてからいものであるから蟲などが喰うはずがないのである。梧桐の住まいに棲むといわれる天子と皇后とは讒言などに惑わされるものであってはならないのであるが、桂には蟲が付き、花は咲くけど実はならない、そこに天から、冰霜が降ってくるという厳しい寒気がおそったというのではたまらない。

沈嘆終永夕。 感我涕沾衣。

こうして、王皇后も讒言によって隔離された上に天子から厳しく詰問され、厳罰を科せられた身の上は、長い夜深い嘆息、心は沈んでしまわれたことであろう、私もこの讒言により貶められるということを考えると涙があふれ衣をすっかり濡らしてしまうのである。

 

浮云 兩曜を隔てて。 萬象 陰霏【いんび】昏し。

蕭蕭たる長門の宮。 昔は是にして今は已に非なり。

桂は蠹【むしば】んで花は實らず。 天霜 嚴威を下す。

沈嘆 永夕を終り。我を感ぜしめて涕 衣を沾す。

 

漢宮 未央宮 

『古風五十九首之二』 現代語訳と訳註

(本文)#2

浮云隔兩曜。 萬象昏陰霏。

蕭蕭長門宮。 昔是今已非。

桂蠹花不實。 天霜下嚴威。

沈嘆終永夕。 感我涕沾衣。

 

 

(下し文)

(古風五十九首之二)

蟾蜍は薄太清に【せま】り。此の瑤台の月を蝕す。

圓光 中天に虧【か】け。 金魄 遂に淪沒す。

螮蝀【ていとう】紫微に入り。 大明 朝暉を夷【やぶ】らる。

浮云 兩曜を隔てて。 萬象 陰霏【いんび】昏し。

蕭蕭たる長門の宮。 昔は是にして今は已に非なり。

桂は蠹【むしば】んで花は實らず。 天霜 嚴威を下す。

沈嘆 永夕を終り。我を感ぜしめて涕 衣を沾す。

 

(現代語訳)

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)#2

こうして浮雲(浮気心)が日月を隔てて、すべての事柄・事象も陰晦の中に暗く霞んでしまった。玄宗と武惠妃との間は月日と共に隔離され、陰険なものにかわっていった。そこで、王皇后は廃され冷宮に幽閉されたのである。

それは漢の武帝が陳皇后をひっそりとした長門宮の一角に幽閉されたこととおなじことであるのだが、前後の関係からそれぞれを比較すると全く話にならないようなものなのである。

そもそも、後宮に生い茂る桂の実はひりひりとしてからいものであるから蟲などが喰うはずがないのである。梧桐の住まいに棲むといわれる天子と皇后とは讒言などに惑わされるものであってはならないのであるが、桂には蟲が付き、花は咲くけど実はならない、そこに天から、冰霜が降ってくるという厳しい寒気がおそったというのではたまらない。

こうして、王皇后も讒言によって隔離された上に天子から厳しく詰問され、厳罰を科せられた身の上は、長い夜深い嘆息、心は沈んでしまわれたことであろう、私もこの讒言により貶められるということを考えると涙があふれ衣をすっかり濡らしてしまうのである。

唐長安城図00 

(訳注)

古風五十九首之二

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集したのである。「詩経の大雅のような大らかな正しい詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活できようか。王風の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の丗は、雑草ばかりになってしまった。」「大雅」は、文王・生民・蕩の3什編によって構成される。「わたしの志は、古代の詩の伝統を後世につたえることだ。その光が千年さきの春を照らすような詩集をつくるのだ。」

之二

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)

古風の第二篇 玄宗が王皇后を廃したことを諷刺したものである。詩の内容としても古朗月行 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白

と、同じような詩である。

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)#2

 

浮云隔兩曜。 萬象昏陰霏。

こうして浮雲(浮気心)が日月を隔てて、すべての事柄・事象も陰晦の中に暗く霞んでしまった。玄宗と武惠妃との間は月日と共に隔離され、陰険なものにかわっていった。そこで、王皇后は廃され冷宮に幽閉されたのである。

隔兩曜 日月を隔てて。表向きは、仲睦まじい日が過ぎてゆく、その一方で、讒言が繰り返し行われていくにしたがって一方では「寵愛」、その裏では「讒言」により、天子の心が離れていくことをいう。

陰霏 陰険なことが絶えず行われること。霏:1 雪や雨が絶え間なく降るさま。2 物事が絶え間なく続くさま。「

 

蕭蕭長門宮。 昔是今已非。

それは漢の武帝が陳皇后をひっそりとした長門宮の一角に幽閉されたこととおなじことであるのだが、前後の関係からそれぞれを比較すると全く話にならないようなものなのである。

長門宮 陳皇后(ちん こうごう、生没年不詳)は、前漢の武帝の最初の皇后。武帝の従姉妹に当たる。武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来なかった。一方で衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)に廃位された。

 

桂蠹花不實。 天霜下嚴威。

そもそも、後宮に生い茂る桂の実はひりひりとしてからいものであるから蟲などが喰うはずがないのである。梧桐の住まいに棲むといわれる天子と皇后とは讒言などに惑わされるものであってはならないのであるが、桂には蟲が付き、花は咲くけど実はならない、そこに天から、冰霜が降ってくるという厳しい寒気がおそったというのではたまらない。

桂蠹 月の宮殿に生い茂る嫦娥の宮殿のある梧桐。桂の実はひりひりとしてからいものであるから蟲などが喰うはずがないという常識。月には桂の樹木がうっそうと茂っていた。梧桐の葉に棲むとされるつがいの鳳凰は玄宗皇帝と楊貴妃に喩えられて詩に登場する。宮殿は一般のものが見られないものであり、贅の限りを尽くしたものはこのようのものでないということで、神格化につなげたものである。身分社会における神格化と、叛乱のできないほとのギリギリの貧困で留めることは、王朝の維持存続に不可欠のものであったのだ。

これらの伝説は王朝の宮廷の神格化のために作られたものといって過言ではない。それが、道教の神仙思想、陰陽道、などと結びつき伝説だけが、一人歩きした。科学力のない時代において、超常現象と伝説は神格化に必要不可欠のものであった。

 

沈嘆終永夕。 感我涕沾衣。

こうして、王皇后も讒言によって隔離された上に天子から厳しく詰問され、厳罰を科せられた身の上は、長い夜深い嘆息、心は沈んでしまわれたことであろう、私もこの讒言により貶められるということを考えると涙があふれ衣をすっかり濡らしてしまうのである。

感我 ここに言う「感我」は李白は高力氏の讒言により、長安追放となったことに重ねている。玄宗以前より宮廷内での宦官の暗躍は、天子の加護により陰湿なものであった。宦官は讒言と同時に、道士と結託し秘薬を駆使し、暗殺も行っていたので、表立って敵対視はできなかった。
茶苑 

index-32-1-#1 《古風五十九首之二》 579<index-32-1-#1> Ⅰ李白詩1143 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4263

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)月の中にすむヒキガエルがのさばって大空に逼っている。ついに、天上の仙郷宮殿の上に輝く月を食べ始めて仕舞うという。そもそも、「螮蝀(虹:武惠妃)」が天空にかかって来るとその綺麗さに朝日(玄宗)も滅ぼされて仕舞う、武惠妃が後宮に入ってから、淫奔の行いをするようになり、開元の治といわれた玄宗の聡明さも全く消されてしまったのである。

 

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745年(天寶五年)46歳 ~756(至德元年年)57歳 漫遊時代

337

index-25

-1

李白index- 25 《746年天寶五年46歳 初春、姑蘇、後に、揚州・安宜・淮安をめぐり、秋に揚州で年を越す。》

45

28

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-2

李白index- 26 《747年天寶六年47歳 春、揚州金陵,5月当塗、丹陽横山に隠れる。後、溧陽、金陵、兗州に帰り年を越》

46

17

index-27

-3

李白index- 27 《748年天寶七年48歳 袁州済南、梁苑に遊び、夏、蕹丘・鄭縣、穎陽陳州で元丹邱を尋ねる。梁苑で年越》

47

39

index-28

-4

李白index- 28 《749年天寶八年49歳 春、兗州に帰り、金郷・単父に遊び、梁苑に帰って年越し》

48

22

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-5

李白index- 29 《750年天寶九年50歳 春、梁苑から穎陽で元丹邱と嵩山に行く、襄陽で半年、秋、南陽で年越》

49

12

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-6

李白index- 30 《751年天寶十年51歳 春、南陽穎陽の元丹邱と、河東・関内で遊ぶ。縈陽・鄴中・絳州・邠州、華州で年越》

50

17

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-7

李白index- 31 《752年天寶十一年52歳 商州、南陽、洛陽で宗氏の娘を娶る、秋、河北道に遊び、幽州・薊門、滄州を経て梁苑で年越》

51

10

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-8

李白index- 32 753年天寶十二年53歳 梁苑にいて、秋、曹南から宜城、黄山から当塗で年越》

52

15

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-9

李白index- 33 《754年天寶十三年54歳 当塗から金陵、越中、広陵で魏万と遇す金陵、江南で遊ぶ秋浦で年越》李白詩 全詩

53

60

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-10

李白index- 34 《755年天寶十四年55歳 春、秋浦から宜城へ当塗、蘆江と宜城、当塗で年越》李白詩 全詩4073

54

56

index-35

-11

李白index- 35 《756年至德元年年56歳 当塗から宜城、溧陽、剡中、金陵、盧山、永王鄰の幕僚で年越》李白詩 全詩4078

55

35

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-12

李白index- 36 《757年至德二年57歳 二月永王璘敗れ、彭澤に逃げるが宿松で捕まり、潯陽の獄に》李白詩 全詩4083

56

26

 

 

 

 

 

 

 

Index-32753年天寶十二年53歳 梁苑にいて、秋、曹南から宜城、黄山から当塗で年越579《古風,五十九首之二(蟾蜍薄太清)》

製作年:753  天寶十二年  53

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之二 

及地點:  紫微殿 (京畿道 京兆府 長安)     

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿     

 

 

古風五十九首之二

蟾蜍薄太清。 蝕此瑤台月。

圓光虧中天。 金魄遂淪沒。

螮蝀入紫微。 大明夷朝暉。

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)

月の中にすむヒキガエルがのさばって大空に逼っている。ついに、天上の仙郷宮殿の上に輝く月を食べ始めて仕舞うという。

そういうことで月が天空の中天にあるというのに、その黄金の光は欠けてなくなっていき、仕舞には天空の中にしみ込んで消えたのである。いま、武惠妃が寵愛をほしいままにし、王皇后がこれを厭がって、その皇位から落されてしまったのが、この月の様子と同じである。

そもそも、「螮蝀(虹:武惠妃)」が天空にかかって来るとその綺麗さに朝日(玄宗)も滅ぼされて仕舞う、武惠妃が後宮に入ってから、淫奔の行いをするようになり、開元の治といわれた玄宗の聡明さも全く消されてしまったのである。

 

浮云隔兩曜。 萬象昏陰霏。

蕭蕭長門宮。 昔是今已非。

桂蠹花不實。 天霜下嚴威。

沈嘆終永夕。 感我涕沾衣。

 

(古風五十九首之二)

蟾蜍は薄太清に【せま】り。此の瑤台の月を蝕す。

圓光 中天に虧【か】け。 金魄 遂に淪沒す。

螮蝀【ていとう】紫微に入り。 大明 朝暉を夷【やぶ】らる。

浮云 兩曜を隔てて。 萬象 陰霏【いんび】昏し。

蕭蕭たる長門の宮。 昔は是にして今は已に非なり。

桂は蠹【むしば】んで花は實らず。 天霜 嚴威を下す。

沈嘆 永夕を終り。我を感ぜしめて涕 衣を沾す。

 

魚玄機が宮島に 

『古風五十九首之二』 現代語訳と訳註

(本文)

古風五十九首之二

蟾蜍薄太清。 蝕此瑤台月。

圓光虧中天。 金魄遂淪沒。

螮蝀入紫微。 大明夷朝暉。

 

(下し文)

(古風五十九首之二)

蟾蜍は薄太清に【せま】り。此の瑤台の月を蝕す。

圓光 中天に虧【か】け。 金魄 遂に淪沒す。

螮蝀【ていとう】紫微に入り。 大明 朝暉を夷【やぶ】らる。

浮云 兩曜を隔てて。 萬象 陰霏【いんび】昏し。

蕭蕭たる長門の宮。 昔は是にして今は已に非なり。

桂は蠹【むしば】んで花は實らず。 天霜 嚴威を下す。

沈嘆 永夕を終り。我を感ぜしめて涕 衣を沾す。

 

(現代語訳)

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)

月の中にすむヒキガエルがのさばって大空に逼っている。ついに、天上の仙郷宮殿の上に輝く月を食べ始めて仕舞うという。

そういうことで月が天空の中天にあるというのに、その黄金の光は欠けてなくなっていき、仕舞には天空の中にしみ込んで消えたのである。いま、武惠妃が寵愛をほしいままにし、王皇后がこれを厭がって、その皇位から落されてしまったのが、この月の様子と同じである。

そもそも、「螮蝀(虹:武惠妃)」が天空にかかって来るとその綺麗さに朝日(玄宗)も滅ぼされて仕舞う、武惠妃が後宮に入ってから、淫奔の行いをするようになり、開元の治といわれた玄宗の聡明さも全く消されてしまったのである。

李白図102 

(訳注)

古風五十九首之二

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集したのである。「詩経の大雅のような大らかな正しい詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活できようか。王風の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の丗は、雑草ばかりになってしまった。」「大雅」は、文王・生民・蕩の3什編によって構成される。「わたしの志は、古代の詩の伝統を後世につたえることだ。その光が千年さきの春を照らすような詩集をつくるのだ。」

之二

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)

古風の第二篇 玄宗が王皇后を廃したことを諷刺したものである。詩の内容としても古朗月行 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白

と、同じような詩である。

(仲睦まじく、一手に寵愛された王妃でさえ、度重なる讒言によって罪を得ると詠う)

 

蟾蜍薄太清。 蝕此瑤台月。

月の中にすむヒキガエルがのさばって大空に逼っている。ついに、天上の仙郷宮殿の上に輝く月を食べ始めて仕舞うという。

蟾蜍 月の中にすむヒキガエル。これに食われて月が欠けるという。

『古朗月行』

小時不識月、呼作白玉盤。

又疑瑤台鏡、飛在青云端。

仙人垂兩足、桂樹何團團。

白兔搗藥成、問言與誰餐。

蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。

羿昔落九烏、天人清且安。

陰精此淪惑、去去不足觀。

憂來其如何、淒愴摧心肝。

古朗月行 #1 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白

薄 迫る。侵す。

太清 おおぞら。

瑤台 天上の仙郷宮殿。

月のウサギは道教の神・西王母(せいおうぼ)の神話に属しているが、西方の仙界・崑崙山(こんろんさん)に棲むその西王母に従うものにウサギがいる。ウサギは、上下対称で中央部を持って搗(つ)く杵(きね)でもって、餅ではなく不死の薬草を練って作る。

 

圓光虧中天。 金魄遂淪沒。

そういうことで月が天空の中天にあるというのに、その黄金の光は欠けてなくなっていき、仕舞には天空の中にしみ込んで消えたのである。いま、武惠妃が寵愛をほしいままにし、王皇后がこれを厭がって、その皇位から落されてしまったのが、この月の様子と同じである。

圓光 月と月の光

金魄 金は満月が昇る際、黄金色である。五行思想で、真ん中を意味する金。魄はかたまり、満月の陰の部分。

武恵妃(ぶけいひ、? - 開元25年(737年))は、唐代玄宗朝に仕えた皇妃。姓は武、名は 伝わっていない。恵妃は皇妃としての順位を表す称号である。玄宗の寵愛を得、皇子の 寿王・李瑁を皇太子にしようと運動したが、失敗した。「旧唐書」では『貞順皇后武氏』。

淪沒 淪も沒も沈んでゆくこと。

 

螮蝀入紫微。 大明夷朝暉。

そもそも、「螮蝀(虹:武惠妃)」が天空にかかって来るとその綺麗さに朝日(玄宗)も滅ぼされて仕舞う、武惠妃が後宮に入ってから、淫奔の行いをするようになり、開元の治といわれた玄宗の聡明さも全く消されてしまったのである。

螮蝀 虹のこと。虹は、古代中国では虹蜺、蝃蝀、螮蝀などと呼ばれていた。

紫微 「紫微垣(しびえん)」の略。中国古代の天文学で、天を三垣(えん)二八宿に分けた、その一。北極星を中心とした、小熊座・大熊座・竜座・カシオペヤ座などの星座群にあたり、天帝の住む場所とされた。転じて、天子・天位・宮廷を示す。紫微宮。

大明 太陽のこと。太陽がかつて十個あったという神話は、殷王朝も共有していた(干支の「十干」や暦の「旬」に今も残る。この前後・相互関係は極めて複雑かつ微妙で、要するに不明である)。三本足のカラスは「八咫烏」(やたがらす)として有名である。 

朝暉 【ちょうき】朝日。朝陽。あさひ。また,その光。

index-29-1-537#2 《古風五十九首之一》 巻一<index-29-1-537#2> Ⅰ李白詩1142 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4258

 

この「古風」篇は李白が自ら其の志をいうのである。結論は冒頭の二句にあり、最後の四句にある。前段の「給麗不足珍」以上は首の第一句の意、即ち大雅の衰微久しきを述べ、「我志在刪述,垂輝映千春わたしの志は、孔子が三千以上から選りすぐり、再編して三百余りの『詩経』とされた古代のおおらかな詩の伝統を後世につたえることだ。その光が千年さきの春を照らすような詩集をつくるのだ。

後段の「筆于獲麟」までは首の第二句の意、即ち「老衰せざる間に大雅復興の業の完成」との志望を述べたのである。

        
 2014年5月27日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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Ⅳ漫遊時代 745年 ~756年至德元年;56歳                  

index-25 -1        746年天寶五年46歳 初春、姑蘇、後に、揚州・安宜・淮安をめぐり、秋に揚州で年越  

index-26 -2        747年天寶六年47歳 春、揚州金陵,5月当塗、丹陽横山に隠れる。後、溧陽、金陵、兗州に帰り年越             

index-27 -3        748年天寶七年48歳 袁州済南、梁苑に遊び、夏、蕹丘・鄭縣、穎陽陳州で元丹邱を尋ねる。梁苑で年越

index-28 -4        749年天寶八年49歳 春、兗州に帰り、金郷・単父に遊び、梁苑に帰って年越

index-29       -5    750年天寶九年50歳 春、梁苑から穎陽で元丹邱と嵩山に行く、襄陽で半年、秋、南陽で年越   

index-30 -6        751年天寶十年51歳 春、南陽穎陽の元丹邱と、河東・関内で遊ぶ。縈陽・鄴中・絳州・邠州、華州で年越   

index-31 -7        752年天寶十一年52歳 商州、南陽、洛陽で宗氏の娘を娶る、秋、河北道に遊び、幽州・薊門、滄州を経て梁苑で年越             

index-32 -8        753年天寶十二年53歳 梁苑にいて、秋、曹南から宜城、黄山から当塗で年越

index-33 -9        754年天寶十三年54歳 当塗から金陵、越中、広陵で魏万と遇す金陵、江南で遊ぶ秋浦で年越

index-34 -10      755年天寶十四年55歳 春、秋浦から宜城へ当塗、蘆江と宜城、当塗で年越

index-35 -11      756年至德元年年56歳 当塗から宜城、溧陽、剡中、金陵、盧山、永王鄰の幕僚で年越

index-36 -12      757年至德二年57歳 二月永王璘敗れ、彭澤に逃げるが宿松で捕まり、潯陽の獄に

 

 

李白の思想哲學を考察する上で、最も基礎的な文献として指摘・言及される作品は古風五十九首である。

修僻技法の側面とりわけ、隠喩やその延長線上にある諷喩においても、大きな成果をあげているものと考えられ、その表現手法そのものが、李白の発想上の特色なのである。

を明らかにする手掛りになるように思われるのである。

 

 

古風五十九首之一  #1

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一

大雅久不作,吾衰竟誰陳。

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

王風委蔓草,戰國多荊榛。

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

龍虎相啖食,兵戈逮狂秦。」

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

正聲何微茫,哀怨起騷人。

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

揚馬激波,開流蕩無垠。」

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」
廢興雖萬變,憲章亦已淪。

その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

自從建安來,綺麗不足珍。』

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

大雅久しく作【おこ】らず、吾れ衰えなば竟【つい】に誰か陳【の】べん。

王風 蔓草【まんそう】に委【い】し、戦国 荊榛【けいしん】多し。

龍虎 相い啖食【たんしょく】し、兵戈 狂秦【きょうしん】に逮【およ】ぶ。」

正声 何ぞ微茫たる、哀怨 騒人より起こる。

揚馬【ようば】頽波【たいは】を激し、流れを開き 蕩として垠【ぎん】無し。」

廃興 万変すと雖も、憲章 亦た已に淪【ほろ】ぶ。

建安より来【こ】のかたは、綺麗にして珍とするに足らず。』

 

#2

聖代復元古,垂衣貴清真。

唐歴代の皇帝は聖天子であり、太古の三皇五帝の姿にかえって、天子は、衣を垂れて、すがすがしい宇宙と人生の根源的な不滅の真理を道を貴ぶようになった。

群才屬休明,乘運共躍鱗。

これまで多くの才能ある人びとは、やすらかであかるい御代にいることで活かされたのだ、そして、その時代の運気に乗って、才能ある者たちが相乗して魚がうろこをおどらせるように活躍し出したのである。』

文質相炳煥,眾星羅秋旻。」

その素材にはあや模様と良い生地があるように、詩の雰囲気と詩の形式がともに照栄え、おびただしい星のように詩人たちが秋の空にかがやくようになったのである。

我志在刪述,垂輝映千春。

わたしの志は、孔子が三千以上から選りすぐり、再編して三百余りの『詩経』とされた古代のおおらかな詩の伝統を後世につたえることだ。その光が千年さきの春を照らすような詩集をつくるのだ。

希聖如有立,筆於獲麟。」

聖人孔子の仕事を望み通り、もし立派にでき上ったならば、わたしも孔子のように最後は、麒麟をつかまえたとして筆を絶つことにしようと思うのだ。』

 

聖代 元古に復し、衣を垂れて清真を貴ぶ。

群才 休明に属し、運に乗じて共に鱗を躍【おど】らす。

文質 相い炳煥【へいかん】し、衆星 秋旻【しゅうびん】に羅【つら】なる。」

我が志は刪述【さんじゅつ】に在り、輝を垂れて千春を映【てら】さん。

聖を希【こいねが】いて如【も】し立つ有らば、筆を獲麟【かくりん】に絶たん。』

 

 

『古風五十九首其一』 現代語訳と訳註

(本文)

古風五十九首之一  #1

大雅久不作,吾衰竟誰陳。王風委蔓草,戰國多荊榛。

龍虎相啖食,兵戈逮狂秦。」

正聲何微茫,哀怨起騷人。揚馬激波,開流蕩無垠。」

廢興雖萬變,憲章亦已淪。自從建安來,綺麗不足珍。』

#2

聖代復元古,垂衣貴清真。群才屬休明,乘運共躍鱗。

文質相炳煥,眾星羅秋旻。」

我志在刪述,垂輝映千春。希聖如有立,筆於獲麟。」

 

 

(下し文)

(古風五十九首 其の一)#2

聖代 元古に復し、衣を垂れて清真を貴ぶ。

群才 休明に属し、運に乗じて共に鱗を躍【おど】らす。

文質 相い炳煥【へいかん】し、衆星 秋旻【しゅうびん】に羅【つら】なる。」

我が志は刪述【さんじゅつ】に在り、輝を垂れて千春を映【てら】さん。

聖を希【こいねが】いて如【も】し立つ有らば、筆を獲麟【かくりん】に絶たん。』

 

(現代語訳)

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一 #2

唐歴代の皇帝は聖天子であり、太古の三皇五帝の姿にかえって、天子は、衣を垂れて、すがすがしい宇宙と人生の根源的な不滅の真理を道を貴ぶようになった。

これまで多くの才能ある人びとは、やすらかであかるい御代にいることで活かされたのだ、そして、その時代の運気に乗って、才能ある者たちが相乗して魚がうろこをおどらせるように活躍し出したのである。』

その素材にはあや模様と良い生地があるように、詩の雰囲気と詩の形式がともに照栄え、おびただしい星のように詩人たちが秋の空にかがやくようになったのである。

わたしの志は、孔子が三千以上から選りすぐり、再編して三百余りの『詩経』とされた古代のおおらかな詩の伝統を後世につたえることだ。その光が千年さきの春を照らすような詩集をつくるのだ。

聖人孔子の仕事を望み通り、もし立派にでき上ったならば、わたしも孔子のように最後は、麒麟をつかまえたとして筆を絶つことにしようと思うのだ。』

 

 

(訳注)

古風五十九首之一  #1

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一 #2

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集したのである。宋本は通計五十九篇であり、おおむねこの本をテキストとして進める。

この「古風」篇は李白が自ら其の志をいうのである。結論は冒頭の二句にあり、最後の四句にある。

前段の「給麗不足珍」以上は首の第一句の意、即ち大雅の衰微久しきを述べ、後段の「筆于獲麟」までは首の第二句の意、即ち「我末だ老衰せざる間に大雅復興の業を完成したい」との志望を述べたのである。

 

聖代復元古。 垂衣貴清真。

唐歴代の皇帝は聖天子であり、太古の三皇五帝の姿にかえって、天子は、衣を垂れて、すがすがしい宇宙と人生の根源的な不滅の真理を道を貴ぶようになった。

○聖代 聖は唐歴代の皇帝は聖天子であり、唐王朝、唐の時代をさす。

○元古 太古。

○垂衣 周易」の繋辭傳に「黄帝・堯・舜は衣裳を垂れて而して天下治まる」と有り、無為にして世の治まったこと。唐の治世を之に比す。三皇五帝の時代は仁徳という衣を地に垂れていただけで、天下がよく治まったことをいう。

○清真 すっきりとして、ありのままなことで、清は清浄であり、真は天真である。「清真を貴ぶ」とは、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を道(タオ)とする道教を貴んだことではある。いずれも道家の貴ぶ所。唐の王室の姓は李であり、老子は李耳と同姓であるとして、それを以て之を尊び、道教を盛んにした。

 

群才屬休明。 乘運共躍鱗。』

これまで多くの才能ある人びとは、やすらかであかるい御代にいることで活かされたのだ、そして、その時代の運気に乗って、才能ある者たちが相乗して魚がうろこをおどらせるように活躍し出したのである。』

○休明 休は善であり、慶である。芽出たく明らかなる御代に逢うたと云ふこと。

○鱗 龍鱗。優れたる才能を喩へる。

 

文質相炳煥、眾星羅秋旻。

その素材にはあや模様と良い生地があるように、詩の雰囲気と詩の形式がともに照栄え、おびただしい星のように詩人たちが秋の空にかがやくようになったのである。

○文質 文はあやで模様と質は素材、生地。詩の雰囲気と詩の形式。

○炳煥 てりはえる。

○秋旻 秋の空。

 

我志在刪述、垂輝映千春。

わたしの志は、孔子が三千以上から選りすぐり、再編して三百余りの『詩経』とされた古代のおおらかな詩の伝統を後世につたえることだ。その光が千年さきの春を照らすような詩集をつくるのだ。

○刪述 けずって、のべる。良くない所はけずり、良い所をのべつたえる。西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成し直したということに倣うこと。 

○千春 千年

 

希聖如有立、筆于獲麟。』

聖人孔子の仕事を望み通り、もし立派にでき上ったならば、わたしも孔子のように最後は、麒麟をつかまえたとして筆を絶つことにしようと思うのだ。』

○希聖 聖は孔子。希は之に倣ふことを希【こいねが】う。

○有立 成立すること。成就すること。

筆於獲麟 孔子が魯の歴史「春を編して、魯の哀公十四年に至り、魯人が麒麟を捕獲した事箕に遭遇し、此の霊験が乱世に出現して野人に獲られたことを嘆じ、比の一條を最後として「春秋」の筆を絶ったと云ふ。孔子を慕ふ意味で此の故事を用いたのである。

○獲麟 むかし孔子は歴史の本「春秋」を著わしたとき、「麒麟をつかまえた」という所で筆を絶った。麒麟は、空想の動物で、聖人のあらわれる瑞兆とされている。

《古風五十九首之一》 巻一<index-29-1-537#1> Ⅰ李白詩1141 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4253

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。




        
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《古風五十九首之一》 巻一<index-29-1-537#1> Ⅰ李白詩1141 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4253

 

Ⅳ漫遊時代 745年 ~756年至德元年;56歳                  

index-25              -1       746年天寶五年46歳 初春、姑蘇、後に、揚州・安宜・淮安をめぐり、秋に揚州で年越 

index-26              -2       747年天寶六年47歳 春、揚州金陵,5月当塗、丹陽横山に隠れる。後、溧陽、金陵、兗州に帰り年越             

index-27              -3       748年天寶七年48歳 袁州済南、梁苑に遊び、夏、蕹丘・鄭縣、穎陽陳州で元丹邱を尋ねる。梁苑で年越

index-28              -4       749年天寶八年49歳 春、兗州に帰り、金郷・単父に遊び、梁苑に帰って年越

index-29              -5       750年天寶九年50歳 春、梁苑から穎陽で元丹邱と嵩山に行く、襄陽で半年、秋、南陽で年越            

index-30              -6       751年天寶十年51歳 春、南陽穎陽の元丹邱と、河東・関内で遊ぶ。縈陽・鄴中・絳州・邠州、華州で年越   

index-31              -7       752年天寶十一年52歳 商州、南陽、洛陽で宗氏の娘を娶る、秋、河北道に遊び、幽州・薊門、滄州を経て梁苑で年越             

index-32              -8       753年天寶十二年53歳 梁苑にいて、秋、曹南から宜城、黄山から当塗で年越

index-33              -9       754年天寶十三年54歳 当塗から金陵、越中、広陵で魏万と遇す金陵、江南で遊ぶ秋浦で年越

index-34              -10     755年天寶十四年55歳 春、秋浦から宜城へ当塗、蘆江と宜城、当塗で年越

index-35              -11      756年至德元年年56歳 当塗から宜城、溧陽、剡中、金陵、盧山、永王鄰の幕僚で年越

index-36              -12     757年至德二年57歳 二月永王璘敗れ、彭澤に逃げるが宿松で捕まり、潯陽の獄に

 

 

李白の思想哲學を考察する上で、最も基礎的な文献として指摘・言及される作品は古風五十九首である。

修僻技法の側面とりわけ、隠喩やその延長線上にある諷喩においても、大きな成果をあげているものと考えられ、その表現手法そのものが、李白の発想上の特色なのである。

を明らかにする手掛りになるように思われるのである。

この李白を理解するためには、彼の代表的な連作である古風五十九首を一首づつ丁寧に読んでいく必要がある。この作品群に対する彼の作詩態度を探っていって、その後に、時系列に他の作品を読んでいくことが大切なのである。李白を理解する、早道であり、基本的な学習法である。一千首前後有り、長詩もあるので、毎日8句~10句程度で進める。できる事なら、それを数回繰り返して読み、螺旋階段を上るように理解が高められるということなのである。

 

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集したのである。宋本は通計五十九篇であり、おおむねこの本をテキストとして進める。

 

 

古風五十九首之一  #1

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一

大雅久不作,吾衰竟誰陳。

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

王風委蔓草,戰國多荊榛。

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

龍虎相啖食,兵戈逮狂秦。」

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

正聲何微茫,哀怨起騷人。

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

揚馬激波,開流蕩無垠。」

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」
廢興雖萬變,憲章亦已淪。

その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

自從建安來,綺麗不足珍。』

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

大雅久しく作【おこ】らず、吾れ衰えなば竟【つい】に誰か陳【の】べん。

王風 蔓草【まんそう】に委【い】し、戦国 荊榛【けいしん】多し。

龍虎 相い啖食【たんしょく】し、兵戈 狂秦【きょうしん】に逮【およ】ぶ。」

正声 何ぞ微茫たる、哀怨 騒人より起こる。

揚馬【ようば】頽波【たいは】を激し、流れを開き 蕩として垠【ぎん】無し。」

廃興 万変すと雖も、憲章 亦た已に淪【ほろ】ぶ。

建安より来【こ】のかたは、綺麗にして珍とするに足らず。』

 

#2

聖代復元古,垂衣貴清真。群才屬休明,乘運共躍鱗。

文質相炳煥,眾星羅秋旻。」

我志在刪述,垂輝映千春。希聖如有立,筆於獲麟。」

 

聖代 元古に復し、衣を垂れて清真を貴ぶ。

群才 休明に属し、運に乗じて共に鱗を躍【おど】らす。

文質 相い炳煥【へいかん】し、衆星 秋旻【しゅうびん】に羅【つら】なる。」

我が志は刪述【さんじゅつ】に在り、輝を垂れて千春を映【てら】さん。

聖を希【こいねが】いて如【も】し立つ有らば、筆を獲麟【かくりん】に絶たん。』

 

 

『古風五十九首其一』 現代語訳と訳註

(本文)

古風五十九首之一  #1

大雅久不作,吾衰竟誰陳。王風委蔓草,戰國多荊榛。

龍虎相啖食,兵戈逮狂秦。」

正聲何微茫,哀怨起騷人。揚馬激波,開流蕩無垠。」

廢興雖萬變,憲章亦已淪。自從建安來,綺麗不足珍。』

 

(下し文)

王風 蔓草【まんそう】に委【い】し、戦国 荊榛【けいしん】多し。

龍虎 相い啖食【たんしょく】し、兵戈 狂秦【きょうしん】に逮【およ】ぶ。」

正声 何ぞ微茫たる、哀怨 騒人より起こる。

揚馬【ようば】頽波【たいは】を激し、流れを開き 蕩として垠【ぎん】無し。」

廃興 万変すと雖も、憲章 亦た已に淪【ほろ】ぶ。

建安より来【こ】のかたは、綺麗にして珍とするに足らず。』

 

(現代語訳)

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」
その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

 

(訳注)

古風五十九首之一  #1

(詩、文学への思いを古の『詩経』の歌のように詠う)の一

 

大雅久不作。 吾衰竟誰陳。

詩経の大雅のような堂々として荘重な詩風が、長い間作られなくなった。わたくしのやろうという気持ちが衰退したら、いったい誰がそれを復活して陳べてくれるだろうか。

○大雅 「詩経」の分類の一種で、周の王室に関することを詠じたものが多く、詩経中もっとも堂々として荘重な作が集められている。

○陳 「禮記」王制篇に、古は天子が大師(楽官の長)に命じ、詩を陳ねしめて以て民間の風俗を観た、と有る。陳は陳述である。 

 

王風委蔓草、戰國多荊榛。

諸侯の国の民話である「王風」の詩は草のはびこる中にすてられるに任せている、戦国の世の詩、文学は、イバラとハシバミが代表するような雑草・雑木林ばかりになってしまった。

○王風 詩経の国風篇巻の六。周の都が東方の洛邑(今の河南洛陽)に遷都により、王室の尊厳が衰えたので、王城畿内の歌話を諸侯の国の民話(即ち国風)と同等に取扱って之を王風と日った。

・委 棄置である。蔓草の叢生、はびこるにまかせる。・

○戦国 紀元前5~前3世紀までの秦・楚・燕・斉・韓・超・魏の七国が争った時代。周は洛邑(王城・成周)周辺を支配する小国となり、往時と比するべくもない程まで没落した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。そのわずかな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになった。その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度となく王が殺されることが起きた。

○荊榛 雑木雑草。イバラとハシバミ。また、それらが茂る雑木林のこと。「

 

龍虎相啖食、兵戈逮狂秦。

それは竜と虎とが食いあうように戦国諸侯はあらそい、戦争はながくつづいて、天下は統一されたものの、狂暴な秦国の「焚書坑儒」の思想弾圧事件に及んでしまった。

○兵戈 武器。戦争。 

○逮 及ぶ。とどく。 

○狂秦 狂暴な秦。秦王朝が統治していた時代に発生した「焚書坑儒」の思想弾圧事件。

 

正聲何微茫、哀怨起騷人。

「詩経、大雅」の系統で正しい歌声で詠った屈原のような人はわずかいるかの状態となり、哀しみと怨みにより「楚辞」を著し、騒人を生み出した。

・正聲 詩経、特に大雅の系統を意味する。

○騒人 「離騒」の作者である屈原(前三世紀)をはじめ「楚辞」をあらわし、悲憤條慨の詩を作った一派の詩人たち、それ以来悲憤憤慨の人をたくさん作りだしたことをいう。

 

揚馬激波、開流蕩無垠。」

揚雄と司馬相如は、屈原の流を汲む者として崩れゆく波をかき立てようと努力したが、いったん開いた流れは、取り留めなく広がって、行き着くところを知らない。」

○揚馬 前一、二世紀の漢の時代に出た文人で、漢の揚雄と司馬相如。漢代の賦の代表的作家。屈原の流を汲む者。 

揚雄 《甘泉賦 序》 全26文選  詩<107>Ⅱ李白に影響を与えた詩854 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2818

 

司馬相如 《子虚賦 》(1)#0-0 文選 賦<109-#0-0>9分割26回 Ⅱ李白に影響を与えた詩880 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2948

司馬相如 《上林賦 》(1)#1-1 文選 賦<110-#1-1>9分割26回 Ⅱ李白に影響を与えた詩906 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3078

・激 屈原の後、衰えかけた賦を盛んにした人である。

○垠 かぎり、はて。さかい。

 

廢興雖萬變、憲章亦已淪。

その後、すたれたり、復興したりがあって千変万化したのだけれど、正しい詩法はすっかり文学の世界から沈んでしまったのだ。

○憲章 正しい法則。

・憲章 法度憲章。

・淪 沈没。

 

自從建安來。 綺麗不足珍。』

それ以降、建安文学の時代に至ったのであるが、ただ綺麗な文、清談といわれる詩を作るだけで、新しく珍しく良いものは見ることはできない。

○自徒 同義の字を重ねたものである。

○建安 後漢末期、建安年間、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。三曹七子。三曹 : 曹操・曹丕・曹植 建安七子: 孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀。

李太白―(25) 《李白詩全集 卷二十五 (補遺) 三十六首》 973詩<李太白―(25)> Ⅰ李白詩1140 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4248

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李白詩全集 卷二十五 (補遺) 三十六首
ID補遺初句
978巻二十五 雜言用投丹陽知己兼奉宣慰判官 客從昆侖來。 
979巻二十五 南陵五松山別荀七 君即()水荀。
980巻二十五 觀魚潭 觀魚碧潭上。 
981巻二十五 自廣平乘醉走馬六十里至邯鄲登城樓覽古書懷 醉騎白花馬。 
982巻二十四 宣城哭蔣徵君華 蒼蒼金陵月。 
983巻二十五 月夜金陵懷古 金陵風景好。 
984巻二十五 金陵新亭 西王母桃種我家
985巻二十五 庭前晚開花 令弟佐宣城。 
986巻二十五 宣州長史弟昭贈余琴溪中雙舞鶴詩以言志 熱暖將來鑌鐵文
987巻二十五 暖酒飯顆山頭逢杜甫
988巻二十五 戲贈杜甫   天宝三年春浮雲終日行,遊
989巻二十五 李白〈戲贈杜甫〉昔君布衣時。 
990巻二十五 寒女吟 結發生別離。 
991巻二十五 會別離 玉蟾離海上。 
992巻二十五 初月 四郊陰靄散。 
993巻二十五 雨後望月 卷帘聊舉目。 
994巻二十五 對雨 野涼疏雨歇。 
995巻二十五 曉晴 仿佛古容儀。 
996巻二十五 望夫石 未洗染塵纓。 
997巻二十五 冬日歸舊山 燕谷無暖氣。 
998巻二十五 鄒衍谷 江村秋雨歇。 
999巻二十五 送客歸 風靜楊柳垂。 
1000巻二十五 送友生游峽中 別離楊柳青。 
1001巻二十五 送袁明府任長沙 崢嶸丞相府。 
1002巻二十五 賦得鶴送史司馬赴崔相公幕 戰地何昏昏。 
1003巻二十五 戰城南 十萬羽林兒。 
1004巻二十五 胡無人行 麗莫似漢宮妃。
1005巻二十五 鞠歌行 我吟傳舍詠。 
1006巻二十五 題許宜平庵壁 夜宿峰頂寺。 
1007巻二十五 題峰頂寺 斷崖如削瓜。 
1008巻二十五 題舒州司空山瀑布 茫茫南與北。 
   斷句 
   陽春曲 
   舎利佛 
   摩多樓子 
1009巻二十五 春感  
   殷十一贈栗岡硯 
   普照寺 
   釣臺 
   小桃源 
   題竇圌山 
   贈江油尉 
   上清實鼎詩 
   素面 
    
    
   上清實鼎詩二首 
   清平楽令二首 
   清平楽 三首 
   桂殿秋 
   連理枝二首 

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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor 
 薛濤の全詩花間集(1)花間集(2)花間集(3)花間集(4)花間集(5) 
 魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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李白詩INDEX05李太白―(23) 《李白詩全集 卷二十三(古近體詩六十三首) 》李白詩 973詩<李太白―(23)> Ⅰ李白詩1138 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4238
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李太白―(22) 《李白詩全集 卷二十二(古近體詩四十七首) 》李白詩 973詩<李太白―(22)> Ⅰ李白詩1137 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4233

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 2014年5月22日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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李太白―(22) 《李白詩全集 卷二十二(古近體詩四十七首) 》李白詩 973詩<李太白―(22)> Ⅰ李白詩1137 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4233 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
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(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> 
 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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398-2 《朝歸》韓愈(韓退之) Ⅱ韓昌黎集 巻五 <1050>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4234韓愈詩-398-2 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (2) Q-1-#2》 杜甫<766> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4235 杜甫詩1500-766-1018/2500index-21 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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