漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

2015年10月

李白336 巻三04-《陽春歌》(長安白日照春空,) 336Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白336> Ⅰ李白詩1659 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6843

李白  陽春歌   

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何。

(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。

李白336 巻三04-《陽春歌》(長安白日照春空,) 336Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-21) <李白336> Ⅰ李白詩1659 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6843

 

 
  2015年10月31日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李白336 巻三04-《陽春歌》(長安白日照春空,) 336Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白336> Ⅰ李白詩1659 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6843  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43

卷別:    卷一六三              文體:    樂府・相和歌辭

詩題:    陽春歌

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:長安 (京畿道 京兆府 長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都      

披香殿 (京畿道 京兆府 長安)          

 

 

陽春歌

(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何。

聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。

(陽春歌)

長安の白日 春空を照らす,綠楊 煙を結んで嫋風に桑す。

披香殿の前 花 始めて紅に,流芳 色を發す 繡中。

中,相い經過す,飛燕皇後 輕身の舞,紫宮夫人 世の歌。

聖君 三萬六千日,歲歲年年 樂を奈何


 

『陽春歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

陽春歌

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何

(下し文)
(陽春歌)

長安の白日 春空を照らす,綠楊 煙を結んで嫋風に桑す。

披香殿の前 花 始めて紅に,流芳 色を發す 繡中。

中,相い經過す,飛燕皇後 輕身の舞,紫宮夫人 世の歌。

聖君 三萬六千日,歲歲年年 樂を奈何

(現代語訳)
(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。

後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。

中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。

聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。


(訳注)

陽春歌

(宮中における春日行楽の行状をのべたもの)

教坊の曲、相和歌辭の歌。宋の呉邁遠《陽春歌》、梁の沈約《陽春曲》に擬して作ったもの。

 

長安白日照春空,綠楊結煙桑嫋風。

長安の春は、いとも長閑けく晴れ渡って煕煕たる白日は、空に輝く、緑に煙る楊柳は、そよ吹く東風に垂れている。

 

披香殿前花始紅,流芳發色繡中。

後宮のうちにおいて披香殿前の花は、初めて紅にほころび、花の香りが流れ渡り、花の色は、いよいよ鮮やかに、繡にその影を映している。

披香殿 漢の未央宮の奥御殿。《西京賦》「後宮則昭陽飛翔,增成合驩,蘭林披香,鳳皇鴛鸞。」

張衡)《西京賦》(16)(華麗な後宮) 後宮には、昭陽殿・飛翔殿・増成殿・合辞殿とあり、つづいて蘭林殿・披香殿・凰皇殿・鴛鸞殿がある。いかにも柔軟優美で華麗な女官がむらがり集まって、ここで、感嘆しては後をふりかえり、目をとめて美人たちが見るところである。だから後宮の館室、それに宿衛の官舎も休暇の宿舎も、五彩の色で飾り、織細で手がこんでいる。

張平子(張衡)《西京賦》(16)(華麗な後宮)#7-1 文選 賦<114―16)>31分割68回 李白に影響を与えた詩1053 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3813

 薄絹に刺繍を施されたとびら。

 

中,相經過,飛燕皇後輕身舞,紫宮夫人世歌。

中には、幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、やがて、奥御殿においては、趙飛燕にも負けない容貌の皇后が、いとも軽い感じで掌上の舞をおどり、未央宮の中で第一であると称された李夫人のような妃嬪が歌を唄うとまことに世に類を見ないものであろう。

相經過 幾多の宮女が往来するのも、引きを切らず、

飛燕 趙 飛燕は、前漢成帝の皇后。元名を宜主と称した。 正史である『漢書』での趙飛燕に関する記述は非常に簡単なものであるが、稗史においては美貌をもって記述されており、優れた容姿を表現する環肥燕瘦の燕痩が示すのが趙飛燕である。

輕身舞 軽い感じで掌上の舞をおどること。

紫宮夫人世歌 紫宮は未央宮の別称、絶世の歌手李延年の妹が絶世の美人であた。

 

聖君三萬六千日,歲歲年年奈樂何。

聖天の君主の喜びは申すまでもなく、太平の日に際し、百年三萬六千日、日ごと日ごと、かくのごとく歓楽を極められるので、年々歳々、時々刻々、時は移りかわるが、君主の恩徳の機運は変わらず、歓楽も少しも衰えることはなく、まことにめでたいものである。

 

 

<紫宮夫人世歌

漢の武帝が晩年愛した女性に李夫人がいた。武帝が秋風辞の中で「佳人を懷うて忘る能はず」と歌ったその佳人であるとされる女性だ。彼女の一家は倡と呼ばれる芸能民だった。李延年は李夫人の兄である。何かの罪を得て、宮刑を受けたが、その後歌人として近侍していた。歌舞をよくし、新声変曲と呼ばれる新しい音楽を作り出し、その才能を以て武帝の寵を受けた。或る時、新しい曲を作って武帝の前で披露した。それが「絶世傾国の歌」である。武帝は、この歌に歌われたのが、李延年の妹であると聞かされ、婦人として迎えることとしたのである。

 

絶世傾国の歌

北方有佳人、絶世而獨立。

一顧傾人城、再顧傾人國。

寧不知傾城與傾國、佳人難再得。

北方に佳人有り、絶世にして獨立す。

一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。

寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや、佳人は再びは得がたし。

 

北方とは、李延年の故郷河北をさす。そこに絶世の美人がいて、城を傾け国を傾けさせるほど美しいといわれる。傾城傾国の憂いはもとより知らぬわけではないが、かかる佳人は二度とは得られないでしょう、こう李延年は歌う。皇帝に自分の妹を売り込んでいるのである。

李白335 巻三01-《關山月》(明月出天山,) 335Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(16) <李白335> Ⅰ李白詩1648 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6788

743年(16335 巻三01-《關山月》(明月出天山,)

李白  關山月   

明月出天山,蒼茫雲海間。長風幾萬里,吹度玉門關。

漢下白登道,胡窺青海灣。由來征戰地,不見有人還。

戍客望邊色,思歸多苦顏。高樓當此夜,歎息未應閒。

(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。 

李白335 巻三01-《關山月》(明月出天山,) 335Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-16) <李白335> Ⅰ李白詩1648 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6788

 

 

 
  2015年10月30日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李白335 巻三01-《關山月》(明月出天山,) 335Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(16) <李白335> Ⅰ李白詩1648 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6788  
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  曹植(曹子建)詩 65首 index 文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固) 《李白 全詩》
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  ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首   
  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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韓愈97-#1《 巻三17八月十五夜贈張功曹》 #1 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1571> Ⅱ#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6839  
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  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43歳 94-16

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  關山月

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山       

玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門         

白登山 (河東道 雲州 白登山)      

交遊人物/地點:

 

 

關山月

(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

明月出天山,蒼茫雲海間。

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  

長風幾萬里,吹度玉門關。

雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。

漢下白登道,胡窺青海灣。

こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。

由來征戰地,不見有人還。

だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。

戍客望邊色,思歸多苦顏。

出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。 

高樓當此夜,歎息未應閒。

その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。

(關山月)
明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。
長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。
漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。
由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。
戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。
高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。

安史期のアジアssH

 

『關山月』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

關山月

明月出天山,蒼茫雲海間。

長風幾萬里,吹度玉門關。

漢下白登道,胡窺青海灣。

由來征戰地,不見有人還。

戍客望邊色,思歸多苦顏。

高樓當此夜,歎息未應閒。
詩文(含異文)  明月出天山,蒼茫雲海間。長風幾萬里,吹度玉門關。漢下白登道,胡窺青海灣。由來征戰地,不見有人還。戍客望邊色【戌客望邊色】【戍客望邊邑】【戌客望邊邑】,思歸多苦顏。高樓當此夜,歎息未應閒【歎息未應還】。


(下し文)
(關山月)

明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。

長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。

漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。

由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。

戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。

高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。


(現代語訳)
(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  

雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。

こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。

だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。

だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。  
出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。 

その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。

安史の乱当時の勢力図 

 (訳注)

關山月

(開元、天寶年間、玄宗は辺境を開くため、回紇、吐蕃国境に兵士を出した、その兵卒の苦境を述べて、為政者の戒めとした。)

邊塞詩、涼州詩はこの時代流行した。
漢の横吹曲という楽府の中にある題である、関山月は八首ある。五言古詩。関所のある山々を照らす月。それに照らされる出征兵士や、兵士を思う故郷の妻たちを詠う。
李白の邊塞を詠う詩の掲載をに追加する。

關山月
楽府旧題。本来の意味は、国境守備隊の砦がある山の上に昇った月。前線の月。ここに登場する兵士は、西域玉門關を越え、さらに西域に行ったもの。


明月出天山、蒼茫雲海間

征戍の兵士は、何万里という極遠の土地に置かれて、夜仰ぎ見れば、明月が天山山脈の上にのぼってくると、見渡す限り蒼く暗く広がる雲海を照らし出す。  

・明月:明るく澄みわたった月。 

・天山:〔てんざん〕新疆にある祁連山〔きれんざん〕(チーリェンシャン) 。天山一帯。当時の中国人の世界観では、最西端になる。天山山脈、祁連山脈は中国の主な山脈の一つ。青蔵高原の北縁、甘粛と青海に跨り、西はアルチン山脈に接し、東は蘭州の興隆山に至り、南はチャイダム盆地と青海湖に相連なる。山脈は西北から東南へ走り、数条の平行する山脈よりなり、平均海抜4000m以上、長さ2000km、幅200500km

・蒼茫:〔そうぼう〕(空、海、平原などの)広々として、はてしのないさま。見わたす限り青々として広いさま。また、目のとどく限りうす暗くひろいさま。 

・雲海:山頂から見下ろした雲が海のように見えるもの。また、雲のはるかかなたに横たわっている海原(うなばら)。ここは、前者の意。


長風幾萬里、吹度玉門關。
雲海の中では故郷がどちらかわからず、遠くから吹き寄せる風は幾萬里をぬける。はるかな玉門關のほうから吹いてくるが、征戍の兵士が此処まで来たその辛苦は、歸当てもないのでなおさら傷心が深まる。

・長風:遥か彼方から吹いてくる風。 

・幾萬里:何万里もの。長大な距離を謂う。

・吹度:吹いてきてずっと通って先へ行く。吹いてきて…を越える。吹きわたる。 

・玉門關:西域に通ずる交通の要衝。漢の前進基地。玉門関は中華人民共和国甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城。関。玉関。現・甘肅省燉煌の西方、涼州の西北500キロメートルの地点にある。


漢下白登道、胡窺青海灣。
こうした匈奴との戦は、漢の高祖が白登山(現・山西省北部大同東北東すぐ)上の白登台で匈奴に包囲攻撃され白登山より下りて匈奴と戦ったことから始まり、爾後、和戦常ならず、時々胡軍は、青海の湾に侵寇してきて、わが中国を窺うということがあったのである。

・漢:漢の高祖の軍。 

・下:(白登山上の白登台より)下りて(、匈奴に対して囲みを破るための反撃する)。 

・白登道:漢の高祖が白登山より下りて匈奴と戦ったところ。現・山西省北部大同東北東すぐ。

・胡:西方異民族。ウイグル民族や、チベット民族などを指す。上句で漢の高祖のことを詠っているが、漢の高祖の場合は、匈奴を指す。 

・窺:〔き〕ねらう。乗ずべき時を待つ。また、覗き見する。こっそり見る。ここは、前者の意。 ・青海:ココノール湖。 

・灣:くま。ほとり。前出・杜甫の『兵車行』でいえば「君不見青海頭」 の「頭」に該る。


由來征戰地、不見有人還。
だから戦は絶えることなく、そこに派遣された兵士は、昔から遠征と戦闘の地から帰ったためしがないのである。

・由來:もともと。元来。それ以来。もとから。初めから今まで。また、来歴。いわれ。よってきたところ。ここは、前者の意。 

・征戰:出征して戦う。戦に行く王翰も李白も同時代人だが、王翰の方がやや早く、李白に影響を与えたか。

・不見:見あたらない。 

・有人還:(だれか)人が帰ってくる。 

・還:行き先からかえる。行った者がくるりとかえる。後出の「歸」は、もと出た所にかえる。本来の居場所(自宅、故郷、故国、墓所)にかえる。


戍客望邊色、思歸多苦顏。
出征兵士は、帰ろうと思っても変えることができず、ただ、辺境の惨憺たる景色を眺めているだけなのである。帰りたい思いは顔をしかめさせ、又帰りを待つ多くの妻も苦渋の顔となる。 

・戍客:〔じゅかく〕国境警備の兵士。征人。 ・邊色:国境地方の景色。 邊邑ともする。その場合は国境地帯の村の意になる。

 ・思歸:帰郷の念を起こす 

・苦顏:顔をしかめる。


高樓當此夜、歎息未應閑。
その妻は、故郷の高殿の上に立ち、同じ月を見て、夫がいつ帰るかも知らず、せつない歎息をしていることが、きっと途切れることも、たえることもできないだろう。

・高樓:たかどの。 

・當:…に当たつては。…の時は。…に際しては。 

・此夜:この(明月の)夜。

・歎息:なげいて深くため息をつく。また、大変感心する。ここは、前者の意。 

・應:きつと…だろう。当然…であろう。まさに…べし。 

・閑:暇(いとま)。

 




(關山月)
明月 天山より出づ,蒼茫たる 雲海の間。
長風 幾萬里,吹き度る 玉門關。
漢は下る 白登の道,胡は窺う 青海の灣。
由來征戰の地,見ず 人の還る有るを。
戍客 邊色を望み,歸るを思うて 苦顏多し。
高樓 此の夜に當り,歎息して 未だ應に閑なるべからず。

李白334-#2 巻二28-《胡無人》 334-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白334-#2> Ⅰ李白詩1657 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6833

李白  胡無人 #2 

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。胡無人,漢道昌。

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。

 

李白334-#2 巻二28-《胡無人》 334-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白334-#2> Ⅰ李白詩1657 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6833

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-15

卷別:    卷一六二         文體:    樂府

詩題:    胡無人

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門  

 

 

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。

胡無人,漢道昌。

それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。

 

(胡無人)

嚴風 霜を吹いて 海草凋む,筋幹 精堅 胡馬驕る。

漢家の戰士 三十萬,將軍は兼ねて領す 霍 嫖姚。

流星 白羽 腰間に插み,劍花 秋蓮 光 匣を出づ。

天兵 雪を照らし 玉關を下れば,虜箭 沙の如く 金甲を射る。

 

雲龍 風虎 盡く交回,太白 月に入って 敵摧く可し。

敵摧く可し,旄頭 滅す,胡の腸を履み 胡血を涉る。

胡を懸く 青天の上,胡を埋む 紫塞の傍。

胡に人無く,漢道 昌んなり。

陛下の壽 三千霜,但だ歌わん「大風雲飛揚,安んぞ猛士を得て 四方を守らん。」と。

 

『胡無人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡無人,漢道昌。

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

(下し文)
雲龍 風虎 盡く交回,太白 月に入って 敵摧く可し。

敵摧く可し,旄頭 滅す,胡の腸を履み 胡血を涉る。

胡を懸く 青天の上,胡を埋む 紫塞の傍。

胡に人無く,漢道 昌んなり。

陛下の壽 三千霜,但だ歌わん「大風雲飛揚,安んぞ猛士を得て 四方を守らん。」と。

(現代語訳)
それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。

さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。

胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。

それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。

こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。


(訳注)

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

李白朝廷に迎えられる折に作ったものであろう。743年天寶二年の作。

胡無人 相和歌瑟調、樂府相和歌辭の一つ。胡中人無きにより、容易にこれを征服できたということを述べたもの。有善哉行、隴西行等三十八曲,樂器用笙、笛、簫、琴、瑟、箏、琵琶等七種。

相和歌漢時期は「街畦道謡民謡」の基礎の上で継承先秦楚声などの伝統を形成している。相和歌が漢族の代表的な漢民族舞踊の一つ。主に宦官巨宴会、娯楽などの場合にも用いる演奏、宮廷の宴会、祀神ひいて元旦朝礼と漢族民俗活動などの場合は。「相葉歌」の名が一番早い記録について「晋・楽誌」「首相も、漢の古い歌。糸竹もっと首相、執節者の歌。」その特徴は歌人は击节太鼓と伴奏管絃楽器相応するとを考えてた。相和歌でのは、主に瑟調、清調、空洞の3種類ともいう首相三調。と後世のいわゆる「清商三調」と同じ、略称「三調」。

 

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

それから、漢の兵隊は、雲龍風虎の陣形を交互に回転し、やがて、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られた。

雲龍風虎 「雲は龍に従い、風は虎に従う」ということだが、軍隊が理路整然と秩序だって戦うこと、諸所の陣形が崩れることがなくて闘う姿を現す。

太白入月 太白星とは金星の異称である。「金星」の名は中国では太白とも呼び、戦国時代 に起こった五行思想とかかわりがある。それによると「金剋木であり、金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。」ということで、太白星が月にいれば、いよいよ敵を打ち滅ぼす前兆と知られているのである。また、仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て真理を見つけたという。また弘法大師空海も明けの明星が口中に飛び込み悟りを開いたとされるというのも、釈迦伝説、五行思想の影響ということである。

 

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

さていよいよ胡人を打ち破れば、旄頭の胡星も、いつしか消えて、なくなってしまい、戦場には、胡人の死骸が縦横に転がっていて、そこで胡人のはらわたを踏みにじり、胡人の血の川のごとく流れるところを徒渉した。

旄頭滅 ここにいう旄頭は異民族の軍隊の帽子や旗の頭に旄を載せ飾っているのを言う。

 

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡王の首を高く青天の上にさらし、胡奴の屍を始末して、長城の傍らにうずめた。

懸胡青天上 胡王、胡大将、胡人の首を高く青天の上にさらすことをいう。

紫塞傍 晉が長城を築いた時に使用された土や石が皆紫色であったことで紫塞といった。漢王朝でも、唐王朝でも長城は改築増築を行ったが、土樋氏が同種のものが使われたので、同様に紫塞といった。

 

胡無人,漢道昌。

それでも、胡にしかるべき人がいないことによって、このように、容易に、掃蕩することができたので、漢帝国はこれによってますます隆盛となったのである。

 

陛下之壽三千霜,但歌「大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。」

こうして、陛下の壽は、三千年の久しきにわたるべく、その威の遠近に及ぶは、漢の高祖を讃える歌をそのままに、大風がひとたび怒って満点の雲を吹き飛ばすがごとく、おまけに、胡人すでに滅んで、この国境付近は全く安寧になったのである。もはや、特別に猛士を挙用して、四方を守るということではなくなったということでめでたいことであるといわねばなるまい。

三千霜 朔方の戦いは、秋が始まりの基本でそれが霜であることで、三千年ということである。

歌大風雲飛揚 漢の高祖が、彼の故郷の沛に帰ったときに作られた歌の詩句。漢高帝歸豐沛,作歌曰:「大風起兮雲飛揚,威加海兮歸故,安得猛士兮守四方。」

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李白  胡無人    

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

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年:743年天寶二年43歳 94-15

卷別:    卷一六二         文體:    樂府

詩題:    胡無人

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門  

 

 

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。

敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。

懸胡青天上,埋胡紫塞傍。

胡無人,漢道昌。

陛下之壽三千霜,但歌大風雲飛揚,

安得猛士兮守四方。

 

(胡無人)

嚴風 霜を吹いて 海草凋む,筋幹 精堅 胡馬驕る。

漢家の戰士 三十萬,將軍は兼ねて領す 霍 嫖姚。

流星 白羽 腰間に插み,劍花 秋蓮 光 匣を出づ。

天兵 雪を照らし 玉關を下れば,虜箭 沙の如く 金甲を射る。

 

雲龍 風虎 盡く交回,太白 月に入って 敵摧く可し。

敵摧く可し,旄頭 滅す,胡の腸を履み 胡血を涉る。

胡を懸く 青天の上,胡を埋む 紫塞の傍。

胡に人無く,漢道 昌んなり。

陛下の壽 三千霜,但だ歌わん 大風 雲 飛揚,

安んぞ猛士を得て 四方を守らん。

李白の足跡0000

『胡無人』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

胡無人

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。
詩文(含異文)     嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚【將軍誰者霍嫖姚】。流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。雲龍風虎盡交回,太白入月敵可摧。敵可摧,旄頭滅,履胡之腸涉胡血。懸胡青天上,埋胡紫塞傍。胡無人,漢道昌。【案:一本此下有以下五句:陛下之壽三千霜,但歌大風雲飛揚,安得猛士兮守四方。胡無人,漢道昌。】


(下し文)
(胡無人)

嚴風 霜を吹いて 海草凋む,筋幹 精堅 胡馬驕る。

漢家の戰士 三十萬,將軍は兼ねて領す 霍 嫖姚。

流星 白羽 腰間に插み,劍花 秋蓮 光 匣を出づ。

天兵 雪を照らし 玉關を下れば,虜箭 沙の如く 金甲を射る。


(現代語訳)
(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

Ta唐 長安近郊圖  新02
(訳注)

胡無人

(開元の末から天寳の初めに異民族を征討したことについてのべたもの)

李白朝廷に迎えられる折に作ったものであろう。743年天寶二年の作。

胡無人 相和歌瑟調、樂府相和歌辭の一つ。胡中人無きにより、容易にこれを征服できたということを述べたもの。有善哉行、隴西行等三十八曲,樂器用笙、笛、簫、琴、瑟、箏、琵琶等七種。

相和歌漢時期は「街畦道謡民謡」の基礎の上で継承先秦楚声などの伝統を形成している。相和歌が漢族の代表的な漢民族舞踊の一つ。主に宦官巨宴会、娯楽などの場合にも用いる演奏、宮廷の宴会、祀神ひいて元旦朝礼と漢族民俗活動などの場合は。「相葉歌」の名が一番早い記録について「晋・楽誌」「首相も、漢の古い歌。糸竹もっと首相、執節者の歌。」その特徴は歌人は击节太鼓と伴奏管絃楽器相応するとを考えてた。相和歌でのは、主に瑟調、清調、空洞の3種類ともいう首相三調。と後世のいわゆる「清商三調」と同じ、略称「三調」。

 

嚴風吹霜海草凋,筋幹精堅胡馬驕。

厳しい冬の風が霜を帯びて吹き荒めば、海藻が全てしおれ枯れつくした砂漠になっていて、弓矢も丈夫にできており、胡馬も、勢い盛んにして、いよいよ胡人が南下して国境周辺に入寇するときとなった。

嚴風 厳しい冬の風。

海草凋 瀚海ということで砂漠という意味で、其処にはわずかに生えた草までが枯れている。

筋幹精堅 あきになって膠が堅くなるので弓矢が丈夫にできることを言う。騎馬民族である胡側の軍隊の勢いが一番盛んになるときである。周禮「凡爲弓,冬析幹而春液角,夏治筋,秋幹、角、膠、筋、漆、絲六材,皆令善而無瑕病,然後爲善」とある。

胡馬驕 戦馬のいいものは、西域、西北方の馬である。

 

漢家戰士三十萬,將軍兼領霍嫖姚。

この時、中国においては、三十万の戦士を繰り出し、大将軍は、霍嫖姚のごとき知勇兼備の将校をいくらも幕下に従っている。

漢家戰士三十萬 《漢書·五行志中之下》「先是,五將軍眾三十萬伏馬邑,欲襲單于也。」

霍嫖姚 霍去病称。霍 去病(かく きょへい、紀元前140 - 紀元前117年、Huò Qù-bìng)は、前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較される。衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

しかし宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったとされ、また、霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていた模様だった。武帝も自身の性格から、積極果敢な霍去病をより好んでいた。

 

流星白羽腰間插,劍花秋蓮光出匣。

そこで、中国の将士は、流星のごとく早く飛ぶ白羽の矢を腰に挟んでいて、焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀を匣から取り出してこれを腰に佩びている。

流星 瞬く間の流星のはやさをいう。

白羽 箭に白い羽をはぎていること。白い矢羽を持つ矢のこと。

秋蓮 焼き刃の匂い、秋の蓮の花の艶と同じような名刀をいう。

 

天兵照雪下玉關,虜箭如沙射金甲。

こうして、中国の兵隊は、ゆきに照らされつつ、玉門關から打って出ると、胡人はこれは大変だというので、にわかに射だす防矢は、それは砂のようであり、黄金の鎧に次々にあたる。

天兵 天からの力を得た兵隊。

玉關 玉門関は甘粛省敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢と唐2度に渡り建立された。現存する玉門関遺跡は唐代のものである。俗称は小方盤城。

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李白  上雲樂#7

能胡歌,獻漢酒。跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。北斗戾,南山摧。天子九九八十一萬長傾萬杯。

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。

李白333-#7 《巻二25-上雲樂》 333-#7Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-20) <李白333-#7> Ⅰ李白詩1655 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6823

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

赤眉立盆子,白水興漢光。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

舉足踏紫微,天關自開張。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

 

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

五色師子,九苞鳳凰。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

淋漓颯沓,進退成行。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

老胡 至德に感じ,東に來って仙倡を進む。

五色の師子,九苞の鳳凰。

是れ老胡の雞犬,鳴舞して帝に飛ぶ。

淋漓 颯沓,進退 行を成す。
#7

能胡歌,獻漢酒。

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。

拜龍顏,獻聖壽。

然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。

北斗戾,南山摧。

祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。

天子九九八十一萬長傾萬杯。

かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。

胡歌を能くし,漢酒を獻ず。

雙膝を跪まずき,兩肘を立べ,散花 天を指して素手を舉ぐ。

龍顏を拜し,聖壽を獻ず。

北斗戾り,南山摧く。

天子 九九八十一の萬長傾せよ 萬杯。

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#7

能胡歌,獻漢酒。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。

北斗戾,南山摧。

天子九九八十一萬,長傾萬

(下し文)
胡歌を能くし,漢酒を獻ず。

雙膝を跪まずき,兩肘を立べ,散花 天を指して素手を舉ぐ。

龍顏を拜し,聖壽を獻ず。

北斗戾り,南山摧く。

天子 九九八十一の萬,長傾せよ 萬の杯

(現代語訳)
#7

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。

そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。

然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。

祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。

かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。


(訳注) #7

上雲樂

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

李白の詩文力を確かめるために作らされた作品であろうと思う、玄宗の目にかなうと判断された作品の一つである。従来、安禄山の乱後の作品として紹介されている訳注本もあるが、それは間違い。

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

能胡歌,獻漢酒。

かくて文康はまた巧みに胡歌を唱和して、漢の酒を献上しようとした。

 

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

そして、兩の膝をひざまずき、兩の肘をはって、天子の御前に畏まり、ひとたび白い手を挙げて、天をさせば、花は天より繽紛として、雨の如く降りしきり、さながら極欒浄土を眼前に幻出したようになったのである。

【1】   散花 《維摩詰經》 「會中、有一天女,見諸大人,聞所法,便現其身,即以天花散諸菩薩,悉皆墮落,至大弟子,便著不墜。一切弟子皆神力去華,而不能令去。」

 

拜龍顏,獻聖壽。

然る後に天子の御尊顔を拝し、謹んで壽を献上いたします。

【2】    龍顏 玄宗のお顔。

 

北斗戾,南山摧。

祝して申し上げるには、北斗も曲がるべく、南山もくだけるべく程のことであります。

【3】    戾 曲がる。

 

天子九九八十一萬長傾萬杯。

かかるものは、到底、相い比するに足らず、天子は、九九、八十一萬歳の壽を保たるべく、どうか、私が差し上げる、この萬歳の杯を傾けて下さいと申しあげたのである。

李白333-#6 《巻二25-上雲樂》 333-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白333-#6> Ⅰ李白詩1654 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6818

李白  上雲樂#6   

老胡感至德,東來進仙倡。五色師子,九苞鳳凰。是老胡雞犬,鳴舞飛帝淋漓颯沓,進退成行。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

李白333-#6 《巻二25-上雲樂》 333-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白333-#6> Ⅰ李白詩1654 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6818

 

 
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詩題:    上雲樂

作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點: 咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

 白水 (京畿道 同州 白水)   

 終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

赤眉立盆子,白水興漢光。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

舉足踏紫微,天關自開張。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

 

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

五色師子,九苞鳳凰。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

淋漓颯沓,進退成行。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

老胡 至德に感じ,東に來って仙倡を進む。

五色の師子,九苞の鳳凰。

是れ老胡の雞犬,鳴舞して帝に飛ぶ。

淋漓 颯沓,進退 行を成す。
#7

能胡歌,獻漢酒。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。

北斗戾,南山摧。

天子九九八十一萬長傾萬杯。

胡歌を能くし,漢酒を獻ず。

雙膝を跪まずき,兩肘を立べ,散花 天を指して素手を舉ぐ。

龍顏を拜し,聖壽を獻ず。

北斗戾り,南山摧く。

天子 九九八十一の萬長傾せよ 萬杯。

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

五色師子,九苞鳳凰。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

淋漓颯沓,進退成行。

(下し文)
#6

老胡 至德に感じ,東に來って仙倡を進む。

五色の師子,九苞の鳳凰。

是れ老胡の雞犬,鳴舞して帝に飛ぶ。

淋漓 颯沓,進退 行を成す。


(現代語訳)
#6

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。


(訳注) #6

上雲樂

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

老胡感至德,東來進仙倡。

唐の隆盛の気運は、かくの如くであるから、老胡の文康は、その至徳に感じて、西域より東方にきたのであり、種種の樂舞中に神仙的な藝人に扮する仙倡を進めたのである。

【1】   仙倡 古代において樂舞中に神仙的な藝人に扮するもののことをいう。 倡は歌舞藝人の古稱である。様様に扮装して戯をなし仙倡の輩をいう。《文選張衡<西京賦>》「總會仙倡, 戲豹舞羆。」 にみえ、 薛綜の注に 「仙倡, 偽作假形, 謂如神也。」(仙倡は、偽って假形を作し、神のごときをいう。)とある。

 

五色師子,九苞鳳凰。

そして、それに加え舞楽の中心的存在の“五色獅子だの”、“九苞の鳳凰”だのを連 れてきた。

【2】   五色獅子 傳中の五色獅子をいうが、百獸王であり、トラをも食べるという、最も強いものであるそれがあって、舞の源流、中心的なものとなっている。

【3】   九苞鳳凰 山海経に「丹穴の山、鳥あり、状、鶴の如く、五色にして文あり、名づけて、九苞鳳といふ。見るるときは、天下安寧」とあり、論語摘衰に「聖鳳に九苞あ。九苞とは、-に曰く、口・命を包む、二に曰く、心、度に合す、三た曰く、耳、聴達、四に日く、舌、詘伸、五にいわく、彩、光色、六に曰く、冠、矩朱、七に日く、距、鋭鉤、八に曰く、音、激揚、九に曰く、腹、文戸」つまり鳳凰の中でも、特に優れたもので、九つの特徴を備えているものと見える。 

 

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

この獅子や鳳凰は、取りも直さず、老胡の鶏犬とも称すべきもので、それが都にきて、天子の御前で雅楽を鳴らし、舞をなした。

 

淋漓颯沓,進退成行。

それは、淋漓颯沓として、往ったり来たり、めぐったり、進退自然に行をなし、まこと見事なものであったのである。

【4】   颯沓 盤旋のかたちになるのも。竜巻。

李白333-#5 《巻二25-上雲樂》 333-#5Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14) <李白333-#5> Ⅰ李白詩1653 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6813

李白  上雲樂#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。舉足踏紫微,天關自開張。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

李白333-#5 《巻二25-上雲樂》 333-#5Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-14) <李白333-#5> Ⅰ李白詩1653 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6813

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

舉足踏紫微,天關自開張。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

舉足踏紫微,天關自開張。

(下し文)
#5

陛下 運に應じて起ち,龍飛 咸陽に入る。

赤眉 盆子を立てて,白水 漢光を興す。

叱吒すれば 四海動き,洪濤すれば 簸揚為にす。

足を舉げて紫微を踏み,天關 自ら開張。

(現代語訳)
#5

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。


(訳注) #5

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

陛下應運起,龍飛入咸陽。

今の天子は、運に乗じて起ち、やがて龍駕は、長安、すなわち、咸陽で天下統一がなされたように、入られ、「武韋の禍」を沈めて開元の治みちびかれた。

【1】    陛下 玄宗、

【2】    應運起 運に乗じて起ち

【3】    龍飛 玄宗は龍にたとえられる。

◎玄宗は、睿宗の第3子として洛陽で生まれる。母は徳妃竇氏。玄宗が生まれた頃は武則天の武周時代であった。はじめは伯父である皇太子の李弘の養子となっていた。

705年、李隆基が20歳になったとき、祖母の武后が中宗に禅譲することで武周は消滅し、唐が復活したが、朝廷には隆基の叔母で武后の娘である太平公主らを初めとした武后一族の勢力が残存していた。

中宗の皇后である韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。韋后は代わって擁立した殤帝を傀儡とし、自らに禅譲させようと企てていた。

これに対し、隆基の従兄である皇太子・李重俊が韋后に対してクーデターを起こしたが失敗した。隆基はこれを教訓とし、太平公主と協力して韋后排除を計画、710年に計画が実行され、韋后の一族を皆殺しにした。これにより睿宗が復位、隆基はこの功により皇太子に立てられた。

隆基には、睿宗が武則天の傀儡皇帝だった時期に皇太子に立てていた長兄の李憲(成器)がいたが、李憲は弟の才能と功績を認めて皇位継承を放棄したため、皇位継承争いは生じなかった(隆基は皇帝即位後も兄に対しては常に敬意を払い、その死後には皇帝として追号(「譲皇帝」)した)。しかし隆基と太平公主との間には、主導権争いが発生する。これは712年に隆基が睿宗から譲位されたのちに太平公主を殺害し、実権を掌握したことで決着を見る。

 

赤眉立盆子,白水興漢光。

かくて、王莽の簒奪と同じような韋皇后は、武則天に倣い政権を掌握すべく中宗を毒殺した。丁度、赤眉の賊が劉金子を立てたようなもので、天子が快復に専念なされるのは、後漢の光武が白水から勃興したるに比すべく、天下は安寧し、「開元の治」といわれるほどの唐王朝の繁栄を迎えたのである。

【4】    赤眉立盆子 漢末の大農民反乱、王の乱 赤眉の乱という。眉を赤く塗ったためにこの名がある。『周礼』などに範をとった極端に復古的な王莽の政治は,豪族層の利害に反し,農民の生活をも混乱に陥れた。このため建国後各地に反乱が続出した。失政の数々や人間性の問題もあって、王莽は姦臣の代表格として看做されることが多い。呉承恩は、『西遊記』で孫悟空が暴れた時期(山に封じられるまで)を王莽の時代と設定したが、これは「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」という伝承を王莽の簒奪と重ねていると見られる。

【5】    白水興漢光 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた光武帝のこと劉秀で、新市軍は南陽の豪族の平林軍や劉縯の舂陵軍と連合し、南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。

 

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

されば、天子、一度、叱咤すれば、四海の水が動揺して、大きな波が簸って揚がるが如く、天下は忽ち震動し、寰宇が一洗された。

【6】    叱吒の二句 天下震動、寰宇が一洗されたことを言う。玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒(現在に例えれば宗教法人資格)の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇・宋璟の両宰相である。

 

舉足踏紫微,天關自開張。

かくて、いよいよ天子の位を臨んで中外に耽命すれば、遠い處の關塞まで、ことごとく開通し、出入も自由で、又これを閉じで守るようなるようなことはない時代にされたのである。

【7】    舉足踏紫微 玄宗が皇城紫微殿にふんで天子即位されたこと。

【8】   天關自開張 四遠の關塞に至るまで、ことごとく開通し、出入りを閉じで守ることをする必要がなくなる。

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李白  上雲樂#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。中國有七聖,半路洪荒
しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。

中國有七聖,半路洪荒

(下し文)
#4

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を


(現代語訳)
#4

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。


(訳注) #4

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

しかも、この人類は、生きたり死んだり、終始展轉して居るが、終始転々としている。この文康といふ胡人が、天地と共に生れた眞正の仙人であるということを知っているものもいなかった位だったのである。

【23】    誰明此胡 誰あろう、この文康といふ胡人が明らかにそうである。

【24】    仙真 眞正の仙人であるということ。

 

西海栽若木,東溟植扶桑。

しかし、その文康は日の沈む西海に若木を栽え、日の上る東海に扶桑を植えた。

【25】   西海栽若木 西海に若木を栽える。山海經 「灰野山,山上有一種紅顏色的樹木,青色的葉子紅色的花,名叫若木。日入處也。」灰野の山,山の上に一種の紅顏色の樹木有り,青色の葉子、紅色の花,名を若木と叫う。日入るの處なり。) 淮南子(形訓7)「若木在建木西,末有十日,其華照下地。」(若木は建木の西に在り,末に十日有り,其の華 下地を照す。)

【26】    東溟植扶桑 東海に扶桑を植える。 《十洲記》曰:「扶桑在碧海中,上有天帝宮,東王所治,有椹樹,長數千丈,二千圍,同根更相依倚,故曰扶桑,仙人食根,體作紫色,其樹雖大,椹如中夏桑也。九千一生實,味甘香。」(曰く:扶桑 碧海中に在り,上天帝の宮に有り,東王治むる所,椹樹有り,長數 千丈,二千圍,同根して更に相い依倚し,故に扶桑と曰く,仙人 根を食し,體 紫色を作し,其の樹 大なると雖も,椹 夏桑を中るが如く也。九千 一生の實,味は甘香なり。)

  

別來幾多時,枝葉萬里長。

この二木の間を毎日太陽が度って行くようになり、彼が一度、別れてより、若木も、扶桑も、だんだん大きくなって、その枝葉は、萬里を覆う位になった。

 

中國有七聖,半路洪荒。

それで、ここに、我が大唐は、中国に君とし、高祖より玄宗に至るまで、七代の聖君を経由、半途にして、世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱「武韋の禍」、恰も太古鴻荒の世に逆戻りをしたようであつた。

【27】   中國有七聖 唐は、618 - 907年、中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。高祖、太宗、高宗、中宗、睿宗(武則天)、殤帝、玄宗と武則天を挟んで七人の天子がついている。太宗期「貞観の治」玄宗期「開元の治」と徳と繁栄の最もよい時期を経験している。

【28】   半路洪荒 唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐(唐の高句麗出兵)が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって専権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後、690年の簒奪により(載初元年)国号を周と改めた(武周)。武則天が老境に入って床にあることが多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天が退位させた息子の中宗が再び帝位に就き、周は115年で滅亡した。しかし今度は、中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とした後簒奪を画策したが、中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主の蜂起により敗れた韋后は族殺され、武則天が廃位させた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。7世紀後半から8世紀前半にかけて後宮から発生した政乱を2人の皇后の姓を取って「武韋の禍」と呼ぶ。

李白333-#3 《巻二25-上雲樂》 #3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14)  Ⅰ李白詩1651 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6803

李白  上雲樂#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。散在六合間,濛濛若沙塵。
おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。

中國有七聖,半路洪荒。

生死 了に盡きず,誰か明かにせん 此の胡は是れ仙真なるを。

西海には 若木を栽え,東溟には扶桑を植う。

別來 幾多の時ぞ,枝葉 萬里長し。

中國に七聖有り,半路 洪荒を

 

 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。

散在六合間,濛濛若沙塵。

(下し文)


(現代語訳)
#3

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。


(訳注) #3

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

 

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

おもへば、日月が始めて生ずる時、造化は火精と水銀とを錬り上げ、火精が日となり、水銀が月と成ったのであるが、

【1】   火精與水銀 火精は日、水銀は月。淮南子の天文訓に「積陽之熱氣生火,火氣之精者為日;積陰之寒氣為水,水氣之精者為月。」(積陽の熱気、火を生ず、火気の精なるものは日となる。積陰の寒気、水となる。水気の精なるものは月となる)とある。

 

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

その太陽が、まだ東方の暘谷を出です、月もなかば其身をかくし、つまり、日月ができかかった「厥」初期段階である。

【2】   陽鳥 日に同じ。初學記【火精陽德】《范子•計然》曰:日者,火精也。陽鳥日中之鳥也」「范子計然日く、日は火の精なり、陽鳥は日中の鳥なり」と ある。

【3】   谷 暘谷、東方に在って日のいずるところ。

顧兎 月中の兎。《楚辞、第三巻「天問」》「夜光何徳、死則又育。厥利維何、而顧兔在腹。夜光何の德ぞ、死すれば則ち又育す。、厥【そ】の利維れ何ぞ、而して顧菟【こと】腹に在り)“夜光(月)には何の徳があるのだろうか、欠けたと思ったらまた満ちてくる。何の利があって、腹にウサギを住まわせているのか。”とある。

 

女媧戲黃土,團作愚下人。

まだ宇宙に出現していない時にあたって、女媧は人類を造り出そうというので、黄土を丸めて、凡愚な人もつくったのである。

【4】   女媧戯黃土 太平御覧に風俗通を引いて「俗説天地開闢、未有人民、女媧搏黄土作人。劇務、力不暇供、乃引縄絙于泥中、挙以為人。」(俗説、天地はじめて開闕、未だ人民あらず。女媧、黄土を團して、入を爲る。劇務、力不暇供、乃引縄絙于泥中、挙以為人。乃ち縄を泥中に引いて以て人を爲る。

叉《錄異記》「房州上庸界有伏羲女媧廟,雲是摶土為人民之所在,古跡在焉。」(房州上庸界に伏義女媧の廟あり、云う是れ、土を撫でして人民を爲りしところ、古跡あり)と記してある。

(『太平御覧』)

 天地が開闢したときには人がまだいなかったので、女媧が黄土をまるめて人を造った。

しかし、きわめて劇務であったのに、力を費やす暇がなく、縄を泥の中で引き回し、引き上げて人を造った。

 古人にとって、土は器を作るためのもっとも基本的素材であるし、そして天を父とし、

地を母とする中国文化の視点をよくあらわす。「乃引縄絙于泥中、挙以為人」、すなわち、一人ずつ造るのではなく、縄を泥に引き回して、これを引き上げることによって、大量生産をしたことである。ここの縄は、普通の意味で言う縄ではなく、男根のことであり、ふるい落とされた泥のはねが精液であり、そしてこの行為は男女の交尾を暗示するという説もある。

 

散在六合間,濛濛若沙塵。

宇宙観からすれば、これ等の人類は、天地六合の間に散らばって居て、恰も濛々として塵埃となっているということなのである。

【5】   六合 上下二方に四方をいい、即ち、天地。

【6】   濛濛 1 霧・煙・ほこりなどが立ちこめるさま。「―と砂ぼこりをまき上げる」2 心がぼんやりとしているさま。[名]病気。

李白333-#2 《巻二25-上雲樂》 333-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14) <李白333-#2> Ⅰ李白詩1650 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6798

李白  上雲樂 #2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。撫頂弄盤古,推車轉天輪。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。
#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。

散在六合間,濛濛若沙塵。

云【ここ】に見る 日月初めて生ずるの時,鑄冶す 火精と水銀と。

陽烏 未だ谷を出ず,顧兔 半ば身を藏す。

女媧 黃土に戲れ,團して 愚下の人と作る。

散じて 六合の間に在り,濛濛として 沙塵の若し。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

(下し文)
#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。

(現代語訳)
#2

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

長安城図 作図00
(訳注)

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

眉毛は長くして、下、目を覆い、鼻は大きくして、唇の上の方に壓している。

【1】   華蓋垂下睫 相香に「眉に華蓋し」とある。眉長くして、下、目を覆うをいう。

【2】    嵩嶽臨上脣。相書に「鼻は中嶽.即ち嵩岳」とある、鼻が大きくして、上唇を壓するが如きをいう。

 

不睹詭譎貌,豈知造化神。

まことに、奇怪至極の姿をして居るので、これを見なければ、造化の神明を知ることはできない。

【3】    詭譎貌 奇怪に同じ。

 

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

彼、文康は、天地とともに生れたもので、絶封悠久の「道徳を父と爲し、神明を母となす」とする大道は、その父であるし、生生発展の根本たる宇宙の元気は、その母であるとした。

【4】   大道 道徳指歸論に「道徳を父と爲し、神明を母となす」とある。

【5】   元氣 孫楚の石人銘に「大象無形、元気爲母、杳兮冥兮、陶冶衆有」とみる。

 

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

かくて、彼は盤古をも小児扱いにし、その頭を撫でさすり、車輪に比すべき天地をも勝手にころばせるというのである。

【6】   撫頂 頂きは頭に同じ

【7】   盤古 記に「盤古氏は、天地萬物の祖なり」とあり、三五暦記に「天地混沌として、鶏子の如し。盤古、その中に生ず。萬八千歳にして、天地開闢、陽は清んで天となり、陰は濁って地となる。盤古、その中に在って、一日九變、天よりも神、地よりも聖。天に日に高きこと一丈、盤古に日に長ずること一丈、かくのごときこと萬八千歳、天數極めて高く、地數きわめて深く、盤古極めて長し。後、乃ち三皇あり。數はーにおこり、三に立ち、五に成り、七に盛に、九に處る、故に天は地を去ること九万里」とある。

【8】   天輪 呂氏春秋に「天地は車輪の如く、終ればまたはじまる」とある。

李白333 巻二25-《上雲樂》(金天之西,) 333Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(14) <李白333> Ⅰ李白詩1646 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6778

李白  上雲樂#1

金天之西,白日所沒。康老胡雛,生彼月窟。

巉巖容儀,戌削風骨。碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

李白333 巻二25-《上雲樂》(金天之西,) 333Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-14) <李白333> Ⅰ李白詩1646 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6778

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-14

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    上雲樂

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸      

白水 (京畿道 同州 白水)   

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

 

 

上雲樂#1

金天之西,白日所沒。

康老胡雛,生彼月窟。

巉巖容儀,戌削風骨。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

#3

云見日月初生時,鑄冶火精與水銀。

陽烏未出谷,顧兔半藏身。

女媧戲黃土,團作愚下人。

散在六合間,濛濛若沙塵。

#4

生死了不盡,誰明此胡是仙真。

西海栽若木,東溟植扶桑。

別來幾多時,枝葉萬里長。

中國有七聖,半路洪荒。

#5

陛下應運起,龍飛入咸陽。

赤眉立盆子,白水興漢光。

叱吒四海動,洪濤為簸揚。

舉足踏紫微,天關自開張。

#6

老胡感至德,東來進仙倡。

五色師子,九苞鳳凰。

是老胡雞犬,鳴舞飛帝

淋漓颯沓,進退成行。

#7

能胡歌,獻漢酒。

跪雙膝,立兩肘,散花指天舉素手。

拜龍顏,獻聖壽。

北斗戾,南山摧。

天子九九八十一萬長傾萬杯。

 

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

金天之西,白日所沒。

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

#2

華蓋垂下睫,嵩嶽臨上脣。

不睹詭譎貌,豈知造化神。

大道是文康之嚴父,元氣乃文康之老親。

撫頂弄盤古,推車轉天輪。

#2

華蓋は下睫に垂れ,嵩嶽は上脣に臨む。

詭譎の貌を睹ずんば,豈に知んや 造化の神。

大道は是れ文康の嚴父,元氣は乃ち文康の老親。

頂を撫して 盤古を弄し,車を推して天輪を轉ず。

yoshu&choan736 

『上雲樂』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

上雲樂#1

金天之西,白日所沒。

康老胡雛,生彼月窟。

巉巖容儀,戌削風骨。

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

(下し文)
(上雲樂)#1

金天の西,白日の沒する所。

康老 胡雛,彼の月窟に生ず。

巉巖の容儀,戌削の風骨。

碧玉 炅炅たり 雙目の瞳,黃金 拳拳たり 兩鬢の紅。

(現代語訳)
上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。


(訳注)

上雲樂#1

(老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのであるに擬してこの詩を作った。)

 

原註に「老胡文康辭、或云范雲及周捨所作、今擬之」とある。胡震亨の説に「梁の武帝、上雲樂を製し、西方の老胡文康、上古より生きるもの設け、青眼高鼻、白髪、孔雀鳳凰、白鹿を導弄し、梁朝を慕って来遊伏拝し、千歳の壽を祝す。周捨、これが詞を爲す。太白の擬作、周捨の本詞にくらべれば、肆を加う、而して、龍飛咸陽の数語、又、この胡、肅宗の朝に遊ぶと謂うものに似たり。亦たおのおのその時に従って、一代の俳樂を備うるのみ」とある

周捨《上雲樂》〈老胡文康辭〉

西方老胡,厥名文康。遨遨六合,傲誕三皇。西觀濛汜,東戲扶桑。南泛大蒙之海,北至無通之。昔與若士為友,共弄彭祖扶床。往年暫到昆侖,複瑤池舉觴。周帝迎以上席,王母贈以玉漿。故乃壽如南山,志若金剛。青眼眢眢,白髮長長。蛾眉臨髭,高鼻垂口。非直能俳,又善飲酒。簫管鳴前,門徒從後。濟濟翼翼,各有分部。鳳皇是老胡家雞,師子是老胡家狗。陛下撥亂反正,再朗三光。澤與雨施,化與風翔。覘雲候呂,志游大樑。重駟修路,始屆帝。伏拜金闕,仰瞻玉堂。從者小子,羅列成行。悉知廉節,皆識義方。歌管愔愔,鏗鼓鏘鏘。響震鈞天,聲若鵷皇。前卻中規矩,進退得宮商。舉技無不佳,胡舞最所長。老胡寄篋中,複有奇樂章。齎持數萬里,原以奉聖皇。乃欲次第,老耄多所忘。但願明陛下,壽千萬,歡樂未渠央

李白は、上記に擬してこの詩を作った。

老胡の文康が朝廷に来て、種々の戯を爲すことよりはじめ、やがて乱後の清平に及び、老胡が技を献ずるの偶然ならざるを言い、その上で、聖天子の万歳を壽したのである。

周捨 469年~524年〕字は升逸,汝南の安城の」人,周顒の子である。宋明帝の泰始五年に生れ,梁武帝普通五年に卒した,年五十六であった。幼いころから聰穎。既に長ず,博學に多く通ず,尤の義理に精ず。善く誦書し,背文し、諷,音韻に清辯した。起家齊太學博士。梁武帝時,拜尚書祠部郎。禮儀損益,多自捨出。歷遷太子右衛率。雖居職屢徙,而常留省。預機密二十余年,稱賢相。性儉素如布衣。以右驍衛將軍知詹事卒,謚簡子。捨著有文集二十卷,(《隋書志》及《兩唐書志》)行於世

 

金天之西,白日所沒

西域極遠の地たる金天の西は、太陽の没するところである。

【1】   金天 西方の天、張衡の《思玄賦》「顧金天而嘆息兮、吾欲往乎西嬉。」とあって、「金天は西方、少昊の主のところなり」とある。

 

康老胡雛,生彼月窟。

それは、音に名高き老いたる胡人の文康といふもの、即ち月窟に於いて生れたものである。

【2】   康老 音に名高き老いたる胡人。

【3】   胡雛 胡児に同じ。

【4】   月窟 長楊賦に西壓月窟とある。即ち西、月没するに近きところ、蓋し西域極遠の地を示して言う。

 

巉巖容儀,戌削風骨。

その容貌は、いかにも丈嵩、その風骨は、すっきりと痩せて居る。

【5】   巉巖 荘子に「太山巉巖たり」とある、高聾り貌.

【6】   戌削 上林賦「渺閻易以戌削」とあり、刻畫してこれを作るがごときを言うとしている。即ち清癯の貌。

 

碧玉炅炅雙目瞳,黃金拳拳兩鬢紅。

それから、その両の目は、皎皎たる碧玉の如くして光があるし、その両の鬢は、黄ばんで縮れて居て、稍々赤みがかって見える。

【7】   碧玉炅炅 その日の色、碧にして光あるをいう。 

8】 黄金拳拳 その髪の色黄にして、稍々巻きたるをいう。(金髪縮れ髪) 
大明宮-座標02長安皇城宮城00 

李白332 巻二21-《夜坐吟》(冬夜夜寒覺夜長,) 332Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(13) <李白332> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

李白  夜坐吟   

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼。

金缸滅,啼轉多。掩妾淚,聽君歌。歌有聲,妾有情。情聲合,兩無違。

一語不入意,從君萬曲梁塵飛。

この詩は、(冬の夜に、美人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
李白332 巻二21-《夜坐吟》(冬夜夜寒覺夜長,) 332Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-13) <李白332> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-13

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    夜坐吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

夜坐吟

この詩は、(冬の夜に、人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。

冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。

冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼。

寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。
金缸滅,啼轉多。

そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。
掩妾淚,聽君歌。

わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。
歌有聲,妾有情。

あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。

情聲合,兩無違。

そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。

一語不入意,從君萬曲梁塵飛。

一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
夜坐吟

冬夜 夜は寒くして 夜の長きを覚ゆ、沈吟 久しく坐して北堂に坐す。

氷は井泉に合し 月は閏に入る、金紅青く凝って悲啼を照らす。

金紅滅し、啼くこと転(うた)た多し。

妾が涙を掩い、君が歌を聴く。

歌には声有り、妾には情有り。

情声合して、両つながら違(たご)う無けん。

一語 意に入らずんば、君が万曲梁塵(りょうじん)の飛ぶに従(ま)かせん。

 

長安城図 作図00
夜坐吟 現代訳と訳註 解説。

(本文)
夜坐吟

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。

冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼。

金缸滅,啼轉多。

掩妾淚,聽君歌。

歌有聲,妾有情。

情聲合,兩無違。

一語不入意,從君萬曲梁塵飛。

(含異文)

冬夜夜寒覺夜長,沈吟久坐坐北堂。冰合井泉月入閨,金缸青凝照悲啼【青缸青凝照悲啼】【金缸凝明照悲啼】【青缸凝明照悲啼】。金缸滅【青缸滅】,啼轉多。掩妾淚,聽君歌。歌有聲,妾有情。情聲合,兩無違。一語不入意,從君萬曲梁塵飛。


(下し文)
(夜坐吟)

冬夜 夜は寒くして 夜の長きを覚ゆ、沈吟 久しく坐して北堂に坐す。
氷は井泉に合し 月は閏に入る、金紅青く凝って悲啼を照らす。
金紅滅し、啼くこと転【うた】た多し。
妾が涙を掩い、君が歌を聴く。
歌には声有り、妾には情有り。
情声合して、両つながら違う無けん。
一語 意に入らずんば、君が万曲梁塵の飛ぶに従【ま】かせん。
  
(現代語訳)
この詩は、(冬の夜に、美人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。
寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。
そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。
わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。
あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。

そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。

一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
長安皇城宮城00  
夜坐吟(語訳と訳註)
この詩は、(冬の夜に、美人の歌うのを聞いて、歌の声のよさよりも歌う心の深さを貴ぶ、いくら歌がうまくっても、その深い意味を理解し表現するのでなければ聞くに足らない、)と詠っている。

夜坐吟 

六朝の、飽照の詩集に「代夜坐吟」と題する楽府。「冬夜沈沈夜坐吟、含聲未発已知心。霜入幕、風度林、 朱灯滅、 朱顔尋。体君歌、逐君音、 不貴声、 貴意探。

鮑照 楽府白紵詞 「萬曲不關心。一曲動情多。欲知情厚薄。更聽此聲過。 」

李白も、同じリズムを借り、同じ発想によっている。

 

冬夜夜寒覺夜長、沈吟久坐坐北堂。
冬の夜は長い、夜の寒さがきびしければ厳しいほど、夜がますます長く感じられるものである。うれいの詩を吟じれば沈みこみ、ながい時間をじっと座れば座るほど、北の奥座敷に坐われば、時が過ぎるのも忘れる。
沈吟 かんがえこむこと。うれえなげくこと。

北堂 北向の奥の部室婦人がここに住む。


冰合井泉月入閨、金鉱青凝照悲啼。
寒さが増して井戸に氷がはりつめ、月の光が閨に冷たくさしこんでくる。黄金の油皿の火が青く、こりかたまるほどの長い時間がたっている、悲しい泣きはらした顔を照らしだしている。
冰井合 井戸の水が氷って音を立てる。

 美人の寝室。

悲啼 韓愈《猛虎行》「誰云猛虎惡,中路正悲啼。」(此れを持って誰が猛虎は極悪非道というであろうか、帰るところを失ってその途中でまごついていて悲啼しているというのは、逆に憐れというものではないか。)

396-3 《猛虎行〔猛虎行贈李宗閔〕》韓愈(韓退之) Ⅱ韓昌黎集 巻五 <1043  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4199韓愈詩-396-3


金紅滅、啼轉多。

そのうちに、黄金の油皿の火がきえると、真っ暗ななかに、ますますひどく泣けてくる。
金釭 釭は、ともしぴの油皿。それが黄金づくり。

 ますます。

 

掩妾涙、聴君歌。

わたしは涙を掩うて、あなたのこの歌を聞く。
 女の一人称。


歌有聲、妾有情。

あなたの歌はよい声でまことにうまいが、わたしのこころには情という哀れなものがある。

 

情聾合、兩無違。

そこで、わたしの情と、上手なあなたの歌を、兩の手のように合わせ、たがいにちぐはぐのないようなものでありたい。


一語不入意、従君萬曲梁塵飛。
一語でも、わたしの心情に響かないなら、あなたがいかに上手に万曲を歌ったとしても、それはただ、梁の上の塵を飛ばすほど澄みきった声であろうと、一向に役には立たず、決して感動を呼び起こすことはないのである。
 なるが儘にまかせる。したいようにしなさい、わたしには関係ないことだ。

万曲 情をふくんだ一曲には心を動かされるが、情のない万曲のいい声で歌っても気にもとまらない。

梁塵飛 漢の劉向の《別録》「漢興以來,善雅歌者,魯人虞公,發聲清哀,遠動梁塵。」漢はじまって以来の名歌手といわれる魯の人虞公は、声がすみきっていて、歌うと、梁の上につもった塵までが動いたという美声の故事。

李白331-#3 《巻二18-春日行》 331-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首 <李白331-#3> Ⅰ李白詩1647 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6783

李白  春日行#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿帝不去,留鎬京。安能為軒轅,獨往入窈冥。小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。

李白331-#3 《巻二18-春日行》 331-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首 <李白331-#3> Ⅰ李白詩1647 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6783

 

 

 
  2015年10月19日 の紀頌之5つのBlog  
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年:743年天寶二年43歳 94-12

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    春日行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

 

【3分割】

春日行

(君王の遊楽を詞す歌。)

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。

帝不去,留鎬京。

ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。

 

 

(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。
#2

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

#3

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

 

Ta唐 長安近郊圖  新02 

『春日行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

帝不去,留鎬京。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

(下し文)
#3

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿を下る。

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

(現代語訳)
#3

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。

ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。

天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。

それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。


(訳注) #3
春日行 

(君王の遊楽を詞す歌。)

○春日 春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。

年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。

 

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

かくて天子の徳は、天上にも聞こえ、道教三十六天は、これを迎え来たらしむがために、使者として、仙人を使わされ、その仙人は、いとも軽そうに雲車から降りて、天帝の勅旨を伝え、早く天上に参上されたいといった。

三十六帝 道教三十六天のこと。三十六天罡道教神名,道教稱北斗叢星中有三十六個天罡星,每個天罡星各有一神,共有三十六位神將。兜率天、大梵天、月行天、速行天、智慧天、婆利天、善法堂天、影照天、威德顏天、眾分天、住輪天、清淨天、上行天、缽弘地天、雜地天、山頂天、住峰天、俱吒天、光明天、周行地天、歡喜圓天、波利樹天、摩尼藏天、險岸天、柔軟地天、雜莊嚴天、如意地天、微細行天、密殿中天、寰影上天、音樂天、成輪天,計為三十三天,加以三清所居之清微天、禹餘天、太赤天,合為三十六天。

軿 雲でもって車とする。

長安皇城宮城00 

帝不去,留鎬京。

ところが、天子は、猶、この土地を去らず、依然として都長安にとどまっておられる。

鎬京 西周 (→周 ) 時代の都の名。現在の陝西省西安市の西、澧水をはさんで豊邑の対岸にあったと考えられる。西周の始王である武王は,殷を討ったあと,父文王の営んだ豊京より移ってここを都とし,これが西周の東遷まで続いた。

 

安能為軒轅,獨往入窈冥。

天子の期せられるところは古の黃帝のように、あくまで至上の徳を積み、我が身一つで、杳冥の中に入り、天我契合の聖境に達しようとすることにあるので、今のままでは、いまだ持って足れずとせず、勉めて進もうという大した意気込みである。

軒轅 黃帝、『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となり、天我契合の聖境に達しようとするにいたった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描いている。

窈冥 杳冥。

 

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

それで、我々小臣の者たちは、そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪して、南山の壽のようにかけず、崩れず、とこしえにこの世におわしまし、そして、陛下は万古から万世までその大名を垂れ、あっぱれな聖天子になられんことを願ってこの詩を奉る次第である。

拜獻 そのかたじけなさに恐れ入り、拝跪すること。厳かな山に対して、海の闊大さにつぃして詩的表現として使われる。山,我不讚美你的壯健, 海,我不歌詠你的闊大

南山壽 「詩経」小雅・天保から》終南山が崩れないように生命や事業がいつまでも続くこと。南山は、長安の南にたたなわる終南山秦嶺山脈のこと。「天保定爾、以莫不興。如山如阜、如岡如陵。如川之方至、以莫不增。・・・如月之恒、如日之升。如南山之壽、不騫不崩。如松柏之茂、無不爾或承。」(天は爾を保定す、以って興らざるなし。山の如く阜の如く、岡の如く陵の如し。川の方に至るが如く、以って增さざるなし。・・・月の恒なるが如く、日の升るが如く。南山の壽の如く、騫けず崩れず。松柏の茂る如く、爾に承くる或らざるなし。)天保から「如」しが九回あり、「天保九如」が「南山之寿」と同じ意味で用いられる。

陛下 「陛」は宮殿の階段。階下にいる近臣を通じて奏上する意から、中国で天子の尊称。

鴻名 大きな名誉。名声。大きな名。

 

李白331-#2 《巻二18-春日行》 331-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(12) <李白331-#2> Ⅰ李白詩1646 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6778

李白  春日行#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

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年:743年天寶二年43歳 94-12

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    春日行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

 

【3分割】

春日行

(君王の遊楽を詞す歌。)

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

#3

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

帝不去,留鎬京。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

 

 

(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

 

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

長安城図 作図00 

『春日行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

(下し文)
#2

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

(現代語訳)
#2

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。


(訳注)

#2

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

かくて、天子も、その曲意に感じて、やがて、遊漁の心を起され、舟に乗って、御苑の池から、蓬莱、方丈、瀛州にかたどった島島の辺まで漕ぎだすと、遊船の上に聳える樓櫓の影が、水の上に動いてちぢまり、さざ波が驚いて起って居る。

天池 大明宮大掖池、横幅約1km、縦幅、約500mの池。

泛蓬瀛 大掖池に実際に神仙三山(蓬莱、方丈、瀛州)の島々を具現化してある。

樓船 この池に浮べる船。大きな帆船で樓櫓もしっかり作った船。

蹙沓 池が大きいので波が立つことを言う。

波浪驚 さざ波の大きいのがぶっつかりあっておどろく。

 

綱引きも女性が参加できるスポーツであった。中宗はかつて后妃と一緒に、宮女たちの綱引き競技を見物したことがある。また、後宮の女性たちは節句の日にいつも船漕ぎ競争をした。「狸狸な血株を頭に繋って標とし、天上 声を斉えて画境を挙ぐ。却って是れ内人は争意切にして、六宮の羅袖一時に招く」(張砧「上巳楽」)。この詩は六宮の美人が船漕ぎ競争をする賑やかなありさまをよく描写している。

女性の体育活動に関する記録は多くない。しかも大半は宮女・妓優の活動に関するものであるが、それらは古代女性の体育史の空白を補っており、さらにまた古代には女性と体育は縁がなかったとする大方の通論の誤りを正すものである。

女性の娯楽活動は体育活動よりもより豊富であり、参加者の範囲も広かった。

 大明宮-座標02

 

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

この時しも、三千の美人は、天子の御側に居て、歌笑を爲し、それに合せて、鐘を撃ち鼓を鳴らすと、宮殿も動揺して傾かむばかり。

三千 宮中の女性の数。玄宗の時は、三万人ともいわれている。杜甫はかつて《観公孫大娘弟子舞剣器行井序》「先帝の侍女八千人」(「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」)と詠い、白居易もまた《長恨歌》」「後宮の佳麗三千人」と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『全唐文』巻一四二、李百薬「宮人を放つを請うの封事」)といった。『新唐書』の「官者伝」上に、「開元、天宝中、宮嬪はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。

雙蛾 この時、妃嬪が百名以上いた、通常の妃賓に100名程度の宮女がつくので、これだけでも、15千人程度、織物から諸作業のもで総員30,000名というもの納得できるものではある。妃嬪に数十名ついて宴がおこなわれれば、

獻歌笑 このころいちばんは、散楽であり、「百戯」とも呼ばれる民間で行われる様々な娯楽のための技芸の総称である。次第に西域の技芸が取り入れられるようになり、盛唐では、宮廷でも左右教坊によって管轄された。散楽は、民間の音楽や角觝など武術、芝居も含まれるが、主流は曲芸や幻術(手品)、であった。内容は、竿木、縄伎(戯縄ともいう)、舞馬(象で行うこともある)、跳丸、弄剣、筋斗(とんぼ)、球伎、馬伎、呑刀、吐火、舞剣、植瓜、種棗、盤舞、杯盤舞などがあった。

撾鐘 銅鐸の鐘をたくさん並べ、踊りながら敲き、仙郷の音楽と言われた。

考鼓 鼓にも音階があり、これも役割を定めて、歌い踊りながら鳴らした。

宮殿傾 数が多く、大迫力であることを言う。

 

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

今しも、四海おそれなく、万民は聚って舞踏しつつ、太平を謳歌し、天子は、無爲の至徳を以て天下に臨まれるが故に、下民は、自ら安寧である。

萬姓聚舞歌太平 唐時代の中で、最も生産性が高まり、最も裕福で安定した時代「開元の治」といわれた。この頃の思想は、宮中、後宮というものは、民の生活とかけ離れるほど、天子の威厳威光が高まると考えられ、頽廃に向かうほど、太平になるものとされていた。それぞれことが、ただ一人の天子のためにあるというのである。

李白331-#1 《巻二18-春日行》(深宮高樓入紫清,) 331-#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(12) <李白331-#1> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

李白  春日行  

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

(君王の遊楽を詞す歌。)

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである。その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

李白331-#1 《巻二18-春日行》(深宮高樓入紫清,) 331-#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-12) <李白331-#1> Ⅰ李白詩1645 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6773

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-12

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    春日行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山  

 

【3分割】

春日行

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

(君王の遊楽を詞す歌。)

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

 

因出天池泛蓬瀛,樓船蹙沓波浪驚。

三千雙蛾獻歌笑,撾鐘考鼓宮殿傾。

萬姓聚舞歌太平,我無為,人自寧。

 

三十六帝欲相迎,仙人飄翩下雲軿

帝不去,留鎬京。

安能為軒轅,獨往入窈冥。

小臣拜獻南山壽,陛下萬古垂鴻名。

 

 

(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。

因って天池を出でて蓬瀛に泛び,樓船 蹙沓 波浪 驚く。

三千の雙蛾 歌笑を獻じ,鐘を撾ち 鼓を考じ 宮殿傾く。

萬姓 聚舞 太平を歌う,我 無為にして,人自ら寧し。

 

三十六帝 相い迎えんと欲す,仙人 飄翩 雲軿

帝 去らず,鎬京に留る。

安んぞ能く軒轅と為り,獨り往く 窈冥に入らんと。

小臣 拜して獻ず 南山の壽,陛下萬古垂鴻名。

長安城図 作図00 

 

『春日行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

春日行

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

(下し文)
(春日行)

深宮の高樓 紫清に入る,金は蛟龍を作りて 繡楹を盤る。

佳人 窗に當って白日を弄し,絃は手を將って語って 鳴箏を彈ず。

春風 吹き落つ君王の耳,此の曲 乃ち是れ昇天の行。

(現代語訳)
(君王の遊楽を詞す歌。)

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。


(訳注)

春日行 

(君王の遊楽を詞す歌。)

○春日 春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。

年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。

元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。

人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。

上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。

探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。

寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、31日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。

寒食の用語解説 - 古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。

上巳節は、33日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。

春の行事:探春の宴、送窮日、寒食節、清明節、上巳節  

長安皇城宮城00 

深宮高樓入紫清,金作蛟龍盤繡楹。

皇城の奥深いところに立ち並ぶ高楼は、大空を衝くばかり、黄金で蛟龍を作り、彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱などを廻ってみごとである

○深宮 宮城の奥深いところ。

○紫清 皇城の上に広がるおおぞら。

○盤繡楹 彫刻や刺繍などを巻き付けて飾ってある母屋の正面の丸柱。・楹 母屋の正面の丸柱. 2((文語文[昔の書き言葉])) 部屋の数を数える.

 

佳人當窗弄白日,絃將手語彈鳴箏。

その見事なることは、心も言東も及ばぬ程で、そこに、佳人は、春の日の静なるに乗じて、窓に傍ら、手を以て絃をつま弾きつつ、筝を掻き鳴らす。

○佳人 古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

○絃將手語 声を出して語り、歌いながら弦を弾く

○彈鳴箏 絃数の多い箏琴、さらに多い瑟琴など弾き、敲いて音を出す、同時に複数絃から音色が出るため高度に難しいとされた。玄宗は数多くの「一芸に秀でたもの」を梨園に集めた。李白は、ここで玄宗の遊楽に対してのことを言っているのであろう。以下、閉じ有名な宮優をあげる。

<張雲容>

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

<王大娘>

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

<許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。

安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

<念奴>

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

春風吹落君王耳,此曲乃是昇天行。

すると、その調べは、春風に送られて、天子の御耳に入り、その曲は、何かといえば、「昇天行」であって、この世は、まことに果敢ないものであるから、神仙を求めて、六合の外に翺翔するに如かずといふ意味合いを述べたものである。

昇天行 古樂府昇天行。曹植"日月何肯留"、鮑照"家世宅關輔"。曹植又有《飛龍》、《仙人》、《上仙錄》與《神遊》、《五遊》、《遠遊》、《龍欲昇天》等七篇。如陸士衡《緩聲歌》,皆傷人世不永,俗情險艱,當求神仙翺翔六合之外。其詞蓋出楚歌《遠遊篇》也。昇天行は、曹植の"日月何肯留"とあり、鮑照の"家世宅關輔"とみえる。曹植は又、《飛龍》、《仙人》、《上仙錄》與《神遊》、《五遊》、《遠遊》、《龍欲昇天》等七篇 有る。陸士衡《緩聲歌》の如し,皆 人世 永からず,俗情險艱なるを傷み,當に神仙を求め、六合之外に翺翔すべし。其の詞 蓋し楚歌(楚辞)の《遠遊篇》に出る也。」とある。
大明宮-座標02

李白330#2 巻二11-《飛龍引,二首之二》 330#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(12) <李白330#2> Ⅰ李白詩1644 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6768

李白  飛龍引,二首之二 #2

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。

李白330#2 巻二11-《飛龍引,二首之二》 330#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-12) <李白330#2> 李白詩1644 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6768

 

 
  2015年10月16日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李白330#2 巻二11-《飛龍引,二首之二》 330#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(12) <李白330#2> Ⅰ李白詩1644 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6768  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 11顧夐 (改)《巻六49玉樓春四首其二》『花間集』300全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6772  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
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  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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年:-743年天寶二年43歳 94-11

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  飛龍引,二首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    

 

 

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。

#2

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。

 

(飛龍引,二首の二)

鼎湖の流水 清且閒なり,軒轅去る時 弓劍有り。

古人傳へ道う 其の間に留まると,後宮の嬋娟 花顏多し。

鸞に乘じ 煙を飛ばし亦た還らず,龍に騎し 天を攀じて天關に造る。

#2

天關に造り,天語を聞く,長雲 河車 玉女を載す。

玉女を載せて,紫皇を過ぎ,紫皇 乃ち白兔の擣く所の藥方を賜い,天に後れて老い 三光を彫む。

下 瑤池を視て 王母を見れば,蛾眉 蕭颯として 秋霜の如し。

 

 

『飛龍引,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

(下し文)
#2

天關に造り,天語を聞く,長雲 河車 玉女を載す。

玉女を載せて,紫皇を過ぎ,紫皇 乃ち白兔の擣く所の藥方を賜い,天に後れて老い 三光を彫む。

下 瑤池を視て 王母を見れば,蛾眉 蕭颯として 秋霜の如し。

(現代語訳)
かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。

その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。

然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。


(訳注)

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

其二は史記漢書に載せ司馬相如の大人賦を切り詰めて、十数句に短縮したようなもので、その本意は・玄宗の末年、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じて居られるよう だが、そんな事は決して有りうべきことではないといって、之を諷した一邊にあるので、二詩互いに表裏を爲し、一正一反、各々その妙を極めて居る。

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且,軒轅去時有弓

古人傳道留其,後宮嬋娟多花

乘鸞飛煙亦不,騎龍攀天造天

造天,聞天,長雲河車載玉

載玉,過紫。紫皇乃賜白兔所擣之藥,後天而老彫三

下視瑤池見王,蛾眉蕭颯如秋

●○○●○△○  ○○●○●○●

●○△●△○△  ●○○○○○○

△○○○●△○  △○○○●○○

●○○  △○● △○○○●●●

●●● △●○  ●○●●●●●●○●○ ●○○●○△△

●●○○●△△ △○○●△○○

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊,鍊丹

丹砂成黃,騎龍飛上太清

雲愁海思令人,宮中綵女顏如

飄然揮手凌紫,從風縱體登鸞

登鸞,侍軒

遨遊青天中,其樂不可

○●●●○○○  ●○○

○○○○○  △○○●●○○

○○●△△○○  ○△●●○△○

○○○●○●○  △△△●○○○

○○○  ●○○

○○○○△  ○●△●○

 

 

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

かの嬋娟たる美人どもは、長雲の車に載って、銀河を横切り、やがて、紫微宮において柴皇に謁見した。

  1. 玉女 仙家の侍女、その美、玉の如きより言う。

 

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

その時、紫皇は、廣寒宮で白兎が年中杵を搗くといふ仙薬の薬方を黃帝に賜った。この藥方は、まことに貴いもので、これ服用すれば、天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、薬を飲んだ仙人はその後やっとおいてゆくというもので、日月星の三光が萎んで仕舞っても、自分の身體だけは、現存すると いうので、つまり、不老長寿の霊薬なのである。

  1. 紫皇 紫微宮の大帝、太平御覧の引ける秘要經に「太清九宮、皆僚属あり、その最も高さものを天皇、柴星、玉皇と称す」とある。

  2. 白兔所擣之藥方 《集·相如歌辞九·<董逃行>之四》「教敕凡吏受言,採取神藥若木端,玉兔長跪擣藥蝦蟆丸,奉上陛下一玉柈,服此可得神仙。」(敕凡吏に教し言を受く,取神藥を採って若木の端,玉兔 長跪し 藥蝦蟆丸を擣し,上陛下 一玉柈を奉じ,此の藥を服して神仙を得る可し。)

  3. 後天而老 天は決して老いるものではないが、万が一、天が老いることがあっても、仙人はその後やっとおいてゆくというもの。

  4. 彫三光 三光は日月星、日月星が萎んでも、自分だけは現存している。

 

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

然るところ、黄帝、幷に宮女の一行は、帰り途に、ふと、崑崙山の瑤池の方を見下ろして、女仙の大将として知られる西王母は、眉毛が蓬々として、その色は白く、さながら秋の野におりた霜のようで、蕭颯として風に動いている。もし天に後れて老い、三光が凋んでも、その人の身体は、毀れないといふ霊薬があるならば、西王母は、何時までも花顔嬋娟として、若々しくあるべきではないか、このように老い朽ちて、死の迫って居るのを見ると、せっかくの霊薬も、あてには成らず、後宮における「神仙の道」などというものは、断じて、信ずるに足らぬものであるとしか言いようがないのである。

  1. 下視瑤池 太平廣記に「西王母居るところの宮室九層、玄紫翠丹房、左に瑤池を帯び、右に翠水を環らす」とある。

  2. 蛾眉蕭颯 司馬相如の大人賦に、「吾乃今日睹西王母。然白首戴勝而穴處兮,亦幸有三足烏為之使。」とあると同義、蕭颯は秋霜、即ち白首の意。玄宗の道教に対する姿勢が不純であるということをいう。

    李白は丹砂、金丹、・・・道教を否定するのではなく、頽廃と権力闘争、讒言、暗躍というものを批判しているということである。

 

 

 

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇。

紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

 

 

作者:司馬相如 西漢           

《大人賦》

  世有大人兮,在乎中州。宅彌萬里兮,曾不足以少留。悲世俗之迫隘兮,朅輕舉而遠遊。乘絳幡之素蜺兮,載雲氣而上浮。建格澤之脩竿兮,總光耀之采旄。垂旬始以為兮,彗星而為。掉指橋以偃蹇兮,又旖旎以招搖。攬攙搶以為旌兮,靡屈虹而為綢。紅杳渺以眩湣兮,猋風涌而雲浮。駕應龍象輿之蠖略逶麗兮,驂赤螭青虯之蚴蟉宛蜒。低卬夭蟜裾以驕驁兮,詘折隆窮蠼以連卷。沛艾赳仡以儗兮,放散畔岸驤以孱顏。踱輵轄容以委麗兮,蜩蟉偃𤟭以梁倚。糾蓼叫奡蹋以路兮,蔑蒙踊躍騰而狂莅颯芔翕熛至電過兮,煥然霧除霍然雲消。

 

  邪少陽而登太陰兮,與真人乎相求。互折窈窕以右轉兮,橫厲飛泉以正東。悉徵靈圉而選之兮,部署衆神於搖光。使五帝先導兮,反太一而從陵陽。左玄冥而右黔靁兮,前長離而後潏湟。廝征伯僑而役羨門兮,詔岐伯使尚方。祝融警而蹕御兮,清氣氛而後行。屯余車而萬乘兮,綷雲蓋而樹華旗。使句芒其將行兮,吾欲往乎南娭。

 

  歷唐堯於崇山兮,過虞舜於九疑。紛湛湛其差錯兮,雜遝膠葛以方馳。騷擾衝蓯其相紛挐兮,滂濞泱軋麗以林離。鑽羅列聚叢以蘢茸兮,衍曼流爛以陸離。徑入靁室之砰磷鬱律兮,洞出鬼谷之崫。徧覽八紘而觀四荒兮,朅渡九江而越五河。經營炎火而浮弱水兮,杭浮渚涉流沙。奄息總極氾濫水嬉兮,使靈媧鼓琴而舞馮夷。時若薆薆將混濁兮,召屏翳誅風伯而刑雨師。西望崑崙之軋沕洸忽兮,直徑馳乎三危。排閶闔而入帝宮兮,載玉女而與之歸。登閬風而遙集兮,亢鳥騰而壹止。低回陰山翔以紆曲兮,吾乃今日睹西王母。然白首戴勝而穴處兮,亦幸有三足烏為之使。必長生若此而不死兮,雖濟萬世不足以喜。

 

  回車朅來兮道不周,會食幽都。呼吸沆瀣兮餐朝霞,噍咀芝英兮嘰瓊華。侵潯而高縱兮,紛鴻涌而上厲。貫列缺之倒景兮,涉豐隆之滂濞。騁游道而脩降兮,騖遺霧而遠逝。迫區中之隘陜兮,舒節出乎北垠,遺屯騎於玄闕兮,軼先驅於寒門。下崢嶸而無地兮,上嵺廓而無天。視眩眠而亡見兮,聽惝恍而無聞。乘虛無而上假兮,超無友而獨存。

李白330#1 巻二11-《飛龍引,二首之二》(鼎湖流水清且閒,) 330#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(11) <李白330#1> Ⅰ李白詩1643 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6763

743年(10329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,)

李白  龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。遨遊青天中,其樂不可言。

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

李白329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,) 329Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-10) <李白329> Ⅰ李白詩1642 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6758

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94

卷別: 卷一六二      文體: 樂府

詩題: 飛龍引,二首之一

作地點:      長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:      荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)      

 

 

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

(飛龍引,二首之一)

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

 

 

『飛龍引,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。

遨遊青天中,其樂不可言。

(下し文)
飛龍引,二首之一

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

(現代語訳)
(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。


(訳注)

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

 

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

  1. 黃帝 史記 黃帝采首山銅,鑄鼎於荊山下。鼎既成,有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎,群臣後宮從上者七十餘人,龍乃上去。餘小臣不得上,乃悉持龍髯,龍髯拔,墮,墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天,乃抱其弓與胡髯號,故後世因名其處曰鼎湖,其弓曰烏號。」(黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鑄る。鼎、すで成る。龍有り、胡髯を垂れ、下って黃帝を迎う。黃帝 上り騎す,群臣後宮 從って上る者七十餘人,龍 乃ち上り去る。餘の小臣 上る得ず,乃ち悉く龍髯を持す,龍髯拔け,墮つ,黃帝の弓を墮つ。百姓 仰望すれば黃帝 既に天に上る,乃ち其弓と胡髯とを抱いて號ぶ,故に後世因って其處を名づけて鼎湖と曰い,其の弓を烏號と曰う。)とみえる。

  2. 錬丹砂 《史記、封禅書》「李少君、少君言上曰「祠灶則致物、致物而丹沙可化為黃金、黃金成以為飲食器則益壽、益壽而海中蓬萊僊者乃可見、見之以封禪則不死、黃帝是也。(李少君上に言って曰く「灶を祠れば則ち物を致す、物を致せば、丹沙化して黃金と為るべし、黃金 成って以て飲食の器と為せば則ち壽を益さん、壽を益せば海中蓬萊の僊者 乃ち見る可し、之を見て以て封禪すれば則ち死せず、黃帝 是れなり。)とある。

錬丹砂は煉丹術とも書く。服用すると、不老不死、軽身(身が軽くなり空を飛べる)、鬼神を使役し変身などの超能力をもつ神仙になれるという丹薬を製しようと、昔の中国で盛んに試みられた術。不老不死は、秦(しん)の始皇帝や漢の武帝など、他にかなわぬことのない絶対君主にとって、最後に残った願望であった。薬物書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』でも、上薬120種はそのための薬で、晋(しん)の葛洪(かっこう)が著した錬丹および神仙に関する書『抱朴子(ほうぼくし)』では上薬を仙薬ともよび、そのままか、簡単な処理だけで単独で服用すれば延命効果があるが、不死を得るには丹薬が必要であるとする。今日の「~丹」という薬名は丹薬に由来する。金の永遠不変性は不老不死に通じるが、天然の金では純度が低くて効果が少ないと考え、金に、丹砂(辰砂(しんしゃ)とも。硫化水銀。これが主原料のため丹薬という)、ヒ素や銅や鉄、それらの化合物、塩化ナトリウム(岩塩)、雲母(うんも)、鶏卵などを加え、加熱などの物理的・化学的処理を施して金の純度を高め(それが可能と考え)、原料の相乗作用にも期待した。硫黄(いおう)や水銀や硫化水銀の化学変化の顕著さや鶏卵の成鳥への変化などは、凡人から神仙への変身に通じるとして有効と考えられた。こうした思想は西洋・イスラムの錬金術と似通っている。現存最古の錬丹術書である後漢(ごかん)末の魏伯陽(ぎはくよう)の『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』は、西方の錬金術の『ヘルメス文書』と同様、隠喩(いんゆ)的象徴的表現に満ちている。中国の場合、金の製造を最終目標とすることもあるが、おもに不老不死を得るために金をつくる点が西方と異なる。水銀やヒ素はごく微量に用いればある種の病気に有効であるが、継続的に大量服用すれば中毒となる。唐代には丹薬を服用して急死したり苦死した皇帝が少なくとも5人はいる。

 神仙になるには丹薬の服用のほか、精神的・肉体的修行を積み、仙人の課する一種の資格試験に合格しなければならない。宋(そう)代ごろからは服薬より精神修養に重点が移り、丹薬製造過程と精神修養の過程を対応させ、前者を外丹、後者を内丹とよんだ。錬金術と同様、錬丹術にもインチキのものもあり、真剣な追求の場合も徒労に終わったが、化学に関する知識の増大、化学物質の発見、実験器具の発達に貢献した。隋(ずい)唐の名医孫思(そんしばく)の『丹経(たんきょう)』(655)記載の「伏火硫黄法」などの処方は火薬の起源となった。

 

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

  1. 太清 大空。

 

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

  1. 雲愁海思 梁の豫章王の詩に「雲悲海思徒揜抑」とあるに本づく。

  2. 綵女 美女に同じ。

 

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

  1. 縱體 曹植の洛神賦、忽焉縱體、以遨以嬉.の註に「縱體は輕擧の貌」とある。體の輕げなるをいう。

  2. 鸞車 自鸞に引かせて仙人の乗る車。

 

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

  1. 軒轅 史記に「黃帝は少典の子、姓は公孫、名を軒轅という。土徳の瑞あり、故に黃帝と号す」とある。

 

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

 

 


 

李白  飛龍引,二首之二   

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。

李白330#1 巻二11-《飛龍引,二首之二》(鼎湖流水清且閒,) 330#1Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-11) <李白330#1> Ⅰ李白詩1643 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6763

 

 

年:-743年天寶二年43歳 94-11

卷別:  卷一六二        文體:  樂府

詩題:  飛龍引,二首之二

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    

 

 

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

 

(飛龍引,二首の二)

鼎湖の流水 清且閒なり,軒轅去る時 弓劍有り。

古人傳へ道う 其の間に留まると,後宮の嬋娟 花顏多し。

鸞に乘じ 煙を飛ばし亦た還らず,龍に騎し 天を攀じて天關に造る。

 

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

『飛龍引,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

 

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇,紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

(下し文)
(飛龍引,二首の二)#1

鼎湖の流水 清且閒なり,軒轅去る時 弓劍有り。

古人傳へ道う 其の間に留まると,後宮の嬋娟 花顏多し。

鸞に乘じ 煙を飛ばし亦た還らず,龍に騎し 天を攀じて天關に造る。

 

#2

造天關,聞天語,長雲河車載玉女。

載玉女,過紫皇。

紫皇乃賜白兔所擣之藥方,後天而老彫三光。

下視瑤池見王母,蛾眉蕭颯如秋霜。

(現代語訳)
(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。


(訳注)

飛龍引,二首之二

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其二は、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じているが、そんな事は決して有りうべきことではないということをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

 

其二は史記漢書に載せ司馬相如の大人賦を切り詰めて、十数句に短縮したようなもので、その本意は・玄宗の末年、神仙の道に惑溺し、長生不死の薬を求められると信じて居られるやう だが、そんな事は決して有りうべきことではないといって、之を諷した一邊にあるので、二詩互いに表裏を爲し、一正一反、各々その妙を極めて居る。

飛龍引,二首之二

鼎湖流水清且,軒轅去時有弓

古人傳道留其,後宮嬋娟多花

乘鸞飛煙亦不,騎龍攀天造天

造天,聞天,長雲河車載玉

載玉,過紫。紫皇乃賜白兔所擣之藥,後天而老彫三

下視瑤池見王,蛾眉蕭颯如秋

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飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊,鍊丹

丹砂成黃,騎龍飛上太清

雲愁海思令人,宮中綵女顏如

飄然揮手凌紫,從風縱體登鸞

登鸞,侍軒

遨遊青天中,其樂不可

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鼎湖流水清且閒,軒轅去時有弓劍。

黃帝昇仙の遺蹟たる鼎湖へ来てみると、流水は古に異ならず、清くして且つ閒である。古來傳うるところに根拠すれば、黄帝上天の後、遺物としては、弓と剣との二つだけが、この鼎湖の側に残って居たとのことである。

  1. 弓劍 か針葉帝が上昇ぜし時鳥軟の弓谷堕したことは、前首に解して置い圭、それから、創私通Lt=とに抱朴子に「茸帝、自ら亡日を揮び、七十日に至って去り、七十日にして還る、喬山に葬る。陵崩ろろや、墓空しくして戸なく、但だ創鳥みろのみ」とあって.同じ事が列仙静にも見えて居る。

  2. 鼎湖 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)    黄帝は、首山の胴を採掘して荊山の麓で鼎を鋳造した。鼎が完成すると、龍が出現した。あごひげをたらして下って、黄帝を天上に迎えに来た。黄帝は、こうして龍にまたがり昇ることになった。群臣や後宮の女官で従うことを許された者は、わずか七十人あまりだった。小臣はみな昇ることを許されなかった。彼らは天に昇りたくて龍のひげをにぎってはなさなかった。そのため龍のひげが抜け、黄帝の弓が落ちた。小臣たちはその弓を抱いて泣いた。後世、その場所を鼎湖【ていこ】と名づけ、その弓を烏号【うごう】といった。李白《巻1809答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄》「鼎湖夢淥水,龍駕空茫然。」

149-2 《答長安崔少府叔封,遊終南翠微寺,太宗皇帝金沙泉見寄 (2)》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<149-2> Ⅰ李白詩1343 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5263


古人傳道留其間,後宮嬋娟多花顏。

そして、また、古来伝うるところでは、どこかに行ったのではなく其処にとどまっていたのであり、だから、黃帝の後宮に居た嬋娟たる美人は、鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天し、これも二度とは還らないのである。嬋娟 美好の貌。

 

乘鸞飛煙亦不還,騎龍攀天造天關。

さて鸞に乗り、煙を飛ばし、やはり黃帝に従って上天しかえらなかったものたちは、黃帝は龍に乗じて、天上の玉帝のおわします天関に至って、天語をきかれたという。天關 天上の宮闕。

李白329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,) 329Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(10) <李白329> Ⅰ李白詩1642 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6758

李白  龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。遨遊青天中,其樂不可言。

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

李白329 巻二10-《飛龍引,二首之一》(黃帝鑄鼎於荊山,) 329Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-10) <李白329> Ⅰ李白詩1642 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6758

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    飛龍引,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

 

 

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

(飛龍引,二首之一)

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

 

 

『飛龍引,二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

飛龍引,二首之一

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

登鸞車,侍軒轅。

遨遊青天中,其樂不可言。

(下し文)
飛龍引,二首之一

黃帝 鼎を荊山に鑄て,丹砂を鍊る。

丹砂 黃金を成す,龍に騎して 飛んで上る 太清の家。

雲愁 海思 人をして嗟せしむ,宮中の綵女 顏 花の如し。

飄然 手を揮って 紫霞を凌ぐ,風に從い 體を縱にして 鸞車に登る。

鸞車に登り,軒轅に侍す。

遨遊す 青天の中,其の樂や 言う可からず。

(現代語訳)
(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。


(訳注)

飛龍引,二首之一

(黃帝が鼎湖丹成って後、龍に騎乗して雲上に上昇したことを述べたもので、其一は、もっぱら上昇の楽しみをのべる。)

琴曲歌詞の古歌である。

 

黃帝鑄鼎於荊山,鍊丹砂。

黃帝は、首山の銅を采って、荊山の下において鼎を鋳造した。それは、丹砂を練る爲であった。

  1. 黃帝 史記 黃帝采首山銅,鑄鼎於荊山下。鼎既成,有龍垂胡髯下迎黃帝。黃帝上騎,群臣後宮從上者七十餘人,龍乃上去。餘小臣不得上,乃悉持龍髯,龍髯拔,墮,墮黃帝之弓。百姓仰望黃帝既上天,乃抱其弓與胡髯號,故後世因名其處曰鼎湖,其弓曰烏號。」(黄帝、首山の銅を采り、鼎を荊山の下に鑄る。鼎、すで成る。龍有り、胡髯を垂れ、下って黃帝を迎う。黃帝 上り騎す,群臣後宮 從って上る者七十餘人,龍 乃ち上り去る。餘の小臣 上る得ず,乃ち悉く龍髯を持す,龍髯拔け,墮つ,黃帝の弓を墮つ。百姓 仰望すれば黃帝 既に天に上る,乃ち其弓と胡髯とを抱いて號ぶ,故に後世因って其處を名づけて鼎湖と曰い,其の弓を烏號と曰う。)とみえる。

  2. 錬丹砂 《史記、封禅書》「李少君、少君言上曰「祠灶則致物、致物而丹沙可化為黃金、黃金成以為飲食器則益壽、益壽而海中蓬萊僊者乃可見、見之以封禪則不死、黃帝是也。(李少君上に言って曰く「灶を祠れば則ち物を致す、物を致せば、丹沙化して黃金と為るべし、黃金 成って以て飲食の器と為せば則ち壽を益さん、壽を益せば海中蓬萊の僊者 乃ち見る可し、之を見て以て封禪すれば則ち死せず、黃帝 是れなり。)とある。

錬丹砂は煉丹術とも書く。服用すると、不老不死、軽身(身が軽くなり空を飛べる)、鬼神を使役し変身などの超能力をもつ神仙になれるという丹薬を製しようと、昔の中国で盛んに試みられた術。不老不死は、秦(しん)の始皇帝や漢の武帝など、他にかなわぬことのない絶対君主にとって、最後に残った願望であった。薬物書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』でも、上薬120種はそのための薬で、晋(しん)の葛洪(かっこう)が著した錬丹および神仙に関する書『抱朴子(ほうぼくし)』では上薬を仙薬ともよび、そのままか、簡単な処理だけで単独で服用すれば延命効果があるが、不死を得るには丹薬が必要であるとする。今日の「~丹」という薬名は丹薬に由来する。金の永遠不変性は不老不死に通じるが、天然の金では純度が低くて効果が少ないと考え、金に、丹砂(辰砂(しんしゃ)とも。硫化水銀。これが主原料のため丹薬という)、ヒ素や銅や鉄、それらの化合物、塩化ナトリウム(岩塩)、雲母(うんも)、鶏卵などを加え、加熱などの物理的・化学的処理を施して金の純度を高め(それが可能と考え)、原料の相乗作用にも期待した。硫黄(いおう)や水銀や硫化水銀の化学変化の顕著さや鶏卵の成鳥への変化などは、凡人から神仙への変身に通じるとして有効と考えられた。こうした思想は西洋・イスラムの錬金術と似通っている。現存最古の錬丹術書である後漢(ごかん)末の魏伯陽(ぎはくよう)の『周易参同契(しゅうえきさんどうけい)』は、西方の錬金術の『ヘルメス文書』と同様、隠喩(いんゆ)的象徴的表現に満ちている。中国の場合、金の製造を最終目標とすることもあるが、おもに不老不死を得るために金をつくる点が西方と異なる。水銀やヒ素はごく微量に用いればある種の病気に有効であるが、継続的に大量服用すれば中毒となる。唐代には丹薬を服用して急死したり苦死した皇帝が少なくとも5人はいる。

 神仙になるには丹薬の服用のほか、精神的・肉体的修行を積み、仙人の課する一種の資格試験に合格しなければならない。宋(そう)代ごろからは服薬より精神修養に重点が移り、丹薬製造過程と精神修養の過程を対応させ、前者を外丹、後者を内丹とよんだ。錬金術と同様、錬丹術にもインチキのものもあり、真剣な追求の場合も徒労に終わったが、化学に関する知識の増大、化学物質の発見、実験器具の発達に貢献した。隋(ずい)唐の名医孫思(そんしばく)の『丹経(たんきょう)』(655)記載の「伏火硫黄法」などの処方は火薬の起源となった。

 

丹砂成黃金,騎龍飛上太清家。

丹砂は、幾度か錬り上げられ、やがて黄金となり、それを服用すると、果然、仙人と成って上昇した。そこで、龍に乗って、大空に飛び上り、天上の仙居へ向っていったのである。

  1. 太清 大空。

 

雲愁海思令人嗟,宮中綵女顏如花。

しかし、雲海渺漫として、その跡、尋寝ることについての理由がなく、人をして、嗟嘆せしめるばかりであった。ここに、後宮に居たほどの顔色さながらの花のような美女どもは、黄帝に棄てられては大変だとおもっていた。

  1. 雲愁海思 梁の豫章王の詩に「雲悲海思徒揜抑」とあるに本づく。

  2. 綵女 美女に同じ。

 

飄然揮手凌紫霞,從風縱體登鸞車。

だから、自分たちも、飄然として身を躍らし、手を揮って、紫の霞を凌ぎつつ天に上って行くと、いつしか、仙術を得たものと見え、身体は軽くして、自由に空を度れるほどになった。

  1. 縱體 曹植の洛神賦、忽焉縱體、以遨以嬉.の註に「縱體は輕擧の貌」とある。體の輕げなるをいう。

  2. 鸞車 自鸞に引かせて仙人の乗る車。

 

登鸞車,侍軒轅。

やがて白鸞の引く車に乗って、黄帝の後を追い、その傍に侍して青天の中に遊び戯れて居る。

  1. 軒轅 史記に「黃帝は少典の子、姓は公孫、名を軒轅という。土徳の瑞あり、故に黃帝と号す」とある。

 

遨遊青天中,其樂不可言。

まことに、天上の樂は、心もことばも及ばぬ位。世に言い傳えて居る黄帝登仙の故事は、ざっとこの通りである。

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李白  烏夜啼   

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。
カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

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年:743年天寶二年43歳 94

卷別:    卷一六二              文體:    樂府

詩題:    烏夜啼

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

烏夜啼

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。

カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)

夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

 

烏夜啼うやてい

黄雲 城辺 烏棲まんと欲し、帰り飛び  唖唖ああとして枝上に啼く。

機中錦を織る  秦川の女、碧紗へきさ  煙の如く  窓を隔てて語る。

を停め  悵然として遠人を憶う、独り弧房に宿して  涙  雨の如し。

 

 

『烏夜啼』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

烏夜啼

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。
(含異文)

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。機中織錦秦川女【閨中織婦秦川女】【機中織錦秦家女】【閨中織婦秦家女】,碧紗如煙隔窗語。停梭悵然憶遠人【停梭向人問故夫】,獨宿孤房淚如雨【獨宿空房淚如雨】【欲遼西淚如雨】。
(下し文)
烏夜啼【うやてい】

黄雲 城辺 烏棲まんと欲し、帰り飛び  唖唖【ああ】として枝上に啼く。

機中錦を織る  秦川の女、碧紗【へきさ】  煙の如く  窓を隔てて語る。

梭【ひ】を停め  悵然として遠人を憶う、独り弧房に宿して  涙  雨の如し。

(現代語訳)
カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)

夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。


(訳注)

烏夜啼

この詩は(カラスが鳴いたのは、夫を兵役に出している妻の夫を想うて啼く声という思婦詩であり、李白にとって、烏が泣いたのは官職に取り上げてくれる予言になっている。)

烏夜啼は、周の房中葉の遺聲で、江左に謂はゆる梁宋新聲の楽府である。そして、その詞あるは、実に宋の臨川王劉義慶にはじまったのである。樂府古題要解に「宋の元嘉中、彭城王劉義慶を豫章郡に徒す。義慶、時に江州に在り、相見て哭す。文帝聞いて之を怪み、徴して、宅に還らしむ。義慶、大いに懼る。妓妾、鳥の夜啼くを聞き、斎閣を叩いて云ふ、明日應に赦あるべしと。旦に及びで、果して、南兗州刺史に改めらる。これに因って、歌を作る。その詞に云ふ、蘢葱窓不開、鳥夜啼、夜夜望郎來、と。蓋し其妾を詠せしなり」とある。それから、師曠の禽経註に「鳥、雌雄を失えば、夜啼く」といひ、直解に「妾、夫君を望む、烏の雌雄を失うて夜啼くが如きなり」とある。そこで、六朝の作者は、多く鳥啼を借って、惰懐を抒写し、皆この體に沿ひ、大抵、達人を寄懐するを以てその旨とし

たので、李白の此作も、亦た其通りである

・ 「烏夜啼」は周楽府にある。 南北朝、宋の臨川王劉義慶が彭城王劉義康との関係で文帝に怪しまれ、自宅謹慎させられていたとき、カラスが夜啼くのを聞いた女性が「明日はきっとお許しがありましょう。」と予言した。予言は当たったばかりかその年のうちに南袁州の刺史となった。そのことを感謝してこの歌を作った。

黃雲城邊烏欲棲,歸飛啞啞枝上啼。

夕日の影、薄れさまよい、黄昏の運気が城樓のあたりにたちこめている、この時、歸烏は陣をなしてねぐらにむかおうとして、互いに呼び合って啼き、そのこえは枝にとまって、「ああ」と聞こえる。ここに、深閨の少婦は、烏の羣の失っていないのを見て、自分の愁思に堪えられないのである。

・黄雲:夕暮れ時の雲気。黄土の砂煙。 

・城邊:城塞一帯。 

・烏:カラス。 ・欲:…よう。…う。…たい。 

・棲:鳥が巣に宿る。すむ。

・啞啞:〔ああ〕からすなどの啼き声。カーカー。 

・啼:〔てい〕(鳥や虫が)鳴く。

 

機中織錦秦川女,碧紗如煙隔窗語。

この少婦は、今しも、織機を前にして 錦を織っているが、それは秦川氏の妻の故事に学んで、回文を織っているのであろうか、青いうす絹のカーテンは霞のよう窓越しに一人ごとをつぶやいている。

・機中:機(はた)で織り込む。 

・機:はた。はたおる。 

・織錦:錦を織る。夫を思い慕ったことばを回文で織り込む。 

・秦川女:蘇蕙(蘇若蘭)のこと。この句は『晋書・列伝第六十六・列女・竇滔妻蘇氏』砂漠方面に流された夫を思う妻の典型を引用。秦川は長安地方を指す。夫が秦川刺史であったことによるための言い方。回文の錦を織った妻のことで竇滔とうとうの妻の蘇蕙(蘇若蘭)のこと。回文:順序を逆に読めば、別の意味になる文のこと。

・碧紗:緑色のうす絹のカーテン。女性の部屋を謂う。 

・如烟:けむっているかのようである。 

・隔牕語:窓を隔てて話す。

 

 

停梭悵然憶遠人,獨宿孤房淚如雨。
織機の杼()をとめて 心痛めて遠くを臨み、帰り来ぬあの人を憶う、誰もいない部屋にひとり寝してると  涙は雨のように濡らす。

・停梭:ひを(一時的に)とめる。 

・梭:〔さ〕ひ。おさ。機織りの道具。横糸を通す管のついているもの。 

・悵然:恨み嘆くさま。 

・憶:思い出す。 

・遠人:〔えんじん〕遠いところにいる人。遠方へ戦争や守備で行っている人。

・獨宿:ひとりで泊まる。 

・空房:誰もいない家屋。「孤房」ともする。 

・如雨:雨のようである。

 

 

 

烏夜啼うやてい

黄雲 城辺 烏棲まんと欲し、帰り飛び  唖唖ああとして枝上に啼く。

機中錦を織る  秦川の女、碧紗へきさ  煙の如く  窓を隔てて語る。

を停め  悵然として遠人を憶う、独り弧房に宿して  涙  雨の如し。

李白327 《巻一56-《古風,五十九首之五十六 (越客採明珠)》327Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(8) <李白327> Ⅰ李白詩1640 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6748

李白  古風,五十九首之五十六   

越客採明珠,提攜出南隅。清輝照海月,美價傾皇都。

獻君君按劍,懷寶空長吁。魚目復相哂,寸心增煩紆。

(この詩は、世人、小人が真仮をわきまえないことを嘲ったもので、《古風,五十九首之五十》「宋國梧臺東,野人得燕石。」の世俗のものは短見であり、すべてものの真贋、人の賢否を弁別せぬこと、ましてや、君主、それを支える高官が見抜く目を持たないことを傷んだものと同様のものである。)南海に臨み、中には珠池があり、明珠を産する地方の人が海底から明真珠を採り当てた。これを手に携えて、その南方の片隅のその国を出て都に上った。その真珠はもとよりなだたる特産であるだけに、その清らかな輝きは、海上の月の照り輝きのようで美しいものであり、都を傾けるほど、驚きの高い価値があるのである。そこで、この南越人が、君王に献上すると、あまりに光り輝くのが不思議で、唯物ではあるまいと、剣の柄に手をかけて、身がまえをしてこれを睨み付け、気にいるばかりか、恩賞の話もないので、南越人はそれを懐に入れて、長い嘆息して退出したというのである。これが魚の目であれば、珠の形をしているが、なんの価値もないものであるが、今の世では、この方が帰って珍とされるぐらいで、魚目は、南越の明珠を笑っているというもので、何らの価値を見出さないのである。君子が君王に見いだされないで、かえって世人、小人、どもの侮蔑されるのも、丁度この事と同じことであり、これを思えば、方寸の心の中で、頻りに思いは乱れるというもののである。

李白327 《巻一56-《古風,五十九首之五十六 (越客採明珠)327Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-8) <李白327> Ⅰ李白詩1640 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6748

 

 
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制作年:              743年天寶二年43

卷別:    卷一六一              文體:    五言古詩

詩題:    古風,五十九首之五十六

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

古風,五十九首之五十六

(この詩は、世人、小人が真仮をわきまえないことを嘲ったもので、《古風,五十九首之五十》「宋國梧臺東,野人得燕石。」の世俗のものは短見であり、すべてものの真贋、人の賢否を弁別せぬこと、ましてや、君主、それを支える高官が見抜く目を持たないことを傷んだものと同様のものである。)

越客採明珠,提攜出南隅。

南海に臨み、中には珠池があり、明珠を産する地方の人が海底から明真珠を採り当てた。これを手に携えて、その南方の片隅のその国を出て都に上った。

清輝照海月,美價傾皇都。

その真珠はもとよりなだたる特産であるだけに、その清らかな輝きは、海上の月の照り輝きのようで美しいものであり、都を傾けるほど、驚きの高い価値があるのである。

獻君君按劍,懷寶空長吁。

そこで、この南越人が、君王に献上すると、あまりに光り輝くのが不思議で、唯物ではあるまいと、剣の柄に手をかけて、身がまえをしてこれを睨み付け、気にいるばかりか、恩賞の話もないので、南越人はそれを懐に入れて、長い嘆息して退出したというのである。

魚目復相哂,寸心增煩紆。

これが魚の目であれば、珠の形をしているが、なんの価値もないものであるが、今の世では、この方が帰って珍とされるぐらいで、魚目は、南越の明珠を笑っているというもので、何らの価値を見出さないのである。君子が君王に見いだされないで、かえって世人、小人、どもの侮蔑されるのも、丁度この事と同じことであり、これを思えば、方寸の心の中で、頻りに思いは乱れるというもののである。

 

(古風,五十九首之五十六)

越の客 明珠を採り,提げ攜えて 南隅を出づ。

清輝 海月を照らし,美價 皇都を傾く。

君に獻ずれば 君 劍を按じ,寶を懷いて 空しく長吁す。

魚目して 復た相い哂い,寸心 煩紆を增す。

 

 

『古風,五十九首之五十六』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之五十六

越客採明珠,提攜出南隅。

清輝照海月,美價傾皇都。

獻君君按劍,懷寶空長吁。

魚目復相哂,寸心增煩紆。

 

(下し文)

(古風,五十九首之五十六)

越の客 明珠を採り,提げ攜えて 南隅を出づ。

清輝 海月を照らし,美價 皇都を傾く。

君に獻ずれば 君 劍を按じ,寶を懷いて 空しく長吁す。

魚目して 復た相い哂い,寸心 煩紆を增す。

 

(現代語訳)

(この詩は、世人、小人が真仮をわきまえないことを嘲ったもので、《古風,五十九首之五十》「宋國梧臺東,野人得燕石。」の世俗のものは短見であり、すべてものの真贋、人の賢否を弁別せぬこと、ましてや、君主、それを支える高官が見抜く目を持たないことを傷んだものと同様のものである。)

南海に臨み、中には珠池があり、明珠を産する地方の人が海底から明真珠を採り当てた。これを手に携えて、その南方の片隅のその国を出て都に上った。

その真珠はもとよりなだたる特産であるだけに、その清らかな輝きは、海上の月の照り輝きのようで美しいものであり、都を傾けるほど、驚きの高い価値があるのである。

そこで、この南越人が、君王に献上すると、あまりに光り輝くのが不思議で、唯物ではあるまいと、剣の柄に手をかけて、身がまえをしてこれを睨み付け、気にいるばかりか、恩賞の話もないので、南越人はそれを懐に入れて、長い嘆息して退出したというのである。

これが魚の目であれば、珠の形をしているが、なんの価値もないものであるが、今の世では、この方が帰って珍とされるぐらいで、魚目は、南越の明珠を笑っているというもので、何らの価値を見出さないのである。君子が君王に見いだされないで、かえって世人、小人、どもの侮蔑されるのも、丁度この事と同じことであり、これを思えば、方寸の心の中で、頻りに思いは乱れるというもののである。

 李白の足跡0000

(訳注)

古風,五十九首之五十六

(この詩は、世人、小人が真仮をわきまえないことを嘲ったもので、《古風,五十九首之五十》「宋國梧臺東,野人得燕石。」の世俗のものは短見であり、すべてものの真贋、人の賢否を弁別せぬこと、ましてや、君主、それを支える高官が見抜く目を持たないことを傷んだものと同様のものである。)

このころ朝廷は、李林歩甫のおうぼうがまかり通り、「一芸に秀でた」ものを徴用する玄宗の施政を無視していたのでこれを批判したものである。古風,五十九首之五十(この詩は、世俗のものは短見であり、すべてものの真贋、人の賢否を弁別せぬことを傷んだもの)

宋國梧臺東,野人得燕石。

誇作天下珍,卻哂趙王璧。

趙璧無緇磷,燕石非貞真。

流俗多錯誤,豈知玉與珉。

宋國 梧臺の東,野人 燕石を得たり。

誇って 天下の珍と作し,卻って 趙王の璧を哂う。

趙璧は 緇磷【しりん】無く,燕石は 貞真に非らず。

流俗 錯誤多し,豈に玉と珉とを知らんや。

50 《古風五十九首之五十》Index-22Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳275古風,五十九首之五十宋國梧臺東, <50> Ⅰ李白詩1213 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4613

 

越客採明珠,提攜出南隅。

南海に臨み、中には珠池があり、明珠を産する地方の人が海底から明真珠を採り当てた。これを手に携えて、その南方の片隅のその国を出て都に上った。

越客 南越のことで、①今の広東地方、②五例山脈を越えて南方にあるところ、③今のヴェトナム、④国の南側、長江の南側にあって、南海に臨み、中には珠池があり、明珠を産する地方という意。

南隅 その南方の片隅。

 

清輝照海月,美價傾皇都。

その真珠はもとよりなだたる特産であるだけに、その清らかな輝きは、海上の月の照り輝きのようで美しいものであり、都を傾けるほど、驚きの高い価値があるのである。

 

獻君君按劍,懷寶空長吁。

そこで、この南越人が、君王に献上すると、あまりに光り輝くのが不思議で、唯物ではあるまいと、剣の柄に手をかけて、身がまえをしてこれを睨み付け、気にいるばかりか、恩賞の話もないので、南越人はそれを懐に入れて、長い嘆息して退出したというのである。

獻君 君王に献上すること。

君按劍 あまりに光り輝くのが不思議で、唯のものではあるまいと、剣の柄に手をかけて、身がまえをしてこれを睨み付ける。

 

魚目復相哂,寸心增煩紆。

これが魚の目であれば、珠の形をしているが、なんの価値もないものであるが、今の世では、この方が帰って珍とされるぐらいで、魚目は、南越の明珠を笑っているというもので、何らの価値を見出さないのである。君子が君王に見いだされないで、かえって世人、小人、どもの侮蔑されるのも、丁度この事と同じことであり、これを思えば、方寸の心の中で、頻りに思いは乱れるというもののである。

魚目 魚の目

寸心 方寸の心の中。

煩紆 頻りに思いは乱れる。
中國歴史rihaku00

李白326 《巻一50-《古風,五十九首之五十 (宋國梧臺東)》326Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(7) <李白326> Ⅰ李白詩1639 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6743

李白  古風,五十九首之五十   

宋國梧臺東,野人得燕石。誇作天下珍,卻哂趙王璧。

趙璧無緇磷,燕石非貞真。流俗多錯誤,豈知玉與珉。

(この詩は、世俗のものは短見であり、間違った思い込みを貫き通し、すべてものの真贋、人の賢否を弁別しないことを傷んだもの)昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通にとつまらぬ燕石を拾ってきた。一途に普通にとつまらぬ燕石と思っていたのが素晴らしい璧玉であった趙王の秘蔵する「卞和の璧玉」にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だからと、これを大切にしたという話がある。かの趙の璧玉は論語「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」というように、少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるが、この燕石は、その石質といえば、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

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  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
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  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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制作年:743年天寶二年43

卷別:    卷一六一              文體:    五言古詩

詩題:    古風,五十九首之五十

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              梧臺 (河南道 青州 臨淄)    

 

 

古風,五十九首之五十

宋國梧臺東,野人得燕石。

誇作天下珍,卻哂趙王璧。

趙璧無緇磷,燕石非貞真。

流俗多錯誤,豈知玉與珉。

(この詩は、世俗のものは短見であり、間違った思い込みを貫き通し、すべてものの真贋、人の賢否を弁別しないことを傷んだもの)

昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通にとつまらぬ燕石を拾ってきた。

一途に普通にとつまらぬ燕石と思っていたのが素晴らしい璧玉であった趙王の秘蔵する「卞和の璧玉」にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だからと、これを大切にしたという話がある。

かの趙の璧玉は論語「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」というように、少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるが、この燕石は、その石質といえば、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。

しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

古風,五十九首之五十

宋國 梧臺の東,野人 燕石を得たり。

誇って 天下の珍と作し,卻って 趙王の璧を哂う。

趙璧は 緇磷【しりん】無く,燕石は 貞真に非らず。

流俗 錯誤多し,豈に玉と珉とを知らんや。

 

 

『古風,五十九首之五十』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之五十

宋國梧臺東,野人得燕石。

誇作天下珍,卻哂趙王璧。

趙璧無緇磷,燕石非貞真。

流俗多錯誤,豈知玉與珉。

 

(含異文)           

宋國梧臺東,野人得燕石【宋人枉千金,去國買燕石】。

 

(下し文)

古風,五十九首之五十

宋國 梧臺の東,野人 燕石を得たり。

誇って 天下の珍と作し,卻って 趙王の璧を哂う。

趙璧は 緇磷【しりん】無く,燕石は 貞真に非らず。

流俗 錯誤多し,豈に玉と珉とを知らんや。

 

(現代語訳)

(この詩は、世俗のものは短見であり、間違った思い込みを貫き通し、すべてものの真贋、人の賢否を弁別しないことを傷んだもの)

昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通にとつまらぬ燕石を拾ってきた。

一途に普通にとつまらぬ燕石と思っていたのが素晴らしい璧玉であった趙王の秘蔵する「卞和の璧玉」にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だからと、これを大切にしたという話がある。

かの趙の璧玉は論語「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」というように、少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるが、この燕石は、その石質といえば、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。

しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

 

(訳注)

古風,五十九首之五十

(この詩は、世俗のものは短見であり、間違った思い込みを貫き通し、すべてものの真贋、人の賢否を弁別しないことを傷んだもの)

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

 

宋國梧臺東,野人得燕石。

昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通にとつまらぬ燕石を拾ってきた。

宋國梧臺東,野人得燕石 《藝文類聚》《闞子》「宋之愚人,得燕石於梧臺之東,歸而藏之以為寶,周客聞而觀焉。主人齋七日,端冕玄服以發寶,革匱十重,緹巾十襲,客見之。掩口而笑曰:此特燕石也。其與瓦甓不殊。主人大怒曰:「商賈之言,醫匠之口。」(宋之愚人、燕石を梧臺の東()に得て、西に帰ってこれを蔵し、以て大寶となす。周の客聞いてみる。主人斉すること七日、 端冕玄服、以て大寶となす。十重,巾十。客これを見て、首を傾げ、口を覆い、盧胡して笑って曰く「これ、燕石なり、瓦甓と异ならず。主人大いに怒って曰く「商買の言、醫匠のこころなり。」と。これを蔵すること、愈々固し。」とある。

燕石は 燕山所的一种似玉的石亦称"燕珉"不足珍之物とされる。

この二句は、《太平御》卷五十一子》曰:宋之愚人得燕石于梧台之西藏之以大宝。周客焉。主人端冕玄服以宝,华匮十重,巾十。客之,胡而笑曰:「此燕石也,与瓦甓不异。」主人大怒,藏之愈固。

 

誇作天下珍,卻哂趙王璧。

一途に普通にとつまらぬ燕石と思っていたのが素晴らしい璧玉であった趙王の秘蔵する「卞和の璧玉」にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だからと、これを大切にしたという話がある。

趙王璧 楚の卞和の璧で、後に趙王の手に還したとされる。春秋時代の楚()の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが信じてもらえず左足を切られ、次の武王のときにも献じたが、ただの石だとして右足を切られた。文王が位につき、これを磨かせると、はたして玉であったので、この玉を「和氏(かし)の璧(たま)」と称した。のち、趙(ちょう)の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が15の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。

 

趙璧無緇磷,燕石非貞真。

かの趙の璧玉は論語「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」というように、少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるが、この燕石は、その石質といえば、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。

○緇磷 黒くなることと、薄くなること。世俗のためにその節操を誤ること。少しの傷もなく、その上光明であること。南朝 謝靈運 《過始寧墅》「緇磷謝清曠, 疲薾慚貞堅。」(緇磷【しりん】は清曠【せいこう】を謝【しゃ】し、疲薾【ひでつ】てて貞堅【ていけん】に慙【は】ず。)“本性の白い色も黒く染まり、堅い石も磨り減って薄くなるように、私の心が俗事のために汚れて磨り切れてしまったことを、清らかにむなしく広い心の人物に対して謝まり、また疲れ切って心も弱くなってしまったことを、己がみさおを正しく堅く守っている人に対して慙じるのである。

(緇磷, ) 《論語陽貨》不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」(堅きを曰はずや、磨すれども磷【うすろ】がざる。白きを曰はずや、涅すれども緇【くろ】まざる。)“極めて堅いものは、どんなに磨いても薄くはならない。極めて白いものは、どんなに染めても黒くはならない。

     

流俗多錯誤,豈知玉與珉。

しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

○玉與珉 礼記に「君子、玉を貴んで、珉を賤む。珉は石、玉に似て非なり。」とある。

李白325 《巻一49-《古風,五十九首之四十九 (美人出南國)》》325Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(6) <李白325> Ⅰ李白詩1638 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6738

李白  古風,五十九首之四十九  

美人出南國,灼灼芙蓉姿。皓齒終不發,芳心空自持。

由來紫宮女,共妒青蛾眉。歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。

(宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められるが、入ればもう帰ることはできないところであるという。)南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しい。選りすぐられて後宮に入る。こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ってはいけないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、「容色が衰えて寵愛が薄れる」という例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかったのでたえず、憂いている。昔から後宮の宮女たちは、特に優れたる美人が天下より選りすぐられ、集められていて、その運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っているので、それだけを考えて競い合っている、したがって嫉妬、讒言、陰謀、政争に巻き込まれやすい地位にある。この妃嬪は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。

李白325 《巻一49-《古風,五十九首之四十九 (美人出南國)》》325Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-6) <李白325> Ⅰ李白詩1638 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6738

 

 

唐の後宮、后妃・妃嬪・宮女

 

  1. 唐の妃賓の規定『内職』について

古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭嬢、修儀、修容、修嬢、充儀、充容、充媛各一人)、姪好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で一二二人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬢」 - 皇帝の妾とされ

た。

 

  1. 皇太子の東宮にも「内官」

また、皇太子の東宮にも「内官」 があり、太子妃一人、その下に良妹、良嬢、承徴、昭訓、奉儀などの晶級があった。諸親王の王妃の下にも清人等の腱妾の身分があった。

唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃嬢だけが史書にいささかの痕跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』「后妃伝」 には、全部で二十六人の皇后、十人の妃嬢が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には睾皇后の他に、万貴妃、ヂ徳妃、宇文昭儀、実績、孫嬢、雀嬢、楊嬢、小楊嬢、張捷好、郭捷好、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、過度妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高捷好、柳捷好、鍾美人、慮美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、闇才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嬢がたしかに最も多かったようである。

 

  1. 後宮の宮女たちの選抜と出身

唐代の皇帝たちは、後宮の女性を選抜したり寵愛したりするのに、あまり尊卑貴職を気にかけなかったが、彼女たちに地位・晶級を賜る時には家柄をたいへん重視した。とりわけ皇后に立てる時には絶対に家柄が高貴でなければならず、「天下の名族を厳選」しなければならなかった(『資治通鑑』巻一九九、高宗永徴六年)。漢代に歌妓の衛子夫(武帝の皇后。もと武帝の姉の歌妓)や舞妓の超飛燕(成帝の皇后。もと身なし児で歌妓)が皇后になったようなことは、唐代には完全に跡を絶った。后妃に封ずる時は、まず「地肖清華」(家柄の高貴)、「軒冤之族」(貴顕なる名族)等々の出身であることが強調され、その次にやっと徳行が問われた。

 

唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちの八人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、建国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賎である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して彼女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は櫻献(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徴六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。恐らく天下の議を話すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賎ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。

名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。

 

  • 唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婦にされた人であり、憲宗の鄭后、珍宗の斎后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。

  • 皇后を立てることに比べて、妃嬢を立てることはわりあい簡単であり、家柄はそれほど厳格に問題にされることはなかった。彼女たちの大半は皇子を生むか、あるいは寵愛を受けたために妃嬢の晶階を賜った者であったから、その中には身分の低い者もいくらか含まれていた。たとえば、玄宗の超麗妃は歌妓の出身であった。そうした例もあるが、しかし妃嬢でも出身、家柄はやはり大切であった。太宗の楊妃は隋の場帝の娘であったから、「地位と名望が高く、内外の人々が皆注目した」(『新唐書』太宗諸子伝)。玄宗の柳捷好は名門大族の娘であり、玄宗は「その名家を重んじて」(『新唐書』十一宗諸子伝)特別な礼遇を与えた。

  • 美人が雲のごとく集まっている後宮において、家柄は一頭地を抜くために必要な第一の跳躍台であった。

 

 

  1. 政治闘争に巻き込まれる

富貴、栄達、優閑、快適 - 彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っていたからである。

『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は動乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。

 

  1. 天子の寵愛を失う

彼女たちの第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うことに外ならない。大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と難難を共にしたことによっ々寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。

 

王皇后と玄宗は難難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った韋后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔難難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がちょっとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂実の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ひどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃嬢に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災難を逃れることができた(王走保『唐掟言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と斎淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。

この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから手足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。

 

  1. 皇帝の死去

后妃にとって、最後の脅威は皇帝の死去である。これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」 へと転じることができた。少なくとも子のある妃嬢はちょっとした地位を保つことができたが、子のない妃嬢たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后といぅ至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭太后を礼遇しなかった。それで郭太后は鬱々として楽しまず、楼に登って自殺しょうとした。宣宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。

 

 

 

 

 

 

製作年:743年天寶二年43

卷別:    卷一六一              文體:    五言古詩

詩題:    古風,五十九首之四十九

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

古風,五十九首之四十九

(妃嬪・宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められるが、入ればもう帰ることはできないところであるという。)

美人出南國,灼灼芙蓉姿。

南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しい。選りすぐられて後宮に入る。

皓齒終不發,芳心空自持。

こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ってはいけないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、「容色が衰えて寵愛が薄れる」という例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかったのでたえず、憂いている。

由來紫宮女,共妒青蛾眉。

昔から後宮の妃賓・宮女たちは、特に優れたる美人が天下より選りすぐられ、集められていて、その運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っているので、それだけを考えて競い合っている、したがって嫉妬、讒言、陰謀、政争に巻き込まれやすい地位にある。

歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。

この妃嬪は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。

(古風,五十九首之四十九)

美人 南國にず,灼灼たる芙蓉の姿。

皓齒 終に發かず,芳心 空しく自ら持す。

由來 紫宮の女,共に青蛾眉を妒む。

歸り去れ 瀟湘の沚【なぎさ】,沈吟 何んぞ悲むに足らん。

 

 

『古風,五十九首之四十九』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之四十九

美人出南國,灼灼芙蓉姿。

皓齒終不發,芳心空自持。

由來紫宮女,共妒青蛾眉。

歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。

 

(下し文)

(古風,五十九首之四十九)

美人 南國にず,灼灼たる芙蓉の姿。

皓齒 終に發かず,芳心 空しく自ら持す。

由來 紫宮の女,共に青蛾眉を妒む。

歸り去れ 瀟湘の沚【なぎさ】,沈吟 何んぞ悲むに足らん。

 

(現代語訳)

(妃嬪の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められるが、入ればもう帰ることはできないところであるという。)

南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しい。選りすぐられて後宮に入る。

こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ってはいけないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、「容色が衰えて寵愛が薄れる」という例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかったのでたえず、憂いている。

昔から後宮の妃賓・宮女たちは、特に優れたる美人が天下より選りすぐられ、集められていて、その運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っているので、それだけを考えて競い合っている、したがって嫉妬、讒言、陰謀、政争に巻き込まれやすい地位にある。

この妃嬪は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。

 

(訳注)

古風,五十九首之四十九

(妃嬪・宮女の生き方、寵愛を受けるために陰湿な戦いを行うが、朝廷内におけるのも同様な陰湿な陰謀、讒言により貶められるが、入ればもう帰ることはできないところであるという。)

詩経の語句を巧みに、点綴しそれによって離隔の思いを述べ、女盛りを過ぎた女性が棄てられるのを自己に比した《古風,五十九首之四十四》と同じように、美人、草木を借りて、美人ゆえの妬み、能力あるが故の讒言、を詠ったものである。

綠蘿紛葳蕤,繚繞松柏枝。

草木有所託,寒尚不移。

奈何夭桃色,坐歎葑菲詩。

玉顏豔紅彩,雲髮非素絲。

君子恩已畢,賤妾將何為。

44 《古風五十九首之四十四》Index-22Ⅲ― 2-743年天寶二年43272古風,五十九首之四十四綠蘿紛葳蕤, <44> Ⅰ李白詩1207 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4583

 

美人出南國,灼灼芙蓉姿。

南国に生れた美人は、灼灼たる芙蓉の花が新たに水を得たようで極めて鮮やかに、且つ美しい。選りすぐられて後宮に入る。

美人 唐の「内官」制度の規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭嬢、修儀、修容、修嬢、充儀、充容、充媛各一人)、姪好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した宮女達の総称としていったものである。

南國 呉越をさす。江南、瀟湘、越の国に美人が多いとされる。

李白は西施、はじめ越多く取り上げている。

 

皓齒終不發,芳心空自持。

こんなにも美しい女が天子の愛寵を得ているのなら、どんなにか楽しいことかと思うのであるが、白い歯を出して笑ってはいけないというし、芙蓉に比べられても見劣りしない芳心を空しく持っているばかりで、「容色が衰えて寵愛が薄れる」という例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかったのでたえず、憂いている。

皓齒 笑った時の白い歯。曹植《雜詩(其四)》「南國有佳人,容華若桃李。 朝遊江北岸,夕宿瀟湘沚 時俗薄朱顏,誰爲發皓齒 俛仰將暮,榮耀難久恃。」の語句を借用している

不發 花が開かないこと、ここでは笑わないので口が開かないことをいう。

 

由來紫宮女,共妒青蛾眉。

昔から後宮の宮女たちは、特に優れたる美人が天下より選りすぐられ、集められていて、その運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っているので、それだけを考えて競い合っている、したがって嫉妬、讒言、陰謀、政争に巻き込まれやすい地位にある。

由來 昔から後宮の宮女たちは、中国全土から、特に優れたる美人が集められていて、死ぬまで、天子の寵愛を受けることだけのために生活をさせられる。

紫宮女 天帝の後宮で天帝の住まう紫微宮(しびきゅう)を文字っている。宮女をいう。

共妒 嫉妬の競争、天子の寵愛を受けることだけを考えて競い合っている、嫉妬、讒言、陰謀によって寵愛を維持しようと排斥し合っていることをいう。

青蛾眉 特に若くて優れたる美人、若くない年を重ねた美人は競争には勝てないからあきらめて生活する。

 

歸去瀟湘沚,沈吟何足悲。

この妃嬪は、召されて後宮に入ったもののとても陰湿に競い合う嫉妬が過ぎるため、この生活に堪えきれぬと、最早きっぱりと断念して故郷の瀟湘の水のほとりに帰りたいと思っているけれど、いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。

瀟湘沚 瀟と湘は河川名。瀟湘八景、洞庭湖に流入する河川、舜帝の妃娥皇・女英となり、夫の舜が遠征の途中、湘江の畔で命を落とすと後を追って洞庭湖に身投げし、湘江の神となったのを連想させる。また、自矜自慨をのべる、曹植《雜詩(其四)》「南國有佳人,容華若桃李。 朝遊江北岸,夕宿瀟湘沚 時俗薄朱顏,誰爲發皓齒 俛仰將暮,榮耀難久恃。」の語句を借用している

雜詩六首其四 曹植 魏詩<21>古詩源 巻三 女性詩647 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1805

沈吟何足悲  いくら沈吟して、くよくよ思い悩んだとしても今さら仕方のないことなのである。

心は黄蓮の如く〔苦く〕、身は紅葉の如く〔はかなし

「三千宮女胭脂面,幾個春來無淚痕。」(三千の宮女 胭脂の面、幾箇か春来りて涙の痕無からん)《白居易「後宮詞」》。

白居易 :

後宮詞其一

 

淚濕羅巾夢不成,夜深前殿按歌聲。

淚羅巾を濕し夢成ず,夜前殿に深し歌聲を按ずるに。

紅顏未老恩先斷,斜倚薰籠坐到明。

紅顏未だ老恩先ず斷ぜず,斜に倚る薰籠坐して明到る。

後宮詞其二

 

雨露由來一點恩,爭能遍布及千門。

雨露由來す 一點の恩,爭能く遍布 及び千門。

三千宮女胭脂面,幾個春來無淚痕。

三千の宮女胭脂の面、幾箇か春来りて涙の痕無からん。

古来、宮人は女性のなかで最も人間性を踏みにじられた人々であり、宦官とともに君主専制制度の直接の犠牲者であった。一方は生殖器をとられ身体を傷つけられた者、一方は人間性を踏みにじられた者である。宮人は奥深い後宮の中に幽閉されて永遠に肉親と別れ、青春と紅顔は葬り去られ、愛情と人生の楽しみは奪われ、生きている時は孤独の苦しみに、また死んだ後は訪れる人もない寂しさの中に置かれた。

 

 

宮人の解放

 

唐朝後宮の宮人の数はたいへん多かったが、それでも、宮人の採用は止むことはなかったので、後宮では恨みつらみが積もり、また民間でも不満が生れた。それで宮人問題は社会と朝廷の注目をあびることになった。どの皇帝の時代にも、この悪政を批判し、宮人たちが家族や恋人と離別させられる恨みや苦しみに同情して、彼女たちを放ち帰らせるようにと皇帝に願い出る人がいた。皇帝たちは、自分が徳政を実施し、歌舞音曲や女人を好まない振りをするために、また時には純粋に宮廷費用を節約するために、あるいはまた、後宮に怨恨が満ち溢れたせいで、災難にあって「天罰」を受けることを恐れるために、しばしば詔勅を発して宮人を解放した。唐朝では高祖より後、ほとんどの皇帝が宮人を解放したという記録がある。多い時には三千人、少ない時でも数百人であった。

 

これら宮人は宮中を出てから家のある者は家に帰り、嫁に行くことも可能だった。老いて病いのある者、身寄りのない者などは寺院や道観(道教の寺院)に送って収容し、時々少しばかりの金品を支給し生活の用とした(『全唐文』巻四二、粛宗「宮人を放つ詔」)。これは唐朝の皇帝のわずかばかりの仁政ということができる。しかし解放したといっても、宮人の数はいぜんとして相当なもので、唐末でも相変らず「六宮の貴・職の女性は一万人を減らない」という状況であった。その理由は、もともと解放された女性が多くない上に、絶えず新人が選抜されて入って来たので、根本的な問題の解決にはならなかったからである。そしてまた、解放された宮人の大多数は年を取り病弱であって役に立たず、彼女たちの青春はすでに深宮の中に葬り去られていたので、後宮を出でも寄る辺なく、晩年の境遇はじつに哀れで寂しいものであった。これと同時に青春の輝きの絶頂にある乙女たちが次々と絶えることなく後宮に送り込まれ、その紅顔が衰え、青春が空しく費やされるのを待つのであった。だからこの種の仁政の意義などというものは、本当に取るに足りないものだったのである。

 

後宮に積った女性たちの怨みを緩めるために、皇室もいくらか対策を講じた。たとえば、毎年上巳の目(三月上旬の巴の日)に宮人が肉親と会うことを許した。これは唐朝のちょっとした開明的なところといえる。「官女は毎年の上巳の日、興慶宮内の大同殿の前で親族と会って安否を尋ね、互いに贈物をやり取りすることを許された。一日の内に訪れる人の数は数千から一万にのぼった。やって来てすぐに親族と面会できる者もいれば、夕碁に及ぶまで家族の名を呼べど至らず、泣いて後宮に帰る者もあり、毎年このようであった」(尉遅促『中朝故事』)。この一幅の情景は監獄での面会とほとんど大差なく、宮人たちもまたまちがいなく高等監獄の囚人であった。

李白324 《巻一47-《古風,五十九首之四十七 (桃花開東園)》324Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(5) <李白324> Ⅰ李白詩1637 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6733

李白  古風,五十九首之四十七  桃花開東園,含笑誇白日。

偶蒙東風榮,生此豔陽質。豈無佳人色,但恐花不實。

宛轉龍火飛,零落早相失。詎知南山松,獨立自蕭飋。

(この詩は、高士でもなく、実行力も乏しいものが、偶然に得た栄達したのを嘲ったものである。)大明宮東内園にある桃李は、爛漫の花を開いて、庭園への熟愛は盛世の遊楽の欲求をみたし、白日に向って笑いを含んで誇らしくした。桃李は、春風のおかげによって、この春の盛りの艶陽の質を生じたのである。したがって、才芸のあるものが自然に集まってくるはずである。もとより、佳人に比すべき嬌麗なる色はあるが、ただ、花を咲かせるばかりで、実を結ばないということでは、「一芸に秀でたものを集める」という天子の思いに、いかにもそぐわないことである。ただ、艶陽の質をおいもとめ、いつしか龍火が宛転として西に落ちて季節が一気に、秋にかわるのである、そのときには艶陽の質の花はすべて零落して、何も残っていないのである。これに比すれば終南山の松はさすがに偉いもので、独立して、さわさわと長風に鳴り響いているのである。

李白324 《巻一47-《古風,五十九首之四十七 (桃花開東園)324Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-5) <李白324> Ⅰ李白詩1637 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6733

 

 
  2015年10月9日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
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製作年:              743年 天寶二年 43

卷別:    卷一六一              文體:    五言古詩

詩題:    古風,五十九首之四十七

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

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古風,五十九首之四十七

桃花開東園,含笑誇白日。

偶蒙東風榮,生此豔陽質。

豈無佳人色,但恐花不實。

宛轉龍火飛,零落早相失。

詎知南山松,獨立自蕭飋。

(この詩は、高士でもなく、実行力も乏しいものが、偶然に得た栄達したのを嘲ったものである。)

大明宮東内園にある桃李は、爛漫の花を開いて、庭園への熟愛は盛世の遊楽の欲求をみたし、白日に向って笑いを含んで誇らしくした。

桃李は、春風のおかげによって、この春の盛りの艶陽の質を生じたのである。したがって、才芸のあるものが自然に集まってくるはずである。

もとより、佳人に比すべき嬌麗なる色はあるが、ただ、花を咲かせるばかりで、実を結ばないということでは、「一芸に秀でたものを集める」という天子の思いに、いかにもそぐわないことである。

ただ、艶陽の質をおいもとめ、いつしか龍火が宛転として西に落ちて季節が一気に、秋にかわるのである、そのときには艶陽の質の花はすべて零落して、何も残っていないのである。

これに比すれば終南山の松はさすがに偉いもので、独立して、さわさわと長風に鳴り響いているのである。

古風,五十九首の四十七

桃花は東園に開き,含笑をんで白日に誇る。

偶ま東風の榮を蒙って,此の豔陽の質を生ず。

豈に佳人の色無からんや,但だ恐る 花の實らざるを。

宛轉として 龍火飛び,零落すれば 早に相い失う。

詎んぞ知らん 南山の松,獨立 自ら蕭飋たるを。

 

 

『古風,五十九首之四十七』現代語訳と訳註解説
(
本文)

古風,五十九首之四十七

桃花開東園,含笑誇白日。

偶蒙東風榮,生此豔陽質。

豈無佳人色,但恐花不實。

宛轉龍火飛,零落早相失。

詎知南山松,獨立自蕭飋。
(含異文)

桃花開東園,含笑誇白日。

偶蒙東風榮,生此豔陽質【矜此豔陽質】。

豈無佳人色,但恐花不實。

宛轉龍火飛,零落早相失。

詎知南山松,獨立自蕭飋。

此詩一作〈感興〉云

芙蓉嬌綠波,桃李誇白日。偶蒙春風榮,生此豔陽質。

豈無佳人色,但恐花不實。宛轉龍火飛,零落互相失。

詎知凌寒松,千載長守一


(下し文)
古風,五十九首の四十七

桃花は東園に開き,含笑をんで白日に誇る。

偶ま東風の榮を蒙って,此の豔陽の質を生ず。

豈に佳人の色無からんや,但だ恐る 花の實らざるを。

宛轉として 龍火飛び,零落すれば 早に相い失う。

詎んぞ知らん 南山の松,獨立 自ら蕭飋たるを。

(現代語訳)
古風,五十九首之四十七(この詩は、高士でもなく、実行力も乏しいものが、偶然に得た栄達したのを嘲ったものである。)

大明宮東内園にある桃李は、爛漫の花を開いて、庭園への熟愛は盛世の遊楽の欲求をみたし、白日に向って笑いを含んで誇らしくした。

桃李は、春風のおかげによって、この春の盛りの艶陽の質を生じたのである。したがって、才芸のあるものが自然に集まってくるはずである。

もとより、佳人に比すべき嬌麗なる色はあるが、ただ、花を咲かせるばかりで、実を結ばないということでは、「一芸に秀でたものを集める」という天子の思いに、いかにもそぐわないことである。

ただ、艶陽の質をおいもとめ、いつしか龍火が宛転として西に落ちて季節が一気に、秋にかわるのである、そのときには艶陽の質の花はすべて零落して、何も残っていないのである。

これに比すれば終南山の松はさすがに偉いもので、独立して、さわさわと長風に鳴り響いているのである。

長安城図 作図00
(訳注)

 

古風,五十九首之四十七

(この詩は、高士でもなく、実行力も乏しいものが、偶然に得た栄達したのを嘲ったものである。)

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

 

桃花開東園,含笑誇白日。

大明宮東内園にある桃李は、爛漫の花を開いて、庭園への熟愛は盛世の遊楽の欲求をみたし、白日に向って笑いを含んで誇らしくした。

桃花 桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見す」と述べた 。いずれも独自の美しい花を咲かせることから、桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李は李の特徴を改めることなく、生かしていくとの意味。司馬遷の「史記」に書かれた言葉「桃李不言下自成蹊」ということを暗示させる。

開東園 大明宮東内園。唐の宮苑は三内(大明宮、大極宮、興慶宮)、三苑(東内苑、西内苑、禁苑)かあり、「三・内の多くは宮と苑からなり、大明宮の前部は宮廷区、その北部は苑林区で、中央に広い太液池があり、その前の宣徳殿、紫宸殿とともに中軸線上に並んでいる。

李白《寄遠,十一首之八》「憶昨東園桃李紅碧枝,與君此時初別離。金瓶落井無消息,令人行歎復坐思。坐思行歎成楚越,春風玉顏畏銷歇。碧窗紛紛下落花,青樓寂寂空明月。兩不見,但相思。空留錦字表心素,至今緘愁不忍窺。」

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偶蒙東風榮,生此豔陽質。

桃李は、春風のおかげによって、この春の盛りの艶陽の質を生じたのである。したがって、才芸のあるものが自然に集まってくるはずである。

豔陽質 春のことの別表現。万物が覚醒し、成長を始める。艶の心も蘇ることなどをいう。

 

豈無佳人色,但恐花不實。

もとより、佳人に比すべき嬌麗なる色はあるが、ただ、花を咲かせるばかりで、実を結ばないということでは、「一芸に秀でたものを集める」という天子の思いに、いかにもそぐわないことである。

 

宛轉龍火飛,零落早相失。

ただ、艶陽の質をおいもとめ、いつしか龍火が宛転として西に落ちて季節が一気に、秋にかわるのである、そのときには艶陽の質の花はすべて零落して、何も残っていないのである。

龍火飛 張協の七命に秋になることをいう。龍火西頽。《文選·張協<七命>之一》:“若乃火西頽,暄気初收。飛霜迎,高送秋。

 

詎知南山松,獨立自蕭飋。

これに比すれば終南山の松はさすがに偉いもので、独立して、さわさわと長風に鳴り響いているのである。

南山松 終南山の松。この詩を作る時期は長安に仕えていた時である。

蕭飋 寂しげに突風が吹く。蕭瑟:風の吹く音がさびしげであること。

Ta唐 長安近郊圖  新02 

古風,五十九首之四十七

桃花開東園,含笑誇白日。

偶蒙東風榮,生此豔陽質。

豈無佳人色,但恐花不實。

宛轉龍火飛,零落早相失。

詎知南山松,獨立自蕭飋。

李白323 《巻一44-《古風,五十九首之四十四 (綠蘿紛葳蕤)》》323Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(4) <李白323> Ⅰ李白詩1636 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6728

李白  古風,五十九首之四十四   

綠蘿紛葳蕤,繚繞松柏枝。草木有所託,寒尚不移。

奈何夭桃色,坐歎葑菲詩。玉顏豔紅彩,雲髮非素絲。

君子恩已畢,賤妾將何為。

(この詩は、詩経の語句を巧みに、点綴し、それによって棄てられる側の思いを述べ、飽きられるだけで、男の多情で、託している女性が棄てられる棄婦怨を、託して宮使いしているものも同様に捨てられるものであると述べている。)姫葛は、生き生きとして、緑、鮮やかに、紛然としてふさふさと垂れていて、しかもそれが丈夫そうな松や柏などの枝に巻き付いているものである。草木のなかで姫葛は、もとより非常のものであるが、託する所を知り、そして、松柏は、冬の極寒の中で、尚お、その色をかえることなく、勁節を有しているから、姫葛は、やはり己が色も、また,何時までも変わらぬようにと希っているし、託するところに「七去、三不出」にかなうことを願っているのである。(心を一つにして、何時までも変わらぬように、長しえに変わらぬようにと希うて身を託した)その顔色は、さながら詩經に言う「桃之夭夭、灼灼其華。」たるがごとく、きわめて美しさであるにもかかわらず、わずかの間に、おなじ、詩経の詩にあるように、理由もわからず夫に棄てられてしまったという。もとより、歳を重ね顔色の衰えたために、愛がゆるむのならば仕方ないとして、その人はいまだに衰えず、その玉顔は、花の如く紅のつやがあるし、その髪は雲の如く長く美しく、白い糸の変じた白髪頭というわけでもない。このように、民間でさえ、古来より、身勝手な棄婦がまかり通っている。しかるに、君子の恩が、既に終われば、棄てられるものである。したがって、「有所託」としているものは、棄てられる覚えがなくても、棄てられても、もはや、何とも致し方のないということなのである。

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李白322 《巻一39-《古風,五十九首之三十九 (登高望四海)》》322Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(3) <李白322> Ⅰ李白詩1635 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6723

古風,五十九首之三十九 

登高望四海,天地何漫漫。  霜被群物秋,風飄大荒寒。 

榮華東流水,萬事皆波瀾。  白日掩徂輝,浮雲無定端。 

梧桐巢燕雀,枳棘棲鴛鸞。  且復歸去來,劍歌行路難。 

(自己の感慨を述べる。その不遇について感嘆したもの。)重陽の日に、高い山邱に登り、四方、天下に目を放って眺め遣れば、天地は、漫漫として果てしなく、人間の事の小さきを認識する。時、霜をおく秋で、あらゆる草木は、黄ばんで枯れ、すべて穀物、木の実がうれ、秋になり、颯颯たる西風は、寒げに吹いて、荒野には人影もない。日中の太陽でさえ、阻害されればその輝きは覆い隠され、西に傾くころには、変幻定め無き浮雲にさえ蔽われ、わずかに落日の微光を残すばかりとなる。元来、梧桐には鳳凰が棲み、枳棘には鴛鸞が棲むべきであるのに、いまや、冠履転倒して、燕雀が梧桐に巣くい、鴛鸞が枳棘に苦しんで住んでいる。かの君子が位を失い、小人が得意に跋扈するのは、このことを言うのであろう。そうであるから、自分は、今の世にいたとして、到底、高志をとげることはむつかしいかた、また「歸去來」の辞を詠おうと思うし、剣を叩いて 「行路難」を吟じて、帰隠しようと思うところである。
李白322 《巻一39-《古風,五十九首之三十九 (登高望四海)》》322Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-3) <李白322> Ⅰ李白詩1635 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6723

 

 
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年:  743  天寶二年  43

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之三十九 

作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 

 

 

古風,五十九首之三十九 

登高望四海,天地何漫漫。 

霜被群物秋,風飄大荒寒。 

榮華東流水,萬事皆波瀾。 

白日掩徂輝,浮雲無定端。 

梧桐巢燕雀,枳棘棲鴛鸞。 

且復歸去來,劍歌行路難。 

 

(古風,五十九首の三十九) 

高きに登って四海を望めば,天地 何ぞ漫漫たる。

霜は被って 群物 秋なり,風は飄って 大荒 寒し。

榮華は 東流の水,萬事は 皆 波瀾なり。

白日 徂輝を掩い,浮雲 定端 無し。

梧桐に 燕雀を巢はしめ,枳棘【ききょく】鴛鸞を棲ましむ。

且つ 復た 歸り去り來らん,劍歌す「行路難」。 

 

 

『古風,五十九首之三十九』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之三十九 

登高望四海,天地何漫漫。 

霜被群物秋,風飄大荒寒。 

榮華東流水,萬事皆波瀾。 

白日掩徂輝,浮雲無定端。 

梧桐巢燕雀,枳棘棲鴛鸞。 

且復歸去來,劍歌行路難。 

 

(含異文)

登高望四海,天地何漫漫。

霜被群物秋,風飄大荒寒。

榮華東流水,萬事皆波瀾。

白日掩徂輝,浮雲無定端。

梧桐巢燕雀,枳棘棲鴛鸞。

且復歸去來,劍歌行路難【劍歌悲路難】。

 

(下し文)

(古風,五十九首の三十九) 

高きに登って四海を望めば,天地 何ぞ漫漫たる。

霜は被って 群物 秋なり,風は飄って 大荒 寒し。

榮華は 東流の水,萬事は 皆 波瀾なり。

白日 徂輝を掩い,浮雲 定端 無し。

梧桐に 燕雀を巢はしめ,枳棘【ききょく】鴛鸞を棲ましむ。

且つ 復た 歸り去り來らん,劍歌す「行路難」。 

 

(現代語訳)

(自己の感慨を述べる。その不遇について感嘆したもの。)

重陽の日に、高い山邱に登り、四方、天下に目を放って眺め遣れば、天地は、漫漫として果てしなく、人間の事の小さきを認識する。
時、霜をおく秋で、あらゆる草木は、黄ばんで枯れ、すべて穀物、木の実がうれ、秋になり、颯颯たる西風は、寒げに吹いて、荒野には人影もない。

日中の太陽でさえ、阻害されればその輝きは覆い隠され、西に傾くころには、変幻定め無き浮雲にさえ蔽われ、わずかに落日の微光を残すばかりとなる。
元来、梧桐には鳳凰が棲み、枳棘には鴛鸞が棲むべきであるのに、いまや、冠履転倒して、燕雀が梧桐に巣くい、鴛鸞が枳棘に苦しんで住んでいる。かの君子が位を失い、小人が得意に跋扈するのは、このことを言うのであろう。

そうであるから、自分は、今の世にいたとして、到底、高志をとげることはむつかしいかた、また「歸去來」の辞を詠おうと思うし、剣を叩いて 「行路難」を吟じて、帰隠しようと思うところである。

(訳注)

古風,五十九首之三十九

(自己の感慨を述べる。その不遇について感嘆したもの。)

 

登高望四海,天地何漫漫。
重陽の日に、高い山邱に登り、四方、天下に目を放って眺め遣れば、天地は、漫漫として果てしなく、人間の事の小さきを認識する。
登高 九月九日の重陽の日の風習で、高い山に登り、家族を思い、菊酒を飲んで厄災を払う風習。後漢の桓景の故事に基づいた重陽の風習の一。魏・曹植の「茱萸自有芳,不若桂與蘭」や魏・阮籍の『詠懷詩』其十「昔年十四五,志尚好書詩。被褐懷珠玉,顏閔相與期。開軒臨四野,登高望所思。丘墓蔽山岡,萬代同一時。千秋萬歳後,榮名安所之。乃悟羨門子,今自嗤。」 

四海 古来から四方の地の果ては海となっているからそれの内の意》国内。世の中。天下。また、世界。 『孟子』尽心上に、孔子が泰山に登って天下を小としたとあるのをイメージしている。


霜被群物秋,風飄大荒寒。
時、霜をおく秋で、あらゆる草木は、黄ばんで枯れ、すべて穀物、木の実がうれ、秋になり、颯颯たる西風は、寒げに吹いて、荒野には人影もない。
霜被 霜が降り被い 

群物秋 霜が降り被い 

○風飄 ヒューと風が吹く 

大荒 ひろびろとした荒野 

 寒々として誰もいない。
 

榮華東流水,萬事皆波瀾。
郭のごとく、栄枯盛衰は当然の帰結であり、栄華は続くものではないし、「東流の水が復帰らず」も、万事常なく、有為転変のはなはだしきは、寄せる波のごとしである。

東流 中國の大河は東流している。水は東に流れるもの。其の位置にはとどまらない。いつかは消えていくもの。 

○萬 すべてのことがら。


白日掩徂輝,浮云無定端。
日中の太陽でさえ、阻害されればその輝きは覆い隠され、西に傾くころには、変幻定め無き浮雲にさえ蔽われ、わずかに落日の微光を残すばかりとなる。
白日 日中の太陽。天子の威光。正論。

浮云 うきぐも。李白は朝廷内の宦官のことを暗天の比喩としていうことが多い。 

無定端 定めの端がない。好き勝手なことをする。変幻定め無きこと。


梧桐巢燕雀,枳棘棲鴛鸞。
元来、梧桐には鳳凰が棲み、枳棘には鴛鸞が棲むべきであるのに、いまや、冠履転倒して、燕雀が梧桐に巣くい、鴛鸞が枳棘に苦しんで住んでいる。かの君子が位を失い、小人が得意に跋扈するのは、このことを言うのであろう。

梧桐 あおぎり。玄宗と楊貴妃の生活を示したもの。元代の戯曲「梧桐雨」がある。また、『荘子』秋水篇の故事を用いる。荘子が梁の国の宰相恵子を訪れようとすると、それは宰相の地位を奪い取ろうとしているのだという重言があった。恐れる恵子に向かって荘子はたとえ話を持ち出す。南方に「鴛雛」という鳥がいて、梧桐にしか止まらず、練実(竹の実)しか食べず、清浄な水しか飲まない。鶴が「腐鼠」を食べていたところに鴛雛が通りかかると、鶴はにらみつけて「嚇」と叫んだ。今あなたは梁の国を取られはしないか恐れて威嚇するのか、と恵子に言った。猜疑心を抱きつつの後宮生活を示す。

燕雀 小人物のこと。趙飛燕。楊貴妃の事。

枳棘 からたちととげ。人の邪魔をすること。 

棲鴛鸞 おしどりと鸞鳳。楊貴妃とその兄弟の事。
この聯は『史記』・陳渉世家に「燕雀安知鴻鵠之志哉」(燕雀いずくんぞ鴻鵠之志を知るや。:小人物は大人物、鴻鵠の志を知ることができようか)の一節に基づくもの。


且復歸去來。 劍歌行路難。
そうであるから、自分は、今の世にいたとして、到底、高志をとげることはむつかしいかた、また「歸去來」の辞を詠おうと思うし、剣を叩いて 「行路難」を吟じて、帰隠しようと思うところである。
歸去來 陶淵明が仕官80日あまりで官を辞して故郷に帰った時の辞。

劍歌 孟嘗君(もうしょうくん)に苦言を呈した馮驩(ふうかん)は剣の柄をたたき詩を吟じた。

行路難 古楽府の名。 

李白321 《巻一21-《古風,五十九首之二十一 (郢客吟白雪)》》321Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(2) <李白321> Ⅰ李白詩1634 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6718

李白  古風,五十九首之二十一   

郢客吟白雪,遺響飛青天。  徒勞歌此曲,舉世誰為傳。 

試為巴人唱,和者乃數千。  吞聲何足道,歎息空淒然。 

(此の詩は知音の難きことを慨し、兼ねて、高才世に受け入れられないことを悲しんで作ったものである。)

楚の都、郢の街中に来ている客人が、よく、最高の調をもって知られる「白雪」の曲を吟ずるのであるが、その歌は余韻嫋嫋として、青天に飛び上がり、とこしえにその響きを絶えさせてはいけないものである。しかし、その曲が高尚であるがために、世にこれを解する者がすくないのである、だからいくら骨を折って、これを歌ったところで、誰に伝わるわけでなく、到底、無駄なことであるとする。これと全く異なるものがある、試みに巴の人の曲を唱和すれば、その曲が俗卑なだけに大勢にもてはやされ、和する者はずっとふえて数千の多きに及ぶものなのである。此れは昔から流伝している琴の「白雪」と「巴人の歌の」故事であるが、人間のことは、すべてこの通り、なんでも卑近なものの方が受け継がれ、広まるものなので、素晴らしいものでも世に受け入れられなければ、声を呑んで泣いたところで、仕方がないから、ただ凄然として、嘆息するのみである。

李白321 《巻一21-《古風,五十九首之二十一 (郢客吟白雪)》》321Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-2) <李白321> Ⅰ李白詩1634 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6718

 

 

 
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Index-22

製作年:  743  天寶二年  43

卷別: 巻一  卷一六一 

文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之二十一 

作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 

 

 

古風,五十九首之二十一 

郢客吟白雪,遺響飛青天。 

徒勞歌此曲,舉世誰為傳。 

試為巴人唱,和者乃數千。 

吞聲何足道,歎息空淒然。 

(此の詩は知音の難きことを慨し、兼ねて、高才世に受け入れられないことを悲しんで作ったものである。)

楚の都、郢の街中に来ている客人が、よく、最高の調をもって知られる「白雪」の曲を吟ずるのであるが、その歌は余韻嫋嫋として、青天に飛び上がり、とこしえにその響きを絶えさせてはいけないものである。

しかし、その曲が高尚であるがために、世にこれを解する者がすくないのである、だからいくら骨を折って、これを歌ったところで、誰に伝わるわけでなく、到底、無駄なことであるとする。

これと全く異なるものがある、試みに巴の人の曲を唱和すれば、その曲が俗卑なだけに大勢にもてはやされ、和する者はずっとふえて数千の多きに及ぶものなのである。

此れは昔から流伝している琴の「白雪」と「巴人の歌の」故事であるが、人間のことは、すべてこの通り、なんでも卑近なものの方が受け継がれ、広まるものなので、素晴らしいものでも世に受け入れられなければ、声を呑んで泣いたところで、仕方がないから、ただ凄然として、嘆息するのみである。

 

(古風,五十九首の二十一

郢客【えいかく】白雪を吟ずれば,遺響 青天に飛ぶ。

徒勞 此の曲を歌う,舉世 誰が為に傳えん。

試みに巴人の唱を為せば,和する者 乃ち數千。

聲を吞む 何ぞ道うに足らん,歎息 空しく淒然。 

 

 

『古風,五十九首之二十一』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之二十一 

郢客吟白雪,遺響飛青天。 

徒勞歌此曲,舉世誰為傳。 

試為巴人唱,和者乃數千。 

吞聲何足道,歎息空淒然。 

 

(下し文)

(古風,五十九首の二十一

郢客【えいかく】白雪を吟ずれば,遺響 青天に飛ぶ。

徒勞 此の曲を歌う,舉世 誰が為に傳えん。

試みに巴人の唱を為せば,和する者 乃ち數千。

聲を吞む 何ぞ道うに足らん,歎息 空しく淒然。 

 

(現代語訳)

(此の詩は知音の難きことを慨し、兼ねて、高才世に受け入れられないことを悲しんで作ったものである。)

楚の都、郢の街中に来ている客人が、よく、最高の調をもって知られる「白雪」の曲を吟ずるのであるが、その歌は余韻嫋嫋として、青天に飛び上がり、とこしえにその響きを絶えさせてはいけないものである。

しかし、その曲が高尚であるがために、世にこれを解する者がすくないのである、だからいくら骨を折って、これを歌ったところで、誰に伝わるわけでなく、到底、無駄なことであるとする。

これと全く異なるものがある、試みに巴の人の曲を唱和すれば、その曲が俗卑なだけに大勢にもてはやされ、和する者はずっとふえて数千の多きに及ぶものなのである。

此れは昔から流伝している琴の「白雪」と「巴人の歌の」故事であるが、人間のことは、すべてこの通り、なんでも卑近なものの方が受け継がれ、広まるものなので、素晴らしいものでも世に受け入れられなければ、声を呑んで泣いたところで、仕方がないから、ただ凄然として、嘆息するのみである。

 

(訳注)

古風,五十九首之二十一 

(此の詩は知音の難きことを慨し、兼ねて、高才世に受け入れられないことを悲しんで作ったものである。)

 

郢客吟白雪,遺響飛青天。 

楚の都、郢の街中に来ている客人が、よく、最高の調をもって知られる「白雪」の曲を吟ずるのであるが、その歌は余韻嫋嫋として、青天に飛び上がり、とこしえにその響きを絶えさせてはいけないものである。

○郢客 宋玉の對楚王間に「客に郢に歌うもの有り。その始めを下里巴人という。その陽阿薤蕗を爲や、国中属して和する者数十人。引商刻羽、泛してもって流徴すれば国中属して和する者数人にすぎざるのみ。これその曲彌よ高くして共和彌よ寡し」とある。郢は楚の都。・對郢客(?-前174年),朝宗室,西楚王,《史》作劉郢。其父楚元王劉交是漢高祖劉邦的弟弟。前178年,其父劉交死后,劉郢継位。一共在位四年。174年,劉郢去世,謚號夷,他儿子劉戊嗣位,即七国之乱的楚王

吟白雪 古琴曲吟『白雪』曲。中國十大琵琶曲文曲中代表作品之一中国著名十大古曲之一。

○遺響 余韻。

 

徒勞歌此曲,舉世誰為傳。 

しかし、その曲が高尚であるがために、世にこれを解する者がすくないのである、だからいくら骨を折って、これを歌ったところで、誰に伝わるわけでなく、到底、無駄なことであるとする。

 

試為巴人唱,和者乃數千。 

これと全く異なるものがある、試みに巴の人の曲を唱和すれば、その曲が俗卑なだけに大勢にもてはやされ、和する者はずっとふえて数千の多きに及ぶものなのである。

巴調【ハテウ】  巴人の歌ふ調にて、いやしき調子、俗歌俗曲などの稱、轉じて自作の詩歌の謙稱。陳基詩「竹枝已聽巴人調、桂樹仍聞楚客歌」=俚調。

 

吞聲何足道,歎息空淒然。 

此れは昔から流伝している琴の「白雪」と「巴人の歌の」故事であるが、人間のことは、すべてこの通り、なんでも卑近なものの方が受け継がれ、広まるものなので、素晴らしいものでも世に受け入れられなければ、声を呑んで泣いたところで、仕方がないから、ただ凄然として、嘆息するのみである。

何足道 なんぞ言うに足るものであろうか。

淒然 1.こごえるような寒さの姿。《莊子大宗師》「淒然似秋, 煖然似春。」

2. ぞっとするほどもの寂しいさま。また、冷ややかなさま。そして、悲しんで心を痛めること。 舊題 伶玄 《<飛燕外傳>自序》「通德占袖, 顧視燭影, 以手擁髻, 淒然泣下, 不勝其悲。」

李白320 巻一12-《古風,五十九首之十二 (松柏本孤直)》 320Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(1) <李白320> Ⅰ李白詩1633 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6713

李白  古風,五十九首之十二 (松柏本孤直)  

松柏本孤直,難為桃李顏。昭昭嚴子陵,垂釣滄波間。

身將客星隱,心與浮雲閒。長揖萬乘君,還歸富春山。

清風灑六合,邈然不可攀。使我長歎息,冥棲巖石間。 

(世間からはなれて隠棲していても強い個性をもって光っている厳子陵という人のように生きたいと敬慕の念を詠ったもの)

松や柏の木は本来、一本ごとにまっすぐ立っているもので、桃李の花のような一時、茜粲たるいろどりをもないのは当然のことであるそれと同じように隠遁した高士は、世の中に引き出そうとしてもおいそれと出てくることはない。昭昭として高風である厳子陵は、桐江の七里灘のあおあおとした波の間に、始終釣糸を垂れていた。元来、嚴子陵は、天上の客星に応じたもので、永遠に山に隠れ、その心は、天空の浮雲とともに、のどかでひろいものであるから、招聘されても屈することはないのである。

そればかりか、諫議大夫に挙げられたがこれを断り、万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰ってしまった。かくて、その高潔なる操守は清風の六合に灑ぐように、邈然として高く、とても手がとどきそうにないようなことである。このような人物こそ、わが常に学ばんとするところのもので、まことに、讃嘆に堪えないのであり、自分もそのあとを慕い、巌石の間に黙然として座り、桃李の顔でもって、世間に媚びるようなことは断じてするつもりはないのである。 

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古風,五十九首之十二 (松柏本孤直)

(世間からはなれて隠棲していても強い個性をもって光っている厳子陵という人のように生きたいと敬慕の念を詠ったもの)

松柏本孤直,難為桃李顏。

松や柏の木は本来、一本ごとにまっすぐ立っているもので、桃李の花のような一時、茜粲たるいろどりをもないのは当然のことである
昭昭嚴子陵,垂釣滄波間。

それと同じように隠遁した高士は、世の中に引き出そうとしてもおいそれと出てくることはない。昭昭として高風である厳子陵は、桐江の七里灘のあおあおとした波の間に、始終釣糸を垂れていた。
身將客星隱,心與浮雲閒。

元来、嚴子陵は、天上の客星に応じたもので、永遠に山に隠れ、その心は、天空の浮雲とともに、のどかでひろいものであるから、招聘されても屈することはないのである。
長揖萬乘君,還歸富春山。

そればかりか、諫議大夫に挙げられたがこれを断り、万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰ってしまった。
清風灑六合,邈然不可攀。

かくて、その高潔なる操守は清風の六合に灑ぐように、邈然として高く、とても手がとどきそうにないようなことである。
使我長歎息,冥棲巖石間。 

このような人物こそ、わが常に学ばんとするところのもので、まことに、讃嘆に堪えないのであり、自分もそのあとを慕い、巌石の間に黙然として座り、桃李の顔でもって、世間に媚びるようなことは断じてするつもりはないのである。 

 

 

製作年:

製作年: 743年天寶二年43歳 94-1

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之十二 

作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 

及地點: 富春山 (江南東道 睦州 桐廬) 別名:嚴陵山    

古風,五十九首之十二 (松柏本孤直)

(世間からはなれて隠棲していても強い個性をもって光っている厳子陵という人のように生きたいと敬慕の念を詠ったもの)

松柏本孤直,難為桃李顏。

松や柏の木は本来、一本ごとにまっすぐ立っているもので、桃李の花のような一時、茜粲たるいろどりをもないのは当然のことである
昭昭嚴子陵,垂釣滄波間。

それと同じように隠遁した高士は、世の中に引き出そうとしてもおいそれと出てくることはない。昭昭として高風である厳子陵は、桐江の七里灘のあおあおとした波の間に、始終釣糸を垂れていた。
身將客星隱,心與浮雲閒。

元来、嚴子陵は、天上の客星に応じたもので、永遠に山に隠れ、その心は、天空の浮雲とともに、のどかでひろいものであるから、招聘されても屈することはないのである。
長揖萬乘君,還歸富春山。

そればかりか、諫議大夫に挙げられたがこれを断り、万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰ってしまった。
清風灑六合,邈然不可攀。

かくて、その高潔なる操守は清風の六合に灑ぐように、邈然として高く、とても手がとどきそうにないようなことである。
使我長歎息,冥棲巖石間。 

このような人物こそ、わが常に学ばんとするところのもので、まことに、讃嘆に堪えないのであり、自分もそのあとを慕い、巌石の間に黙然として座り、桃李の顔でもって、世間に媚びるようなことは断じてするつもりはないのである。 


(古風五十九首 の十二)
松柏 本と 孤直、桃李の顔を為し難し。
昭昭たる厳子陵、釣を垂る滄波の間。
身は客星と隠れ、心は浮雲と与に閑なり。
万乗の君に長揖し、還帰す 富春の山。
清風 六合に灑ぎ、邈然として攀ずべからず。
我をして 長しえに嘆息せしむ、冥棲せん巌石の間。

 

 

『古風,五十九首之十二 (松柏本孤直)  』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之十二 (松柏本孤直)

松柏本孤直,難為桃李顏。

昭昭嚴子陵,垂釣滄波間。

身將客星隱,心與浮雲閒。

長揖萬乘君,還歸富春山。

清風灑六合,邈然不可攀。

使我長歎息,冥棲巖石間。 

 

(下し文)

古風五十九首 其の十二

松柏 本 孤直、桃李の顔を為し難し。

昭昭たり 厳子陵、釣を垂る 滄波の間。

身は客星と将に隠れ、心は浮雲と与に閑なり。

万乗の君に長揖して、還帰す 富春山。

清風 六合に灑ぎ、邈然(ばくぜん)として 攀()ずべからず

我をして 長く嘆息し、巌石の間に冥棲せしむ

 

(現代語訳)

(世間からはなれて隠棲していても強い個性をもって光っている厳子陵という人のように生きたいと敬慕の念を詠ったもの)

松や柏の木は本来、一本ごとにまっすぐ立っているもので、桃李の花のような一時、茜粲たるいろどりをもないのは当然のことである
それと同じように隠遁した高士は、世の中に引き出そうとしてもおいそれと出てくることはない。昭昭として高風である厳子陵は、桐江の七里灘のあおあおとした波の間に、始終釣糸を垂れていた。
元来、嚴子陵は、天上の客星に応じたもので、永遠に山に隠れ、その心は、天空の浮雲とともに、のどかでひろいものであるから、招聘されても屈することはないのである。
そればかりか、諫議大夫に挙げられたがこれを断り、万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰ってしまった。
かくて、その高潔なる操守は清風の六合に灑ぐように、邈然として高く、とても手がとどきそうにないようなことである。
このような人物こそ、わが常に学ばんとするところのもので、まことに、讃嘆に堪えないのであり、自分もそのあとを慕い、巌石の間に黙然として座り、桃李の顔でもって、世間に媚びるようなことは断じてするつもりはないのである。 

 (訳注)

古風,五十九首之十二(松柏本孤直)

(世間からはなれて隠棲していても強い個性をもって光っている厳子陵という人のように生きたいと敬慕の念を詠ったもの)

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

 

松柏本孤直、難為桃李顏。
松や柏の木は本来、一本ごとにまっすぐ立っているもので、桃李の花のような一時、茜粲たるいろどりをもないのは当然のことである
○松柏本孤直 《荀子》「桃李茜粲于一時,時至而後殺,至于松柏,經隆冬而不凋,蒙霜雪而不變,可謂得其真矣」(桃李は一時に茜粲たるも,時至って後に殺がる,松柏に至っては,隆冬を經て凋まず,霜雪を蒙って變せず,其の真を得たりと謂う可し。)に基づく。松柏は、御陵の東西に植えられる常緑樹。

 かお。かおいろ。かおだち。体面。いろどり、色彩。額。


昭昭嚴子陵、垂釣滄波間。
それと同じように隠遁した高士は、世の中に引き出そうとしてもおいそれと出てくることはない。昭昭として高風である厳子陵は、桐江の七里灘のあおあおとした波の間に、始終釣糸を垂れていた。
昭昭 きわめてあきらか。強い個性をもって光っている。

厳子陵 漢の厳光(紀元前39 - 41年)。「後漢書」の伝記によると次のとおりである。厳光、字は子陵、会稽の飴桃の人、すなわち今の浙江省紹興市の東方にある飴桃県の人である。年少のころから名高く、のちの光武帝とは同学で机をならべた仲だった。光武帝が即位すると、かれは姓名をかえ、身をかくした。光武帝はかれのすぐれた能力を思い、その居所をさがさせた。のち斉の国で、一人の男が羊の皮衣をきて沼で釣をしているという報告があった。帝はそれが厳光にちがいないと思った。上等の安楽車を用意させ、使を派遣してかれをまねく。かれは三遍辞退してからやっと来る。宿舎にベッドがあてがわれ、御馳走が出る。帝はすぐに会いにゆく。厳光は横になったまま起きあがらない。帝はいった、「子陵よ、わたしもついに、きみだけは家来にできないよ。」そこでかれをつれてかえり、書生時代のように議論して数日に及んだが、一緒にねそべっていると、厳光は足を帝の腹の上にのせる。翌日、天文をつかさどる役人が上奏した。「客星、御座を犯すこと甚だ急なり。」帝は笑っていった、「朕が旧友の厳子陵といっしょにねそべっていただけのことだ。」諌議大夫という位を授けたが、かれは身を屈めて受けることをしなかった。やがて富春山にこもり、田を耕した。後世の人はかれが釣をしていた場所を厳陵瀬と名づけたという。厳光が釣りをしていた場所(桐盧県の南、富春江の湖畔)は「厳陵瀬」と名づけられた。釣臺は東西に一つずつあり、高さはそれぞれ数丈、その下には羊裘軒・客星館・招隠堂があった。北宋の政治家・范仲淹は厳光の祠堂を修復し、「厳先生祠堂記」を撰写しその中で「雲山蒼蒼、江水泱泱。先生之風、山高水長」と厳光の高尚な気風を賞賛した。

○滄波  東海神仙三山の浮ぶ海のあおあおとした波のこと。隠遁の場所の形容語。
 

身將客星隱、心與浮云閑。
元来、嚴子陵は、天上の客星に応じたもので、永遠に山に隠れ、その心は、天空の浮雲とともに、のどかでひろいものであるから、招聘されても屈することはないのである。
客星 一定の所に常には見えず、一時的に現われる星。彗星・新星など。

 のどか、おおきい。静か。のんびり。さく。しきり。
 

長揖萬乘君、還歸富春山。
そればかりか、諫議大夫に挙げられたがこれを断り、万乗の天子、光武帝にたいし最敬礼をした、そして、さっさと富春山へと帰ってしまった。
長揖 ちょうゆう、敬礼の一種。組みあわせた両手を上からずっと下の方までさげる。

万乗 一万の兵事。転じて、それを統帥する天子のこと。天下。君といっしょで万乗の光武帝。

富春山 浙江省桐盧県銭塘江中流域にあり、一名を厳陵山という。「一統志」に「清麗奇絶にして、錦峰繍嶺と号す。乃ち漢の厳子陵隠釣の処。前は大江に臨み、上に東西二釣台あり」と記されている。謝霊運『富春渚詩 「宵濟漁浦潭。旦及富春郭。定山緬雲霧。赤亭無淹薄。溯流觸驚急。臨圻阻參錯。亮乏伯昏分。險過呂梁壑。」(宵に漁浦の潭【ふち】を濟【わた】り、旦に富春の郭に及【いた】る。定山は雲霧に緬【はる】かに、赤亭には淹薄【とま】ること無く。流れを遡りて驚急に触れ、圻に臨み參錯【でいり】に阻【はば】まる。亮に伯昏の分に乏しく、険は呂梁の壑に過ぎぬ。)わたしは夕方、漁浦の渡し場から船出した。夜どおし船旅をして、明け方、富春の街に着いた。分水嶺の定山はまだまだ雲霧の向こうで遙かに遠い、富陽の花街の赤亭に泊まることはしない。流れは急でそれをさかのぼる巌にせっそく接触したり、驚くような目に何度もあう、船を接岸できそうな岸へ寄せようとするのだが水流の出入りによってなかなか寄せられない。私はあきらかに物に動じないことという心構えにはとぼしいものである、嶮しいといっても黄河随一の難関、呂梁幕府のある谷ほどのものではないので経過していく。
富春渚 #1 謝霊運<14> 詩集 376

 

清風灑六合、邈然不可攀。
かくて、その高潔なる操守は清風の六合に灑ぐように、邈然として高く、とても手がとどきそうにないようなことである。
六合 上下四方、すなわち、世界、宇宙。

邈然 はるかなさま。


使我長嘆息、冥棲巌石間。
このような人物こそ、わが常に学ばんとするところのもので、まことに、讃嘆に堪えないのであり、自分もそのあとを慕い、巌石の間に黙然として座り、桃李の顔でもって、世間に媚びるようなことは断じてするつもりはないのである。 
冥棲 ひっそりしたところに黙然と修業してくらす。

 

 

 

光(げん こう、紀元前39 - 41年)は中国・後漢時代初期の隠者・逸民。字は子陵、別名は遵。会稽郡餘姚県(浙江省余姚市)の出身。若くして才名あり、のちの光武帝となる劉秀と同門に学ぶ。劉秀が皇帝となると、厳光は姓名を変えて身を隠した。光武帝はその才能を惜しみ行方を捜させたところ、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを見いだされて、長安に召し出された。宮中の作法に詳しい司徒の侯覇が厳光と親しかったが、厳光は細かい礼に従わず、光武帝はそれでも「狂奴故態を改めず」と笑っただけだった。それどころか自ら宿舎に足を運んで道を論じたという。ある夜、帝と光がともに就寝し、光が帝の腹の上に足を乗せて熟睡し、翌日大夫がその不敬を奏上して罰しようとしたが、帝は「故旧とともに臥したのみ」とこの件を取りあげなかった。諫議大夫に挙げられたがこれを断って富春山(浙江省富陽県)で農耕をして暮らし、その地で没する。光武帝はその死を悲しみ、厳光が亡くなった郡県に詔して銭百万と穀千斛を賜った。

李白319 《巻十九19侍從遊宿溫泉宮作》319 Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白319-#1> Ⅰ李白詩1632 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6708

李白  侍從遊宿溫泉宮作  

羽林十二將,羅列應星文。霜仗懸秋月,霓旌卷夜雲。

嚴更千肅,清樂九天聞。日出瞻佳氣,蔥蔥繞聖君。
(温泉宮は京畿道、京兆府驪山宮で、天子に供奉して、驪山宮に宿した時に作ったもの。)

天子の禁軍の将軍は羽林十二将で、天上星宿の各御門に応じて順序良く羅列して配置についている。磨き上げて霜の色をした兵仗の刃は白秋の月光に冴える、紅霓の天子の旗は、夜空の雲を巻いてひらめく。夜、刻を告げる太鼓の音、鞺鞺と響き渡り、千戸の家は粛然と静まりかえり、優雅な楽の調べが長く余韻を引いて、九天の上に聞こえているばかり。やがて、夜が明け、朝日が昇ると佳気怱々として、朝礼に叢叢と集まって聖天子を圍繞するように見える。
李白319 《巻十九19侍從遊宿溫泉宮作》319 Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白319-#1> Ⅰ李白詩1632 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6708

 

 
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侍従遊宿温泉宮作 李白128  都長安(翰林院供奉)  

年:742年天寶元年42 18

卷別: 卷一七九      文體: 五言律詩

詩題: 侍從遊宿溫泉宮作

作地點:      驪山(京畿道 / 京兆府 / 驪山)

及地點:      溫泉宮 (京畿道 京兆府 驪山) 別名:溫泉     

 

 

侍從遊宿溫泉宮作

(温泉宮は京畿道、京兆府驪山宮で、天子に供奉して、驪山宮に宿した時に作ったもの。)

羽林十二將,羅列應星文。

天子の禁軍の将軍は羽林十二将で、天上星宿の各御門に応じて順序良く羅列して配置についている。
霜仗懸秋月,霓旌卷夜雲。

磨き上げて霜の色をした兵仗の刃は白秋の月光に冴える、紅霓の天子の旗は、夜空の雲を巻いてひらめく。

嚴更千肅,清樂九天聞。

夜、刻を告げる太鼓の音、鞺鞺と響き渡り、千戸の家は粛然と静まりかえり、優雅な楽の調べが長く余韻を引いて、九天の上に聞こえているばかり。
日出瞻佳氣,蔥蔥繞聖君。

やがて、夜が明け、朝日が昇ると佳気怱々として、朝礼に叢叢と集まって聖天子を圍繞するように見える。

(侍従して温泉宮に遊宿して作る)

羽林の十二将、羅列して星文に應ず。
霜仗 秋月を懸け、霓旌  夜雲を巻く。
厳更 千戸 蕭たり、清楽 九天に聞こゆ。
日出でて佳気を瞻る、叢叢として聖君を繞る。

 

長安付近図00函谷関長安地図座標005 

『侍從遊宿溫泉宮作』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

侍從遊宿溫泉宮作

羽林十二將,羅列應星文。

霜仗懸秋月,霓旌卷夜雲。

嚴更千肅,清樂九天聞。

日出瞻佳氣,蔥蔥繞聖君。

(下し文)
(侍従して温泉宮に遊宿して作る)

羽林の十二将、羅列して星文に應ず。

霜仗 秋月を懸け、霓旌  夜雲を巻く。

厳更 千戸 蕭たり、清楽 九天に聞こゆ。

日出でて佳気を瞻る、叢叢として聖君を繞る。

(現代語訳)
(温泉宮は京畿道、京兆府驪山宮で、天子に供奉して、驪山宮に宿した時に作ったもの。)

天子の禁軍の将軍は羽林十二将で、天上星宿の各御門に応じて順序良く羅列して配置についている。
磨き上げて霜の色をした兵仗の刃は白秋の月光に冴える、紅霓の天子の旗は、夜空の雲を巻いてひらめく。

夜、刻を告げる太鼓の音、鞺鞺と響き渡り、千戸の家は粛然と静まりかえり、優雅な楽の調べが長く余韻を引いて、九天の上に聞こえているばかり。
やがて、夜が明け、朝日が昇ると佳気怱々として、朝礼に叢叢と集まって聖天子を圍繞するように見える。

(訳注)

侍從遊宿溫泉宮作

(温泉宮は京畿道、京兆府驪山宮で、天子に供奉して、驪山宮に宿した時に作ったもの。


羽林十二将、羅列応星文。 
天子の禁軍の将軍は羽林十二将で、天上星宿の各御門に応じて順序良く羅列して配置についている。
羽林 羽林は、漢称であり、唐では、禁兵という。天子の親衛で十二衛に分かれ、星座に基づいたものである。羽林大将軍、親衛大将軍、虎牙大将軍といった唐名で呼ぶこともあり、左近衛大将・右近衛大将をそれぞれ「左大将」・「右大将」と省略した呼び方もある

十二将 大将左右1名、中将:左右14名親衛中郎将、親衛将軍、羽林将軍、少将:左右24名羽林郎将、親衛郎将、羽林中郎将 

羅列 連なり並ぶこと。 

応星文 12の星座でよんだ門のこと。宮廷の門を守備する軍隊の配置。
 
霜仗懸秋月 霓旌巻夜雲。
磨き上げて霜の色をした兵仗の刃は白秋の月光に冴える、紅霓の天子の旗は、夜空の雲を巻いてひらめく。

霜仗 守備兵の儀仗の刃が霜のように白く鋭く  

霓旌 天子の旗、虹と雲の旗。《文選司馬相如<上林賦>》「乘鏤象,六玉虯,拖蜺旌,靡雲旗,前皮軒,後道游。」鏤象【ろうしょう】に乘り,玉虯【ぎょくきゅう】を六にし,蜺旌【げいせい】拖【ひ】き,雲旗を靡【なび】かせ、皮軒を前にし,道游を後【しりえ】にす。孫叔【そんしゅく】轡を奉じ,衛公【えいこう】參乘【さんじょう】す。天子の乗る、彫刻のある象車は、六頭の玉で飾られた虯に引かれて、虹の旗や雲の旗をなびかせている。行列の先頭には、虎の皮で飾った車が進み、その後に、五台の道草、九台の潜幸が続き、天子の前駆けを務める。天子の車では、公孫賀が中央で手綱をとり、衛青が右に陪乗している。

司馬相如 《上林賦 (23)―#91  文選 賦<110-9113分割38回 Ⅱ李白に影響を与えた詩928 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3188


厳更千戸蕭 清楽九天聞。
夜、刻を告げる太鼓の音、鞺鞺と響き渡り、千戸の家は粛然と静まりかえり、優雅な楽の調べが長く余韻を引いて、九天の上に聞こえているばかり。
厳更 五更:日没から日の出までを五に分けた時間の単位。 

千戸 千戸の家。すべての家。

 太鼓の音。

清楽 優雅な楽のしらべ。 

九天 天を九に分け、その真ん中に天子、皇帝がいる。宮廷のこと。九重も宮廷。天文学、地理、山、九であらわした。縁起のいい数字とされた。


日出瞻佳気 叢叢繞聖君。
やがて、夜が明け、朝日が昇ると佳気怱々として、朝礼に叢叢と集まって聖天子を圍繞するように見える。
日出 朝日が昇る 

 あおぎみる。日が昇ると朝礼がある。 

佳気 めでたい香気。めでたい運気. 無我,心が公平無私なこと. 温恭, おだやかで慎み深い. 抱一,ひとつの道を守る. 心如水,心が水のの如く清らかである. 金石交, 決して変わらない交わり。

叢叢 役人がたくさん集まっている様子。 

 朝礼で整列。

聖君 天子。

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李白  遊泰山,六首之六 #2

寂靜清暉,玉真連翠微。想象鸞鳳舞,飄颻龍虎衣。捫天摘匏瓜,恍惚不憶歸。舉手弄清淺,誤攀織女機。明晨坐相失,但見五雲飛。

それは、寂静の中に在って、月の清光を眺めあかしているものと見て楽しんでいて、それは玉真觀の仙女が 翠微の山の間に大勢群がり、連並んでいるのである。龍虎の模様を書いた衣裳を翻して、鸞鳳の舞をおどっているものと思われる。そこで、自分は天を撫でて、匏瓜の星を摘まもうとし、興、愈々たけなわにして、ますます歸ろうとも思わなくなってゆく。やがて、手をかかげで、清く且つ浅い銀河の流を弄すると、誤って、織女の織機に触れた。そうして、夜があけたのであるが、いずれも、消えて無くなっていて、そこには但だ五色の慶雲の飛んでゆくのを見るだけである。

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年:742年天寶元年42 18

卷別:    卷一七九              文體:    五言古詩

詩題:    遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

天門關 (河南道 兗州 泰山)             

 

 

遊泰山,六首之六

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

朝飲王母池,暝投天門關。

朝に泰山の東南麓なる王母池にて清泉の水を飲み、それから、山に登り、終日難行して、夕方には南天門に投宿した。

獨抱綠綺琴,夜行青山間。

ここまで、「綠綺」の琴をむねで抱き来たり、どこかでこの琴を弾じようというので、夜、青山の間をすすんでゆくとたどりついた。

山明月露白,夜靜松風歇。

そこに、月が山の端から上がって出ていて、露を白くかがやかせ、山山は、 はっきりと見える、やがてしずかに更け行くままに、あたりは、いよいよ静にして、松風さへも吹き罷んで仕舞った。

仙人遊碧峰,處處笙歌發。

そうした寂靜の中で、感覺がしだいに清暉となって、よく見れば、仙人どもが碧峰に遊んで居るのであろう、あちこちで笠歌の聾が聞こえてきた。

#2

寂靜清暉,玉真連翠微。

それは、寂静の中に在って、月の清光を眺めあかしているものと見て楽しんでいて、それは玉真觀の仙女が 翠微の山の間に大勢群がり、連並んでいるのである。

想象鸞鳳舞,飄颻龍虎衣。

龍虎の模様を書いた衣裳を翻して、鸞鳳の舞をおどっているものと思われる。

捫天摘匏瓜,恍惚不憶歸。

そこで、自分は天を撫でて、匏瓜の星を摘まもうとし、興、愈々たけなわにして、ますます歸ろうとも思わなくなってゆく。

舉手弄清淺,誤攀織女機。

やがて、手をかかげで、清く且つ浅い銀河の流を弄すると、誤って、織女の織機に触れた。

明晨坐相失,但見五雲飛。

そうして、夜があけたのであるが、いずれも、消えて無くなっていて、そこには但だ五色の慶雲の飛んでゆくのを見るだけである。

 

遊泰山,六首之六

朝に 王母の池に飲み,暝に 天門の關に投ず。

獨り綠綺の琴を抱き,夜 青山の間を行く。

山 明かにして 月 露白く,夜 靜かにして 松風 歇む。

仙人 碧峰に遊び,處處に 笙歌發す。
#2

寂靜 清暉をみ,玉真 翠微に連る。

想象す 鸞鳳の舞,飄颻たり 龍虎の衣。

天を捫して 匏瓜を摘み,恍惚として 歸えるを憶わず。

手を舉げて 清淺を弄し,誤ちて攀ず 織女の機。

明晨 坐ろに相い失し,但見る 五雲の飛ぶを。

 

『遊泰山,六首之六』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

寂靜清暉,玉真連翠微。

想象鸞鳳舞,飄颻龍虎衣。

捫天摘匏瓜,恍惚不憶歸。

舉手弄清淺,誤攀織女機。

明晨坐相失,但見五雲飛。

(下し文)
#2

寂靜 清暉をみ,玉真 翠微に連る。

想象す 鸞鳳の舞,飄颻たり 龍虎の衣。

天を捫して 匏瓜を摘み,恍惚として 歸えるを憶わず。

手を舉げて 清淺を弄し,誤ちて攀ず 織女の機。

明晨 坐ろに相い失し,但見る 五雲の飛ぶを。

(現代語訳)
#2

それは、寂静の中に在って、月の清光を眺めあかしているものと見て楽しんでいて、それは玉真觀の仙女が 翠微の山の間に大勢群がり、連並んでいるのである。

龍虎の模様を書いた衣裳を翻して、鸞鳳の舞をおどっているものと思われる。

そこで、自分は天を撫でて、匏瓜の星を摘まもうとし、興、愈々たけなわにして、ますます歸ろうとも思わなくなってゆく。

やがて、手をかかげで、清く且つ浅い銀河の流を弄すると、誤って、織女の織機に触れた。

そうして、夜があけたのであるが、いずれも、消えて無くなっていて、そこには但だ五色の慶雲の飛んでゆくのを見るだけである。



(訳注)

#2

寂靜清暉,玉真連翠微。

寂靜中愈感覺清暉可弄,玉真仙女下降到翠微峯。

それは、寂静の中に在って、月の清光を眺めあかしているものと見て楽しんでいて、それは玉真觀の仙女が 翠微の山の間に大勢群がり、連並んでいるのである。

(7):樂。清輝:月光。

(8) 玉真 道觀名。這裏泛指泰山上的道觀。仙女

(9) 翠微 山の中腹のうっそうとしたあたり。1 薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。2 山の中腹。八合目あたりのところ。翠微:指山氣青白色。

兩句意爲:靜夜望月使人心情愉快,遠看道觀與青縹的山氣連成一片。

 

想象鸞鳳舞,飄颻龍虎衣。

彷彿看到鸞鳳與龍虎一起翩翩起舞,衣袂飄舉。

龍虎の模様を書いた衣裳を翻して、鸞鳳の舞をおどっているものと思われる。

(10)鸞鳳:傳中的仙鳥。

(11)龍虎衣:繡有龍虎紋彩的衣服。

 

捫天摘匏瓜,恍惚不憶歸。

舉手就可以攀折到天上的匏瓜,味美甘甜,樂不思蜀,真的不想回家了。

そこで、自分は天を撫でて、匏瓜の星を摘まもうとし、興、愈々たけなわにして、ますます歸ろうとも思わなくなってゆく。

(12)(mén):摸。椚托さする、撫でる。

(13)匏瓜 星の名、匏(páo)瓜:星名。兩句意爲:撫摸天體想摘下匏瓜星,面對似有似無的幻境忘記了歸去。隋書天文志:『匏瓜旁五星曰敗瓜,主種。』正義:『匏瓜五星在離珠北天子果園。』「匏瓜五星は、離珠の北に在り」史記天官書:『匏瓜有青黑星守之,魚鹽貴。』といい、史記索隱:『匏瓜一名天雞,在河鼓東。 』索陰に「荊州占に云ふ、匏瓜、一名は天鶏、河鼓の東に在り、匏瓜明かなれば歳天に熟す」とある。ˇ匏瓜:□劍魚座Dorado 包含中國星座:(金魚)夾白。 □天龍座。

(14) 恍惚 恍惚。仙郷のスン依稀に浸ってとけこむ状況を言う。

 

舉手弄清淺,誤攀織女機。

再舉手,撫弄着銀河的浪濤,清淺可愛,卻不小心摸到了織女的紡織機。

やがて、手をかかげで、清く且つ浅い銀河の流を弄すると、誤って、織女の織機に触れた。

 (15)清淺:指銀河。《古詩十九首·迢迢牽牛星》有“河漢清且淺”之句。

古詩十九首 第十首

 

迢迢牽牛星,皎皎河漢女。

迢迢【ちょうちょう】たる牽牛星、皎皎【こうこう】たる河漢の女。

纖纖擢素手,札札弄機杼。

纖纖【せんせん】として素手【そしゅ】を擢【ぬき】んで、札札【さつさつ】として機抒【きちょ】を弄【ろう】す。

終日不成章,泣涕零如雨。

終日【しゅうじつ】章を成さず、泣涕【きゅうてい】零【お】ちて雨の如し。

河漢清且淺,相去復幾許。

河漢清くして且つ浅し、相去る復た幾許【いくばく】ぞ。

盈盈一水間,脈脈不得語。

盈盈【えいえい】たる一水の間、脈脈として語るを得ず。

古詩十九首之十 (10) 漢詩<97>Ⅱ李白に影響を与えた詩529 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1404

(16)織女 織女,星名,傳織女是天帝之女,住銀河之東,從事織作,嫁給河西的牛郎爲妻。兩句意爲:舉手戲弄銀河的流水,無意中攀住了織女的布機。

 

明晨坐相失,但見五雲飛。

唉,到明天天亮,美夢就會消失,只見五色雲彩飛舞!

そうして、夜があけたのであるが、いずれも、消えて無くなっていて、そこには但だ五色の慶雲の飛んでゆくのを見るだけである。

(17)坐相失:頓時都消失。

(18)但見:只看到。

(19) 五雲:五色彩雲。

李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

李白  遊泰山,六首之六  

朝飲王母池,暝投天門關。獨抱綠綺琴,夜行青山間。

山明月露白,夜靜松風歇。仙人遊碧峰,處處笙歌發。
(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

朝に泰山の東南麓なる王母池にて清泉の水を飲み、それから、山に登り、終日難行して、夕方には南天門に投宿した。ここまで、「綠綺」の琴をむねで抱き来たり、どこかでこの琴を弾じようというので、夜、青山の間をすすんでゆくとたどりついた。そこに、月が山の端から上がって出ていて、露を白くかがやかせ、山山は、 はっきりと見える、やがてしずかに更け行くままに、あたりは、いよいよ静にして、松風さへも吹き罷んで仕舞った。そうした寂靜の中で、感覺がしだいに清暉となって、よく見れば、仙人どもが碧峰に遊んで居るのであろう、あちこちで笠歌の聾が聞こえてきた。

李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李白318-#1 《巻十九12遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》318-#1Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白318-#1> Ⅰ李白詩1630 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6698  
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年:742年天寶元年42 18

卷別:    卷一七九              文體:    五言古詩

詩題:    遊泰山,六首之六【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

天門關 (河南道 兗州 泰山)             

 

 

遊泰山,六首之六

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

朝飲王母池,暝投天門關。

朝に泰山の東南麓なる王母池にて清泉の水を飲み、それから、山に登り、終日難行して、夕方には南天門に投宿した。

獨抱綠綺琴,夜行青山間。

ここまで、「綠綺」の琴をむねで抱き来たり、どこかでこの琴を弾じようというので、夜、青山の間をすすんでゆくとたどりついた。

山明月露白,夜靜松風歇。

そこに、月が山の端から上がって出ていて、露を白くかがやかせ、山山は、 はっきりと見える、やがてしずかに更け行くままに、あたりは、いよいよ静にして、松風さへも吹き罷んで仕舞った。

仙人遊碧峰,處處笙歌發。

そうした寂靜の中で、感覺がしだいに清暉となって、よく見れば、仙人どもが碧峰に遊んで居るのであろう、あちこちで笠歌の聾が聞こえてきた。

#2

寂靜清暉,玉真連翠微。

想象鸞鳳舞,飄颻龍虎衣。

捫天摘匏瓜,恍惚不憶歸。

舉手弄清淺,誤攀織女機。

明晨坐相失,但見五雲飛。

 

遊泰山,六首之六

朝に 王母の池に飲み,暝に 天門の關に投ず。

獨り綠綺の琴を抱き,夜 青山の間を行く。

山 明かにして 月 露白く,夜 靜かにして 松風 歇む。

仙人 碧峰に遊び,處處に 笙歌發す。
#2

寂靜 清暉をみ,玉真 翠微に連る。

想象す 鸞鳳の舞,飄颻たり 龍虎の衣。

天を捫して 匏瓜を摘み,恍惚として 歸えるを憶わず。

手を舉げて 清淺を弄し,誤ちて攀ず 織女の機。

明晨 坐ろに相い失し,但見る 五雲の飛ぶを。

泰山案内図01 

『遊泰山,六首之六』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

遊泰山,六首之六

朝飲王母池,暝投天門關。

獨抱綠綺琴,夜行青山間。

山明月露白,夜靜松風歇。

仙人遊碧峰,處處笙歌發。

(下し文)
遊泰山,六首之六

朝に 王母の池に飲み,暝に 天門の關に投ず。

獨り綠綺の琴を抱き,夜 青山の間を行く。

山 明かにして 月 露白く,夜 靜かにして 松風 歇む。

仙人 碧峰に遊び,處處に 笙歌發す。

(現代語訳)
(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

朝に泰山の東南麓なる王母池にて清泉の水を飲み、それから、山に登り、終日難行して、夕方には南天門に投宿した。

ここまで、「綠綺」の琴をむねで抱き来たり、どこかでこの琴を弾じようというので、夜、青山の間をすすんでゆくとたどりついた。

そこに、月が山の端から上がって出ていて、露を白くかがやかせ、山山は、 はっきりと見える、やがてしずかに更け行くままに、あたりは、いよいよ静にして、松風さへも吹き罷んで仕舞った。

そうした寂靜の中で、感覺がしだいに清暉となって、よく見れば、仙人どもが碧峰に遊んで居るのであろう、あちこちで笠歌の聾が聞こえてきた。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山 00
(訳注)

遊泰山,六首之六

(この詩は、伝説に基づき、仙人と仙女を昼に見、夜、恍惚の間に多くの出来事を見て、帰る気持ちが全くなくなった。朝になって五色の彩雲が飛舞をただ見るだけだと詠う。)純然たる遊仙の詩である。

 

朝飲王母池,暝投天門關。

清晨飲過泰山瑤池的清泉,夜晚準備在南天門投宿。

朝に泰山の東南麓なる王母池にて清泉の水を飲み、それから、山に登り、終日難行して、夕方には南天門に投宿した。

(1)王母池:又名瑤池,在泰山東南麓。山東通志に「王母池は、泰山の下の束南麓に在り、一名瑤池といい、水、きわめて甘冽、濆沸潾瀞、竭きす、盈たず、郷入、水を取って雨を祈願する、頗る騐あり」とある。

(2):傍晚。

(3)天門關 天門關は,泰山上に在る。泰山の道路を登ると盤旋曲折し,要は中天門、南天門等の處を經過するに,然る後に山頂に到達す。《山東通志》「泰山,周迴一百六十里,屈曲盤道百餘,逕南天門、東、西三天門,至頂,高四十餘里。」(泰山に上る、周迴一百六十里,屈曲盤道百餘、南天門、東、西三大門を経て、絶頂に至る、高さ四十餘里)とある。案内図参照。

 

獨抱綠綺琴,夜行青山間。

懷中抱着綠綺琴,天黑了還行走在青山之間。

ここまで、「綠綺」の琴をむねで抱き来たり、どこかでこの琴を弾じようというので、夜、青山の間をすすんでゆくとたどりついた。

(4)綠綺琴:古代名琴のひとつで,相い傳わるのは、司馬相如 綠綺の琴有り。這裏 名貴の琴として泛指される。司馬相は如鼓琴を善くし,其の「綠綺」の琴を用うる所,是れ傳中の最優秀の琴の一であるとした。司馬相如が原と本と家境貧寒,徒らに四壁有り,但し他の詩賦極めて名氣有り,梁王 盛んに其の才情を高華して讚し,他の一は「綠綺」の琴を把えて名叫し賜給いて,上面には「桐梓合精」の銘文を刻有し,是れ當時 多く得る可らざる名貴樂器とされた。

 [中國四大名琴]は地方によって異なるが、以下が統一的に言われるものである。

號鐘:齊桓公收藏的周代的名琴。號鐘的琴音之宏亮,所奏出的悲涼旋律,能使人感動流淚。

繞梁:楚莊王所有,據由華元所獻[2]。繞梁之名正指其音色特點,乃餘音不斷,纏繞回蕩。

綠綺:原為梁王所藏,後贈予司馬相如。綠綺的音色妙,更成了古琴的別稱。

焦尾:蔡邕所製,因其琴尾留有焦痕而取名[3]。後為齊明帝所有,明朝再由王逢年所藏。

 

山明月露白,夜靜松風歇。

月亮出山了,羣山一片皎潔如玉,夜靜了,連古鬆也停止了嘯吟。

そこに、月が山の端から上がって出ていて、露を白くかがやかせ、山山は、 はっきりと見える、やがてしずかに更け行くままに、あたりは、いよいよ静にして、松風さへも吹き罷んで仕舞った。

(5)松風:風撼松林發出的響聲。

*兩句意爲:月光下山色明亮,露水晶瑩;風停了,松林無聲,夜更寂靜。

 

仙人遊碧峰,處處笙歌發。

寂靜中愈感覺清暉可弄,玉真仙女下降到翠微峯。

そうした寂靜の中で、感覺がしだいに清暉となって、よく見れば、仙人どもが碧峰に遊んで居るのであろう、あちこちで笠歌の聾が聞こえてきた。

(6)笙歌:吹笙伴歌。「綵雲蕭史駐,文字魯恭留。」蕭史という蕭(管楽器)の名人が居た。その音色は鳳凰の鳴き声の様であった。弄玉もまた蕭を吹くので、穆公は二人を結婚させた。何年も経った後に弄玉の吹奏も鳳の声のようになり、鳳凰が来てその家に止まった。『玉臺観二首其一』にものべる。

「人傳有笙鶴,時過此山頭。」 このあたりの人は王子喬のような「笙鶴」伝説があるという。この山の頂上に、時折笙の笛を吹く仙人が鶴に乗って來るという、ここが仙郷ということなのだ。

鶴に乗って昇天したといわれる神仙で、周の霊王(在位前572~前545)の38人の子の一人である太子晋のこと。王喬ともいう。伝説によると、王子喬は若くから才能豊かで、笙を吹いては鳳凰が鳴くような音を出すことができた。伊水、洛水(河南省洛陽南部)あたりを巡り歩いていたとき、道士の浮丘公に誘われ中岳嵩山に入り、帰らなくなった。それから30年以上後、友人の桓良が山上で王子喬を探していると、ふいに本人が現れ、「7月7日に緱氏山(こうしざん)の頂上で待つように家族に伝えてくれ」といった。 その日、家族がいわれたとおり山に登ると、王子喬が白鶴に乗って山上に舞い降りた。だが、山が険しく家族は近づくことができなかった。と、王子喬は手を上げて家族に挨拶し、数日後白鶴に乗って飛び去ったという。 そこで、人々は緱氏山の麓や嵩山の山頂に祠を建てて、王子喬を祀ったといわれている。

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泰山002

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李白  遊泰山,六首之五-#2  

緬彼鶴上仙,去無雲中跡。長松入雲漢,遠望不盈尺。

山花異人間,五月雪中白。終當遇安期,於此鍊玉液。

どんなに高いところでも、彼の鶴に跨れる仙人を思えばいいのであり、そして、ここから一去して雲中に向ったのであろうが、その跡を見つけることはできない。それから、丈の高い松は、雲漢に衝き入る程で、何百丈という位であろうが、ここより去って遠望すれば、一尺にも盈たないのである。この山の登って高いところの花は、人間界に見るものとは異にしている、即ち、琪花瑤草ともいうべきであろう、それに、五月というのに消え残る雪の中に白く吹き出で咲いている。いつまでも、此に居たならば、はては、かの「安期生」に遇い、その教えを受けて玉膏を錬り、仙道を修行することも出来るだろうというので、しばらくは、去ることなくこの地にいることになる。

李白317-#2 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白317-#2> Ⅰ李白詩1629 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6693

 

 
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  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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李白317-#2 《巻十九11遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】》317-#2Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42歳 18首 <李白317-#2> Ⅰ李白詩1629 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6693  
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韓愈91-#7《 巻二12 縣齋有懷》 #7 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1542> Ⅱ#7 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6694  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
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  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
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  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 11顧夐 (改)《巻六34虞美人六首其一》『花間集』285全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6697  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
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年:742年天寶元年42 18

卷別:    卷一七九              文體:    五言古詩

詩題:    遊泰山,六首之五【案:天寶元年四月,從故御道上泰山。】

作地點:              目前尚無資料

及地點:              泰山 (河南道 兗州 泰山) 別名:岱宗、岱、東岳         

日觀峰 (河南道 兗州 泰山)             

 

遊泰山,六首之一:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。)

遊泰山,六首之二:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、洞中の選任に出逢ったが一巻の書を残してくれたが読めないのでここに残って研究するというもの。)

遊泰山,六首之三: (道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:この詩は日觀峰にのぼって、日の出(御来光)を見て、清の光景の感慨を述べたもの。)

遊泰山,六首之四:(道教の友人と泰山に上って南天門に到着するまでを遊仙の詩として記した。:幻想の中、緑黒髪の仙童に出逢ったが、その風姿は脱俗しているが、仙学を学んで間もないというが、たちまち見えなくなったが、感慨に堪えないことであった。)

遊泰山,六首之五:(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。)

遊泰山,六首之六:

 

 

遊泰山,六首之五 #1

(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。) #1

日觀東北傾,兩崖夾雙石。

日觀峰は、東北に向かって傾き、その先端に於ては、兩崖の間に二つの石が挾まっていて、極めて危険である。

海水落眼前,天光遙空碧。

そこに立って眺めやれば、海水は眼前に落ち、天色は遙空に接して、さながら一碧である。

千峰爭攢聚,萬壑凌歷。

近くは、千峰、争って脚下に集まり、萬壑は非常に深邃で目がくらむばかりのたかさである。

#2

緬彼鶴上仙,去無雲中跡。

長松入雲漢,遠望不盈尺。

山花異人間,五月雪中白。

終當遇安期,於此鍊玉液。

(遊泰山,六首の五)

日観、東北に傾き、兩崖、雙石を夾む。

海水、眼前に落ち、天光、遙空 碧なり。

千峰、爭って攢聚、萬壑、だ凌歷

 

泰山案内図01 

『遊泰山,六首之五』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

緬彼鶴上仙,去無雲中跡。

長松入雲漢,遠望不盈尺。【長松入霄漢】

山花異人間,五月雪中白。

終當遇安期,於此鍊玉液。

(下し文)
#2

緬たる彼の鶴上の仙、去って雲中の跡なし。

長松、雲漢に入り、遠望すれば、尺に盈たす。

山花、人間に異なり、五月、雪中に白し。

終に當に安期に遇ひ、此に於て玉液を錬るべし。

(現代語訳)
#2

どんなに高いところでも、彼の鶴に跨れる仙人を思えばいいのであり、そして、ここから一去して雲中に向ったのであろうが、その跡を見つけることはできない。

それから、丈の高い松は、雲漢に衝き入る程で、何百丈という位であろうが、ここより去って遠望すれば、一尺にも盈たないのである。

この山の登って高いところの花は、人間界に見るものとは異にしている、即ち、琪花瑤草ともいうべきであろう、それに、五月というのに消え残る雪の中に白く吹き出で咲いている。

いつまでも、此に居たならば、はては、かの「安期生」に遇い、その教えを受けて玉膏を錬り、仙道を修行することも出来るだろうというので、しばらくは、去ることなくこの地にいることになる。

河南道 兗州 瑕丘 徂徠山 00
(訳注) #2

遊泰山,六首之五 

(峭絶なる形容の日觀峰に上ってみた景色を述べ、高山植物の縮図のような表現をしている。)

 

緬彼鶴上仙,去無雲中跡。

どんなに高いところでも、彼の鶴に跨れる仙人を思えばいいのであり、そして、ここから一去して雲中に向ったのであろうが、その跡を見つけることはできない。

3 思ふ貌。

4鶴上仙 王子喬は若くから才能豊かで、笙(しょう)という楽器を吹いては鳳凰(ほうおう)が鳴くような音を出すことができた。伊川(いせん)、洛水(河南省洛陽南部)あたりを巡り歩いていたとき、道士の浮丘公(ふきゅうこう)に誘われ中岳嵩山(すうざん)に入り、帰らなくなった。 それから30年以上後、友人の桓良が山上で王子喬を探していると、ふいに本人が現れ、「7月7日に緱氏山(こうしざん)の頂上で待つように家族に伝えてくれ」といった。 その日、家族がいわれたとおり山に登ると、王子喬が白鶴に乗って山上に舞い降りた。だが、山が険しく家族は近づくことができなかった。と、王子喬は手を上げて家族に挨拶し、数日後白鶴に乗って飛び去ったという。 そこで、人々は緱氏山の麓や嵩山の山頂に祠を建てて、王子喬を祀ったといわれている。

 

長松入雲漢,遠望不盈尺。【長松入霄漢】

それから、丈の高い松は、雲漢に衝き入る程で、何百丈という位であろうが、ここより去って遠望すれば、一尺にも盈たないのである。

5雲漢 1 (あま) の川。銀河。2 大空。

 

山花異人間,五月雪中白。

この山の登って高いところの花は、人間界に見るものとは異にしている、即ち、琪花瑤草ともいうべきであろう、それに、五月というのに消え残る雪の中に白く吹き出で咲いている。

6山花異人間 高山植物が花を咲かせること、下界の花と違うことを言う。「琪花瑤草」.琪、瑤:美玉。古代からの想像中の仙境に咲く花草。後になると晶瑩、美麗な花草についての形容となる。王轂《夢仙謠》「前程漸覺風光好,琪花片片粘瑤草。」にみえる。

7五月雪 歳華紀麗「泰山冬夏雪あり」と見える。

 

終當遇安期,於此鍊玉液。

いつまでも、此に居たならば、はては、かの「安期生」に遇い、その教えを受けて玉膏を錬り、仙道を修行することも出来るだろうというので、しばらくは、去ることなくこの地にいることになる。

8安期 古代の仙人、蓬莱山の仙人. 秦の始皇帝が山東地方で出会い、共に語り合ったという神仙。当時、千歳をこえる老人で、始皇帝と別れた後に東海中にあるといわれた蓬莱山(神仙の山)に住んだといわれる。秦 から漢の間の齊人, には琅琊、阜人ともいう。 では他に曾從 河上丈人 黃帝に習う、 老子の 東海の邊に藥を賣る。

秦始皇 東游, 與語三日夜, 賜金璧數千萬, 皆置之 亭而去, 留書及赤玉舄一雙為報。 始皇 遣使入海求之, 未至 蓬萊山 遇風波而返。 生平與 蒯通 友善, 嘗以策幹 項羽 未能用。 後之方士、道家因謂其為居海上之神仙。 事見《史記樂毅列傳》、 劉向 《列仙傳》等。

《史記封禪書》「安期生 僊者, 蓬萊 中, 合則見人, 不合則隱。」とある。

9玉液 江掩の詩「道人讀丹經、方士錬玉液」とあり、玉液に即ち玉膏。

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