漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
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2015年01月

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李白《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(2)そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈嵩山焦鍊師

 

作地點:              嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:              嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

少室山 (都畿道 河南府 少室山)       

交遊人物:焦鍊師              書信往來(都畿道 河南府 嵩山)

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)

(1)贈嵩山焦鍊師

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

二室凌青天,三花含紫煙。

大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

道在喧莫染,跡高想已綿。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

八絃に外に八極の表に遊憩をほしいままにし、九天も外にある九垓のほとりに立って長しえにのんびりとめぐりあるく。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

やがて、また空けていた東の太室山に帰り、ひとり秋霞を払って、そこに静かに眠る。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

朝、羅にかかる名残月は皓然として鏡の様であり、夜になれば、吹きすさぶ松風は瑟瑟として絃を爪弾いた琴の音のように響き渡る。

 (3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

 (0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

 

(1) (嵩山の焦鍊師に贈る)

二室 青天を凌ぎ,三花 紫煙を含む。

中に蓬海の客有り,宛として麻姑の仙かと疑う。

道 在り 喧 染む 莫し,跡 高く 想い 已に綿たり。

時に金鵝【きんが】の蕊を餐し,屢しば青苔の篇を讀む。

(2)

八極 遊憩を恣にし,九垓 長く周旋す。

瓢を下して潁水を酌み,鶴を舞わして伊川に來る。

還た歸る 空山の上,獨り秋霞を拂うて眠る。

蘿月 朝鏡を掛け,松風 夜弦を鳴らす。

(3)

光を潛めて 嵩嶽に隱れ,魄を鍊って 雲幄【うんあく】に棲む。

霓裳【げいしょう】何ぞ飄颻たらん,鳳吹 轉【うた】た綿邈【めんぼく】。

願わくば西王母に同じく,下に東方朔を顧りみん。

紫書 儻【も】し傳う可くんば,骨に銘じて誓って相い學ばん。

 洛陽 函谷関 嵩山005

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(2)

『贈嵩山焦煉師 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。


(下し文) (2)

八極 遊憩を恣にし,九垓 長く周旋す。

瓢を下して潁水を酌み,鶴を舞わして伊川に來る。

還た歸る 空山の上,獨り秋霞を拂うて眠る。

蘿月 朝鏡を掛け,松風 夜弦を鳴らす。

(現代語訳)
八絃に外に八極の表に遊憩をほしいままにし、九天も外にある九垓のほとりに立って長しえにのんびりとめぐりあるく。

そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

やがて、また空けていた東の太室山に帰り、ひとり秋霞を払って、そこに静かに眠る。

朝、羅にかかる名残月は皓然として鏡の様であり、夜になれば、吹きすさぶ松風は瑟瑟として絃を爪弾いた琴の音のように響き渡る。


(訳注) (2)

(2)贈嵩山焦鍊師

(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。

同時期の詩として以下がある。内容も同一範囲にあるものである。

170(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <170> Ⅰ李白詩1382 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5458

171 《巻08-35 贈華州王司士》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <171> Ⅰ李白詩1383 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5463

 

八極恣遊憩,九垓長周旋。

八絃に外に八極の表に遊憩をほしいままにし、九天も外にある九垓のほとりに立って長しえにのんびりとめぐりあるく。

八極・九垓 瑟絃の八絃の外にある仙界の音源の八極。九天も外にある仙界の九垓のほとりという意。

周旋『元丹丘歌』「元丹丘,愛神仙。朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。三十六峰長周旋,長周旋。」嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるくこと。

 

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

下瓢 穎水についての許由と巣父の故事を暗用するもの。許由・巣父はともに中国古代の伝説上の帝王堯(ぎょう)の時代の高士。許由は、堯が自分に帝位を譲ろうというのを聞いて汚れた耳を頴川で洗って箕山に隠れ、巣父は、そのような汚れた川の水は飲ませられないと牽いてきた牛にその川の水を飲ませなかった、という。俗世に汚れることを忌み嫌う高潔の隠士の理想の姿としているもの。

潁水 穎水の源は少室山。

伊川 洛陽の前を流れる川。

 

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

やがて、また空けていた東の太室山に帰り、ひとり秋霞を払って、そこに静かに眠る。

空山 別に東山とある。東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。

 

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

朝、羅にかかる名残月は皓然として鏡の様であり、夜になれば、吹きすさぶ松風は瑟瑟として絃を爪弾いた琴の音のように響き渡る。
李白31歳 

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李白《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)》 大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

 

 
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33-06-§3-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1298> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5474 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈嵩山焦鍊師

 

作地點:              嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:              嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

少室山 (都畿道 河南府 少室山)       

交遊人物:焦鍊師              書信往來(都畿道 河南府 嵩山)

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)

(1)贈嵩山焦鍊師

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

二室凌青天,三花含紫煙。

大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

道在喧莫染,跡高想已綿。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

 (2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

(3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

(贈嵩山焦鍊師)

(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

 

(1) (嵩山の焦鍊師に贈る)

二室 青天を凌ぎ,三花 紫煙を含む。

中に蓬海の客有り,宛として麻姑の仙かと疑う。

道 在り 喧 染む 莫し,跡 高く 想い 已に綿たり。

時に金鵝【きんが】の蕊を餐し,屢しば青苔の篇を讀む。

(2)

八極 遊憩を恣にし,九垓 長く周旋す。

瓢を下して潁水を酌み,鶴を舞わして伊川に來る。

還た歸る 空山の上,獨り秋霞を拂うて眠る。

蘿月 朝鏡を掛け,松風 夜弦を鳴らす。

(3)

光を潛めて 嵩嶽に隱れ,魄を鍊って 雲幄【うんあく】に棲む。

霓裳【げいしょう】何ぞ飄颻たらん,鳳吹 轉【うた】た綿邈【めんぼく】。

願わくば西王母に同じく,下に東方朔を顧りみん。

紫書 儻【も】し傳う可くんば,骨に銘じて誓って相い學ばん。

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)

『贈嵩山焦煉師 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

(1)贈嵩山焦鍊師

二室凌青天,三花含紫煙。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

道在喧莫染,跡高想已綿。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。


(下し文)
(1) (嵩山の焦鍊師に贈る)

二室 青天を凌ぎ,三花 紫煙を含む。

中に蓬海の客有り,宛として麻姑の仙かと疑う。

道 在り 喧 染む 莫し,跡 高く 想い 已に綿たり。

時に金鵝【きんが】の蕊を餐し,屢しば青苔の篇を讀む。


(現代語訳)
大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

李白の足跡003
(訳注)

(1)贈嵩山焦鍊師

(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。

 

二室凌青天,三花含紫煙。

大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

二室 大室山、少室山の嵩山を代表する二山。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。

三花 貝多樹という木で一年に三回花をさかせる。貝葉(ばいよう)とは、椰子などの植物の葉を加工して、紙の代わりに用いた筆記媒体。東南アジア、南アジアで多く利用された。貝多羅葉(ばいたらよう)の略称である。

貝多羅葉(ばいたらよう)の名称は、古代インドで植物の葉が筆記媒体として用いられていたため、サンスクリットで「木の葉」の意味を持つパットラ(pattra)と、さらに主に用いられたオウギヤシ(パルミラヤシ)である「ターラ(tala、多羅樹)の葉」を漢訳したものを起源とする。

 

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

蓬海 東海蒼海の上に在る神仙蓬莱山。

麻姑仙 麻姑仙壇記 (唐代の楷書) 麻姑(まこ)は、中国神話に登場する下八洞神仙の一柱仙女である。西晋・東晋時代の葛洪の書『神仙伝』などに記述があり、その容姿は歳の頃1819の若く美しい娘で、鳥のように長い爪をしているという。また長寿の象徴でもあり、西王母の誕生祝いに麻姑が美酒を贈る「麻姑献寿」は絵画の題材にとられることも多い。麻姑の名は『神仙伝』の巻二「王遠」と巻七「麻姑」の項に見られるが、麻姑に関する部分の記述はほとんど同じである。

漢の孝桓帝の代に、神仙の王遠が平民である蔡経の家に降臨し、使者をやって麻姑を呼び寄せた。麻姑は蔡経の弟の妻が出産数日後であることを遠目から知ると、しばらく近づかぬように言いつけ、清めのために少量の米粒を持ってこさせた。このとき地面に撒いた米は、悉く丹砂(巻七では真珠)に変わったという。麻姑は修行の時に、東海では3回も桑畑に変わる異変を見せる為に「滄海桑田(そうかいそうでん)」、「桑田碧海(そうでんへきかい)」の四字熟語が有名である。

蔡経は麻姑の爪が鳥のように伸びているのを見ると、彼女が神人であるにもかかわらず、心中「この爪で背中を掻けたら気持ちが良いだろう」と考えた。この心を見抜いた王遠は蔡経を捕まえて怒った。このとき蔡経は背を鞭で打たれたが、鞭を打つ人の姿は見えなかったという。

また同様の話は三国時代の『列異伝』にも見られ、この書では、麻姑の爪で背中を掻きたいと思った蔡経は彼女の怒りを買って地に倒れ、両目から血を流したという。

 

道在喧莫染,跡高想已綿。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

 

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

金鵝蕊 桂樹

青苔篇 子昂《潘尊師碑頌》「道逢真人昇玄子,授以宝青苔」とある。
李白31歳 

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李白《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)》 予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈嵩山焦鍊師

 

作地點:              嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:              嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

少室山 (都畿道 河南府 少室山)       

交遊人物:焦鍊師              書信往來(都畿道 河南府 嵩山)

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

(1)贈嵩山焦鍊師

二室凌青天,三花含紫煙。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

道在喧莫染,跡高想已綿。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

(3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

(贈嵩山焦鍊師)

(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

 

(1)贈嵩山焦鍊師

二室凌青天,三花含紫煙。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

道在喧莫染,跡高想已綿。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

(3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

(含異文)

二室凌青天,三花含紫煙。中有蓬海客,宛疑麻姑仙。道在喧莫染,跡高想已綿。時餐金鵝蕊【時餐金蛾藥】,屢讀青苔篇【屢讀古苔篇】。八極恣遊憩,九垓長周旋。下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。還歸空山上,獨拂秋霞眠。蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。霓裳何飄颻【霓衣何飄颻】【霓裳何萎蕤】【霓衣何萎蕤】,鳳吹轉綿邈。願同西王母,下顧東方朔。紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

魚玄機2長安洛陽中原地図 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

『贈嵩山焦煉師 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。


(下し文)
(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

(現代語訳)
(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。


(訳注)

(0)贈嵩山焦煉師 并序

(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。

李白の足跡003 

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

神人 神仙のひと。

鍊師 道士修業の徳高く思精であるものをいう。

 

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

胎息 道教の修行法の一つ。晋の葛洪(かつこう)の《抱朴子》によれば,仙人になるためには,呼吸法,房中術,服薬法の三つを心得る必要がある。このうち,呼吸法(行気)には疾病を治癒し,蛇虎を調伏し,飢渇を止め,寿命を延ばすなどの効用がある。胎息とは,この呼吸法の極致で,鼻や口を使わず,子供が胎内にいるときと同じように呼吸することであるという。また《後漢書》では,道士王真がこの胎息の実践により不老長生を得たと説く。

 修行の中で穀物を食べないこと。

少室廬 少室山中の草盧。

倏忽 時間がきわめて短いさま。たちまち。

 

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

 

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。

道士、嵩山についておなじように詠ったものに、《巻06-08 元丹丘歌》がある。

元丹邱歌

元丹邱,愛神仙。

朝飲頴川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

三十六峰長周旋,長周旋。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

横河跨海与天通,我知爾遊心無窮。

(元丹邱の歌)

元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。

朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。

三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。

河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。
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李白《巻08-35 贈華州王司士》君は佩刀を為し、必ず三公に登るべき廟堂の器を負うた人であるから、晋の呂虔の王祥におけるにならい、宝刀を解いて君に贈ろうとするのだ。

 

 
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《巻08-35 贈華州王司士》Index-11 Ⅱ―6

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    七言

詩題:    贈華州王司士

作地點:              華州(京畿道 / 華州 / 華州)

及地點:              華州 (京畿道 華州 華州)    

交遊人物:王司士              當地交遊(京畿道 華州 華州)

 

 

贈華州王司士

淮水不濤瀾高,盛德未泯生英髦。

知君先負廟堂器,今日還須贈寶刀。

 

(華州の王司士に贈る)

淮水 えず 濤瀾高し,盛德 未だ泯【ほろ】びずして 英髦生ず。

知る 君が先づ 廟堂の器を負うを,今日 還た須らく寶刀を贈るべし。

 

 

『贈華州王司士』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈華州王司士

淮水不濤瀾高,盛德未泯生英髦。

知君先負廟堂器,今日還須贈寶刀。



(下し文)
(華州の王司士に贈る)

淮水 えず 濤瀾高し,盛德 未だ泯【ほろ】びずして 英髦生ず。

知る 君が先づ 廟堂の器を負うを,今日 還た須らく寶刀を贈るべし。

(現代語訳)
(華州の司士参軍事王某を誉め讃える詩を贈る)

昔、郭璞は、王導のために卜して、「淮水の流れが途絶えて絶水することが無い限り、王氏は絶滅しない」といったが、実際に淮水の流れは堪える事は無く、波瀾波濤は続いているし、王氏の先代の名だたる人々の盛徳は亡びるどころかなお、厳存し、ここに君の様な「英髦」というべき士中の俊を産出している。

君は佩刀を為し、必ず三公に登るべき廟堂の器を負うた人であるから、晋の呂虔の王祥におけるにならい、宝刀を解いて君に贈ろうとするのだ。


(訳注)

贈華州王司士

(華州の司士参軍事王某を誉め讃える詩を贈る)

唐代の華州は、華陰郡と云い、関内道に属し、上州にかかる。上州の佐には、司士参軍事一人あって、從七品下に属していた。

 

淮水不濤瀾高,盛德未泯生英髦。

昔、郭璞は、王導のために卜して、「淮水の流れが途絶えて絶水することが無い限り、王氏は絶滅しない」といったが、実際に淮水の流れは堪える事は無く、波瀾波濤は続いているし、王氏の先代の名だたる人々の盛徳は亡びるどころかなお、厳存し、ここに君の様な「英髦」というべき士中の俊を産出している。

淮水不 晉書王導傳 「初,王導渡淮,使郭璞筮之,卦成,璞曰:「吉,無不利。淮水,王氏滅。」其後子孫繁衍,竟如璞言。」(初め,王導 淮を渡り,郭璞を使て之を筮せむ,卦成る,璞曰く:「吉,利ならざる無し。淮水ゆれば,王氏滅せむ。」其の後子孫 繁衍,竟に璞の言の如し。)とある。

英髦 毛中の長毛をいう。

 

知君先負廟堂器,今日還須贈寶刀。

君は佩刀を為し、必ず三公に登るべき廟堂の器を負うた人であるから、晋の呂虔の王祥におけるにならい、宝刀を解いて君に贈ろうとするのだ。

贈寶刀 《晉書王祥傳》初,呂虔有佩刀,工相之,以為必登三公,可服此刀。虔謂祥曰:『苟非其人,刀或為害。卿有公輔之量,故以相與。』(初め,呂虔 佩刀有り,工之を相す,以為へらく必ず三公に登り,此の刀を服す可し。虔 祥に謂って曰く:『苟しくも其の人に非ざれば,刀 或は害を為さむ。卿 公輔の量有り,故に以て相い與えん。』)とある。

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李白(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》李白は秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor『花間集』全詩訳注解説(改訂)-1溫庭筠53《巻2-03 遐方怨 二首之一》溫庭筠66首巻二3-〈53〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5462 
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170(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <170> Ⅰ李白詩1382 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5458

 

年:731年開元十九年31

卷別:  卷一六六        文體:  雜言古詩

詩題:  元丹丘歌

作地點:        嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:        嵩山 (都畿道 河南府嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高   

交遊人物:元丹丘        當地交遊(都畿道 河南府嵩山)

 

李白は少年時代、四川省にいた頃、処士東巌子といい者と岷山(ビンザン)に隠棲していたことがある。東巌子の素姓は不明だが、彼等の生活が十二分に道教的な色彩を帯びたものであったことは否めない。李白は20代後半から30代にかけ、しばしば隋州(湖北省)の胡紫陽の許に赴いた。胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、ここに詳しく伝えられている。

 「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。(この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが書かれている。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といい周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しずかに仙化した。この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」

 と示しており、李白が紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。しかし胡紫陽先生よりも、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6. 潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

06-07

8.西岳云台歌送丹丘子 

743年天寶二年

18-11

9.以詩代書答元丹丘 

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首である。

《巻06-08 元丹丘歌

(元丹邱をたたえる歌)

元丹丘,愛神仙。

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

三十六峰長周旋,長周旋。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。

(元丹邱の歌)
元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。
朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。
三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。
河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。

 

 

(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》

『元丹丘歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

元丹丘,愛神仙。

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

三十六峰長周旋,長周旋。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。



(下し文)
(元丹邱の歌)

元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。

朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。

三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。

河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。
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(現代語訳)
(元丹邱をたたえる歌)

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。


(訳注)

《巻06-08 元丹丘歌》

李太白集 巻六 第八首目

元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
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<!--[endif]-->

元丹丘,愛神仙。

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

 

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

潁川 河南省臨潁(りんえい)県を流れる川。鄭州小室山付近に源を発し、淮河(わいが)に注ぐ。長さ約550キロ。隠士の許由が帝尭(ぎょう)に召されたが栄達を望まず、その話を耳の汚れとしてこの川で洗い清めたという。潁川(えいせん)

嵩岑 嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。

 

三十六峰長周旋,長周旋。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

周旋 1 売買・交渉などで、当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋(あっせん)。「下宿を―する」2 事をとり行うために動きまわること。面倒をみること。3国際法上、国際紛争を平和的に解決するため、第三国が外部から紛争当事国の交渉をとりもって援助すること。4 ぐるぐると回ること。めぐりあるくこと。周遊。

 

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

 

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。

中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。羽人、僊人ともいう。道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。仙人になるために修行をする者は「道士」(羽士)「方士」と呼ばれる。後世専ら、道士は道教修行者一般をさした。方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。徐福は日本に逢着したともいわれ、日本各地に徐福伝説が残る。中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術を修得していたと付会された。

なお、一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。

また、仙人は禁欲に徹する必要があるとする伝説もあり、たとえば久米仙人や一角仙人は色欲により神通力を失っている。

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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

歌且謠,意方遠。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
--#4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。


(下し文) 4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

(現代語訳)
孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。


(訳注)

 

舞影歌聲散綠池,空汴水東流海

孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

○綠池-澄きった池。

○汴水-汴水べんすい。黄河から汴州(開封)をへて准水に到る。大運河通済渠の唐宋時代の呼称。

 

沉吟此事淚滿衣,黄金買醉未能歸

栄華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

 

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

〇五白-賭博の札、黒く裏が白い六つのサイコロを投げて、すべて黒の場合(六枚すべて黒が最上、すべて白の場合〔五白)がその次、とする。

〇六博-賭博。二箇のコマを、六つずつに分けて質する。

〇分曹賭酒-二つのグループに分かれて酒の勝負をする。

《楚辞•招魂》九段 士女雜坐,亂而不分些。放組纓,班其相紛些。鄭衛妖玩,來雜陳些。《激楚》之結,獨秀先些。蓖蔽象棋,有六簿些;

分曹並進,遒相迫些。成梟而牟,呼五白些。晉制犀比,費白日些。鏗鍾搖虡,揳梓瑟些。

男女入り混じり坐して、入り乱れて区別なく、印綬の組紐や冠の平打ち紐を解き捨てて、バラバラに乱れ散っている。南の国の人を魅了する遊び女たちも、来てその間に交じって並ぶ。中でも激楚の曲の風を巻き結ぶ急激な舞い方が一人最も勝っている。玉で飾った双六の賽や象牙の駒で賭博をする。グループを敵味方に分けて、相対し、共に駒を進めて、急に相迫って、勝負する。梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で呼ぶ。晋で造られた犀の角を鏤めた賽は白日に輝き、鐘を撞き、鐘掛け台が揺らぎ、梓の瑟を弾く。

○酣-酒興の盛んなさま。

○馳輝-馳けるように過ぎゆく日の光、時間。

 

酣馳輝,歌且謠,意方遠。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

○歌且謠-楽曲の伴奏に合わせてうたうのが「歌」、無伴奏が「謡」、とするのが古典的な解釈(『詩経』慧「園有桃」の「毛伝」)。ここでは、さまざまな歌いかたをする、の意。

 

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

○東山高臥-東晋の謝安(字は安石)が、朝廷からしばしば出仕を催されながら、東山に隠棲したま基易に承知しなかったこと。人々は、「安石出づる喜んぜずんは、将た蒼生(人民)を如何んせん」と言って心配した。(『世説新語』「排調、第二十五」の二六)。「高臥」は、世俗の欲望を離れて隠棲すること。

会稽東山の山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。謝安の芸妓を携えて東山始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである
『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
攜妓東山去。 春光半道催。 
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 
姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287
○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。府城臥竜山南にあった白樓亭のこと。『会稽志卷第九』山府城の卧龍山府に其東麓に治据されていた。山陰陽經雲种山、また別名として重山は越大夫の种所葬られた太平御覧种山の名としたである。山南道で旧と傳えられる白楼亭は今の遺址は関連性からいうと不確かであるが、山頂にある城隍祠ああって、其の西南の越王台の下にある。

李白『贈僧崖公』「手秉玉麈尾, 如登白樓亭。」

会稽記 「浙江又東北、重山を径す、西山の上に白楼亭あり。」とある。

 

 

 

 

 

 

李白42 梁園吟

洛陽の下流、開封近くにある梁園に立ち寄った際の作。梁園とは前漢の文帝の子梁孝王が築いた庭園。詩にある平臺は梁園にあり、また阮籍は梁園付近の蓬池に遊んだ。李白はそうした史実を引用しながら、過去の栄華と今日の歓楽、そして未来への思いを重層的に歌い上げている。

 

雑言古詩 梁園吟

 

  我浮黄雲去京闕,掛席欲進波連山。

  天長水闊厭遠涉,訪古始及平台間。』

  平台爲客憂思多,對酒遂作梁園歌。

  卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水颺洪波。』

  洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。』

  人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

  平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。』

  玉盤楊梅爲君設,鹽如花皎白雪。

  持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。』

 

  昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

  荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。』

  梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

  舞影歌聲散綠池,空汴水東流海。』

  沉吟此事淚滿衣,黄金買醉未能歸。

  連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。』

  酣馳輝,歌且謠,意方遠。

  東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

169 -#3(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -#3》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <169 -#3> Ⅰ李白詩1380 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5448

李白(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -3梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
--3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。


(下し文)3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。
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(現代語訳)
そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。



(訳注)#3

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

○夷斉-伯夷と叔斉の兄弟。殷周革命の際に・周の武重が武力によって殷の肘王を討つのを諌めた。周の世になってからは、首陽山に隠れて薇(野生のマメの槙)を採って食に充て、餓死して死んでしまった。儒教の「名分論」を体現する人物像として、伝承されている。史記列伝第一夷斉

伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。

一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は智・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。

伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。

流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡くなっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、呂尚は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。

戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。

○事高潔-臣下(武王)として主君(肘王)を討つべきではない、という「大義名分論」に殉じた高潔な事跡をいう。

 

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

○信陵君-戦国時代の讐昭王の公子、名は無忌。信陵(河南省寧陵)に封ぜられた。食客三千人を養い、讐助けて秦を破り、さらに十年後・五国の兵を率いて秦を破った。戦国の四公子(四君)の一人。

逸話 魏の公子と食客(信陵君・侯嬴・朱亥)

ある時、安釐王と囲碁(双六との説もある)を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

○信陵墳-『太平宴字記』によれば、その墓は開封府の富県の「南十二里」にあるという。

 

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

○蒼梧雲-『芸文類衆』「雲」に所引の『帰蔵』に、「白雲は蒼梧自り大梁に入る」とあるのをふまえたもの=蒼梧」は、現在の湖南省南部にぁる山の名。一名「九疑山」。三皇五帝の舜が亡くなったところといわれている。

 

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

〇枚馬-前漢時代の文学者、枚乘と司馬相如。ともに梁苑に来訪して、梁王の栄華に彩りを添えた。「梁園の賓客」とよばれた。

枚乗(ばい じょう、未詳~前140)は、前漢の人。字は叔。淮陰(江蘇省淮安市)の人。賦や文章を得意とした遊説の徒。

呉王劉濞の郎中となっていたが、呉王が漢に対し恨みを持ち反逆しようとすると、枚乗は上書してそれを諌めた。しかしながら呉王はそれを取り上げなかったので、枚乗は呉を去って梁へ行き、梁王劉武の元に就いた。

景帝が即位すると、御史大夫晁錯が漢の制度を定めると共に諸侯王を抑える政策を行った。景帝前3年(紀元前154年)に呉王はついに他の六国と共に反乱を起こし(呉楚七国の乱)、晁錯の誅殺を反乱の名目に掲げた。漢はそれを知ると晁錯を殺して諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王に対し書を奉り、速やかに兵を帰還させることを説いたが呉王は用いず、反乱は失敗に終わり呉王は滅びた。

反乱の後、枚乗は有名になり、景帝は彼を弘農郡都尉に任命した。しかし大国の賓客となって英俊たちと遊説し、望むものを得る事ができていた彼は役人となることを喜ばず、病気と称して官を辞して再度梁の賓客となった。梁の賓客の中でも彼が最も賦に長じていた。

梁王劉武が死亡すると、枚乗は故郷の淮陰に帰った。

その後、武帝が即位すると、皇太子時代から枚乗の名を聞いていた武帝は、老年の枚乗を安車蒲輪(座って乗れて揺れの少ない馬車)で召し出したが、枚乗はその途上で死亡した。

子の枚皋も賦に優れ、武帝に仕えて多くの賦を残した。

なお、『文選』に枚乗の作品である「七発」が収録されている。

司馬相如 司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。

賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。

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33-00 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(0)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1292> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5444 
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169 -2(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -2Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <169 -2> Ⅰ李白詩1379 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5443


 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。


(下し文) 2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

(現代語訳)
さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。


(訳注)#2

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

○浩蕩 水の広がるさま。

○旧国 旧い都の地。梁園のあった商丘地方が、先秦時代の宋国、漢の梁国など、旧くからの都だったので、こう表現した。一説に、長安をさすとする。

 

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

○達命 自己の天命に通達する。

○豈暇愁 (愁えている暇がない)。

 

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

○平頭奴子-上の平らな頭巾をかぶった下僕、召使い。ただし異説も多い。

 

玉盤楊梅爲君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

○楊梅-ヤマモモの頼。

〇皎-白く光るさま。