漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
リンクはフリーです。報告、承諾は無用です。
ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

2015年08月

298-#2 《卷十六01送魯郡劉長史遷弘農長史》#2 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <298-#2> Ⅰ李白詩1598 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6538

李白  送魯郡劉長史遷弘農長史-#2  

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

軒后上天時,攀龍遺小臣。及此留惠愛,庶幾風化淳。
承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。

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 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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 孟郊張籍     
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送魯郡劉長史遷弘農長史

作地點:              目前尚無資料

及地點:兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡         

虢州 (河東道 虢州 虢州) 別名:弘農郡        

鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

交遊人物/地點:劉長史      當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

-#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。

-#3

魯縞如白煙,五縑不成束。

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

相國齊晏子,贈行不及言。

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

 

(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。
-#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。

-#3

魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。

行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。

相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。

陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。

他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。

 

汜水関などの地図 

『送魯郡劉長史遷弘農長史』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

-
#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

(下し文)
-
#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。


(現代語訳)
-#2

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。


(訳注) -#2

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)

魯郡は、兗州弘農郡の虢州で、河南道に属し、もと上州である。元来、上州の刺史別駕の下には、長史一人あって、從五品である。長史といえば、今の縣参事官くらすということであろう。劉は、名字ともに不詳。この詩は、劉某が魯郡の長史から、弘農の長史に栄転したことに因って、その行を送るが爲に作ったのである。魯國において、この地方特有の考え方で正当な評価を受けていなかったが、弘農の長史に栄転であるから、評価も変わるであろう。

起首の八句は、劉某が魯郡に於で志を得ざることを写し、次の八句は、弘農に遷れば、大に得意なるべきを叙し、魯鎬の四句は、別に臨んで物を贈られたるを謝し、以下六句は、ここに言を贈るということに及び、以て牧結としたのである。

 

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。

鼎湖鄰 鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    黄帝は、首山の胴を採掘して荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、龍が出現した。あごひげをたらして下って、黄帝を天上に迎えに来た。黄帝は、こうして龍にまたがり昇ることになった。群臣や後宮の女官で従うことを許された者は、わずか七十人あまりだった。小臣はみな昇ることを許されなかった。彼らは天に昇りたくて龍のひげをにぎってはなさなかった。そのため龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた。小臣たちはその弓を抱いて泣いた。後世、その場所を鼎湖【ていこ】と名づけ、その弓を烏号【うごう】といった。李白《巻1809答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄》「鼎湖夢淥水,龍駕空茫然。」

149-2 《答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄 (2)Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<149-2> Ⅰ李白詩1343 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5263

 

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。

寶鏡匣蒼蘚 《太平廣記》卷四百六十三〈禽鳥四秦吉了〉「昔者吾聞黃帝鑄十五鏡。其第一橫徑一尺五寸,法滿月之數也。」とある。

丹經埋素塵 抱朴子 「黃帝陟王屋而受丹經,即此事也。」

 

軒后上天時,攀龍遺小臣。

しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。

軒后上天 黄帝の別称、公孫軒轅。姓は公孫、名は軒轅。姓は姫姓とも姒氏とも言われ、また帝鴻氏とも呼ばれる。黄帝の友人・無為子および臣下のもので従って昇天したもの七十二人、従えなかった他の小臣は、落ちた竜の髯と帝の弓を抱いて号泣したという(劉向『列仙伝』など)。 いずれにせよ、黄帝の身体は竜とともに天に昇ってしまい、今でも人民政府が祭っている黄帝の陵墓は、黄帝の衣や冠だけが収められた、いわゆる「衣冠塚」だということである。

 

及此留惠愛,庶幾風化淳。

依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。

 

洛陽 函谷関 嵩山005 

298 《卷十六01 送魯郡劉長史遷弘農長史》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <298> Ⅰ李白詩1586 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6478

李白  送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。仲尼且不敬,況乃尋常人。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。閉門木葉下,始覺秋非春。
(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

298 《卷十六01 送魯郡劉長史遷弘農長史》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <298> Ⅰ李白詩1586 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6478

 

 
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 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
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87-#3 燕喜亭記 韓愈(韓退之) 804年貞元20年 37歳<1510> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6534韓愈詩-87-#3 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送魯郡劉長史遷弘農長史

作地點:              目前尚無資料

及地點:兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡         

虢州 (河東道 虢州 虢州) 別名:弘農郡        

鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

交遊人物/地點:劉長史      當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

-#2

聞君向西遷,地即鼎湖鄰。

寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。

軒后上天時,攀龍遺小臣。

及此留惠愛,庶幾風化淳。

-#3

魯縞如白煙,五縑不成束。

臨行贈貧交,一尺重山嶽。

相國齊晏子,贈行不及言。

託陰當樹李,忘憂當樹萱。

他日見張祿,綈袍懷舊恩。

 

(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。
-#2

聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。

寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。

軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。

此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。

-#3

魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。

行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。

相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。

陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。

他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00洛陽 函谷関 嵩山005 

 

『送魯郡劉長史遷弘農長史』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

魯國一杯水,難容橫海鱗。

仲尼且不敬,況乃尋常人。

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

閉門木葉下,始覺秋非春。

(下し文)
(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1

魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。

仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。

白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。

門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。

(現代語訳)
(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。


(訳注)

送魯郡劉長史遷弘農長史-#1

(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)

魯郡は、兗州弘農郡の虢州で、河南道に属し、もと上州である。元来、上州の刺史別駕の下には、長史一人あって、從五品である。長史といえば、今の縣参事官くらすということであろう。劉は、名字ともに不詳。この詩は、劉某が魯郡の長史から、弘農の長史に栄転したことに因って、その行を送るが爲に作ったのである。魯國において、この地方特有の考え方で正当な評価を受けていなかったが、弘農の長史に栄転であるから、評価も変わるであろう。

 

魯國一杯水,難容橫海鱗。

むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。

橫海鱗 大魚。「海いっぱいになるほど大きな魚。転じて大人物のこと。 《宋書謝晦傳》:偉哉橫海鱗, 壯矣垂天翼, 一旦失風水, 翻為螻蟻食。”

 

仲尼且不敬,況乃尋常人。

折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。

○仲尼 氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である(子は先生という意味)。孔子は自らの思想を国政の場で実践することを望んだが、ほとんどその機会に恵まれなかった。孔子は優れた能力と魅力を持ちながら、世の乱れの原因を社会や国際関係における構造やシステムの変化ではなく個々の権力者の資質に求めたために、現実的な政治感覚や社会性の欠如を招いたとする見方がある。孔子の唱える、体制への批判を主とする意見は、支配者が交代する度に聞き入れられなくなり、晩年はその都度失望して支配者の元を去ることを繰り返した。それどころか、孔子の思想通り、最愛の弟子の顔回は赤貧を貫いて死に、理解者である弟子の子路は謀反の際に主君を守って惨殺され、すっかり失望した孔子は不遇の末路を迎えた。

 

白玉換斗粟,黃金買尺薪。

そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。

 

閉門木葉下,始覺秋非春。

かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。

閉門木葉下,始覺秋非春 『白氏文集』(白楽天)「燕子楼中霜月夜秋来只為一人長。 [燕子楼(えんしろう)中(ちゅう)の霜月(そうげつ)の夜秋来たって只一人のために長し。」

大江千里(23番) 『古今集』「月見ればちぢに物こそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」

 

《白氏文集卷十五・燕子樓》「滿窗明月滿簾霜、被冷燈殘払臥床、燕子樓中霜月夜、秋來只爲一人長。」(満窓の明月、満簾の霜 被は冷やかに、燈は残【うす】れて臥床を払ふ 燕子楼の中の霜月の夜よ 秋来たって只一人の為に長し)
李白の足跡0000 

297-#4 《卷十五18送薛九被讒去魯》#4 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#4> Ⅰ李白詩1596 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6528

李白  送薛九被讒去魯#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。沙丘無漂母,誰肯飯王孫。
ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

297-#4 《卷十五18送薛九被讒去魯》#4 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#4> Ⅰ李白詩1596 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6528

 


年:41年開元二十九年41

卷別:    卷一七五              文體:    五言古詩

詩題:    送薛九被讒去魯

作地點:              目前尚無資料

及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

交遊人物/地點:薛九          當地交遊

 

 

送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

#3

#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

信陵奪兵符,為用侯生言。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

春申一何愚,刎首為李園。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。

借問笑何人,笑人不好士。

そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。
#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

(下し文)
#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

(現代語訳)
#4

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。

そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。

君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。

顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。


(訳注) #4

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

李白の足跡0000 

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。

四公子 平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は賓客を好み、それにより成果を上げた、という点において賢者であるとされる。

黃泉 春秋左氏傳「不及黃泉,無相見也。」とあり史記鄭世家集解引服虔注に「天玄地黃,泉在地中,故曰黃泉。」とし、「黃泉死所葬。」とみえる。

 

借問笑何人,笑人不好士。

そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。

 

爾去且勿諠,桃李竟何言。

君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。

桃李 徳のある人は、自分からは何も言わなくても、その徳を慕って人々が自然に集まってくることのたとえ。《「史記・李将軍列伝》「桃李成蹊」(「桃李不言、下自成蹊。」桃李もの言わざれど下自ら蹊を成す)

 

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

沙邱 瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門

沙邱城下寄杜甫 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白190

故郷の淮陰に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分を侮辱した少年、居候させていた亭長を探して呼び出した。まず、老女には使い切れないほどの大金を与えた。次いで、かつての少年には「あの時、殺すのは容易かったが、それで名が挙がるわけでもない。我慢して股くぐりをしたから今の地位にまで登ることができたのだ」と言い、中尉(治安維持の役)の位につけた。亭長には「世話をするなら、最後までちゃんと面倒を見よ」と戒め、百銭を与えた。

 

宿五松山下荀媼家

令人慚漂母,三謝不能餐。

淮陰書懷寄王宗成

暝投淮陰宿,欣得漂母迎。斗酒烹黃雞,一餐感素誠。

猛虎行

張良未遇韓信貧,劉項存亡在兩臣。暫到下邳受兵略,來投漂母作主人。

玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首之二

飢從漂母食,閑綴羽陵簡。

送薛九被讒去魯

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 
 2015年8月29日の紀頌之5つのBlog 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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297-#4 《卷十五18送薛九被讒去魯》#4 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#4> Ⅰ李白詩1596 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6528 
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87-#2 燕喜亭記 韓愈(韓退之) 804年貞元20年 37歳<1509> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6529 
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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年-112杜甫 《巻1540夔州歌十絕句,十首之十》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-112 <975> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6530 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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297-#3 《卷十五18送薛九被讒去魯》#3 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#3> Ⅰ李白詩1595 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6523

李白  送薛九被讒去魯》#3

毛公一挺劍,楚趙兩相存。孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。春申一何愚,刎首為李園。
#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。

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年:41年開元二十九年41

卷別:    卷一七五              文體:    五言古詩

詩題:    送薛九被讒去魯

作地點:              目前尚無資料

及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

交遊人物/地點:薛九          當地交遊

 

 

送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

#3

#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

信陵奪兵符,為用侯生言。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

春申一何愚,刎首為李園。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。
#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。

春申一何愚,刎首為李園。

(下し文)
#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。

(現代語訳)
#3(戦国の毛遂、馮諼、侯嬴、李園の四人の讒言)

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

ただ、春申君の場合は、まことに愚の骨頂で、その行為も純粋ではないことに倚る。つまり、“李園”は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君の子を身ごもったに李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができるとし、献上して、李園の妹は王后となり、李園は高位に登ったことで、春申君は口封じのため、李園に首をはねられてしまった。



(訳注)

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

 

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

そうした中で、平原君の上客である“毛遂”は秦に趙の首都・邯鄲を包囲された時剣を按じて楚王の前に出て自薦して楚趙の合従を説き、遂に軍事同盟を成立させたことにより、両国はなお、存立することができた。

毛公 紀元前259年、秦軍は更に趙の首都・邯鄲を包囲した。平原君は救援を求めるために楚へと赴いた。この時に客の一人の毛遂と言う者が同行したいと名乗り出てきた(毛遂自薦)。平原君は「賢人と言うものは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ着てから3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい。」と断った。毛遂はこれに「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ。」と答え、この返答が気に入った平原君は毛遂を連れて行くことにした。これが「嚢中の錐」の原典である。

平原君は楚に入り、楚の考烈王に合従(同盟)を説いたが、楚は前に秦に侵攻されたこともあって脅威に思い中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち、「白起は楚の首都を焼いて楚の祖先を辱めました。合従は趙のためではない、楚のためである」と説いて考烈王はこれを受け入れた。これに喜んだ平原君は帰国後に毛遂を上客とした。

毛遂自薦の故事は、戦国七雄時代(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)に、秦に攻め込まれ

た趙の王平原君が、楚に救いを求めに行った折り、趙の食客(特別な技術・才能をもち、

客として召し抱えられた人)の毛遂が自ら名乗り出て、楚王との交渉を成功させ、秦と

の戦いに勝利をおさめたという話です。(『史記』平原君虞卿列伝)

 

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

それから、“馮諼”は、孟嘗君にずるいウサギは巣を3つ持っているということで、逃げ道をいくつもつくり用意周到であることが重要であると説き、尽力して数十年間、災いもなく国が存立した。

孟嘗習狡兔 ずるいウサギは巣を3つ持っているということで、)逃げ道をいくつもつくり用意周到である.

《戰國策》卷十一〈齊四·齊人有馮諼者〉“孟嘗君就國於薛,未至百里,民扶老攜幼,迎君道中。孟嘗君顧謂馮諼:「先生所為文市義者,乃今日見之。」馮諼曰;「狡兔有三窟,僅得免其死耳。今君有一窟,未得高枕而臥也。請為君復鑿二窟。」孟嘗君予車五十乘,金五百斤,西遊於梁,謂惠王曰:「齊放其大臣孟嘗君於諸侯,諸侯先迎之者,富而兵強。」於是,梁王虛上位,以故相為上將軍,遣使者,黃金千斤,車百乘,往聘孟嘗君。馮諼先驅誡孟嘗君曰:「千金,重幣也;百乘,顯使也。齊其聞之矣。」梁使三反,孟嘗君固辭不往也。齊王聞之,君臣恐懼,遣太傅黃金千斤,文車二駟,服劍一,封書謝孟嘗君曰:「寡人不祥,被於宗廟之祟,沉於諂諛之臣,開罪於君,寡人不足為也。願君顧先王之宗廟,姑反國統萬人乎?」馮諼誡孟嘗君曰:「願請先王之祭器,立宗廟於薛。」廟成,還報孟嘗君曰:「三窟已就,君姑高枕為樂矣。」”

 

信陵奪兵符,為用侯生言。

信陵君は、“侯嬴”の謀により王の臥内の兵符を盗んで、晉鄙の軍の指揮権を奪い、自ら将軍として趙を救い、ついに大成功をおさめた。このように、讒言を聞いて上手くいったこともあるのである。

奪兵符 王の臥内の兵符を盗む 侯嬴は信陵君に手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきだと説いた。国軍を動かすために、王の手元から軍に命令を下すための割符を魏王の寵愛する姫に盗ませ、将軍の晋鄙がこれを疑ったならば、朱亥に将軍を殺させ軍の指揮権を奪うようを説いた。

信陵君は国境の城に出向き、割符を見せ、軍を率いていた晋鄙将軍に交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言ったため、やむなく朱亥が40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なお、これに前後して侯嬴は信陵君がいる方向へ、自らの命を手向けとするべく自刎した。

信陵君は、中国戦国時代の魏の公子であり、政治家・軍人。三代昭王の末子。姓は姫、氏は魏、諱は無忌。戦国四君の一人。大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、兄王に疑われて憂死した。

侯生言 侯嬴の謀。信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。その通り、信陵君は宴席を設けたが侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である朱亥と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔もせず待っていた。そして宴席で信陵君は侯嬴を上席へと座らせた。他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席にしたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をしていた理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑す一方で待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。

 

春申一何愚,刎首為李園。

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春申一何愚,刎首為李園 春申君の食客のひとりに李園がいた。李園の妹は美人でいずれ楚の考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身篭る。これに対して李園は考烈王に子が無いことに付け込んで、春申君に李園の妹を考烈王に献上し、腹の中の子を考烈王の子として、次代の楚王にすれば、楚を手に入れることができると唆した。春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。李園の妹は王后となり、李園は高位に登った。

その後、李園は事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになった。春申君の食客の朱英は危機感を覚え、李園の殺害を命じるよう春申君に言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。

297-#2 《卷十五18送薛九被讒去魯》#2 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297-#2> Ⅰ李白詩1594 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6518

李白  送薛九被讒去魯#2   

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。田家養老馬,窮士歸其門。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。卻斬美人首,三千還駿奔。
鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

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 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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年:41年開元二十九年41

卷別:    卷一七五              文體:    五言古詩

詩題:    送薛九被讒去魯

作地點:              目前尚無資料

及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

交遊人物/地點:薛九          當地交遊

 

 

送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

#3

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。

春申一何愚,刎首為李園。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。

#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

田家養老馬,窮士歸其門。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

卻斬美人首,三千還駿奔。

(下し文)
#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

(現代語訳)
鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。


(訳注) #2

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

 

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

鳳凰ができ来たと言ってだれの家に宿泊させるのか、食うべきものがなくやむを得ず、羣雞と一緒になっているよりほかない。才あるものも其のところを得なければ、羣小の者といっしょくたにされてしまう。

 

田家養老馬,窮士歸其門。

田子の方は、払下げの老馬を買いとって、大事に飼育したために、窮士はその門に来たりあつまったのである。

○田家養老馬 田子方の老馬を贖うという故事に基づく。《淮南子人間訓》 田子方見老馬於道, 喟然有志焉, 以問其御曰: '此何馬也?'其御曰: '此故公家畜也。 老罷而不為用, 出而鬻之。”田子方曰:“少而貪其力,老而棄其身,仁者弗為也。”束帛以贖之。疲武聞之,知所以歸心矣。

 

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

つぎに、平原君の美人は、躄者の水をくむのがおかしいと言って笑ったが、平原君は、これを問題にしなかった。というのも、平原君は、躄者との約束にそむいて、この美人の首を斬ることをしなかったために、集まっていた賓客は、辞してその門を去っていったのである、

○蛾眉笑躄者 《史記》卷七十六〈平原君虞卿列傳平原君〉

平原君趙勝者趙之諸公子也

平原君趙勝という者は、趙の諸(もろもろ)の公子である。

諸子中勝最賢喜賓客賓客蓋至者數千人

諸(もろもろ)の子の中で趙勝が最も賢(かしこ)く、賓客(ひんきゃく)を喜び、賓客(ひんきゃく)のおおむね至った者は数千人。

平原君相趙惠文王及孝成王

平原君趙勝は趙恵文王及び趙孝成王を補佐し、

三去相三復位封於東武城

三たび宰相をやめて、三たび宰相に復位(ふくい)し、東武城に封ぜられた。

平原君家樓臨民家

平原君趙勝の家の高楼(こうろう)は民家に臨(のぞ)んでいた。

民家有躄者槃散行汲

民家にはいざりの者がおり、よろめきながら水を汲(く)みに行った。

平原君美人居樓上臨見大笑之

平原君の美人が高楼の上に居(お)り臨(のぞ)み見て、これを大いに笑った。

明日躄者至平原君門請曰

明くる日、いざりの者が平原君趙勝の門に至り、請(こ)うた、曰く、

臣聞君之喜士士不遠千里而至者

「わたしは君(平原君趙勝)の士を喜ぶことを聞きました。士の千里(せんり)を遠(とお)くとせずして至るのは、

以君能貴士而賤妾也

君を以って士を貴(たっと)び、妾(そばめ)を賤(いや)しむことができるからです。

臣不幸有罷癃之病而君之后宮臨而笑臣

わたしは不幸にも不治の病が有り、しこうして、君(平原君趙勝)の後宮が臨(のぞ)み見て、わたしを笑いました。

臣願得笑臣者頭平原君笑應曰諾

わたしは願わくはわたしを笑った者の頭(あたま)を得たい」と。平原君趙勝は笑って応(こた)えて曰く、「承知した」と。

躄者去平原君笑曰

いざりの者が去(さ)り、平原君趙勝は笑って曰く、

觀此豎子乃欲以一笑之故殺吾美人不亦甚乎

このような小僧(こぞう)をかんがみよ。すなわち一度笑った故(ゆえ)を以って吾(わ)が美人を殺そうと欲するは、なんと甚(はなは)だしいことではないか」と。

終不殺居餘賓客門下舍人稍稍引去者過半

とうとう殺さなかった。一年余りがたって、賓客、門下の舎人が稍稍(しょうしょう)と次第に引き去(さ)る者が半数を越えた。

平原君怪之曰勝所以待諸君者未嘗敢失禮

平原君趙勝はこれを不思議に思い、曰く、「わたしの諸君(しょくん)をもてなす方法は未(いま)だ嘗(かつ)て敢(あ)えて礼(れい)を失(うしな)ったことはない。

而去者何多也門下一人前對曰

しかし去(さ)った者がどうして多いのだろうか」と。門下(もんか)の一人が前に出て応(こた)えて曰く、

以君之不殺笑躄者以君為愛色而賤士士即去耳

「君(平原君趙勝)のいざりを笑った者を殺さなかったことを以って、君(平原君趙勝)を以って色(いろ)を愛(め)でて士を賤(いや)しむと為し、士はすなわち去(さ)っただけであります」と。

於是平原君乃斬笑躄者美人頭

ここに於いて平原君趙勝はすなわちいざりの者を笑った美人の頭を斬った。

自造門進躄者因謝焉其后門下乃復稍稍來

自(みずか)ら門にいたりいざりの者に進(すす)め、因(よ)りて謝(しゃ)した。その後、門下はすなわちふたたび稍稍(しょうしょう)と次第に来るようになった。

是時齊有孟嘗魏有信陵

この時、斉には孟嘗君田文がおり、魏には信陵君魏無忌がおり、

楚有春申故爭相傾以待士 

楚には春申君黄歇がおり、故(ゆえ)に互いに耳をそばだてて士をもてなすことを争(あらそ)った。

 

卻斬美人首,三千還駿奔。

結果、それに気が付いた平原君は、美人を切って、躄者に詫び、暑く礼をしたために、三千人の賓客はまたぞろ大急ぎでその門に駆け込んできた。

○駿奔 駿は大急ぎという意。奔は駆け込むさまをいう。大急ぎでその門に駆け込んできた。

297-#1 《卷十五18送薛九被讒去魯》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <297> Ⅰ李白詩1585 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6473

李白  送薛九被讒去魯   

宋人不辨玉,魯賤東家丘。我笑薛夫子,胡為兩地遊。

黃金消口,白璧竟難投。梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。
(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

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 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
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 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog8毛文錫《巻五50巻五16甘州遍二首其二》『花間集』249全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6517 
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 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
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年:41年開元二十九年41

卷別:    卷一七五              文體:    五言古詩

詩題:    送薛九被讒去魯

作地點:              目前尚無資料

及地點:瑕丘 (河南道 兗州 瑕丘) 別名:魯城、沙丘城、魯東門             

交遊人物/地點:薛九          當地交遊

 

 

送薛九被讒去魯 #1

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

#2

鳳凰宿誰家,遂與群雞匹。

田家養老馬,窮士歸其門。

蛾眉笑躄者,賓客去平原。

卻斬美人首,三千還駿奔。

#3

毛公一挺劍,楚趙兩相存。

孟嘗習狡兔,三窟賴馮諼。

信陵奪兵符,為用侯生言。

春申一何愚,刎首為李園。

#4

賢哉四公子,撫掌黃泉裡。

借問笑何人,笑人不好士。

爾去且勿諠,桃李竟何言。

沙丘無漂母,誰肯飯王孫。

 

(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 眾口に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

#2

鳳凰 誰が家に宿し,遂に 群雞と匹す。

田家 老馬を養い,窮士 其の門に歸す。

蛾眉 躄者を笑い,賓客 平原を去る。

卻って美人の首を斬り,三千 還た駿奔。

#3

毛公 一たび劍を挺し,楚趙 兩つながら相い存す。

孟嘗 狡兔に習い,三窟 馮諼に賴る。

信陵 兵符を奪い,為に 侯生の言を用う。

春申 一に何ぞ愚なる,刎首【ふんしゅ】李園の為なり。

#4

賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。

爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。

沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。

 

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00 

『送薛九被讒去魯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送薛九被讒去魯

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

黃金消口,白璧竟難投。

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

(下し文)
(薛九の讒せられて魯を去るを送る)#1

宋人 玉を辨ぜず,魯は東家の丘を賤しむ。

我は笑う 薛夫子,胡為れぞ兩地に遊ぶ。

黃金 に消し,白璧 竟に投じ難し。

梧桐 蒺藜を生じ,綠竹 佳實に乏し。

(現代語訳)
(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。


(訳注)

送薛九被讒去魯

(薛九というものが、讒言によって、貶められ、魯国を立ち去るについて、賦して贈ったもの)

 

宋人不辨玉,魯賤東家丘。

昔、宋の人はその性格ははなはだ愚にして、玉の何たるかを知らず、燕石を珍として、大事にしていたというし、魯の国の人は、孔子の聖人たるを知らず、これを呼び捨てにし、東家の邱と言っていたくらいである。

○宋人不辨玉 宋人は燕石を珍重した。・燕石《燕山から出る、玉(ぎょく)に似るが玉でない石の意》まがいもの。また、価値のないものを珍重し、誇ること。小才の者が慢心するたとえ。1.燕山所的一种似玉的石后以“燕珉”不足珍之物。2.凡庸之3.指燕然石。李白《古風,五十九首之五十》「宋國梧臺東,野人得燕石。誇作天下珍,卻哂趙王璧。趙璧無緇磷,燕石非貞真。流俗多錯誤,豈知玉與珉。」宋國 梧臺の東,野人 燕石を得たり。誇って 天下の珍と作し,卻って 趙王の璧を哂う。趙璧は 緇磷【しりん】無く,燕石は 貞真に非らず。流俗 錯誤多し,豈に玉と珉とを知らんや。

(この詩は、世俗のものは短見であり、すべてものの真贋、人の賢否を弁別せぬことをいたんだもの)

昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通のつまらぬ燕石を拾ったという。

一途に趙王の秘蔵する卞和の璧玉にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だから、これを大切にしたいという話がある。

かの趙の碧玉は少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるがこの燕石はその質、すでに、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。

しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

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○東家丘 ·文選張詵注:「魯人不識孔子聖人,乃雲:『我東家丘者,吾知之矣。』言輕孔丘也。」(魯人 孔子の聖人たるを識らず,乃ち雲う:『我が東家の丘なる者,吾 之を知れり。』と。言うは孔丘を輕んずるなり。」

 

我笑薛夫子,胡為兩地遊。

世の中には、眼にしても見えない奴が多いものだ、せっかく才があっても、容易に認められるものではない。今、薛君は、何が故に、この地より他国に出かけるのか、ちょっと聞いただけでは笑べきことではあるが、よくよく考えれば、まことに無理もないことである。

 

黃金消眾口,白璧竟難投。

黄金は衆口によって消鑠され、美事な玉も、暗中に投ずれば、剣を按じてみるというくらいで、うっかり、投げ出すわけにはいかず、才があったところで、やたらに見せつけると、必ず禍を受けるものである。

○黃金消眾口 國語 衆口鑠金,鑠,消也。衆口所,雖金石猶可消。(衆口は金を鑠す,鑠は,消なり。衆口の所,金石と雖も猶お消す可きなり。)に基づく。

○白璧竟難投 《史記鄒陽傳》「明月之珠,夜光之璧,以暗投人於道路,人無不按劍相眄者,何則、無因而至前也。」(明月の珠,夜光の璧,暗を以て人に道路に投ずれば,人 劍を按じて相眄せざるものなし,何となれば則ち、因なくして前に至ればなり。)に基づく。

 

梧桐生蒺藜,綠竹乏佳實。

梧桐の樹は、蒺蔾が寄生し、竹も実を結ばないから、折角、鳳凰が出てきたところで、棲むべきところもなく、食らうものもなく、やむを得ず、羣鶏と一緒になっているよりほかないので、才あるものも、その処を得ざれば、羣小のものと肩を並べることになる。

梧桐 ① アオギリの異名。 五三(ごさん)の桐(きり) 」に同じ。

蒺藜 蒺藜科蒺藜屬植物。薬草。
李白の足跡0000 

296 《巻十四02別魯頌》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <296> Ⅰ李白詩1584 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6468

李白  別魯頌  

誰道泰山高,下卻魯連節。誰云秦軍眾,摧卻魯連舌。

獨立天地間,清風灑蘭雪。夫子還倜儻,攻文繼前烈。

錯落石上松,無為秋霜折。贈言鏤寶刀,千庶不滅。

(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    別魯頌

作地點:              目前尚無資料

及地點:泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

 

 

別魯頌

(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

誰道泰山高,下卻魯連節。

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。

誰云秦軍眾,摧卻魯連舌。

誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。

獨立天地間,清風灑蘭雪。

かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。

夫子還倜儻,攻文繼前烈。

わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。

錯落石上松,無為秋霜折。

彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。

贈言鏤寶刀,千庶不滅。

そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

 

(魯頌に別る)

誰か泰山を高しと道ふ、下却す魯蓮の節。

誰か秦軍を衆しと云ふ、摧卻す魯連の舌。

獨立す天地の間、清風、蘭雪に灑ぐ。

夫子、還た倜儻、文を攻めて、前烈に繼ぐ。

錯落たり石上の松、秋ほう霜に折らるるなし。

贈言 寶刀に鏤むれば、千歳 庶はくば滅せざらむ。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山j00 

 

『別魯頌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

別魯頌

誰道泰山高,下卻魯連節。

誰云秦軍,摧卻魯連舌。

獨立天地間,清風灑蘭雪。

夫子還倜儻,攻文繼前烈。

錯落石上松,無為秋霜折。

贈言鏤寶刀,千庶不滅

(下し文)
(魯頌に別る)

誰か泰山を高しと道ふ、下却す魯蓮の節。

誰か秦軍を衆しと云ふ、摧卻す魯連の舌。

獨立す天地の間、清風、蘭雪に灑ぐ。

夫子、還た倜儻、文を攻めて、前烈に繼ぐ。

錯落たり石上の松、秋ほう霜に折らるるなし。

贈言 寶刀に鏤むれば、千歳 庶はくば滅せざらむ。


(現代語訳)
(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。

誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。

かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。

わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。

彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。

そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

李白の足跡0000
(訳注)

別魯頌

(魯頌に別れるにあたって、魯という姓の故を以て、古の魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。)

魯頌は人名。この詩は魯頌に別るるに際し、同姓の故を以て、古しへの魯仲連を引合に出して、その想を構へたのである。

魯仲連 (約前305年—前245年),有時簡稱魯連。戰國時代齊國茌平人(今山東省茌平縣王老望魯店村),為遊名士。曾就學於稷下學宮,不願出任官職。由於他的遊技巧卓越,有著名的「義不帝秦」辯論。成為現代「和事佬」的代名詞。《漢書》藝文志有《仲連子》14篇。

斉の人。特異卓抜な計画が好きで、宮仕えを厭い、好んで高節を堅持した。B.C.258秦軍が趙の邯鄲を包囲し、趙は魏に救援を求めた。魏安釐王は客将の新垣衍を邯鄲に潜入させ、 平原君を通じて趙孝成王に「使者を秦に遣わし尊んで帝と称するなら、 秦は喜んで兵を引き揚げるだろう」と言わせようとした。魯仲連はたまたま趙に遊説しており、平原君に新垣衍と合わせてくれるよう請うた。

魯仲連は説いて自説を取りやめるよう新垣衍を説得し、結局新垣衍は再拝して取りやめた。

秦軍が去った後、平原君は魯仲連を封じようとしたが「天下の士が貴いのは、人のために禍を除き災難を払い、紛争を解いて身に受けるところがないからである。 金を受けるのは商人のすることで連のできるところではない」と言って去り、生涯再び会わなかった。

斉の将軍田単が長狄を討とうとして、魯仲連に会いに出かけた。魯仲連は「将軍が狄をお攻めになっても、降すことはできますまい」 と言った。田単は挨拶もせずに憤然と立ち去った。しかし田単は狄を3ヶ月攻めたが降すことができなかった。

田単は再び魯仲連に見えた。魯仲連は「将軍が即墨におられたときは、決死の覚悟があり、士卒には生き延びる未練はありませんでした。たから強い燕を破ることができたのです。 ところが、いまや将軍には掖邑の領地があり、生きる楽しみがあって、死ぬ覚悟がありません。これが勝てない原因です」と言った。

田単はそこで気を奮い起こして、ついに狄を討ち破った。

燕の将軍が斉を攻め、聊城を取った。聊城の人が燕王に将軍のことを讒言したため、将軍は誅殺されることを恐れて、国に帰らなかった。 田単は聊城を討ったが、一年経っても落ちなかった。

魯仲連は燕将に書簡をもって 「孫臏や管夷吾や曹沫は小恥を知り、 小節をおこなうことができなかったのではなく、わが身を殺し、家系を断ち、子孫を絶やして功名の立たないのを智者の振舞いとしなかったのである。

願わくば公にも、その一を選んで実行されますように」と言った。

燕将は書簡を見て泣くこと3日、帰国することも降ることもできないので自殺した。田単はついに聊城をおとしいれた。

田単は王にこのことを言上し、爵位を与えようとしたが、魯仲連は逃げて海浜に隠れ「わたしは富貴の身となって人主に屈するより、むしろ貧賤のまま世を軽んじ、 思いのままに振舞いたい」と言った。

 

誰道泰山高,下卻魯連節。

誰か泰山を高いといふか、魯仲連の高節に比すれば、もとより圧し下れて仕舞うというものだ。

下卻 ~より劣っているという意。

泰山 山東省中部にある名山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。中国五岳の一。古来信仰の対象となり、秦・漢時代から皇帝が封禅 (ほうぜん) の儀式を行った所。玉皇廟など古跡が多い。

 

 

誰云秦軍眾,摧卻魯連舌。

誰か秦軍を多勢だというか、魯伸連の舌の先で、散散に打砕かれて仕舞ったという。

摧卻魯連舌 魯仲連の舌先で摧かれる。

嘲魯連子 韓愈(韓退之) <165>Ⅱ中唐詩771 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2839

 

獨立天地間,清風灑蘭雪。

かの魯伸連は、天地の間に獨立し、その人物の高潔なることは、清風が蘭の葉の上の雪に吹き灑ぐようである。

 

夫子還倜儻,攻文繼前烈。

わが魯頌も、魯仲連と同姓の縁故があるというのみならず、その人物も倜儻不羈で、はるかに、羣俗に抜き、そしで、文學を攻究して、前人の功烈を継がんとしている。

倜儻 才気があって優れていること。 「倜儻不羈(てきとうふき)」は、「信念と独立心を持ち、安易に人に左右されない」

前烈 前人のすぐれた功績。《文選.司馬相如.巴蜀檄》:「名聲施於無窮,功烈著而不滅。」 功業。

 

錯落石上松,無為秋霜折。

彼は、錯落たる石上の松に比すべきもので、どうか、秋霜に折られぬようにして欲しい。

錯落 。いろいろと、ふぞろいの物が入り混じっているさま。▽「参差」は長短・高低入り混じり、ふぞろいなさま。「錯落」はたくさんの物がごたごた入り混じるさま。

 

贈言鏤寶刀,千庶不滅。

そこで、言を贈らんとして、よって、これを賓刀にほり付けることにしたから、こいねがわくば、千歳の後までも、決して泯滅することがないように、幸に我が嘱望に負かざらんことを希望する。

鏤寶刀 南朝梁·江淹·古意報袁功曹詩「故人贈寶劍, 鏤以瑤華文。」に基づく。

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李白  贈從弟冽 #3  

降霖雨,公輸造雲梯。羌戎事未息,君子悲塗泥。

報國有長策,成功羞執圭。無由謁明主,杖策還蓬藜。

他年爾相訪,知我在磻溪。
むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。

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年:741年開元二十九年41

卷別:    卷一七一              文體:    五言古詩

詩題:    贈從弟冽

作地點:              兗州(河南道 / 兗州 / 兗州)

及地點:              漆園 (河南道 曹州 漆園)    

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸     

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:李冽          當地交遊(河南道 兗州 兗州)

 

 

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

楚人不識鳳,重價求山雞。

楚人は、鳳を知っていないものであることに因り、山鶏を鳳凰だといわれると、それを本当だと思って、高い價を以て之を買うという。

獻主昔云是,今來方覺迷。

あるいは、楚王に献ぜむとしたという昔ばなしもあるけれど、自分自身のことも、その通りで、格別すぐれても居ない自分の才芸を非常に貴いものと思い込んで、天子に献せむとし、その時分は、善いことと思っていたが、つい近ごろに成って、それは心の迷に過ぎないということを自覚したのである。

自居漆園北,久別咸陽西。

かくて、西、長安を去って、北の方、漆園の地に来たのも、すでに久しきを経ている。

風飄落日去,節變流鶯啼。

風は飄って、落日、西に沈み、節序しきりに変じて、もう鶯も来て啼く春となった。

(從弟冽に贈る)

楚人 鳳を識らず,價いを重くし 山雞を求む。

主獻じて 昔 是なりと云う,今 來って方に迷を覺る。

漆園の北に居りて自り,久しく別る 咸陽の西。

風は飄って 落日去り,節變じて 流鶯啼く。

#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。

なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。

逢君發花萼,若與青雲齊。

かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。

兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。

日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。

顧余乏尺土,東作誰相攜。

但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。

#2

桃李 寒 未だ開かず,幽關 豈に蹊に來らんや。

君に逢うて花萼を發し,青雲と齊しきが若し。

此の桑葉の綠なるに及び,春蠶 中閨に起る。

日出でて 布穀 鳴き,田家 鋤犁を擁す。

顧りみるに余 尺土に乏しく,東作 誰か相い攜えん。

#3

降霖雨,公輸造雲梯。

むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。

羌戎事未息,君子悲塗泥。

今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。

報國有長策,成功羞執圭。

そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。

無由謁明主,杖策還蓬藜。

何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。

他年爾相訪,知我在磻溪。

しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。

 

#3

霖雨を降し,公輸は雲梯を造る。

羌戎 事 未だ息まず,君子 塗泥を悲しむ。

國に報ゆるに長策有り,功を成すも 執圭を羞ず。

明主に謁するに由無く,策を杖いて蓬藜に還る。

他年 爾 相い訪わば,我が磻溪に在るを知らん。

 

李白の足跡0000 

『贈從弟冽』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

降霖雨,公輸造雲梯。

羌戎事未息,君子悲塗泥。

報國有長策,成功羞執圭。

無由謁明主,杖策還蓬藜。

他年爾相訪,知我在磻溪。

(下し文)
#3

は霖雨を降し,公輸は雲梯を造る。

羌戎 事 未だ息まず,君子 塗泥を悲しむ。

國に報ゆるに長策有り,功を成すも 執圭を羞ず。

明主に謁するに由無く,策を杖いて蓬藜に還る。

他年 爾 相い訪わば,我が磻溪に在るを知らん。

(現代語訳)
#3

むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。

今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。

そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。

何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。

しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。


(訳注) #3

贈從弟冽

(この詩は、從弟の李冽といふものに贈って、自己の境涯を述べたのである。)

 

降霖雨,公輸造雲梯。

むかし、傳説は、武丁に用ひられ、尚書に「歳大に旱すれば汝を用いて霖雨と成さむ」といわれ、公輸は、「雲梯を造って、宋を攻めた」というので、この二人は、十分に、その才能を発揮して、国家の為につくしたので、わが理想とするところも、これにほかならぬ。

○霖雨 《尚書》卷十〈商書命上〉命之曰:「若金,用汝作礪。若濟巨川,用汝作舟楫。若大旱,用汝作霖雨。」(若し金ならば、汝を用て礪と作さん。若し巨川を濟[わた]らば、汝を用て舟楫と作さん。若し大いに旱せば、汝を用て霖雨と作さん。)

○公輸 公輸般、公輸盤、公輸子ともいい,魯の哀公(494‐前468)の時代の人で,魯の昭公の子ともいわれるが定かでなく,また一説には魯班と公輸は別人ともいう。《墨子》に公輸の一編があり,公輸般が楚国のために〈雲梯(うんてい)〉と呼ばれる高く長い攻城の器具を作り宋を攻めようとしたことが記される。また同書の魯問篇に,竹木を削って(鵲(かささぎ),あるいは鳶(とび)ともいう)を作り,飛ばすと3日間も落ちることがなかったという。

 

羌戎事未息,君子悲塗泥。

今しも、西域や北方の異民族どもは、叛逆を企て、その乱、未だに平定しておらず、君子は、塗泥に陥って、まだ救ひ上げられずにいる。

羌戎 古代西域の異民族,羌族。 戎は古代兵器をいい、军队事:兵戎。投笔从戎。戎装。

塗泥 どろまみれになること。また、どろみち。ぬかるみ。苦しみの表現。

 

報國有長策,成功羞執圭。

そこで、われは、国家に報いんがために、胸中に長策を蔵して居るし、また、たとえ成功したところで、それぞれの階級に応じた玉器を受けるを羞としでいる位である。

長策 遠大なはかりごと。長計。

執圭 《周禮》「王執鎮圭,公執桓圭,侯執信圭,伯執躬圭,子執穀璧,男執蒲璧。」王は鎮圭を執り,公は桓圭を執り,侯は信圭を執り、伯は躬圭を執る。子は穀璧を執る,男は蒲璧を執る。圭とは古代、祭祀において玉器を用いること。それぞれの階級に応じた玉器もちいること、授かることをいう。

 

無由謁明主,杖策還蓬藜。

何も褒美を貰わんがためではなく、心の底から、國家の多難を憂え、一から、やむを得ず思い切り、鞭に杖いて、むぐらの宿に還った次第である。

杖策 鞭を杖にする。左思·招隱詩二首之一「杖策招隱士,荒塗橫古今。」唐杜甫《1464常徵君》:“儿扶犹杖策,卧病一秋。”

 

他年爾相訪,知我在磻溪。

しかし、このままでは、とても済まされぬから、伝説のの太公望を学んで、釣をなし、そして、聖主の夢に入ったならば、あるいは迎えられて拝謁することができるかもしれない。そこで、汝にして、他年われを訪わんとならば、磻渓の様なところにいるものと思って、尋ねてきたら善かろう。

磻溪 傳姜太公垂釣磻溪,直鉤無餌,離水三尺,愿者上鉤。其實,他是藉釣魚養望等待出仕時機罷了。

溪中有泉,謂之茲泉,泉水潭積,自成淵渚,即《呂氏春秋》所謂太公釣茲泉也。今人謂之凡谷,石壁 ... 其投竿跽餌,兩膝遺跡猶存,是有磻溪之稱也。

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李白  贈從弟冽#2

桃李寒未開,幽關豈來蹊。逢君發花萼,若與青雲齊。

及此桑葉綠,春蠶起中閨。日出布穀鳴,田家擁鋤犁。

顧余乏尺土,東作誰相攜。
なんといっても北の地の事であるから、桃李は、なお寒を怕れて咲き出してはいないし、桃李の下ならず、幽関の下に、游人きたり聚まりはしないので、蹊すらもできない。かくて、君に遇うて、花萼の親を重ねて兄弟のようにしていると、どうやら、青雲の上に登ったような気がしてくる。兎角する内に、桑の葉が出て緑になってくるし、家家の閨中に於ては、春蠶を飼うために忙しくなってきている。うららかな日の差し上る頃に、『皂,戴。』布穀の鳥が鳴けば、いよいよ野良仕事をする時がきたというので、農家においては、犂鋤や犁鋤を携えて、毎日畑へ出かけるようになる。但し、自分は、尺士をすこしだに有していないので、誰と共に、田疇に耕すべきであろうか、人人がこのように農繁期の時分に、全くなすこともなくして、のらくらと遊んでいるだけである。

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