李白 贈瑕丘王少府 #1
皎皎鸞鳳姿,飄飄神仙氣。梅生亦何事,來作南昌尉。
清風佐鳴琴,寂寞道為貴。
(神仙の樹を持って天晴な人物であった漢の梅福が南昌の尉になっているような河南道兗州瑕丘縣の縣令の王某に贈った詩)#1
河南道兗州瑕丘縣の縣令の王少府は、皎皎たる鸞鳳の姿であって、飄飄たる神仙の気を備え、天晴な人物である。そうであるのにかかる微官に居るのはいかなることか、丁度、漢の梅福が南昌の尉となっていたようなものである。それに、王少府は、堂上に坐し、清風に向かって琴を弾じ、無為寂寞の道を以て、その地を治めているという評判である。
284 《卷8-09贈瑕丘王少府》Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <284> Ⅰ李白詩1563 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6363
年:-740年開元二十八年40歳
卷別: 卷一六八 文體: 五言古詩
詩題: 贈瑕丘王少府
作地點: 目前尚無資料
及地點: 瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門
南昌 (嶺南道 白州 南昌)
交遊人物:王少府 書信往來(河南道 兗州 瑕丘)
贈瑕丘王少府 #1
(神仙の樹を持って天晴な人物であった漢の梅福が南昌の尉になっているような河南道兗州瑕丘縣の縣令の王某に贈った詩)
皎皎鸞鳳姿,飄飄神仙氣。
河南道兗州瑕丘縣の縣令の王少府は、皎皎たる鸞鳳の姿であって、飄飄たる神仙の気を備え、天晴な人物である。
梅生亦何事,來作南昌尉。
そうであるのにかかる微官に居るのはいかなることか、丁度、漢の梅福が南昌の尉となっていたようなものである。
清風佐鳴琴,寂寞道為貴。
#2
一見過所聞,操持難與群。
毫揮魯邑訟,目送瀛洲雲。
我隱屠釣下,爾當玉石分。
無由接高論,空此仰清芬。
(瑕丘の王少府に贈る) #1
皎皎たる鸞鳳の姿,飄飄たる神仙の氣。
梅生亦た何事ぞ,來って作南昌の尉となる。
清風 鳴琴を佐け、寂寞として、道を貴しと為す。
#2
一見 所聞くところに過ぐ,操持ともに群し難し。
毫は魯邑の訟を揮い,目は瀛洲の雲を送る。
我は屠釣の下に隱るるも,爾は當に玉石を分つべし。
高論に接するに由なく、空しく此に清芬を仰ぐ。
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『贈瑕丘王少府』 現代語訳と訳註解説
(本文)
贈瑕丘王少府 #1
皎皎鸞鳳姿,飄飄神仙氣。
梅生亦何事,來作南昌尉。
清風佐鳴琴,寂寞道為貴。
(下し文)
(瑕丘の王少府に贈る) #1
皎皎たる鸞鳳の姿,飄飄たる神仙の氣。
梅生亦た何事ぞ,來って作南昌の尉となる。
清風 鳴琴を佐け、寂寞として、道を貴しと為す。
(現代語訳)
(神仙の樹を持って天晴な人物であった漢の梅福が南昌の尉になっているような河南道兗州瑕丘縣の縣令の王某に贈った詩)#1
河南道兗州瑕丘縣の縣令の王少府は、皎皎たる鸞鳳の姿であって、飄飄たる神仙の気を備え、天晴な人物である。
そうであるのにかかる微官に居るのはいかなることか、丁度、漢の梅福が南昌の尉となっていたようなものである。
それに、王少府は、堂上に坐し、清風に向かって琴を弾じ、無為寂寞の道を以て、その地を治めているという評判である。
(訳注)
贈瑕丘王少府 #1
(神仙の樹を持って天晴な人物であった漢の梅福が南昌の尉になっているような河南道兗州瑕丘縣の縣令の王某に贈った詩)
瑕丘は、唐書地理志に「河南道兗州に瑕丘縣あり」と記してある。この詩は、瑕丘の縣令王某に贈ったものである。
秦のときの郡名で、兗州はその郡に属していた。兗州市(えんしゅうし)は、中華人民共和国山東省西南部の済寧市に位置する県級市。京滬線および新兗線、兗石線が交わる交通の要衝である。 兗州の名は古代の天下九州のひとつ・兗州(えんしゅう)に由来し、悠久の歴史を誇る。
皎皎鸞鳳姿,飄飄神仙氣。
河南道兗州瑕丘縣の縣令の王少府は、皎皎たる鸞鳳の姿であって、飄飄たる神仙の気を備え、天晴な人物である。
梅生亦何事,來作南昌尉。
そうであるのにかかる微官に居るのはいかなることか、丁度、漢の梅福が南昌の尉となっていたようなものである。
・梅生 梅福(生没年不詳)は、前漢後期の人物。字は子真。九江郡寿春の人。若くして長安で学び、書経、春秋穀梁伝に通じた。郡の文学となり、南昌県の尉となった。その後辞職して寿春に帰っていたが、そこから緊急の件を上書した。当時、成帝は政治を大将軍王鳳に任せており、王鳳は権力を独占していた。京兆尹王章は王鳳を排除しようとしたが反対に王鳳に殺された。梅福は漢の社稷を危うくしたのはいずれも外戚の家であるから、外戚に良い学問の師を付け、忠孝の道を教えてやるべきであると上書したが、成帝はその言を採用しなかった。先に匡衡が「孔子は殷の湯王の子孫であり、いまや嫡統が分からなくなっている宋の子孫よりも、孔子の子孫を殷の末裔として立てるべきである」と建言していた。その当時は経書に典拠が無いことを理由に取り上げられなかったが、梅福の上書の後、綏和元年(紀元前7年)になり、孔子の子孫である孔何斉が殷の末裔として殷紹嘉侯(後に侯から公となる)に封じられた。
梅福は王莽が政治を壟断するようになると妻子を捨て、九江を離れて仙人になったとされる。
・南昌 江西省の省都である。江西省の省人民政府が設置される江西省の政治・経済の中心。二千年の歴史を有し、国家歴史文化名城に指定されている。南昌市は江西省中部のやや北、贛江、撫河下流に位置し、中国最大の淡水湖である鄱陽湖に臨む。全境、平原を主とし、西北には丘陵が起伏する。全市の平均海抜は25メートルである。西部は西山山脈となり、最高点は梅嶺主峰の洗薬峰で海抜841.4メートルである。
清風佐鳴琴,寂寞道為貴。
それに、王少府は、堂上に坐し、清風に向かって琴を弾じ、無為寂寞の道を以て、その地を治めているという評判である。