漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
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2015年01月

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李白《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(2)そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈嵩山焦鍊師

 

作地點:              嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:              嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

少室山 (都畿道 河南府 少室山)       

交遊人物:焦鍊師              書信往來(都畿道 河南府 嵩山)

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)

(1)贈嵩山焦鍊師

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

二室凌青天,三花含紫煙。

大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

道在喧莫染,跡高想已綿。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

八絃に外に八極の表に遊憩をほしいままにし、九天も外にある九垓のほとりに立って長しえにのんびりとめぐりあるく。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

やがて、また空けていた東の太室山に帰り、ひとり秋霞を払って、そこに静かに眠る。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

朝、羅にかかる名残月は皓然として鏡の様であり、夜になれば、吹きすさぶ松風は瑟瑟として絃を爪弾いた琴の音のように響き渡る。

 (3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

 (0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

 

(1) (嵩山の焦鍊師に贈る)

二室 青天を凌ぎ,三花 紫煙を含む。

中に蓬海の客有り,宛として麻姑の仙かと疑う。

道 在り 喧 染む 莫し,跡 高く 想い 已に綿たり。

時に金鵝【きんが】の蕊を餐し,屢しば青苔の篇を讀む。

(2)

八極 遊憩を恣にし,九垓 長く周旋す。

瓢を下して潁水を酌み,鶴を舞わして伊川に來る。

還た歸る 空山の上,獨り秋霞を拂うて眠る。

蘿月 朝鏡を掛け,松風 夜弦を鳴らす。

(3)

光を潛めて 嵩嶽に隱れ,魄を鍊って 雲幄【うんあく】に棲む。

霓裳【げいしょう】何ぞ飄颻たらん,鳳吹 轉【うた】た綿邈【めんぼく】。

願わくば西王母に同じく,下に東方朔を顧りみん。

紫書 儻【も】し傳う可くんば,骨に銘じて誓って相い學ばん。

 洛陽 函谷関 嵩山005

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(2)

『贈嵩山焦煉師 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。


(下し文) (2)

八極 遊憩を恣にし,九垓 長く周旋す。

瓢を下して潁水を酌み,鶴を舞わして伊川に來る。

還た歸る 空山の上,獨り秋霞を拂うて眠る。

蘿月 朝鏡を掛け,松風 夜弦を鳴らす。

(現代語訳)
八絃に外に八極の表に遊憩をほしいままにし、九天も外にある九垓のほとりに立って長しえにのんびりとめぐりあるく。

そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

やがて、また空けていた東の太室山に帰り、ひとり秋霞を払って、そこに静かに眠る。

朝、羅にかかる名残月は皓然として鏡の様であり、夜になれば、吹きすさぶ松風は瑟瑟として絃を爪弾いた琴の音のように響き渡る。


(訳注) (2)

(2)贈嵩山焦鍊師

(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。

同時期の詩として以下がある。内容も同一範囲にあるものである。

170(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <170> Ⅰ李白詩1382 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5458

171 《巻08-35 贈華州王司士》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <171> Ⅰ李白詩1383 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5463

 

八極恣遊憩,九垓長周旋。

八絃に外に八極の表に遊憩をほしいままにし、九天も外にある九垓のほとりに立って長しえにのんびりとめぐりあるく。

八極・九垓 瑟絃の八絃の外にある仙界の音源の八極。九天も外にある仙界の九垓のほとりという意。

周旋『元丹丘歌』「元丹丘,愛神仙。朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。三十六峰長周旋,長周旋。」嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるくこと。

 

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

そこには、許由と巣父の故事にいう耳を洗ったし、弾いてきた牛に飲ませなかった高潔の隠士の理想の姿をうんできた穎水があり、仙界へ載せて行ってくれる鶴が舞い踊る渭水のほとりにやってくる。

下瓢 穎水についての許由と巣父の故事を暗用するもの。許由・巣父はともに中国古代の伝説上の帝王堯(ぎょう)の時代の高士。許由は、堯が自分に帝位を譲ろうというのを聞いて汚れた耳を頴川で洗って箕山に隠れ、巣父は、そのような汚れた川の水は飲ませられないと牽いてきた牛にその川の水を飲ませなかった、という。俗世に汚れることを忌み嫌う高潔の隠士の理想の姿としているもの。

潁水 穎水の源は少室山。

伊川 洛陽の前を流れる川。

 

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

やがて、また空けていた東の太室山に帰り、ひとり秋霞を払って、そこに静かに眠る。

空山 別に東山とある。東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。

 

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

朝、羅にかかる名残月は皓然として鏡の様であり、夜になれば、吹きすさぶ松風は瑟瑟として絃を爪弾いた琴の音のように響き渡る。
李白31歳 

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李白《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)》 大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

 

 
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33-06-§3-1 《讀巻05-06 太學生何蕃傳 -(6)》韓愈(韓退之)ID 799年貞元15年 32歳<1298> Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5474 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈嵩山焦鍊師

 

作地點:              嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:              嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

少室山 (都畿道 河南府 少室山)       

交遊人物:焦鍊師              書信往來(都畿道 河南府 嵩山)

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)

(1)贈嵩山焦鍊師

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

二室凌青天,三花含紫煙。

大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

道在喧莫染,跡高想已綿。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

 (2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

(3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

(贈嵩山焦鍊師)

(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

 

(1) (嵩山の焦鍊師に贈る)

二室 青天を凌ぎ,三花 紫煙を含む。

中に蓬海の客有り,宛として麻姑の仙かと疑う。

道 在り 喧 染む 莫し,跡 高く 想い 已に綿たり。

時に金鵝【きんが】の蕊を餐し,屢しば青苔の篇を讀む。

(2)

八極 遊憩を恣にし,九垓 長く周旋す。

瓢を下して潁水を酌み,鶴を舞わして伊川に來る。

還た歸る 空山の上,獨り秋霞を拂うて眠る。

蘿月 朝鏡を掛け,松風 夜弦を鳴らす。

(3)

光を潛めて 嵩嶽に隱れ,魄を鍊って 雲幄【うんあく】に棲む。

霓裳【げいしょう】何ぞ飄颻たらん,鳳吹 轉【うた】た綿邈【めんぼく】。

願わくば西王母に同じく,下に東方朔を顧りみん。

紫書 儻【も】し傳う可くんば,骨に銘じて誓って相い學ばん。

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(1)

『贈嵩山焦煉師 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

(1)贈嵩山焦鍊師

二室凌青天,三花含紫煙。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

道在喧莫染,跡高想已綿。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。


(下し文)
(1) (嵩山の焦鍊師に贈る)

二室 青天を凌ぎ,三花 紫煙を含む。

中に蓬海の客有り,宛として麻姑の仙かと疑う。

道 在り 喧 染む 莫し,跡 高く 想い 已に綿たり。

時に金鵝【きんが】の蕊を餐し,屢しば青苔の篇を讀む。


(現代語訳)
大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

李白の足跡003
(訳注)

(1)贈嵩山焦鍊師

(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。

 

二室凌青天,三花含紫煙。

大室山、少室山の二山は、嶷峨として青天を凌いでいる。一年に三回花をつける貝多樹は、仙界の紫煙をふくんでいる。

二室 大室山、少室山の嵩山を代表する二山。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。

三花 貝多樹という木で一年に三回花をさかせる。貝葉(ばいよう)とは、椰子などの植物の葉を加工して、紙の代わりに用いた筆記媒体。東南アジア、南アジアで多く利用された。貝多羅葉(ばいたらよう)の略称である。

貝多羅葉(ばいたらよう)の名称は、古代インドで植物の葉が筆記媒体として用いられていたため、サンスクリットで「木の葉」の意味を持つパットラ(pattra)と、さらに主に用いられたオウギヤシ(パルミラヤシ)である「ターラ(tala、多羅樹)の葉」を漢訳したものを起源とする。

 

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

この間に住む焦煉師は、蓬莱から来た客であって、宛として麻姑山にいる仙人と疑われる。

蓬海 東海蒼海の上に在る神仙蓬莱山。

麻姑仙 麻姑仙壇記 (唐代の楷書) 麻姑(まこ)は、中国神話に登場する下八洞神仙の一柱仙女である。西晋・東晋時代の葛洪の書『神仙伝』などに記述があり、その容姿は歳の頃1819の若く美しい娘で、鳥のように長い爪をしているという。また長寿の象徴でもあり、西王母の誕生祝いに麻姑が美酒を贈る「麻姑献寿」は絵画の題材にとられることも多い。麻姑の名は『神仙伝』の巻二「王遠」と巻七「麻姑」の項に見られるが、麻姑に関する部分の記述はほとんど同じである。

漢の孝桓帝の代に、神仙の王遠が平民である蔡経の家に降臨し、使者をやって麻姑を呼び寄せた。麻姑は蔡経の弟の妻が出産数日後であることを遠目から知ると、しばらく近づかぬように言いつけ、清めのために少量の米粒を持ってこさせた。このとき地面に撒いた米は、悉く丹砂(巻七では真珠)に変わったという。麻姑は修行の時に、東海では3回も桑畑に変わる異変を見せる為に「滄海桑田(そうかいそうでん)」、「桑田碧海(そうでんへきかい)」の四字熟語が有名である。

蔡経は麻姑の爪が鳥のように伸びているのを見ると、彼女が神人であるにもかかわらず、心中「この爪で背中を掻けたら気持ちが良いだろう」と考えた。この心を見抜いた王遠は蔡経を捕まえて怒った。このとき蔡経は背を鞭で打たれたが、鞭を打つ人の姿は見えなかったという。

また同様の話は三国時代の『列異伝』にも見られ、この書では、麻姑の爪で背中を掻きたいと思った蔡経は彼女の怒りを買って地に倒れ、両目から血を流したという。

 

道在喧莫染,跡高想已綿。

煉師の道は儼然として存在し、浮世の塵囂も、これを汚すことなく、その足音高くして、玄想が絶えない。

 

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

時にあっては、桂花の蕊を食らい、しばしば靑苔の様な色紙に書かれた道家の秘訣を読みふけっていた。

金鵝蕊 桂樹

青苔篇 子昂《潘尊師碑頌》「道逢真人昇玄子,授以宝青苔」とある。
李白31歳 

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李白《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)》 予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    五言古詩

詩題:    贈嵩山焦鍊師

 

作地點:              嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:              嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

少室山 (都畿道 河南府 少室山)       

交遊人物:焦鍊師              書信往來(都畿道 河南府 嵩山)

 

 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

 

(1)贈嵩山焦鍊師

二室凌青天,三花含紫煙。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

道在喧莫染,跡高想已綿。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

(3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

(贈嵩山焦鍊師)

(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

 

(1)贈嵩山焦鍊師

二室凌青天,三花含紫煙。

中有蓬海客,宛疑麻姑仙。

道在喧莫染,跡高想已綿。

時餐金鵝蕊,屢讀青苔篇。

(2)

八極恣遊憩,九垓長周旋。

下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。

還歸空山上,獨拂秋霞眠。

蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。

(3)

潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。

霓裳何飄颻,鳳吹轉綿邈。

願同西王母,下顧東方朔。

紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

(含異文)

二室凌青天,三花含紫煙。中有蓬海客,宛疑麻姑仙。道在喧莫染,跡高想已綿。時餐金鵝蕊【時餐金蛾藥】,屢讀青苔篇【屢讀古苔篇】。八極恣遊憩,九垓長周旋。下瓢酌潁水,舞鶴來伊川。還歸空山上,獨拂秋霞眠。蘿月掛朝鏡,松風鳴夜弦。潛光隱嵩嶽,鍊魄棲雲幄。霓裳何飄颻【霓衣何飄颻】【霓裳何萎蕤】【霓衣何萎蕤】,鳳吹轉綿邈。願同西王母,下顧東方朔。紫書儻可傳,銘骨誓相學。

 

魚玄機2長安洛陽中原地図 

《巻08-40 贈嵩山焦煉師 并序 -(0)

『贈嵩山焦煉師 并序』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

(0)贈嵩山焦鍊師 并序

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。


(下し文)
(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

(現代語訳)
(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。


(訳注)

(0)贈嵩山焦煉師 并序

(0)(嵩山の焦鍊師に贈る 并びに序)

(嵩山に隠遁している焦という徳の高いにこの詩 并びに序文を贈る)

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。

李白の足跡003 

嵩丘有神人焦鍊師者,不知何許婦人也,又云生於齊梁時。

嵩丘に神人焦鍊師という者有り,何許【いずこ】の婦人なるを知らざるなり,又た云う齊梁の時に生る、と。

嵩山に神仙のひとである焦鍊師がいる、何処で生まれたのか生母が誰なのかのもわからないのであり、また、齊梁の時代に生れたともいう。

神人 神仙のひと。

鍊師 道士修業の徳高く思精であるものをいう。

 

其年貌可稱五六十,常胎息穀,居少室廬,遊行若飛,倏忽萬里。

其の年貌 五六十と稱すべく,常に胎息して穀をち,少室の廬に居り,遊行飛ぶが若く,倏忽【しゅくこつ】萬里。

その年貌を見ると五六十歳と称すべく、平生、胎息を為し、また穀物を絶ち、少室山中の草盧におり、遊行すればその速くゆくのは飛び様であり、忽ちの間に、万里を行ってしまうという。

胎息 道教の修行法の一つ。晋の葛洪(かつこう)の《抱朴子》によれば,仙人になるためには,呼吸法,房中術,服薬法の三つを心得る必要がある。このうち,呼吸法(行気)には疾病を治癒し,蛇虎を調伏し,飢渇を止め,寿命を延ばすなどの効用がある。胎息とは,この呼吸法の極致で,鼻や口を使わず,子供が胎内にいるときと同じように呼吸することであるという。また《後漢書》では,道士王真がこの胎息の実践により不老長生を得たと説く。

 修行の中で穀物を食べないこと。

少室廬 少室山中の草盧。

倏忽 時間がきわめて短いさま。たちまち。

 

世或傳其入東海,登蓬萊,竟莫能測其往也。

世 或いは其の東海に入り,蓬萊に登るを傳う,竟に能く測其の往くを莫きなり。

世間では、あるいは傳えて、東海に入って、蓬莱山に登ったこともあるといい、ついにその行くところを測ることができない。

 

余訪道少室,盡登三十六峰,聞風有寄,灑翰遙贈。

余 道を少室に訪い,盡く三十六峰に登り,風を聞いて寄する有り,翰を灑いで遙かに贈る。

予は、神仙の道を少室山中に尋ねようとし、ことごとく三十六峰に登った。その時、焦鍊師の道士修業の徳高く思精であることを伝聞していることにより、これに詩を寄せんとし、紙に書きつけて、遙かに贈った。

嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。

道士、嵩山についておなじように詠ったものに、《巻06-08 元丹丘歌》がある。

元丹邱歌

元丹邱,愛神仙。

朝飲頴川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

三十六峰長周旋,長周旋。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

横河跨海与天通,我知爾遊心無窮。

(元丹邱の歌)

元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。

朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。

三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。

河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。
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李白《巻08-35 贈華州王司士》君は佩刀を為し、必ず三公に登るべき廟堂の器を負うた人であるから、晋の呂虔の王祥におけるにならい、宝刀を解いて君に贈ろうとするのだ。

 

 
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《巻08-35 贈華州王司士》Index-11 Ⅱ―6

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六八              文體:    七言

詩題:    贈華州王司士

作地點:              華州(京畿道 / 華州 / 華州)

及地點:              華州 (京畿道 華州 華州)    

交遊人物:王司士              當地交遊(京畿道 華州 華州)

 

 

贈華州王司士

淮水不濤瀾高,盛德未泯生英髦。

知君先負廟堂器,今日還須贈寶刀。

 

(華州の王司士に贈る)

淮水 えず 濤瀾高し,盛德 未だ泯【ほろ】びずして 英髦生ず。

知る 君が先づ 廟堂の器を負うを,今日 還た須らく寶刀を贈るべし。

 

 

『贈華州王司士』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈華州王司士

淮水不濤瀾高,盛德未泯生英髦。

知君先負廟堂器,今日還須贈寶刀。



(下し文)
(華州の王司士に贈る)

淮水 えず 濤瀾高し,盛德 未だ泯【ほろ】びずして 英髦生ず。

知る 君が先づ 廟堂の器を負うを,今日 還た須らく寶刀を贈るべし。

(現代語訳)
(華州の司士参軍事王某を誉め讃える詩を贈る)

昔、郭璞は、王導のために卜して、「淮水の流れが途絶えて絶水することが無い限り、王氏は絶滅しない」といったが、実際に淮水の流れは堪える事は無く、波瀾波濤は続いているし、王氏の先代の名だたる人々の盛徳は亡びるどころかなお、厳存し、ここに君の様な「英髦」というべき士中の俊を産出している。

君は佩刀を為し、必ず三公に登るべき廟堂の器を負うた人であるから、晋の呂虔の王祥におけるにならい、宝刀を解いて君に贈ろうとするのだ。


(訳注)

贈華州王司士

(華州の司士参軍事王某を誉め讃える詩を贈る)

唐代の華州は、華陰郡と云い、関内道に属し、上州にかかる。上州の佐には、司士参軍事一人あって、從七品下に属していた。

 

淮水不濤瀾高,盛德未泯生英髦。

昔、郭璞は、王導のために卜して、「淮水の流れが途絶えて絶水することが無い限り、王氏は絶滅しない」といったが、実際に淮水の流れは堪える事は無く、波瀾波濤は続いているし、王氏の先代の名だたる人々の盛徳は亡びるどころかなお、厳存し、ここに君の様な「英髦」というべき士中の俊を産出している。

淮水不 晉書王導傳 「初,王導渡淮,使郭璞筮之,卦成,璞曰:「吉,無不利。淮水,王氏滅。」其後子孫繁衍,竟如璞言。」(初め,王導 淮を渡り,郭璞を使て之を筮せむ,卦成る,璞曰く:「吉,利ならざる無し。淮水ゆれば,王氏滅せむ。」其の後子孫 繁衍,竟に璞の言の如し。)とある。

英髦 毛中の長毛をいう。

 

知君先負廟堂器,今日還須贈寶刀。

君は佩刀を為し、必ず三公に登るべき廟堂の器を負うた人であるから、晋の呂虔の王祥におけるにならい、宝刀を解いて君に贈ろうとするのだ。

贈寶刀 《晉書王祥傳》初,呂虔有佩刀,工相之,以為必登三公,可服此刀。虔謂祥曰:『苟非其人,刀或為害。卿有公輔之量,故以相與。』(初め,呂虔 佩刀有り,工之を相す,以為へらく必ず三公に登り,此の刀を服す可し。虔 祥に謂って曰く:『苟しくも其の人に非ざれば,刀 或は害を為さむ。卿 公輔の量有り,故に以て相い與えん。』)とある。

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李白(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》李白は秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor『花間集』全詩訳注解説(改訂)-1溫庭筠53《巻2-03 遐方怨 二首之一》溫庭筠66首巻二3-〈53〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5462 
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170(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <170> Ⅰ李白詩1382 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5458

 

年:731年開元十九年31

卷別:  卷一六六        文體:  雜言古詩

詩題:  元丹丘歌

作地點:        嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點:        嵩山 (都畿道 河南府嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高   

交遊人物:元丹丘        當地交遊(都畿道 河南府嵩山)

 

李白は少年時代、四川省にいた頃、処士東巌子といい者と岷山(ビンザン)に隠棲していたことがある。東巌子の素姓は不明だが、彼等の生活が十二分に道教的な色彩を帯びたものであったことは否めない。李白は20代後半から30代にかけ、しばしば隋州(湖北省)の胡紫陽の許に赴いた。胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、ここに詳しく伝えられている。

 「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。(この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが書かれている。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といい周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しずかに仙化した。この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」

 と示しており、李白が紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。しかし胡紫陽先生よりも、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

元丹丘 《李太白集 巻六 巻06-08 元丹丘歌》元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。

胡紫陽、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、以下の13首もある。

李太白集

Category 詩題

作時

-No.

西暦 年号

06-08

1.元丹 

731年開元十九年

24-02

2.題元丹丘山居 

731年開元十九年

24-03

3.題元丹丘 陽山居 并序 

731年開元十九年

18-16

4.酬岑勛見尋就元丹丘對酒相待以詩見招

736年開元二十四年

02-08

5.將進酒 

736年開元二十四年

14-12

6. 潁陽別元丹丘之淮陽 

738年開元二十六年

23-55

7.觀元丹丘坐巫山屏風 

738年開元二十六年

06-07

8.西岳云台歌送丹丘子 

743年天寶二年

18-11

9.以詩代書答元丹丘 

744年天寶三年

24-08

10.題嵩山逸人元丹丘山居 并序 

750年天寶九年

22-02

11.尋高鳳石門山中元丹丘 

751年天寶十年

12-11

12.聞丹丘子于城北營石門幽居中有高鳳遺跡

751年天寶十年

22-01

13.與元丹丘方城寺談玄作 

751年天寶十年

 以上の十三首である。

《巻06-08 元丹丘歌

(元丹邱をたたえる歌)

元丹丘,愛神仙。

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

三十六峰長周旋,長周旋。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。

(元丹邱の歌)
元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。
朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。
三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。
河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。

 

 

(改訂版) 《巻06-08 元丹丘歌》

『元丹丘歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

元丹丘,愛神仙。

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

三十六峰長周旋,長周旋。

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。



(下し文)
(元丹邱の歌)

元丹邱【げんたんきゅう】  神仙を愛す。

朝【あした】には頴川【えいせん】の清流を飲み、暮【くれ】には嵩岑【すうしん】の紫煙に還る。

三十六峰  長く周旋【しゅうせん】す、長く周旋す。

 星虹【せいこう】を躡【ふ】み、身は飛龍に騎って耳は風を生ず。

河を横ぎり海を跨【また】げて天と通じ、我れ知る  爾(なんじ)の遊心窮り無きを。
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(現代語訳)
(元丹邱をたたえる歌)

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。


(訳注)

《巻06-08 元丹丘歌》

李太白集 巻六 第八首目

元丹邱は李白が30歳前後に交際していた道士のひとり。李白はこの人物の詩を12編も書いているとおり、心から信服していたようだ。頴川は河南省を流れる川、元丹邱丘はこの川のほとりに別荘をもっていた、嵩岑は嵩山のこと、五岳のひとつで神聖な山とされた。

李白はこの年、秋まで宋州に滞在したが、再び運河を西にもどって嵩山(河南省登封県の北)に行き、元丹邱の山居に滞在した。元丹邱は安陸以来の尊敬する道士で、このときは安陸から嵩山に移ってきていたようだ。
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<!--[endif]-->

元丹丘,愛神仙。

元丹邱は神仙を愛した。長生不死の道術を修めている。

 

朝飲潁川之清流,暮還嵩岑之紫煙。

そこで、朝には、少室山に源としながれる清流は許由が耳の汚れとしてこの川で洗い清めた潁川の清流を飲み、夕べには、仙郷の紫煙がふかくたちこめる嵩山に帰って行く。

潁川 河南省臨潁(りんえい)県を流れる川。鄭州小室山付近に源を発し、淮河(わいが)に注ぐ。長さ約550キロ。隠士の許由が帝尭(ぎょう)に召されたが栄達を望まず、その話を耳の汚れとしてこの川で洗い清めたという。潁川(えいせん)

嵩岑 嵩山は、五岳の中にあるので中岳という。中国河南省登封市にある山岳群である。その山の二峰、東を太室と云い、西を少室という。南は登封に跨り、北は鞏邑に跨り、西は洛陽に跨り、東は密縣に跨る。その峰を千丈にすると一百五十余里。小室山は穎水の源。。最高峰は標高1440mの太室山である。古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。

 

三十六峰長周旋,長周旋。

嵩山の三十六峰の間をのんびりとめぐりあるき、そしてまた、のんびりとめぐりあるくというものだった。

周旋 1 売買・交渉などで、当事者間に立って世話をすること。とりもち。なかだち。斡旋(あっせん)。「下宿を―する」2 事をとり行うために動きまわること。面倒をみること。3国際法上、国際紛争を平和的に解決するため、第三国が外部から紛争当事国の交渉をとりもって援助すること。4 ぐるぐると回ること。めぐりあるくこと。周遊。

 

躡星虹,身騎飛龍耳生風。

これを続けるのは、星宿虹霓を踏みつけて、その身は飛龍に騎乗し、耳の穴から風雲を生じ、飛行自在に立ち回ったのである。

 

橫河跨海與天通,我知爾遊心無窮。

こうして嵩山の山中はおろか、ひとたび遠くに去れば、黄河を横切り、東海にマラガ里、果ては天空にも行くという。我々は彼の仙遊をする心持というもの無の境地の極みであり、自然に一体化することであるということを知るのである。

中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。羽人、僊人ともいう。道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。仙人になるために修行をする者は「道士」(羽士)「方士」と呼ばれる。後世専ら、道士は道教修行者一般をさした。方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。徐福は日本に逢着したともいわれ、日本各地に徐福伝説が残る。中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術を修得していたと付会された。

なお、一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。

また、仙人は禁欲に徹する必要があるとする伝説もあり、たとえば久米仙人や一角仙人は色欲により神通力を失っている。

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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

歌且謠,意方遠。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
--#4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。


(下し文) 4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

(現代語訳)
孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。


(訳注)

 

舞影歌聲散綠池,空汴水東流海

孝王は仙籍に登られたというので、枚乘司馬相如のいた時分には、ここ平台の地に歌舞を張ったというが、舞い姫の影も、歌い女の声も、清らかな池の水に散ってゆき、跡形もないようになり、あとに空しくのこったのは、汴水のみが滔々として東のかた海に流れ入るにすぎないのである。

○綠池-澄きった池。

○汴水-汴水べんすい。黄河から汴州(開封)をへて准水に到る。大運河通済渠の唐宋時代の呼称。

 

沉吟此事淚滿衣,黄金買醉未能歸

栄華の儚さを深く思えば、涙が衣服をぬらしつくす。黄金を惜しまず酒を買って酔い、まだまだ宿には帰れない。

 

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

こうして、宴席は「五白よ五白よ」と梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で連呼して、六博の賭けごとに興じあい、ふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれる。

〇五白-賭博の札、黒く裏が白い六つのサイコロを投げて、すべて黒の場合(六枚すべて黒が最上、すべて白の場合〔五白)がその次、とする。

〇六博-賭博。二箇のコマを、六つずつに分けて質する。

〇分曹賭酒-二つのグループに分かれて酒の勝負をする。

《楚辞•招魂》九段 士女雜坐,亂而不分些。放組纓,班其相紛些。鄭衛妖玩,來雜陳些。《激楚》之結,獨秀先些。蓖蔽象棋,有六簿些;

分曹並進,遒相迫些。成梟而牟,呼五白些。晉制犀比,費白日些。鏗鍾搖虡,揳梓瑟些。

男女入り混じり坐して、入り乱れて区別なく、印綬の組紐や冠の平打ち紐を解き捨てて、バラバラに乱れ散っている。南の国の人を魅了する遊び女たちも、来てその間に交じって並ぶ。中でも激楚の曲の風を巻き結ぶ急激な舞い方が一人最も勝っている。玉で飾った双六の賽や象牙の駒で賭博をする。グループを敵味方に分けて、相対し、共に駒を進めて、急に相迫って、勝負する。梟(一の目)が出れば倍勝ちになり、五白のよい目を大声で呼ぶ。晋で造られた犀の角を鏤めた賽は白日に輝き、鐘を撞き、鐘掛け台が揺らぎ、梓の瑟を弾く。

○酣-酒興の盛んなさま。

○馳輝-馳けるように過ぎゆく日の光、時間。

 

酣馳輝,歌且謠,意方遠。

かくて、組を分けて、酒を一杯ずつ賭けて、双六遊びをし、白日馳せゆくがごとく、時の間に酔いしれて、歌いかつ謡えば、心は、今こそ遠くあこがれゆく。

○歌且謠-楽曲の伴奏に合わせてうたうのが「歌」、無伴奏が「謡」、とするのが古典的な解釈(『詩経』慧「園有桃」の「毛伝」)。ここでは、さまざまな歌いかたをする、の意。

 

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

とはいっても、酒ばかり飲んでいるわけにもいかず、むかし、謝安石が東山に隠棲したのとおなじように、世の人民を救おうという時が来れば起ちあがるのだ。この意欲があれば、遅すぎるはずはない。

○東山高臥-東晋の謝安(字は安石)が、朝廷からしばしば出仕を催されながら、東山に隠棲したま基易に承知しなかったこと。人々は、「安石出づる喜んぜずんは、将た蒼生(人民)を如何んせん」と言って心配した。(『世説新語』「排調、第二十五」の二六)。「高臥」は、世俗の欲望を離れて隠棲すること。

会稽東山の山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。謝安の芸妓を携えて東山始寧の別荘の南に楼があり、そこで漢の謝安の故事、朝廷の誘いに乗らず始寧の芸妓を携えて遊んだことにならい、芸妓を待っていたが来なかったときの感情を歌ったものである
『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
攜妓東山去。 春光半道催。 
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 
姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287
○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。府城臥竜山南にあった白樓亭のこと。『会稽志卷第九』山府城の卧龍山府に其東麓に治据されていた。山陰陽經雲种山、また別名として重山は越大夫の种所葬られた太平御覧种山の名としたである。山南道で旧と傳えられる白楼亭は今の遺址は関連性からいうと不確かであるが、山頂にある城隍祠ああって、其の西南の越王台の下にある。

李白『贈僧崖公』「手秉玉麈尾, 如登白樓亭。」

会稽記 「浙江又東北、重山を径す、西山の上に白楼亭あり。」とある。

 

 

 

 

 

 

李白42 梁園吟

洛陽の下流、開封近くにある梁園に立ち寄った際の作。梁園とは前漢の文帝の子梁孝王が築いた庭園。詩にある平臺は梁園にあり、また阮籍は梁園付近の蓬池に遊んだ。李白はそうした史実を引用しながら、過去の栄華と今日の歓楽、そして未来への思いを重層的に歌い上げている。

 

雑言古詩 梁園吟

 

  我浮黄雲去京闕,掛席欲進波連山。

  天長水闊厭遠涉,訪古始及平台間。』

  平台爲客憂思多,對酒遂作梁園歌。

  卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水颺洪波。』

  洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。』

  人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

  平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。』

  玉盤楊梅爲君設,鹽如花皎白雪。

  持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。』

 

  昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

  荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。』

  梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

  舞影歌聲散綠池,空汴水東流海。』

  沉吟此事淚滿衣,黄金買醉未能歸。

  連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。』

  酣馳輝,歌且謠,意方遠。

  東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

169 -#3(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -#3》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <169 -#3> Ⅰ李白詩1380 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5448

李白(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -3梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
--3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。


(下し文)3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。
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(現代語訳)
そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。



(訳注)#3

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

そこで、楊梅にその塩をつけて食らい肴にし、酒を手にとって、ただただ飲めば、憂いなどさっぱり忘れ、愉快である。世の中が気にいらないと伯夷・叔斉が〝高潔さ〞にこだわることを真似などして、自分だけ高潔になってもどうしようもないことではないか。

○夷斉-伯夷と叔斉の兄弟。殷周革命の際に・周の武重が武力によって殷の肘王を討つのを諌めた。周の世になってからは、首陽山に隠れて薇(野生のマメの槙)を採って食に充て、餓死して死んでしまった。儒教の「名分論」を体現する人物像として、伝承されている。史記列伝第一夷斉

伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、古代中国・殷代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。

一説には二人の姓は子、氏は墨胎、伯夷の諱は允・字は公信、叔斉の諱は智・字は公達で、夷・斉はそれぞれの諡であるとされる。なお、伯・叔は共に長幼の序列を示す字である。

伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。

流浪の身となった二人は周の文王の良い評判を聞き、周へむかった。しかし、二人が周に到着したときにはすでに文王は亡くなっており、息子の武王が、呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。二人は道に飛び出し、馬を叩いて武王の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り2人を殺そうとしたが、呂尚は「手出しをするな!正しい人たちだ」と叫び、2人を去らしめた。

戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、二人は周の粟を食べる事を恥として周の国から離れ、首陽山に隠棲して山菜を食べていたが、最後には餓死した。

○事高潔-臣下(武王)として主君(肘王)を討つべきではない、という「大義名分論」に殉じた高潔な事跡をいう。

 

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳

そこで、試みにこの汴州梁州で、昔豪傑といわれた人々は、戦国では魏の信陵君、漢の時代は、梁の孝王を第一の貴人である。信陵君は食客三千人を致し、ひとたび起って秦軍を函谷関に追い詰めたし、漢の孝王は賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」に多くの賓客を集めていたのに、それはいきている間の事で、死後は、もとより、寂寞をまぬがれず、信陵君の墓地あとで、田畑を耕し種をまいているし、梁園を公園としか思っていない。

○信陵君-戦国時代の讐昭王の公子、名は無忌。信陵(河南省寧陵)に封ぜられた。食客三千人を養い、讐助けて秦を破り、さらに十年後・五国の兵を率いて秦を破った。戦国の四公子(四君)の一人。

逸話 魏の公子と食客(信陵君・侯嬴・朱亥)

ある時、安釐王と囲碁(双六との説もある)を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

○信陵墳-『太平宴字記』によれば、その墓は開封府の富県の「南十二里」にあるという。

 

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

荒れはてた都城を空しく照らすのは、青い山々にのぼった明るい月、世々を経た古木の梢いちめんにかかるのは、蒼梧の山から流れてきた白い雲により、愁色にとざされている。

○蒼梧雲-『芸文類衆』「雲」に所引の『帰蔵』に、「白雲は蒼梧自り大梁に入る」とあるのをふまえたもの=蒼梧」は、現在の湖南省南部にぁる山の名。一名「九疑山」。三皇五帝の舜が亡くなったところといわれている。

 

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待

梁の孝王の宮殿は、いまどこに在るというのだろう。その場所さえわかっていないし、枚乗も司馬相如も、孝王の賓客といわれたのに、長安に帰り、先立つように死んでゆき、この身を待っては居てくれない。

〇枚馬-前漢時代の文学者、枚乘と司馬相如。ともに梁苑に来訪して、梁王の栄華に彩りを添えた。「梁園の賓客」とよばれた。

枚乗(ばい じょう、未詳~前140)は、前漢の人。字は叔。淮陰(江蘇省淮安市)の人。賦や文章を得意とした遊説の徒。

呉王劉濞の郎中となっていたが、呉王が漢に対し恨みを持ち反逆しようとすると、枚乗は上書してそれを諌めた。しかしながら呉王はそれを取り上げなかったので、枚乗は呉を去って梁へ行き、梁王劉武の元に就いた。

景帝が即位すると、御史大夫晁錯が漢の制度を定めると共に諸侯王を抑える政策を行った。景帝前3年(紀元前154年)に呉王はついに他の六国と共に反乱を起こし(呉楚七国の乱)、晁錯の誅殺を反乱の名目に掲げた。漢はそれを知ると晁錯を殺して諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王に対し書を奉り、速やかに兵を帰還させることを説いたが呉王は用いず、反乱は失敗に終わり呉王は滅びた。

反乱の後、枚乗は有名になり、景帝は彼を弘農郡都尉に任命した。しかし大国の賓客となって英俊たちと遊説し、望むものを得る事ができていた彼は役人となることを喜ばず、病気と称して官を辞して再度梁の賓客となった。梁の賓客の中でも彼が最も賦に長じていた。

梁王劉武が死亡すると、枚乗は故郷の淮陰に帰った。

その後、武帝が即位すると、皇太子時代から枚乗の名を聞いていた武帝は、老年の枚乗を安車蒲輪(座って乗れて揺れの少ない馬車)で召し出したが、枚乗はその途上で死亡した。

子の枚皋も賦に優れ、武帝に仕えて多くの賦を残した。

なお、『文選』に枚乗の作品である「七発」が収録されている。

司馬相如 司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。

賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も有名である。

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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169 -2(改訂版) 《巻06-12 梁園吟 -2Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <169 -2> Ⅰ李白詩1379 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5443


 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:              宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)
-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。


(下し文) 2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

(現代語訳)
さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。


(訳注)#2

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

洪波浩盪迷舊國,路遠西歸安可得。

さて下阮籍の詩に在るように、黄河の洪波はゆらめき広がって際涯なく、この旧き梁国の水郷に環繞して迷い、船路はすでに遠く、もう西のかた長安に帰るすべはない。

○浩蕩 水の広がるさま。

○旧国 旧い都の地。梁園のあった商丘地方が、先秦時代の宋国、漢の梁国など、旧くからの都だったので、こう表現した。一説に、長安をさすとする。

 

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

そうはいっても東の蒼海の神仙三山にも行けず、人として生き、天命に通達すれば、愁い哀しんでいる暇はない。だからこんなもんだと達観して、梁園のなかにある高楼に登って、とりあえず美酒を傾けることにしよう。

○達命 自己の天命に通達する。

○豈暇愁 (愁えている暇がない)。

 

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

平らな頭巾の料理番の下僕が、大きな団扇を揺り動かして、たえずあおいでくれるから、夏五月でも暑さを忘れ、涼やかな秋かと思われるような心地がする。

○平頭奴子-上の平らな頭巾をかぶった下僕、召使い。ただし異説も多い。

 

玉盤楊梅爲君設,鹽如花皎白雪。

それから白玉の大皿の楊梅と称する果物がいっぱいに盛ってあり、君のために用意したもの、呉の国からでる白雪よりも白く光る花のように美しい塩がうずたかく用意してある。

○楊梅-ヤマモモの頼。

〇皎-白く光るさま。

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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六六              文體:    雜言古詩

詩題:    梁園吟

作地點:宋城(河南道 / 宋州 / 宋城)

及地點:梁園 (河南道 宋州 宋城) 別名:梁苑             

平臺 (河南道 宋州 宋城)    

蓬池 (河南道 汴州 開封)    

信陵墳 (河南道 汴州 浚儀)              

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

 

 

(改訂版)

梁園吟 -1

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。-2

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。

人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。

玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

-3

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔。

昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。

梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

-4

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。

沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

2

洪波 浩蕩 舊國に迷い、路遠くして西歸 安んぞ得る可けんや。

人生 命に達すれば豈に愁るに暇あらんや、且つ美酒を飲んで高樓に登る。

平頭の奴子 大扇を搖かし、五月も熱せず 清秋かと疑う。

玉盤の楊梅 君が為に設け、呉塩は花の如く 白雪よりも唆し。

3

塩を持ち酒を把って但だ之を飲まん、學ぶを夷齊の高潔を事とする莫かれ。

昔人豪貴とす信陵君、今人 耕種す信陵の墳。

荒城虚しく照らす碧山の月、古木盡ことごとく入る蒼梧の雲。

粱王の宮闕今安くにか在る、枚馬 先づ歸って相い待たず。

4

舞影 歌聲 綠池に散じ、空しく抃水を餘し の東のかた 海に流る。

沈吟 此の事 涙衣に滿つ、黄金 醉を買うて 未だ歸る能はず。

五白を連呼し 六博を行い、曹を分かち 酒を賭して馳輝に酣【たけなわ】なり。

歌い且つ謠えば、意 方に遠し。

東山に高臥して時に起ち來る、蒼生を濟わんと欲するも 未だ應に晩からざるべし。

 

(含異文)

我浮黃雲去京闕【我浮黃河去京闕】,掛席欲進波連山。天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。

 

洪波浩蕩迷舊國,路遠西歸安可得。人生達命豈暇愁,且飲美酒登高樓。

平頭奴子搖大扇,五月不熱疑清秋。玉盤楊梅為君設,鹽如花皎白雪。

 

持鹽把酒但飲之,莫學夷齊事高潔【何用孤高比雲月】。昔人豪貴信陵君,今人耕種信陵墳。

荒城虛照碧山月,古木盡入蒼梧雲。梁王宮闕今安在,枚馬先歸不相待。

 

舞影歌聲散綠池,空餘汴水東流海。沈吟此事淚滿衣,黃金買醉未能歸。

連呼五白行六博,分曹賭酒酣馳輝。

歌且謠,意方遠。

東山高臥時起來,欲濟蒼生未應晚。

 

 

『梁園吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

梁園吟

我浮黃雲去京闕,掛席欲進波連山。

天長水闊厭遠涉,訪古始及平臺間。

平臺為客憂思多,對酒遂作梁園歌。

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水揚洪波。


(下し文)
(梁園吟)#1

我黄河に浮かんで京闕を去り、席を挂けて進まんと欲すれば波 山を連ぬ。

天は長く水は闊くして遠渉に厭き、古を訪うて始めて及ぶ平臺の間。

平臺に客と爲りて 憂思多く、酒に對して 遂に作す梁園の歌。

却って憶う 蓬池の阮公の詠、因って吟ず緑水洪波を揚ぐるを。

(現代語訳)
(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。


(訳注)

梁園吟

(長安、洛陽、嵩陽、河南、安陸と転々とした第一次在京期、長安を離れて梁園に遊んだおりに作ったものである。)

○梁園 梁苑。前漢の文帝の子、景帝の弟、梁孝王劉武が築いた庭園。現在の河南省開封府商丘市東南5kmに在った。宋の都となった。『史記』巻五十八「梁孝王世家」の「史記正義」「吟」は、詩歌の一体。この詩は、第一次在京期の後、長安を離れて梁園に遊んだおり、三十一歳の作と考えられる。梁の孝王が築いた園の名。現・河南省東部、商丘の東にある。竹が多く、修竹園とも呼ばれた。宮室の庭園。『史記・世家・梁孝王』に「孝王,竇太后少子也,愛之,賞賜不可勝道。於是孝王築東苑,方三百餘里。廣陽城七十里。」とある。王昌齡の『梁苑』「梁園秋竹古時煙,城外風悲欲暮天。萬乘旌旗何處在,平臺賓客有誰憐。

 

我浮黄雲去京闕,掛席欲進波連山。

私は、今、黄河に浮かんで都より遠ざかる。東の方、汴、梁の地へ来たので、これから、舟にむしろの帆を高く掛けて進もうとおもうが、黄河の波は山のように連なって湧くので容易に進むことができない。。

○黄雲 黄河のはてで雲がと一体になる謝靈運『擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀』 「河洲多沙塵,風悲黃雲起。」黄河流域の挨塵の色の黄なるものが雲のように湧き上がることを云う。といい、淮南子には「黄泉の浜は上りて黄雲となる」とある。擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀》 謝靈運 六朝詩<84-2 劉楨 795 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2523

○京闕 都、長安。

○掛席-船に帆(席)を掛ける。船旅をする。「席」はイグサの筵で織った席の帆。

○波連山 大波が山を連ねたように湧き立つ。木筆の「海賦」(『文選』巻十九)に「波は山を連ぬるが如し」とある。

 

天長水闊厭遠涉,訪古始及平台間。

見渡せば、天空は果てもなくつづき、水は広々とひろがって、旅路の遥けさに厭きながらここまできたので、このあたりで、一つと地の様子を見、また、古跡をたずねようというので、漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台である「平臺」の間に上陸した。

○遠渉 遠い旅路。

○平台 漢の梁孝王が賓客を集めて遊宴した楼台。もとは、春秋時代の宋の平公が築かせた。場所は、現在の商丘市の東北(虞城県の西約二〇キロ)とされる。《漢書》卷四十七,梁孝王「大治宮室,為復道(樓閣之間架空的通道),自宮連屬於平臺三十餘里」。據古人注釋,那平臺「在大梁東北,其處寬博,土俗云平臺也」。

 

平台爲客憂思多,對酒遂作梁園歌

明君を探して隠しに遊び、今、平台の地に旅住まいして、憂い思うことが多く、こうして、酒を飲みつつ、たちまち「梁園の歌」を作りあげた。

○遂 動作や行為がスムーズに進むことを表わす副詞。「すぐさま・たやすく・かくして」などの意。

 

卻憶蓬池阮公詠,因吟淥水颺洪波。

詩を作ろうとして、むかしをふり返ってみると、この地は、魏の阮籍が大梁の蓬池にあそんで「詠懐詩」をつくったこと憶いおこし、まず阮籍公の詩を吟ずれば、丁度今の自分の境涯に当たっているから、それに因んで「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。」(清らかな池に大波が立つ)とこえだかに吟詠したのである。

○蓬池阮公詠 魏の阮籍の「詠懐詩、其の十六〔陳伯君『阮籍集校注』(中華書局)による〕」に、「蓬池(梁園付近の池)の上を徘徊し、還って大梁(開封)を望む」とあるのをさす。「徘徊蓬池上、還顧望大梁。綠水揚洪波、曠野莽茫茫。走獸交橫馳、飛鳥相隨翔。是時鶉火中、日月正相望。朔風厲嚴寒,陰氣下微霜。羈旅無疇匹,俛仰懷哀傷。」

阮籍. 阮 籍(げん せき、210年(建安15年) - 263年(景元4年))は、中国三国時代の人物。字(あざな)を嗣宗、兗州陳留郡尉氏の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は建安七子の一人である阮瑀。甥の阮咸も竹林の七賢の一人である。子は阮渾。

『晋書』によると、阮籍は世の人を救う志を持っていた。しかし当時、司馬氏による帝位簒奪が進む中、政争で命を落とす者が相次いでいた。竹林の七賢の一人で、阮籍と仲のよかった嵆康もまた、鍾会に陥れられ殺された。そこで阮籍は政争にかかわらず、酒浸りの生活をする道を選んだという。司馬昭はそんな阮籍を「至慎(もっとも慎み深い)」と評した。

263年、蜀漢征伐の途上で司馬昭を晋公に封じる詔勅が下された。司馬昭が型の通り辞退したため、封爵を勧める勧進文が司空の鄭沖らにより提出された。この時、鄭沖は阮籍に勧進文の草稿を命じた。阮籍はそれに従い草稿を提出した[1]。阮籍はその年の冬に亡くなった。

老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』・『達荘論』に老荘思想が十分に見て取れる。詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」・李白の「古風」など、五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。また、琴をよく弾いた。

○淥水颺洪波-同じく「其の十六」の詩句。「淥水」は青く澄んだ水や川や池。

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(官妓出会った美人が身請けされてどこかに行ってしまったが、忘れられなくてその時使った寝牀をそのままにしている。あれから三年もたつのに、秋が深まり、落ち葉を見て、白露が下るを見ると、悲しさに堪えきれないと詠う)

 
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168 《巻24-39 長相思【寄遠】,二首之二》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <168> Ⅰ李白詩1364 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5368

 

 

 

729年 開元十七年 29

76

長相思【寄遠】,二首之一

日色已盡花含煙,

730年 開元十八年 30

81

長相思

長相思,

731年 開元十九年 31

115

長相思【寄遠】,二首之二

美人在時花滿堂,

 

 

 

年:729年開元十七年29

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    長相思【寄遠】,二首之一

 

 

長相思【寄遠】,二首之一

(久遠の辞、行人久寿戍、書を寄せて思うところをおくる。夜着の中には「長相思」の綿をつめて、縁のかざりは「結不解」のかがり糸にして、固く結んで解けぬ意をもたせるという女の気持ちを詠う。)

日色已盡花含煙,月明欲素愁不眠。

夕日の影は、既に薄らぎ、花は薄靄を含んでほの暗く、一日中重い尽くしても、猶お足らないままに、夜になって、月が白くさえわたるころになってもまだ眠りにつかないのです。

趙瑟初停鳳凰柱,蜀琴欲奏鴛鴦弦。

この愁いを除くため、まず、趙の瑟琴を爪弾くが柱には、鳳凰の累鈿模様があり、次に蜀の琴には鴛鴦の絃でもって演奏したいと思っているのです。

此曲有意無人傳,願隨春風寄燕然。

この瑟の曲の意味はあなたにはわかるだけで、ほかのだれにも伝わらないのです。だから、東南風の春風にしたがって、北の守りに行っている夫のいる燕然山のほうにむかって、鳳凰の比翼となり、鴛鴦の双棲となりたいと願う気持ちを送りたいのです。

憶君迢迢隔青天,昔日橫波目。

それなのに、あなたは、迢迢としてそこまで広がる晴天を隔てていていつ帰るかわからない。昔と、同じように瑟琴をひいて、鳳凰のように寄り添い、鴛鴦のように契を交わし、演奏しながらあなたに、流し目を送ったのが昨日のようです。

今成流淚泉。

その目に今は、涙がいずみのように流れ落ちてしまっています。

不信妾腸斷,歸來看取明鏡前。

妾が常に断腸の思いでいること信じてもらえないならば、ここに帰って来たときに明鏡の前の涙の痕を確認できるから、その時は妾の気持ちを理解して可愛がってください。

 

(長相思,二首之一)

日色 已に盡きて 花は煙を含む,月明 素ならんと欲して愁て眠らず。

趙瑟 初めて停む鳳凰の柱,蜀琴 奏せんと欲す 鴛鴦の弦。

此曲 意有れども人の傳うる無し,願くば 春風に隨って燕然に寄せん。

君を憶えば迢迢として青天を隔ち,昔日 橫波の目。

今は流淚の泉と成る。

妾の腸斷つを信ぜざれば,歸り來って明鏡の前へ看取せよ。

 

年:730年開元十八年30

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    長相思

作地點:              終南山(京畿道 / 京兆府 / )

及地點:              長安 (京畿道 京兆府 長安別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都       

 

 

長相思

(寵愛を失っても、あの方のことを思い続けるしかないと詠う。)

長相思,在長安,絡緯秋啼金井闌。

あの人のことを長く思い続けている妃嬪は、長安に在る。秋も深く金の飾りを鏤めた井戸端のあたりでは蟋蟀がしきりに機織りの様な声を立てて啼いている。

微霜淒淒簟色寒,孤燈不明思欲

夜間、薄霜が降りて冷え冷えとし、“もしか”と思い寝牀に敷いていた簟の色さえ寒々としている。この時に当たり、半分消えかかったような孤燈をとってかかげて、絶えぬ愁いの意を抱き続けている。

卷帷望月空長歎,美人如花隔雲端。

そして、とばりを巻き上げて、月を見上げて、空しく長嘆の声を発してみる。なぜなら、寵愛を失った妃嬪であっても牡丹の花のように美しさをたもっているけれど、月とおなじように、遠く雲端を隔てて天涯におかれているからである。

上有青冥之長天,下有淥水之波瀾。

上には、蒼蒼とした仙郷のごとく天は何処までも続き、下には、澄み切った水の上に波瀾を生じて広げる。

天長路遠魂飛苦,夢魂不到關山難。

このように天は長く、道は遠いために、魂が飛んでゆくことは苦しく、夢中の魂すら飛んでゆくことは難しい。

長相思,摧心肝。

そこで、ずっと長く思い続けるしかなく、それが心も体も砕くことになっても思い続けるのだ。

 

(長相思)

長相思,長安に在り,絡緯 秋啼く 金井闌。

微霜 淒淒 簟色寒し,孤燈 明らかならず 思いえんと欲す。

帷を卷き 月を望んで空しく長歎し,美人 花の如く雲端を隔つ。

上には青冥の長天有り,下には淥水の波瀾有り。

天長く 路遠くして 魂 飛ぶこと苦なり,夢魂 到らず 關山難し。

長相思,心肝を摧く。

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六五              文體:    雜言古詩

詩題:    長相思【寄遠11】,二首之二

 

長相思【寄遠11,二首之二

(官妓出会った美人が身請けされてどこかに行ってしまったが、忘れられなくてその時使った寝牀をそのままにしている。あれから三年もたつのに、秋が深まり、落ち葉を見て、白露が下るを見ると、悲しさに堪えきれないと詠う)

美人在時花滿堂,美人去後空餘床。

むかし、美人が世の中に在りし時は万花咲き誇り、花の香りはこの御堂までをもいっぱいに漂っている、美人がそこから去ってしまった後は、ただ、寝牀には空しい残り香がほんのりとあるだけである。

床中繡被卷不寢,至今三載猶聞香。

寝牀に付属している見事な夜具は、巻いたまましまってあり、これを使用して寝ることはない、だから、今に至って、もう三年の久しき年を経ているけれど名残の匂いはあきらかに残っている。

香亦竟不滅,人亦竟不來。

美人の香りはついに消えないけれど、その人は決して帰って来ることはないのだ。

相思黃葉落,白露濕青苔。

その人のことを思うことが切なくなると決まって黄ばんだ葉がはらはらと落ちてくる頃であるし、白露が下って青苔を濕すころで、浮世の秋は悲しくててえきれない。

 

(長相思,二首の二)【遠きに寄せる11

美人在る時 花 堂に滿つ,美人去って後 空しく床を餘す。

床中の繡被 卷いて寢ず,今に至って三載 猶お香を聞く。

香 亦た竟に滅せず,人 亦た竟に來らず。

相思 黃葉落ち,白露 青苔を濕【うるお】ず。

 

(含異文)

美人在時花滿堂,美人去後空餘床【美人去後花餘床】【美人去後餘空床】。床中繡被卷不寢【床中繡被更不卷】,至今三載猶聞香【至今三載聞餘香】。香亦竟不滅,人亦竟不來。相思黃葉落【相思黃葉盡】,白露濕青苔【白露點青苔】。

 

珠櫻001 

『長相思,二首之二』【寄遠11】 現代語訳と訳註解説
(
本文)

長相思,二首之二【寄遠11

美人在時花滿堂,美人去後空餘床。

床中繡被卷不寢,至今三載猶聞香。

香亦竟不滅,人亦竟不來。

相思黃葉落,白露濕青苔。


(下し文)
(長相思,二首の二)【遠きに寄せる11

美人在る時 花 堂に滿つ,美人去って後 空しく床を餘す。

床中の繡被 卷いて寢ず,今に至って三載 猶お香を聞く。

香 亦た竟に滅せず,人 亦た竟に來らず。

相思 黃葉落ち,白露 青苔を濕【うるお】ず。

(現代語訳)
(官妓出会った美人が身請けされてどこかに行ってしまったが、忘れられなくてその時使った寝牀をそのままにしている。あれから三年もたつのに、秋が深まり、落ち葉を見て、白露が下るを見ると、悲しさに堪えきれないと詠う)

むかし、美人が世の中に在りし時は万花咲き誇り、花の香りはこの御堂までをもいっぱいに漂っている、美人がそこから去ってしまった後は、ただ、寝牀には空しい残り香がほんのりとあるだけである。

寝牀に付属している見事な夜具は、巻いたまましまってあり、これを使用して寝ることはない、だから、今に至って、もう三年の久しき年を経ているけれど名残の匂いはあきらかに残っている。

美人の香りはついに消えないけれど、その人は決して帰って来ることはないのだ。

その人のことを思うことが切なくなると決まって黄ばんだ葉がはらはらと落ちてくる頃であるし、白露が下って青苔を濕すころで、浮世の秋は悲しくててえきれない。

杏の白花012
(訳注)

長相思【寄遠11】,二首之二

(官妓出会った美人が身請けされてどこかに行ってしまったが、忘れられなくてその時使った寝牀をそのままにしている。あれから三年もたつのに、秋が深まり、落ち葉を見て、白露が下るを見ると、悲しさに堪えきれないと詠う)

漢の無名氏《古詩十九首之十八首》

客從遠方來,遺我一端綺。

相去萬餘里,故人心尚爾。

文彩雙鴛鴦,裁為合歡被。

著以長相思,緣以結不解。

以膠投漆中,誰能別離此?

客遠方より乗り、我に一端の綺を遣る。

相去ること萬餘里なるも、故人の心 尚ほ爾り。

文彩は雙鴛鴦、裁ちて合歓の被と為す。

著するに長相思を以てし、縁とるに結不解を以てす。

膠を以て漆中に投ぜば、誰か能く此を別離せん。

 

美人在時花滿堂,美人去後空餘床。

むかし、美人が世の中に在りし時は万花咲き誇り、花の香りはこの御堂までをもいっぱいに漂っている、美人がそこから去ってしまった後は、ただ、寝牀には空しい残り香がほんのりとあるだけである。

○美人 芸妓と共に過ごした奥座敷の寝牀を使わないままにしておる。

 

床中繡被卷不寢,至今三載猶聞香。

寝牀に付属している見事な夜具は、巻いたまましまってあり、これを使用して寝ることはない、だから、今に至って、もう三年の久しき年を経ているけれど名残の匂いはあきらかに残っている。

繡被卷不寢 見事に縫い取りをしている夜具を広げないで、巻いたままで寝ていない。

 

香亦竟不滅,人亦竟不來。

美人の香りはついに消えないけれど、その人は決して帰って来ることはないのだ。

 

相思黃葉落,白露濕青苔。

その人のことを思うことが切なくなると決まって黄ばんだ葉がはらはらと落ちてくる頃であるし、白露が下って青苔を濕すころで、浮世の秋は悲しくててえきれない。
李白31歳

167 《巻05-15 白鼻騧》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <167> Ⅰ李白詩1363 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5363

李白《巻05-15 白鼻騧》豪貴な少年は、細雨春風花がちり落る間に、白鼻の黄馬に乗って馳せてきて、鞭を揮って、疾風の如く、ペルシャの娘がやっている酒肆にはいって酒を飲むのをほしいままにしている。

 

 
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167 《巻05-15 白鼻騧》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <167> Ⅰ李白詩1363 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5363

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    白鼻騧

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

白鼻騧

銀鞍白鼻騧,綠地障泥錦。

細雨春風花落時,揮鞭直就胡飲。

(貴族の子弟が白鼻の黄馬に跨り、酒屋において傲慢に酒を貪ったさまを詠う。)

白鼻の黄馬には銀の鞍を置き、漢の武帝のように緑地の五色の錦で造った派手な泥除けをかけている。

豪貴な少年は、細雨春風花がちり落る間に、白鼻の黄馬に乗って馳せてきて、鞭を揮って、疾風の如く、ペルシャの娘がやっている酒肆にはいって酒を飲むのをほしいままにしている。

 

(白鼻騧)

銀鞍白鼻の騧、緑地の障泥錦。

細雨 春風 花落つる時,鞭を揮って、直に胡姫に就いて飲む

 

 

白鼻』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

白鼻騧

銀鞍白鼻騧,綠地障泥錦。

細雨春風花落時,揮鞭直就胡飲。

 

(含異文)

銀鞍白鼻騧,綠地障泥錦。

細雨春風花落時【春風細雨落花時】,揮鞭直就胡飲【揮鞭且就胡飲】。


(下し文)
(白鼻

銀鞍白鼻の、緑地の障泥錦。

細雨 春風 花落つる時,鞭を揮って、直に胡姫に就いて飲む。


(現代語訳)
(貴族の子弟が白鼻の黄馬に跨り、酒屋において傲慢に酒を貪ったさまを詠う。)

白鼻の黄馬には銀の鞍を置き、漢の武帝のように緑地の五色の錦で造った派手な泥除けをかけている。

豪貴な少年は、細雨春風花がちり落る間に、白鼻の黄馬に乗って馳せてきて、鞭を揮って、疾風の如く、ペルシャの娘がやっている酒肆にはいって酒を飲むのをほしいままにしている。



(訳注)

白鼻騧

(貴族の子弟が白鼻の黄馬に跨り、酒屋において傲慢に酒を貪ったさまを詠う。)

 ①口先の黒い黄馬。②浅黄色の馬。『詩経秦風、小戎』「騧驪是驂、蔬」「今之浅黄色者爲騧馬」とある。

 

銀鞍白鼻騧,綠地障泥錦。

白鼻の黄馬には銀の鞍を置き、漢の武帝のように緑地の五色の錦で造った派手な泥除けをかけている。

綠地障泥錦 西京雜記「武帝貮師の天馬を得、玫瑰石を持って鞍と為し、鏤乜めるには金銀鍮石を以てし、緑地の五色の錦を以て蔽泥と為す」とある。緑地というところで造られたものをいう。

 

細雨春風花落時,揮鞭直就胡飲。

豪貴な少年は、細雨春風花がちり落る間に、白鼻の黄馬に乗って馳せてきて、鞭を揮って、疾風の如く、ペルシャの娘がやっている酒肆にはいって酒を飲むのをほしいままにしている。

胡姫 唐の時代「胡姫」はペルシャ(イラン系)の紅毛金髪、碧眼、白皙の女性を示していた。この当時、長安は世界最大の都市であり、西門の金光門は異民族への玄関口である。この門から東の春明門は目抜き通り、都登路であり、その真ん中に朱雀門があり、国際通りであった。『少年行二首其二』「落花踏尽遊何処、笑入胡姫酒肆中。五陵の貴盛の公子は白馬に銀の鞍をおいて、これにうち跨って、春風にむかって、おもむろに金市の東、繁華街の中を颯爽と行く。 
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166 《巻05-14 少年行,二首之二》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <166> Ⅰ李白詩1375 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5423

李白《巻05-14 少年行,二首之二》一面に舞い散る花を踏み散らし  どこへ行くのかと云えば、笑いながら異民族の経営する、碧眼の胡姫(ペルシャ)の酒場にでもいって、豪興をほしいままにして遊ぼうというのだろう。

 
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166 《巻05-14 少年行,二首之二》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <166> Ⅰ李白詩1375 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5423

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:  卷一六五        文體:  樂府

詩題:  少年行,二首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

少年行,二首之一

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)二首の一

擊筑飲美酒,劍歌易水湄。

筑を弾じる声を聴きつつ、美酒を飲み、易水のほとりにおいては、易水の風が冷たく人々の肌を刺すので剣を弾じて荊軻のように歌うものだ。

經過燕太子,結託并州兒。

そして、燕の太子丹の様な野心漫漫たる貴人を訪問したり、幷州の遊侠少年と交際して、平生もっぱら男を磨くことを務めとしている。

少年負壯氣,奮烈自有時。

この貴公子は、若くてもっぱら壮気を恃み時としては、奮発して、随分生命をも捨てかねないというほどの勢いである。

因聲魯句踐,爭博勿相欺。

そういうことで、逆に、魯勾践の様なものをも殴りつけ、博して道を争う時など、あまり自分だけ偉がって人を圧倒するなと言って一本決めつけるというものだ。

 

(少年行,二首之一)

擊筑をって美酒を飲み,劍歌す 易水の湄【ほとり】。

燕の太子を經過して,結託す 并州の兒。

少年壯氣を負い,奮烈 自ら時有り。

因って聲【な】らす 魯句踐,博を爭うも 相い欺く勿れ。

 

 

少年行,二首之二

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)二首の二

五陵年少金市東、銀鞍白馬度春風。
五陵の貴盛の公子は白馬に銀の鞍をおいて、これにうち跨って、春風にむかって、おもむろに金市の東、繁華街の中を颯爽と行く。
落花踏尽遊何処、笑入胡姫酒肆中。

こうして、一面に舞い散る花を踏み散らし どこへ行くのかと云えば、笑いながら異民族の経営する、碧眼の胡姫(ペルシャ)の酒場にでもいって、豪興をほしいままにして遊ぼうというのだろう。

(少年行)
五陵の年少金市【きんし】の東、銀鞍【ぎんあん】白馬、春風を度【わた】る。
落花踏み尽くして  何処【いずこ】にか遊ぶ、笑って入る 胡姫【こき】酒肆【しゅし】の中。
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『少年行二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

少年行二首之二
五陵年少金市東、銀鞍白馬度春風。
落花踏尽遊何処、笑入胡姫酒肆中。


(下し文)
(少年行)
五陵の年少金市【きんし】の東、銀鞍【ぎんあん】白馬、春風を度【わた】る。Ta唐 長安近郊圖  新02
落花踏み尽くして  何処【いずこ】にか遊ぶ、笑って入る 胡姫【こき】酒肆【しゅし】の中。


(現代語訳)
五陵の貴盛の公子は白馬に銀の鞍をおいて、これにうち跨って、春風にむかって、おもむろに金市の東、繁華街の中を颯爽と行く。
こうして、一面に舞い散る花を踏み散らし  どこへ行くのかと云えば、笑いながら異民族の経営する、碧眼の胡姫(ペルシャ)の酒場にでもいって、豪興をほしいままにして遊ぼうというのだろう。



(訳注)

少年行二首之二
(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)二首の二

年少 少年と同じ、日本でいう少年は童。

 

五陵年少金市東、銀鞍白馬度春風。
五陵の貴盛の公子は白馬に銀の鞍をおいて、これにうち跨って、春風にむかって、おもむろに金市の東、繁華街の中を颯爽と行く。
金市 金市(西市)の東寄りに居酒屋があってイラン人の女性がお相手をしていた。長安は、このころ世界一の大都市であった、シルクロードの起点でもあるが、唐王朝はペルシャの一部まで領土を拡大していた。五陵の若者というのは、五つの陵墓を中心に陵園都市が形成され、繁華を誇った。このころは少し荒廃していたようであるが、李白は漢代のイメージで歌っている。それと、貴族の住居地区という意味も兼ねている。というのは下の関係図に示す、西の金光門をさし、次の句の銀の鞍との対比を意図している。

五方




西


五行






五色







五陵 長安渭水の北側、長陵邑,安陵邑、陽陵邑、茂陵邑、平陵邑をいう。
五陵の関係図


choan9ryo 

落花踏尽遊何処、笑入胡姫酒肆中。
五陵の貴盛の公子は白馬に銀の鞍をおいて、これにうち跨って、春風にむかって、おもむろに金市の東、繁華街の中を颯爽と行く。
胡姫  唐の時代「胡姫」はペルシャ(イラン系)の紅毛金髪、碧眼、白皙の女性を示していた。この当時、長安は世界最大の都市であり、西門の金光門は異民族への玄関口である。この門から東の春明門は目抜き通り、都登路であり、その真ん中に朱雀門があり、国際通りであった。
 唐は西に伸びきった領土を有していた。建国当初は、富を得ていたが次第に負担が勝るようになる。
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○韻 東、風、中。

少年行      
五陵年少金市東、銀鞍白馬度春風。
落花踏尽遊何処、笑入胡姫酒肆中。
(少年行)
五陵の年少金市【きんし】の東、銀鞍【ぎんあん】白馬、春風を度【わた】る。
落花踏み尽くして  何処【いずこ】にか遊ぶ、笑って入る 胡姫【こき】酒肆【しゅし】の中。
00長安城の図
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165 《巻05-13 少年行,二首之一》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <165> Ⅰ李白詩1361 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5353

李白《巻05-13 少年行,二首之一》そういうことで、逆に、魯勾践の様なものをも殴りつけ、博して道を争う時など、あまり自分だけ偉がって人を圧倒するなと言って一本決めつけるというものだ。

 
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165 《巻05-13 少年行,二首之一》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <165> Ⅰ李白詩1361 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5353

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    少年行,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              太原府 (河東道 太原府 太原府) 別名:太原、并州      

 

 

少年行,二首之一

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)二首の一

擊筑飲美酒,劍歌易水湄。

筑を弾じる声を聴きつつ、美酒を飲み、易水のほとりにおいては、易水の風が冷たく人々の肌を 刺すので剣を弾じて荊軻のように歌うものだ。

經過燕太子,結託并州兒。

そして、燕の太子丹の様な野心漫漫たる貴人を訪問したり、幷州の遊侠少年と交際して、平生もっぱら男を磨くことを務めとしている。

少年負壯氣,奮烈自有時。

この貴公子は、若くてもっぱら壮気を恃み時としては、奮発して、随分生命をも捨てかねないというほどの勢いである。

因聲魯句踐,爭博勿相欺。

そういうことで、逆に、魯勾践の様なものをも殴りつけ、博して道を争う時など、あまり自分だけ偉がって人を圧倒するなと言って一本決めつけるというものだ。

 

(少年行,二首之一)

擊筑をって美酒を飲み,劍歌す 易水の湄【ほとり】。

燕の太子を經過して,結託す 并州の兒。

少年壯氣を負い,奮烈 自ら時有り。

因って聲【な】らす 魯句踐,博を爭うも 相い欺く勿れ。

 

三国の州 図 

『少年行,二首之一』 現代語訳と訳註解説

(本文)

少年行,二首之一

擊筑飲美酒,劍歌易水湄。

經過燕太子,結託并州兒。

少年負壯氣,奮烈自有時。

因聲魯句踐,爭博勿相欺。

 

(下し文)

(少年行,二首之一)

擊筑をって美酒を飲み,劍歌す 易水の湄【ほとり】。

燕の太子を經過して,結託す 并州の兒。

少年壯氣を負い,奮烈 自ら時有り。

因って聲【な】らす 魯句踐,博を爭うも 相い欺く勿れ。

 

(現代語訳)

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)二首の一

筑を弾じる声を聴きつつ、美酒を飲み、易水のほとりにおいては、易水の風が冷たく人々の肌を 刺すので剣を弾じて荊軻のように歌うものだ。

そして、燕の太子丹の様な野心漫漫たる貴人を訪問したり、幷州の遊侠少年と交際して、平生もっぱら男を磨くことを務めとしている。

この貴公子は、若くてもっぱら壮気を恃み時としては、奮発して、随分生命をも捨てかねないというほどの勢いである。

そういうことで、逆に、魯勾践の様なものをも殴りつけ、博して道を争う時など、あまり自分だけ偉がって人を圧倒するなと言って一本決めつけるというものだ。

 

(訳注)

少年行,二首之一

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)二首の一

少年子も、六朝時代から始まった楽府題で、少年の貴盛豪富を写したものである。

・少年を題材にしたものは盛唐の詩人の間で流行っていたのだろう。杜甫も最初二首詠い、しばらくして、この一首詠っている。どの詩人も貴族の親に向けて、批判はできないが、その息子らの破廉恥な様子を詠うことにより、貴族社会を批判している。

・貴族の子弟が酒屋において傲慢に酒を貪ったさまをうたう。(762)宝応元年、杜甫51歳の成都での作品。李白や、王維の同名の作品は楽府、音楽に合わせて歌うように詩を読むものであるが、杜甫のこの詩は七言絶句の形式の歌行である。同種の『貧孝行』がある。

王維の「少年行四首」は漢時代を借りて四場面の劇構成になっている。
王維『少年行四首』 其一   
新豊美酒斗十千、咸陽遊侠多少年。  
相逢意気為君飲、繋馬高楼垂柳辺。
杜甫《少年行

馬上誰家白面郎、臨階下馬坐人牀。
不通姓氏麤豪甚、指點銀瓶索酒嘗。

少年行 杜甫 蜀中転々 杜甫 <501  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2695 杜甫詩1000-501-733/1500

甫『少年行』を一首と二首の三首,作っている

少年行,二首之一

莫笑田家老瓦盆,自從盛酒長兒孫。 

傾銀注瓦驚人眼,共醉終同臥竹根。 

(富貴の青年の悪行を詠う歌,二首のその一)

少年行,二首之一 蜀中転々 杜甫 <498  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2680 杜甫詩1000-498-730/1500

農家の古ぼけたかわらけの盃や肴を盛り付ける大皿食器を、笑うことをしてはいけない。こんな農家だとその食器でしか富貴の者の子や孫に提供して酒宴をさかんにするだけなのだ。

銀の飾り物を盃にしたり、瓦の盆にさけをついだり、村の人々を困らせるだけである。あげく、みんな酔っぱらって、ついに同じように静寂で隠棲の場所である竹林で寝てしまうしまつである。

杜甫《少年行,二首之二》

巢燕養雛渾欲去、江花結子也無多。

黄衫年少來宜敷、不見堂前東逝波。

(富貴の青年の悪行を詠う歌,二首のその一)

巣で雛を育てる多くのツバメというものはせいちょうすれば全員去ってゆくものであるということや、濯錦江を花いっぱいにして浣花渓と名付けたのを、わたしの女子供らが見ているのです。

それなのに、片肌脱いだ貴族の息子どもはここに来て勝手に座っているし、奥座敷の前入るやつらはそれがこの国の常識であることを知ってはいないのだろうか。

杜甫《少年行》

馬上誰家白面郎、臨階下馬坐人牀。

馬上で我が物顔で振る舞うのは、どこの富貴の家の御曹司のものだろうか、酒屋のきざはしの前から馬をおり、人が座っていた長椅子に、どっかと腰をかけるのだ。

不通姓氏麤豪甚、指點銀瓶索酒嘗。

それから横柄な態度で、何処の誰とも名のらず、「あれをくれ」と、銀の酒瓶を指ざしして酒をもとめ、瓶の紐をもって瓶ごと直に呑んでいるのだ。

(少年行)

馬上 誰が家の白面郎ぞ、馬より下りて階に臨み、人牀に坐す。

姓氏を通ぜず麤豪【そごう】甚し、銀瓶【ぎんべい】を指点して酒を索もとめて嘗【な】む。

少年行,二首之二 蜀中転々 杜甫 <499  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2685 杜甫詩1000-499-731/1500

 

擊筑飲美酒,劍歌易水湄。

筑を弾じる声を聴きつつ、美酒を飲み、易水のほとりにおいては、易水の風が冷たく人々の肌を 刺すので剣を弾じて荊軻のように歌うものだ。

 筑(琴に似た竹製の楽器)の名手の高漸離と意気投合し、いつも 二人で酒を飲み歩き、酔うと高漸離は筑を鳴らし、荊軻はそれに和して 歌い、傍若 ... 易水の風は冷たく人々の肌を 刺し、高漸離の筑と荊軻の歌声とは悲壮に人々の心をふるわせた。

易水 易水の別れ易水送別(荊軻と燕の昭王の太子丹、高漸離たちと易水の畔での別れのことを指す。)『史記』(卷八十六・刺客列傳第二十六には、その場面を次のように記している:「太子及賓客知其事者,皆白衣冠以送之。至易水之上,既祖,取道,高漸離撃筑,荊軻和而歌,爲變徴之聲,士皆垂涙涕。又前而爲歌曰:『風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還!』復爲羽聲慷慨,士皆瞑目,髮盡上指冠。於是荊軻就車而去,終已不顧。」悲壮な別れで有名な荊軻の易水の別れの場面に基づいている。なお、前記『易水歌』ページには、荊軻関聯の詩を集めている。この詩題は『於易水送人』ともする。同義だが、『易水送別』の方は、「易水の別れ」という風に「送別」等を名詞と取れるのに対して、『於易水送人』では場所を表し、「送人」は動詞となり、「易水に於いて人を送る」となる。この作品は、則天武后(武則天)が唐の帝位を簒奪したことについて、荊軻の義挙(暗殺)に托して詠ったという。

 

經過燕太子,結託并州兒。

そして、燕の太子丹の様な野心漫漫たる貴人を訪問したり、幷州の遊侠少年と交際して、平生もっぱら男を磨くことを務めとしている。

燕太子 燕太子丹(えん たいし たん、? - 紀元前226年)は、古代中国の戦国時代末期の燕の王族。姓は姞[1]、諱は丹。燕王喜の子。

少年時代は、趙に人質として送られ、同じく人質だった秦の王族だった政と親しくしていたことがある。後に本国に帰国して、燕の太子となった。

後年に燕の使節として、かつて昔なじみの秦の秦王政に挨拶をしたが、秦王政から冷たく対応されて、丹は衝撃を受けて秦は燕にとって災いをおよぼす国だと判断して、帰国した。

帰国して秦の強大化を危惧した丹は、重臣である鞠武へ如何にすべきか相談したところ、鞠武は「秦は三晋(趙・魏・韓)を脅かし、北に甘泉・谷口が天然の要害となり、南に涇水・渭水に沿った肥沃な大地を有する。肥沃な巴や漢中を独占し、右は隴・蜀の山脈、左は函谷関・崤山に守られている。人口は多く、また兵士も勇猛で、武器防具も満たされている。」と評して秦と争うことの愚を献策したものの、丹はそれを聞き入れなかった。

秦の軍勢の少数精鋭化により解雇された兵士たちを哀れに思って、それに反対した秦の元将軍である樊於期が、秦王政に疎まれて燕に亡命してきた。丹がこれを匿う様子を見せたのに対して、鞠武は「樊於期を庇うことは『飢えた虎(秦)の目の前に肉を置く』ようなもの。樊於期を匈奴へと追放した上で、三晋及び斉・楚、匈奴と同盟を結んで対抗すべき」と再び献策したものの、丹は政の非情な政策により命を狙われ、家族までも殺されて、行く宛てもなく秦に追われながら逃げ続けていた樊於期の窮状に哀れみを感じ、この策を退けた。

鞠武から紹介を受けた田光に、丹は秦への対応策を相談したところ、田光より荊軻を頼るように助言を受けた。丹は帰り際、田光へ「今まで話した内容は他言無用」と語ったことに対し、荊軻へ丹からの用向きを伝えた田光は「田光は自害したので、もはや漏れることはない」と荊軻に言い残して自ら命を絶った。これを荊軻より聞いた丹は深く悲しんだ。

丹は、秦王政を暗殺するため荊軻を刺客として、荊軻の説得で自殺した樊於期の首と、秦に割譲すると偽った督亢の地図を持たせ、白い衣装と冠を着て易水の畔まで見送った上で、秦へと派遣した。しかし、荊軻は暗殺に失敗してその場で殺され、一連の事件に対して秦王は紀元前226年に事件の首謀者である丹を追討するために燕へと侵攻、首都薊が陥落した。燕王喜は一時遼東に逃れ、その後に丹を殺してその首を秦に差し出すことで許された。

并州兒 古しへの襄陽歌に「拳鞭問二蔦彊、何如幷州兒幷州」幽幷といつて幷称し、古來豪侠の人を産する處である。并州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『周礼』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、五岳の一である恒山を山鎮とするとしている。

 

少年負壯氣,奮烈自有時。

この貴公子は、若くてもっぱら壮気を恃み時としては、奮発して、随分生命をも捨てかねないというほどの勢いである。

 

因聲魯句踐,爭博勿相欺

そういうことで、逆に、魯勾践の様なものをも殴りつけ、博して道を争う時など、あまり自分だけ偉がって人を圧倒するなと言って一本決めつけるというものだ。

 ならすと蔑む外は兄い、ごなりつけろ。一本に撃とある、なぐりつける。

魯句踐 史記刺客列静にこ「魯勾撰、制御と博して、泣か等ふ。魯勾践、怒って之か叱す。剤封、猷して、逃れ去る。魯勾既、すでに

刑河の婁王和知すむ聞いて、私に日く、ああ惜いか雪その刺創り衝心講ぜざるや。甚し、菅が人を知らざるや。嚢に、菅、これも

叱す、彼、乃ち我を以て人に非すと発きむしとある。

相欺 欺は威圧する、圧倒する。後漢三国州図001

164 《巻05-11 少年子》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <164> Ⅰ李白詩1373 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5413

李白《巻05-11 少年子》 彼等は、富貴に任かせ、かかる事をして、自ら快よして居るので、古しへの伯夷叔齊が、義、周の粟を食はずして、首陽山に餓死せし清節などというものは、全く知ろうともしないし、思いも寄らぬ位である。遊侠は、如何に勇ましく見えても、節義といふことを知らぬば、何にもならぬ話で、こういうものには、夷齊の心事を一とおり説き聞かしてやりたいものである。

 

 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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164 《巻05-11 少年子》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <164> Ⅰ李白詩1373 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5413

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    少年子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              章臺 (京畿道 京兆府 長安)              

首陽山 (都畿道 河南府 偃師) 別名:西山     

 

 

少年子

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)

青雲年少子,挾彈章臺左。

年なお若き身分の高いことだけを貴ぶという貴公子たちは、豪侠であるのを第一の事とし、章華臺の左のあたりでたむろして、礫を飛ばしている。

鞍馬四邊開,突如流星過。

そこにむらがる鞍馬は、その威風になびいて、さっと四面に開いて路を明け、その貴公子は、騎馬で乗も過ぎて、さながら流星の過ぐるが如くである。

金丸落飛鳥,夜入瓊樓臥。

かくて、昼は金丸を以て飛鳥を打ち落しなどし、夜は家にも歸らずして、娼家に泊り込む。

夷齊是何人,獨守西山餓。

彼等は、富貴に任かせ、かかる事をして、自ら快よして居るので、古しへの伯夷叔齊が、義、周の粟を食はずして、首陽山に餓死せし清節などというものは、全く知ろうともしないし、思いも寄らぬ位である。遊侠は、如何に勇ましく見えても、節義といふことを知らぬば、何にもならぬ話で、こういうものには、夷齊の心事を一とおり説き聞かしてやりたいものである。

 

 (少年子)

青雲の少年子,彈を挾む 章臺の左。

鞍馬 四邊に開き,突として 流星の過ぐるが如し。

金丸 飛鳥を落し,夜は 瓊樓【けいろう】に入って臥す。

夷齊 是れ何人ぞ,獨り 西山の餓を守る。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

『少年子』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

青雲年少子,挾彈章臺左。

鞍馬四邊開,突如流星過。

金丸落飛鳥,夜入瓊樓臥。

夷齊是何人,獨守西山餓。

(下し文)
(少年子)

青雲の少年子,彈を挾む 章臺の左。

鞍馬 四邊に開き,突として 流星の過ぐるが如し。

金丸 飛鳥を落し,夜は 瓊樓【けいろう】に入って臥す。

夷齊 是れ何人ぞ,獨り 西山の餓を守る。

(現代語訳)
(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)

年なお若き身分の高いことだけを貴ぶという貴公子たちは、豪侠であるのを第一の事とし、章華臺の左のあたりでたむろして、礫を飛ばしている。

そこにむらがる鞍馬は、その威風になびいて、さっと四面に開いて路を明け、その貴公子は、騎馬で乗も過ぎて、さながら流星の過ぐるが如くである。

かくて、昼は金丸を以て飛鳥を打ち落しなどし、夜は家にも歸らずして、娼家に泊り込む。

彼等は、富貴に任かせ、かかる事をして、自ら快よして居るので、古しへの伯夷叔齊が、義、周の粟を食はずして、首陽山に餓死せし清節などというものは、全く知ろうともしないし、思いも寄らぬ位である。遊侠は、如何に勇ましく見えても、節義といふことを知らぬば、何にもならぬ話で、こういうものには、夷齊の心事を一とおり説き聞かしてやりたいものである。

扶風雍州長安003
(訳注)

少年子

(貴公子たちの遊侠の心意気を詠ったもの。)

少年子も、六朝時代から始まった楽府題で、少年の貴盛豪富を写したものである。

 

青雲年少子,挾彈章臺左。

年なお若き身分の高いことだけを貴ぶという貴公子たちは、豪侠であるのを第一の事とし、章華臺の左のあたりでたむろして、礫を飛ばしている。

青雲 身分の高いことを貴ぶことをいう。

挾彈 西京雜記「弾を好み、常に金を以て丸を為し、失うところのもの、日に十余あり」とある。弾は黄金製の小丸で、之を礫として鳥などを打ち落すのである。

章臺 史記楚世家に「霊王七年、章華臺を就す。」とある。臺中に美人を蓄えしに因り、後世娼家の所在地などを称している。

 

鞍馬四邊開,突如流星過。

そこにむらがる鞍馬は、その威風になびいて、さっと四面に開いて路を明け、その貴公子は、騎馬で乗も過ぎて、さながら流星の過ぐるが如くである。

流星過 うまの疾く走ること形容していう。

 

金丸落飛鳥,夜入瓊樓臥。

かくて、昼は金丸を以て飛鳥を打ち落しなどし、夜は家にも歸らずして、娼家に泊り込む。

瓊樓 娼家をさす。

 

夷齊是何人,獨守西山餓。

彼等は、富貴に任かせ、かかる事をして、自ら快よして居るので、古しへの伯夷叔齊が、義、周の粟を食はずして、首陽山に餓死せし清節などというものは、全く知ろうともしないし、思いも寄らぬ位である。遊侠は、如何に勇ましく見えても、節義といふことを知らぬば、何にもならぬ話で、こういうものには、夷齊の心事を一とおり説き聞かしてやりたいものである。

夷齊 伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のこと。古代中国・代末期の孤竹国(現在地不明、一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟である。高名な隠者で、儒教では聖人とされる。伯夷が長男、叔斉は三男である。父親から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に王位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国王不在で困った国人は次男を王に立てた。

西山 首陽山、史記伯夷傳に「首陽山に陰れ、薇を採って之を食い、餓えて且に死せんとするに及びて歌を作る」とある。

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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    白馬篇

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              故函谷關 (都畿道 陜州 故函谷關) 別名:秦關             

臨洮軍 (隴右道東部 鄯州 臨洮軍) 別名:臨洮            

 

白馬篇

(長安郊外五陵の遊侠の少年が、従軍し、帰ってきて得意満面であることを詠う。)

龍馬花雪毛,金鞍五陵豪。

八尺の高さもある名馬にして、毛なみは鼻白で雪の如く、それに金鞍を置いて、ゆたかに乗り廻はるのは、五陵の遊侠少年である。

秋霜切玉劍,落日明珠袍。

腰には、色は秋霜の如く、切晩は玉をも泥の如く切るといふ名刀を佩び、明珠をちりばめた袍を着おろし、それが夕日に映すれば一層、きらきらしく見える。

鬥雞事萬乘,軒蓋一何高。

彼は、幼い時、闘鶏の技を以て万乗の天子に奉公し、見事な馬車に乗って、都大路を乗りまわしたともある。

弓摧南山虎,手接太行猱。

それから年を取るにしたがって後は、箭を放って南山の虎を射殺し、又太行山脈に棲む大猿をも手で生け捕りにした位、力もあるし、弓馬にも精通している。
酒後競風采,三杯弄寶刀。

そこで、酒後には酔ったいきおいにまぎれて、たがいに風采を競い、争論の揚げ句には、宝刀を撚ねくり廻して、果し合も成し兼ねまじき権幕である。
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殺人如剪草,劇孟同遊遨。

又人を殺すとなれば、草を薙ぐと同様で、なんの造作もなく、平生は劇孟の様な剣客と交際して、しきりに、男を売っている。

發憤去函谷,從軍向臨洮。

しかし、この少年は一朝志を立てて、何か一つ国家のために尽くそうというので、憤然として函谷関より去り、従軍して臨洮に至り、辺庭の警に任じたたのである。

叱吒經百戰,匈奴盡奔逃。

毎毎叱咤して勇ましく立ちまわり、度度の合戦におくれを取らず、遂に匈奴を朔漠の外に追いまくって仕舞った。

歸來使酒氣,未肯拜蕭曹。

かくて、長安に凱旋すると相変わらず酒を飲むのをほしいままにし、その元気凄まじく、漢初の蕭何と曹参の如き宰相に逢っても、拜を爲さず、

羞入原憲室,荒徑隱蓬蒿。

さりとて、原憲のごとき貧儒が荒徑深きところ、蓬嵩に隠れるのを見ては、これを訪問するのを愧じとし、何処へ行っても、気ままに威張り散らしている。

 

(白馬篇)

龍馬 花雪の毛,金鞍 五陵の豪。

秋霜 切玉の劍,落日 明珠の袍。

鬥雞 萬乘に事【つか】え,軒蓋 一に何ぞ高からん。

弓は南山の虎を摧き,手は太行の猱【どう】に接す。

酒後 風采を競い,三杯 寶刀を弄す。

#2

人を殺すこと草を剪るが如く,劇孟 同じく遊遨【ゆうごうたり】。

憤を發して函谷を去り,軍に從って臨洮【りんとう】に向う。

叱吒 百戰を經て,匈奴 盡く奔逃す。

歸り來って酒氣を使い,未だ肯えて蕭曹を拜せず。

 

yoshu&choan736 

『白馬篇』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

殺人如剪草,劇孟同遊遨。

發憤去函谷,從軍向臨洮。

叱吒經百戰,匈奴盡奔逃。

歸來使酒氣,未肯拜蕭曹。

羞入原憲室,荒徑隱蓬蒿。



(下し文)
人を殺すこと草を剪るが如く,劇孟 同じく遊遨【ゆうごうたり】。

憤を發して函谷を去り,軍に從って臨洮【りんとう】に向う。

叱吒 百戰を經て,匈奴 盡く奔逃す。

歸り來って酒氣を使い,未だ肯えて蕭曹を拜せず。

(現代語訳)
又人を殺すとなれば、草を薙ぐと同様で、なんの造作もなく、平生は劇孟の様な剣客と交際して、しきりに、男を売っている。

しかし、この少年は一朝志を立てて、何か一つ国家のために尽くそうというので、憤然として函谷関より去り、従軍して臨洮に至り、辺庭の警に任じたのである。

毎毎叱咤して勇ましく立ちまわり、度度の合戦におくれを取らず、遂に匈奴を朔漠の外に追いまくって仕舞った。

かくて、長安に凱旋すると相変わらず酒を飲むのをほしいままにし、その元気凄まじく、漢初の蕭何と曹参の如き宰相に逢っても、拜を爲さず、

さりとて、原憲のごとき貧儒が荒徑深きところ、蓬嵩に隠れるのを見ては、これを訪問するのを愧じとし、何処へ行っても、気ままに威張り散らしている。


華州から秦州同谷成都00
(訳注)

白馬篇 #2

(長安郊外五陵の遊侠の少年が、従軍し、帰ってきて得意満面であることを詠う。)

 

殺人如剪草,劇孟同遊遨。

又人を殺すとなれば、草を薙ぐと同様で、なんの造作もなく、平生は劇孟の様な剣客と交際して、しきりに、男を売っている。

劇孟 漢の景帝三年(紀元前154年)、呉楚等七国が反乱を起したとき、景帝は大将軍の竇嬰、太尉の周亞夫を派遣して鎮圧させた。周亞夫は東方にむかい河南に至ろうとしたとき、当時の有名な侠客であった劇孟を味方に得た。東天は喜んで言った。「呉や楚は天下を争うような大事を企てながら、劇孟を求めない。わたしは、かれらが何もできないことを知るだけだ。」「漢書」に見える話であるが、強大であった呉楚の分断作戦と補給路を断つことで戦意を失わせ、内部分解させた。李白《0204梁甫吟》「齊相殺之費二桃。楚弄兵無劇孟。

梁甫吟 #4 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -298

 

發憤去函谷,從軍向臨洮。

しかし、この少年は一朝志を立てて、何か一つ国家のために尽くそうというので、憤然として函谷関より去り、従軍して臨洮に至り、辺庭の警に任じたのである。

函谷 函谷関。戦国時代(紀元前361年)、秦の孝公が東方からの侵入を防ぐため、王都・櫟陽(やくよう、後の咸陽・長安郊外、現在の西安市域に含まれる)の東、渭河と合流する黄河の最後の大屈曲、潼関から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地(北緯343819.23秒東経1105516.59秒、現在の三門峡・霊宝市函谷関鎮)に作られた。3層の楼閣2棟があったという。

老子が西方に向かう途中、この関で関守に請われて、5000字に及ぶ上下二巻の書『道徳経』を著したといわれる。戦国四君のひとり、斉の孟嘗君が秦の昭襄王の討手から逃れた鶏鳴狗盗の故事でも知られる。

臨洮 秦代におかれた県名で,万里の長城の西の起点。現在の甘粛省岷(びん)県。

 

叱吒經百戰,匈奴盡奔逃。

毎毎叱咤して勇ましく立ちまわり、度度の合戦におくれを取らず、遂に匈奴を朔漠の外に追いまくって仕舞った。

匈奴 秦・漢代,モンゴル高原に活躍した遊牧騎馬民族。紀元前三世紀の末,冒頓単于(ぼくとつぜんう)が諸部族を統一して北アジア最初の遊牧国家を建設,最盛期を迎えたが,漢の武帝のたびたびの征討で衰えた。

 

歸來使酒氣,未肯拜蕭曹。

かくて、長安に凱旋すると相変わらず酒を飲むのをほしいままにし、その元気凄まじく、漢初の蕭何と曹参の如き宰相に逢っても、拜を爲さず、

蕭曹 漢初の蕭何と曹参の如き宰相。 蕭 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑の一人。劉邦と同じく沛県の出身で、若い頃からそこで役人をしていた。下役人であったがその仕事ぶりは真面目で能率がよく、評価されていたという。なお曹参はこの時の部下にあたる。

曹参:前漢の相国。生年不詳-190年。 もともとは沛県の獄吏であったが、同じく沛県で役人をしていた劉邦の挙兵に従がって各地を転戦し、後に蕭何の跡を継いで臣下として最高位である相国となった。 曹参は黄老の学を重んじ、無為自然を旨としたとされる。 人民はその治世を称え、賢相として崇めたという。

史記の曹相国世家にその伝がある。

 

羞入原憲室,荒徑隱蓬蒿。

さりとて、原憲のごとき貧儒が荒徑深きところ、蓬嵩に隠れるのを見ては、これを訪問するのを愧じとし、何処へ行っても、気ままに威張り散らしている。

原憲 原 憲(げん けん、生没年未詳)は中国・春秋時代の儒学者である。孔子の弟子の一人。孔子の門人で才能があった七十子の一人に数えられる。魯・宋・斉の人と伝わる。孔子より約30歳から約6歳若いとされる。名は憲。字は子思(しし)。『論語』で有名な中国春秋時代の儒学者である孔子の弟子となり、賞賛を受けたが物静かであったと伝わる。前479年に孔子が没し、その後は儒学者として第一線を退き、魏に隠居する事となった。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 

 

 

曹植《白馬篇》

白馬には黄金のおもがいを飾り、馬を連ねての早く軽やかにかけ、西北の戦地をめざして疾駆する。
あの勇士の若者はどこの家のものかと問うてみた、勇士の名門の幽州、幷州出身の遊侠のものだという。
小さいころに郷里を離れたものであり、年若くして辺境の砂漠においてその名をあげているという。
彼はその昔、良弓を手に、箙にさした矢が取りやすくして背にさしたという。

 

弦をひけば、まず、左のぶら下がっているまとを破り、右に矢を放てば、月支の板のまとをくだいた。
また手を高くあげて合図して、飛び上がっている猿を迎え射ち、身を低くして、馬蹄のまとをコナゴナにした。
(紙の「左的」,板の「月支」、飛び上がっている「猿」、
ロープの「馬蹄」ここまで次第に難しくなる4つの的をことごとく射抜いた。)
その敏捷さたるや、猴、猿をもはるかにしのぎ、勇敢であり俊敏・軽快なることは、まるで豹かミズチかと見紛うばかりである。
国境の城塞では非常事態がしばしばおこるものであるが、それは、遊牧の異民族どもが不意に移動してくるに対処するためである。
兵を緊急召集する文書が北からくると、さんざん馬にむちうち、敵兵を食い止めるための防塁のところまで駆けつけるのである。

 

長駆して匈奴の軍を踏みくだき、左にかえして鮮卑の兵を踏みしだいてやる。
この身を鋒や兵刃のあいだにすてさるのは覚悟していることである。善悪・道徳・生命など、どうしておしいとおもうものか。
そして、父母さえ顧みないのである。ましてや、なんで子や妻のことを口にしようものか。
名前が勇士の名簿につらねているからには、心中に私事を思うべきではないのである。
また身命をなげうって、国難におもむく上のことである。戦死ということに見合われた時には「帰るべきところに帰ることになるだけだ」(帰る時は死ぬ時だけだ)と考えている。

 

曹植《白馬篇》
白馬飾金羈,連翩西北馳。
借問誰家子?幽幷遊俠兒。
少小去
邑,揚名沙漠垂。
宿昔秉良弓,楛矢何參差。
#2
控弦破左的,右發摧月支。
仰手接飛猱,俯身散馬蹄。
狡捷過猴猿,勇剽若豹螭。
邊城多驚急,虜騎數遷移。
羽檄從北來,厲馬登高堤。
#3
長驅蹈匈奴,左顧陵鮮卑。
棄身鋒刃端,性命安可懷。
父母且不顧,何言子與妻。
名在壯士籍,不得中顧私。
捐軀赴國難,視死忽如歸。

 

白馬篇

白馬 金羈を飾り、連翩として西北に翩す。

借問す 誰が家の子ぞ、幽幷の遊侠児。

少小にして郷邑を去り、声を沙漠の垂に揚ぐ。

宿昔 良弓を秉り、楛矢 何んぞ参差たる。

 

#2

弦を控きて左的を破り、右に発して月支を摧く。

手を仰げて飛猱を接ち、身を俯して馬蹄を散ず。

狡捷なる 猴猿に過ぎ、勇別なる 豹螭の若し。

邊城 驚急多く,虜騎 數ば遷移す。

羽檄 北從り來り,馬を厲まして高堤に登る。

#3

長驅して匈奴を蹈み,左顧して鮮卑を陵がん。

身を鋒刃の端に棄つ,性命 安んぞ懷う可けん。

父母すら且つ顧みず,何んぞ子と妻に言わん。

名は壯士の籍に在り,中に私を顧みるを得ず。

軀を捐てて國難に赴むく,死を視ること忽ち歸するが如し。

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 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
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163 《巻04-05 白馬篇》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <163> Ⅰ李白詩1359 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5343

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    白馬篇

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              故函谷關 (都畿道 陜州 故函谷關) 別名:秦關             

臨洮軍 (隴右道東部 鄯州 臨洮軍) 別名:臨洮            

 

白馬篇

(長安郊外五陵の遊侠の少年が、従軍し、帰ってきて得意満面であることを詠う。)

龍馬花雪毛,金鞍五陵豪。

八尺の高さもある名馬にして、毛なみは鼻白で雪の如く、それに金鞍を置いて、ゆたかに乗り廻はるのは、五陵の遊侠少年である。

秋霜切玉劍,落日明珠袍。

腰には、色は秋霜の如く、切晩は玉をも泥の如く切るといふ名刀を佩び、明珠をちりばめた袍を着おろし、それが夕日に映すれば一層、きらきらしく見える。

鬥雞事萬乘,軒蓋一何高。

彼は、幼い時、闘鶏の技を以て万乗の天子に奉公し、見事な馬車に乗って、都大路を乗りまわしたともある。

弓摧南山虎,手接太行猱。

それから年を取るにしたがって後は、箭を放って南山の虎を射殺し、又太行山脈に棲む大猿をも手で生け捕りにした位、力もあるし、弓馬にも精通している。酒後競風采,三杯弄寶刀。

そこで、酒後には酔ったいきおいにまぎれて、たがいに風采を競い、争論の揚げ句には、宝刀を撚ねくり廻して、果し合も成し兼ねまじき権幕である。
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殺人如剪草,劇孟同遊遨。

發憤去函谷,從軍向臨洮。

叱吒經百戰,匈奴盡奔逃。

歸來使酒氣,未肯拜蕭曹。

羞入原憲室,荒徑隱蓬蒿。

 

(白馬篇)

龍馬 花雪の毛,金鞍 五陵の豪。

秋霜 切玉の劍,落日 明珠の袍。

鬥雞 萬乘に事【つか】え,軒蓋 一に何ぞ高からん。

弓は南山の虎を摧き,手は太行の猱【どう】に接す。

酒後 風采を競い,三杯 寶刀を弄す。

 

人を殺すこと草を剪るが如く,劇孟 同じく遊遨【ゆうごうたり】。

憤を發して函谷を去り,軍に從って臨洮【りんとう】に向う。

叱吒 百戰を經て,匈奴 盡く奔逃す。

歸り來って酒氣を使い,未だ肯えて蕭曹を拜せず。

羞ず 原憲の室に入って,荒徑 蓬蒿に隱るるを。

 

 

(含異文)

龍馬花雪毛,金鞍五陵豪。秋霜切玉劍,落日明珠袍。

鬥雞事萬乘,軒蓋一何高。弓摧南山虎,手接太行猱。

酒後競風采,三杯弄寶刀。殺人如剪草,劇孟同遊遨。

發憤去函谷,從軍向臨洮。叱吒經百戰【叱吒萬戰場】,匈奴盡奔逃【匈奴盡波濤】。

歸來使酒氣,未肯拜蕭曹【未肯下蕭曹】。羞入原憲室,荒徑隱蓬蒿【荒淫隱蓬蒿】。

 

 

『白馬篇』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

白馬篇

龍馬花雪毛,金鞍五陵豪。

秋霜切玉劍,落日明珠袍。

鬥雞事萬乘,軒蓋一何高。

弓摧南山虎,手接太行猱。

酒後競風采,三杯弄寶刀。


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(下し文)
(白馬篇)

龍馬 花雪の毛,金鞍 五陵の豪。

秋霜 切玉の劍,落日 明珠の袍。

鬥雞 萬乘に事【つか】え,軒蓋 一に何ぞ高からん。

弓は南山の虎を摧き,手は太行の猱【どう】に接す。

酒後 風采を競い,三杯 寶刀を弄す。

(現代語訳)
(長安郊外五陵の遊侠の少年が、従軍し、帰ってきて得意満面であることを詠う。)

八尺の高さもある名馬にして、毛なみは鼻白で雪の如く、それに金鞍を置いて、ゆたかに乗り廻はるのは、五陵の遊侠少年である。

腰には、色は秋霜の如く、切晩は玉をも泥の如く切るといふ名刀を佩び、明珠をちりばめた袍を着おろし、それが夕日に映すれば一層、きらきらしく見える。

彼は、幼い時、闘鶏の技を以て万乗の天子に奉公し、見事な馬車に乗って、都大路を乗りまわしたともある。

それから年を取るにしたがって後は、箭を放って南山の虎を射殺し、又太行山脈に棲む大猿をも手で生け捕りにした位、力もあるし、弓馬にも精通している。

そこで、酒後には酔ったいきおいにまぎれて、たがいに風采を競い、争論の揚げ句には、宝刀を撚ねくり廻して、果し合も成し兼ねまじき権幕である。

(訳注)

白馬篇

(長安郊外五陵の遊侠の少年が、従軍し、帰ってきて得意満面であることを詠う。)

 

龍馬花雪毛,金鞍五陵豪。

八尺の高さもある名馬にして、毛なみは鼻白で雪の如く、それに金鞍を置いて、ゆたかに乗り廻はるのは、五陵の遊侠少年である。

龍馬 馬の神聖なものは龍となるから、名馬を龍馬という。また、馬の八尺以上のものをいう。

花雪毛 雪のように白毛のうま。

五陵豪 五陵は、漢の高祖の長陵、恵帝の安陵、景帝の陽陵、武帝の茂陵、昭帝の平陵を合称す。五陵の間は、義侠少年の入るところ。

 

秋霜切玉劍,落日明珠袍。

腰には、色は秋霜の如く、切晩は玉をも泥の如く切るといふ名刀を佩び、明珠をちりばめた袍を着おろし、それが夕日に映すれば一層、きらきらしく見える。

秋霜 淮南子に「宝剣の色、秋霜の如し」とある。

切玉剣 列子「錕鋙の剣.玉を切ること、泥を切るが如し。」とある。

 

鬥雞事萬乘,軒蓋一何高。

彼は、幼い時、闘鶏の技を以て万乗の天子に奉公し、見事な馬車に乗って、都大路を乗りまわしたともある。

鬥雞 闘鶏賭博のこと。雄鶏をたたかわせる競技。起源は古く,古代中国,インド,ペルシア,ギリシア,ローマなどですでに流行しており,それらが世界各地に伝わって賭博の対象として広く行われるようになった。雞:農耕の開始とともに家禽(かきん)として飼養されるようになり,用途に応じた改良がなされ,多くの品種が生じた。

軒蓋 車と車蓋。

 

弓摧南山虎,手接太行猱。

それから年を取るにしたがって後は、箭を放って南山の虎を射殺し、又太行山脈に棲む大猿をも手で生け捕りにした位、力もあるし、弓馬にも精通している。

南山虎 晉書に「南山白額の猛獣、患を為す。周處、山に入って猛獣を射殺す」とある。

太行猱 太行は大江山脈の山名、猱は猿の一種。

 

酒後競風采,三杯弄寶刀。

そこで、酒後には酔ったいきおいにまぎれて、たがいに風采を競い、争論の揚げ句には、宝刀を撚ねくり廻して、果し合も成し兼ねまじき権幕である。






曹植《白馬篇》

白馬には黄金のおもがいを飾り、馬を連ねての早く軽やかにかけ、西北の戦地をめざして疾駆する。
あの勇士の若者はどこの家のものかと問うてみた、勇士の名門の幽州、幷州出身の遊侠のものだという。
小さいころに郷里を離れたものであり、年若くして辺境の砂漠においてその名をあげているという。
彼はその昔、良弓を手に、箙にさした矢が取りやすくして背にさしたという。

 

弦をひけば、まず、左のぶら下がっているまとを破り、右に矢を放てば、月支の板のまとをくだいた。
また手を高くあげて合図して、飛び上がっている猿を迎え射ち、身を低くして、馬蹄のまとをコナゴナにした。
(紙の「左的」,板の「月支」、飛び上がっている「猿」、
ロープの「馬蹄」ここまで次第に難しくなる4つの的をことごとく射抜いた。)
その敏捷さたるや、猴、猿をもはるかにしのぎ、勇敢であり俊敏・軽快なることは、まるで豹かミズチかと見紛うばかりである。
国境の城塞では非常事態がしばしばおこるものであるが、それは、遊牧の異民族どもが不意に移動してくるに対処するためである。
兵を緊急召集する文書が北からくると、さんざん馬にむちうち、敵兵を食い止めるための防塁のところまで駆けつけるのである。

 

長駆して匈奴の軍を踏みくだき、左にかえして鮮卑の兵を踏みしだいてやる。
この身を鋒や兵刃のあいだにすてさるのは覚悟していることである。善悪・道徳・生命など、どうしておしいとおもうものか。
そして、父母さえ顧みないのである。ましてや、なんで子や妻のことを口にしようものか。
名前が勇士の名簿につらねているからには、心中に私事を思うべきではないのである。
また身命をなげうって、国難におもむく上のことである。戦死ということに見合われた時には「帰るべきところに帰ることになるだけだ」(帰る時は死ぬ時だけだ)と考えている。

 

曹植《白馬篇》
白馬飾金羈,連翩西北馳。
借問誰家子?幽幷遊俠兒。
少小去
邑,揚名沙漠垂。
宿昔秉良弓,楛矢何參差。
#2
控弦破左的,右發摧月支。
仰手接飛猱,俯身散馬蹄。
狡捷過猴猿,勇剽若豹螭。
邊城多驚急,虜騎數遷移。
羽檄從北來,厲馬登高堤。
#3
長驅蹈匈奴,左顧陵鮮卑。
棄身鋒刃端,性命安可懷。
父母且不顧,何言子與妻。
名在壯士籍,不得中顧私。
捐軀赴國難,視死忽如歸。

 

白馬篇

白馬 金羈を飾り、連翩として西北に翩す。

借問す 誰が家の子ぞ、幽幷の遊侠児。

少小にして郷邑を去り、声を沙漠の垂に揚ぐ。

宿昔 良弓を秉り、楛矢 何んぞ参差たる。

#2

弦を控きて左的を破り、右に発して月支を摧く。

手を仰げて飛猱を接ち、身を俯して馬蹄を散ず。

狡捷なる 猴猿に過ぎ、勇別なる 豹螭の若し。

邊城 驚急多く,虜騎 數ば遷移す。

羽檄 北從り來り,馬を厲まして高堤に登る。

#3

長驅して匈奴を蹈み,左顧して鮮卑を陵がん。

身を鋒刃の端に棄つ,性命 安んぞ懷う可けん。

父母すら且つ顧みず,何んぞ子と妻に言わん。

名は壯士の籍に在り,中に私を顧みるを得ず。

軀を捐てて國難に赴むく,死を視ること忽ち歸するが如し。

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李白《巻03-24 結襪子》 (古の壮士輩は一度恩義の重きに感ずれば、死を賭して報いると恩義の重さを詠う)

 

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    結襪子

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              蘇州 (江南東道 蘇州 蘇州) 別名:郡、             

泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

 

 

結襪子

(古の壮士輩は一度恩義の重きに感ずれば、死を賭して報いると恩義の重さを詠う)

燕南壯士門豪,筑中置鉛魚隱刀。

燕南の壮士高潮離は、筑中に鉛を置き、始皇帝に近づいて、これを打付けたが、不幸にして中らず、その爲に、誅せられて仕舞った。彼は、荊軻の知に報いんが為に、こんな事をしたのである。次に、呉門の豪士専諾は、炙った魚の中にヒ首を隠し、やがて王僚に近づくや、そのヒ首を以て王僚を刺殺し、自分も、その場で殺されてしまった。彼は、公子光の知遇に感じて、ここに及んだのである。

感君恩重許君命,太山一擲輕鴻毛。

かくの如く、古しえの壮士輩は一たび恩義の重きに感ずれば、死を許して、いかなる事でもするので、死は、平生重きこと泰山の如くであるが、この場合には、鴻毛よりも軽いのである。

 

(結襪子【けつべつし】)

燕南の壯士 門の豪,筑中には鉛を置き魚には刀を隱す。

君が恩の重きに感じて君に命を許し,太山一擲 鴻毛より輕し。

 

 

『結襪子』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

結襪子

燕南壯士門豪,筑中置鉛魚隱刀。

感君恩重許君命,太山一擲輕鴻毛。


(下し文)
(結襪子【けつべつし】)

燕南の壯士 門の豪,筑中には鉛を置き魚には刀を隱す。

君が恩の重きに感じて君に命を許し,太山一擲 鴻毛より輕し。

(現代語訳)


(訳注)

結襪子

(古の壮士輩は一度恩義の重きに感ずれば、死を賭して報いると恩義の重さを詠う)

詩の前半に於ては、高漸離と専諾との事を分叙し、後半に於て之を収束したので、章法すこぶる緊密、そして、一誦すれば胸の透く程に痛快な詩である。

襪【しとうず】絹や錦の2枚の足形の布を縫い合わせてつくられた靴下(イラスト)。足袋のような底やこはぜはなく,上方につけた2本の紐で結び合わせる。奈良~平安時代の礼服(らいふく),朝服などに各種の沓(くつ)とともに用いられた。中国唐代の襪(べつ)が伝わり,これをシタクツと呼び,さらにシタグツ(下沓)の音便でシタウズからシトウズとなった。《和名類聚抄》には〈襪,和名之太久豆足衣也〉とある。襪は錦,綾,絁(あしぎぬ),布()を表地に,白絁,生絁を裏地に多く用いた。

 

燕南壯士門豪,筑中置鉛魚隱刀。

燕南の壮士高潮離は、筑中に鉛を置き、始皇帝に近づいて、これを打付けたが、不幸にして中らず、その爲に、誅せられて仕舞った。彼は、荊軻の知に報いんが為に、こんな事をしたのである。次に、呉門の豪士専諾は、炙った魚の中にヒ首を隠し、やがて王僚に近づくや、そのヒ首を以て王僚を刺殺し、自分も、その場で殺されてしまった。彼は、公子光の知遇に感じて、ここに及んだのである。

○高漸離

史記 列傳 卷八十六 刺客列傳第二十六  荊軻

於是秦逐太子丹・荊軻之客 皆亡 高漸離變名姓爲人庸保 匿作於宋子 久之 作苦 聞其家堂上客擊筑 傍偟不能去 毎出言曰 彼有善有不善 從者以告其主 曰 彼庸乃知音 竊言是非 家丈人召使前擊筑 一坐稱善 賜酒 而高漸離念久隱畏約無窮時 乃退 出其裝匣中筑與其善衣 更容貌而前 舉坐客皆驚 下與抗禮 以爲上客 使擊筑而歌 客無不流涕而去者 宋子傳客之 聞於秦始皇 秦始皇召見 人有識者 乃曰 高漸離也 秦皇帝惜其善擊筑 重赦之 乃其目 使擊筑 未嘗不稱善 稍益近之 高漸離乃以鉛置筑中 復進得近 舉筑朴秦皇帝 不中 於是遂誅高漸離 終身不復近諸侯之人。

ここに秦は太子丹・荊軻の客を逐(お)う。 皆亡(に)ぐ。 高漸離(こうざんり/前出。荊軻と親しかった筑の名人)は名姓を變じ人の庸保(ようほ/雇われ人)と爲り、匿(かく)れて宋子(そうし/地名)に作(さく)す。 これ久しくして、作すること苦し。 その家の堂上に客の筑を擊つを聞き、傍(かたわら)を偟(さまよ)い去ること能(あた)わず。 毎(つね)に言を出だして曰く、「彼は善(よ)き有り、善(よ)からず有り」と。 從者、以ってその主に告げて曰く、「彼(か)の庸(よう/雇い人)は乃ち音を知り、竊(ひそか)に是非を言う」と。 家の丈人(じょうじん/その家の老いた主人)、召し前に筑を擊たしむ。 一坐、善しと稱し酒を賜う。 而して高漸離、久しく隱れ畏約(いやく/人目をさけてかくれる)すること窮まる時の無きを念う。 乃ち退(しりぞ)き、その裝匣(そうこう/荷物いれ)の中の筑とその善衣(ぜんい/立派な着物)を出し、容貌を更めて前(すす)む。 坐の客は舉(あ)げて皆驚く。 下りて抗禮(こうれい/礼を争う、すなわち上座・下座の席順をゆずりあうこと)し、以って上客と爲す。 筑を擊ちて歌わしむるに、客の流涕せずして去る者無し。 宋子、傳えてこれを客とす。 秦の始皇に聞こゆ。 秦の始皇、召して見(まみ)ゆるに、人の識る者有り。 乃ち曰く、「高漸離なり」と。 秦の皇帝、その善く筑を擊つを惜しみ、重んじてこれを赦(ゆる)し、乃ちその目を(かく/目をつぶして盲目とする)す。 筑を擊たしめ、未だ嘗て善と稱(い)わざることなし。 稍(ようやく)益(ますます)これを近づく。 高漸離、乃ち鉛を以って筑の中に置き、また進みて近づくを得、筑を舉(あ)げて秦の皇帝を朴(う)つ。 中(あた)らず。 ここに遂に高漸離を誅し、終身また諸侯の人を近づけず。

韓愈『送董卲南序』「為我弔望諸君之墓,而觀於其市,復有昔時屠狗者乎?」

31-#2 《讀巻04-15-#2 送董卲南序》韓愈(韓退之)ID 795年貞元11年 28歳<1278 Ⅱ唐宋八大家文読本 巻三 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5374

為我弔望諸君之墓,而觀於其市,

どうか私のために、燕将望諸君(楽毅)の墓を弔って、その町の市場を見てほしい。

○望諸君 燕の名将楽毅・荊軻。『史記』に「毅燕の恵王の善く昭王に代らざるを知り、誅を畏れて遂に趙に降れり。趙困って封じて望諸君と為せり」とある。燕の昭王を助けて斉を伐って大勝したが、昭王の死後題に仕えた。管仲・楽毅と並び称される。

楽毅・荊軻らは憂色濃く深い者、悲憤の人士者とされる。楽毅は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。荊軻は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。

復有昔時屠狗者乎?

そこに昔の戦国の荊軻と燕の市に飲んだくれた犬殺しの高漸離のような人物がいるだろうか。

○屠狗者 荊軻と酒を飲んだ者。『史記』に「狗を居(招)るもの高漸離と云ふものあり、荊軻酒を嗜み、日々屠狗者高漸難と燕の市に飲み、酒酣(たけなわ)にして往いて市中に歌ひ、己にして相泣き、旁人無きが如し」と。感慨志を得なかった人士である。

為我謝曰:「明天子在上,可以出而仕矣!」

もしいたら、私のためにこう挨拶をしていってくれ、「今の唐の世には、明徳の天子が上におられるから、出て朝廷に仕えることができる。」ということだ。

○謝 辞を告げる。挨拶する。

 

門豪 史記「伍子胥知公子光之欲殺王僚。乃進專諸於公子光。

伍子胥、公子光の臭王際を殺さむとするを知り、乃ち専諾を公子光に進む。光、甲士を窟室中に伏せ、而して、酒を具へて王僚を請ふ。酒すでに酣なるとき、公子光、佯って足疾と爲して、窟室中に入り、専諾をしてヒ首を魚灸の腹中に置いて、これを進めしむ。すでに王の前に至るや、専諾、魚を擘さ、因って、ヒ首を以て王僚を刺す。王僚、立どころに死す、左右亦た専諾を殺す」とある。

筑中 筑に、状、琴に似て大頭、絃を安んじ、竹を以て之な撃つのである。

太山一擲輕鴻毛 漢書に「司馬遷日く、人もとより一死あり、死.太山より重きあり、或は鴻毛よりも軽さあり。これ私用ふるに、趣くところ異なればなり」とある。

 

感君恩重許君命,太山一擲輕鴻毛。

かくの如く、古しえの壮士輩は一たび恩義の重きに感ずれば、死を許して、いかなる事でもするので、死は、平生重きこと泰山の如くであるが、この場合には、鴻毛よりも軽いのである。

161 《巻03-16 相逢行》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <161> Ⅰ李白詩1357 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5333

李白《巻03-16 相逢行》軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

 

 
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161 《巻03-16 相逢行》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <161> Ⅰ李白詩1357 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5333

 

 

年:       開元十九年

寫作時間:           731

寫作年紀:           31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

相逢行

(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

相逢紅塵高揖黃金鞭。

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

垂楊裡,君家阿那邊。

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

 

(相い逢うの行)

相い逢う 紅塵の,高く揖す 黃金の鞭。

 垂楊の裡,君が家は阿那の邊。

 

 

『相逢行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

相逢行

相逢紅塵高揖黃金鞭。

垂楊裡,君家阿那邊。


(下し文)


(現代語訳)
(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。


(訳注)

相逢行

相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、その古詞は、漢人の作に係り、一寸長いが、李白の此作は、王昭君の詩と同じく、あっさりと片付けたところに、一種の妙趣がある。この詩は乾隆帝が激賞している有名な詩である。

李白の詩は、以下の《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。

齊国の少年輩が、遊猟の歸途、互に相逢うて、馬が良いとか、乗りっ振りが善いとかいつて、褒め合ふことを述べている。

詩経 齊風 

子之還兮 遭我乎峱之閒兮。

並驅從兩肩兮、揖我謂我儇兮。

子の還たる 我に峱【どう】の閒に遭ふ。

竝【なら】び驅せて兩肩を從【お】ふ 我をして揖【ゆう】して我を儇【けん】と謂ふ。

 

子之茂兮 遭我乎峱之道兮

竝驅從兩牡兮 揖我謂我好兮

子の茂【ばう】なる 我に峱の道に遭ふ。

竝びて驅せて兩牡【りやうぼ】を從ふ 我を揖して我を好【よし】と謂ふ。

 

子之昌兮 遭我乎峱之陽兮

竝驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮

子の昌なる 我に峱【どう】の陽に遭ふ。

竝びて驅りて兩狼を從【お】う 我を揖して我を臧【よし】と謂ふ

 

相逢紅塵高揖黃金鞭。

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

 

垂楊裡,君家阿那邊。

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

160-#2 《巻03-10 幽澗泉 #2》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <160-#2> Ⅰ李白詩1368 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5388

李白《巻03-10 幽澗泉 #2》 曲に古今の別あることを知っているのでもないが、ただ指に任せて、かくのごとき声を写し、これによって、かくのごとき情を発するのである。それが自然に人の心を動かし、幽澗の泉が深林に鳴るかの如き思いを持って聞かれるのであって、琴の妙趣は、もとより限なきものである。

 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    幽澗泉

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

拂彼白石,彈吾素琴。

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

 

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

乃緝商綴羽,潺湲成音。

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

幽澗泉,鳴深林。

 

(幽澗の泉)

彼の白石を拂い,吾が素琴を彈ず。

幽澗 愀として 流泉深し,善手 明徽 高く張って清くす。

心 寂歷として千古に似たり,松 颼【しつりゅう】として萬尋なるに。

中に見る 愁猿の影を弔うて危處し,秋木に叫んで 長吟するを。

 

客に 時を哀み 職を失って 聽く者有り,淚 淋浪 以て襟を霑す。

乃ち商を緝し 羽を綴り,潺湲【せんかん】音を成す。

吾 但だ聲を寫し 發情を妙指し,殊に此の曲の古今を知らず。

幽澗の泉,深林に鳴る。

 

(含異文)

拂彼白石,彈吾素琴。幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。心寂歷似千古,松颼兮萬尋。中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。客有哀時失職而聽者【客有哀時失志而聽者】,淚淋浪以霑襟。乃緝商綴羽,潺湲成音。吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。幽澗泉,鳴深林。

 

花蕊夫人002 

『幽澗泉』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

乃緝商綴羽,潺湲成音。

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

幽澗泉,鳴深林。

(下し文)
客に 時を哀み 職を失って 聽く者有り,淚 淋浪 以て襟を霑す。

乃ち商を緝し 羽を綴り,潺湲【せんかん】音を成す。

吾 但だ聲を寫し 發情を妙指し,殊に此の曲の古今を知らず。

幽澗の泉,深林に鳴る。

(現代語訳)
時を哀み、職を失し、物憂きままに、これを聞いている客があって、覚えず、涙淋狼として、襟をうるおすのである。

これまでは、琴を弾くものが、商の調子でやって居たが、急に変じて羽の調子にすると、又、元の幽潤の泉のような潺湲たる音に立ち戻り、それで、また循環してゆく。

畢竟するに、曲に古今の別あることを知っているのでもないが、ただ指に任せて、かくのごとき声を写し、これによって、かくのごとき情を発するのである。

それが自然に人の心を動かし、幽澗の泉が深林に鳴るかの如き思いを持って聞かれるのであって、琴の妙趣は、もとより限なきものである。

(訳注)#2

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

欒府詩集には、この首を以て琴曲歌靡中に入れてある。但し、この首は、琴の音色を写すような心持である。

 

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

時を哀み、職を失し、物憂きままに、これを聞いている客があって、覚えず、涙淋狼として、襟をうるおすのである。

淋浪 乱れれるさま。水の並び下るさま。

 

乃緝商綴羽,潺湲成音。

これまでは、琴を弾くものが、商の調子でやって居たが、急に変じて羽の調子にすると、又、元の幽潤の泉のような潺湲たる音に立ち戻り、それで、また循環してゆく。

緝商綴羽 五声(ごせい)は、中国音楽で使われる五つの音高。五音(ごいん)ともいう。宮(きゅう)、商(しょう)、角(かく)、 徴(ち)、 羽(う)の五つ。音の高低によって並べると、五音音階ができる。西洋古典音楽の階名で大体、宮はド(Do)、商はレ(Re)、角はミ(Mi)、徴はソ(Sol)、羽はラ(La)にあたると説明されることが多い。後に変宮(宮の低半音)と変徴(徴の低半音)が加えられ、七声または七音となった。変宮と変徴は大体、シと#ファ(fis)に相当する。音の低いものから並べると、宮・商・角・変徴・徴・羽・変宮で、七音音階を形成する。秦以降、七声は、宮・商・角・清角(角の高半音の意)・徴・羽・変宮、または宮・商・清角・徴・羽・清羽などでも表された。なお中国伝統音楽にはファに相当する音がない。昔の中国では、五声のそれぞれに身分的な意味を持っていた。宮 - 君主 商 - 臣下 角 - 民 徴 - 事 羽 - 物 

潺湲 1 さらさらと水の流れるさま。2 涙がしきりに流れるさま。

 

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

畢竟するに、曲に古今の別あることを知っているのでもないが、ただ指に任せて、かくのごとき声を写し、これによって、かくのごとき情を発するのである。

 

幽澗泉,鳴深林。
それが自然に人の心を動かし、幽澗の泉が深林に鳴るかの如き思いを持って聞かれるのであって、琴の妙趣は、もとより限なきものである。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

160 《巻03-10 幽澗泉》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <160> Ⅰ李白詩1356 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5328

李白《巻03-10 幽澗泉》(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)白石を梯うて、素琴を弾ずる。琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

 

 
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160 《巻03-10 幽澗泉》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <160> Ⅰ李白詩1356 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5328

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    幽澗泉

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

拂彼白石,彈吾素琴。

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

 

客有哀時失職而聽者,淚淋浪以霑襟。

乃緝商綴羽,潺湲成音。

吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。

幽澗泉,鳴深林。

 

(幽澗の泉)

彼の白石を拂い,吾が素琴を彈ず。

幽澗 愀として 流泉深し,善手 明徽 高く張って清くす。

心 寂歷として千古に似たり,松 颼【しつりゅう】として萬尋なるに。

中に見る 愁猿の影を弔うて危處し,秋木に叫んで 長吟するを。

 

客に 時を哀み 職を失って 聽く者有り,淚 淋浪 以て襟を霑す。

乃ち商を緝し 羽を綴り,潺湲【せんかん】音を成す。

吾 但だ聲を寫し 發情を妙指し,殊に此の曲の古今を知らず。

幽澗の泉,深林に鳴る。

 

(含異文)

拂彼白石,彈吾素琴。幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。心寂歷似千古,松颼兮萬尋。中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。客有哀時失職而聽者【客有哀時失志而聽者】,淚淋浪以霑襟。乃緝商綴羽,潺湲成音。吾但寫聲發情於妙指,殊不知此曲之古今。幽澗泉,鳴深林。

花蕊夫人002 

 

『幽澗泉』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

幽澗泉

拂彼白石,彈吾素琴。

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

(下し文)
(幽澗の泉)

彼の白石を拂い,吾が素琴を彈ず。

幽澗 愀として 流泉深し,善手 明徽 高く張って清くす。

心 寂歷として千古に似たり,松 颼【しつりゅう】として萬尋なるに。

中に見る 愁猿の影を弔うて危處し,秋木に叫んで 長吟するを。

(現代語訳)
(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。


(訳注)

幽澗泉

(ひっそりとした谷間に響く琴の音を詠う)

欒府詩集には、この首を以て琴曲歌靡中に入れてある。但し、この首は、琴の音色を写すような心持である。

 

拂彼白石,彈吾素琴。

白石を梯うて、素琴を弾ずる。

 

幽澗愀兮流泉深,善手明徽高張清。

琴の上手な人が、絃を高く張って、これを掻き鳴らすと、初は幽潤が愀として、流泉が極めて深いような響きをして居るのであった。

 

心寂歷似千古,松颼兮萬尋。

段段進むに連れ、こころには身を切られるような 切なさ. 思い知らされ、千古の松が萬尋の谷に臨んで、かぜが颼と響き聾を発している。

寂歷 身を切られるような 切なさ. 思い知ること。

 風の吹きつける音。

 

中見愁猿弔影而危處兮,叫秋木而長吟。

その松の上には、逆さにぶら下がった猿が、物悲しき声を出して長い声で叫ぶ。
太白山001 

159-#3 《巻02-30 俠客行 -#3》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <159-#3> Ⅰ李白詩7 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5378

李白《巻02-30 俠客行 -#3》 侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

 
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 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    俠客行

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:邯鄲 (河北道南部 邯鄲)           

 開封 (河南道 汴州 開封) 別名:大梁            

 

 

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

かれらは稀に見る任侠の士であって、信陵君が趙を救おうとして、朱亥は鉄槌を揮って、将軍晋鄙を打ち殺し、それから、信陵君はその軍を奪い始めて趙を救うことができたので、邯鄲を囲んでいた秦軍も先ず震撼し驚愕して動いた。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

この二壮士の名声はこの後千秋でもなお、朽ちることなく、大梁城に赤々と燃えるほどの名声が著された。

縱死俠骨香,不慚世上英。

それで、いとたび死んで、むなしく侠骨の香りを余すところなく漂わせ、あっぱれにも、地上の俊英樽に愧じるものではなかったのである。

誰能書閣下,白首太玄經。

侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

 

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

事了るや 衣を拂って去り,深く藏す 身と名とを。

 

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

戦国七雄001 

 

『俠客行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

縱死俠骨香,不慚世上英。

誰能書閣下,白首太玄經。

 

 

(下し文)

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

 

(現代語訳)

かれらは稀に見る任侠の士であって、信陵君が趙を救おうとして、朱亥は鉄槌を揮って、将軍晋鄙を打ち殺し、それから、信陵君はその軍を奪い始めて趙を救うことができたので、邯鄲を囲んでいた秦軍も先ず震撼し驚愕して動いた。

この二壮士の名声はこの後千秋でもなお、朽ちることなく、大梁城に赤々と燃えるほどの名声が著された。

それで、いとたび死んで、むなしく侠骨の香りを余すところなく漂わせ、あっぱれにも、地上の俊英樽に愧じるものではなかったのである。

侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

 

(訳注) 

俠客行 #3

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

かれらは稀に見る任侠の士であって、信陵君が趙を救おうとして、朱亥は鉄槌を揮って、将軍晋鄙を打ち殺し、それから、信陵君はその軍を奪い始めて趙を救うことができたので、邯鄲を囲んでいた秦軍も先ず震撼し驚愕して動いた。

救趙 魏の安釐王二十年、趙の長平の軍を破り、また進んで邯鄲を取り囲んだ。公子(信陵君魏無忌)の姉は趙恵文王趙何の弟の平原君趙勝の夫人(ふじん)と為り、たびたび、魏安釐王魏圉及び公子(信陵君魏無忌)に書を送り、魏からの救援を請(こ)うた。

史記に「現の安置五二十年、秦.趙の長平の軍を破り、叉進んで、邯鄯を囲む。公子の妹は、趙の平原君の夫人たり。屡ば、救を魏に請う。魏王、将軍晋鄙をし一、十万の衆を將いて、趙を救わしむ。軍を留めて鄴に壁し、名は趙を故うと爲し、実は両端を持し、以て観望す。平原君、魏の公子を譲めしむ。公子、これ患へ、乃ち侯生の計も用ひ、如娘に請うて、王の臥内に於て虎符を竊ましめて、晋鄙の軍を奪ひ、朱亥をして四十斤の鉄槌を袖して晋鄙を槌殺せしめ、公子、遂に其軍を将い、進んで秦軍を撃つ。秦軍、解けて去り、遂に邯鄯を救うて趙を存す。はじめ、公子過ぎて侯生に謝するや、侯生日く、臣、宜しく從うべし.老いて能はす。請う、公子の行く日を数え、晋鄙の軍に至るの日を以て、北向自到、以て公子を送らむと。公子遂に行いて軍に至る。侯生、果して北向日到す」とある。

 

千秋二壯士,烜赫大梁城。

この二壮士の名声はこの後千秋でもなお、朽ちることなく、大梁城に赤々と燃えるほどの名声が著された。

烜赫 赤々と燃えるほどの名声。輝かしい烜赫 。名の聞こえたもの。

 

縱死俠骨香,不慚世上英。

それで、いとたび死んで、むなしく侠骨の香りを余すところなく漂わせ、あっぱれにも、地上の俊英樽に愧じるものではなかったのである。

 

誰能書閣下,白首太玄經。

侠客というもの仕事はこれほどに華々しく世にもてはやされるのであるが、これに比較して儒者というものは誠につまらぬもので、かの揚雄は、わずかな俸禄をもらって白髪頭になるまで骨身を惜しんで著した書を天禄閣で校したのが「太玄經」である。それも死して後に評価されたのである。生きている時の両者の懸隔の甚だしいのは情けないことではないか。

大玄經 前漢の思想家揚雄の著書。『易経 (周易) 』を改修して,一層精密な人間の運命を予言する書としようとしたもの。人間の諸現象は,『老子』の唱える「玄 () 」を根源とし,天・地・人を基本要因とし,その組合せでとらえられるとして,その組合せの 81首の図式をつくり,さらに各首にその現象の終始の展開を象徴する9賛をつけている。易に老荘思想を取り入れ、易占を社会情勢に応じた合理的なものにしようとしたもので、易の陰陽二元論の代わりに、始・中・終の三元をもって宇宙万物を説明した。

 

 

 

 

 

魏安釐王二十年秦昭王已破趙長平軍又進兵圍邯鄲

公子姊為趙惠文王弟平原君夫人數遺魏王及公子書請救於魏

魏王使將軍晉鄙將十萬眾救趙

秦王使使者告魏王曰吾攻趙旦暮且下

而諸侯敢救者已拔趙必移兵先擊之

魏王恐使人止晉鄙留軍壁鄴

名為救趙實持兩端以觀望

 

魏安釐王二十年、秦昭王(秦昭襄王嬴稷)はすでに趙の長平軍を破(やぶ)り、また兵を進めて邯鄲(趙の都)を包囲した。

公子(信陵君魏無忌)の姉は趙恵文王趙何の弟の平原君趙勝の夫人(ふじん)と為り、たびたび、魏安釐王魏圉及び公子(信陵君魏無忌)に書を送り、魏からの救援を請(こ)うた。

魏安釐王魏圉は魏將軍晋鄙をつかわし、十万人に衆を率(ひき)いさせて趙を救援させた。

秦昭王(秦昭襄王嬴稷)は使者をつかわし魏安釐王魏圉に告(つ)げた、曰く、「吾(われ)は趙を朝も夕も攻(せ)めまさに下(くだ)さんとし、

しこうして諸侯の敢(あ)えて救おうとした者は、 すでに趙を攻め落としたら、必ず兵を移してこれを先(さき)に撃(う)つだろう」と。

魏安釐王魏圉は恐(おそ)れ、人をつかわし魏将軍の晋鄙に(趙の救援を)止(とど)めさせて軍を留(とど)めて鄴で防備させた。

名目は趙を救うと為し、実質は二心を持ち、以って様子をみて自分の考えや態度を決めようとした。

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年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    俠客行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              邯鄲 (河北道南部 邯鄲)           

開封 (河南道 汴州 開封) 別名:大梁            

 

 

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

縱死俠骨香,不慚世上英。

誰能書閣下,白首太玄經。

 

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

事了るや 衣を拂って去り,深く藏す 身と名とを。

 

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

 

李白図102 

『俠客行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

閒過信陵飲,劍膝前橫。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

 

(下し文)

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

(現代語訳)

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

 

戦国七雄001 

(訳注)

俠客行 #2

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

#2 逸話 魏の公子と食客(信陵君・侯嬴・朱亥)

ある時、安釐王と囲碁(双六との説もある)を打っていた所、趙との国境から烽火が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

それから、信陵君のような貴公子を訪ねて、会飲するにあたって、剣を外して丸腰でひざを突き合わせてあるいは横になって語らう。

信陵 戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。三代昭王の末子。姓は姫、氏は魏、諱は無忌。戦国四君の一人。大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。 兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。ここでは貴族の息子たち、とくに次男三男とに遊侠なものが多かったことをいう。李白杜甫王維の「少年」詩にのべられている。

 

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

朱亥のような若者に向っては、焼き肴をあたえてやり、侯嬴のような老剣士に対しては、慇懃に盃を勧める。

朱亥 信陵君の評判を高めることになった肉屋の若者。

侯嬴 老人で門番であったが賢者であることで新陵君が度量が大きいとの評判を高めた。

 

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

きわめて親密に交際し、酒三杯のんだら、然諾を重んじた立派な言葉を吐く、五岳の名山もそのためには軽やかに搖動しているのである。

然諾 然諾を重んじる。いったん引き受けたことは、その約束を守って必ず実行する。

五嶽 五岳(ごがく)は中国の道教の聖地である5つの山の総称。五名山とも呼ばれる。陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。

 東岳 泰山(山東省泰安市泰山区)

 南岳 衡山(湖南省衡陽市衡山県)

 中岳 嵩山(河南省鄭州市登封市)

 西岳 華山(陝西省渭南市華陰市)

 北岳 恒山(山西省大同市渾源県)

神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。

 

眼花耳熱後,意氣素霓生。

やがて、酒が進んで酔いが回り、眼がかすみ、耳が熱すれば、意気はそこらの人を圧倒し、その気焔は虹を生ずるばかりである。

眼花 酒が進んで酔いが回り、眼がかすむこと。
55moon 

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159 《巻02-30 俠客行》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <159> Ⅰ李白詩1355 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5323

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    俠客行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              邯鄲 (河北道南部 邯鄲)           

開封 (河南道 汴州 開封) 別名:大梁            

 

 

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

 

閒過信陵飲,劍膝前橫。

將炙啖朱亥,持觴勸侯嬴。

三杯吐然諾,五嶽倒為輕。

眼花耳熱後,意氣素霓生。

 

救趙揮金槌,邯鄲先震驚。

千秋二壯士,烜赫大梁城。

縱死俠骨香,不慚世上英。

誰能書閣下,白首太玄經。

 

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

事了るや 衣を拂って去り,深く藏す 身と名とを。

 

閒に信陵を過ぎて飲み,劍をして膝前に橫たう。

炙を 將って朱亥に啖【くら】わしめ,觴を持して侯嬴に勸む。

三杯然諾を吐き,五嶽 倒って為に輕し。

眼花し 耳熱する後,意氣 素霓【そげい】生ず。

 

趙を救って金槌を揮い,邯鄲 先ず震驚す。

千秋の二壯士,烜赫【けんかく】す 大梁城。

縱い死するも俠骨香しく,世上の英たるに慚じず。

誰か能く書閣の下,白首 太玄經。

 

李白図102 

『俠客行』 現代語訳と訳註解説

(本文)

俠客行

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

十步殺一人,千里不留行。

事了拂衣去,深藏身與名。

 

(下し文)

(俠客行)

趙客 縵胡の纓,鉤 霜雪明かなり。

銀鞍 白馬を照らし,颯沓として流星の如し。

十步に一人を殺し,千里 行を留めず。

 

(現代語訳)

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

 (訳注)

俠客行

(侠遊二十五曲の一つである「侠客行」任侠の士を詠うもの)

任侠の士を詠うもの、侠客行は侠遊二十五曲の一つである。

 

趙客縵胡纓,鉤霜雪明。

この剣客は趙の地の出身で、飾も何もない粗末な冠の紐を帯び、その服装ははなはだみぐるしいが、呉の国の剣先の曲った短剣は刃先は霜雪のように鋭い業物と見える。

趙客 燕趙は慷慨悲歌之士の地である。 楽毅・荊軻らのようにの憂色は濃く、深い者、悲憤の人士者が出ている。楽 毅は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の憂色は濃く、深い。四度にわたる隣国・趙の侵略。宰相だった楽毅の父は自ら望んで死地へ赴き、祖国は国土の大半を失った。荊 軻は、中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。

縵胡纓 飾も何もない冠の紐。《荘子、劍·卷第三十》「太子曰然吾王所見劒士皆蓬頭突、垂冠曼胡之纓短後之衣」

 呉の国の剣先の曲った短剣。

 

銀鞍照白馬,颯沓如流星。

かくて、銀鞍を白馬に置き、馬上豊かに乗り出せば、その速いことは、流星のようである。

颯沓 流れ星の素早く流れた様子をいう。

 

十步殺一人,千里不留行。

そして、いざという時、十歩の間に一人を殺し、戦利の遠きをも糸飛びに駈け出して、その行方を留めることができない。

十步殺一人 天下無敵をいう。荘子『荘子』〈説剣〉。 《王曰「子之剣、何能禁制。」曰「臣之剣、十歩一人、千里不留行。」王大悦之、曰「天下無敵矣。」》 (王曰く「子の剣、何をか能く禁制す」と。曰く「臣の剣、十歩にして一人、千里にしても留まらず行く」と。

 

事了拂衣去,深藏身與名。

事が終われば、衣を払って民衆の中に入り、その身を隠し、且つ評判などもたたないようにして、出没自在にするのである。

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李白  行路難三首 之三#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

李太白集巻一44

行路難三首 其三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56首-(9)

423 <1000>

 


 

 
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李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱、太白改、以叶韻、葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/真達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。

索隠曰 税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

巻02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師) 別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君不見張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

李白の足跡0000 

 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)#2

#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

(含異文): 有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(下し文)

#2

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(現代語訳)

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

汜水関などの地図

 

(訳注) #2

行路難,三首之三 #2

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

1】      行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

 

陸機雄才豈自保 李斯駕苦不早 
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。

【6】   陸 機 (りくき261年- 303年)は、中国三国時代から西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つである陸氏の出身。祖父は陸遜。父は陸抗。子は陸蔚、陸夏。本籍は呉郡呉県(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。父と共に呉に仕えて牙門将となった。天紀4年(280年)、晋との戦いで二人の兄の陸晏と陸景を失い、間もなく祖国も滅亡したため、故郷に引退する。この滅亡に憤慨して『弁亡論』を著した。やがて、説得に応じて弟と共に晋に仕官する事になった。既に陸機の文名は洛陽にも伝わっていたため、高官である張華は「呉討伐の戦果は、この二人の俊才を得たことだ」と言ったといわれている。その後、太子洗馬・著作郎を務めて、恵帝の治世下でも順調に出世を続けた。だが、次第に八王の乱の混乱に巻き込まれていく事になる。太安2年8月穎は洛陽で実権を握っていた長沙王司馬乂討伐を決意すると、彼は陸機の能力を評価して平原相・後将軍・河北大都督に任命、陸機は洛陽に向かって進撃したが、彼自身は祖父や父ほど将才に優れていなかった事に加え、配下達も「呉の降将」として彼を蔑んだ事もあって、十分な指揮が執れず、10月に洛陽城の建春門の攻防において大敗してしまった。謀反の疑いで処刑されてしまった。この時、陸機の二人の息子と、弟の陸雲・陸耽までもが連座して殺され、陸遜直系の子孫は断絶となった。《晉書》「成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白、與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。」(成都王穎、兵を起して長沙王乂を討ち、陸機に後將軍河北大都督を假し、北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人を督して、鹿苑に戰う。機の軍、大いに敗る。宦人孟玖、機を穎に譖して、其の異志有るを言う。穎 怒り、秀をして、機を收めしむ。機 戎服を釋き、白著け、秀と相い見て神色自若、既に而て嘆じて曰く、華亭の鶴唳、豈に復た聞く可けんや。遂に害に軍中に遇う。)とある。《世説》の註に八王の乱の故事をひいて曰う、「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」(華亭は、由拳縣の郊外の墅なり。清泉茂林有り。 平ぐ後、陸機兄弟、共に此にぶこと十餘年。)とあり、つづいて語林曰く、「機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。」(機 河北都督と為る。警角の聲を聞き、孫丞に謂うて曰く、聞けば此れ華亭の鶴唳に如しかず、故に刑にんで此れ嘆説の文有り唳するは鶴鳴なり。)と讒言によって、一族は絶えた。

【7】   李 斯(り し? - 紀元前208年)儒家中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。・李斯税駕苦不早 《史記》に「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為。門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、『吾聞之荀卿』、曰、『物禁太盛。』夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。」(李斯丞相と為り、長男は由、三川の守と為り、諸男、皆 秦の公主を尚し、女は悉く秦の諸公子に嫁す。李由、咸陽に告歸するるや、李斯 家に置酒し、百官の長、皆 前んで為す門庭車騎、以。 李斯、喟然として嘆じて曰く、『吾 之を荀卿に聞く』、曰く、『物は太はだ盛んなるを禁ず。』と。夫れ 斯 乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首、上、其の駑下を知らず、遂に遷た擢んで此に至る。當今、人臣の位、臣の上に居る者無し、富貴極れりと謂う可し。物極まれば則ち衰う、吾 未だ税駕する所を知らざるなり。)とあり、索隠は曰う「税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。」(税駕、言休息なり。李斯の言は 巳、今日富貴、已に 極り未だ向後を知らず、吉凶 止泊し、何處に在らんや。)とある。太平御覽に《史記》を引いて“史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。」(史記に曰う「李斯 刑に臨み、黄犬を牽き、蒼鷹を臂し、上蔡の東門を出んと思えども得可からず。)とあり、蕭士贇の補註に「考今本史記李斯傳中無臂蒼鷹字而太白詩中屢用其事 當另有所本。」(今、この本を考えるに、《史記 李斯傳》中に、「臂蒼鷹」の字は無く、而して太白詩中、屢しば用いたのは、其の事 當に另の本づく所が有ったということである。

 

華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道 
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。

【8】   華亭県(かてい-けん)は中華人民共和国甘粛省平涼市に位置する県。県人民政府の所在地は東華鎮。華亭県は東は崇信県、西は庄浪県、寧夏回族自治区の涇源県、南は張家川回族自治県と陝西省隴県、北は崆峒區に隣接する。

【9】   上蔡県(じょうさい-けん)は中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する県。
 

君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。

【10】 張翰 昔、晋の張翰が、秋風に故郷である呉の菰菜(こさい)、蓴羹(じゅんさいのあつもの)、鱸魚膾(すずきのなます)を思い出し、それを食べたい一念で官を辞して故郷へ帰った。この後、すぐ世が乱れた。人々は、世の乱れを察していた張翰が故郷の味を口実に先手を打ったのだと思ったという逸話。李白「秋荊門を下る」

《晉書》に「張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、『人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。』遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」(張翰、字は季鷹、郡の人なり。清才有り、善く文を屬す、而かも、縱任拘らず。齊王の冏、辟して大司馬、東曹掾と為す。冏、時に權を執る。翰、秋風の起る見るに因って、乃ち中の菰菜、蓴羮、鱸魚の膾を思うて曰く、『人生、適志を得るを貴ぶ、何ぞ能く羇宦數千里、以て名爵を要せんや。』と。遂に駕を命じ、而して歸る。俄にして 冏 敗る。人 皆 之を『機を見る』と謂う。翰は心に任せて自適し、當世に求めず。或いは之に謂ううて曰く、『卿は乃ち縱とい一時に適す可きも、獨り身後の名を為さざるか。』と。荅えて曰く、『我をして身後の名を有らしむも、即時一杯の酒に如かず。』と。時人 其の曠達を貴ぶ。とある。 
 

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍しても、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

【11】   【解説】行路難ということ、第一首は、黄河の氷、大行山脈の雪、であった。第二首は、才のある明主に遭わないことであった。この第三首において、行路難の極みをいうが、それは「張翰稱達生」であり,「秋風忽憶江東行」でもって理想的行動、行路としている。行路は難であれ、「千載名」よりも、張翰のごとく「樂生前一杯酒」を大切にするということである。

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李白  行路難三首 之三

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三  才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。

李太白集巻一44

行路難三首 其三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 


 
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李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱、太白改、以叶韻、葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。

索隠曰 税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(含異文)      有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之三 #1

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

 

(下し文)

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。

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158 《巻02-14 行路難三首 其二》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <158> Ⅰ李白詩2 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5353

李白《巻02-14 行路難三首 其二》(改訂) 昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

 

 
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年:-731年開元十九年31 43

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  行路難,三首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長安 (京畿道 京兆府長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都

淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)  

黃金臺 (河北道南部 易州 易縣) 別名:金臺、燕臺   

 

 

行路難,三首之一

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山。

それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
閒來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。

そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
行路難,行路難,多岐路,今安在。

これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟滄海。

結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。

行路難,三首之二 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その二

大道如青天,我獨不得出。

長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。
羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。

かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。

確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
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君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜。

君が知らない昔の出来事だが、戦国燕の昭王は、恨みを斉に報いんとして、郭隗を重用したのである、そうして、鄒衍を迎えるに礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。

そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。

そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。

行路難,歸去來。

今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

 

行路難,三首の二 #1

大道【たいどう】は晴天の如し、我れ独り出ずるを得ず。

羞【は】ず  長安社中の児を逐うて、赤鶏【せきけい】 白狗 梨栗【りりつ】を賭するを。

剣を弾じ歌を作【な】して苦声を奏し、裾【すそ】を王門に曳きて 情に称【かな】わず。

淮陰の市井 韓信を笑い、漢朝の公卿  賈生を忌【い】む。

#2

君見ずや 昔時【せきじ】の燕家【えんか】郭隗を重んじ彗【すい】を擁し節を折って嫌猜【けんさい】無し。

劇辛【げきしん】 楽毅【がくき】 恩分に感じ、肝を輸【いた】し膽【たん】を剖【さ】いて英才を效【いた】す。

昭王の白骨 蔓草【まんそう】に縈【まと】わる、誰人か更に掃【はら】わん 黃金臺。

行路は難【かた】し、帰り去らん 来【いざ】。

 

詩文(含異文)  大道如青天,我獨不得出。羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗【赤雞白雉賭梨栗】。彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜【擁慧折腰無嫌猜】。劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。昭王白骨縈爛草【昭王白骨縈蔓草】,誰人更掃黃金臺。行路難,歸去來。

李白図102 

『行路難,三首之二』 現代語訳と訳註解説

(本文)#2

君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜。

劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。

昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。

行路難,歸去來。

 

 

(下し文) #2

君見ずや 昔時【せきじ】の燕家【えんか】郭隗を重んじ彗【すい】を擁し節を折って嫌猜【けんさい】無し。

劇辛【げきしん】 楽毅【がくき】 恩分に感じ、肝を輸【いた】し膽【たん】を剖【さ】いて英才を效【いた】す。

昭王の白骨 蔓草【まんそう】に縈【まと】わる、誰人か更に掃【はら】わん 黄金台。

行路は難【かた】し、帰り去らん 来【いざ】。

 

(現代語訳)

君が知らない昔の出来事だが、戦国燕の昭王は、恨みを斉に報いんとして、郭隗を重用したのである、そうして、鄒衍を迎えるに礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。

今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

魚玄機2長安洛陽中原地図 

(訳注)

行路難,三首之二 #2

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
君が知らない昔の出来事だが、戦国燕の昭王は、恨みを斉に報いんとして、郭隗を重用したのである、そうして、鄒衍を迎えるに礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
○燕家重郭隗 昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。郭隗の返答は「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答え、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。 

○擁彗折節無嫌猜 鄒衍(前305頃―前240) 戦国時代の陰陽五行家。斉の人。弁才にたけ、燕・斉を歴遊した。晩年、斉の使いとして趙に赴き、公孫竜を説得して尊敬された。陰陽のことを研究し、「五徳終始」説を提唱、春秋戦国時代に流行する「五行」説を社会・歴史の変化と王朝の交代になぞらえて、漢代の懺緯学の主な源流となった。著書の『鄒子』などは全部散逸した。 

 

劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
そこで、燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと肝胆をいたし、五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材を登用すれば「肝胆を砕いて才能の限りをつくす」働きをするものだ。
○劇辛樂毅感恩分 劇辛は趙の国出身の人物で、郭隗の進言を聞き入れた燕昭王が「隗より始めよ」と富国強兵の為の人材優遇を始めて以降に、楽毅や鄒衍らと同様に、賢人を求め優遇する燕昭王の元へと赴き、燕の臣となった。楽毅は、戦国燕の武将で、昭王を助けて仇敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略家。 

○輸肝剖膽效英才 き人材を登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。


昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。
昭王の様な絶対賢主がいたなら、自分も不遇になることも無かろうが、それほどの昭王であっても没後すでに、千年、今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。

○白骨縈爛草 蔓草に纏われた墓の下に白骨がある。江淹《恨賦》「蔓草縈骨」とある。

○黃金臺 河南省大興縣の東南の臺。河北省易縣の東南。易水の上。戦国燕の昭王が千金を以て、天下の賢士を招いたところ。


行路難,歸去來。
今更のことだが、目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ陶淵明のように「歸去來」を唱えて、隠遁して桃源郷に帰ろう。

歸去來 〔陶淵明(とうえんめい)「帰去来辞」に基づく。「来」は助辞〕故郷に帰るために,官職をやめてその地を去ること。「かえりなんいざ」と訓読されてきた。
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157 《巻02-14 行路難三首 其二》(改訂)Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <157> Ⅰ李白詩1 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5348

 

 

年:-731年開元十九年31 43

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  行路難,三首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長安 (京畿道 京兆府長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都

淮陰 (淮南道 楚州 淮陰)  

黃金臺 (河北道南部 易州 易縣) 別名:金臺、燕臺   

 

 

行路難,三首之一

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

金樽清酒斗十千,玉盤珍羞直萬錢。

金の樽にたたえた聖人の酒、清酒は一斗が一万斛もたたえている。玉のように輝く大皿に盛った珍しい御馳走は万銭の値打ちである。
停杯投箸不能食,拔劍四顧心茫然。

人の世はいかに豪奢を尽くしても、思うが儘にはいかないことは仕方がないので、盃を交わしていても、杯をおき、喰う気にならず箸をおく。果ては、癇癪を起こして、剣を抜き、四方の霊に問うてみても、心は茫然としている。
欲渡黃河冰塞川,將登太行雪滿山。

それに、今までのように黄河を渡ろうとしても、あいにく、氷にふさがれて渡ることができないし、太行山に登ろうとすれば、積もった雪がいっぱいで、到底いかれないというようなことである。
閒來垂釣碧溪上,忽復乘舟夢日邊。

そこで、世の中のことを打ち棄てて、かの太公望が渭水のほとりでした様に、奇麗で静かな緑の谷川で釣糸を垂れて、心のどかにしていようとするが、その間に見る夢は、浮世の事を断念したつもりでも、どうしても舟に乗って白日の天子のそばに行くことを、夢みてしまうのだ。
行路難,行路難,多岐路,今安在。

これから生きる行路はまことに困難で、どの行路も困難なものだ。進めば岐路に当たり、行けば岐路、分れ路が多すぎる。今は容易に行ける行路はないのだ。

長風破浪會有時,直掛雲帆濟滄海。

結局、雲帆を掛け、滄海をわたり、長風に乗じてはるか万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来る。その時には、理想の仙界に向かっている。

行路難,三首之二 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その二

大道如青天,我獨不得出。

長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。

羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。

かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。

彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。

確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。

淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。

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君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜。

劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。

昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金臺。

行路難,歸去來。

 

行路難,三首の二 #1

大道【たいどう】は晴天の如し、我れ独り出ずるを得ず。

羞【は】ず 長安社中の児を逐うて、赤鶏【せきけい】 白狗 梨栗【りりつ】を賭するを。

剣を弾じ歌を作【な】して苦声を奏し、裾【すそ】を王門に曳きて 情に称【かな】わず。

淮陰の市井 韓信を笑い、漢朝の公卿  賈生を忌【い】む。

#2

君見ずや 昔時【せきじ】の燕家【えんか】郭隗を重んじ彗【すい】を擁し節を折って嫌猜【けんさい】無し。

劇辛【げきしん】 楽毅【がくき】 恩分に感じ、肝を輸【いた】し膽【たん】を剖【さ】いて英才を效【いた】す。

昭王の白骨 蔓草【まんそう】に縈【まと】わる、誰人か更に掃【はら】わん 黄金台。

行路は難【かた】し、帰り去らん 来【いざ】。

 

詩文(含異文)  大道如青天,我獨不得出。羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗【赤雞白雉賭梨栗】。彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。君不見昔時燕家重郭隗,擁慧折節無嫌猜【擁慧折腰無嫌猜】。劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。昭王白骨縈爛草【昭王白骨縈蔓草】,誰人更掃黃金臺。行路難,歸去來。

長安城漢唐 

『行路難,三首之二』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之二 #1

大道如青天,我獨不得出。

羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。

彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。

淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。

 

(下し文)

行路難,三首の二 #1

大道【たいどう】は晴天の如し、我れ独り出ずるを得ず。

羞【は】ず  長安社中の児を逐うて、赤鶏【せきけい】 白狗 梨栗【りりつ】を賭するを。

剣を弾じ歌を作【な】して苦声を奏し、裾【すそ】を王門に曳きて  情に称【かな】わず。

淮陰の市井 韓信を笑い、漢朝の公卿  賈生を忌【い】む。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その二

長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。
かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。
確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。
今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->長安付近図00
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(訳注)

行路難,三首之二

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)

行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

大道如青天,我獨不得出。
長安の街の縦横に通ずる大通り、出入自在、何処にでも行かれそうなものであるというものであるが、我独り、この中に寓居しているものの、この身を宇宙の表に置くことができないように、ここから脱出することが出来きない、それは、天子の御政道が青天のように清朗で広く包み込むものであるが、私がその道を得ることができないのも同じである。
○大道 長安の街の縦横に通ずる大通り。天下の御政道。道は万物に備わったそれぞれの道をいい、それら万物すべてに共通する道をしめす。

 

羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
かくて、自分は何時までも長安の中にいて、市中に群れている遊侠少年のまねをして、闘鶏や闘犬に梨や栗程度ものを賭けて遊び戯れて、うかうかした日々を過ごしていたことを愧じている。
○羞逐 はずかしいことではあるがやってしまう。
○兒 若い衆、任侠の使徒。子供は童。

○梨栗 実際には、お金をかけたのかもしれないが、レートとして、高くないことを示している。


彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
確かに、自分は、何時までも轗軻不遇であるから、戦国の馮驩は剣を弾いて作詩した歌を苦しい声で唄い、宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかったように、自分もそのように振る舞えばよいが、それはできないだろう。
○彈劍 馮驩 すうかん斉の宰相孟嘗君に仕えた政治家。孟嘗君の食客として迎えられ、下級宿舎に泊まらせられた。馮驩は剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、食う魚なし」という歌を歌い出した。それを聞いた孟嘗君は中級宿舎に泊まらせた。すると馮驩はまた剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、外にも出ようも御輿がない」という歌を歌い出した。詳しくはウィキペディア「馮驩」「斉の宰相と馮驩」参照。

○曳裾王門不稱情 弁舌の上手い使徒を雇い入れ、王に意見を述べさせても、述べた本質のところの理解はすぐにできるのではない。「史記」巻八十三は戦国の弁舌の徒・魯仲連と漢代に文章を以て重用された鄒陽の合伝にある故事に基づいている。


淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
今、自分は、才を用いられることが無いばかりか、馬鹿にされたり、邪魔者扱いにされる。それは昔、淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせ、わらいものであったが、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
○韓信 淮陰(現:江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。
○賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。李商隠「賈生」 
賈生 李商隠:紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64 参照。

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