漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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2015年11月

743年(31)李白349 巻四11-《塞下曲六首之四》(白馬黃金塞,) 349Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(31) <李白349> Ⅰ李白詩1689 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6993

李白  塞下曲,六首之四

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

無時獨不見,流淚空自知。

(白馬の将軍に従って西域の守りに就いた夫を思い、留守の家に残る夫との思い出のものを見て涙する嬬について述べる)

吾夫は、白馬にまたがって、遥か西域の国境、黄金の塞にむかって出かけた、あの人を思うと、雲砂漠漠として夢をめぐり、それがどこだかはわからない。

まして、秋になってゆくので、悲愁はましてきてくるしいじきとなる、遠く国境守備の人をおもうことの、まことに堪えることができないことである。涼風が吹き込んでくる秋の窓辺には、秋のホタルがいっぱいに満ち、飛びかう。やがて、寂しい月は霜のふる閏中にゆっくりとした時間の経過の後、奥まで差し込んでくる。二人で過ごすとときには繁っていた梧桐の葉は、枯れて落ちしまい、沙棠の枝にこがらしが颯々として吹きなびいている。どんな時でも、吾が夫を幻の中、夢の中に見ないことはない、そうすると、こうして一人空しく涙を流すことしかないのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-31

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之四

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

塞下曲,六首之四

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。

那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。

摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

無時獨不見,流淚空自知。

 

(塞下曲,六首の四)

白馬 黄金の塞、雲沙 夢思を繞る。

那んぞ堪えん 愁苦の節、遠く邊城の兒を憶うを。

螢飛んで 秋窗に滿ち、月は霜閏を度ること遲し。

摧殘す 梧桐の菓、蕭颯たり 沙棠の枝。

時として獨り見ざること無し、涙を流して 空しく自ずから知る。

 

塞下曲,六首之五

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

無時獨不見,流淚空自知。

 

塞下曲,六首之六

烽火動沙漠,連照甘泉雲。漢皇按劍起,還召李將軍。

兵氣天上合,鼓聲隴底聞。橫行負勇氣,一戰淨妖氛。

 

塞上曲

大漢無中策,匈奴犯渭橋。五原秋草綠,胡馬一何驕。

命將征西極,橫行陰山側。燕支落漢家,婦女無華色。

轉戰渡黃河,休兵樂事多。蕭條清萬里,瀚海寂無波。

 

安史の乱期 勢力図 0028世紀唐と周辺国00 

『塞下曲六首之四』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

塞下曲,六首之四

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。

那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。

摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

無時獨不見,流淚空自知。

(下し文)
(塞下曲,六首の四)

白馬 黄金の塞、雲沙 夢思を繞る。

那んぞ堪えん 愁苦の節、遠く邊城の兒を憶うを。

螢飛んで 秋窗に滿ち、月は霜閏を度ること遲し。

摧殘す 梧桐の菓、蕭颯たり 沙棠の枝。

時として獨り見ざること無し、涙を流して 空しく自ずから知る。


(現代語訳)
塞下曲,六首之四(白馬の将軍に従って西域の守りに就いた夫を思い、留守の家に残る夫との思い出のものを見て涙する嬬について述べる)

吾夫は、白馬にまたがって、遥か西域の国境、黄金の塞にむかって出かけた、あの人を思うと、雲砂漠漠として夢をめぐり、それがどこだかはわからない。

まして、秋になってゆくので、悲愁はましてきてくるしいじきとなる、遠く国境守備の人をおもうことの、まことに堪えることができないことである。

涼風が吹き込んでくる秋の窓辺には、秋のホタルがいっぱいに満ち、飛びかう。やがて、寂しい月は霜のふる閏中にゆっくりとした時間の経過の後、奥まで差し込んでくる。

二人で過ごすとときには繁っていた梧桐の葉は、枯れて落ちしまい、沙棠の枝にこがらしが颯々として吹きなびいている。

どんな時でも、吾が夫を幻の中、夢の中に見ないことはない、そうすると、こうして一人空しく涙を流すことしかないのである。


(訳注)

塞下曲,六首之四

(白馬の将軍に従って西域の守りに就いた夫を思い、留守の家に残る夫との思い出のものを見て涙する嬬について述べる)

前後の各首は、主として、征人の上に就いて云ったが、この首は、打ってかわって、その征人を思ふ間中の少婦に就いて述べ、連作の上に一つの変化を添えたものである。

 

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。

吾夫は、白馬にまたがって、遥か西域の国境、黄金の塞にむかって出かけた、あの人を思うと、雲砂漠漠として夢をめぐり、それがどこだかはわからない。

【一】  白馬 白馬将軍。公孫瓚は白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。「白馬将軍」の名でも知られる。公孫瓚とは、中国の東漢(後漢)〜三国時代初期の人物。群雄の一人として北平を中心に勢威を振るった。

【二】  黃金塞 昔の国境の地名。今その場所はわからない。黄土の上に立つ塞。

 

那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

まして、秋になってゆくので、悲愁はましてきてくるしいじきとなる、遠く国境守備の人をおもうことの、まことに堪えることができないことである。

【三】  愁苦節 愁苦の時節。

 

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。

涼風が吹き込んでくる秋の窓辺には、秋のホタルがいっぱいに満ち、飛びかう。やがて、寂しい月は霜のふる閏中にゆっくりとした時間の経過の後、奥まで差し込んでくる。

 

摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

二人で過ごすとときには繁っていた梧桐の葉は、枯れて落ちしまい、沙棠の枝にこがらしが颯々として吹きなびいている。

【四】  梧桐葉 月の宮殿のつがいの鳳凰が棲むという伝説の葉。玄宗と楊貴妃の愛の巣の表現に使われる。

【五】  沙棠 昆崙山中にはえるといわれる珍木。沙棠―《山海經》「昆崙有沙棠木焉.   食之使人不溺。」(昆崙に沙棠あり、その実を食えば溺れず)《山海経・西山経》「有木焉,其狀如棠,黄華赤實,其味如李而無核,名曰沙棠,可以禦水,食之使人不溺。」とある。(木有り。其の状は棠の如し、華は黄で赤い実をなし、其の味は李の如くして核無し、名は沙棠と曰う、以て禦水にすべく、之を食わば使人をして溺れず。)と。漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。そのうつくしくめずらしいもののなかに棠梨の木四種があり、赤棠、白棠、青棠、沙棠であった。

【六】  摧殘 くだきやぶる。

【七】  粛颯 ものさびしい風の声。

 

無時獨不見,流淚空自知。

どんな時でも、吾が夫を幻の中、夢の中に見ないことはない、そうすると、こうして一人空しく涙を流すことしかないのである。

【八】  無時獨不見 いつまでも夫が帰らないことをいうのであろう。李白には下に示す《巻三30 獨不見》と題する楽府があり、その結びに「終然独不見、流涙空自知」という句があるほか、この詩と同じ語句が多い。無時は未詳。

年:743年天寶二年43歳 94-23

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  獨不見

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:黃龍城 (河北道北部 營州 柳城)    

天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山      

《巻三30 獨不見》

白馬誰家子、黃龍邊塞兒。天山三丈雪、豈是遠行時。

春蕙忽秋草、莎雞鳴曲池。風摧寒梭響、月入霜閨悲。

憶與君別年。 種桃齊蛾眉。桃今百余尺、花落成枯枝。

終然獨不見。 流淚空自知。

(獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

 

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。

さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

743年(24)李白343 -#2 巻三30-《獨不見》(白馬誰家子,) 343 -#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(24)Ⅰ李白詩1677 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6933

 

 

(塞下曲,六首の四)

白馬 黄金の塞、雲沙 夢思を繞る。

那んぞ堪えん 愁苦の節、遠く邊城の兒を憶うを。

螢飛んで 秋窗に滿ち、月は霜閏を度ること遲し。

摧殘す 梧桐の菓、蕭颯たり 沙棠の枝。

時として獨り見ざること無し、涙を流して 空しく自ずから知る。

 

 

【宇解】

  白馬 白馬将軍。公孫瓚は白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。「白馬将軍」の名でも知られる。公孫瓚とは、中国の東漢(後漢)〜三国時代初期の人物。群雄の一人として北平を中心に勢威を振るった。

  黃金塞 昔の国境の地名。今その場所はわからない。黄土の上に立つ塞。

  愁苦節 愁苦の時節。

  梧桐葉 月の宮殿のつがいの鳳凰が棲むという伝説の葉。玄宗と楊貴妃の愛の巣の表現に使われる。

  摧殘 くだきやぶる。

  粛颯 ものさびしい風の声。

  沙棠 昆崙山中にはえるといわれる珍木。沙棠―《山海經》「昆崙有沙棠木焉.   食之使人不溺。」(昆崙に沙棠あり、その実を食えば溺れず)《山海経・西山経》「有木焉,其狀如棠,黄華赤實,其味如李而無核,名曰沙棠,可以禦水,食之使人不溺。」とある。(木有り。其の状は棠の如し、華は黄で赤い実をなし、其の味は李の如くして核無し、名は沙棠と曰う、以て禦水にすべく、之を食わば使人をして溺れず。)と。漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。そのうつくしくめずらしいもののなかに棠梨の木四種があり、赤棠、白棠、青棠、沙棠であった。

  無時獨不見 いつまでも夫が帰らないことをいうのであろう。李白には「独不見」と題する楽府があり、その結びに「終然独不見、流涙空自知」という句があるほか、この詩と同じ語句が多い。無時は未詳。

 

 

漢の武帝は上林苑の建造を開始した時、群臣や遠方の諸侯の国は、各自、貴重な果実や珍しい樹木を献上し、その中には、また美しい名前の付いたものもあり、珍しくて美しいと評判であった。

 

梨の木十種:紫梨、青梨、(果実は大きい。)芳梨、(果実は小さい。)大谷梨、細葉梨、縹葉梨、金葉梨、(琅琊郡の王野家から出たもので、太守の王唐が献上した。)瀚海梨、(瀚海の北から出たもので、耐寒性で枯れない。)東王梨、(海中から出たもの。)紫條梨。

棗の木七種:弱枝棗、玉門棗、棠棗、青華棗、棗、赤心棗、西王棗。(崑崙山から出たもの。)

栗の木四種:侯栗、榛栗、瑰栗、嶧陽栗。(嶧陽都尉の曹龍が献上したもので、拳ぐらいの大きさ。)

桃の木十種:秦桃、桃、緗核桃、金城桃、綺葉桃、紫文桃、霜下桃、(霜が降りた後でも食べられる。)胡桃、(西域から出たもの。)櫻桃、含桃。

李の木十五種:紫李、緑李、朱李、黄李、青綺李、青房李、同心李、車下李、含枝李、金枝李、顏淵李、(魯の地から出たもの。)羌李、燕李、蠻李、侯李。

柰の木三種:白柰、紫柰、(花は紫色。)緑柰。(花は緑色。)

山査子の木三種:蠻査、羌査、猴査。

椑の木三種:青椑、赤葉椑、烏椑。

棠梨の木四種:赤棠、白棠、青棠、沙棠。

梅の木七種:朱梅、紫葉梅、紫花梅、同心梅、麗枝梅、燕梅、猴梅。

杏の木二種:文杏、(木には綾がある。)蓬萊杏。(東郡都尉の干吉が献上したもの。一本の杏の木の花には多くの種類の色が入り混じって、六枚の花辨があり、聞くところによれば仙人が食すると言われているそうだ。)

桐の木三種:椅桐、梧桐、荊桐。

林檎の木十本、枇杷の木十本、橙の木十本、安石榴の木十本、の木十本、白銀の木十本、黄銀の木十本、槐の木六百四十本、千年長生の木十本、万年長生の木十本、扶老の木十本、守宮槐の木十本、金明の木二十本、搖風の木十本、鳴風の木十本、琉璃の木七本、池離の木十本、離婁の木十本、楠の木四本、樅の木七本、白楡の木、杜の木、桂の木、蜀漆の木十本、桧の木十本、楔の木四本、楓の木四本。

李白279-#2 《卷23-04擬古,十二首之一》 279-#2 Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <李白279-#2 > Ⅰ李白詩1688 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6988

李白  擬古,十二首之一#2

瓶冰知冬寒,霜露欺遠客。客似秋葉飛,飄颻不言歸。

別後羅帶長,愁寬去時衣。乘月託宵夢,因之寄金徽。

一心に繕いをしていると気が付かなかったが、瓶水の氷れるを見て、冬の寒きを知ったほどで、霜露は遠い旅先で夫を圧倒しているとおもうと、その心を傷ましめるのである。

ひとたび、家を離れた孤客は、秋葉の飛ぶが如く、飄颻として、その風の行くに任せ、決して歸ろうと云わない。

されば、空閏を守れる征婦は、夫に別れし後、愁いのあまり羅帯の腰にあまるを覚え、夫の去る時に着ていた衣も、今では身にゆるすぎるくらいになる。

つまり、孤居の物憂さにたえずして、日に日に痩せてゆくので、月に乗じて魂は遙夜の夢に入り、この別後の苦を金微の彼方に居る兵に知らせたいと思うばかりである。

李白279-#2  《卷23-04擬古,十二首之一》 279-#2 Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <李白279-#2 > Ⅰ李白詩1688 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6988

 

 
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年:739年開元二十七年39歳 

卷別:    卷一八三              文體:    五言古詩

詩題:    擬古,十二首之一

279 #1《卷23-04擬古,十二首之一》#1Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <279> Ⅰ李白詩1557 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6333

 

 

擬古,十二首之一 #1

(古詩に擬し、自己の感慨をのべたもの:征婦は夫を送り出して、音沙汰のない夫を心配してやせ細ってしまうが、その心配は消えることが無い。)

青天何歷歷,明星如白石。

青天の上に星がなんと歴歴と列をなしている、やがて、明星は、さながら白石のようである。

姑與織女,相去不盈尺。

そして、牽牛・織女の二星は、相い距つること尺にも盈たず、極めて接近しているように見える。

銀河無鵲橋,非時將安適。

しかし、銀河の上にカササギの渡せる橋もなく、七月七日という、きまった時でも無ければ、行こうと思っても、決して行かれない。

閨人理素,遊子悲行役。

閏中の少婦は、旅立つ夫のために絹の衣を縫い、その夫は、又はるばる行役に出かけることを悲しんでいる。 

#2

瓶冰知冬寒,霜露欺遠客。

一心に繕いをしていると気が付かなかったが、瓶水の氷れるを見て、冬の寒きを知ったほどで、霜露は遠い旅先で夫を圧倒しているとおもうと、その心を傷ましめるのである。

客似秋葉飛,飄颻不言歸。

ひとたび、家を離れた孤客は、秋葉の飛ぶが如く、飄颻として、その風の行くに任せ、決して歸ろうと云わない。

別後羅帶長,愁寬去時衣。

されば、空閏を守れる征婦は、夫に別れし後、愁いのあまり羅帯の腰にあまるを覚え、夫の去る時に着ていた衣も、今では身にゆるすぎるくらいになる。

乘月託宵夢,因之寄金徽。

つまり、孤居の物憂さにたえずして、日に日に痩せてゆくので、月に乗じて魂は遙夜の夢に入り、この別後の苦を金微の彼方に居る兵に知らせたいと思うばかりである。

(古に擬す,十二首の一) #1

青天 何ぞ歷歷たる,明星 白きこと石の如し。

黃姑と織女と,相い去ること 尺にた盈ず。

銀河に 鵲橋無く,時に非ずして 將に安くにか適かんとする。

閨人 紈素を理め,遊子 行役を悲しむ。

#2

瓶冰 冬寒を知り,霜露 遠客を欺く。

客は秋葉の飛ぶに似て,飄颻として歸るを言わず。

別後 羅帶長し,去時の衣を寬にせしむことを愁う。

月に乘じて 宵夢に託し,之に因って金徽に寄す。

 

『擬古,十二首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

擬古,十二首之一 #2

瓶冰知冬寒,霜露欺遠客。

客似秋葉飛,飄颻不言歸。

別後羅帶長,愁寬去時衣。

乘月託宵夢,因之寄金徽。

詩文(含異文)

青天何歷歷,明星如白石【明星白如石】。黃姑與織女,相去不盈尺。銀河無鵲橋,非時將安適。閨人理紈素,遊子悲行役。瓶冰知冬寒,霜露欺遠客。客似秋葉飛,飄颻不言歸。別後羅帶長,愁寬去時衣。乘月託宵夢,因之寄金徽。


(下し文)

#2

瓶冰 冬寒を知り,霜露 遠客を欺く。

客は秋葉の飛ぶに似て,飄颻として歸るを言わず。

別後 羅帶長し,去時の衣を寬にせしむことを愁う。

月に乘じて 宵夢に託し,之に因って金徽に寄す。


(現代語訳)
#2

一心に繕いをしていると気が付かなかったが、瓶水の氷れるを見て、冬の寒きを知ったほどで、霜露は遠い旅先で夫を圧倒しているとおもうと、その心を傷ましめるのである。

ひとたび、家を離れた孤客は、秋葉の飛ぶが如く、飄颻として、その風の行くに任せ、決して歸ろうと云わない。

されば、空閏を守れる征婦は、夫に別れし後、愁いのあまり羅帯の腰にあまるを覚え、夫の去る時に着ていた衣も、今では身にゆるすぎるくらいになる。

つまり、孤居の物憂さにたえずして、日に日に痩せてゆくので、月に乗じて魂は遙夜の夢に入り、この別後の苦を金微の彼方に居る兵に知らせたいと思うばかりである。


(訳注) #2

擬古,十二首之一 #2

(古詩に擬し、自己の感慨をのべたもの:征婦は夫を送り出して、音沙汰のない夫を心配してやせ細ってしまうが、その心配は消えることが無い。)

 

擬古も、矢張、前の效古と同じく、古詩に擬したといっており、その実、亦た自己の感懐を寄せたのである。

これは、主として、思婦の懐を叙したので、その実は、武を黷し、兵を弄するを謗ったのである。嚴滄浪は「音情甚だ長し」といひ、蕭士贇は「この篇、時に兵を窮め、武を黷し、行役期度なく、男女怨曠、その室家の情を逐ぐるを得ざるを傷み、時に感じて悲む、哀んで傷らす、怨んで誹らず、眞に國風の体あり、これ晦庵の謂わゆる詩に聖なるものか」といい、梅鼎祚は「古詩、相去日以遠、衣帯日以緩、太白、その語を約して日く、別彼羅帯長、と。謂わゆる延年善く減ず」といって居る。

 

瓶冰知冬寒,霜露欺遠客。

一心に繕いをしていると気が付かなかったが、瓶水の氷れるを見て、冬の寒きを知ったほどで、霜露は遠い旅先で夫を圧倒しているとおもうと、その心を傷ましめるのである。

【1】    瓶冰知冬寒 呂氏春秋に「瓶水の氷るを見て、天下の寒を知る」とある。

 

客似秋葉飛,飄颻不言歸。

ひとたび、家を離れた孤客は、秋葉の飛ぶが如く、飄颻として、その風の行くに任せ、決して歸ろうと云わない。

【2】    飄颻 ひらひらと動いて定まらない様子。曹植《洛神賦》「彷彿兮若輕雲之蔽月,飄颻兮若流風之囘雪。」(彷彿として軽雲の蔽月の若く、飄颻として流風の回雪の若し。)隨風飄動。《文選.曹植.雜詩六首之二》:「轉蓬離本根,飄颻隨長風。」亦作「飄搖」。凌風飛翔。

 

別後羅帶長,愁寬去時衣。

されば、空閏を守れる征婦は、夫に別れし後、愁いのあまり羅帯の腰にあまるを覚え、夫の去る時に着ていた衣も、今では身にゆるすぎるくらいになる。

 

乘月託宵夢,因之寄金徽。

つまり、孤居の物憂さにたえずして、日に日に痩せてゆくので、月に乗じて魂は遙夜の夢に入り、この別後の苦を金微の彼方に居る兵に知らせたいと思うばかりである。

【3】    金徽 舊唐書に「貞觀二十二年、契苾回紇等、十餘部落相継いで歸國す。太宗各その地土に因り、その部落を擇び、置いて州府と爲し、回紇を以て澣海都督府となし、僕骨を金薇都督府となす」とあり、新唐書「金徽都督府は、僕固部を以て置き、安北都護府に属す」とある。

 

 

擬古,十二首之一【字解】

     歷歷 星が列をなせることをいう。

     黃姑 黃姑 — (黃姑, 黄姑) .牽牛星。 《玉臺新詠歌辭之一》:東飛伯勞西飛燕, 黃姑織女時相見。”

     織女 神話伝説の中にみえる男女一対の神。おそらく元来は牽牛が男の仕事である農耕を,織女が女の仕事である養蚕紡織を象徴し,神話的宇宙観の中で二元構造をなす一対の神格であったものが,星座にも反映されたものであろう。星名は,牽牛がアルタイルAltair,織女がベガVega。この2神は,後には七夕(たなばた)の行事と結びついた恋愛譚の主人公となる。牽牛星と織女星とが並んで歌われる例はすでに《詩経》小雅・大東篇にみえるが,その背後にいかなる伝承があったのかはうかがいがたい。

     銀河 あまのがわ。天河・銀河・経河・銀漢・雲漢・星漢・天津・漢津等はみなその異名である。杜甫『天河』。

     鵲橋 七夕の夜、牽牛(けんぎゅう)・織女の二星が会うとき、カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋。男女の契りの橋渡しのたとえにも用いる。烏鵲橋(うじゃくきょう)。《季 秋》2 宮中を天上になぞらえて、その殿舎の階段。

     紈素 絹の衣を縫うことをいう。白い練り絹。班捷伃《怨詩(怨歌行)》「新裂齊紈素,皎潔如霜雪。裁爲合歡扇,團團似明月。」や、《古詩十九首之十三》に「驅車上東門,遙望郭北墓。白楊何蕭蕭,松柏夾廣路。下有陳死人,杳杳即長暮。潛寐黄泉下,千載永不寤。浩浩陰陽移,年命如朝露。人生忽如寄,壽無金石固。萬歳更相送,賢聖莫能度。服食求神仙,多爲藥所誤。不如飮美酒,被服紈與素。」とある。 

     瓶冰知冬寒 呂氏春秋に「瓶水の氷るを見て、天下の寒を知る」とある。

     飄颻 ひらひらと動いて定まらない様子。曹植《洛神賦》「彷彿兮若輕雲之蔽月,飄颻兮若流風之囘雪。」(彷彿として軽雲の蔽月の若く、飄颻として流風の回雪の若し。)隨風飄動。《文選.曹植.雜詩六首之二》:「轉蓬離本根,飄颻隨長風。」亦作「飄搖」。凌風飛翔。

     金徽 舊唐書に「貞觀二十二年、契苾回紇等、十餘部落相継いで歸國す。太宗各その地土に因り、その部落を擇び、置いて州府と爲し、回紇を以て澣海都督府となし、僕骨を金薇都督府となす」とあり、新唐書「金徽都督府は、僕固部を以て置き、安北都護府に属す」とある。

743年(30)李白348 巻四10-《塞下曲六首之三》(駿馬似風飆,) 348Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(30) <李白348> Ⅰ李白詩1687 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6983

李白  塞下曲,六首之三

駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。

陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。
(長安の西、渭橋を渡って西域の匈奴と勇敢に戦っても、皆が皆正当な評価を受けるわけではない)

駿馬にまたがり、疾走するのは、さながら旋風をおこすが如くであり、さらに、これに鞭を鳴らし、長安の都を西に出でて渭橋を越えて、いよいよ征途に向かうことになった。漢家の明月を背にし、弓を引き絞って白羽の矢を射る、さて、いよいよ戦争になり、矢をつがえて“いたずら坊主”の匈奴の単于を追いかけ、退けた。それから、陣を引き払って凱旋となるときには、天上の星も、光芒すでに斂まって、兵気は方に散じ尽し、屯営の跡には海霧消えて、見わたすかぎり、さっぱりして、何等すさまじい景色もなくなっている。しかし、戦功全きに因って、麒麟閣にその像を畫かれるのは、本来、主将たる霍嫖姚、ただ一人であったのに、それすらないのである、ましてや、実際に戦った多くの勇士の功績などに及ばないのは、まことに遺憾である。

743年(30)李白348 巻四10-《塞下曲六首之三》(駿馬似風飆,) 348Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-30) <李白348> Ⅰ李白詩1687 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6983

 

 

 

 

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塞下曲,六首之一

(西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

五月天山雪,無花祗有寒。

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。
笛中聞折柳,春色未曾看。

この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。
曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。

それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。

願將腰下劍,直為斬樓蘭。

しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

 

(塞下曲,六首之一)

五月 天山の雪,花 無くして  祗だ 寒のみ 有り。

笛中 折柳を 聞くも,春色 未だ 曾て 看ず。

曉に戰ふに 金鼓に 隨ひ,宵に眠るに 玉鞍を 抱く。

願はくは 腰下の劍を將って,直ちに 爲に 樓蘭を斬らん。

 

塞下曲,六首之二

(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

天兵下北荒,胡馬欲南飲。

天兵は、北方荒漠の地に討って出で、匈奴は之と反封に南に向って馬にみずを飲まそうとし、そこで、大衝突が起った。

橫戈從百戰,直為銜恩甚。

この間、式を横へて、かん百戦の役に従い、も辛苦を厭わざるは、従来國恩を銜むこと厚く、必ず之に報いむと欲するからである。

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。

そこで、ある時は、雪を握って、それを食しつつ、北海の邊に征戍し、ある時は、風に吹き捲きあがる砂を払いつつ、隴頭に臥し、その困難は、一通りではない。

何當破月氏,然後方高枕。

そして、期するところは、はるかに遠き月氏をも打破り、然る後、邊境はじめて虞なく、中國の上下を挙げ、枕を高くして安眠するようにしたいというので、その間は、如何な事にも屈せやしで、征途の苦に甘んじて居るのである。

 

(塞下曲,六首の二)

天兵 北荒を下り,胡馬 南に飲【みずか】わんと欲す。

戈を橫えて 百戰に從うは,直ちに恩を銜む甚じきが為なり。

雪を握って 海上に餐し,沙を拂うて隴頭に寢ぬ。

何ぞ當に月氏を破り,然る後 方に枕を高うすべき。

 

年:743年天寶二年43歳 94-30

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)             

 

 

塞下曲,六首之三

(長安の西、渭橋を渡って西域の匈奴と勇敢に戦っても、皆が皆正当な評価を受けるわけではない)

駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。

駿馬にまたがり、疾走するのは、さながら旋風をおこすが如くであり、さらに、これに鞭を鳴らし、長安の都を西に出でて渭橋を越えて、いよいよ征途に向かうことになった。

彎弓辭漢月,插羽破天驕。

漢家の明月を背にし、弓を引き絞って白羽の矢を射る、さて、いよいよ戦争になり、矢をつがえて“いたずら坊主”の匈奴の単于を追いかけ、退けた。

陣解星芒盡,營空海霧消。

それから、陣を引き払って凱旋となるときには、天上の星も、光芒すでに斂まって、兵気は方に散じ尽し、屯営の跡には海霧消えて、見わたすかぎり、さっぱりして、何等すさまじい景色もなくなっている。

功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。

しかし、戦功全きに因って、麒麟閣にその像を畫かれるのは、本来、主将たる霍嫖姚、ただ一人であったのに、それすらないのである、ましてや、実際に戦った多くの勇士の功績などに及ばないのは、まことに遺憾である。

 

(塞下曲,六首之三)

駿馬は風飆の似く,鞭を鳴らして渭橋を出づ。

弓を彎いて 漢月を辭し,羽を插んで 天驕を破る。

陣は解けて 星芒 盡き,營は空しゅうして 海霧 消ゆ。

功 成って 麟閣に畫かれるは,獨り 霍嫖姚 有るのみ。

安史の乱期 勢力図 002 

『塞下曲,六首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

塞下曲,六首之三

駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。

彎弓辭漢月,插羽破天驕。

陣解星芒盡,營空海霧消。

功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。
詩文(含異文) 塞下曲,六首之三

駿馬似風飆【駿馬如風飆】,鳴鞭出渭橋。

彎弓辭漢月,插羽破天驕。

陣解星芒盡,營空海霧消。

功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。


(下し文)
(塞下曲,六首之三)

駿馬は風飆の似く,鞭を鳴らして渭橋を出づ。

弓を彎いて 漢月を辭し,羽を插んで 天驕を破る。

陣は解けて 星芒 盡き,營は空しゅうして 海霧 消ゆ。

功 成って 麟閣に畫かれるは,獨り 霍嫖姚 有るのみ。

(現代語訳)
塞下曲,六首之三(長安の西、渭橋を渡って西域の匈奴と勇敢に戦っても、皆が皆正当な評価を受けるわけではない)

駿馬にまたがり、疾走するのは、さながら旋風をおこすが如くであり、さらに、これに鞭を鳴らし、長安の都を西に出でて渭橋を越えて、いよいよ征途に向かうことになった。

漢家の明月を背にし、弓を引き絞って白羽の矢を射る、さて、いよいよ戦争になり、矢をつがえて“いたずら坊主”の匈奴の単于を追いかけ、退けた。

それから、陣を引き払って凱旋となるときには、天上の星も、光芒すでに斂まって、兵気は方に散じ尽し、屯営の跡には海霧消えて、見わたすかぎり、さっぱりして、何等すさまじい景色もなくなっている。

しかし、戦功全きに因って、麒麟閣にその像を畫かれるのは、本来、主将たる霍嫖姚、ただ一人であったのに、それすらないのである、ましてや、実際に戦った多くの勇士の功績などに及ばないのは、まことに遺憾である。

8世紀唐と周辺国00
(訳注)

塞下曲,六首之三

(長安の西、渭橋を渡って西域の匈奴と勇敢に戦っても、皆が皆正当な評価を受けるわけではない)

 

駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。

駿馬にまたがり、疾走するのは、さながら旋風をおこすが如くであり、さらに、これに鞭を鳴らし、長安の都を西に出でて渭橋を越えて、いよいよ征途に向かうことになった。

【一】  風飆 疾風。

【二】  渭橋 横橋とも中渭橋ともいう。長安の北を流れる渭水に架けた橋で、ここを渡ると咸陽の町。唐の時代には西域に通じる要道の一。長安には、便橋、東渭橋の三本の橋があった。

 

彎弓辭漢月,插羽破天驕。

漢家の明月を背にし、弓を引き絞って白羽の矢を射る、さて、いよいよ戦争になり、矢をつがえて“いたずら坊主”の匈奴の単于を追いかけ、退けた。

【三】  插羽 李白の「胡無人」には「流星白羽腰間插」という句がある。白羽の矢を腰のあたりにさす。

【四】  天驕 えびすの王の単子が漢に僕をよこして「えびすは天の驕子である」と言った。驕子は我儘息子のこと。*遊牧・騎馬民族は常に牧草地を移動して生活をする。侵略も移動のうちである。略奪により、安定させる。定住しないで草原のテントで寝る、自然との一体感がきわめておおきく彼らからすると天の誇高き息子と自惚れた訳ではなかった。漢民族は、世界の中心、天の中心にあると思っているのに対して、天の息子が漢民族化するわけはない。漢書の匈奴伝に「胡は、天の驕子なり」とみえる、えびすは天の“いたずら坊や”であるといっている。

・李白《古風五十九首其十四》「借問誰凌虐、天驕毒威武。」(借問す 誰か陵虐す、天騎 威武を毒す。)

Index-28 《古風五十九首之十四》Index-28Ⅳ-3 749年天寶八年49歳526-#2古風,五十九首之十四胡關饒風沙, <Index-28> Ⅰ李白詩1163 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4363

 

・杜甫《留花門》「北門天驕子,飽肉氣勇決。」(花門は天の驕子【きょうし】、肉に飽きて気勇決【ゆうけつ】なり。)

留花門 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1004 杜甫特集700- 299

 

陣解星芒盡,營空海霧消。

それから、陣を引き払って凱旋となるときには、天上の星も、光芒すでに斂まって、兵気は方に散じ尽し、屯営の跡には海霧消えて、見わたすかぎり、さっぱりして、何等すさまじい景色もなくなっている。

【五】  星芒盡 星がはなつ矢のような光。中国の古代の迷信では、星のひかりが白色に変ると戦争のきざしと見た。後漢書「客星、芒気白きは兵たり」とある。

【六】  海霧 砂漠のみずうみに立ちこめた霧。 

 

功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。

しかし、戦功全きに因って、麒麟閣にその像を畫かれるのは、本来、主将たる霍嫖姚、ただ一人であったのに、それすらないのである、ましてや、実際に戦った多くの勇士の功績などに及ばないのは、まことに遺憾である。

【七】  麟閣 麒麟閣の略。別に畫麟閣.雲嫖姚というもとは漢の高祖の時、蒲何が建てて、図書を蔵していたが、のち漢の宜帝は功臣を紀念して表彰するため、霍光等十一人の像を閣上に画かした。宣帝は戎狄が定まって皆、賓服 し、股肱の臣の美を思い、功臣を人に図画させて麒麟閣に絵諸させた。 麒麟閣は未央宮にある。麒麟閣には十一臣が描かれた。 容貌に官爵、姓名を記した。麒麟閣十一臣は以下の通り。・大司馬大将軍博陸侯 姓霍氏、・衛将軍富平侯 張安世、・車騎将軍龍額侯 韓増、・後将軍営平侯 趙充国、・丞相高平侯 魏相、・丞相博陽侯 邴吉、・御史大夫建平侯 杜延年、・ 宗正陽城侯 劉徳、・少府 梁邱賀、・太子太傅 蕭望之、・典属国 蘇武

【八】  霍嫖姚 漢代の名将、霍去病。霍光の兄。漢の武帝の時に匈奴を防いで功があり、嫖姚校尉となった。麒麟閣にえがかれたのは、じつは弟の霍光であって、兄の霍去病ではない。李白の思いちがいかもしれないが、蘇武が十一番目であったりして、必ずしも功績の大きさで決められたものでない、ということを李白は言いたいのである。
長安城図 作図00 

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李白  塞下曲,六首之二

天兵下北荒,胡馬欲南飲。橫戈從百戰,直為銜恩甚。

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。何當破月氏,然後方高枕。

(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

天兵は、北方荒漠の地に討って出で、匈奴は之と反封に南に向って馬にみずを飲まそうとし、そこで、大衝突が起った。この間、式を横へて、かん百戦の役に従い、も辛苦を厭わざるは、従来國恩を銜むこと厚く、必ず之に報いむと欲するからである。そこで、ある時は、雪を握って、それを食しつつ、北海の邊に征戍し、ある時は、風に吹き捲きあがる砂を払いつつ、隴頭に臥し、その困難は、一通りではない。そして、期するところは、はるかに遠き月氏をも打破り、然る後、邊境はじめて虞なく、中國の上下を挙げ、枕を高くして安眠するようにしたいというので、その間は、如何な事にも屈せやしで、征途の苦に甘んじて居るのである。

743年(29)李白347 巻四09-《塞下曲六首之二》(天兵下北荒,) 347Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-29) <李白347> Ⅰ李白詩1686 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6978

 

 

 
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塞下曲,六首之一

(西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

五月天山雪,無花祗有寒。

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。
笛中聞折柳,春色未曾看。

この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。
曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。

それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。

願將腰下劍,直為斬樓蘭。

しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

 

(塞下曲,六首之一)

五月 天山の雪,花 無くして  祗だ 寒のみ 有り。

笛中 折柳を 聞くも,春色 未だ 曾て 看ず。

曉に戰ふに 金鼓に 隨ひ,宵に眠るに 玉鞍を 抱く。

願はくは 腰下の劍を將って,直ちに 爲に 樓蘭を斬らん。

 

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-29

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

塞下曲,六首之二

(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

天兵下北荒,胡馬欲南飲。

天兵は、北方荒漠の地に討って出で、匈奴は之と反封に南に向って馬にみずを飲まそうとし、そこで、大衝突が起った。

橫戈從百戰,直為銜恩甚。

この間、式を横へて、かん百戦の役に従い、も辛苦を厭わざるは、従来國恩を銜むこと厚く、必ず之に報いむと欲するからである。

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。

そこで、ある時は、雪を握って、それを食しつつ、北海の邊に征戍し、ある時は、風に吹き捲きあがる砂を払いつつ、隴頭に臥し、その困難は、一通りではない。

何當破月氏,然後方高枕。

そして、期するところは、はるかに遠き月氏をも打破り、然る後、邊境はじめて虞なく、中國の上下を挙げ、枕を高くして安眠するようにしたいというので、その間は、如何な事にも屈せやしで、征途の苦に甘んじて居るのである。

 

(塞下曲,六首の二)

天兵 北荒を下り,胡馬 南に飲【みずか】わんと欲す。

戈を橫えて 百戰に從うは,直ちに恩を銜む甚じきが為なり。

雪を握って 海上に餐し,沙を拂うて隴頭に寢ぬ。

何ぞ當に月氏を破り,然る後 方に枕を高うすべき。

李白図102

『塞下曲,六首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

塞下曲,六首之二

天兵下北荒,胡馬欲南飲。

橫戈從百戰,直為銜恩甚。

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。

何當破月氏,然後方高枕。


(下し文)
(塞下曲,六首の二)

天兵 北荒を下り,胡馬 南に飲【みずか】わんと欲す。

戈を橫えて 百戰に從うは,直ちに恩を銜む甚じきが為なり。

雪を握って 海上に餐し,沙を拂うて隴頭に寢ぬ。

何ぞ當に月氏を破り,然る後 方に枕を高うすべき。

(現代語訳)
(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

天兵は、北方荒漠の地に討って出で、匈奴は之と反封に南に向って馬にみずを飲まそうとし、そこで、大衝突が起った。

この間、式を横へて、かん百戦の役に従い、も辛苦を厭わざるは、従来國恩を銜むこと厚く、必ず之に報いむと欲するからである。

そこで、ある時は、雪を握って、それを食しつつ、北海の邊に征戍し、ある時は、風に吹き捲きあがる砂を払いつつ、隴頭に臥し、その困難は、一通りではない。

そして、期するところは、はるかに遠き月氏をも打破り、然る後、邊境はじめて虞なく、中國の上下を挙げ、枕を高くして安眠するようにしたいというので、その間は、如何な事にも屈せやしで、征途の苦に甘んじて居るのである。

三国鼎立時代の勢力図北斉
(訳注)

塞下曲,六首之二

(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

出塞、入塞等の曲は、漢代に李延年が造ったが、唐になると、塞上、塞下等の諸曲がついで起って、いづれも邊塞の事を歌って居る。元来、出塞、入塞等は、主として従軍中に於ける悲愴凄惨の意をうつして居るが、李白の此曲は、非常に雄壮なる調子である。開元,天寶の盛時に於で、哥舒翰、安緑山等は、吐蕃回紇と大戦を試みたことがあって、この詩の作は、恰もその時にあたって居るから、すこしも、悲哀の意を帯びず、いわば兵士を鼓舞するような精神を以てしたのである。この六首はほぼ、順序だっていて、意味が一貫している。

 

天兵下北荒,胡馬欲南飲。

天兵は、北方荒漠の地に討って出で、匈奴は之と反封に南に向って馬にみずを飲まそうとし、そこで、大衝突が起った。

【1】    飲 みづかふ。いい馬を多量に生産するために水を求めた。

 

橫戈從百戰,直為銜恩甚。

この間、式を横へて、かん百戦の役に従い、も辛苦を厭わざるは、従来國恩を銜むこと厚く、必ず之に報いむと欲するからである。

 

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。

そこで、ある時は、雪を握って、それを食しつつ、北海の邊に征戍し、ある時は、風に吹き捲きあがる砂を払いつつ、隴頭に臥し、その困難は、一通りではない。

【2】    握雪 後漢書「餘羌復與燒何大豪寇張掖,攻沒鉅鹿塢,殺屬國吏民,又招同種千餘落,并兵晨奔熲軍。熲下馬大戰,至日中,刀折矢盡,虜亦引退。熲追之,且且行,晝夜相攻,割肉食雪,四十餘日,遂至河首積石山,出塞二千餘里」(餘羌 復た燒何と大豪と張掖に寇し,攻めて鉅鹿塢を沒し,屬國の吏民を殺す,又 同種千餘の落を招じ,并びに兵は晨に熲軍を奔し。熲下馬し大戰し,日中に至り,刀折れ矢盡き,虜 亦た引き退く。熲之を追い,且つ且つ行き,晝夜相い攻め,肉を割き雪を食うこと,四十餘日,遂に河首積石山に至り,塞を出ずること二千餘里)とある。

 

何當破月氏,然後方高枕。

そして、期するところは、はるかに遠き月氏をも打破り、然る後、邊境はじめて虞なく、中國の上下を挙げ、枕を高くして安眠するようにしたいというので、その間は、如何な事にも屈せやしで、征途の苦に甘んじて居るのである。

【3】    月氏 秦の始皇帝(在位:前246 - 210年)の時代、中国の北方では東胡と月氏が強盛であった。一方、匈奴は陰山の北からオルドス地方を領する小国にすぎず、大国である東胡や月氏の間接支配を受けていた。ある時、匈奴の単于頭曼は、太子である冒頓を廃してその弟を太子にしようと、冒頓を月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を急襲してきた。これに怒った月氏は冒頓を殺そうとしたが、あと少しの所で逃げられてしまう。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし、そのまま西へ転じて月氏を敗走させ、次いで南の楼煩、白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築いた。

その後も依然として敦煌付近にいた月氏であったが、漢の孝文帝(在位:前180 - 157年)の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。

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李白  塞下曲,六首之一

五月天山雪,無花祗有寒。笛中聞折柳,春色未曾看。

曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。願將腰下劍,直為斬樓蘭。

(西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

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塞下曲,六首之一

五月天山雪,無花祗有寒。笛中聞折柳,春色未曾看。

曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。願將腰下劍,直為斬樓蘭。

 

塞下曲,六首之二

天兵下北荒,胡馬欲南飲。橫戈從百戰,直為銜恩甚。

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。何當破月氏,然後方高枕。

 

塞下曲,六首之三

駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。彎弓辭漢月,插羽破天驕。

陣解星芒盡,營空海霧消。功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。

 

塞下曲,六首之四

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

無時獨不見,流淚空自知。

 

塞下曲,六首之五

塞虜乘秋下,天兵出漢家。將軍分虎竹,戰士臥龍沙。

邊月隨弓影,胡霜拂劍花。玉關殊未入,少婦莫長嗟。

 

塞下曲,六首之六

烽火動沙漠,連照甘泉雲。漢皇按劍起,還召李將軍。

兵氣天上合,鼓聲隴底聞。橫行負勇氣,一戰淨妖氛。

 

塞上曲

大漢無中策,匈奴犯渭橋。五原秋草綠,胡馬一何驕。

命將征西極,橫行陰山側。燕支落漢家,婦女無華色。

轉戰渡黃河,休兵樂事多。蕭條清萬里,瀚海寂無波。

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-28

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山             

 

 

塞下曲,六首之一

(西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

五月天山雪,無花祗有寒。

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。
笛中聞折柳,春色未曾看。

この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。
曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。

それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。

願將腰下劍,直為斬樓蘭。

しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

 

(塞下曲,六首之一)

五月 天山の雪,花 無くして  祗だ 寒のみ 有り。

笛中 折柳を 聞くも,春色 未だ 曾て 看ず。

曉に戰ふに 金鼓に 隨ひ,宵に眠るに 玉鞍を 抱く。

願はくは 腰下の劍を將って,直ちに 爲に 樓蘭を斬らん。

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『塞下曲,六首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

塞下曲,六首之一

五月天山雪,無花祗有寒。

笛中聞折柳,春色未曾看。

曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。

願將腰下劍,直為斬樓蘭。

(下し文)
(
塞下曲,六首之一)

五月 天山の雪,花 無くして  祗だ 寒のみ 有り。

笛中 折柳を 聞くも,春色 未だ 曾て 看ず。

曉に戰ふに 金鼓に 隨ひ,宵に眠るに 玉鞍を 抱く。

願はくは 腰下の劍を將って,直ちに 爲に 樓蘭を斬らん。


(現代語訳)
塞下曲,六首之一 (西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。
この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。
それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。

しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

李白図102
(訳注)

塞下曲,六首之一

 (西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

出塞、入塞等の曲は、漢代に李延年が造ったが、唐になると、塞上、塞下等の諸曲がついで起って、いづれも邊塞の事を歌って居る。元来、出塞、入塞等は、主として従軍中に於ける悲愴凄惨の意をうつして居るが、李白の此曲は、非常に雄壮なる調子である。開元,天寶の盛時に於で、哥舒翰、安緑山等は、吐蕃回紇と大戦を試みたことがあって、この詩の作は、恰もその時にあたって居るから、すこしも、悲哀の意を帯びず、いわば兵士を鼓舞するような精神を以てしたのである。この六首はほぼ、順序だっていて、意味が一貫している。

 

五月天山雪,無花祗有寒。

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。
 ・五月:陰暦五月で、夏になる。

 ・天山:〔てんざん〕新疆にある祁連山〔きれんざん〕(チーリェンシャン) 。北緯44度(稚内と旭川の中間の緯度に当たる)天山一帯。当時の中国人の世界観では、最西端になる。天山山脈のこと。新疆ウイグル(維吾爾)自治区中央部タリム盆地の北を東西に走る大山系で、パミール高原の北部に至る。雪山。ここでは「異民族との戦闘の前線」の意として、使われている。

巻三01關山月 「明月出天山、蒼茫云海間。 」

巻三30獨不見   「天山三丈雪、 豈是遠行時。」

巻四10 塞下曲 六首其一 「五月天山雪、 無花只有寒。 」

巻二十一奔亡道中五首 其一 「蘇武天山上、田橫海島邊。 萬重關塞斷、何日是歸年。」

 ・無花:花は(咲いてい)ない。 

祗有:〔しいう〕ただ…だけがある。「無花祗有寒」の句中で前出「無」との揃いで用いられる表現。「無花祗有寒」。≒只有。

 ・:寒さ。

 

 

笛中聞折柳,春色未曾看。

この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。
 ・笛中:胡笳の調べで。葦笛の音に。 ・聞:聞こえる。

 ・折柳:折楊柳の曲。

未曾:まだ…でない。…いままでに、…したことがない。

 ・:見る。

 

曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。

それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。

 ・:明け方。朝。あかつき。 ・戰:戦う。 

:…にしたがって。

 ・金鼓:(軍中で用いる)鉦(かね)と太鼓。進むのに太鼓を用い、留まるのに鉦(かね)を用いたことによる。

 ・:夜。よい。

 ・:眠る。

 ・:だく。いだく。

 ・玉鞍:〔ぎょくあん〕立派なくら。玉で作ったくら。

 

 

願將腰下劍,直為斬樓蘭。

しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

:願わくは。 ・將:…を持って。・腰下:腰に下げた。

:つるぎ。元来は、諸刃(もろは)の刺突用武器を指す。

・直:ただちに。 ・爲:〔ゐ〕…のために。…に対して。…に向かって。目的や原因を表す介詞。また、なす。する。致す。動詞。

:傅介子等が楼蘭王を斬り殺した故実のように、征伐をする。 前漢の昭帝の頃、傅介子等が樓蘭王を殺したことを指す。 

樓蘭:〔ろうらん〕漢代、西域にあった国。都市名。天山南路のロブノール湖(羅布泊)の畔にあった漢代に栄えた国(都市)。ローラン。原名クロライナ。現・新疆ウイグル(維吾爾)自治区東南部にあった幻の都市。天山の東南で、新疆ウイグル自治区中央部のタリム盆地東端、善〔善+おおざと〕県東南ロブノール湖(羅布泊)の北方にあった。そこに住む人種は白人の系統でモンゴリアンではなく、漢民族との抗争の歴史があった。四世紀にロブノール湖(羅布泊)の移動により衰え、七世紀初頭には廃墟と化した。現在は、楼蘭古城(址)が砂漠の中に土煉瓦の城壁、住居址などを遺しているだけになっている。 ・終:どうしても。いつまでも。とうとう。しまいに。ついには。 

不還:還(かえ)らない。戻らない。かえってこない。


○韻 寒、看、鞍、蘭。

塞下曲,六首之一

五月天山雪,無花祗有寒。
笛中聞折柳,春色未曾看。
曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。
願將腰下劍,直爲斬樓蘭。


( 塞下曲,六首之一 )       
五月  天山の雪,花 無くして  祗【た】だ 寒のみ 有り。
笛中  折柳【せつりう】を 聞くも,春色  未だ 曾【かつ】て 看ず。
曉【あかつき】に戰ふに  金鼓に 隨【したが】ひ,宵【よひ】に眠るに  玉鞍を 抱【いだ】く。
願はくは  腰下【えうか】の劍を 將【も】って,直ちに 爲【ため】に  樓蘭【ろうらん】を斬らん。

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李白  怨歌行 #2

沈憂能傷人,綠鬢成霜蓬。一朝不得意,世事徒為空。

鷫鷞換美酒,舞衣罷雕龍。寒苦不忍言,為君奏絲桐。

腸斷弦亦悲心夜忡忡。

かくて深き憂いに沈んだ揚句には、緑の鬢も、霜を帯びた蓬の如く乱れて、そそけて仕舞った。その不得意の極み、一朝宮中を辭して、人に嫁することに成ったが、世事は、いたずらに 予期に反し空しいものだ。卓文君は貧苦のあまりに、鷫鷞という馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い、夫のために、美酒に換えるほどで、龍の縫い模様のある舞衣もいまはなんの役にも立たない。その貧苦飢寒の有様は、まことにお話にならないくらいであったという、やがてこれを訴えるために、琴を弾き始めたのである。断腸のおもいは弦をもまたやめてしまった、夜が更けてゆくままに、物悲しき心は、忡忡として、慰めるたよりもない。

 

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年:743年天寶二年43歳 94-26

卷別:卷一六四    文體:    樂府

詩題:怨歌行

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

怨歌行

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、長信宮で貧苦飢寒の有様で、悲しく過ごした)

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

李白の自註(宮人が寵を失い、それに因って、辞して出で、それが人に嫁したに就いて、その宮人に代り、その人の心持になって作ったのである。

十五入漢宮,花顏笑春紅。

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、花の如き顔は、紅なる春の花を嘲り笑うばかりの美しさであった。

君王選玉色,侍寢金屏中。

君王は数多い妃嬪から絶色を選ばれ、やがて、御召しに成って、金房の中に於いて添い臥しをすることに成った。

薦枕嬌夕月,卷衣戀春風。

かくて、枕を薦める其の風情は、夕月よりも媚かしく、衣を脱ぎかへる英姿は、春風よりも情ありげに見えて、君寵を得たのも、尤もとうなずかれるものであった。

寧知趙飛燕,奪寵恨無窮。

しかも、其処に魂胆があるわけでなく、趙飛燕という踊り子の女が、突然、後宮に入ってきて、我が寵を奮い、それによって無窮の恨を懐くようになろうとは思いもしなかった。

#2

沈憂能傷人,綠鬢成霜蓬。

かくて深き憂いに沈んだ揚句には、緑の鬢も、霜を帯びた蓬の如く乱れて、そそけて仕舞った。

一朝不得意,世事徒為空。

その不得意の極み、一朝宮中を辭して、人に嫁することに成ったが、世事は、いたずらに 予期に反し空しいものだ。

鷫鷞換美酒,舞衣罷雕龍。

卓文君は貧苦のあまりに、鷫鷞という馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い、夫のために、美酒に換えるほどで、龍の縫い模様のある舞衣もいまはなんの役にも立たない。

寒苦不忍言,為君奏絲桐。

その貧苦飢寒の有様は、まことにお話にならないくらいであったという、やがてこれを訴えるために、琴を弾き始めたのである。

腸斷弦亦悲心夜忡忡。

断腸のおもいは弦をもまたやめてしまった、夜が更けてゆくままに、物悲しき心は、忡忡として、慰めるたよりもない。

 

(怨歌行)

【自注:長安にて人の出でて嫁する見る,友人 余をして代って之を為らしむ。】

十五、漢宮に入り、花顔、春紅を笑う。

君王 玉色を選び,寢に侍す金屏の中。

枕を薦めて夕月よりも嬌なり,衣を卷いて春風を戀う。

寧ろ知らんや 趙飛燕,寵を奪うて 恨 窮まり無きや。
#2

沈憂 能く人を傷ましめ,綠鬢 霜蓬と成る。

一朝 意を得ざれば,世事 徒らに空と為る。

鷫鷞は 美酒に換え,舞衣は 雕龍を罷む。

寒苦 言うに忍ばず,君が為に 絲桐を奏す。

腸 斷えて 弦 亦た,悲心 夜 忡忡

 

 

『怨歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

沈憂能傷人,綠鬢成霜蓬。

一朝不得意,世事徒為空。

鷫鷞換美酒,舞衣罷雕龍。

寒苦不忍言,為君奏絲桐。

腸斷弦亦,悲心夜忡忡
詩文(含異文):#2

沈憂能傷人,綠鬢成霜蓬。一朝不得意,世事徒為空。

鷫鷞換美酒,舞衣罷雕龍【舞衣罷雕籠】。寒苦不忍言,為君奏絲桐。

腸斷弦亦,悲心夜忡忡。


(下し文)
#2

沈憂 能く人を傷ましめ,綠鬢 霜蓬と成る。

一朝 意を得ざれば,世事 徒らに空と為る。

鷫鷞は 美酒に換え,舞衣は 雕龍を罷む。

寒苦 言うに忍ばず,君が為に 絲桐を奏す。

腸 斷えて 弦 亦た,悲心 夜 忡忡

(現代語訳)
#2

かくて深き憂いに沈んだ揚句には、緑の鬢も、霜を帯びた蓬の如く乱れて、そそけて仕舞った。

その不得意の極み、一朝宮中を辭して、人に嫁することに成ったが、世事は、いたずらに 予期に反し空しいものだ。

卓文君は貧苦のあまりに、鷫鷞という馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い、夫のために、美酒に換えるほどで、龍の縫い模様のある舞衣もいまはなんの役にも立たない。

その貧苦飢寒の有様は、まことにお話にならないくらいであったという、やがてこれを訴えるために、琴を弾き始めたのである。

断腸のおもいは弦をもまたやめてしまった、夜が更けてゆくままに、物悲しき心は、忡忡として、慰めるたよりもない。


(訳注) #2

怨歌行

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、長信宮で貧苦飢寒の有様で、悲しく過ごした)

 

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

李白の自註(宮人が寵を失い、それに因って、辞して出で、それが人に嫁したに就いて、その宮人に代り、その人の心持になって作ったのである。

李白の怨歌行は、班捷伃の詩に、依傍したものである。なお、妃嬪が寵愛を失って、持して民間に嫁しづく例は少ない。

『古詩源』では《怨歌行》、『玉台新詠』で《怨詩》とする。相和歌辞・楚調曲。

同様の趣に 、謝玄暉 (謝朓) 《玉階怨》  「夕殿下珠簾,流螢飛復息。長夜縫羅衣,思君此何極。」(夕殿 珠簾を下し,流螢 飛び 復(また) (とま)る。長夜 羅衣を 縫ひ,君を思うこと 此に なんぞ 極(きわ)まらん。)

『金谷聚』 「渠碗送佳人,玉杯邀上客。車馬一東西,別後思今夕。」(渠碗(きょわん) 佳人を 送り,玉杯 上客を 邀(むか)ふ。車馬 一(ひとたび) 東西にせられ,別後 今夕を 思はん。)

李白   『怨情』    「美人捲珠簾,深坐嚬蛾眉。但見涙痕濕,不知心恨誰。」(美人 珠簾を捲き、深く坐して蛾眉を顰【ひそ】む。但 見る 涙痕の湿を、知らず 心に誰をか恨む。 ) 

李白  《紫藤樹》「紫藤掛雲木、花蔓宜陽春。密葉隠歌島、香風留美人。」

李白  《客中行》「蘭陵美酒鬱金香,玉碗盛來琥珀光。但使主人能醉客,不知何處是他鄕。」

王維《班婕妤》 「怪來妝閣閉,朝下不相迎。總向春園裏,花間笑語聲。」(怪しむらくは妝閣【さうかく】の 閉づることを,朝より下りて  相ひ迎へず。總て春園の裏に 向いて,花間 笑語の聲。)

班婕妤《怨詩》  

新裂齊紈素,皎潔如霜雪。 裁爲合歡扇,團團似明月。

出入君懷袖,動搖微風發。常恐秋節至,涼風奪炎熱。

棄捐篋笥中,恩情中道絶。

班婕妤(倢伃) (生没年不詳)は中国前漢の成帝の愛人。班況の娘で、班固や班超の従祖母に当たる女性。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。長信宮に世を避けた倢伃は、悲しんで「怨歌行」を作る。その詩は『文選』『玉台新詠』『楽府詩集』『古詩源』などに載せられる。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。晋の陸機や唐の王維、王昌齢「西宮春怨・長信秋詞」などがそれである

怨歌行 班婕妤(倢伃) 漢詩<111>玉台新詠集 女性詩547 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1458

曹植 《怨歌行》
為君既不易,為臣良獨難。忠信事不顯,乃有見疑患。
周公佐成王,金縢功不刋。推心輔王政,二叔反流言。
待罪居東國,泣涕常流連。皇靈大動變,震雷風且寒。

拔樹偃秋稼,天威不可干。素服開金縢,感悟求其端。

公旦事既顯,成王乃哀嘆。吾欲竟此曲,此曲悲且長。

今日樂相樂,別後莫相忘。

怨歌行 曹植 魏詩<53-#1>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2033

怨歌行 曹植 魏詩<53-#1>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2033

溫庭筠《清平樂二首其一》「新清平思同輦,爭那長安路遠。」(新しい歳に変わっても、世の中が清らかに治まっていても、彼女らは、漢の班捷伃が「同輦を辞」したような思いでいる。何せ、天子の寵愛を爭おうとしても天子の入る長安までの道のりは遠いのである。)

1-62-410《清平樂二首其一》温庭筠Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-593-1-62-(410) 二巻漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4512

 

沈憂能傷人,綠鬢成霜蓬。

かくて深き憂いに沈んだ揚句には、緑の鬢も、霜を帯びた蓬の如く乱れて、そそけて仕舞った。

沈憂 沈に深に同じ。

 

一朝不得意,世事徒為空。

その不得意の極み、一朝宮中を辭して、人に嫁することに成ったが、世事は、いたずらに 予期に反し空しいものだ。

 

鷫鷞換美酒,舞衣罷雕龍。

卓文君は貧苦のあまりに、鷫鷞という馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い、夫のために、美酒に換えるほどで、龍の縫い模様のある舞衣もいまはなんの役にも立たない。

○鷫鷞 西京雑記「相加、はじめ文君と成都に遷る、貧に居て愁懣し、著くるところの鷫鷞裘を以て、市入楊昌に就いて酒な貰り、文君と歓を爲す」とある。《史記·司馬相如傳》家貧,以鷫鷞裘貰酒。一作肅爽。馬名。

相如は妻と一緒に臨卭に戻り、馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い取った。妻の文君はその飲み屋のママとなり、酒樽の横で客の接待をした。夫の相如はふんどし一つで下働きの男に混じって働き、臨きょうの繁華街で皿洗いのバイトをした。

李白  《巻三19- 白頭吟》「鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。」

司馬相如が馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い取った酒屋で卓文君と一緒に働いて築いたものはそのままにされ錦の屏風に裘は置かれたままになった、司馬相如の一度おかした他の女への心変わりは取り戻すことのできないことなのである。

743年(22)李白341-#9 巻三19-《白頭吟》 341-#9Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白341-#9> Ⅰ李白詩1675 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6923

雕龍 舞衣の上に、雕画せる龍文を言う。刺繍による龍の模様。

 

寒苦不忍言,為君奏絲桐。

その貧苦飢寒の有様は、まことにお話にならないくらいであったという、やがてこれを訴えるために、琴を弾き始めたのである。

 

腸斷弦亦悲心夜忡忡。

断腸のおもいは弦をもまたやめてしまった、夜が更けてゆくままに、物悲しき心は、忡忡として、慰めるたよりもない。

743年(26)李白346 巻四07-《怨歌行【長安見內人出嫁,友人令余代為之。】》(十五入漢宮,) 346Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(26)  Ⅰ李白詩1683 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6963

李白  怨歌行

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

十五入漢宮,花顏笑春紅。君王選玉色,侍寢金屏中。

薦枕嬌夕月,卷衣戀春風。寧知趙飛燕,奪寵恨無窮。

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、長信宮で貧苦飢寒の有様で、悲しく過ごした)李白の自註(宮人が寵を失い、それに因って、辞して出で、それが人に嫁したに就いて、その宮人に代り、その人の心持になって作ったのである。

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、花の如き顔は、紅なる春の花を嘲り笑うばかりの美しさであった。君王は数多い妃嬪から絶色を選ばれ、やがて、御召しに成って、金房の中に於いて添い臥しをすることに成った。かくて、枕を薦める其の風情は、夕月よりも媚かしく、衣を脱ぎかへる英姿は、春風よりも情ありげに見えて、君寵を得たのも、尤もとうなずかれるものであった。しかも、其処に魂胆があるわけでなく、趙飛燕という踊り子の女が、突然、後宮に入ってきて、我が寵を奮い、それによって無窮の恨を懐くようになろうとは思いもしなかった。

743年(26)李白346 巻四07-《怨歌行【長安見人出嫁,友人令余代為之。】》(十五入漢宮,) 346Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-26)  Ⅰ李白詩1683 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6963

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-26

卷別:卷一六四    文體:    樂府

詩題:怨歌行

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

怨歌行

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、長信宮で貧苦飢寒の有様で、悲しく過ごした)

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

李白の自註(宮人が寵を失い、それに因って、辞して出で、それが人に嫁したに就いて、その宮人に代り、その人の心持になって作ったのである。

十五入漢宮,花顏笑春紅。

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、花の如き顔は、紅なる春の花を嘲り笑うばかりの美しさであった。

君王選玉色,侍寢金屏中。

君王は数多い妃嬪から絶色を選ばれ、やがて、御召しに成って、金房の中に於いて添い臥しをすることに成った。

薦枕嬌夕月,卷衣戀春風。

かくて、枕を薦める其の風情は、夕月よりも媚かしく、衣を脱ぎかへる英姿は、春風よりも情ありげに見えて、君寵を得たのも、尤もとうなずかれるものであった。

寧知趙飛燕,奪寵恨無窮。

しかも、其処に魂胆があるわけでなく、趙飛燕という踊り子の女が、突然、後宮に入ってきて、我が寵を奮い、それによって無窮の恨を懐くようになろうとは思いもしなかった。

#2

沈憂能傷人,綠鬢成霜蓬。

一朝不得意,世事徒為空。

鷫鷞換美酒,舞衣罷雕龍。

寒苦不忍言,為君奏絲桐。

腸斷弦亦悲心夜忡忡。

 

(怨歌行)

【自注:長安にて人の出でて嫁する見る,友人 余をして代って之を為らしむ。】

十五、漢宮に入り、花顔、春紅を笑う。

君王 玉色を選び,寢に侍す金屏の中。

枕を薦めて夕月よりも嬌なり,衣を卷いて春風を戀う。

寧ろ知らんや 趙飛燕,寵を奪うて 恨 窮まり無きや。
#2

沈憂 能く人を傷ましめ,綠鬢 霜蓬と成る。

一朝 意を得ざれば,世事 徒らに空と為る。

鷫鷞は 美酒に換え,舞衣は 雕龍を罷む。

寒苦 言うに忍ばず,君が為に 絲桐を奏す。

腸 斷えて 弦 亦た,悲心 夜 忡忡

 

『怨歌行』 現代語訳と訳註解説
(本文)

怨歌行

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

十五入漢宮,花顏笑春紅。

君王選玉色,侍寢金屏中。

薦枕嬌夕月,卷衣戀春風。

寧知趙飛燕,奪寵恨無窮。
詩文(含異文)怨歌行#1

十五入漢宮,花顏笑春紅。君王選玉色,侍寢金屏中【侍寢錦屏中】。

薦枕嬌夕月,卷衣戀春風【卷衣戀香風】。寧知趙飛燕,奪寵恨無窮。


(下し文)
怨歌行

【自注:長安にて人の出でて嫁する見る,友人 余をして代って之を為らしむ。】

十五、漢宮に入り、花顔、春紅を笑う。

君王 玉色を選び,寢に侍す金屏の中。

枕を薦めて夕月よりも嬌なり,衣を卷いて春風を戀う。

寧ろ知らんや 趙飛燕,寵を奪うて 恨 窮まり無きや。

(現代語訳)
班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、長信宮で貧苦飢寒の有様で、悲しく過ごした)

李白の自註(宮人が寵を失い、それに因って、辞して出で、それが人に嫁したに就いて、その宮人に代り、その人の心持になって作ったのである。

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、花の如き顔は、紅なる春の花を嘲り笑うばかりの美しさであった。

君王は数多い妃嬪から絶色を選ばれ、やがて、御召しに成って、金房の中に於いて添い臥しをすることに成った。

かくて、枕を薦める其の風情は、夕月よりも媚かしく、衣を脱ぎかへる英姿は、春風よりも情ありげに見えて、君寵を得たのも、尤もとうなずかれるものであった。

しかも、其処に魂胆があるわけでなく、趙飛燕という踊り子の女が、突然、後宮に入ってきて、我が寵を奮い、それによって無窮の恨を懐くようになろうとは思いもしなかった。


(訳注)

怨歌行

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、長信宮で貧苦飢寒の有様で、悲しく過ごした)

 

【自注:長安見人出嫁,友人令余代為之。】

李白の自註(宮人が寵を失い、それに因って、辞して出で、それが人に嫁したに就いて、その宮人に代り、その人の心持になって作ったのである。

李白の怨歌行は、班捷伃の詩に、依傍したものである。なお、妃嬪が寵愛を失って、持して民間に嫁しづく例は少ない。

『古詩源』では《怨歌行》、『玉台新詠』で《怨詩》とする。相和歌辞・楚調曲。

同様の趣に 、謝玄暉 (謝朓) 《玉階怨》  「夕殿下珠簾,流螢飛復息。長夜縫羅衣,思君此何極。」(夕殿 珠簾を下し,流螢 飛び 復(また) (とま)る。長夜 羅衣を 縫ひ,君を思うこと 此に なんぞ 極(きわ)まらん。)

『金谷聚』 「渠碗送佳人,玉杯邀上客。車馬一東西,別後思今夕。」(渠碗(きょわん) 佳人を 送り,玉杯 上客を 邀(むか)ふ。車馬 一(ひとたび) 東西にせられ,別後 今夕を 思はん。)

李白   『怨情』    「美人捲珠簾,深坐嚬蛾眉。但見涙痕濕,不知心恨誰。」(美人 珠簾を捲き、深く坐して蛾眉を顰【ひそ】む。但 見る 涙痕の湿を、知らず 心に誰をか恨む。 ) 

李白  《紫藤樹》「紫藤掛雲木、花蔓宜陽春。密葉隠歌島、香風留美人。」

李白  《客中行》「蘭陵美酒鬱金香,玉碗盛來琥珀光。但使主人能醉客,不知何處是他鄕。」

王維《班婕妤》 「怪來妝閣閉,朝下不相迎。總向春園裏,花間笑語聲。」(怪しむらくは妝閣【さうかく】の 閉づることを,朝より下りて  相ひ迎へず。總て春園の裏に 向いて,花間 笑語の聲。)

班婕妤《怨詩》  

新裂齊紈素,皎潔如霜雪。 裁爲合歡扇,團團似明月。

出入君懷袖,動搖微風發。常恐秋節至,涼風奪炎熱。

棄捐篋笥中,恩情中道絶。

班婕妤(倢伃) (生没年不詳)は中国前漢の成帝の愛人。班況の娘で、班固や班超の従祖母に当たる女性。成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。長信宮に世を避けた倢伃は、悲しんで「怨歌行」を作る。その詩は『文選』『玉台新詠』『楽府詩集』『古詩源』などに載せられる。失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い。晋の陸機や唐の王維、王昌齢「西宮春怨・長信秋詞」などがそれである

怨歌行 班婕妤(倢伃) 漢詩<111>玉台新詠集 女性詩547 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1458

曹植 《怨歌行
為君既不易,為臣良獨難。忠信事不顯,乃有見疑患。
周公佐成王,金縢功不刋。推心輔王政,二叔反流言。
待罪居東國,泣涕常流連。皇靈大動變,震雷風且寒。

拔樹偃秋稼,天威不可干。素服開金縢,感悟求其端。

公旦事既顯,成王乃哀嘆。吾欲竟此曲,此曲悲且長。

今日樂相樂,別後莫相忘。

怨歌行 曹植 魏詩<53-#1>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2033

怨歌行 曹植 魏詩<53-#1>古詩源 巻五 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2033

溫庭筠《清平樂二首其一》「新清平思同輦,爭那長安路遠。」(新しい歳に変わっても、世の中が清らかに治まっていても、彼女らは、漢の班捷伃が「同輦を辞」したような思いでいる。何せ、天子の寵愛を爭おうとしても天子の入る長安までの道のりは遠いのである。)

1-62-410《清平樂二首其一》温庭筠Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-593-1-62-(410) 二巻漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4512

 

十五入漢宮,花顏笑春紅。

班家の箱入り娘であった十五の時、召されて漢宮に入り、花の如き顔は、紅なる春の花を嘲り笑うばかりの美しさであった。

○十五 十数歳に達した「良家の子女」は、後宮のある種の選抜をへて多数宮廷に入ったのであるが、彼女たちの中のほんの少しの者だけが幸運を得て妃嬢に列し、大多数の者は名もなき宮女のままで生涯を終えたのである。このように良家の子女を選抜するのが、宮廷女性の主要な来源であり、宮廷女性の中で少なからざる比率を占めていた。

○入漢宮 『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。八十一御妻の皇后を除き、総称として「妃嬪」と呼ぶ。妃嬪選抜に漏れたものは、宮女として、二十二歳程度で解放される。

皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

 

君王選玉色,侍寢金屏中。

君王は数多い妃嬪から絶色を選ばれ、やがて、御召しに成って、金房の中に於いて添い臥しをすることに成った。

○君王 班捷伃、趙飛燕の時、前漢十一代皇帝、成帝(在位期間, 33 - 7年の24年間)である。

○選玉色 君王が直接に妃嬪を選定することはないが、宮女の中のものを妃賓に抜擢することは通常のこととしてあった。

○侍寢金屏中 そうして、一度になるか長期的な寵愛を得ることになるかは、寝牀のこととなってゆく。

 

薦枕嬌夕月,卷衣戀春風。

かくて、枕を薦める其の風情は、夕月よりも媚かしく、衣を脱ぎかへる英姿は、春風よりも情ありげに見えて、君寵を得たのも、尤もとうなずかれるものであった。

薦枕 ベッドに誘うこと。

○夕月:蛾眉などと同じようにつかわれ、,三日月、蛾の触角のように細長く曲がってくっきりと目立つ,美人の眉のことをいい、美人の女性をさす。 3前後, 夕月 (ゆうづき), 夕方見える月のことで,三日月を指すことが多い。

 

寧知趙飛燕,奪寵恨無窮。

しかも、其処に魂胆があるわけでなく、趙飛燕という踊り子の女が、突然、後宮に入ってきて、我が寵を奮い、それによって無窮の恨を懐くようになろうとは思いもしなかった。

○趙飛燕 前漢末期の皇帝である成帝(在位前32~前7)の皇后。卑賤(ひせん)の生まれから身をおこして陽阿主(ようあしゆ)に仕え、そこで歌舞を習得し、偶然陽阿主の家を訪れた成帝の目に留まって妹とともに後宮入りし、ついには皇后となった。しかし前漢王朝きっての放恣(ほうし)な皇帝が、ある夜突然死去したために、成帝とその夜をともにした妹に嫌疑がかかり妹は自殺に追い込まれてしまう。やがて宮廷内で王莽(おうもう)の勢力が伸張すると、飛燕もただの庶人に格下げされて、妹の後を追う。このように卑賤の身から一転して後宮の栄華をほしいままにし、最後には凋落(ちょうらく)の道をたどる趙飛燕姉妹の波瀾(はらん)の生涯は、やがて文学作品『趙飛燕外伝』となった。この作品は、彼女の血縁者から直接聞き取りの形で書き上げられたと伝えられるが、実際には後世の偽作とされる。

趙合徳:成帝の妃で婕妤から昭儀に進んだ。姉である趙皇后(趙飛燕)の妹で、姉と共に皇帝の寵愛を欲しいままにしたと言われる。成帝とその夜をともにしていた時、突然死去したために、嫌疑がかかり自殺においこまれた。合徳に関する記述の殆どは後漢~唐代の頃に書かれたと思われる『飛燕外伝』にある。

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李白  君子有所思行#3

歌鐘樂未休,榮去老還逼。圓光過滿缺,太陽移中昃。

不散東海金,何爭西飛匿。無作牛山悲,惻愴淚沾臆。

されば、今しも、「開元の治」といわれ、太平の御世にあたり、鐘を鳴らして、「一芸に秀でたもの」を集め、歌に和する音楽はとこしえにやまないが、奈何せん、栄華は流水の如く、とかく去り易いもので、老も亦た、逼ってくるもの、誰でも始終若くているわけには行かないのである。たとえば、十五夜の月が満ちると、直にかけ始めるように、又、太陽が其地の子午線に到達すれば、やがて影が斜になると同じく、如何なる物でも、最盛絶頂は、即ち衰微の第一歩である。そこで、疏廣が晩年家居して、天子や東宮から頂戴した金を惜し気もなく使い果したようにせず、ケチな眞似をして金を貯へて置いたところで、日が西に走って、やがて匿くれるのを防ぎ止めることは、できはしないし、すぐに死は来るのである。むかし、齋の景公は牛山に登って、「どうしようもないのか、この広大なすばらしい国を棄てて死んでしまうのか」と欺息し、悽惻悲愴の極、涙は流れて胸間をうるおしたというが、そうしたところで、仕方がないのであり、盈満を戒めて、自ら其身を慎まねばならないということなのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    君子有所思行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              紫閣峰 (京畿道 無第二級行政層級 終南山)    

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

牛山 (河南道 青州 牛山)   

 

 

君子有所思行

(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

紫閣連終南,青冥天倪色。

紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。

憑崖望咸陽,宮闕羅北極。

長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。

萬井驚畫出,九衢如絃直。

その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

#2

渭水銀河清,橫天流不息。

長安の配置は宇宙観に基づき、北を西から東へ貫く渭水は、銀河が澄み渡って天上に横わるが如く、日夜流れて止まない。

朝野盛文物,衣冠何翕赩。

今しも朝廷は、朝野を通じて、服章は、すっかり整い、衣冠は、まことに美美しい。

馬散連山,軍容威域。

それから、一方では武強・強兵に力を注ぎ、皇帝牧場、「閑厩」の名馬は、到るところの連山に牧養せられ、又北衙が騎馬軍団であったことから、その軍事力を支えた皇帝牧場を強化し、玄宗の政権掌握を実現させ、親衛兵系統の「龍武軍」の発展は、北衙禁軍の行き着き、遠く絶域を成服したのである。

伊皋運元化,衛霍輸筋力。

玄宗皇帝の宰臣は、さながら商代名相伊尹であり、堯帝の法官である皐陶の如くであり、造化と同じように至治を布いている、武将は、これもまた、漢武帝の衛青と霍去病に此すべく、筋力を致して、国力、領土を有史以来、最大のものにしたのである。

#3

歌鐘樂未休,榮去老還逼。

されば、今しも、「開元の治」といわれ、太平の御世にあたり、鐘を鳴らして、「一芸に秀でたもの」を集め、歌に和する音楽はとこしえにやまないが、奈何せん、栄華は流水の如く、とかく去り易いもので、老も亦た、逼ってくるもの、誰でも始終若くているわけには行かないのである。

圓光過滿缺,太陽移中昃。

たとえば、十五夜の月が満ちると、直にかけ始めるように、又、太陽が其地の子午線に到達すれば、やがて影が斜になると同じく、如何なる物でも、最盛絶頂は、即ち衰微の第一歩である。

不散東海金,何爭西飛匿。

そこで、疏廣が晩年家居して、天子や東宮から頂戴した金を惜し気もなく使い果したようにせず、ケチな眞似をして金を貯へて置いたところで、日が西に走って、やがて匿くれるのを防ぎ止めることは、できはしないし、すぐに死は来るのである。

無作牛山悲,惻愴淚沾臆。

むかし、齋の景公は牛山に登って、「どうしようもないのか、この広大なすばらしい国を棄てて死んでしまうのか」と欺息し、悽惻悲愴の極、涙は流れて胸間をうるおしたというが、そうしたところで、仕方がないのであり、盈満を戒めて、自ら其身を慎まねばならないということなのである。

(君子有所思行)#1

紫閣は終南に連り,青冥 天倪の色。

崖に憑って咸陽を望めば,宮闕 北極を羅ぬ。

萬井 畫き出づるかと驚き,九衢 絃の如く直なり。
#2

渭水 銀河清く,天に橫って流れ息まず。

朝野 文物 盛なり,衣冠 何ず翕赩。

馬 連山に散じ,軍容 域をす。

伊皋は 元化を運し,衛 霍 筋力を輸す。

#3

歌鐘 樂 未だ休まず,榮 去って 老 還た逼る。

圓光 滿を過ぐれば缺け,太陽 中を移れば昃す。

東海の金を散ぜざれば,何ぞ西飛の匿るるを爭わん。

牛山の悲しみを作,惻愴 淚 臆を沾すこと無れ。

 

 

『君子有所思行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

歌鐘樂未休,榮去老還逼。

圓光過滿缺,太陽移中昃。

不散東海金,何爭西飛匿。

無作牛山悲,惻愴淚沾臆。

詩文(含異文)#3

歌鐘樂未休【歌鐘樂休明】,榮去老還逼。圓光過滿缺,太陽移中昃。

不散東海金,何爭西飛匿【何爭西輝匿】。無作牛山悲,惻愴淚沾臆。


(下し文)
#3

歌鐘樂未休,榮去老還逼。

圓光過滿缺,太陽移中昃。

不散東海金,何爭西飛匿。

無作牛山悲,惻愴淚沾臆。


(現代語訳)
#3

されば、今しも、「開元の治」といわれ、太平の御世にあたり、鐘を鳴らして、「一芸に秀でたもの」を集め、歌に和する音楽はとこしえにやまないが、奈何せん、栄華は流水の如く、とかく去り易いもので、老も亦た、逼ってくるもの、誰でも始終若くているわけには行かないのである。

たとえば、十五夜の月が満ちると、直にかけ始めるように、又、太陽が其地の子午線に到達すれば、やがて影が斜になると同じく、如何なる物でも、最盛絶頂は、即ち衰微の第一歩である。

そこで、疏廣が晩年家居して、天子や東宮から頂戴した金を惜し気もなく使い果したようにせず、ケチな眞似をして金を貯へて置いたところで、日が西に走って、やがて匿くれるのを防ぎ止めることは、できはしないし、すぐに死は来るのである。

むかし、齋の景公は牛山に登って、「どうしようもないのか、この広大なすばらしい国を棄てて死んでしまうのか」と欺息し、悽惻悲愴の極、涙は流れて胸間をうるおしたというが、そうしたところで、仕方がないのであり、盈満を戒めて、自ら其身を慎まねばならないということなのである。


(訳注) #3

君子有所思行

(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

楽府古題要解 君子有所思行、“陸機「命賀登北山」、鮑照「西山登雀臺」、沈約「晨策終南首」,其旨言雕室麗色,不足為久歡,晏安酖毒,滿盈所宜敬忌,與《君子行》也。”(陸機「賀を命ぜられ北山に登る」、鮑照「西山雀臺に登る」、沈約「晨策 終南首」,其の旨、雕室麗色,久歡を為すに足らず,晏安酖毒,滿盈は宜しく敬忌すべき所,《君子行》となるを言う。)とあって、李白の此作も、矢張、その古意を踏襲したのである。また、謝靈運《君子有所思行》「總駕越鍾陵,還願望京畿,躑躅周名都,遊目倦忘歸,」(總駕【そうが】は鍾陵【しょうりょう】を越え,還た願って京畿を望む,躑躅【てきちょく】名都を周り,遊目し倦【う】みて歸るを忘る,)

陸機、鮑照、沈約は山に登ることを例えに、謝靈運は、官を辞して車馬での帰郷を例えに王朝の滿盈を戒める詩を作ったのである。

君子有所思行 謝霊運(康楽) 詩<75-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩500 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1317

君子有所思行 謝霊運(康楽) 詩<75-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩501 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1320

 

歌鐘樂未休,榮去老還逼。

されば、今しも、「開元の治」といわれ、太平の御世にあたり、鐘を鳴らして、「一芸に秀でたもの」を集め、歌に和する音楽はとこしえにやまないが、奈何せん、栄華は流水の如く、とかく去り易いもので、老も亦た、逼ってくるもの、誰でも始終若くているわけには行かないのである。

歌鐘樂未休 鐘を鳴らして、歌に和する音楽は、長しえにやまない。玄宗の前半の治世は「開元の治」と称され、唐の絶頂期と評価されている。玄宗が行った政策は仏教僧達の度牒(現在に例えれば宗教法人資格)の見直し、税制改革、節度使制の導入などである。これらの玄宗初期の政策を玄宗の下で行ったのは武則天に見出された姚崇・宋璟の両宰相である。玄宗が楊貴妃を寵愛していた間に朝政を運営したのは、宰相・李林甫である。李林甫は政治能力は高いが、その性格は悪辣な面があると評され、政敵を策略により次々と失脚させている。

 

圓光過滿缺,太陽移中昃。

たとえば、十五夜の月が満ちると、直にかけ始めるように、又、太陽が其地の子午線に到達すれば、やがて影が斜になると同じく、如何なる物でも、最盛絶頂は、即ち衰微の第一歩である。

圓光 十五夜の月。

中昃 その他の子午線

 

不散東海金,何爭西飛匿。

そこで、疏廣が晩年家居して、天子や東宮から頂戴した金を惜し気もなく使い果したようにせず、ケチな眞似をして金を貯へて置いたところで、日が西に走って、やがて匿くれるのを防ぎ止めることは、できはしないし、すぐに死は来るのである。

東海金 疏広と疏受とは官を辞して帰里する。《漢書》卷七十一〈雋疏于薛平彭列傳疏廣(兄子)疏受〉

 

無作牛山悲,惻愴淚沾臆。

むかし、齋の景公は牛山に登って、「どうしようもないのか、この広大なすばらしい国を棄てて死んでしまうのか」と欺息し、悽惻悲愴の極、涙は流れて胸間をうるおしたというが、そうしたところで、仕方がないのであり、盈満を戒めて、自ら其身を慎まねばならないということなのである。

牛山悲 齋の景公の牛山に登り、国を去りて死するを悲しむ

惻愴 悽惻悲愴の極。

臆 胸骨

 

 

《漢書》卷七十一〈雋疏于薛平彭列傳疏廣(兄子)疏受〉~3039

疏廣字仲翁,東海蘭陵人也。少好學,明春秋,家居教授,學者自遠方至。徵為博士太中大夫。地節三年,立皇太子,選丙吉為太傅,廣為少傅。數月,吉遷御史大夫,廣徙為太傅,廣兄子受字公子,亦以賢良舉為太子家令。受好禮恭謹,敏而有辭。宣帝幸太子宮,受迎謁應對,及置酒宴,奉觴上壽,辭禮閑雅,上甚讙。頃之,拜受為少傅。……子外祖父特進平恩侯許伯以為太子少,白使其弟中郎將舜監護太子家。上以問廣,廣對曰:「太子國儲副君,師友必於天下英俊,不宜獨親外家許氏。且太子自有太傅少傅,官屬已備,今復使舜護太子家,視陋,非所以廣太子德於天下也。」上善其言,以語丞相魏相,相免冠謝曰:「此非臣等所能及。」廣繇是見器重,數受賞賜。太子每朝,因進見,太傅在前,少傅在後。父子並為師傅,朝廷以為榮。在位五,皇太子年十二,通論語、孝經。廣謂受曰:「吾聞『知足不辱,知止不殆』,『功遂身退,天之道』也。今仕官至二千石,宦成名立,如此不去,懼有後悔,豈如父子相隨出關,歸老故,以壽命終,不亦善乎?」受叩頭曰:「從大人議。」即日父子俱移病。滿三月賜告,廣遂稱篤,上疏乞骸骨。上以其年篤老,皆許之,加賜黃金二十斤,皇太子贈以五十斤。公卿大夫故人邑子設祖道,供張東都門外,送者車數百兩,辭決而去。及道路觀者皆曰:「賢哉二大夫!」或歎息為之下泣。

 

疏広と疏受とは官を辞して帰里する

皇太子の太傅は疏広と言ったが、彼は蘭陵の人である。 疏広の兄の子が疏受であった。 疏受はその次官、少傅となっていた。 皇太子奭が宮中に参上するたびに疏広と疏受はつきしたがって宣帝に謁した。 疏広は皇太子の前に、疏受はその後ろにいた。共に皇太子の師であったからである。 朝廷の人たちはこのことを名誉なことだとした。 あるとき、 疏広太傅が疏受少傅に言った。

「吾聞く、『足るを知るは辱められず、止まるを知ればすなわち殆あやうからず。 この時に去らなければ必ず後悔あり。』

  今、仕官すること二千石に至り、務めを果たし、名声を得ている。名声を得れば身を引くのが天道であり、 自然の原理である。どうであろう。故郷に帰って年を重ね、生涯を終えるにこしたことはあるまい。」

すると疏受は跪いて疏広に言った。

  「願わくば私もこれに従わせてください。」

そこで二人は宣帝に上奏して言った。

  「病のため暇を乞こうたき存じ上げます。」

宣帝は疏広と疏受に休暇を三ヶ月給した。三ヶ月経つとまた疏広と疏受が上書して言った。

  「病が篤く、郷里にて骸骨を乞いたいと思っております。」

宣帝はこれを許し、黄金二十斤を加賜した。皇太子奭は これとは別に金五十斤を賜った。 疏広と疏受は拝謝してこれを受けた。

 

疏広と疏受が荷物を纏めて都を出るとき、 公・卿・大夫に友人・住民が、祖道を祭って(旅の安全を祈願して)の送別会 を開いた。 東都門の外に会場の幕を張り、見送りの車は数百輛に及んだ。 住民は禁じ得ずに疏広、疏受に言った。

  「賢きなるかなニ大夫!」

疏広と疏受が蘭陵に帰郷すると、 日々酒食を用意し、一族のほかに旧友・客人を招いて共に 一緒に楽しみ、そのつど、賜わった黄金を売って費用に当てた。 ある人が、田地と住宅を買うように勧めた。 疏広は言った。

  「私が思いますに、自分たちはもともと家付きの田地を持っています。 子孫をそこで働かせれば衣食を賄うには充分足ります。この金は帝が老臣を恵み、 慈しみ養うために賜わられたのです。 ですから、郷里の仲間や親族と共にその賜わった金を饗して散らし、 わたしの余生が終わるまで楽しむのです。」

  と。 一族は喜び、心から従った。

 一年経つ頃には下賜された黄金が尽きた。 子供達はそれを見ていて心配になり、一族の父老に節省を勧めるよう頼んだ 父老が疏広に言うと、疏広は言った。

  「私は老いたとはいえ、もちろん子のことを思わないわけがない。 顧みれば我が家には田地がある。 子孫をそこで働かせれば衣食を賄うには充分足る。 それ以上の益を増して、財を大きくすれば、子孫が怠惰になってしまう。 だから財を多く残したところで無益だ。ただその害 のみが恐ろしい。 賢にして財多ければ、則ちその志を損い、愚にして財 多ければ、すなわちその過あやまちを益ます。 (賢くても財産が多くあれば、高い志を抱きながら安楽に流れてかえってその志を失い、 愚で財産が多くあれば、放蕩に走って過ちを増す。)ついには自ら亡ぶところになりにけり。」

  それを聞いた子供達は財について口にすることがなくなった。 疏広と疏受は余金も使い果たし、家に財産を残さなかった。 二人とも天寿を全うして逝去した。

  さて、時に世は太平。民衆は各々富を手に入れていたが、足るを知らなかった。 昭帝の時代以来、民衆は美しい物、衣服、飾り、金銀宝石、玉璧に鼈甲、象牙、 美味なる物を求めていた。民衆がこれだけ奢侈に走るのは有史以来最高潮であった。 鳥においては鶏肉や鴨肉、アヒル肉、鶏卵で満足できず、 珍味を求めて野鳥の肉や卵、燕や珍しい鳥の巣や卵などがふんだんに食されるようになっていた。 そのために野鳥の数が減少している、という報告がなされた。

 

 

 

「晏子春秋」

景公登牛山悲去國而死晏子諫第十七

景公遊于牛山,北臨其國城而流涕曰:「若何滂滂去此而死乎!」艾孔、梁丘據皆從而泣.晏子獨笑于旁,公刷涕而顧晏子曰:「寡人今日游悲,孔與據皆從寡人而涕泣,子之獨笑,何也?」

晏子對曰:「使賢者常守之,則太公、桓公將常守之矣;使勇者常守之,則莊公、靈公將常守之矣.數君者將守之,則吾君安得此位而立焉?以其 處之,迭去之,至于君也,而獨為之流涕,是不仁也.不仁之君見一,諂諛之臣見二,此臣之所以獨竊笑也.」

 

景公牛山に登り、国を去りて死するを悲しむ、晏子諌む【第十七】

景公は都、臨淄(りんし)の南郊にある牛山に遊覧して、北にその国城を臨み見て、涙を流して「どうしようもないのか、この広大なすばらしい国を棄てて死んでしまうのか」と言った。 艾孔と梁丘拠はこれに従って泣いた。晏子はひとりかたわらで笑っていた。

公は涙をぬぐって晏子をかえりみて「私は今日の遊が悲しい。孔と拠は私に従って涙を流したのに、お前ひとり笑うのはどうしてか」と言った。

晏子は答えて「もし賢者を登用して久しくこれを守らせるとすれば、 すなわち太公や桓公が久しくこれを守りましょう。 勇者を登用して久しくこれを守らせるとすれば、すなわち霊公、荘公が久しくこれを守りましょう。 歴代の君がこれを守ろうとすれば、いったいわが君はどの地位でそれをなされますか。(もしそうなら、わが君に出番が回ってくることも無かったでしょう。)

代わる代わる君位は継承されて、君に至ったのです。それなのに、自分ひとり『いつまでも死にたくない』と涙を流し永久に国を保有しようとなさるのは、仁(じん)とは申せません。

わたくしめは、不仁の主君とこびへつらう家来とをまのあたりにして笑ったのです」と言った。

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李白  君子有所思行#2

渭水銀河清,橫天流不息。朝野盛文物,衣冠何翕赩。

馬散連山,軍容威域。伊皋運元化,衛霍輸筋力。

長安の配置は宇宙観に基づき、北を西から東へ貫く渭水は、銀河が澄み渡って天上に横わるが如く、日夜流れて止まない。今しも朝廷は、朝野を通じて、服章は、すっかり整い、衣冠は、まことに美美しい。それから、一方では武強・強兵に力を注ぎ、皇帝牧場、「閑厩」の名馬は、到るところの連山に牧養せられ、又北衙が騎馬軍団であったことから、その軍事力を支えた皇帝牧場を強化し、玄宗の政権掌握を実現させ、親衛兵系統の「龍武軍」の発展は、北衙禁軍の行き着き、遠く絶域を成服したのである。玄宗皇帝の宰臣は、さながら商代名相伊尹であり、堯帝の法官である皐陶の如くであり、造化と同じように至治を布いている、武将は、これもまた、漢武帝の衛青と霍去病に此すべく、筋力を致して、国力、領土を有史以来、最大のものにしたのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    君子有所思行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              紫閣峰 (京畿道 無第二級行政層級 終南山)    

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

牛山 (河南道 青州 牛山)   

 

 

君子有所思行

(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

紫閣連終南,青冥天倪色。

紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。

憑崖望咸陽,宮闕羅北極。

長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。

萬井驚畫出,九衢如絃直。

その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

#2

渭水銀河清,橫天流不息。

長安の配置は宇宙観に基づき、北を西から東へ貫く渭水は、銀河が澄み渡って天上に横わるが如く、日夜流れて止まない。

朝野盛文物,衣冠何翕赩。

今しも朝廷は、朝野を通じて、服章は、すっかり整い、衣冠は、まことに美美しい。

馬散連山,軍容威域。

それから、一方では武強・強兵に力を注ぎ、皇帝牧場、「閑厩」の名馬は、到るところの連山に牧養せられ、又北衙が騎馬軍団であったことから、その軍事力を支えた皇帝牧場を強化し、玄宗の政権掌握を実現させ、親衛兵系統の「龍武軍」の発展は、北衙禁軍の行き着き、遠く絶域を成服したのである。

伊皋運元化,衛霍輸筋力。

玄宗皇帝の宰臣は、さながら商代名相伊尹であり、堯帝の法官である皐陶の如くであり、造化と同じように至治を布いている、武将は、これもまた、漢武帝の衛青と霍去病に此すべく、筋力を致して、国力、領土を有史以来、最大のものにしたのである。

#3

歌鐘樂未休,榮去老還逼。

圓光過滿缺,太陽移中昃。

不散東海金,何爭西飛匿。

無作牛山悲,惻愴淚沾臆。

 

(君子有所思行)#1

紫閣は終南に連り,青冥 天倪の色。

崖に憑って咸陽を望めば,宮闕 北極を羅ぬ。

萬井 畫き出づるかと驚き,九衢 絃の如く直なり。
#2

渭水 銀河清く,天に橫って流れ息まず。

朝野 文物 盛なり,衣冠 何ず翕赩。

馬 連山に散じ,軍容 域をす。

伊皋は 元化を運し,衛 霍 筋力を輸す。

#3

歌鐘 樂 未だ休まず,榮 去って 老 還た逼る。

圓光 滿を過ぐれば缺け,太陽 中を移れば昃す。

東海の金を散ぜざれば,何ぞ西飛の匿るるを爭わん。

牛山の悲しみを作,惻愴 淚 臆を沾すこと無れ。

 

 

 

『君子有所思行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

渭水銀河清,橫天流不息。

朝野盛文物,衣冠何翕

馬散連山,軍容威域。

伊皋運元化,衛霍輸筋力。
詩文(含異文):#2

渭水銀河清【渭水清銀河】,橫天流不息。朝野盛文物,衣冠何翕赩。

馬散連山,軍容威域。伊皋運元化,衛霍輸筋力。


(下し文)
#2

渭水 銀河清く,天に橫って流れ息まず。

朝野 文物 盛なり,衣冠 何ず翕

馬 連山に散じ,軍容 域を威す。

伊皋は 元化を運し,衛 霍 筋力を輸す。

(現代語訳)
#2

長安の配置は宇宙観に基づき、北を西から東へ貫く渭水は、銀河が澄み渡って天上に横わるが如く、日夜流れて止まない。

今しも朝廷は、朝野を通じて、服章は、すっかり整い、衣冠は、まことに美美しい。

それから、一方では武強・強兵に力を注ぎ、皇帝牧場、「閑厩」の名馬は、到るところの連山に牧養せられ、又北衙が騎馬軍団であったことから、その軍事力を支えた皇帝牧場を強化し、玄宗の政権掌握を実現させ、親衛兵系統の「龍武軍」の発展は、北衙禁軍の行き着き、遠く絶域を成服したのである。

玄宗皇帝の宰臣は、さながら商代名相伊尹であり、堯帝の法官である皐陶の如くであり、造化と同じように至治を布いている、武将は、これもまた、漢武帝の衛青と霍去病に此すべく、筋力を致して、国力、領土を有史以来、最大のものにしたのである。


(訳注)

#2

渭水銀河清,橫天流不息。

長安の配置は宇宙観に基づき、北を西から東へ貫く渭水は、銀河が澄み渡って天上に横わるが如く、日夜流れて止まない。

渭水 《三輔黃圖》「渭水貫都以象天漢,橫橋南度以法牽牛。」とある。 現在は渭河(ウェイホウ)といい、黄河が南流から東流するあたりで合流するその支流。渭水流域は現在の陝西省の中心部にあたり、新石器時代から開け、周(西周)はこの地に起こり、東方の殷を滅ぼして全土を支配し、この地に都として鎬京を造営した。その後、秦の 咸陽、漢と隋・唐の都長安(現在の西安)が築かれ、長く中国の権力の中心地であり、その時代には関中と言われた。

○銀河 あまのがわ。銀河・経河・河漢・銀漢・雲漢・星漢・天津・漢津等はみなその異名である。《季 秋》詩経の大雅•棫樸、「倬彼雲漢、爲章于天。」小雅大東などに雲漢,銀河,天河がみえる。古詩十九首之十「迢迢牽牛星、皎皎河漢女。」、謝霊運(康楽) 『燕歌行』「誰知河漢淺且清,展轉思服悲明星。」、李商隠『燕臺詩四首 其二』 「直教銀漢堕懐中、未遣星妃鎭來去。」七夕伝説では、織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川である。二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになった。秦州抒情詩(7)  天河 杜甫 <292> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1343 杜甫詩 700- 412

 

朝野盛文物,衣冠何翕赩。

今しも朝廷は、朝野を通じて、服章は、すっかり整い、衣冠は、まことに美美しい。

赩 光色盛貌。文選·嵇康·琴賦:「珍怪琅玕,瑤瑾翕赩。」

 

馬散連山,軍容威域。

それから、一方では武強・強兵に力を注ぎ、皇帝牧場、「閑厩」の名馬は、到るところの連山に牧養せられ、又北衙が騎馬軍団であったことから、その軍事力を支えた皇帝牧場を強化し、玄宗の政権掌握を実現させ、親衛兵系統の「龍武軍」の発展は、北衙禁軍の行き着き、遠く絶域を成服したのである。

馬 玄宗の時、殊に馬を愛養し、天寶十三載には、隴右だけでも三十二萬五千七百頭に上った。

軍容威 開元中、朔方隴右を征したことをいう。馬は、騎馬民族の交易によって購入され、回鶻とは特に大量の絹や茶と引き替えに、馬を交易で手にいれた。唐政府は馬政に力をいれ、辺境の牧場で馬を養育し、そのための機関がつくられていた。北衙が騎馬軍団であったことから、その軍事力を支えた皇帝牧場を強化した。唐の皇帝牧場は「閑厩」といい、親衛兵の拡大と歩調をあわせて発展した。閑厩運営の実権は閑厩使が掌握し、閑厩馬の迅速な出動を指揮したので、政変の成否はこの閑厩使の取り込みにかかっていたという。その閑厩への軍馬供給システム、閑厩馬の基本的な供給源は地方の官営牧場「監牧」にあり、そこから良馬が選抜されて京師に上納されたことを確認し、その選抜システムを馬印の行政方法でおこなった。特に、玄宗の政権掌握を実現させた親衛兵系統の「龍武軍」の発展は、北衙禁軍の行き着いた先が龍武軍であり、この段階での北衙は親衛兵系統が完全に勢力を逆転させて優位に立っていた。龍武軍中心の北衙の安定性こそが、玄宗の長期政権を支えたとする。ただし、辺境地域には節度使という専門兵を配備したので、龍武軍は徐々に戦闘能力を低下させ、結局は安史の乱に対抗できなかったという。唐王朝の馬政の運営を、良馬の中央上納システムの低下は、軍事力低下となったのである。それは、杜甫の馬について、閑厩のシステムの低下を詠った詩はたくさんある。

初唐では、外国と接する辺境には、都護府が統括する「鎮」や「戍」という拠点が置かれた。鎮に配置された兵は500人以下、戍には50人以下であり、鎮戍は太宗時代は千ほど置かれ、総兵力は10万人程度であった。また、「兵募」と呼ばれた臨時の徴兵が行われ、高句麗・新羅・百済との戦いに駆り出されていた。羈縻政策が破綻するにつれ、鎮戍制では対応が不可能となり、異民族の攻撃によって境界線は後退した。そのため、高宗時代頃から、軍鎮という大規模な部隊が置かれるようになり、玄宗時代には、鎮戍は半分程度に減ったが、兵募は国境に常駐し、辺境軍は一時期には60万人以上存在した。これは全て徴兵から成り、「背軍」という逃亡兵が増加した。唐政府は軍鎮を統括するために、都護府制から藩鎮制に710年から切り替え、737年には、軍鎮兵は募兵に変えることとなった。唐政府の軍では、騎馬民族など少数民族の胡人が身につけた騎射技術は威力を発揮し、少数民族出身の「蕃将」たちが太宗時代から武功を立てることが多かった。団錬兵は、団結兵とも呼ばれ、徴兵によるもので、武則天の時代にはじまり、地方の治安維持にあたった。元は騎馬民族から農村を防衛する役目であったが、在地の治安維持のために置かれ、団錬使という武官や州刺史によって率いられた。また、都市には城謗という徴兵による治安維持の兵が置かれた。

 

伊皋運元化,衛霍輸筋力。

玄宗皇帝の宰臣は、さながら商代名相伊尹であり、堯帝の法官である皐陶の如くであり、造化と同じように至治を布いている、武将は、これもまた、漢武帝の衛青と霍去病に此すべく、筋力を致して、国力、領土を有史以来、最大のものにしたのである。

伊皋 ・伊尹,商代名相,中国殷(いん)王朝初期の伝説的宰相。湯王(とうおう)を助け、夏の桀(けつ)王を討って天下を平定した。  皋陶, 舜之大臣,掌刑獄之事。皋陶(皐陶). コウヨウ. 中国神話. 堯帝の法官. 堯(ぎょう)の時代に五刑を定めたとされる神で、裁判で判決を下すのに獬豸(かいち)という聖獣を用いたことで知られる。獬豸は一角の羊で、生まれながらに有罪者を見分けることができる不思議な獣である。

衛霍 漢武帝時代の衛青と霍去病。・【衛青】少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。 その一方で霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分達は豪華なテントの下で宴会を開くような事をしていた。 しかし宮廷でも兵士の間でも霍去病のほうが人気が上であった。衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったらしく、また霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていたようだ。武帝も自身の性格から積極果敢な霍去病をより好んでいた。・【霍去病】(紀元前140 - 紀元前117年)は前漢の武帝時代の武将である。父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。衛青の姉、衛小児の子である。同じく衛青の姉であり、霍去病の叔母にあたる衛子夫が武帝に寵愛されて戻太子を生んだことで皇后に立てられたため、親族にあたる霍去病も武帝に寵愛された 騎射にすぐれており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いている。その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、紀元前121年に驃騎将軍に、更に紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬とされた。 大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病だが、紀元前117年、わずか24歳で病死した。

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李白  君子有所思行

紫閣連終南,青冥天倪色。憑崖望咸陽,宮闕羅北極。萬井驚畫出,九衢如絃直。

(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    君子有所思行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              紫閣峰 (京畿道 無第二級行政層級 終南山)    

終南山 (京畿道 無第二級行政層級 終南山) 別名:南山、秦山               

咸陽 (京畿道 京兆府 咸陽) 別名:秦、咸    

牛山 (河南道 青州 牛山)   

 

 

君子有所思行

(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

紫閣連終南,青冥天倪色。

紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。

憑崖望咸陽,宮闕羅北極。

長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。

萬井驚畫出,九衢如絃直。

その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

#2

渭水銀河清,橫天流不息。

朝野盛文物,衣冠何翕赩。

馬散連山,軍容威域。

伊皋運元化,衛霍輸筋力。

#3

歌鐘樂未休,榮去老還逼。

圓光過滿缺,太陽移中昃。

不散東海金,何爭西飛匿。

無作牛山悲,惻愴淚沾臆。

 

(君子有所思行)#1

紫閣は終南に連り,青冥 天倪の色。

崖に憑って咸陽を望めば,宮闕 北極を羅ぬ。

萬井 畫き出づるかと驚き,九衢 絃の如く直なり。
#2

渭水 銀河清く,天に橫って流れ息まず。

朝野 文物 盛なり,衣冠 何ず翕赩。

馬 連山に散じ,軍容 域をす。

伊皋は 元化を運し,衛 霍 筋力を輸す。

#3

歌鐘 樂 未だ休まず,榮 去って 老 還た逼る。

圓光 滿を過ぐれば缺け,太陽 中を移れば昃す。

東海の金を散ぜざれば,何ぞ西飛の匿るるを爭わん。

牛山の悲しみを作,惻愴 淚 臆を沾すこと無れ。

 

長安皇城宮城00 

 

『君子有所思行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

君子有所思行

紫閣連終南,青冥天倪色。

憑崖望咸陽,宮闕羅北極。

萬井驚畫出,九衢如絃直。

(下し文)
(君子有所思行)

紫閣は終南に連り,青冥 天倪の色。

崖に憑って咸陽を望めば,宮闕 北極を羅ぬ。

萬井 畫き出づるかと驚き,九衢 絃の如く直なり。

(現代語訳)
(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。

長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。

その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。


(訳注)

君子有所思行

(唐の晏安酖毒,滿盈を戒める詩。)

楽府古題要解 君子有所思行、“陸機「命賀登北山」、鮑照「西山登雀臺」、沈約「晨策終南首」,其旨言雕室麗色,不足為久歡,晏安酖毒,滿盈所宜敬忌,與《君子行》也。”(陸機「賀を命ぜられ北山に登る」、鮑照「西山雀臺に登る」、沈約「晨策 終南首」,其の旨、雕室麗色,久歡を為すに足らず,晏安酖毒,滿盈は宜しく敬忌すべき所,《君子行》となるを言う。)とあって、李白の此作も、矢張、その古意を踏襲したのである。また、謝靈運《君子有所思行》「總駕越鍾陵,還願望京畿,躑躅周名都,遊目倦忘歸,」(總駕【そうが】は鍾陵【しょうりょう】を越え,還た願って京畿を望む,躑躅【てきちょく】名都を周り,遊目し倦【う】みて歸るを忘る,)

陸機、鮑照、沈約は山に登ることを例えに、謝靈運は、官を辞して車馬での帰郷を例えに王朝の滿盈を戒める詩を作ったのである。

君子有所思行 謝霊運(康楽) 詩<75-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩500 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1317

君子有所思行 謝霊運(康楽) 詩<75-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩501 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1320

 

紫閣連終南,青冥天倪色。

紫閣峰は、終南山に連り、東は華山、西は太白山に連なって秦嶺山脈山脈となって、長安の南境を割し、空の邊際は、青い色をして貴い気配を作っている。

紫閣連終南 紫閣峰は終南山中の一峰である。峰陰の陰は北をいう。その下に渼陂はつつみの名、長安から南西に約40㎞、卾県の西五里にあり、終南山の諸谷より出て胡公泉を合して陂となる、広さ数里、上に紫閣峰がある、杜甫 《巻1733秋興,八首之八》「昆吾御宿自逶迤,紫閣峰陰入渼陂。」(昆吾 御宿 自ら逶迤いいたり、紫閣の峰陰渼陂に入る。長安の西の方面は、昆吾だの御宿川だのというところのあたりの地形がうねりくねっておる、そこらをとおって終南山の紫閣峰の北、渼陂池へと入込むのである。

紫閣峰・渼陂については、《巻三11城西陂泛舟【案:即渼陂。】》、《巻三12 渼陂行》【陂在鄠縣西五里,周一十四里。】「半陂以南純浸山,動影裊窕沖融間。船舷暝戛雲際寺,水面月出藍田關。」《巻三13 渼陂西南臺》 「錯磨終南翠,顛倒白閣影。崒增光輝,乘陵惜俄頃。」とみえる。

終南 唐の首都長安の南にそびえる終南山。ここでは、終南山や太白山を含め、秦蹴山脈全体を称して南山といっているようである。終南山は、西岳の太白山376m、と中岳の嵩山1440mのあいだにあり、渭水の南、20002900mの山でなる。中国,陝西省南部,秦嶺のうち西安南方の一帯をさす。また秦嶺全体をいう場合もある。その名は西安すなわち長安の南にあたることに由来し,関中盆地では,渭河以北の北山に対し南山とも称する。標高20002900m。北側は大断層崖をなし,断層線にそって驪山(りざん)などの温泉が湧出する。渭河と漢水流域とを結ぶ交通の要所で,子午道などの〈桟道(さんどう)〉が開かれ,しばしば抗争の地ともなった。

青冥 太清と同じで、天上界の最高天のこと。道教三天、三清をいう。「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱。 それぞれ道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ。

天倪 天のきわ、はし、はじめからおわりまで。謝霊運游赤石進帆海詩「溟漲無端倪,虛舟有超越。」(溟漲【みなみのうみ】は端倪【はじ】無きも,虛舟【かろきふね】は 超越する有り。) 底の暗い水のみなぎる海ははてしもない。その上を主役の乗っていない虚しい舟が自然遠くに漂い行くように、望みを捨てた私の舟路は液のまにまに、浮き世のかなたに遠く馳せて行くようである。

 

憑崖望咸陽,宮闕羅北極。

長安の都からは南に紫閣峰の懸崖によって、そびえる終南山、秦嶺山脈山脈が防護しているのを遠く望める、宮闕は巍峨として、皇城の中に太極宮を中心に各宮殿が羅列し、そして、太極宮、朱雀門、明徳門、南北線上に子午道として漢水まで通じ、宇宙観によって整備されている。

○咸陽 晉の宮句であるが、此処では、長安の都という意味に使っている。

○羅北極 秦の宮殿は、北極星を中心に各星々が羅列されていたことから長安皇城において太極宮を中心に各宮殿が羅列されていることを言う。

 

萬井驚畫出,九衢如絃直。

その城郭の中に縦横に整然と町の区画がなされ、闈繞する人民の聚落はさながら描き出せるがごとくあり、その間を通ずる三門三大道の九条の道は弦のごとくまっすぐに整然とした都市計画が施されている。

○萬井 里巷、井の字のように縦横に整然とした町の区画。広い都の町々。人民の住宅。

○九衢 主要門に対して三本の大道、城門は各方位三門設置される。南北に9筋の大道がある。縱橫交叉的大道;繁華的街市。四通八達的道路。楚辭·屈原·天問:「靡蓱九衢,枲華安居。」(靡蓱【びへい】は九衢,枲華【しか】は安にか居る。)とある。
長安城図 作図00李白の足跡0000 

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李白  妾薄命#2

雨落不上天,水覆難再收。君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)

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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  妾薄命

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿         

 

 

妾薄命 #1

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
咳唾落九天,隨風生珠玉。

そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
寵極愛還歇,妒深情卻疏。

天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
長門一步地,不肯暫迴車。

誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

#2

雨落不上天,水覆難再收。

雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。
君情與妾意,各自東西流。

天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。
昔日芙蓉花,今成斷根草。

昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。
以色事他人,能得幾時好。

子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)


漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 
咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。 
寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 
長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。
#2

雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 
君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 
昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。
色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

 

 

『妾薄命』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

雨落不上天,水覆難再收。

君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。

以色事他人,能得幾時好。

詩文(含異文)  漢帝寵阿嬌【漢帝重阿嬌】,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。雨落不上天,水覆難再收【水覆重難收】。君情與妾意,各自東西流。昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

 

 (下し文)
#2

雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。

君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。

昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。

色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

(現代語訳)
雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。
天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。
昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。
子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)

(訳注)

妾薄命 #2

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

妾薄命は、失寵の宮人を詠するを旨とし、曹植の作は、《漢書·孝成許皇后傳》に本づいて、「其餘誠太迫急,奈何?妾薄命,端遇竟寧前。」といい、梁の簡文帝は、名都多麗質、傷良人不返、王牆遠聘、盧姫嫁遅といって居る。李白の此作は、漢の武帝の陳皇后の事を述べ、初は非常に君の寵愛を辱うしたが、のちには廃后の憂き目に遭って、長門宮に幽閉されたといふことを写し、人生の栄顕、まことに恃み難いといふところに同情を寄せたのであるが、もとより、多少の諷意はあると思われる。

皇后といえども、政変、陰謀、その他により、将来はどうなるかわからない、武帝の陳皇后は出自、取り巻き、応援者、すべての条件が整っていて、盤石の体制の中で最強の皇后として後宮に君臨したたのに、自ら墓穴を掘る行動を起こし、死罪を賜るところ、赦を以て長門宮に幽閉された。凡そのことはわかっても死亡の記録は残されていない。

 

雨落不上天、水覆難再收。
雨は落ちてくるものであり、天にむかって上がることはい、こぼされた水は再び元の碗に収まることはないのだ。
雨落 天に上らず、

水覆難再收 覆水盆に返らず。 
 
君情與妾意、各自東西流。
天子の愛情と后妃の思いとが合致していたけれど、ちょうど流れる水が、それぞれ自然に西と東に別れて流れさったようなものだ。
君情 天子の愛情

妾意 后妃の思い

○東西流る。
 

昔日芙蓉花、今成斷根草。
昔は確かに、芙蓉の花のように 華麗に咲く花のような后妃であったが、それも廃位となった今はただ、根無し草となり、飛蓬のように、零落して各地を流浪するしかなくなったのだ。
昔日 むかし。

○芙蓉花 フヨウの花。華麗に咲く花の女王でもある。そのように、天子の側にいて芙蓉花のように愛でられる位置にいたものだった(が)。 

今成 今は…となった。 

斷根草 根無し草。飛蓬、転蓬。 *零落して各地を流浪するさまをいう。

 

以色事他人、能得幾時好。
子孫繁栄のため、色香だけを求められ、それをもって、人につかえることしかできないものが、一体どれほどの期間、すばらしい時間を得ることができるというのだろうか。(皇位継承のめどが立てば、後は気ままに寵愛を行うのは習わしであるから、すぐに捨てられるのである。)
以色 色香をもって。色事で。 

 つかえる。動詞。 ・他人 ほかの人。

○能得 …が可能である。 

 よく。 ○ 得る。 

幾時 どれほどの時間。 ○ よい。
 

其一は園遊をのべ、其二は宴会の楽しみのさまをのべる。制作年代を、建安中の作とする説と、黄初六年、文帝が東征よりの帰途、蕹丘に柾をたずねた時の作との説がある。詩の雰囲気、できばえからすると前者建安中の作と考える。

妾薄命二首 其一 曹植(曹子建)

妾薄命二首 其一

(妾薄命二首 其の一)

攜玉手喜同車,比上雲閣飛除。

玉手を携え 車を同じくするを喜び、此びて 雲闇 飛除に上る。

釣台蹇清虛,池塘靈沼可

釣台は蹇として清虚、池塘 霊沼 娯しむ可し。

仰泛龍舟綠波,俯擢神草枝柯。

仰ぎて竜舟を緑波に汎べ、併しで神草の枝村を擢く。

想彼宓妃洛河,退詠漢女湘娥。

彼の 宓妃の洛河を想い、退きて 漢女と湘蛾を詠ず。

妾薄命二首 其二 曹植(曹子建)

日月既逝西藏,更會蘭室洞房。

日月既に逝きて西に藏【かく】る、更に 蘭室の洞房に会す。

華燈步障舒光,皎若日出扶桑。

華鐙 歩障に光を舒べ、皎として日の扶桑より出づるが若し。

促樽合坐行觴,主人起舞娑盤。

樽を促し坐を合せて觴を行る、主人 起ちて舞うや婆盤たり。

能者穴觸別端,騰觚飛爵闌干。

能者は冗にして別端に触る、觚を騰げ爵を飛ばして闌干たり。

同量等色齊顏,任意交屬所歡。

量を同じくし色を等しくし顔を斉しくす、意に任せて交ごも歓ぶ所に属ぐ。

 

 

朱顏發外形蘭,袖隨禮容極情。

朱顔 外に発【あらわ】れて 形 蘭たり、袖は礼容に随いて情を極め。

妙舞仙仙體輕,裳解履遺纓。

妙舞 仙仙として体軽し、裳 解け履遣りで纓を絶ち。

俯仰笑喧無呈,覽持佳人玉顏。

俯仰し笑喧して呈無し、佳人の玉顔を覧持ち。

齊舉金爵翠盤,手形羅袖良難。

斉しく金爵と翠盤を挙ぐ、手 羅袖より形わるるは良に難く。

腕弱不勝珠環,坐者嘆息舒顏。

腕 弱くして珠環に勝えず、坐する者 嘆息して顔を舒ぶ。

 

 

御巾裛粉君傍,中有霍納都梁,

巾を御し粉を裛う君が傍、中に有り霍納と都梁と。

雞舌五味雜香,進者何人齊姜,

鶏舌と五味の雑香と、進む者は何人ぞ 斉姜なり。

恩重愛深難忘。召延親好宴私,

恩は重く愛は深く 忘れ難し、親好を召延して宴私す。

但歌杯來何遲。客賦既醉言歸,主人稱露未晞。

但だ歌う 杯の来る何んぞ遅きやと、客は賦す 既に酔う言に帰らんと、主人は称す 露未だ晞【かわ】かずと。

 

 

 

《巻三19-白頭吟》「此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。」(此の時 阿嬌 正に嬌妒,獨り長門に坐して 日暮を愁う。)この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

743年(22)李白341 巻三19-《白頭吟》(錦水東北流,) 341Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白341> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

 

《巻三19-白頭吟》「但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。」(但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。)そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。かくて、司馬相加は、陳皇后のために賦をつくり、多分の金が手元に残ったと、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

743年(23)李白341-#2 巻三19-《白頭吟》 341-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(23) <李白341-#2> Ⅰ李白詩1668 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6888

743年(25)李白344 巻三35-《妾薄命》(漢帝寵阿嬌,)#1 344Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(25) <李白344> Ⅰ李白詩1678 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6938

李白  妾薄命 #1

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。

寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

743年(25)李白344 巻三35-《妾薄命》(漢帝寵阿嬌,)#1 344Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-25) <李白344> Ⅰ李白詩1678 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6938

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-25

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  妾薄命

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿         

 

 

妾薄命 #1

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
咳唾落九天,隨風生珠玉。

そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
寵極愛還歇,妒深情卻疏。

天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
長門一步地,不肯暫迴車。

誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。#2

雨落不上天,水覆難再收。

君情與妾意,各自東西流。

昔日芙蓉花,今成斷根草。

以色事他人,能得幾時好。

漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。 
咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。 
寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。 
長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。
#2

雨落 天に上らず、水覆 再び收り難し。 
君情 與 妾意、各々自ら 東西に流る。 
昔日  芙蓉の花,今 成る  斷根の草。
色を以て  他人に事【つか】へ,能【よ】く  幾時【いくとき】の 好【よろし】きを  得たりや。

 

詩文(含異文)  漢帝寵阿嬌【漢帝重阿嬌】,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。雨落不上天,水覆難再收【水覆重難收】。君情與妾意,各自東西流。昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。

 

 

『妾薄命』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

妾薄命 #1

漢帝寵阿嬌,貯之黃金屋。

咳唾落九天,隨風生珠玉。

寵極愛還歇,妒深情卻疏。

長門一步地,不肯暫迴車。
詩文(含異文)  漢帝寵阿嬌【漢帝重阿嬌】,貯之黃金屋。咳唾落九天,隨風生珠玉。寵極愛還歇,妒深情卻疏。長門一步地,不肯暫迴車。雨落不上天,水覆難再收【水覆重難收】。君情與妾意,各自東西流。昔日芙蓉花,今成斷根草。以色事他人,能得幾時好。


(下し文)
(妾薄命)

漢帝 阿嬌 寵【いつく】 しむ、之を黃金の屋に貯【おさ】む。

咳唾【がいだ】 九天に落つ、風隨う 珠玉 生ず。

寵極 愛 還た歇【つきる】、妒み深く 情 卻く疏【うと】んず。

長門 一たび 地を步む、肯って 暫く 回車されず。

(現代語訳)
妾薄命 #1(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。

(訳注)

妾薄命 #1

(漢武帝最初の皇后、幼い時から絶頂期の皇后の時を経て、長門宮に幽閉、何時とはわからず寂しく死んでいった、産んだ子が皇帝にならなければ、皇后でさえもその運命はわからない、寵愛という不確かなものにすがって生きることを詠っている)

妾薄命は、失寵の宮人を詠するを旨とし、曹植の作は、《漢書·孝成許皇后傳》に本づいて、「其餘誠太迫急,奈何?妾薄命,端遇竟寧前。」といい、梁の簡文帝は、名都多麗質、傷良人不返、王牆遠聘、盧姫嫁遅といって居る。李白の此作は、漢の武帝の陳皇后の事を述べ、初は非常に君の寵愛を辱うしたが、のちには廃后の憂き目に遭って、長門宮に幽閉されたといふことを写し、人生の栄顕、まことに恃み難いといふところに同情を寄せたのであるが、もとより、多少の諷意はあると思われる。

皇后といえども、政変、陰謀、その他により、将来はどうなるかわからない、武帝の陳皇后は出自、取り巻き、応援者、すべての条件が整っていて、盤石の体制の中で最強の皇后として後宮に君臨したたのに、自ら墓穴を掘る行動を起こし、死罪を賜るところ、赦を以て長門宮に幽閉された。凡そのことはわかっても死亡の記録は残されていない。

 

宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも孺人【じゅじん】等の媵妾【ようしょう】の身分があった。

 

唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちの八人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、建国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賎である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して彼女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は櫻献(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徴六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。

恐らく天下の議を話すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賎ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婦にされた人であり、憲宗の鄭后、珍宗の斎后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。

 

漢帝寵阿嬌、貯之黃金屋。 
漢の武帝は幼少のときともに遊んだ阿嬌を見初め、いつくしんだ、そして、「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」といい、皇太子妃となって黄金の御殿に迎えて、ついに皇后となされた。
阿嬌 漢の武帝の后の幼名。(漢武故事)。「阿」は親しみを表す語。「嬌」は〕美しい女性。美人。陳皇后(ちん こうごう、生没年不詳)は、前漢の武帝の最初の皇后。武帝の従姉妹に当たる。母は武帝の父である景帝の同母姉の館陶長公主劉嫖、父は堂邑侯陳午である。
《漢武故事》「武帝、數
,長公主嫖抱置膝上,問曰:「兒欲得婦不?」膠東王曰:「欲得婦。」長主指左右長御百餘人,皆云不用。末指其女問曰:「阿嬌好不?」於是乃笑對曰:「好!若得阿嬌作婦,當作金屋貯之也。」長主大悅,乃苦要上,遂成婚焉。」武帝、數,長公主、嫖抱いて膝上に置き,問うて曰く:「兒、婦を得んと欲するや不や?」と。膠東王曰く:「婦を得んと欲す。」長主左右長御百餘人を指し,皆、云う用いず。末に其の女を指し問うて曰く:「阿嬌を好きや不や?」是に於いて乃ち笑って對えて曰く:「好し!若し阿嬌を得ば作婦とす,當に金屋を作って之を貯うべし也。」と。長主大いに悅び,乃ち苦に上に要し,遂に婚を成す。)とある。『漢武故事』によると、館陶長公主は娘を皇太子に娶わせようと思ったが、当時の皇太子である劉栄の母栗姫が長公主と仲が悪かった。そこで長公主は景帝に王夫人の子である劉徹(武帝)を褒め、王夫人を皇后、劉徹を皇太子にすることに成功した。
長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に「阿嬌を得たいかい?」と訊いた。劉徹は「もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ」と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。

 武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ず、わがままと傲慢が助長された。やがて衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、嫉妬心 皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)に廃位され長門宮に幽閉された。
母の館陶長公主は武帝の姉の平陽公主に「皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうして我が娘を捨てるのだ」と訊いたが、平陽公主は「子が出来ないからです」と答えた。皇后は子が出来るようにと医者に多額の金を使ったが、結局子は出来なかった。
十数年後に館陶長公主が死亡し、その数年後には陳皇后も死亡した。

李白の詩「阿嬌」という語が出ている句は以下。

108巻三19白頭吟    「此時阿嬌正嬌妒、獨坐長門愁日暮。」

108巻三19白頭吟    「聞道阿嬌失恩寵、千金買賦要君王。」

124巻三35妾薄命    「漢帝寵阿嬌。 貯之黃金屋。」

 

 

咳唾落九天、隨風生珠玉。 
そこで阿嬌は、君寵をえて、その権力と勢力の盛んなことは、九天の上で吐く唾が風に乗って人に落ちると、それがやがて珠玉に化するという有様であった。
咳唾 せきとつばき。権力・勢力の強いさま。一言一句が珠玉の言葉になること。 
九天 中華思想で天地は九で区分される。地は九州、天は九天、その真ん中を示す語である大空の真ん中。天下の中心。その真ん中に天子、皇帝がいる。宮廷のこと。九重も宮廷。天文学、地理、山、九であらわした。縁起のいい数字とされた。

風隨 かぜのふくままに。

珠玉 生ず。 

 

寵極愛還歇、妒深情卻疏。
天子の寵愛、貴盛が極限まで行ったが、ひとたびその寵愛を失うと実にあさましいものである、もともと、我儘で、嫉妬深い気性は、その情が密で、深いことが度が過ぎて仇になり、嫉妬心が陰謀策力に変わり、深く人の心も疎んじていった。
寵極 天子の寵愛

○愛還歇、別の后妃に移った

妒深 嫉妬心が深く。
 
長門一步地、不肯暫回車
誰も振り返らず、司馬相如の賦を買い、一時は寵愛が戻るも、ついに、長門宮に幽閉され、一切の接触をたたれ、君の御所とはわずかに一歩を隔てるも、その後、君の輦車を回して立ち寄られることはなくなった。
長門 長門宮、長門怨(古くからある歌謡の題。)漢の武帝の陳皇后のために作られたものである。陳皇后は、幼い頃は阿嬌とよぱれ、いとこに当る武帝のお気にいりであったが、帝の寵愛が衛子夫(のちに賢皇后)に移ると、ひどいヤキモチをやいたので、ついに長門宮に幽閉された。長門宮は、長安の東南の郊外にある離宮である。悶悶と苦しんだ彼女は、当時の文豪、司馬相如にたのみ、黄金百斤を与えて、帝の気持をこちらへ向けなおすような長い韻文を作ってもらった。これが「長門の賦」である。後世の人は、その話にもとづき「長門怨」という歌をつくった。

長門怨二首 其一 「天囘北斗挂西樓。 金屋無人螢火流。 月光欲到長門殿。 別作深宮一段愁。」(天は北斗を囘らして西樓に挂かる。 金屋人無く螢火流れる。

月光 到らんと欲す 長門殿。 別に作す 深宮一段の愁。) 天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかった。黄金造りの家には人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛ぶ。月の光が長門殿に差し込んで来ようとした時、 更に宮殿にひとしお憂いが増してゆく。

回車 お立ちよりの車馬、輦車。

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李白  獨不見  #2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。憶與君別年,種桃齊蛾眉。

桃今百餘尺,花落成枯枝。終然獨不見,流淚空自知。

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

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年:743年天寶二年43歳 94-23

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  獨不見

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:黃龍城 (河北道北部 營州 柳城)    

天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山       

 

 

獨不見  #1

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬誰家子,黃龍邊塞兒。

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

天山三丈雪,豈是遠行時。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

春蕙忽秋草,莎雞鳴西池。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

#2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

憶與君別年,種桃齊蛾眉。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
桃今百餘尺,花落成枯枝。

さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

終然獨不見,流淚空自知。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

 

 

『獨不見』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。

憶與君別年,種桃齊蛾眉。

桃今百餘尺,花落成枯枝。

終然獨不見,流淚空自知。

(下し文)
#2

風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。

憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。

桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。

終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

(現代語訳)
#2

やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。


(訳注)#2

獨不見

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

楽府古題要解に「獨不見」は、「思うて見るを得ざるを言ふなり」とあり、胡震亨は「梁の柳惲の本辭、「奉帚長信宮、誰知獨不見」とあり、「唐人、擬するもの多く、《獨不見》の

三字を用ふ」といって居る。


風摧寒椶響、月入霜閨悲。
やがて、椶櫚の上に木枯しの風が吹きつけて、くだくような音を響かせて其皮が地上に散らばる。程なく、冬に成って、一人寝の閨の中に月が差し込む。

寒椶 椶櫚の一種。

霜閨 霜夜の夫のゐない寝室。


憶與君別年、種桃齊蛾眉。
あなたを送り出した別離の年、桃の木を植えたのですそれは私の眉毛の大きさと同じくらいだったのです。そういうことが、年年続いて、いつまで待っても、黄龍邊塞に居る良人は、なかなか掃ってこない。
 この霜の句は別の意味にもとれる。女性を示す語として使用され、「桃栗三年で実を成す。」ここでは桃が妻で、「齊蛾眉」蛾眉を慎んでいた。つまり化粧など全くしないということである。つつましく生活をしているという意味にもとれる。

また、徴兵されて出征する義務が3年であったところから、桃木でそれを表現するのであるが、この詩は、その頃戦況が話題となっていた契丹のことを、景色として借りたもので、4番目の妻宋氏にあてた詩であろうと思う。

桃今百餘尺、花落成枯枝。
さきに、別れた其の年に、小さい桃の木を植えたが、人の背丈位で、わが眉のところまで届く位であったが、今は百余尺の高い木になって、花も咲き、実も結び、やがて、秋に成って、枯枝となった。

○この下の句も、若くてはちきれそうだった桃の様な素肌が衰えてしまったという意味。
 
終然獨不見、流涙空自知。
しかし、良人は矢張、歸ってこない。この分では、死ぬまでも歸らないかも知れないが、この悲しさを知る人もなく、唯だ自ら涙を流すのみである。

○流れる涙は、あなたに拭いてもらいたい。ということで思いが強調されている。男性の青雲の志を女は歯を食いしばって我慢し、支えていくという時代である。
耐え忍んでいる姿をどう表現するか、というのが李白のテーマだったのかもしない。


 別れる時、自分の蛾眉の大きさであった桃が百余尺となり、更に枯れたといって別れの時間の経過の長さをあらわしている。同様に、春の若草がたちまち黄草に変わる。そして自分は轉蓬であるというのが、李白の得意の手法で、人として、好意的に見れるか見れないか分れる所である。李白という詩人が妻と同じところで過ごしていてこれだけの詩が作れるのかというと、それは絶対にできないのである。

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李白  獨不見  #1

白馬誰家子,黃龍邊塞兒。天山三丈雪,豈是遠行時。

春蕙忽秋草,莎雞鳴西池。

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

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年:743年天寶二年43歳 94-23

卷別:  卷一六三        文體:  樂府

詩題:  獨不見

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:黃龍城 (河北道北部 營州 柳城)    

天山 (隴右道西部 無第二級行政層級 天山) 別名:雪山       

 

 

獨不見  #1

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬誰家子,黃龍邊塞兒。

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

天山三丈雪,豈是遠行時。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

春蕙忽秋草,莎雞鳴西池。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

#2

風摧寒棕響,月入霜閨悲。

憶與君別年,種桃齊蛾眉。

桃今百餘尺,花落成枯枝。

終然獨不見,流淚空自知。

獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。

 

 

現代語訳と訳註
(
本文)

獨不見

白馬誰家子。 黃龍邊塞兒。 
天山三丈雪。 豈是遠行時。 
春蕙忽秋草。 莎雞鳴曲池。

 

詩文(含異文)  白馬誰家子,黃龍邊塞兒。天山三丈雪,豈是遠行時。春蕙忽秋草,莎雞鳴西池【莎雞鳴曲池】。風摧寒棕響【風摧寒梭響】,月入霜閨悲。憶與君別年,種桃齊蛾眉。桃今百餘尺,花落成枯枝。終然獨不見,流淚空自知。

 

(下し文)
獨り見えず

白馬たが家の子ぞ、 黄龍辺塞の児。
天山三丈の雪、あにこれ遠行の時ならんや。
春蕙たちまちに秋草 莎雞(さけい) 西池に鳴く。
風は寒棕(かんそう)を摧(くだ)いて響き、月は霜閨に入って悲しむ。
憶ふ君と別るるの年、桃を種ゑて蛾眉に斉し。
桃いま百余尺、花落ちて枯枝と成る。
終然としてひとり見えず、流涙むなしくみづから知る。


(現代語訳)
(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

 

(訳注)
獨不見

(思う人に逢えず、ひとりで空閏を守って居る意味を、女性の言葉で述べたので、李白も、亦た古辭の語意をとって、この一首を作ったのである。)

楽府古題要解に「獨不見」は、「思うて見るを得ざるを言ふなり」とあり、胡震亨は「梁の柳惲の本辭、「奉帚長信宮、誰知獨不見」とあり、「唐人、擬するもの多く、《獨不見》の

三字を用ふ」といって居る。

 

白馬誰家子、黄龍邊塞兒。
白馬に跨り、意気揚揚として、邊塞に出かけた彼の人は、今や契丹と対陣している北方の辺境地域の黄龍塞というところに駐屯して居るとのことである。

黄龍 水經註「白狼水北逕白狼縣故城東,王莽更名伏狄。」契丹との対陣の地。750年以降、安禄山の軍内に契丹軍が入り込んでいた。753年安禄山は契丹を破り契丹内の奚という国の軍を完全支配かにおく。755年の叛乱時は重要な一翼を担った。

邊塞 国境の塞


天山三丈雪、豈是遠行時。
その地は、匈奴に接し、天山山脈といふ高い山々があって、その山頂には三丈の雪が常に積って居るそうで、とても行かれないというのを、無理に、険を冒して遠く従ったのである。

天山 天山山脈、匈奴中の山で、匈奴では白山といい、白山しんこうの家減の山である。古名白山,又名雪山,冬夏つうじて雪が有る。故名,匈奴謂之天山,唐の時、又、折羅漫山と名づく。

遠行 敵地の奥に攻め入ること


春蕙忽秋草、莎雞鳴西池。
さて一度、良人に別れた後は、いつまで待てども、帰って来ることはなく、春、蘭恵が香をはっすると思って居る内に、忽ち変じて秋草の荒蕪となり、その秋草の間なる曲地の傍には、キリギリスの鳴き聲がする。

莎雞 きりぎりす。

春蕙 春咲く蘭の花、

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李白  白頭吟 #9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。妾有秦樓鏡,照心勝照井。願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

司馬相如が馬車と馬をすべて売り払って一軒の飲み屋を買い取った酒屋で卓文君と一緒に働いて築いたものはそのままにされ錦の屏風に裘は置かれたままになった、司馬相如の一度おかした他の女への心変わりは取り戻すことのできないことなのである。

女というものに、その心の内が映し出され、邪心があれば殺されたという咸陽宮の樓鏡というものがあれば、その心を照らし出し、市井の前に照らし出されることに違いないのである。

願うことなら、その鏡をもってきて、司馬相如の新しい人を照らしてもらいたいものだ、其処に映された、相対するかわいい影があった。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。ところが、司馬相如は、卓文君のところにかえ許しを請うてかえったのである。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないもので、一旦そむいた心は元のようにはいかない。たとえば、宋の康王が、韓朋の妻が美しいというので、韓朋に青陵臺を建設させたあと後に、殺したら、妻は後を追って死んだから、後には、せいりょうだいがのこっただけであるということなのだ。

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李白  《白頭吟》#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。莫捲龍鬚席,從他生網絲。且留琥珀枕,還有夢來時。

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

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#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。
#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

淚は雙泉の水の如く,行くゆく紫羅の襟に墮つ。

五更 雞 三唱,清晨 白頭吟。

長吁 整えず 綠 雲鬢,仰いで 青天に訴えて哀怨深し。

城は崩れ 杞梁の妻,誰か道う 土に心無しと。
#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

且留琥珀枕,還有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

東流は作らず 西歸の水,落花 枝を辭して故林を羞ず。

頭上の玉燕釵,是れ妾が嫁時の物。

君に贈って 相思を表し,羅袖 幸時に拂う。

龍鬚の席を捲く莫れ,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ留琥珀の枕,還有夢來時。#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

(下し文)
#8

東流は作らず 西歸の水,落花 枝を辭して故林を羞ず。

頭上の玉燕釵,是れ妾が嫁時の物。

君に贈って 相思を表し,羅袖 幸時に拂う。

龍鬚の席を捲く莫れ,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ留琥珀の枕,還有夢來時。

(現代語訳)
#8

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。


(訳注) #8

 

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

それに、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬということはわかっていることである。

○この二句 《孟子告子篇》告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶 水之無分於東西也。」孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。」

 

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

それでも、卓文君の頭には、お家を守る吉祥の趙婕妤の玉燕も釵を挿していて、これは、嫁入りに実家から持ってきたものである。

24】玉燕釵 玉で燕を作った黄金細工の釵の名。後宮の主として吉祥となった趙婕妤がつけたことからそれが作られたという《洞冥記、卷二》「神女留玉釵以贈帝, 帝以賜 趙婕妤。至 昭帝 元鳳 中,宮人猶見此釵。黃諃 欲之。 明日示之,既發匣,有白燕飛昇天。後宮人學作此釵,因名玉燕釵,言吉祥也。」とある。

 

贈君表相思,羅袖幸時拂。

それにそのころは、「君への思いの心を表す贈り物」もたくさんもらったものだし、薄い絹地の閨着を着て幸せな時を過ごしたものであった。

 

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなど、してはならないのである。

7】 龍鬚席 温鑑証に「龍顔革む以て織り成す、今推上安産府の居人、多く能く寵愛席も織る」とある。 

 

且留琥珀枕,或有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

8】 琥珀枕 太平御覧、廣雅曰:「琥珀珠也、生地中、其上及旁不生、草淺者四五尺、深者八九尺、大如斛、削去皮、成琥珀。初時如桃膠、凝堅乃成。其方人以為枕。出博南縣。」(琥珀は珠なり、地中に生ず、其の上及び旁に草を生ぜず、淺き者は四五尺、深き者は八九尺、大 斛の如く、皮を削り去れば、琥珀を成す。初めの時は桃膠の如く、凝堅 乃ち成る。其の方人 以て枕と為す。博南縣に出ず。)とある。

 

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李白  《白頭吟》#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。城崩杞梁妻,誰道土無心。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

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#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。
#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

淚は雙泉の水の如く,行くゆく紫羅の襟に墮つ。

五更 雞 三唱,清晨 白頭吟。

長吁 整えず 綠 雲鬢,仰いで 青天に訴えて哀怨深し。

城は崩れ 杞梁の妻,誰か道う 土に心無しと。
#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。


(下し文)
#7

淚は雙泉の水の如く,行くゆく紫羅の襟に墮つ。

五更 雞 三唱,清晨 白頭吟。

長吁 整えず 綠 雲鬢,仰いで 青天に訴えて哀怨深し。

城は崩れ 杞梁の妻,誰か道う 土に心無しと。

(現代語訳)
#7

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。


(訳注) #7

白頭吟7 

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

 

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

卓文君は、涕は両の眼から泉の水ようにあふれ出て、拭っても、拭っても頬から紫羅欄花の襟に落ちて濡れてしまって、乾くことがなかった。

紫羅 紫羅欄花 - アブラナ科の多年草。南ヨーロッパ原産。高さ約60センチメートル。葉は互生し長卵形。45月頃,茎頂に十字形花を総状に多数つける。観賞用に栽培し,花の色は白または紅紫色。

 

五更雞三唱,清晨白頭吟。

夜も眠れず、五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた、清らかな空に日が昇り始める頃には、疲れつくして、この「白頭吟」をうたったのである。

五更雞三唱 五更の声を聴き、鶏が朝を告げるのも三度も聞いた。

 

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

長いため息をついてしまってからは、まだ若い黒髪なのに整えることもしなくなったし、悲しみに加え恨みに思うことはさらに深まるから晴天に向かってこの気持ちを訴える。

 

城崩杞梁妻,誰道土無心。

杞梁の妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった、妻というもの夫に心がないということは誰もが言うことだ。

城崩杞梁妻 劉向.列女傳.卷四.齊杞梁妻。樂曲名。杞梁妻之妹朝月所作。

『列女伝・貞順伝(巻四)』

杞梁の妻は子がなく、親戚もいなかったため、夫が死んでから頼るべき人がいなくなった。妻は夫の遺体を抱えて城下で泣き続け、その姿は人々の心を動かし、道を通る者は皆涙を流した。

十日後、妻の強い哀痛の情によって城壁が崩れてしまった。

夫の葬儀・埋葬が終わってから、妻は「私はどこに行けばいいのか。婦人は誰かを頼りにしなければならない。父がいれば父に頼り、夫がいれば夫に頼り、子がいれば子に頼るものである。しかし今、上は父がおらず、中は夫がおらず、下は子もいないん。内に頼る者がいなければ誠意を明らかにさせ、外に頼る者がいなければ貞節を立てるものである(誰も頼る者がいないのに、誠意や貞操を棄てて生きるのは誤りである)。二人の夫に仕えることはできない(再婚することはできない)」と言い、淄水に身を投げて死んだ。

743年(27)李白341-#6 巻三19-《白頭吟》 341-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(27)Ⅰ李白詩1672 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6908

李白  《白頭吟》#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

743年(27)李白341-#6 巻三19-《白頭吟》 341-#6Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-27Ⅰ李白詩1672 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6908

 

 

 
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#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。
#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

(下し文)
#6

聞くならく 阿嬌 恩寵を失い,千金 賦を買うて 君王を要す と。

相如 貧賤日を憶わず,位 高く 金 多くして 私室を聘す。

茂陵の姝子 皆 求めらる,文君の歡愛 此に從って畢る。

(現代語訳)
#6

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

(訳注)

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

陳皇后は、後宮を母の公主と一緒になって、おもうままにし、その嫉妬深さとわがままを武帝に向け、衛子夫に向けた、そして起こした謀略が発覚し、寵愛を失い、長門宮に移された。そこで、司馬相如から千金で「詩賦」を買い、武帝に心情を訴え武帝を振り向かせることになった。

 

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

この時司馬相如は、武帝からも、以前から相如の詩を読んでいて、高い評価画与えたのである。そのため相如は、蜀での貧しい時代、卓文君と酒場で酒を打った貧賤の時代のことを忘れてしまい、地位と裕福になったことで、妾の邸宅を作ったのである。

私室 妾邸をつくる。

 

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

司馬相如の求めに若い娘はみなこれに応じ、長安北の五陵の高級住宅地に妾邸を持ったのである、これによって卓文君の喜び愛し合う最高の時期は終焉をむかえたのである。

茂陵姝子皆見求 高級住宅街に。妾邸を持つこと。

歡愛 喜び愛し合う最高の時期のことを言う。

 

 

 

 

 

<長門賦> 司馬相如

孝武皇帝陳皇后,時得幸,頗妒,長門宮,愁悶悲思。聞蜀郡成都司馬相如,天下工爲文,奉黄金百斤,爲相如、文君取酒,因於解悲愁之辭,而相如爲文以悟主上。皇后復得幸,其辭曰:

 

夫何一佳人兮,步逍遙以自虞。魂逾佚而不反兮,形枯槁而獨居。

言我朝往而暮來兮,飲食樂而忘人。心慊移而不省故兮,交得意而相親。

伊予志之慢愚兮,怀貞愨之歡心。愿賜問而自進兮,得尚君之玉音。

奉虛言而望誠兮,期城南之离宮。修薄具而自設兮,君曾不肯乎幸臨。

廓獨潛而專精兮,天漂漂而疾風。登蘭台而遙望兮,神(心兄心兄,音晃)而外淫。

浮云郁而四塞兮,天窈窈而晝陰。雷殷殷而響起兮,聲象君之車音。

飄風回而起閨兮,舉帷幄之(示詹示詹,音摻)。桂樹交而相紛兮,芳酷烈之(門加言,重疊,音吟)。

孔雀集而相存兮,玄猿嘯而長吟。翡翠協翼而來萃兮,鸞鳳翔而北南

心憑噫而不舒兮,邪气壯而攻中。下蘭台而周覽兮,步從容于深宮。

正殿塊以造天兮,郁并起而穹崇。間徙倚于東廂兮,觀夫靡靡而無窮。

擠玉以撼金舖兮,聲噌(口+宏去□,音宏)而似鐘音。

 

刻木蘭以為榱兮,飾文杏以為梁。羅丰茸之游樹兮,离樓梧而相撐。

施瑰木之(木薄,音博)櫨兮,委參差以(木康,音康)梁。時仿佛以物類兮,象積石之將將。五色炫以相曜兮,爛耀耀而成光。

致錯石之瓴甓兮,象玳瑁之文章。張羅綺之幔帷兮,垂楚組之連綱。

 

撫柱楣以從容兮,覽曲台之央央。白鶴嗷以哀號兮,孤雌(足寺)于枯腸。

日黃昏而望兮,悵獨托于空堂。懸明月以自照兮,徂清夜于洞房。

援雅琴以變調兮,奏愁思之不可長。案流徵以卻轉兮,聲幼眇而复揚。

貫歷覽其中操兮,意慷慨而自(昂去日,音昂)。左右悲而垂淚兮,涕流离而從橫。

舒息悒而增欷兮,(足徙,音徙)履起而彷徨。揄長袂以自翳兮,數昔日之(侃下加言,音謙)殃。

無面目之可顯兮,遂思而就床。摶芬若以為枕兮,席荃蘭而(艸+臣,音chai3)香。

 

忽寢寐而夢想兮,魄若君之在旁。惕寤覺而無見兮,魂(□+王,重疊,音狂)若有亡。

眾雞鳴而愁予兮,起視月之精光。觀眾星之行列兮,畢昴出于東方。

望中庭之藹藹兮,若季秋之降霜。夜曼曼其若兮,怀郁郁其不可再更。

澹偃蹇而待曙兮,荒亭亭而复明。妾人竊自悲兮,究年而不敢忘。

 

冒頭「頗る妒む」とは、武帝が新たに衛子夫という別の女性を寵愛するようになって、陳皇后から遠ざかるようになったことに、陳皇后が激しく嫉妬したことを言います。その嫉妬深さが災いして、陳皇后は長門宮に退居させられたのです。

 

孝武帝の陳皇后は、当時、皇帝から寵愛を受けていたが、少々嫉妬深くて、陳皇后は嫉妬して衛氏の弟・衛青を誘拐しようしたり、あげくのはてに衛氏を呪い殺そうとした。事は発覚し、皇后を廃され長門宮と(皇帝と)別れて長門宮に移り、住まわされた。愁いに悶えて悲しみに沈んでいた。蜀郡の成都の司馬相如が天下の文章の名人だと聞いて、黄金百斤を出して、(その頃、酒屋を営んでいた)相如と(相如の妻の)卓文君から酒を買い上げてやり、悲愁を解きほぐす文章を作ってもらった。相如が文章を作って(陳皇后の気持ちを)主上に悟らせたので、陳皇后はまた寵愛されることになった。その文章は次のとおり。

 

なぜでしょう、一人の美人がさまよい歩いて物憂げにしています。魂は消え失せて元に返らぬように見え、肉体は枯れ果てた様子で一人ぽつねんと立っています。(かつて皇帝陛下は)「朕は朝に出座して暮には帰るだろう」と言ったのに、今は(新しい女と)飲食の楽しみを共にされ、私のことをお忘れになりました。御心は移り変わり、昔なじみ(の私)を省みず、気に入りの人と交わって親しくされています。(嫉妬深い)私の心の愚かさよ、私はまじめな素直さを胸に抱いていますのに。ただ御下問を賜って参上し、陛下のお言葉をいただきたいとのみ願っています。

陛下の虚しいお言葉をいただいて、まことのことかと待ち望み、城の南の離宮に(陛下を)お待ちしました。粗末な料理をつくろって用意していましたのに、陛下は一向におでまし下さろうとなさいません。むなしく一人隠れて心を鎮めておりますと、天にはひゅうひゅうと疾風が吹いています。蘭台に登ってはるかに見渡せば、心はうつろになって外界に脱け出ます。浮雲は重なりながら辺りに塞がり、天は深々として昼もなお暗く、雷は殷々と響き渡って、その音は陛下の車の響きに似ています。飄風は吹きめぐって部屋に舞い立ち、カーテンをひらひらと吹き上げます。桂の樹は枝茂く重なり合って、ぷんぷんと香りを漂わせます。孔雀たちは集まって(私を)憐れんでくれて、猿たちは鳴いて声長く歌います。翡翠(かわせみ)は翼を収めて集まって来て、鸞鳥と鳳凰は北に南に飛び交います。

心は結ぼれて晴れません。不満な気持ちが沸いて来て胸の内を責めつけます。蘭台より下りて辺りを見渡し、奥御殿へと静かに歩みます。正殿は高々と天まで届き、大きな柱が並び建てられて、彎形の御殿となっています。しばらく東の渡殿をさまよっていますと、こまごまと美しく限りなく続く建物が見えます。

743年(26)李白341-#5 巻三19-《白頭吟》 341-#5Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(26) <李白341-#5> Ⅰ李白詩1671 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6903

李白  《白頭吟》#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

743年(26)李白341-#5 巻三19-《白頭吟》 341-#5Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-26) <李白341-#5> Ⅰ李白詩1671 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6903

 

 

 
  2015年11月12日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(26)李白341-#5 巻三19-《白頭吟》 341-#5Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(26) <李白341-#5> Ⅰ李白詩1671 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6903  
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  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿               

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里           

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)             

 

 

白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

兩草猶一心,人心不如草。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

且留琥珀枕,或有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

#4

卷く莫れ 龍鬚の席,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ琥珀の枕を留めよ,或は夢の來る時有らん。

覆水 再び收むるも 豈に杯に滿たんや,棄妾 已に去って 重ねて迴り難し。

古來 得意 相い負かず,祗だ今 惟だ見る 青陵臺。
#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

(下し文)
#5

錦水 東流し碧なり,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

相如 蜀を去って武帝に謁し,赤車駟馬 輝光を生ず。

一朝 再び覽る大人の作,萬乘 忽ち雲を凌いで翔らんと欲す。


(現代語訳)
#5

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。


(訳注) 

 白頭吟#5 

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

 

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江を東への碧水、成都の城郭の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

錦水 都江堰で分水された河川であり、成都を堀のようにめぐって流れる河川名で、成都を洪水から守り、利水の面でも有効な河川であった。西北から遊水地の部分を流れる河川を濯錦江という。杜甫草堂があったあたりをいう。

東流碧 錦江、成都の南側を東流してゆく水は、緑に澄んで流れる。濯錦江ともいう、錦江の主流は東北から流れ下り合流して南下し、長江本流に合流する。

波蕩 波に浮いて、波のまにまに動かされるさま。

雙鴛鴦 司馬相如と卓文君のなれそめは蜀であったので、愛をはぐくんだところを表す語句である。

 

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

○この二句と次の二句は、司馬相如と卓文君が長安に上り、仲睦まじく暮らしたことを言う。

 

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

司馬相如は武帝の招きに応じて蜀を去り、武帝に謁見したのだが、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如を賢臣としてお迎えされ、だれよりもひかり輝句賢臣として迎えられて長安に入った。

卓王孫は自分の娘がこのような仕事をしていることを恥じ、親戚などからの勧めもあって、卓文君に召使いを100人、100万銭、前回の結婚の際の嫁入り道具を与えた。これで、司馬相如は結婚を認められたことになる。2人は成都に移り住み、土地を買い入れて、地主となった。ところで、中央では景帝が死に、武帝が皇帝の位についていた。武帝は景帝と違って、文学を大変好んでいた。あるとき、武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。

《贈從弟南平太守之遙二首其一》「漢家天子馳駟馬。赤車蜀道迎相如。」(漢家の天子  駟馬(しば)を馳せ、赤軍もて蜀道に相如 (しょうじょ)を迎ふ。)唐王朝の天子は4頭立ての馬車で夜明けに出発した、南方を守る軍隊は蜀へ通じる道に司馬相如の様な賢臣がお迎えをしている。

 

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

こうして司馬相如は、再び、郞に復職されて、高い評価の下に朝廷に入ったのである。武帝はこの時からその勢いをつけはじめていて、大空に羽ばたくほどのものであった。この武帝に、司馬相如はは並み居る文学者をしのいで高い評価を得た。

萬乘 「乗」は車の意。中国の周代、天子は直轄地から戦時に兵車1万台を徴発することができたところから》天子。また、天子の位。

凌雲/陵雲 雲をしのぐほどに高いこと。俗世を超越していることにいう。「飄々 (ひょうひょう) たる―の気」凌雲の志1 《「漢書」揚雄伝から》超然として俗世間の外にあろうとする志。2 《「後漢書」馮衍伝から》高い地位にのぼ ること。即位したから、太皇太后、皇太后の意向が強く働いていたために、即位当初は竇氏が実権を握っていた。大皇太后の死後、武帝はその力を発揮し始めていたという意。

743年(25)李白341-#4 巻三19-《白頭吟》 341-#4Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(25)Ⅰ李白詩1670 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6898

李白  白頭吟  #4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

743年(25)李白341-#4 巻三19-《白頭吟》 341-#4Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-25)Ⅰ李白詩1670 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6898

 

 
  2015年11月11日 の紀頌之5つのBlog  
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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿               

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里           

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)             

 

 

白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

兩草猶一心,人心不如草。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

#4

卷く莫れ 龍鬚の席,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ琥珀の枕を留めよ,或は夢の來る時有らん。

覆水 再び收むるも 豈に杯に滿たんや,棄妾 已に去って 重ねて迴り難し。

古來 得意 相い負かず,祗だ今 惟だ見る 青陵臺。
#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。


(下し文)
#4

卷く莫れ 龍鬚の席,從かす他の網絲を生ずるに。

且つ琥珀の枕を留めよ,或は夢の來る時有らん。

覆水 再び收むるも 豈に杯に滿たんや,棄妾 已に去って 重ねて迴り難し。

古來 得意 相い負かず,祗だ今 惟だ見る 青陵臺。

(現代語訳)
#4

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。


(訳注) #4

白頭吟#4

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

 

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

しかし、兎絲も、女羅も、両草ともに一つ心で、互に物にまとい付く性を持っていて、そのあい離れざるところは、しおらしく、そして、司馬相如は実に其の草にさえ及ばないものである。さきに、君と妾と一処に坐った、龍鬚草で編んだ此筵席は、たとえ蜘蛛が巣を張っても、それを巻いてかたずけることなどしないでおいてください。

7】 龍鬚席 温鑑証に「龍顔革む以て織り成す、今推上安産府の居人、多く能く寵愛席も織る」とある。

 

且留琥珀枕,或有夢來時。

それから、琥珀の枕は、妾が平生用いたものであるから、そのままにして、龍鬚の筵席の上に置いて貰ひたい。これは何のためかというと、君と決然して別れるとも、なお昔の恋しきままに、或は夢中にここへくることがあるかも知れないから、その時、魂の留まるところとしたいのである。

8】 琥珀枕 太平御覧、廣雅曰:「琥珀珠也、生地中、其上及旁不生、草淺者四五尺、深者八九尺、大如斛、削去皮、成琥珀。初時如桃膠、凝堅乃成。其方人以為枕。出博南縣。」(琥珀は珠なり、地中に生ず、其の上及び旁に草を生ぜず、淺き者は四五尺、深き者は八九尺、大 斛の如く、皮を削り去れば、琥珀を成す。初めの時は桃膠の如く、凝堅 乃ち成る。其の方人 以て枕と為す。博南縣に出ず。)とある。

 

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

しかし、おもへば、それは未練というもので、たとえにも言う通り、一旦覆した水は、元の盃に満たそうと思っても、到底かえりはしないので、妾もひとたび君に棄てられた上は、重ねて歸ってくることはできないことであろう。むかしから、貧賤の中こそ、糟糠の妻は決して棄てないと云って居るものの、得意に成って相いそむかないものは、ほとんどない。

9】 覆水再收豈滿杯 後漢書「苗謂進曰:「始共從南陽來,俱以貧賤,依省以致貴富。國家之事,亦何容易!覆水不可收。宜深思之,且與省和也。」何苗、兄進に謂つて日く、覆水収めず、宜しく深く之を思ふべし)とある。

 

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

ただ、韓朋は其妻を奪われて、宋の暴君、康王のために殺され、そして、その妻なるものも、亦た青陵臺の上から投身して夫に殉じたというが、これこそ真に相い負かざるもので、その他は、富貴の位地に至れば、容易に其舊を忘れるものばかり、今更ながら、人心はまことにたのみ難く、わが今日の不幸も、致方ないものとして、断念するほかはない。

10青陵臺 《獨異志》卷中引晉干寶《搜神記》:「宋康王以韓朋妻美而萃之,使朋築青陵台,然後殺之,其妻請臨喪,遂投身而死。王令分埋台左右,期年,各生一梓樹,及大,樹枝條相交,有二鳥哀鳴其上,因號之曰相思樹。」(宋の康王 韓朋の妻美なるを以て 之を萃い,朋をして青陵台を築かしめ,然る後 之を殺す,其の妻 喪に臨むを請い,遂に身を投じて死す。王 令じて台の左右に分埋す,期年にして,各の一梓樹を生ず,大なるに及び,樹の枝條 相い交る,二鳥有り 其の上に哀鳴す,因って之を號して相い思樹と曰う。)

 

●康王(生まれ未詳- 紀元前286 在位紀元前329 - 紀元前286年)は、中国戦国時代の宋の第34代で最後の国君。姓は子、諱は偃、諡は康。桓公の子。紀元前328年に兄の宋公剔成君(てきせいくん)を軍事クーデターで追放し、君位を簒奪し宋君となる。そのためか剔成君には諡号が与えられていない。

偃が即位した紀元前4世紀末の宋国は楚や斉、魏の3国に挟まれ、常にこれら強大国の情勢に国政が左右されていた。第20代襄公以後目立った活躍の場もなく、弱小国に成り下がっていた。

宋君偃はこうした情勢の中、即位10年の紀元前320年、各諸侯が王号を相次いで称する時勢に乗るかのように、宋君としては最初で最後の王号を名乗った。これ以後、宋王の偃は斉の属国の滕(姫姓)を滅ぼすなど、周辺各国に対して自国の国勢に見合わぬ軍事行動を展開した。このことで外政に自信をつけた宋王偃は、内政でも神を祀った祠を焼き尽くし、大地に鞭打ったり、民衆に暴虐を行い、臣下の美貌の妻を奪ったり、諫言する臣下には容赦ない仕打ちを行うなど恐怖政治を敷き、ほしいままに暴政をおこなった。そのため、国の内外から「宋の桀」と呼ばれたという。

743年(24)李白341-#3 巻三19-《白頭吟》#3 341-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(24)Ⅰ李白詩1669 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6893

李白  白頭吟 #3   

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。兩草猶一心,人心不如草。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

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白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

(下し文)
#3

東流は西歸の水と作らず,落花 辭條をして故林を羞ず。

菟絲 固もと情無し,風に隨って傾倒に任す。

誰か女蘿の枝をして,而來 強いて縈抱せしむ。

兩草 猶お一心,人心は草に如かず。


(現代語訳)
#3

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。


(訳注) #3

白頭吟3

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

 

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

しかし、東に向って流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

○この二句 《孟子告子篇》告子曰、「性猶湍水也。決諸東方、則東流、決諸西方、則西流。人性之無分於善不善也、猶 水之無分於東西也。」孟子曰、「水信無分於東西、無分於上下乎。人性之善也、猶水之就下也。」

 

菟絲固無情,隨風任傾倒。

かの兎糸は、もとより無情の物で、始終風に随って、右に左にと、何処へでも傾倒する。

6】 兎絲 爾雅に「唐蒙に女蘿、女蘿に兎絲」とある。王埼の註に「古今、その二物たるを疑ふもの多し、博物志、魏の文帝の記するところ、静物相似乱するもの、女蘿は兎絲に寄生し、兎絲は木の上に寄生し、根、地に著かずと。然らば女蘿は兎絲の上に寄生するものあり、釋草の女蘿兎絲、或は亦た此義のみ」とある。李白は、ここで二草を別の物と見て居る。・女蘿:一種蔓生植物。 ・菟絲:一年生草本纏繞性寄生植物,無根無葉。 女蘿附菟絲:以菟絲和女蘿纏繞,比夫妻或情人的關係

 

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

そこで、立派な丈夫な木にでも身を寄せたら、先ず幸いが、女羅といふ同じ様な蔦の枝へ持って往って喰付いたから、どうにも仕方がない。

 

兩草猶一心,人心不如草。

元來、女子は、もとより人に頼るべきもので、その相手が異心を持たぬ人であれば善いが、女蘿の如く、同じく他に巻き付きたがるものでは仕方がないので、現に相如は茂陵の女に心を寄せて、頼み甲斐なきものと成り果てて仕舞った。

 

 

《孟子告子篇》性猶湍水也。告子曰:「性猶湍水也,決諸東方則東流,袂諸西方則西流。人性之無分於善不善也,猶水之無分於東西也。」孟子曰:「水信無分於東西。無分於上下乎?人性之善也,猶水之就下也。」

性は猶ほ湍水のごときなり。告子曰く、「性は猶ほ湍水のごときなり。

諸れを東方に決すれば、則ち東流し、諸を西方に決すれば、則ち西流す。

人性の善不善を分かつこと無きは、猶ほ水の東西を分かつこと無きがごときなり。」と。

孟子曰く、「水は信に東西を分かつこと無きも、上下を分かつこと無からんや。

人性の善なるは、猶ほ水の下きに就くがごときなり。

人善ならざること有る無く、水下らざること有る無し。

今夫れ水は、搏ちて之を躍らせば、顙を過ごさしむべく、激して之を行れば、山に在らしむべし。

是れ豈に水の性ならんや。其の勢則ち然るなり。

人の不善を為さしむべきは、其の性も亦(また)猶ほ是(か)くのごときなり。」と。

743年(23)李白341-#2 巻三19-《白頭吟》 341-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(23) <李白341-#2> Ⅰ李白詩1668 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6888

李白  白頭吟 #2   

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里             

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)              

 

 

白頭吟 #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

長安城図 作図00 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

(下し文)
#2

但だ願ふ、君恩、妾を顧みること深きを、豈に惜まむや、黄金、詞賦を買ふを。

相如、賦を作って黄金を得たり、丈夫、新を好んで、異心多し。

一朝 將に聘せんとす茂陵の女、文君因って贈る白頭の吟。

(現代語訳)
#2

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。


(訳注)

白頭吟#2

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

 

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

そこで、陳皇后はどうかして、本の通りに、君寵を得たいというので、さまざまの手段をつくし、司馬相如が辭賦に長ずるというのを聞き、千百の黄金をも惜むところに非ずとして、澤山な潤筆科を贈り、そして、相如の一賦は、見事に武帝の御心を囘して、陳皇后は、再び後宮に戻られたのである。

5】黃金買詞賦 司馬相如《長門賦·序》「孝武皇帝陳皇后時得幸,頗妒。別在長門宮,愁悶悲思。聞蜀郡成都司馬相如天下工為文,奉黃金百斤為相如文君取酒,因于解悲愁之辭。而相如為文以悟主上,陳皇后復得親幸。」

 

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

かくて、司馬相加は、多分の金が手元に残ると、男は兎角、新らしいものを得たいもので若い女が好きで、異心多きものである處から、文君を遠ざけたいと思ったのである。

5】相如作賦 司馬相如の長門賦の序に「孝武皇帝の陳皇后、時に幸を得たるも、頗る嫉妬、別に長門官に在り、愁悶悲思、蜀郡成都の司馬相如、天下文を爲るに工なるを聞き、黄金百斤を奉じて、相如の為にす。文君酒を取り、因って悲愁を解くの辭を干む。而して、相如文を爲り、以て主上を悟らしめ、皇后復た親幸を得たり」とある。

 

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

この金で、茂陵の女子を聘して妾としようとした。気の毒なのは卓文君で、おのが境涯を悲んで、「白頭吟」と題する詩を作って相如に贈った。しかし、東に向つて流れる水は、決して、再び西へは帰らず、一朝落花となって枝を辭したものは、再びもとの林に返ることを羞とすると同じく、一旦訣絶した上は、再びもとへは返らぬという決心であった。

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

わたしの心はこれだけ真っ白で、山上の雪のようです、そして女としても、雲間に輝く清らかで澄んだ白い月光で、立派に貞操を守っている女なのです。あなたが、心情を他人に遣るということが聞こえてきます。わたしはほとほと愛想が尽きたので、わざわざあなたと別れるためにやって来たのです。 今日は二人にとっての最後のお酒を飲む機会だし、明日になれば堀端のほとりを歩くだけなのです。お堀の畔をとぼとぼ歩くでしょう、すると掘割の水は西から東へ別れ、当たり前のように流れていくことでしょう。 寒く冷ややかな上にも寒く冷ややかであっても、嫁入りは、必ずしも啼き悲しむものではない。願うことなら嘘をつかないで愛し続けてくれる男夫を見つけて。白髪頭になるまで添い遂げたいのです。釣り竿は何としなやかなことではないか。夫は妻のことを思うべきです。女性は、こんなにも生き生きとしてすばらしいのに、どうして妻のすばらしさに気づかないのか。男とは、金銭ではなくて情義を重んずるものだろうにどうして、銭金などをどうして用いようとするのだろうか。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

743年(22)李白341 巻三19-《白頭吟》(錦水東北流,) 341Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白341> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

李白  白頭吟 #1   

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    白頭吟

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              錦江 (劍南道北部 益州 成都)           

長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平、槐里             

青陵臺 (河南道 鄆州 須昌)              

 

 

白頭吟 #1

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

 阿嬌 嬌妒,獨長門して 日暮
#2

但願君恩顧妾深,豈惜黃金買詞賦。

相如作賦得黃金,丈夫好新多異心。

一朝將聘茂陵女,文君因贈白頭吟。

#3

東流不作西歸水,落花辭條羞故林。

菟絲固無情,隨風任傾倒。

誰使女蘿枝,而來強縈抱。

兩草猶一心,人心不如草。

#4

莫卷龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,或有夢來時。

覆水再收豈滿杯,棄妾已去難重迴。

古來得意不相負,祗今惟見青陵臺。

#5

錦水東流碧,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

相如去蜀謁武帝,赤車駟馬生輝光。

一朝再覽大人作,萬乘忽欲凌雲翔。

#6

聞道阿嬌失恩寵,千金買賦要君王。

相如不憶貧賤日,位高金多聘私室。

茂陵姝子皆見求,文君歡愛從此畢。

#7

淚如雙泉水,行墮紫羅襟。

五更雞三唱,清晨白頭吟。

長吁不整綠雲鬢,仰訴青天哀怨深。

城崩杞梁妻,誰道土無心。

#8

東流不作西歸水,落花辭枝羞故林。

頭上玉燕釵,是妾嫁時物。

贈君表相思,羅袖幸時拂。

莫捲龍鬚席,從他生網絲。

且留琥珀枕,還有夢來時。

#9

鷫鷞裘在錦屏上,自君一掛無由披。

妾有秦樓鏡,照心勝照井。

願持照新人,雙對可憐影。

覆水卻收不滿杯,相如還謝文君迴。

古來得意不相負,只今惟有青陵臺。

 

 

『白頭吟』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

白頭吟

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

(下し文)
(白頭吟) #1

錦水 東北より流る,波蕩 雙鴛鴦。

雄は巢う 漢宮の樹,雌は弄す 秦草の芳。

寧ろ萬死を同じゅうして 綺翼を碎くも,不忍びず 雲間 兩つながら分張するを。

此の時 阿嬌 正に嬌妒,獨り長門に坐して 日暮を愁う。

(現代語訳)
(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。) #1

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

成都関連地図 00成都561
(訳注)

白頭吟 #1

(辛苦を共にした夫が茂陵の女を妾にしようとした多情な夫をいさめる詩。)

白頭吟 白頭吟は古楽府の題である。

杜甫『奉贈王中允維』
中允聲名久,如今契闊深。
共傳收庾信,不比得陳琳。
一病緣明主,三年獨此心。
窮愁應有作,試誦白頭吟。
○白頭吟 漢の司馬相如の妻卓文君が夫が妾を買おうとするのをきいて賦した「白頭吟」を引き、王維の詩が天子に対して二心なきをいうのはこれと似ている。又、飽照の「白頭吟」の「直きこと朱糸の縄の如く、清きこと玉壷の氷の如し」といい、身の清直で潔白な旨を表現する。

奉贈王中允維 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 254

『古別離』孟郊
欲別牽郞衣,郞今到何處。
不恨歸來遲,莫向臨邛去。
唐宋詩203 Ⅶ孟郊(孟東野)紀頌之の漢詩ブログ 「古別離」孟郊(8

○臨邛 〔りんきょう〕司馬相如が卓文君と恋に落ちて駆け落ちを始めたところ。男を惑わす女の居る所の意で使う。臨邛は、秦の時代に置かれた県名。現・四川省邛耒県。 ○去 行く。去る。

卓文君
前漢時代、臨の大富豪である卓王孫の娘。司馬相如と恋に落ちて駆け落ちをする、愛情溢れる女性とされる。

 

卓文君 白頭吟

皚如山上雪,皎若雲間月。聞君有兩意,故來相決絶。

今日斗酒會,明旦溝水頭。躞蹀御溝上,溝水東西流。

淒淒復淒淒,嫁娶不須啼。願得一心人,白頭不相離。

竹竿何嫋嫋,魚尾何簁簁。男兒重意氣,何用錢刀爲。

皚【がい】たること山上の雪の 如く,皎【こう】たること雲間の月の 若【ごと】し。

聞く君 兩意有りと,故【ことさら】に來たりて相い決絶す。

今日斗酒の會,明旦溝水の頭【ほとり】。

御溝の上に躞蹀【しょうちょう】すれば,溝水は東西に流る。

淒淒【せいせい】復た 淒淒たり,嫁娶【かしゅ】に啼【な】くを須【もち】いず。

願はくは一心の人を得て,白頭まで相い離れざらん。

竹竿何ぞ嫋嫋【じょうじょう】たる,魚尾何ぞ簁簁【しし】たる。

男兒は意氣を重んず,何ぞ錢刀を用いるを爲さん。

白頭吟 卓文君 <109-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩543 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1446

白頭吟 卓文君 <109-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩544 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1449

 

錦水東北流,波蕩雙鴛鴦。

濯錦江の水は成都の城郭の外を東北をさして流れている。その河水の流れの波に動かされて、二つ並んだ鴛鴦は睦まじく浮かんでいた。

錦水 都江堰で分水された河川であり、成都を堀のようにめぐって流れる河川名で、成都を洪水から守り、利水の面でも有効な河川であった。西北から遊水地の部分を流れる河川を濯錦江という。杜甫草堂があったあたりをいう。

東北流 錦江の主流は東北から流れ下り、成都の南で西北からの濯錦江と合流して南下し、長江本流に合流する。

波蕩 波に浮いて、波のまにまに動かされるさま。

雙鴛鴦 司馬相如と卓文君のなれそめは蜀であったので、愛をはぐくんだところを表す語句である。

 

雄巢漢宮樹,雌弄秦草芳。

その睦まじい鴛鴦は禁水の流れに従って、やがて長安に来たり、雄は漢宮の樹に巣を作り、雌は秦草の芳しい香りを弄したという。

○この二句と次の二句は、司馬相如と卓文君が長安に上り、仲睦まじく暮らしたことを言う。

 

寧同萬死碎綺翼,不忍雲間兩分張。

それで、終始同居して、決して離れることはなく、万が一の場合は綺翼を砕いて死んでしまうということで、雲の間に飛び去って、各々報效を違う方向へ移行などということはないのである。司馬相如は武帝に仕え、卓文君は、家を守って互いに離れることはなかった。

兩分張 二つの鴛鴦が、司馬相如と卓文君が分離することがなかったということ。

 

此時阿嬌正嬌妒,獨坐長門愁日暮。

しかし、この同じ時、武帝の陳皇后は、幼名を阿嬌といい、武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来ずあせり、衛子夫が武帝に寵愛されると、嫉妬心を以て、様々な悪巧みをし、妃嬪たち、衛子夫を毒殺しかけたが、それが発覚し、廃位され、長門宮に獨坐して愁の日々を過ごしやがて没した。

此時 司馬相如が武帝に仕えた期間。武帝在位期間は前14139 - 87329日である。武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。

武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。

阿嬌正嬌妒 幼名、阿嬌。陳皇后(生没年不詳)は、前漢の武帝の最初の皇后。武帝の従姉妹に当たる。母は武帝の父である景帝の同母姉の館陶公主(中国語版)(堂邑長公主)劉嫖、父は堂邑侯陳午である。館陶公主は娘を皇太子に娶わせようと思ったが、当時の皇太子である劉栄の母栗姫(中国語版)が館陶公主と仲が悪かった。そこで館陶公主は景帝に王夫人の子である劉徹(武帝)を褒め、王夫人を皇后、劉徹を皇太子にすることに成功した。

武帝が即位すると彼女は皇后となり、寵愛をほしいままにしたが、10年以上子が出来なかった。一方で衛子夫が武帝に寵愛されたと聞くと、皇后は彼女の死を願い、一族も弟の衛青を連れ去り監禁するほどだった。皇后は呪術を用いて呪い、それが発覚して元光5年(紀元前130年)に廃位された。

母の館陶公主は武帝の姉の平陽公主(中国語版)に「皇帝は私がいなければ皇太子になれなかったのに、どうして我が娘を捨てるのだ」と訊いたが、平陽公主は「子が出来ないからです」と答えた。皇后は子が出来るようにと医者に多額の金を使ったが、結局子は出来なかった。

十数年後に陳皇后のため、衛子夫に毒を盛ったことが発覚し、館陶公主が死罪を受け、その数年後には陳皇后も死亡した。

獨坐長門愁日暮 当初死罪を言い渡されたが、長門宮に幽閉され、獨り坐して過ごし、愁いの後にそのままそこで死を迎える。

長安城図 作図00 

 

 

『史記・司馬相如列傳』

會梁孝王卒,相如歸,而家貧,無以自業。素與臨令王吉相善,吉曰:『長卿(司馬相如の字)久宦遊不遂,而來過我。』於是相如往,舍都亭。臨令繆爲恭敬,日往朝相如。相如初尚見之,後稱病,使從者謝吉,吉愈益謹肅。臨中多富人,而卓王孫家僮八百人,程鄭亦數百人,二人乃相謂曰:『令有貴客,爲具召之。』并召令。令既至,卓氏客以百數。至日中,謁司馬長卿(司馬相如の字),長卿謝病不能往,臨令不敢嘗食,自往迎相如。相如不得已,彊往,一坐盡傾。酒酣,臨令前奏琴曰:「竊聞長卿(司馬相如の字)好之,願以自娯。」相如辭謝,爲鼓一再行。是時卓王孫有女(卓)文君新寡,好音,故相如繆與令相重,而以琴心挑之。相如之臨,從車騎,雍容閒雅甚都;及飮卓氏,弄琴,(卓)文君竊從戸窺之,心悅而好之,恐不得當也。既罷,相如乃使人重賜文君侍者通殷勤。文君夜亡奔相如,相如乃與馳歸成都。家居徒四壁立。卓王孫大怒曰:『女至不材,我不忍殺,不分一錢也。』人或謂王孫,王孫終不聽。文君久之不樂,曰:『長卿第倶如臨,從昆弟假貸猶足爲生,何至自苦如此!』相如與倶之臨,盡賣其車騎,買一酒舍酒,而令文君當鑪。相如身自著犢鼻褌,與保庸雜作,滌器於市中。卓王孫聞而恥之,爲杜門不出。昆弟諸公更謂王孫曰:『有一男兩女,所不足者非財也。今文君已失身於司馬長卿,長卿故倦游,雖貧,其人材足依也,且又令客,獨奈何相辱如此!』卓王孫不得已,分予文君僮百人,錢百萬,及其嫁時衣被財物。文君乃與相如歸成都,買田宅,爲富人。

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李白  設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭雉子斑【雉子斑】#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。天地至廣大,何惜遂物情。

善卷讓天子,務光亦逃名。所貴曠士懷,朗然合太清。
そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。

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  2015年11月7日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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  Ⅱ中唐詩・晩唐詩
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韓愈98-#5《 巻三18謁衡岳廟,遂宿嶽寺題門樓》 #5 韓愈(韓退之) 805年貞元21年 38歳<1579> Ⅱ#5 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6879  
  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
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  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
  ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている  
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  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 11顧夐 (改)《巻七20訴衷情二首其一》『花間集』322全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6882  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
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年:743年天寶二年43歳 94-21

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    雉子斑【設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

扇錦翼,雄風生。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。

天地至廣大,何惜遂物情。

そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。善卷讓天子,務光亦逃名。

人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。

所貴曠士懷,朗然合太清。

これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。

乍ち草中に向って 耿介死し,黃金 籠下に生くるを求めず。

天地 至って廣大,何ぞ物情を遂ぐるを惜まんや。

善卷は天子を讓り,務光も亦た名を逃る。

貴ぶ所は曠士の懷なり,朗然として太清に合す。



『設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭雉子斑』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

天地至廣大,何惜遂物情。

善卷讓天子,務光亦逃名。

所貴曠士懷,朗然合太清。

(下し文)
#2

乍ち草中に向って 耿介死し,黃金 籠下に生くるを求めず。

天地 至って廣大,何ぞ物情を遂ぐるを惜まんや。

善卷は天子を讓り,務光も亦た名を逃る。

貴ぶ所は曠士の懷なり,朗然として太清に合す。

(現代語訳)
#2

そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。

そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。

これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。


(訳注) #2

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭雉子斑

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)

辟邪伎 古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角をもち,邪悪をさけるといわれる。天禄とともに旗などに描かれた。辟邪絵は中国などで古来より信仰された、疫鬼を懲らしめ退散させる善神を描いた絵である。奈良国立博物館が所蔵する12世紀頃制作の絵巻物は、日本の国宝に指定されている。このほか、アジャンター石窟で5世紀頃制作の第17窟などの遺例が知られる。ここでは僻邪の舞

鼓吹 笛の聲に合わせて太鼓をたたいて踊る。

雉子班の古詞 雉子斑《樂府解題》「雉子高飛止,黃鵠飛之以千里,雄來飛,從雌視。」

雉の雄は、春、「けーんけーん」と鳴いて雌を呼ぶ鳥である。飛ぶ姿よりも歩いている姿 を見かけることが多い。妻恋の象徴として詠われていた。

 

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

そもそも雉は、耿介な鳥であり、草中間において死んでゆくものであって、決して黄金細工の鶏籠に入れて飼われることを願ってはいない。他の鳥は、命大事とし、黄金籠中に残生を保つことをこの上もない栄誉と心得ているが、この雉は少しもそんなことは思ってもいない。

耿介 ①かたく志を守ること。 ②徳が光り輝いて偉大なさま。

 

天地至廣大,何惜遂物情。

そもそも、天地はいたって広大なもので、万物を包含し、各々その情を遂げさせるので、雉のように、原野草中でその生命を全うせしめるというもの、やはり、天地の徳である。

 

善卷讓天子,務光亦逃名。

人もまたその通りで、耿介をもって知られているのは、莊子にいう、舜が善卷に禅譲しようとしたときの故事、湯が卞隨や、務光に譲ろうとした時、彼らは固く断って山に入り、或は、投身し、或は石を背負って身を沈めたのである。

善卷讓天子 隠者の名前。宇宙の中にあって天地の恵みがあればよく、天下などどうしようもないと山に入った人。《子、讓王第二十八》「舜以天下讓善卷,善卷曰:「余立於宇宙之中,冬日衣皮毛,夏日衣葛絺;春耕種,形足以勞動;秋收斂,身足以休食;日出而作,日入而息,逍遙於天地之間而心意自得。吾何以天下為哉!悲夫,子之不知余也!」遂不受。於是去而入深山,莫知其處。」

務光亦逃名 桀を打つため戦った者たち(卞隨、務光)が、天下を譲り合って清廉に拒否して死んでいったことをいう。《子、讓王第二十八》「湯遂與伊尹謀伐桀,剋之,以讓卞隨。卞隨辭曰:「后之伐桀也謀乎我,必以我為賊也;勝桀而讓我,必以我為貪也。吾生乎亂世,而无道之人再來漫我以其辱行,吾不忍數聞也。」乃自投椆水而死。

  湯又讓務光,曰:「知者謀之,武者遂之,仁者居之,古之道也。吾子胡不立乎?」

  務光辭曰:「廢上,非義也;殺民,非仁也;人犯其難,我享其利,非廉也。吾聞之曰,非其義者,不受其祿,无道之世,不踐其土。況尊我乎!吾不忍久見也。」乃負石而自沈於廬水。

 

所貴曠士懷,朗然合太清。

これらは人間の曠士であり、彼らの胸懐は、朗然として太清に合し、即ち天意にかなったもので、これが即ち、貴いことであるのである。

曠士懷 胸襟開闊な人。杜甫《同諸公登慈恩寺塔》「自非曠士懷,登茲翻百憂。」よほどの胸中のひろいひとでないかぎり、ここ処へ登ったなら、さまざまの憂いの心を湧きたたせるだろう。○曠士懷 胸中のひろいひと。・懐 胸中、心。○茲 慈恩寺塔をさす。○翻 ひるがえす、湧きたたせること。

朗然 明るくはっきりとしているさま。

合太清 道教三天、三清をいう。「太元」を神格化した最高神元始天尊と、「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君)、老子を神格化した道徳天尊(太上老君)の三柱。 それぞれ道教における天上界の最高天「玉清境」「上清境」「太清境」に住し、この三天のことも「三清」と呼ぶ。

743年(21)李白340 巻三15-《雉子斑》(辟邪伎作鼓吹驚,) 340Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(21) <李白340> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

李白  設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1  

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

扇錦翼,雄風生。雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1  辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

743年(21)李白340 巻三15-《雉子斑》(辟邪伎作鼓吹驚,) 340Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-21) <李白340> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

 

 
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年:       天寶二年

寫作時間:           743

寫作年紀:           43

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    雉子斑【設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭】

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

扇錦翼,雄風生。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

#2

乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。

天地至廣大,何惜遂物情。

善卷讓天子,務光亦逃名。

所貴曠士懷,朗然合太清。

 

詩文(含異文)     辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。扇錦翼,雄風生。雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。乍向草中耿介死,不求黃金籠下生。天地至廣大,何惜遂物情。善卷讓天子,務光亦逃名。所貴曠士懷,朗然合太清。
大明宮-座標02 

長安城図 作図00 

 

 

『設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,咿振迅欲飛鳴。

扇錦翼,雄風生。

雙雌同飲啄,悍誰能爭

(下し文)
設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,咿振迅欲飛鳴。

扇錦翼,雄風生。

雙雌同飲啄,悍誰能爭

(現代語訳)
(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)1

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。


(訳注)

設辟邪伎鼓吹雉子斑曲辭【雉子斑】#1

(古来よりの伝説珍獣である辟邪を舞にし、邪悪を避けるを願い、雉の凛々しく勇壮な有様を曲にした歌をつくる)

辟邪伎 古代中国の想像上の動物。鹿に似て二角をもち,邪悪をさけるといわれる。天禄とともに旗などに描かれた。辟邪絵は中国などで古来より信仰された、疫鬼を懲らしめ退散させる善神を描いた絵である。奈良国立博物館が所蔵する12世紀頃制作の絵巻物は、日本の国宝に指定されている。このほか、アジャンター石窟で5世紀頃制作の第17窟などの遺例が知られる。ここでは僻邪の舞

鼓吹 笛の聲に合わせて太鼓をたたいて踊る。

雉子班の古詞 雉子斑《樂府解題》「雉子高飛止,黃鵠飛之以千里,雄來飛,從雌視。」

雉の雄は、春、「けーんけーん」と鳴いて雌を呼ぶ鳥である。飛ぶ姿よりも歩いている姿 を見かけることが多い。妻恋の象徴として詠われていた。

 

辟邪伎作鼓吹驚,雉子班之奏曲成,喔咿振迅欲飛鳴。

辟邪伎の舞楽がはじまると、鼓吹のこえが驚ろおどろしくきこえてくる,こうして合いの手の雉子班の奏曲へと移って演奏される,その曲の意味合いは、雉の飛ぶ様子を歌に作ってあるので、その音楽を聴いていると、そこへ雉がとびだしてくるようにおもわれる。雉は、喔咿と口を開き、羽ばたきをして、まさに鳴きだそうとする。

喔咿 雉の鳴く声。

 

扇錦翼,雄風生。

ひとたび錦翼を扇動すれば、雄風颯然としておこるのである。

 

雙雌同飲啄,趫悍誰能爭。

メスとならんで、同じえさをついばみ、水を飲んでいて、その凛々しく勇まし気なすがたは、世に敵がないというあり様である。

趫悍 雉の勇敢なところをいう。

743年(20)李白339 巻三13-《中山孺子妾歌》(中山孺子妾,) 339Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(20) <李白339> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

李白  中山孺子妾歌   

中山孺子妾,特以色見珍。雖然不如延年妹,亦是當時世人。

桃李出深井,花豔驚上春。一貴復一賤,關天豈由身。

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。戚姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。

(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。

743年(20)李白339 巻三13-《中山孺子妾歌》(中山孺子妾,) 339Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-20) <李白339> Ⅰ李白詩1664 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6868

 

 
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年:

743年天寶二年43歳 94-20

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    中山孺子妾歌

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

中山孺子妾歌

(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

中山孺子妾,特以色見珍。

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。

雖然不如延年妹,亦是當時世人。

後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。

桃李出深井,花豔驚上春。

そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

一貴復一賤,關天豈由身。

その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。

姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。

現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。

 

(中山孺子妾の歌)

中山孺子の妾,特に色を以て珍とせらる。

延年の妹に如かずと雖も,亦た是れ當時 世の人。

桃李は深井に出で,花豔にして 上春を驚かす。

一貴 復た 一賤,天に關す 豈に身に由らんや。

芙蓉は秋霜に老い,團扇は網塵を羞づ。

姫は髮して舂市に入り,萬古 共に悲辛

 

 

『中山孺子妾歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

中山孺子妾歌

中山孺子妾,特以色見珍。

雖然不如延年妹,亦是當時世人。

桃李出深井,花豔驚上春。

一貴復一賤,關天豈由身。

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。

姬髡髮入舂市,萬古共悲辛
詩文(含異文)     中山孺子妾,特以色見珍。雖然不如延年妹,亦是當時世人。桃李出深井,花豔驚上春。一貴復一賤,關天豈由身。芙蓉老秋霜,團扇羞網塵。戚姬髡髮入舂市【戚姬髡剪入舂市】,萬古共悲辛。

 

 (下し文)
(中山孺子妾の歌)

中山孺子の妾,特に色を以て珍とせらる。

延年の妹に如かずと雖も,亦た是れ當時 世の人。

桃李は深井に出で,花豔にして 上春を驚かす。

一貴 復た 一賤,天に關す 豈に身に由らんや。

芙蓉は秋霜に老い,團扇は網塵を羞づ。

姫は髮して舂市に入り,萬古 共に悲辛


(現代語訳)
(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。

後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。

そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。

現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。


(訳注)

中山孺子妾歌

(漢の未央の才人、官である中山王の妃賓、王妾の品號有る者を儒子の妃賓という制度そのままに諸侯の後宮に美人おいているのを詠う)

古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。《礼記、昏義》 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。

《漢書》曰「“詔賜中山靖王子噲及孺子妾冰、未央才人歌詩四篇。”如淳曰:“孺子,幼少稱孺子。妾,宮人也。”顏師古曰:“孺子,王妾之有品號者。妾,王之眾妾也。冰,其名。才人,天子官。”按,此謂以歌詩賜中山王及孺子妾、未央才人等爾,累言之,故雲及也。而陸厥作歌,乃謂之中山孺子妾,失之遠矣。」(《漢書》に曰く:“詔して中山靖王子、及び孺子妾、未央の才人に歌詩四篇を賜う。”と。如淳曰く:“孺子は,幼少 孺子と稱す。妾は,宮人なり。”と。顏師古曰く:“孺子は,王妾の品號有る者。妾は,王の眾妾なり。冰は,其の名なり。才人は,天子の官なり。”と。按ずるに,此れは歌詩を以て中山王及び孺子 妾、未央の才人等に賜うを謂うのみ。爾,之を累言する,故に及と雲うなり。而して 陸厥 歌を作り,乃ち之を中山孺子妾と謂う,之を失うこと遠し。)とある。

中山晴 中山晴王噲現、在の河北省に中山王国があった。初代王靖王は劉勝で、在位42年で死に、その後は哀王劉昌、康王劉昆侈、頃王劉輔、憲王劉福、懐王劉循と続き、懐王に子がいなかたため断絶した。李白は、劉勝が酒食に耽り、120人以上の子供がいたことで有名で、1968年に中山靖王の墓とされる遺跡から「金縷玉衣(ヒスイで作られた死者に着せる服)が発掘されたことで、豪奢な生活ぶりを示すものを唐時代において、諸侯が同じようにしていることを問題視している。

儒子 儒子妾氷。顏師古曰く:“孺子は,王妾の品號有る者。妾は,王の眾妾なり。冰は,其の名なり。才人は,天子の官なり。”と

 

中山孺子妾,特以色見珍。

中山王は天子の近親で、非常に尊崇されるお立場である。その後宮の妃賓といえば、寵貴もとより思うものであり、特に色の美なるを以て珍重され、寵愛されるのである。

 

雖然不如延年妹,亦是當時世人。

後宮専房の栄枯をほしいままにしているもので、例えば、李延年の妹で、漢の武帝の寵愛を受けた李夫人とまではいかないとしても、これもまた、当時における絶世の美人であったのである。

延年妹 人名。生卒年不詳,漢中山(今河北定縣)人,漢武帝寵妃,李延年妹。容貌美麗,善於歌舞。生昌邑哀王,早卒,武帝曾作賦悼念。兄李延年は美人の妹を武帝に売り込むため、詩をつくって自ら歌ってみせた。それが有名な《絶世傾国の歌》「北方有佳人、絶世而獨立。一顧傾人城、再顧傾人國。寧不知傾城與傾國、佳人難再得。」(北方に佳人有り、絶世にして獨立す。一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の國を傾く。寧んぞ傾城と傾國とを知らざらんや 、佳人は再びは得がたし。)売り込みは大成功で、李延年の妹は武帝の夫人として召され、他の兄たちも要職を得て出世した。ところで、武帝に愛されたのは李夫人だけではなかった。傾国と例えるのに相応しい美人だった李夫人の兄、李延年自身もまた絶世の美男だった。武帝は李夫人を慈しみ、男子をもうけつつ、同時に李延年をも寵愛し、夫婦のように起臥を共にしていた。李夫人は不幸にして夭折してしまい、死に瀕して容色衰えた自分の顔を武帝に見せることを頑なに拒んだと伝えられる。

 

桃李出深井,花豔驚上春。

そもそも桃李の下には道ができるといわれる者が後宮の寝殿の奥に生じ、初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

桃李 史記「桃李不言下自成蹊」桜梅桃李:桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李、それぞれの姿、特質がある。 桜は決して梅にはなれないけれど、桜であるからこその美しさがある。

深井 後宮の寝殿の奥にある井戸端。

花豔驚上春 初春の自分から花が咲いて、人目を驚かすほどの美しさである。

 

一貴復一賤,關天豈由身。

その時代、その世にもてはやされるのも、その美しい姿からすれば、天命であり、必然のことであるが、せっかく寵愛を受けていても、寵愛は衰え、失うものであるのは自分の身によるものではないのである。

 

芙蓉老秋霜,團扇羞網塵

栄枯盛衰、寵愛を失えば、芙蓉の花も秋の霜に枯れ、老いるようになる、団扇は夏には涼しい風を送るが、秋風とともに無用となり、やがてその上に塵がつもってこれを蔽うようになる。

 

姬髡髮入舂市,萬古共悲辛。

現に、漢の戚夫人は、高祖が崩御の後には、無残にも、緑の神を落とされ、米つきの仕事を命ぜられた、というように、妃嬪の栄枯は万古の人の悲辛の思いに堪えられないものであり、かの中山王の妃賓たるも、これを以て決して今の寵愛を誇ってはいけないのである。

 戚夫人(未詳- 紀元前194?)は、秦末から前漢初期の人物。高祖劉邦の側室で、劉如意の生母。一説によると名は懿。上体を後ろに大きく反らす楚舞を得意とし、劉邦とは遠征中に碁を打ったともいわれる。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。

しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は趙王のままとされた。

このことから、戚夫人母子は盈の生母である呂雉に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して盈(恵帝)が即位すると、皇太后となった呂雉による報復が始まる。

まず、戚夫人を捕らえて永巷(えいこう:罪を犯した女官を入れる牢獄)に監禁し、一日中豆を搗かせる刑罰を与えた。戚夫人が自らの境遇を嘆き悲しみ、詠んだ歌が「永巷歌」として『漢書』に収められている。

そして呂太后は、長安に入朝した如意を毒殺した。その前後、戚夫人も殺害された。『史記』によると呂后は戚夫人の両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落としてそれを人豚と呼ばせ、さらに恵帝を呼んでそれを見せたため、彼は以後激しい衝撃を受け、酒色に溺れるようになり早世したという。

 

 

 

 

 

 

不幸な運命、感情の飢渇富貴

栄達、優閑、快適 

彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権力者の一時の寵愛にすべて係っていたからである。

『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は動乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。

后妃たちにとって、最も恐ろしいことはまず

 

 

第一に政治権力をめぐる闘争

彼女たちはしばしば全く理由もなく政治事件の被害に遭ったり、家族の罪に連坐させられたり、甚だしい場合には殺害されるという災難にあった。ここで人々はまず楊貴妃のことを最初に想い浮かべることであろう。複雑な政治闘争、権力闘争の角逐の中で、いまだ政治に関与したことのなかったこの女性は、玄宗皇帝が彼女に夢中になり、また彼女の家族を特別に厚遇したということだけで、君主を迷わし国を誤らせ禍をもたらした罪魁となり、最後には無残にも締め殺されたうえ、千古に残る悪名を背負わされ、正真正銘の生け贅の小羊となった。

唐代に、このような悲劇が決して他になかったわけではない。中宗の趨皇后(死後に皇后の称号を追贈)は王妃となった時、母親の常楽長公主と武則天の間に抗争が起ったため、内侍省(宮中に在る官官管理の一役所)に拘禁された。毎日窓から生のままの食事を少し与えられただけで、世話する人もいなかった。数日後、衛士が中で死んでいるのを発見したとき、死体はすでに腐乱していた。容宗の睾后と劉后は人から無実の罪に陥れられ、武則天の命で、同じ日に秘密裏に殺され、死体は行方知れずになった。粛宗が皇太子だった時、章妃は長兄が罪により死を賜ったため粛宗と離婚を余儀なくされた。以後彼女は宮中で尼僧となって終生灯明古仏を伴としてくらした。唐末、昭宗の何皇后の最後はさらに悲惨で、昭宗が朱全忠に殺された後、罪を控造されて締め殺され、王朝交替の犠牲者となった。

 

第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うこと

大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と艱難を共にしたことによって寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麗人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。王皇后と玄宗は艱難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った喜后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔艱難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がちょっとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂実の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ひどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃嬢に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災難を逃れることができた(王走保『唐掟言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と斎淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。

この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから手足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。

 

后妃、妃嬪にとって脅威は皇帝の死去

これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」 へと転じることができた。少なくとも子のある妃嬪はちょっとした地位を保つことができたが、子のない妃嬢たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后といぅ至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭太后を礼遇しなかった。それで郭太后は鬱々として楽しまず、楼に登って自殺しょうとした。宣宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。

唐代の后妃のなかには、そのほか皇帝に殉死したという特別な例がある。それは武宗の王賢妃である。彼女はもとは才人の身分であり、歌舞をよくし、皇帝からたいへんな寵愛を受けた。武宗は危篤間近になると、彼女に「朕が死んだらお前はどうするのか」と問うた。すると彼女は「陛下に御供して九泉にまいりたいと思います」と答えた。すると武宗は布を彼女に与えたので、王才人は帳の下で首をくくって死んだ(『資治通鑑』巻二四八、武宗会昌六年)。次の宣宗が即位すると、彼女に「賢妃」を追贈し、その貞節を誉め讃えた。このようにして、一個の生きた肉体が「賢妃」という虚名と取り換えられたのである。

もし、予測のつかない未来と苦難の多い運命によって生みだされる不安な感情が、后妃たちの生活の普通の心理であったとするなら、もう一つ彼女たちにまとわりついているのは、心の慰めや家庭の暖かさが欠けていることによって深く感ずる孤独、寂蓼、哀怨の気特であった。次のようにも言うことができよう。彼女たちは物質的には豊かであったが、人間の情愛の面では貧しかったと。

寵愛を失った者は言うまでもないが、寵愛を受けている者でさえも、何万にものぼる女性が一人の男性に侍っている宮中においては、誰も皇帝の愛情をいつまでも一身に繋ぎとめておくことは不可能であり、また正常な夫婦生活と家族団欒の楽しみを味わうことも不可能であった。皇帝が訪れることもなくなって、零落してしまった后妃の場合、おのずから悲痛はさらに倍加した。

玄宗の時代、妃嬪がはなはだ多かったので、「妃嬪たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃嬪のところに赴いた」。また、妃嬪たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。

「長門(妃嬪の住む宮殿)閉ざし定まりで生を求めず、頭花を焼却し挙を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王建「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら荊の簪を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「婕妤怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作品を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには彼女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。

 

 

残酷な生存競争

日常的に危険と不安が潜伏している後宮のなかで、気の弱い者、能力のない者は、ただ唯々諾々と運命に翻弄されるしかなかった。しかし、ちょっと勇敢な者は、他人から運命を左右されることに甘んぜず、自分の力をもって自分の運命を支配し変革しょうとし、さらに進んでは他人をも支配しょうとした。これは高い身分にいることから激発される権力欲ばかりではなかった。彼女たちの特殊な生活環境もまた、彼女たちを一場の激しい 「生存競争」 の只中に投げ入れずにはおかなかったのである。

 

 

皇帝の寵愛を失う恐怖があるからこそ、人は様々な手段を講じて寵愛をつなぎとめたり、寵愛を奪いとろうとした。後宮における寵愛をめぐる最も残酷な一場の闘争は、武則天、王皇后、粛淑妃の間で行われた。王皇后は皇帝の寵愛もなく、また子もなかったので、寵愛を一身に受ける斎淑妃を嫉妬して張り合った。彼女は高宗がかつて武則天と情を通じていたことを知ると、策略をめぐらし、感業寺の尼になっていた武則天に蓄髪させて再び宮中に入れ、粛淑妃の寵愛を奪わせようとした。宮中に入ったはじめのうちは武則天もへりくだって恭しくしていたが、いったん帝の寵愛を得ると、この二人の競争相手に対抗し始めた。王皇后を廃するために武則天は自分の生んだ女の子を締め殺し、その罪を皇后にかぶせることもいとわなかった。最終的に武則天はさまざまな計略と手段をもって徹底的に競争相手を打ち破って皇后になり、王、請の二人は悲惨な末路をたどった。斎淑妃は処刑される時、武則天を激しく呪い、「願わくば来世は猶に生れ、武氏を鼠にして、世々代々その喉笛にくらいつき仇を討ちたい」といった。後宮の競争の激しさは人を懐然とさせる。こうした競争は王后、粛妃が起したものではないし、また武則天だけを谷めることもできない。それはじつに後宮のなかで極限にまで発展した、一夫多妻制度がもたらした産物であった。政治と権力が彼女たちの争いを発酵させ膨らませたのであり、その激烈さは普通の家庭の妻と妾の争いを遥かに越えるものとなった。

皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなくなるので、早くから考えをめぐらせた人たちもいた。男子を生んだ后妃は、いうまでもなくあらゆる手段を講じてわが子を皇太子にし、その貴い子の母たる地位を手に入れようとした。こうして跡継ぎを決めることも、后妃たちの激しい競争となった。玄宗はすでに趨魔妃の生んだ子を皇太子にしていたが、武恵妃が玄宗の寵愛を受けるようになると、現皇太子の位を奪って我が子寿王を皇太子に立てようと画策した。まず彼女は皇太子を廃するため罠をしかけて、〝宮中に賊が出たと言って皇太子と二人の王子に鎧を着て来させ、その後で玄宗に三人が謀反を起したと告げた。それで、太子と二人の王子は処刑された。男子のない后妃、あっても皇太子になる望みのない后妃は別に出路を求め、皇太子かその他の皇子たちにとりいって自己の安全を図ったのである。高祖李淵が晩年に寵愛したダ徳妃、張捷好などは子がなかったり、あっても助かったので、すでに勢力をもっている他の何人かの皇子と争うことはたいへん難しかった。そこで彼女たちは皇太子の李建成と互いに結びあい、利用しあって建成の即位を助け、高祖の死後のわれとわが子の不測の運命にそなえたのである。

后妃たちは表面的には高貴で優閑な生活を送っていたが、裏では緊張に満ちた活動をしており、それは彼女たちの別の生活の大きな部分をなしていた。こうした様々な手段は決して公明正大なものとはいえない。しかし、政治の変動と後宮の生活が彼女たちにもたらす残酷無情な状況を見るならば、そしてまた天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったことを考えるならば、彼女たちが自分の運命を変えようと少しあがいたからといって、どうして厳しく責めることができよう。

743年(19)李白338-#3 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338-#3> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

李白  鞠歌行 #3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。奈何今之人,雙目送飛鴻。

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。

743年(19)李白338-#3 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338-#3Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白338-#3> Ⅰ李白詩1663 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6863

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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年:743年天寶二年43歳 94-19

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    鞠歌行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

營丘 (河南道 青州 臨淄)   

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:  

 

 

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。

#2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

#2

曲を聽いては甯戚を知り,夷吾は小妻に因る。

秦穆 五羊の皮,死を買う 百里奚。

青雲の上に洗拂す,當時 賤しきこと泥の如し。
#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。

平生渭水曲,誰識此老翁。

太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。

奈何今之人,雙目送飛鴻。

今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。

朝歌 鼓刀の叟,虎變す 磻溪の中。

一舉して六合を釣り,遂に營丘の東を荒【たも】つ。

平生 渭水の曲,誰か此の老翁を識らん。

奈何んぞ 今の人,雙目 飛鴻を送るを。

yoshu&choan736Ta唐 長安近郊圖  新02 

『鞠歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
鞠歌行 #1

#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。

奈何今之人,雙目送飛鴻。


(下し文)
#3

朝歌 鼓刀の叟,虎變す 磻溪の中。

一舉して六合を釣り,遂に營丘の東を荒【たも】つ。

平生 渭水の曲,誰か此の老翁を識らん。

奈何んぞ 今の人,雙目 飛鴻を送るを。

(現代語訳)
#3

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。

そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。

太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。

今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。


(訳注) 鞠歌行 #3

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

陸機 鞠歌行晉 陸機 《鞠歌行》序:《漢宮閤》有 含章 鞠室, 靈芝 鞠室, 後漢 馬防 第宅卜臨道, 連閣、通池、鞠城, 彌於街路。 《鞠歌》將謂此也。” 張載 《鞠歌行》:《鞠歌》胡然兮, 邈余樂之不猶。”參見“

【きく】[漢字項目],きくいく【鞠育】,きくじん【鞠訊/鞫訊】,きくもん【鞠問/鞫問】,きっきゅうじょ【鞠躬如】,まり【鞠】,,鞠躬尽瘁,鞠躬。

 

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

そうしてみれば、甯戚とか、百里奚という人物は、上のものが彼らを認める力があったからそうなったのであるが、これと少し違うのは太公望は、朝歌の市中にいて、刀を鼓して牛を屠殺していたが、これが、磻溪の中に、虎變して文王の師となったのである。

朝歌鼓刀叟 太公望のこと。東海のほとりの出身であり、祖先は四岳の官職に就いて治水事業で禹を補佐したとされている。一族の本姓は姜氏だったが、支族は呂(現在の河南省南陽市西部)や申(現在の陝西省と山西省の境)の地に移住し、土地名にちなんだ呂姓を称したという。元は屠殺人だった、あるいは飲食業で生計を立てていたとする伝承が存在する

磻溪 別に“磻谿”或は“ 磻磎”ともいう。太公望が釣りをしていた河川水名。今西省宝市東南,伝説にいう、周尚がまだ文王に遭遇していない時期に釣り糸を垂れていた場所であり、この地名を以て尚という意味としている

 

一舉釣六合,遂荒營丘東。

そして、一挙に六合を釣り上げて、天下統一の大功を成し遂げた後は、ついに、荒れていた營丘の東であるところの斉の國をわが有とした。

一舉釣六合 周の軍師として昌の子の発 (後の武王) を補佐し、殷の諸侯である方の進攻を防いだ。殷を牧野の戦いで打ち破った。

遂荒營丘東 《詩経、魯頌》「奄有龜蒙、遂荒大東。」(龜蒙を奄有し、遂に大東を荒【たも】つ)亀山・蒙山をも奄い有ち、延いて大陸の極東のはてまでも覆い保有し、東海に臨む迄に至っている。 《史記、太公望、世家》「於是武王已平商而王天下、封師尚父於齊營丘。」(是に於いて武王は已に商を平らげて天下に王たり。 師尚父を斉の営丘に封ず。)とある。

営丘に赴任後、呂尚は隣接する莱の族長の攻撃を防いだ。『史記』によれば、呂尚は営丘の住民の習俗に従い、儀礼を簡素にしたという。営丘が位置する山東は農業に不適な立地だったが、漁業と製塩によって斉は国力を増した。

 

平生渭水曲,誰識此老翁。

太公望は、夢に見たといって探し求めてくれて遭遇できたからよかったけれど、それがなければ、平生の渭水のほとりで釣りをする一老翁に過ぎなかっただろうし、だれもこの人を識別できなかったであろう。

渭水曲 渭水の淵。渭水のほとりで釣りをする太公望のこと。

 

奈何今之人,雙目送飛鴻。

今の世の人は、衛の靈公が孔子を引見した時、空を飛ぶ雁を見ていたと同じことで、全く賢者を用いる意思がないと悟ったように、甯戚や、百里奚のように、それに、太公望のような偉人がいたとしても、世に出ることができずに、大功業を立てることができず、埋もれたままのものがいるということは慨嘆に堪えぬものである。

飛鴻 《史記、衛靈公第十五》 「衛靈公問陳於孔子。孔子對曰:俎豆之事、則嘗聞之矣、軍旅之事未之學也。明日遂行」靈公が雁が飛ぶ隊列を眺めてぼんやりしているのを見て、孔子は用ひられざるを知り、衛を去ることを決めたとしている。

743年(19)李白338-#2 巻三09-《鞠歌行》-#2 Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338-#2> Ⅰ李白詩1662 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6858

李白  鞠歌行 #2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。秦穆五羊皮,買死百里奚。洗拂青雲上,當時賤如泥。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

743年(19)李白338-#2 巻三09-《鞠歌行》-#2 Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白338-#2> Ⅰ李白詩1662 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6858

 

 
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  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(19)李白338-#2 巻三09-《鞠歌行》-#2 Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338-#2> Ⅰ李白詩1662 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6858  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43歳 94-19

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    鞠歌行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

營丘 (河南道 青州 臨淄)   

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:  

 

 

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。

#2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

#2

曲を聽いては甯戚を知り,夷吾は小妻に因る。

秦穆 五羊の皮,死を買う 百里奚。

青雲の上に洗拂す,當時 賤しきこと泥の如し。
#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。

奈何今之人,雙目送飛鴻。

 

 

『鞠歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文) 
鞠歌行 #2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

(下し文)

#2

曲を聽いては甯戚を知り,夷吾は小妻に因る。

秦穆 五羊の皮,死を買う 百里奚。

青雲の上に洗拂す,當時 賤しきこと泥の如し。


(現代語訳)
#2

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。


(訳注) 鞠歌行#2

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

陸機 鞠歌行晉 陸機 《鞠歌行》序:《漢宮閤》有 含章 鞠室, 靈芝 鞠室, 後漢 馬防 第宅卜臨道, 連閣、通池、鞠城, 彌於街路。 《鞠歌》將謂此也。” 張載 《鞠歌行》:《鞠歌》胡然兮, 邈余樂之不猶。”參見“

【きく】[漢字項目],きくいく【鞠育】,きくじん【鞠訊/鞫訊】,きくもん【鞠問/鞫問】,きっきゅうじょ【鞠躬如】,まり【鞠】,,鞠躬尽瘁,鞠躬。

 

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

それから、甯戚は齊の桓公をおかさんがために、歌を唄ったが、その意味は誰も意味合いを理解しえなかったが、幸いその時の宰相であった夷吾の小妻に賢明な婦人がいて、そのことを詳しく管仲に告げたから、管仲も初めてこれを悟り、やがてこれを桓公に進めて、ついに重く用いられたという。

甯戚 斉の宰相。衛の人。斉桓公に用いられようと思い、斉に赴き、牛飼をして牛に飯を食わせる歌を歌った。桓公はこれを聞いて、 甯戚を見出して登用した。漢の劉向 《列女傳齊管妾婧》に以下のように書かれている。

齊管妾婧: 妾婧者,齊相管仲之妾也。甯戚欲見桓公,道無從,乃為人僕。將車宿齊東門之外,桓公因出,甯戚擊牛角而商歌,甚悲,桓公異之,使管仲迎之,甯戚稱曰: 浩浩乎白水! 管仲不知所謂, 不朝五日, 而有憂色。 其妾婧進曰:古有《白水》之詩。 詩不云乎「浩浩白水,儵儵之魚,君來召我,我將安居,國家未定,從我焉如。」此甯戚之欲得仕國家也。  管仲大悦,以報桓公。桓公乃修官府,齊戒五日,見寧子,因以爲佐,齊國以治。

妾婧は,齊相である管仲の妾なり。甯戚 桓公に見えんと欲す,道 從る無し,乃ち人の僕と為り。車を將いて齊の東門の外に宿す,桓公 因って出づ,甯戚 牛角を擊って 商歌,甚だ悲し,桓公 之を異み,管仲をして之を迎えしむ,甯戚 稱して曰く: 浩浩乎たり 白水と! 管仲 謂う所を知らず, 朝せざること五日にして,憂色有り。 其の妾婧 進んで曰く:古の《白水》の詩有り。 詩に云わずや「浩浩たり白水,儵儵の魚,君來って我を召く,我 安居に將て,國家 未た定らず,我從て焉如。」此甯戚國家うるをんとする也。  管仲 大いに悦び,以って桓公に報ず。桓公 乃ち官府を修し,齊戒すること五日にして,寧子を見,因って以て佐と爲し,齊國 以って治まる。

夷吾 管仲の字。夷吾は、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており、以下本稿でも管 仲として記す。三国時代の管寧はその後裔という。

因小妻 小妻に賢明な婦人がいて、その内容ことを詳しく管仲に告げたことによる。

〔桓公:春秋時代・斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に晋の文公と並び数えられる。鮑叔の活躍により公子糾との公位継承争いに勝利し、管仲を宰相にして斉を強大な国とした。実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った。〕

 

秦穆五羊皮,買死百里奚。

それから秦の穆公は、五羊の皮をもって,百里奚を贖ったのであるが、それでも、百里奚を重用したことで、五覇の一と称せられるまでになった。

百里奚 春秋時代の秦の人。字(あざな)は井伯。孟明視の父。楚に捕らえられていたとき、秦の穆公(ぼくこう)がその賢を聞き、羖羊(こよう)(黒い牡の羊)の皮5枚で買って宰相としたので、その恩にこたえて大いに活躍、穆公を春秋五覇の一人とした。五羖大夫(ごこたいふ)

 

洗拂青雲上,當時賤如泥。

その当時、百里奚は、死に瀕した囚人に過ぎず、ひとたびこれを洗浄して、青雲の上にその身をいたさしめたがために、国家を治る大經綸を実施せしめることができたが、もしこれを洗拂するものがなかったならば、その賤しきこと、泥土のごとく、そのまま死んだことだろう。

〔經綸:国家の秩序をととのえ治めること。また、その方策。(大展經綸《三國演義》第三十八回:“先取荊州後取川,大展經綸補天手。)政治的な才能を十分に発揮すること〕

743年(19)李白338 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(19) <李白338> Ⅰ李白詩1661 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6853

李白  鞠歌行 #1

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

743年(19)李白338 巻三09-《鞠歌行》(玉不自言如桃李,) 338Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-19) <李白338> Ⅰ李白詩1661 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6853

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-19

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    鞠歌行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              荊山 (山南東道 無第二級行政層級 荊山)       

營丘 (河南道 青州 臨淄)   

磻溪 (京畿道 岐州 虢縣)   

交遊人物/地點:  

 

 

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。
#2

聽曲知甯戚,夷吾因小妻。

秦穆五羊皮,買死百里奚。

洗拂青雲上,當時賤如泥。

#3

朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。

一舉釣六合,遂荒營丘東。

平生渭水曲,誰識此老翁。

奈何今之人,雙目送飛鴻。

 

詩文(含異文)

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。聽曲知甯戚,夷吾因小妻。秦穆五羊皮,買死百里奚。洗拂青雲上,當時賤如泥。朝歌鼓刀叟,虎變磻溪中。一舉釣六合,遂荒營丘東。平生渭水曲,誰識此老翁【誰數此老翁】。奈何今之人,雙目送飛鴻【雙目送征鴻】。

 

 

『鞠歌行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

鞠歌行

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

(下し文)
(鞠歌行【きくかこう】)

玉は自ら言わず 桃李の如し,魚目 之を笑うて卞和【べんか】恥づ。

楚國の青蠅 何ず太だ多し,連城の白璧 讒毀に遭う。

荊山 長く泣血の人を號ばしめ,忠臣 死せば 刖足【げっそく】の鬼と為らん。

(現代語訳)
(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。


(訳注)

鞠歌行

(鞠をけって遊ぶ宮中の有様を比興手法で歌ったもの)

陸機 鞠歌行晉 陸機 《鞠歌行》序:《漢宮閤》有 含章 鞠室, 靈芝 鞠室, 後漢 馬防 第宅卜臨道, 連閣、通池、鞠城, 彌於街路。 《鞠歌》將謂此也。” 張載 《鞠歌行》:《鞠歌》胡然兮, 邈余樂之不猶。”參見“

鞠【きく】[漢字項目],きくいく【鞠育】,きくじん【鞠訊/鞫訊】,きくもん【鞠問/鞫問】,きっきゅうじょ【鞠躬如】,まり【鞠】,,鞠躬尽瘁,鞠躬。

 

玉不自言如桃李,魚目笑之卞和恥。

「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」といわれるが、玉はものを言わないことだけは、桃李と同じであるが、その下に小道をなすような効果はない、これに反して、魚目は、玉が世人に重んぜられないと笑っても、玉自身は自らの価値の良しあしを言うわけではないので、「卞和の恥」といわれるように、それが「連城の璧」といわれるようなこともあるのである。

○桃李 司馬遷《史記李將軍列傳論》「諺曰:『桃李不言,下自成蹊。』此言雖小,可以諭大也。」(諺に曰はく、「桃李言はざれど、下自ら蹊を成す。」此の言小なりと雖も、以て大をふべきなり。)

 

《荀子》「桃李茜粲于一時,時至而後殺,至于松柏,經隆冬而不凋,蒙霜雪而不變,可謂得其真矣」(桃李は一時に茜粲たるも,時至って後に殺がる,松柏に至っては,隆冬を經て凋まず,霜雪を蒙って變せず,其の真を得たりと謂う可し。)に基づく。松柏は、御陵の東西に植えられる常緑樹。

李白《送薛九被讒去魯》「賢哉四公子,撫掌黃泉裡。借問笑何人,笑人不好士。爾去且勿諠,桃李竟何言。沙丘無漂母,誰肯飯王孫。」(賢なる哉 四公子,掌を撫す 黃泉の裡。

借問す 何人を笑うか,人の 士を好まざるを笑う。爾 去って 且つ諠しゅう勿れ,桃李 竟に何をか言う。沙丘に漂母無く,誰か肯えて 王孫に飯せん。)

ここにあげた、平原公君、孟嘗君、信陵君、春申君の四人は、戦国時代にあって、共に、賓客を好み、四公子と名をはせた賢者たちで、その死後、黄泉の国において、互いに尊重したがいに慰め合っているであろう。そこで、何人を笑うのかと問うてみると、世の中の権勢のある人が兎角好まず、したがって大事業を起こせないようなものこそつまらぬもので笑うべき人というのである。君は今、高士を好まざる世の中において、ついにもちいられず、讒言を被って追い出されてしまったからと言って格別恥にはならない。素直にここを発ち去って、くどくどしく騒ぎ立てない方が宜しいし、物言わずして、自然にその下に小路を為すという桃李のように、奥ゆかしく有ってほしいのである。顧みれば、この砂丘を中心とする、魯國を訪ね回ってみても、韓信の漂母のようなものはいないのであるから、王孫の窮を憐れんで、これに飯を与えるというようなこともないから、この地は、決して、九恋の地ではない。從ってさっさとここを立ち去って他の地に往く方が良いのである。

295-#2 《卷11-14贈從弟冽》Index-21Ⅱ― 16-741年開元二十九年41歳 <295-#2> Ⅰ李白詩1590 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6498

 

 

贈范金卿,二首之一 #1

君子枉清盼,不知東走迷。離家來幾月,絡緯鳴中閨。

桃李君不言,攀花願成蹊。那能吐芳信,惠好相招攜。

我有結綠珍,久藏濁水泥。

(范金卿に贈る,二首の一) #1

君子 清盼を枉げ,知らず 東に走って迷うを。

家を離れて 幾月來り,絡緯 中閨に鳴く。

桃李 君 言わず,花を攀じて 蹊を成さんと願う。

那ぞ能く芳信を吐き,惠好 相い 招攜せん。

我に結綠の珍有り,久しく 濁水の泥に藏す。

(兗州金縣の縣令の范某に贈った詩、その一) #1

君子は、涼しき目を動かして、四邊を見まわし、狂者を逐うで東定するものの心迷えるを知らず、あくまで純潔の心情を持って居る。

われ家を離れて、未だ幾月も経過せざるに、春去り、夏徂き、世は既に秋に成って、かごとがましき蟲の聾が、閨中に近くすだくのが聞こえる。

君の徳化は、さながら桃李の花の如く、物言はざれども誠信の心は、自然、人を引きつけて、その下、自ら蹊を成す位、われも亦た、其花をとじて、蹊を開きたいと思う位である。

君にして、わが為に、芳言を吐き、惠して之を好し、われを招いて、提携して呉れるならば、この上もない仕合せな事である。

われは、結緑の美玉を持って居るが、濁れる泥水の中に久しく蔵して置いた故に、時人は、その寶たることを知らす、これを棄てて、宋人の燕石と同様、全然價の無い詰まらぬ物と思って居る。

282-#1 《卷8-07贈范金卿,二首之一》-#1Index-20Ⅱ― 15-740年開元二十八年40歳 <282-#1> Ⅰ李白詩1564 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6368

 

 

李白《送姪良攜二妓赴會稽戲有此贈》「攜妓東山去,春光半道催。遙看若桃李,雙入鏡中開。」(妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙【はるか】に看る 桃李の若く、双【ふたつ】ながら鏡中に入って開く。

(おいの良が妓を携えて会稽に遊びに出かけるについて、送別のために、たわむれにこの詩を作って贈ったものである。)
おいの良が妓を携えて会稽に遊びに出かけるについて、丁度、晉の大傳謝安の東山におけるがごとくである。そして会稽に赴く道中においては、春光次第に催し、まことに、良い時候で、その風興も謝安のように思われる。

汝が携えている二人の妓女を遙かに看れば、さながら、赤い桃花と白い李花がさいて姸を競っているかのようだ、そして、鏡湖の中に入って、舟を浮かべての宴は、はなやかに開かれて、その風情はまたひとしおであろうけど、わたしは、はるかな長江流れにいる。

274 《卷十六11送姪良攜二妓赴會稽戲有此贈(改訂)》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <274> Ⅰ李白詩1552 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6308

 

 

李白《贈徐安宜》「川光淨麥隴,日色明桑枝。訟息但長嘯,賓來或解頤。青橙拂牖,白水流園池。遊子滯安邑,懷恩未忍辭。翳君樹桃李,晚託深期。」

川光 麥隴に淨く,日色 桑枝に明かなり。

訟息んで 但だ長嘯し,賓 來って或は頤【おとがい】を解く。

青橙は牖を拂い,白水は園池に流る。

遊子 安邑に滯し,恩を懷うて 未だ辭するに忍びず。

翳【これ】君 桃李を樹う,晚 深期を託す。

されば、野水はキラキラとして麦畑の間に浄く見えている、太陽の光は桑の葉や枝打を大きくするように鮮やかに照らしている。

徐公の庭の上には、訴訟沙汰などは興っていなく、いたって暢気であるから長嘯しているのであるし、賓客が来訪すれば話し上手でみんなを笑わせてくれるのである。

そして、徐公の住居と云えば、青橙が窓際に植えられていて、清らかな水の流れは園地に流れ込む。

私は、今、この地、安邑に旅人として来て久しく滞留していたが、徐公の治下を見て、痛く心に感じるもので、辞して去るには忍びない。

思えば、貴公は桃李を植えたようなもので、「夏は休息を得るべく、秋は実を得るべし」と云う通り、いずれ目に見えるような結果があるに相違ないから、これを貴公の晩年に期して、心長閑に待っておられるのがよいであろう。

 

樹桃李 《説苑》「夫樹桃李者。夏得休息。秋得食焉。樹蒺藜者。夏不得休息。秋得其刺焉。今子之所種(種作樹)者蒺藜也。非桃李也。自今已來。擇人而樹之。毋已樹而擇之也。」に基づく。

264-#2 《卷8-04贈徐安宜#2》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <264-#2>(改訂版Ver..2.1) Ⅰ李白詩1532 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6208

 

 

魚目 魚の目。李白《古風,五十九首之五十六》「魚目復相哂,寸心增煩紆。」(魚目して 復た相い哂い,寸心 煩紆を增す。)これが魚の目であれば、珠の形をしているが、なんの価値もないものであるが、今の世では、この方が帰って珍とされるぐらいで、魚目は、南越の明珠を笑っているというもので、何らの価値を見出さないのである。君子が君王に見いだされないで、かえって世人、小人、どもの侮蔑されるのも、丁度この事と同じことであり、これを思えば、方寸の心の中で、頻りに思いは乱れるというもののである。

・魚目 魚の目。・寸心 方寸の心の中。・煩紆 頻りに思いは乱れる。

李白327 《巻一56-《古風,五十九首之五十六 (越客採明珠)327Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-8) <李白327> Ⅰ李白詩1640 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6748

笑之卞和恥 

 

楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。

それは楚の國の話である、楚国には玉を汚す青蠅のようなものが充満していた、それがために「連城の壁」と交換されるほどの価値のある白璧でありながら、讒毀ということ遭遇し、偽物だという嫌疑を受けたのである。

 

荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。

かくて、卞和は、この玉が真の玉であることの証明ができず両足を切られ、荊山に隠れて長號し、もしこの忠臣がそのまま死んだら、足なしの幽霊となったであろう。

卞和 卞和の壁(卞和恥)(趙王璧)「楚國青蠅何太多,連城白璧遭讒毀。荊山長號泣血人,忠臣死為刖足鬼。」以上四句は〔卞和恥〕の逸話である。 春秋時代の楚()の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが信じてもらえず左足を切られ、次の武王のときにも献じたが、ただの石だとして右足を切られた。文王が位につき、これを磨かせると、はたして玉であったので、この玉を「和氏(かし)の璧(たま)」と称した。のち、趙(ちょう)の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が15の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。

 

 

李白《古風,五十九首之五十》

宋國梧臺東,野人得燕石。誇作天下珍,卻哂趙王璧。

趙璧無緇磷,燕石非貞真。流俗多錯誤,豈知玉與珉。

宋國 梧臺の東,野人 燕石を得たり。

誇って 天下の珍と作し,卻って 趙王の璧を哂う。

趙璧は 緇磷【しりん】無く,燕石は 貞真に非らず。

流俗 錯誤多し,豈に玉と珉とを知らんや。

(この詩は、世俗のものは短見であり、間違った思い込みを貫き通し、すべてものの真贋、人の賢否を弁別しないことを傷んだもの)

昔から、愚鈍の評判のある宋国の人が、梧台の東において、普通にとつまらぬ燕石を拾ってきた。

一途に普通にとつまらぬ燕石と思っていたのが素晴らしい璧玉であった趙王の秘蔵する「卞和の璧玉」にも勝る天下の至宝だと思い込んで、折角だからと、これを大切にしたという話がある。

かの趙の璧玉は論語「不曰堅乎?磨而不磷;不曰白乎?涅而不緇。」というように、少しの傷もなく、その上光明爛然たるものであるが、この燕石は、その石質といえば、堅貞清真にあらず、もとより三文の値打もないものである。

しかし、この様な話は、一人、宋人のことだけではなく、滔々たる末世の風俗として、物事に錯誤が多く、玉とこれに似て非なる珉戸を全く判別することなく、つまらぬものを大切にし、貴きものを打ち棄てるということが、間間あるのである。まことに慨嘆に堪えぬ次第である。

○宋國梧臺東,野人得燕石 《藝文類聚》《闞子》「宋之愚人,得燕石於梧臺之東,歸而藏之以為寶,周客聞而觀焉。主人齋七日,端冕玄服以發寶,革匱十重,緹巾十襲,客見之。掩口而笑曰:此特燕石也。其與瓦甓不殊。主人大怒曰:「商賈之言,醫匠之口。」(宋之愚人、燕石を梧臺の東()に得て、西に帰ってこれを蔵し、以て大寶となす。周の客聞いてみる。主人斉すること七日、 端冕玄服、以て大寶となす。革重,緹巾十。客これを見て、首を傾げ、口を覆い、盧胡して笑って曰く「これ、燕石なり、瓦甓と异ならず。主人大いに怒って曰く「商買の言、醫匠のこころなり。」と。これを蔵すること、愈々固し。」とある。

燕石は 燕山所的一种似玉的石亦称"燕珉"不足珍之物。とされる。

この二句は、《太平御覧》卷五十一《闕子》曰:宋之愚人得燕石于梧台之西藏之以大宝。周客焉。主人端冕玄服以宝,华匮十重,巾十。客之,胡而笑曰:「此燕石也,与瓦甓不异。」主人大怒,藏之愈固。

743年(22)李白337 巻三08-《于闐採花》(于闐採花人,) 337Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(22) <李白337> Ⅰ李白詩1660 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6848

李白  于闐採花

于闐採花人,自言花相似。明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。
(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-22

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    于闐採花

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

 

于闐採花

(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

于闐採花人,自言花相似。

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花 方比す可き無し。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

安史期のアジア5s 

 

『于闐採花』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

于闐採花

于闐採花人,自言花相似。

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

(下し文)
(于闐【うてん】 花を採る)

于闐 花を採る人,自ら言う 花 相い似たり。

明妃 一朝 西に 胡に入る,胡中の美女 多く羞死す。

乃ち知る 漢地に名姝多く,胡中 花 方比す可き無し。

丹青 能く醜者をして妍なら令む,無鹽 翻って 深宮の裡に在り。

古より 蛾眉を妒み,胡沙 皓齒を埋む。

(現代語訳)
(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。


(訳注)

于闐採花

(西域異民族の于闐国の花を摘む女)

于闐採花 六朝の陳隋《海山記》「山川雖異所,草木尚同春。亦如溱洧地,自有采花人。」にあるのが本辭である。西国異民族の音譜を把手中国の歌楽に乗せるのが大流行し、ここにいう于闐国、即ち、胡国、異民族、匈奴であるから、李白は、王昭君の故事を詠じたのである。

于闐 西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)、於闐。コータン王国とも書かれる。漢、唐代の中国では「于」として知られていた。オアシス沿いにあり、植えられていたクワによる絹および絹織物、その他軟玉、硬玉(共にヒスイの一種)および陶磁器を輸出していた。

 

于闐採花人,自言花相似。

西域異民族の于闐国の花を摘む女は、自分の顔色も、その花に似ていると思っているものである。

 

明妃一朝西入胡,胡中美女多羞死。

それは彼女たちが中国の花、美女を知らないからで、王昭君がある朝、匈奴に嫁して匈奴に入ったときに、胡中の美女たちはその美しさに多くのものが、羞死したという。

明妃一朝西入胡 明妃は王昭君。周辺各国境付近で局地戦を常に行っている。一方、和平策も行っている。それは、最も普通なのは古来より行われた騎馬民族に対し豊かな産物や文化財を与へて懐柔するやり方と、婚姻という形をとった。この李白の時代まで、二千年近くも続いていたことであり、その中で、もっとも興味を持たれるのは、王昭君であった。

 

乃知漢地多名姝,胡中無花可方比。

このことで中国には名姝がとても多くいるということが認知され、胡中の花では比べるものがなかったというのである。

方比 比べてみること。

 

丹青能令醜者妍,無鹽翻在深宮裡。

王昭君がなぜ匈奴に入ったのかというと、後宮絵師の毛延寿に賄賂を渡さなかったために選定画を見にくく書かれたことで、不美人を選定し、胡地に送ったのであった。是と反対に、無鹽のごとき醜いものであっても多分な賄賂を贈っていれば、選定画を絶世の美女に書き上げ後宮の妃賓の列に加わり、君側に侍することになるのである。

丹青能令醜者妍 ・丹青は宮廷絵師のこと。丹青は赤と青の鉱物性絵の具。1 赤と青。丹碧。2 絵の具。また、彩色。「―の妙を尽くす」3 《「たんぜい」とも》絵画。また、絵の具で描くこと。

無鹽 「貌似無鹽」醜女にたいする形容である,這「無鹽」とは是れ戰國時代齊國の無鹽縣醜女が鐘離の春,今の山東東平縣東部に在る。書上她「四十にして未だ嫁せず」,「極めて醜く雙と無し」,「凹頭 深目,長肚大節,昂鼻結喉,肥頂少髮」,而して且つ「皮膚烤漆」とみにくいことをいう。

 

自古妒蛾眉,胡沙埋皓齒。

古より言われていることわざ通り、蛾眉は後宮に入れば、妬まれるものであり、それも胡地に送られる言であり、その絶世の美女は胡地の砂漠に明眸皓歯をうずめて、ついに帰らぬ人となった。人生には、凡そ、このような実に慨嘆に堪えぬこともあるのである。

 

 

王昭君  李白

昭君払玉鞍、上馬啼紅頬。

今日漢宮人、明朝胡地妾。

 

王昭君  李白

漢家秦地月、流影照明妃。

一上玉関道、天涯去不帰。

漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。

燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。

生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。

 

李白33-35 王昭君を詠う 三首

怨詩 昭君  漢詩<110-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩545 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1452

怨詩 王昭君  漢詩<110-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩546 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1455

王昭君歎二首 其一 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) <114-#1>玉台新詠集 女性詩 551 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1470

王昭君歎二首 其二 沈満願(梁の征西記室范靖の妻) 女流<115>玉台新詠集 女性詩 552 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1473

 

◎王昭君
前漢の元帝の宮女。紀元前33年(竟寧元年)、匈奴との和親のため、呼韓邪単于に嫁し、「寧胡閼氏」としてその地で没した。名は檣。昭君は字。明君、明妃は、「昭」字をさけたための晋以降の称。
『漢書・本紀・元帝紀』「竟寧元年春正月,匈奴 呼韓邪單于來朝。詔曰:「匈奴呼韓邪單于不忘恩德,鄕慕禮義,復修朝賀之禮,願保塞傳之無窮,邊垂長無兵革之事。其改元爲竟寧,賜單于待詔掖庭王檣爲閼氏。」
王檣 王昭君のこと。
閼氏 單于の正妻の称で皇后のこと。
『漢書・匈奴傳・下』「王昭君號寧胡閼氏,生一男伊屠智牙師,爲右日逐王。」
多くの子供をもうけ、夫の没後は、匈奴の習慣に従った再婚をし、父子二代の妻となり、更に子供を儲けている。子供達の名も記録されている。
辺疆安寧のための犠牲になったことで漢・匈奴友好使節の役を果たした。
李白33-35 王昭君を詠う 三首、五言絶句『王昭君』、雑言古詩、『王昭君』、雑言古詩『于闐採花』、王昭君ものがたり『王昭君 二首』 白楽天
聞歌
斂笑凝眸意欲歌,高雲不動碧嵯峨。
銅臺罷望歸何處,玉輦忘還事幾多。
靑冢路邊南雁盡,細腰宮裏北人過。
此聲腸斷非今日,香
燈光奈爾何。

李商隠 3 聞歌

王昭君の七十余年前に、烏孫公主の故事がある。烏孫公主は漢の皇室の一族、江都王・劉建の娘で、武帝の従孫になる劉細君のこと。彼女は、西域の伊犂地方に住んでいたトルコ系民族の国家・烏孫国に嫁した。ともに漢王朝の対西域政策と軍略を物語るものである。
悲愁歌 烏孫公主(劉細君) 女流<108542 漢文委員会kannuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1443

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◎『怨詩』
空高く飛ぶ鳥のさまから己の身を想い、遙かに離れ去ることとなってしまった境遇を詠う。『樂府詩集』に基づく。『昭君怨』『怨曠思惟歌』ともする。

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