李白 送魯郡劉長史遷弘農長史-#2
聞君向西遷,地即鼎湖鄰。寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。
軒后上天時,攀龍遺小臣。及此留惠愛,庶幾風化淳。
承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。
298-#2 《卷十六01送魯郡劉長史遷弘農長史》#2 Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <298-#2> Ⅰ李白詩1598 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6538
年:741年開元二十九年41歳
卷別: 卷一七六 文體: 五言古詩
詩題: 送魯郡劉長史遷弘農長史
作地點: 目前尚無資料
及地點:兗州 (河南道 兗州 兗州) 別名:魯郡、魯中、東魯、東郡
虢州 (河東道 虢州 虢州) 別名:弘農郡
鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)
交遊人物/地點:劉長史 當地交遊(河南道 兗州 兗州)
送魯郡劉長史遷弘農長史-#1
(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)-#1
魯國一杯水,難容橫海鱗。
むかしから、魯国においては、ただの一杯の水湛えるのと同じように、海を横絶するような大魚を入れることはできないとされた。
仲尼且不敬,況乃尋常人。
折角、孔子のような大聖人が出てきても、これを用いる事は無かった、高士でさえ魯国の人に尊敬されなかったのであるから、まして、常人が大切にされたり、扱いの良いことなどないので遣り切れない。
白玉換斗粟,黃金買尺薪。
そんなことであったから、貴殿もこの地に在ったこれまで、多くの人から粗末な扱いを受け、白玉を以て、一斗の粟に換え、黄金を持って一束の薪を買うという、安い価値の物を高く買わされ、ほとほと困っていたことである。
閉門木葉下,始覺秋非春。
かくて、門をとずれば、木の葉はらはらと落ちて、「わが身ひとつの秋ぞ悲しき」ということがわかって、この地において春は来ることはないと悟った事であろう。
-#2
聞君向西遷,地即鼎湖鄰。
承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。
寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。
しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。
軒后上天時,攀龍遺小臣。
しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。
及此留惠愛,庶幾風化淳。
依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。
-#3
魯縞如白煙,五縑不成束。
臨行贈貧交,一尺重山嶽。
相國齊晏子,贈行不及言。
託陰當樹李,忘憂當樹萱。
他日見張祿,綈袍懷舊恩。
(魯郡の劉長史、弘農長史に遷るを送る)-#1
魯國 一杯の水,橫海の鱗を容れ難し。
仲尼 且つ敬せられず,況や乃ち 尋常の人をや。
白玉 斗粟に換え,黃金 尺薪を買う。
門を閉じ 木葉下る,始めて覺ゆ 秋 春に非ざるを。
-#2
聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。
寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。
軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。
此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。
-#3
魯縞は白煙の如く,五縑 束を成さず。
行に臨んで貧交に贈る,一尺 山嶽よりも重し。
相國 齊の晏子,行を贈って言に及ばず。
陰を託する當に李を樹うべく,憂を忘るる當に萱を樹うべし。
他日 張祿を見,綈袍【ていほう】舊恩を懷わん。
『送魯郡劉長史遷弘農長史』 現代語訳と訳註解説
(本文)
-#2
聞君向西遷,地即鼎湖鄰。
寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。
軒后上天時,攀龍遺小臣。
及此留惠愛,庶幾風化淳。
(下し文)
-#2
聞く 君が西に向って遷るを,地は即ち鼎湖の鄰。
寶鏡は蒼蘚を匣にし,丹經は素塵を埋む。
軒后 上天の時,攀龍、小臣を遺す。
此に及んで惠愛を留め,庶幾す風化の淳なるを。
(現代語訳)
-#2
承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。
しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。
しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。
依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。
(訳注) -#2
送魯郡劉長史遷弘農長史-#1
(魯郡の長史から弘農の長史に栄転する劉殿に、壮行の詩を贈る)
魯郡は、兗州弘農郡の虢州で、河南道に属し、もと上州である。元来、上州の刺史別駕の下には、長史一人あって、從五品である。長史といえば、今の縣参事官くらすということであろう。劉は、名字ともに不詳。この詩は、劉某が魯郡の長史から、弘農の長史に栄転したことに因って、その行を送るが爲に作ったのである。魯國において、この地方特有の考え方で正当な評価を受けていなかったが、弘農の長史に栄転であるから、評価も変わるであろう。
起首の八句は、劉某が魯郡に於で志を得ざることを写し、次の八句は、弘農に遷れば、大に得意なるべきを叙し、魯鎬の四句は、別に臨んで物を贈られたるを謝し、以下六句は、ここに言を贈るということに及び、以て牧結としたのである。
聞君向西遷,地即鼎湖鄰。
承れば、貴殿は、今回、西に向かって、栄転されるということで、その地は、龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた古への鼎湖が隣合わせである。
鼎湖鄰 鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山) 黄帝は、首山の胴を採掘して荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、龍が出現した。あごひげをたらして下って、黄帝を天上に迎えに来た。黄帝は、こうして龍にまたがり昇ることになった。群臣や後宮の女官で従うことを許された者は、わずか七十人あまりだった。小臣はみな昇ることを許されなかった。彼らは天に昇りたくて龍のひげをにぎってはなさなかった。そのため龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた。小臣たちはその弓を抱いて泣いた。後世、その場所を鼎湖【ていこ】と名づけ、その弓を烏号【うごう】といった。李白《巻1809答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄》「鼎湖夢淥水,龍駕空茫然。」
寶鏡匣蒼蘚,丹經埋素塵。
しかし、おもへば、黄帝の鋳造した寶鏡は、青苔に包まれ、天から授けられた丹經は、塵埃に埋没して仕舞ったという。
寶鏡匣蒼蘚 《太平廣記》卷四百六十三〈禽鳥四‧秦吉了〉「昔者吾聞黃帝鑄十五鏡。其第一橫徑一尺五寸,法滿月之數也。」とある。
丹經埋素塵 抱朴子 「黃帝陟王屋而受丹經,即此事也。」
軒后上天時,攀龍遺小臣。
しかし、黄帝が天に登る時、小臣輩は、龍の髯を攀じ、やがて、髯が抜けて、地に落されたという。
軒后上天 黄帝の別称、公孫軒轅。姓は公孫、名は軒轅。姓は姫姓とも姒氏とも言われ、また帝鴻氏とも呼ばれる。黄帝の友人・無為子および臣下のもので従って昇天したもの七十二人、従えなかった他の小臣は、落ちた竜の髯と帝の弓を抱いて号泣したという(劉向『列仙伝』など)。 いずれにせよ、黄帝の身体は竜とともに天に昇ってしまい、今でも人民政府が祭っている黄帝の陵墓は、黄帝の衣や冠だけが収められた、いわゆる「衣冠塚」だということである。
及此留惠愛,庶幾風化淳。
依然として、恵愛をとどめ、そして、千歳の後においても、どうやら、風俗は純良である。