漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
大病を患い大手術の結果、半年ぶりに復帰しました。心機一転、ブログを開始します。(11/1)
ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

2015年12月

743年(54)李白 卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(53)Ⅰ李白詩1712 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7108

李白  侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。

743年(54)李白 卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-54)Ⅰ李白詩1712 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7108

 

 
  2015年12月29日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(54)李白 卷六04-《侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌》Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(53)Ⅰ李白詩1712 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7108  
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  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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743年 天寶2年(李白43)

正月

 

1.安禄山が入朝した。玄宗皇帝が特別厚く寵遇していたので、 彼は時期によらずに謁見できた。

  安禄山は上奏した。

「去年、営州で虫害が起こり、苗が食べられてしまったので、臣は香を焚いて天へ祈りました。 『臣の心がもし曲がっていて主君に不忠で仕えるならば、どうかこの虫に臣の心臓を食べさせてください。 もしも臣が神の御心に背いていないなら、どうかこの虫を追い散らしてください。』 そうすると、沢山の鳥が北から飛んできて、虫をたちどころに食べ尽くしてしまいました。 どうか、検分の役人を派遣してください。」

  これに従った。

2. 李林甫は、吏部尚書を兼ねていて、毎日政事堂に出勤しており、人事は侍郎の宋遙と苗晋卿に 全て委ねていた。

御史中丞・張倚が玄宗皇帝から気に入られ始めたので、宋遙も苗晋卿も彼と近づきになりたくなった。 この時、登用を望む者は一万人もいたのに、採用されたのは六十四人しかいなかった。 張倚の子息の張奭はその首席だったので、群議が沸騰した。 前の薊令・蘇孝韞が安禄山へ告げると、安禄山は入って上言した。 玄宗皇帝は、採用された人間を全員召集してこれを面前で試験した。張奭は試験用紙を手にしたまま、 終日一文字も書けなかった。時の人はこれを「曳白」と言った。

3. 癸亥、宋遙は武当太守に、苗晋卿は安康太守に、張倚は淮陽太守に左遷された。 この人選に関与した礼部郎中・裴朏らは、みな、嶺南の官に左遷された。

743年 天寶2年(李白43)

3月

1.     江・淮南租庸等使・韋堅が滻水の水を引き込んで望春楼の下に沢を造ろうとした。そこで江淮の運船をかき 集め、人夫や匠を使って運河を掘らせた。徴発された役夫は、まるで丘をなすように大勢で、 江淮から京城へ至るまで、民間は労役に苦しめられて愁い怨んだ。

  工事は、二年掛けて完成した。

2.     丙寅、玄宗皇帝は望春楼へ御幸して、新しい沢を観た。韋堅は、新船数百艘をこぎだした。 各々の船には平べったい板に郡名が書かれており、郡中の珍貨を船背に載せていた。

陜尉の崔成甫はきらびやかな錦の半袖、緑色のシャツで肌脱ぎになり、紅のスカーフを首に巻き、 船の先頭で得寶歌を歌った。飾り立てた百人の美人に唱和させ、船の列は数里も連なった。韋堅は跪いて諸郡の軽貨を 献上し、上は百牙の盤にて食した。

  玄宗皇帝の宴会は終日終わらず、見物人は山積みとなった。

 

743年 天寶2年(李白43)

4月

1.    韋堅に左散騎常侍を加え、その僚属吏卒も各々の地位に合わせて褒賞を下賜された。 その沢は、廣運と名付けられた。

  この時、京兆尹の韓朝宗も渭水から水を引いて西街へ沢を造り、 材木の貯蔵所とした。

2.    丁亥、皇甫惟明が軍を率いて西平らから出陣し、吐蕃を撃った。 千余里を行軍し、洪済城を攻撃し、これを破った。

長安城図 作図00 

 

年:743年天寶二年43歳 94-53

卷別:    卷一六六              文體:    七言古詩

詩題:    侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              樂遊原 (京畿道 京兆府 長安) 別名:宜春北苑、宜春北院、宜春苑、太平公主山莊、曲江、樂遊苑、樂遊園、江頭            

龍池 (京畿道 京兆府 長安)              

大明宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:永安宮、蓬萊宮、含元殿、蓬萊殿  

交遊人物/地點:  

 

 

侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。#2

上有好鳥相和鳴,間關早得春風情。

春風卷入碧雲去,千門萬皆春聲。

是時君王在鎬京,五雲垂暉耀紫清。

#3

仗出金宮隨日轉,天回玉輦繞花行。

始向蓬萊看舞鶴,還過茝若聽新鶯。

新鶯飛繞上林苑,願入簫韶雜鳳笙。

(宜春苑に侍従し、詔を奉じて、龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くの歌を賦す)

東風すでに緑にす瀛洲の草、紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。

池南の柳色なかば青青、烟を縈【めぐ】らせ裊娜【ジョウダ】として綺城を払ふ。

垂糸百尺雕楹【チョウエイ】に挂(かか)り。

上に好鳥のあひ和して鳴くあり、間関はやくも得たり春風の情。

春風 巻いて碧雲に入って去り、千門 万戸みな春声。

この時 君王は鎬京【コウケイ】にゐませば、五雲も暉【ひかり】を垂れて紫清に耀く。

仗【ジョウ】は金宮を出でて日に随って転じ、天は玉輦を回【めぐら】して花を繞って行く。

はじめ蓬萊に向って舞鶴を看【み】、また茝石を過ぎて新鴬を聴く。

 新鴬は飛びて上林苑を繞り、簫韶【ショウショウ】 に入って鳳笙に雑【まじは】らんと願ふ。

 

大明宮-座標02 

 

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

(下し文)
(宜春苑に侍従し、詔を奉じて、龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くの歌を賦す)

東風すでに緑にす瀛洲の草、紫殿 紅楼 春の好きを覚ゆ。

池南の柳色なかば青青、烟を縈【めぐ】らせ裊娜【ジョウダ】として綺城を払ふ。

垂糸百尺雕楹【チョウエイ】に挂(かか)り。

(現代語訳)
侍從宜春苑,奉詔賦龍池柳色初青,聽新鶯百囀歌 #1(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。


(訳注)#1

侍從宜春苑,奉詔賦“龍池柳色初青,聽新鶯百囀”歌

(天子に興慶宮の宜春苑に扈従して「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」龍池の柳色はじめて青く、新鴬の百囀を聴くということを題にして、歌を作れという勅命を受けに賦して作つた歌である)

1.  李白の経歴中、天寶の初、玄宗の知遇を蒙り、待詔として宮中に出仕したのが、その一生の最も光栄ある得意の時代であった。そして、ある時、天子の駕に扈従して、宜春苑へ往った時に、「龍池柳色初青、聴新鶯百囀」ということを題にして、歌を作れという勅命を受けて、即時に賦して作つたのが、即ちこの詩である。他人の應制とは異にして、古體を用いては居るが、なは且つ放逸の句法を避けて、自然初唐の風格を帯びて居る。

2.  宜春北苑 《雍録》「天寶中,即東宮置宜春北苑。按既日北苑,當在宜春宮之北。」

3.  龍池 唐詩《紀事》云:「龍池,興慶宮也,明皇潛龍之地。」《會要》云:「開元元年,出祭龍池樂章。十六年,築壇於興慶宮,以仲春月祭之。」《長安誌》:龍池,在南南薰殿北、躍龍門南,本是平地,垂拱後因雨水流潦成小池,後又引龍首支渠分之,日以滋廣,彌亙數頃深至數丈,常有雲氣,或見黃龍出其中,謂之龍池。

 

東風已綠瀛洲草,紫殿紅樓覺春好,池南柳色半青青。

東方の仙人の島の瀛洲と見紛う宜春苑には春を呼ぶ風、東風が緩やかに吹き渡って、満地の草々、木々を緑にし、すでに大明宮の紫宸殿、紫蘭殿の紫の宮殿、金鑾殿、綾綺殿の紅の楼閣、すべてに 春の景色がひろがっていて、興慶宮の龍池の南水辺の柳の色も黄緑から青々としてきた。

4.  東風 春風。

5.  瀛洲 東方海上にある仙人の住む山、蓬莱山、方丈山、瀛州山。

6.  紫殿 大明宮の中には紫宸殿、紫蘭殿など翰林院からすべて東側にあるもの。

7.  半青春 萌木色。黄緑。

 

縈煙嫋娜拂綺城,垂絲百尺掛雕楹。

暖かき虹の春霞はただよいはじめしなやかに長安城、宮城の壁を覆い払っている。龍池のしだれ柳はその枝を百尺ものながさで枝垂れて、彫刻で飾った楼の柱にかかっている。

8.  縈煙 春霞。

9.  裊娜 しなやかな様。

10. 綺城 美しい長安城、宮城の壁。

11. 垂糸 しだれ柳の枝。

12. 雕楹【チョウエイ】 楼閣の彫刻で飾った柱。
興慶宮002 

李白372 巻五 24-《秋思》(春陽如昨日) 372728年開元十六年28歲 <李白372> Ⅰ李白詩1717 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7133

李白  秋思  

春陽如昨日,碧樹鳴黃鸝。蕪然蕙草暮,颯爾涼風吹。

天秋木葉下,月冷莎雞悲。坐愁群芳歇,白露凋華滋。

(秋の寂しげな思いを述べたもの)

長閑な日和がつい昨日のように思われるが、同じように鶯が碧樹で春を告げてくれたこともそうである。しめやかに、蕙草の香りは蕪然として既に移ろい、涼風が颯颯として吹いて、香りを運んでくる。そして、秋は天高く澄みわたり、落葉が雨の如く、はらはらと散り落ちていて、夜になって月は冷ややかに照りキリギリスの声が悲しげに聞こえる。そうして秋は深まって、群芳はすでに散り果て、白露は花を凋ませて、霜露の花は滋るのである。

李白372 巻五 24-《秋思》(春陽如昨日) 372728年開元十六年28 <李白372> Ⅰ李白詩1717 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7133

 

 
  2015年12月28日 の紀頌之5つのBlog  
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春思

(春になって折楊柳に安全を祈る、そして、秦の羅敷のように貞操感高く桑を積んでいる。それでも、その思いを知ってか知らずか、羅幃の中へ春風は入ってくると詠う。)

燕草如碧絲,秦桑低綠枝。

燕の地は、北方の寒い處で、春のくることも遅いから、今しも漸く碧の絲のような細い芽が草に出た位、しかるに長安附近では、最早、桑の葉が茂って、緑の枝を垂れている。

當君懷歸日,是妾斷腸時。

君は燕にあり、我は秦に在り、君がかえることを懐う日は、即ち妾が心腸を断つおもいがつのる時である。

春風不相識,何事入羅幃。

これほどの思いをしている我が思いを知らずして、羅幃に吹きこんでいる春風は、まことに気の知れないつれないものである。

(春思)

燕草は 碧絲の如く,秦桑は 綠枝を 低たる。

君が 歸るを懷う日に 當り,是れ妾が腸を斷つの時。

春風 相い識らず,何事ぞ 羅幃に 入る。

秋思

(悲愁の秋、西域にいる夫がいつ帰るかわからず、次第に顔色が変わっていく思婦を詠う。)

燕支黃葉落,妾望自登臺。

燕支山の木の葉は、黄ばんで落ちる、今年も、はや秋に成って、まさに暮れようとしている。夫は、天涯の西域に在って、音信もまったくなく、妾はひとり高台に上って、帰ってほしいと願い思って、その方を眺めている。

海上碧雲斷,單于秋色來。

青海のほとり、碧雲断え、雲だけでも連続して夫のところに至ってくれたらと思うが、それさえもかなえてくれないのである。秋色は、遠く西域の方よりきたって、秋は、しだいに心なくしてくるけれども、その人は、見えない。

胡兵沙塞合,漢使玉關回。

はるかに、塵沙まで凝るほど、おもうに、胡兵が沙中の城塞に合圍をしてしまうから何もできず、遠く旗幟の翻るは、おもふに、和議すでに破れて、漢家の使者が玉門關から帰ってきたのであろう。

征客無歸日,空悲蕙草摧。

この時かえれば、先ず善いのだが、もし帰らなければ、この先、歸えることもあるまい。蘭恵は香草で、人の佩びるものであるが、それさへ、秋風に遇えば、いつしか零落してしまう。それと同じく、妾の顔色も、いつまで、此のままであるべきぞ。かわり易き顔色を以て、何時歸るとも知れぬ夫を待って居る思婦の身の上は、如何にも、哀れなものである。

(秋思)

燕支 黃葉落つ,妾は望んで 自ら臺に登る。

海上 碧雲斷え,單于 秋色來る。

胡兵 沙塞に合し,漢使 玉關より回る。

征客 歸える日無し,空しく 蕙草の摧くるを悲む。

 

年:       728年開元十六年28

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    秋思

 

 

191        巻五  24 

秋思 

(秋の寂しげな思いを述べたもの)

春陽如昨日,碧樹鳴黃鸝。

長閑な日和がつい昨日のように思われるが、同じように鶯が碧樹で春を告げてくれたこともそうである。

蕪然蕙草暮,颯爾涼風吹。

しめやかに、蕙草の香りは蕪然として既に移ろい、涼風が颯颯として吹いて、香りを運んでくる。

天秋木葉下,月冷莎雞悲。

そして、秋は天高く澄みわたり、落葉が雨の如く、はらはらと散り落ちていて、夜になって月は冷ややかに照りキリギリスの声が悲しげに聞こえる。

坐愁群芳歇,白露凋華滋。

そうして秋は深まって、群芳はすでに散り果て、白露は花を凋ませて、霜露の花は滋るのである。

 

(秋思)

春陽 昨日の如く,碧樹に黃鸝を鳴かしむ。

蕪然たる蕙草は暮,颯爾として涼風は吹く。

天は秋にして木葉下り,月は冷やかにして 莎雞 悲しむ。

坐ろに愁う 群芳歇み,白露 華を凋まして滋きを。

 

192        巻五                    李白43743年天寶二年作

春思 

燕草如碧絲。 秦桑低綠枝。

 當君懷歸日。 是妾斷腸時。 

春風不相識。 何事入羅幃。 

                                          

193        巻五                    李白43743年天寶二年作

秋思 

燕支黃葉落。 ( 燕支一作閼氏 ) 妾望白登台。 ( 白一作自 ) 

海上碧云斷。 ( 海上一作月出 ) 單于秋色來。 ( 單于一作蟬聲 ) 胡兵沙塞合。 漢使玉關回。 征客無歸日。 空悲蕙草摧。

 

 

 

『秋思』 現代語訳と訳註解説

(本文)

秋思 

春陽如昨日,碧樹鳴黃鸝。

蕪然蕙草暮,颯爾涼風吹。

天秋木葉下,月冷莎雞悲。

坐愁群芳歇,白露凋華滋。

 

(下し文)

(秋思) 

春陽 昨日の如く,碧樹に黃鸝を鳴かしむ。

蕪然たる蕙草は暮,颯爾として涼風は吹く。

天は秋にして木葉下り,月は冷やかにして 莎雞 悲しむ。

坐ろに愁う 群芳歇み,白露 華を凋まして滋きを。

 

(現代語訳)

(秋の寂しげな思いを述べたもの)

長閑な日和がつい昨日のように思われるが、同じように鶯が碧樹で春を告げてくれたこともそうである。

しめやかに、蕙草の香りは蕪然として既に移ろい、涼風が颯颯として吹いて、香りを運んでくる。

そして、秋は天高く澄みわたり、落葉が雨の如く、はらはらと散り落ちていて、夜になって月は冷ややかに照りキリギリスの声が悲しげに聞こえる。

そうして秋は深まって、群芳はすでに散り果て、白露は花を凋ませて、霜露の花は滋るのである。

 

 

(訳注)

秋思 

(秋の寂しげな思いを述べたもの)

琴操商調 秋思 樂府

春陽如昨日  碧樹鳴黃
蕪然蕙草暮  颯爾涼風
天秋木葉下  月冷莎雞
坐愁群芳歇  白露凋華

○○△●●  ●●○○○

○○●●●  ●●△△△

○○●●●  ●△○○○

●○○○●  ●●○△○

 

春陽如昨日,碧樹鳴黃鸝。

長閑な日和がつい昨日のように思われるが、同じように鶯が碧樹で春を告げてくれたこともそうである。

25 黃鸝 高麗鶯。杜甫『大雲寺贊公房四首其一』「黃鸝度結構,紫鴿下罘。」

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蕪然蕙草暮,颯爾涼風吹。

しめやかに、蕙草の香りは蕪然として既に移ろい、涼風が颯颯として吹いて、香りを運んでくる。

26 蕪然 草木が有れ茂れるさま。

 

天秋木葉下,月冷莎雞悲。

そして、秋は天高く澄みわたり、落葉が雨の如く、はらはらと散り落ちていて、夜になって月は冷ややかに照りキリギリスの声が悲しげに聞こえる。

27 木葉下 岸の木の葉が頻りに散っている。《楚辞·九歌·湘夫人》「嫋嫋兮秋風,洞庭波兮木葉下。

28 莎雞 キリギリス。

 

坐愁群芳歇,白露凋華滋。

そうして秋は深まって、群芳はすでに散り果て、白露は花を凋ませて、霜露の花は滋るのである。

29. 群芳歇 群芳はすでに散り果てること。

30. 白露凋華滋 白露は花を凋ませて、霜露の花は滋る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1「春思」は、古楽府の題にはないが、李白には、「秋思」という詩が二首ある。作時期の違いはあるが、思婦につぃて詠ったものである。この「春思」詩に関連した詩は次に述べる。

 

秋思・春思

 

《巻五 24秋思》

春陽如昨日、碧樹鳴黃鸝。

蕪然蕙草暮、颯爾涼風吹。

天秋木葉下、月冷莎雞悲。

坐愁群芳歇、白露凋華滋。

(秋思)

春陽は昨日の如く、碧樹に黃鸝を鳴かしむ。

蕪然たる蕙草の暮、颯爾として涼風吹く。

天は秋にして 木葉下り、月は冷やかにして莎雞悲む。

坐に愁う 群芳歇み、白露 華は凋まして滋きを。

《巻五 25-春思》

燕草如碧絲,秦桑低綠枝。

當君懷歸日,是妾斷腸時。

春風不相識,何事入羅幃。

(春思)

燕草は 碧絲の如く,秦桑は 綠枝を 低たる。

君が 歸るを懷う日に 當り,是れ妾が腸を斷つの時。

春風 相い識らず,何事ぞ 羅幃に 入る。

《巻五 26秋思》

燕支黃葉落,妾望自登臺。

海上碧雲斷,單于秋色來。

胡兵沙塞合,漢使玉關回。

征客無歸日,空悲蕙草摧。

(秋思)

燕支 黃葉落つ,妾は望んで 自ら臺に登る。

海上 碧雲斷え,單于 秋色來る。

胡兵 沙塞に合し,漢使 玉關より回る。

征客 歸える日無し,空しく 蕙草の摧くるを悲む。

*季節も変わり、月日も流れた…、という時間経過を表している。

2 燕草:北国である燕国の草。夫のいるところをさす。 ・燕:〔えん〕北国の意で使われている。現・河北省北部。 ・如:…のようである。 

3 碧絲:緑色の糸。 ・碧:みどり。あお。後出「綠」との異同は、どちらも、みどり。「碧」〔へき〕は、碧玉のような青緑色。青い石の色。「綠」〔りょく〕は、みどり色の絹。

4 秦桑:(ここ)長安地方のクワ。陌上桑の羅敷 ・秦:〔しん〕、女性のいる場所の長安を指している。 ・低:低くたれる。 秦桑 秦地、即ち長安附近の桑、自己の居るところをさす。《巻五02 -陌上桑》「綠條映素手,採桑向城隅。」(綠條 素手に映じ,桑を採って城隅に向う。)陌上桑には二つある。一には、李白がこの詩、子夜歌に述べた羅敷「秦氏有好女,自名為羅敷。」であり、二は魯の秋胡の妻、《列女伝 秋胡子》「潔婦者,魯秋胡子妻也。」、顔延之(延年)《秋胡詩》のこと、李白はこの詩の後半最後に「使君且不顧,況復論秋胡。徒令白日暮,高駕空踟躕。」と述べている。

5 綠枝:緑色の枝。

6 君:(いとしい)あなた。男性側のこと。 

7 當:…あたる。 

8 懷歸日:戻ってこようと思う日。(彼女に告げていた)帰郷の予定日。

9 是:(それは)…である。 

10 妾:〔しょう〕わたし。女性の謙遜を表す自称。 

11 斷腸:腸(はらわた)が断ち切られるほどのつらさや悲しさ。

 *この聯は、いつになっても帰ってこない男性を、ひたすら待つ身のやるせなさを謂う。 

12 不相識 顔見知りの人ではない。知り合いの人ではない。

13 何事 どうしたことか。 

14 羅幃〔らゐ〕薄絹のとばり。
 *わたし(=女性)の切なく淋しい胸の内を理解して、春風は慰めてくれているのであろうか。 

15 燕支 燕支山のこと。焉支山,又稱胭脂山、刪丹山といい、河西走廊的南部,今日中國甘肅山丹縣城東南50kmの處にある。

16 黃葉落 木の葉が落ちる、気持ちが落ちる。

17 妾 女の自称。

18 望自登臺 秋、99日重陽には高いところに登って夫のことを思う。望夫台は各地にある。

19 海上 臨武、隴右を越えれば、青海があり、その向こうの西域は天竺と思っていた時代である。

20 碧雲斷 高いところに登って冬雲の変わりつつある雲に思いを告げれば伝えてくれそうに思う。

21 單于 本来匈奴の最高地位を言うが、此処ではその者たちの支配する場所。李白が朝廷の関係者の前でこの詩を作ったので、匈奴を卑下して言ったもの。

22 沙塞合 砂を固めてレンガにする、いわゆる日干し煉瓦で造った塞を、匈奴の兵士が取り囲むことを言う。

23 漢使玉關回 漢の使者が玉門関に集められた手紙や言伝を冬になる前に行き、冬になるまでに長安に持ち帰ること。

24 蕙草 この詩の女性自身、女性の心持を言う。

25 黃鸝 高麗鶯。杜甫『大雲寺贊公房四首其一』「黃鸝度結構,紫鴿下罘。」

大雲寺贊公房四首其一#2 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 1652

26 蕪然 草木が有れ茂れるさま。

27 木葉下 岸の木の葉が頻りに散っている。《楚辞·九歌·湘夫人》「嫋嫋兮秋風,洞庭波兮木葉下。

28 莎雞 キリギリス。

29. 群芳歇 群芳はすでに散り果てること。

30. 白露凋華滋 白露は花を凋ませて、霜露の花は滋る。

743年(53)李白371 巻五 26-《秋思》(燕支黃葉落,) 371Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(53) <李白371> Ⅰ李白詩1716 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7128

李白  秋思

燕支黃葉落,妾望自登臺。海上碧雲斷,單于秋色來。

胡兵沙塞合,漢使玉關回。征客無歸日,空悲蕙草摧。
(悲愁の秋、西域にいる夫がいつ帰るかわからず、次第に顔色が変わっていく思婦を詠う。)

燕支山の木の葉は、黄ばんで落ちる、今年も、はや秋に成って、まさに暮れようとしている。夫は、天涯の西域に在って、音信もまったくなく、妾はひとり高台に上って、帰ってほしいと願い思って、その方を眺めている。青海のほとり、碧雲断え、雲だけでも連続して夫のところに至ってくれたらと思うが、それさえもかなえてくれないのである。秋色は、遠く西域の方よりきたって、秋は、しだいに心なくしてくるけれども、その人は、見えない。はるかに、塵沙まで凝るほど、おもうに、胡兵が沙中の城塞に合圍をしてしまうから何もできず、遠く旗幟の翻るは、おもふに、和議すでに破れて、漢家の使者が玉門關から帰ってきたのであろう。この時かえれば、先ず善いのだが、もし帰らなければ、この先、歸えることもあるまい。蘭恵は香草で、人の佩びるものであるが、それさへ、秋風に遇えば、いつしか零落してしまう。それと同じく、妾の顔色も、いつまで、此のままであるべきぞ。かわり易き顔色を以て、何時歸るとも知れぬ夫を待って居る思婦の身の上は、如何にも、哀れなものである。

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  2015年12月27日 の紀頌之5つのBlog  
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  ・李商隠詩 (1) 136首の75首 ・李商隠詩 (2) 135首の61首 ●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首 ●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首 ●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首 ●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首  
  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
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  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43歳 94-53

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    秋思   李白371 巻五 26

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              刪丹山 (隴右道東部 甘州 刪丹) 別名:燕支山、焉支山             

白登臺 (河東道 雲州 白登山)          

玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門               

交遊人物/地點:  

 

 

秋思

(悲愁の秋、西域にいる夫がいつ帰るかわからず、次第に顔色が変わっていく思婦を詠う。)

燕支黃葉落,妾望自登臺。

燕支山の木の葉は、黄ばんで落ちる、今年も、はや秋に成って、まさに暮れようとしている。夫は、天涯の西域に在って、音信もまったくなく、妾はひとり高台に上って、帰ってほしいと願い思って、その方を眺めている。

海上碧雲斷,單于秋色來。

青海のほとり、碧雲断え、雲だけでも連続して夫のところに至ってくれたらと思うが、それさえもかなえてくれないのである。秋色は、遠く西域の方よりきたって、秋は、しだいに心なくしてくるけれども、その人は、見えない。

胡兵沙塞合,漢使玉關回。

はるかに、塵沙まで凝るほど、おもうに、胡兵が沙中の城塞に合圍をしてしまうから何もできず、遠く旗幟の翻るは、おもふに、和議すでに破れて、漢家の使者が玉門關から帰ってきたのであろう。

征客無歸日,空悲蕙草摧。

この時かえれば、先ず善いのだが、もし帰らなければ、この先、歸えることもあるまい。蘭恵は香草で、人の佩びるものであるが、それさへ、秋風に遇えば、いつしか零落してしまう。それと同じく、妾の顔色も、いつまで、此のままであるべきぞ。かわり易き顔色を以て、何時歸るとも知れぬ夫を待って居る思婦の身の上は、如何にも、哀れなものである。

 

安史の乱期 勢力図 002 

『秋思』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

秋思

燕支黃葉落,妾望自登臺。

海上碧雲斷,單于秋色來。

胡兵沙塞合,漢使玉關回。

征客無歸日,空悲蕙草摧。
詩文(含異文)     燕支黃葉落【閼氏黃葉落】,妾望自登臺【妾望白登臺】。海上碧雲斷【月出碧雲斷】,單于秋色來【蟬聲秋色來】。胡兵沙塞合,漢使玉關回。征客無歸日,空悲蕙草摧。


(下し文)
(秋思)

燕支 黃葉落つ,妾は望んで 自ら臺に登る。

海上 碧雲斷え,單于 秋色來る。

胡兵 沙塞に合し,漢使 玉關より回る。

征客 歸える日無し,空しく 蕙草の摧くるを悲む。

(現代語訳)
秋思(悲愁の秋、西域にいる夫がいつ帰るかわからず、次第に顔色が変わっていく思婦を詠う。)

燕支山の木の葉は、黄ばんで落ちる、今年も、はや秋に成って、まさに暮れようとしている。夫は、天涯の西域に在って、音信もまったくなく、妾はひとり高台に上って、帰ってほしいと願い思って、その方を眺めている。

青海のほとり、碧雲断え、雲だけでも連続して夫のところに至ってくれたらと思うが、それさえもかなえてくれないのである。秋色は、遠く西域の方よりきたって、秋は、しだいに心なくしてくるけれども、その人は、見えない。

はるかに、塵沙まで凝るほど、おもうに、胡兵が沙中の城塞に合圍をしてしまうから何もできず、遠く旗幟の翻るは、おもふに、和議すでに破れて、漢家の使者が玉門關から帰ってきたのであろう。

この時かえれば、先ず善いのだが、もし帰らなければ、この先、歸えることもあるまい。蘭恵は香草で、人の佩びるものであるが、それさへ、秋風に遇えば、いつしか零落してしまう。それと同じく、妾の顔色も、いつまで、此のままであるべきぞ。かわり易き顔色を以て、何時歸るとも知れぬ夫を待って居る思婦の身の上は、如何にも、哀れなものである。

Ta唐 長安近郊圖  新02
(訳注)

秋思

(悲愁の秋、西域にいる夫がいつ帰るかわからず、次第に顔色が変わっていく思婦を詠う。)743年天寶二年43歳の長安での作。李白371  李太白集 巻五 26

728年開元十六年28歳の作、巻五 24-《秋思》「春陽如昨日、碧樹鳴黃鸝。 蕪然蕙草暮、颯爾涼風吹。 天秋木葉下、月冷莎雞悲。 坐愁群芳歇、白露凋華滋。」

 

燕支黃葉落,妾望自登臺。

燕支山の木の葉は、黄ばんで落ちる、今年も、はや秋に成って、まさに暮れようとしている。夫は、天涯の西域に在って、音信もまったくなく、妾はひとり高台に上って、帰ってほしいと願い思って、その方を眺めている。

1.   燕支 燕支山のこと。焉支山,又稱胭脂山、刪丹山といい、河西走廊的南部,今日中國甘肅山丹縣城東南50kmの處にある。

2.   黃葉落 木の葉が落ちる、気持ちが落ちる。

3.    女の自称。

4.   望自登臺 秋、99日重陽には高いところに登って夫のことを思う。望夫台は各地にある。

 

海上碧雲斷,單于秋色來。

青海のほとり、碧雲断え、雲だけでも連続して夫のところに至ってくれたらと思うが、それさえもかなえてくれないのである。秋色は、遠く西域の方よりきたって、秋は、しだいに心なくしてくるけれども、その人は、見えない。

5.   海上 臨武、隴右を越えれば、青海があり、その向こうの西域は天竺と思っていた時代である。

6.   碧雲斷 高いところに登って冬雲の変わりつつある雲に思いを告げれば伝えてくれそうに思う。

7.   單于 本来匈奴の最高地位を言うが、此処ではその者たちの支配する場所。李白が朝廷の関係者の前でこの詩を作ったので、匈奴を卑下して言ったもの。

 

胡兵沙塞合,漢使玉關回。

はるかに、塵沙まで凝るほど、おもうに、胡兵が沙中の城塞に合圍をしてしまうから何もできず、遠く旗幟の翻るは、おもふに、和議すでに破れて、漢家の使者が玉門關から帰ってきたのであろう。

8.   沙塞合 砂を固めてレンガにする、いわゆる日干し煉瓦で造った塞を、匈奴の兵士が取り囲むことを言う。

9.   漢使玉關回 漢の使者が玉門関に集められた手紙や言伝を冬になる前に行き、冬になるまでに長安に持ち帰ること。

 

征客無歸日,空悲蕙草摧。

この時かえれば、先ず善いのだが、もし帰らなければ、この先、歸えることもあるまい。蘭恵は香草で、人の佩びるものであるが、それさへ、秋風に遇えば、いつしか零落してしまう。それと同じく、妾の顔色も、いつまで、此のままであるべきぞ。かわり易き顔色を以て、何時歸るとも知れぬ夫を待って居る思婦の身の上は、如何にも、哀れなものである。

10. 蕙草 この詩の女性自身、女性の心持を言う。

743年(52)李白 巻五 25-《春思》(燕草如碧絲,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(51) <李白> Ⅰ李白詩1710 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7098

李白  春思 

燕草如碧絲,秦桑低綠枝。當君懷歸日,是妾斷腸時。春風不相識,何事入羅幃。
(春になって折楊柳に安全を祈る、そして、秦の羅敷のように貞操感高く桑を積んでいる。それでも、その思いを知ってか知らずか、羅幃の中へ春風は入ってくると詠う。)

燕の地は、北方の寒い處で、春のくることも遅いから、今しも漸く碧の絲のような細い芽が草に出た位、しかるに長安附近では、最早、桑の葉が茂って、緑の枝を垂れている。君は燕にあり、我は秦に在り、君がかえることを懐う日は、即ち妾が心腸を断つおもいがつのる時である。これほどの思いをしている我が思いを知らずして、羅幃に吹きこんでいる春風は、まことに気の知れないつれないものである。

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年:743年天寶二年43歳 94-52

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    春思

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:無

 

 

春思

(春になって折楊柳に安全を祈る、そして、秦の羅敷のように貞操感高く桑を積んでいる。それでも、その思いを知ってか知らずか、羅幃の中へ春風は入ってくると詠う。)

燕草如碧絲,秦桑低綠枝。

燕の地は、北方の寒い處で、春のくることも遅いから、今しも漸く碧の絲のような細い芽が草に出た位、しかるに長安附近では、最早、桑の葉が茂って、緑の枝を垂れている。

當君懷歸日,是妾斷腸時。

君は燕にあり、我は秦に在り、君がかえることを懐う日は、即ち妾が心腸を断つおもいがつのる時である。

春風不相識,何事入羅幃。

これほどの思いをしている我が思いを知らずして、羅幃に吹きこんでいる春風は、まことに気の知れないつれないものである。

(春思)

燕草は 碧絲の如く,秦桑は 綠枝を 低たる。

君が 歸るを懷う日に 當り,是れ妾が腸を斷つの時。

春風 相い識らず,何事ぞ 羅幃に 入る。

桑摘女00 

『春思』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

春思

燕草如碧絲,秦桑低綠枝。

當君懷歸日,是妾斷腸時。

春風不相識,何事入羅幃。

(下し文)
(春思)

燕草は 碧絲の如く,秦桑は 綠枝を 低たる。

君が 歸るを懷う日に 當り,是れ妾が腸を斷つの時。

春風 相い識らず,何事ぞ 羅幃に 入る。

(現代語訳)
春思(春になって折楊柳に安全を祈る、そして、秦の羅敷のように貞操感高く桑を積んでいる。それでも、その思いを知ってか知らずか、羅幃の中へ春風は入ってくると詠う。)

燕の地は、北方の寒い處で、春のくることも遅いから、今しも漸く碧の絲のような細い芽が草に出た位、しかるに長安附近では、最早、桑の葉が茂って、緑の枝を垂れている。

君は燕にあり、我は秦に在り、君がかえることを懐う日は、即ち妾が心腸を断つおもいがつのる時である。

これほどの思いをしている我が思いを知らずして、羅幃に吹きこんでいる春風は、まことに気の知れないつれないものである。


(訳注)

春思

(春になって折楊柳に安全を祈る、そして、秦の羅敷のように貞操感高く桑を積んでいる。それでも、その思いを知ってか知らずか、羅幃の中へ春風は入ってくると詠う。)

【題義】「春思」は、古楽府の題にはないが、李白には、「秋思」という詩が二首ある。作時期の違いはあるが、思婦につぃて詠ったものである。この「春思」詩に関連した詩は次に述べる。

 

秋思・春思

 

《巻五 24秋思》

春陽如昨日、碧樹鳴黃鸝。

蕪然蕙草暮、颯爾涼風吹。

天秋木葉下、月冷莎雞悲。

坐愁群芳歇、白露凋華滋。

(秋思)

春陽は昨日の如く、碧樹に黃鸝を鳴かしむ。

蕪然たる蕙草の暮、颯爾として涼風吹く。

天は秋にして 木葉下り、月は冷やかにして莎雞悲む。

坐に愁う 群芳歇み、白露 華は凋まして滋きを。

《巻五 25-春思》

燕草如碧絲,秦桑低綠枝。

當君懷歸日,是妾斷腸時。

春風不相識,何事入羅幃。

(春思)

燕草は 碧絲の如く,秦桑は 綠枝を 低たる。

君が 歸るを懷う日に 當り,是れ妾が腸を斷つの時。

春風 相い識らず,何事ぞ 羅幃に 入る。

《巻五 26秋思》

燕支黃葉落,妾望自登臺。

海上碧雲斷,單于秋色來。

胡兵沙塞合,漢使玉關回。

征客無歸日,空悲蕙草摧。

(秋思)

燕支 黃葉落つ,妾は望んで 自ら臺に登る。

海上 碧雲斷え,單于 秋色來る。

胡兵 沙塞に合し,漢使 玉關より回る。

征客 歸える日無し,空しく 蕙草の摧くるを悲む。

 曉鶯005

 

燕草如碧絲、秦桑低綠枝。
燕の地は、北方の寒い處で、春のくることも遅いから、今しも漸く碧の絲のような細い芽が草に出た位、しかるに長安附近では、最早、桑の葉が茂って、緑の枝を垂れている。

*季節も変わり、月日も流れた…、という時間経過を表している。

1.    燕草:北国である燕国の草。夫のいるところをさす。 ・燕:〔えん〕北国の意で使われている。現・河北省北部。 ・如:…のようである。 

2.    碧絲:緑色の糸。 ・碧:みどり。あお。後出「綠」との異同は、どちらも、みどり。「碧」〔へき〕は、碧玉のような青緑色。青い石の色。「綠」〔りょく〕は、みどり色の絹。

3.    秦桑:(ここ)長安地方のクワ。陌上桑の羅敷 ・秦:〔しん〕、女性のいる場所の長安を指している。 ・低:低くたれる。 秦桑 秦地、即ち長安附近の桑、自己の居るところをさす。《巻五02 -陌上桑》「綠條映素手,採桑向城隅。」(綠條 素手に映じ,桑を採って城隅に向う。)陌上桑には二つある。一には、李白がこの詩、子夜歌に述べた羅敷「秦氏有好女,自名為羅敷。」であり、二は魯の秋胡の妻、《列女伝 秋胡子》「潔婦者,魯秋胡子妻也。」、顔延之(延年)《秋胡詩》のこと、李白はこの詩の後半最後に「使君且不顧,況復論秋胡。徒令白日暮,高駕空踟躕。」と述べている。

4.    綠枝:緑色の枝。

 

當君懷歸日、是妾斷腸時。
君は燕にあり、我は秦に在り、君がかえることを懐う日は、即ち妾が心腸を断つおもいがつのる時である。

5.    :(いとしい)あなた。男性側のこと。 

6.    :…あたる。 

7.    懷歸日:戻ってこようと思う日。(彼女に告げていた)帰郷の予定日。

8.    是:(それは)…である。 

9.    妾:〔しょう〕わたし。女性の謙遜を表す自称。 

10.  斷腸:腸(はらわた)が断ち切られるほどのつらさや悲しさ。

 *この聯は、いつになっても帰ってこない男性を、ひたすら待つ身のやるせなさを謂う。 

 

春風不相識、何事入羅幃。
これほどの思いをしている我が思いを知らずして、羅幃に吹きこんでいる春風は、まことに気の知れないつれないものである。

11.  不相識 顔見知りの人ではない。知り合いの人ではない。

12.  何事 どうしたことか。 

13.  羅幃〔らゐ〕薄絹のとばり。
 *わたし(=女性)の切なく淋しい胸の内を理解して、春風は慰めてくれているのであろうか。 

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李白  從軍行

從軍玉門道,逐虜金微山。笛奏梅花曲,刀開明月環。

鼓聲鳴海上,兵氣擁雲間。願斬單于首,長驅靜鐵關。
(匈奴との戦いに西域の極みまで言って戦うものの歌)

従軍して、玉門關の道をたどり、やがて匈奴を討ち破って、金傲山の邊まで之を逐い拂ってしまった。軍中に於いては、笛中に落梅花の曲を奏すれども、北地もとより梅花あらず、刀上の環は、固くして明月の如く、環は還と音が通じているから、自分は、いつ帰るとも分らない。今しも、戦機復た方に熟し、金鼓の聲は青海の岸に轟き、兵気は雲間に充満して、まことに物凄い景色である。願わくば、単于の首を斬り、長躯して鐡門關に至り、すっかり邊境を静めて、匈奴の入寇を根絶したいと思っているのである。

743年(51)李白 巻五 23-《從軍行》(從軍玉門道,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-50) <李白> Ⅰ李白詩1709 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7093

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-50

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    從軍行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門              

金微山 ( 豐州 安北都護府) 別名:鐵關          

交遊人物/地點:  

 

 

從軍行

(匈奴との戦いに西域の極みまで言って戦うものの歌)

從軍玉門道,逐虜金微山。

従軍して、玉門關の道をたどり、やがて匈奴を討ち破って、金傲山の邊まで之を逐い拂ってしまった。

笛奏梅花曲,刀開明月環。

軍中に於いては、笛中に落梅花の曲を奏すれども、北地もとより梅花あらず、刀上の環は、固くして明月の如く、環は還と音が通じているから、自分は、いつ帰るとも分らない。

鼓聲鳴海上,兵氣擁雲間。

今しも、戦機復た方に熟し、金鼓の聲は青海の岸に轟き、兵気は雲間に充満して、まことに物凄い景色である。

願斬單于首,長驅靜鐵關。
願わくば、単于の首を斬り、長躯して鐡門關に至り、すっかり邊境を静めて、匈奴の入寇を根絶したいと思っているのである。

(從軍の行【うた】)

從軍 玉門の道,虜を逐う 金微の山。

笛は奏ず 梅花の曲,刀は開く 明月の環。

鼓は聲す 海上の鳴るに,兵は氣し 雲間を擁すを。

願わくば 單于の首を斬り,長驅して 鐵關を靜めん。

 

『從軍行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

從軍行

從軍玉門道,逐虜金微山。

笛奏梅花曲,刀開明月環。

鼓聲鳴海上,兵氣擁雲間。

願斬單于首,長驅靜鐵關。

(下し文)
(從軍の行【うた】)

從軍 玉門の道,虜を逐う 金微の山。

笛は奏ず 梅花の曲,刀は開く 明月の環。

鼓は聲す 海上の鳴るに,兵は氣し 雲間を擁すを。

願わくば 單于の首を斬り,長驅して 鐵關を靜めん。

(現代語訳)
從軍行(匈奴との戦いに西域の極みまで言って戦うものの歌)

従軍して、玉門關の道をたどり、やがて匈奴を討ち破って、金傲山の邊まで之を逐い拂ってしまった。

軍中に於いては、笛中に落梅花の曲を奏すれども、北地もとより梅花あらず、刀上の環は、固くして明月の如く、環は還と音が通じているから、自分は、いつ帰るとも分らない。

今しも、戦機復た方に熟し、金鼓の聲は青海の岸に轟き、兵気は雲間に充満して、まことに物凄い景色である。

願わくば、単于の首を斬り、長躯して鐡門關に至り、すっかり邊境を静めて、匈奴の入寇を根絶したいと思っているのである。


(訳注)

從軍行

(匈奴との戦いに西域の極みまで言って戦うものの歌)

從軍行 従軍行は、軍旗辛苦の状を述べるものであるから、匈奴の事に關した此題の詩は、塞上・塞下の諸曲と極めて類似して居る。六朝までの詩は、軍人の詩であったが、唐の時には、戦場に行かない者が、想像で書いたもの、酒宴の席で歌われたものである。

巻四08-塞下曲六首之一(十五入漢宮,)、《巻四09-塞下曲六首之二》(天兵下北荒,)、《巻四10-塞下曲六首之三》、《巻四11-塞下曲六首之四》(白馬黃金塞)、《巻四12-塞下曲六首之五(塞虜乘秋下,)、《巻四13-塞下曲六首之六》(烽火動沙漠)、《巻四15-塞上曲(大漢無中策,) 《巻五10-折楊柳》(垂楊拂綠水,)《巻五12-紫騮馬》(紫騮行且嘶,)などある。

折楊柳

垂楊拂綠水,搖豔東風年。花明玉關雪,葉暖金窗煙。

美人結長想,對此心淒然。攀條折春色,遠寄龍庭前。

(折楊柳)

垂楊は綠水を拂い,搖豔 東風の年。

花は明かなり 玉關の雪,葉は暖かなり 金窗の煙。

美人 長想を結び,此に對して 心淒然。

攀條 春色を折り,遠く寄す 龍庭の前。

 

紫騮馬

紫騮行且嘶,雙翻碧玉蹄。

臨流不肯渡,似惜錦障泥。

白雪關山遠,黃雲海戍迷。

揮鞭萬里去,安得念春閨。

(紫騮馬)

紫騮 行いて且つ嘶く,雙翻す 碧玉の蹄。

流に臨んで 肯て渡らず,惜むに似たり 錦障の泥を。

白雪 關山遠く,黃雲 海戍迷う。

鞭を揮って萬里に去る,安ぞ得ん 春閨を念うを。

 

從軍玉門道,逐虜金微山。

従軍して、玉門關の道をたどり、やがて匈奴を討ち破って、金傲山の邊まで之を逐い拂ってしまった。

1.   玉門 玉門關の略、中国の甘粛(かんしゅく)省北西部、敦煌(とんこう)(トゥンホワン)市西北約100kmのゴビ砂漠の中にある、唐の時代のシルクロード交易の関所で、河西回廊の防衛拠点の遺跡。玉門関は漢の時代に、南に位置する陽関とともに初めて設けられたが、現在残っているのは唐の時代の遺跡である。玉門関はシルクロード交易の重要な中継地となり、新疆(しんきょう)の和田で算出される玉を中原へ運ぶための中継地ともなったことから、玉門関と名づけられたといわれている。

巻二28楽府胡無人

天兵照雪下玉關。 虜箭如沙射金甲。

巻三34 王昭君二首其一

漢家秦地月。 流影照明妃。一上玉關道。 天涯去不歸。

巻四12- 塞下曲六首 其五

邊月隨弓影。 胡霜拂劍花。 玉關殊未入。 少婦莫長嗟。

巻五10折楊柳

垂楊拂綠水。 搖艷東風年。 花明玉關雪。 葉暖金窗煙。

巻五 26秋思

單于秋色來。 胡兵沙塞合。 漢使玉關回。 征客無歸日。

巻五 29子夜歌:秋歌

長安一片月。 萬搗衣聲。 秋風吹不盡。 總是玉關情。

巻二十登邯鄲洪波台置酒觀發兵

天狼正可射。 感激無時閑。 觀兵洪波台。 倚劍望玉關。

巻二一奔亡道中五首  其四

函谷如玉關。 几時可生還。 洛陽為易水。 嵩岳是燕山。

巻二二22清溪半夜聞笛

羌笛梅花引。 溪隴水情。 寒山秋浦月。 腸斷玉關聲。

巻二四55思邊

西山白雪暗秦云。 玉關去此三千里。 欲寄音書那可聞。

2.   金微 山名。今中蒙交界處的阿爾泰山脈で漢匈戦争を行ったところ。漢武帝時代,西漢反守為攻,主動攻擊匈奴,漢匈雙方強弱平勢であったため二百年以上続いたものである。

 

笛奏梅花曲,刀開明月環

軍中に於いては、笛中に落梅花の曲を奏すれども、北地もとより梅花あらず、刀上の環は、固くして明月の如く、環は還と音が通じているから、自分は、いつ帰るとも分らない。

3.   梅花曲 落梅花といふ笛曲を指す。李白《卷六01襄陽歌》「千金駿馬換小妾、笑坐雕鞍歌落梅。」(千金の駿馬小妾と換へ,笑ひて雕鞍に坐して『落梅』を歌う。)千金の値うちのあるスマートな足の早い馬を、おれの女と取り換えてもらい、にっこり笑い、見事な彫り物をほどこした鞍にまたがり、「落梅」の歌を口ずさむ。

4.   刀開明月環 刀の先端に囲い環の付いて居るをいう。その環といふ字が帰還につながるものであるということからその意味に使う。

 

鼓聲鳴海上,兵氣擁雲間

今しも、戦機復た方に熟し、金鼓の聲は青海の岸に轟き、兵気は雲間に充満して、まことに物凄い景色である。

5.   海上 青海の岸、青海の向こうに玉門關、金微山、鐵門關がある。

 

願斬單于首,長驅靜鐵關。

願わくば、単于の首を斬り、長躯して鐡門關に至り、すっかり邊境を静めて、匈奴の入寇を根絶したいと思っているのである。

6.   單于首 單于とは?難読語辞典。 匈奴(きようど)の最高君主の称号。李白《巻三36幽州胡馬客歌》「天驕五單于。 狼戾好凶殘。」(天驕五単于、狼戻にして兇残を好む。)匈奴の単于は自らを天の驕児と称した。 狼の如く心ねじれた道理を持っており、強暴で残忍なことを好んでいる。・天驕 匈奴の単于はみづからを天の驕児と称した。・五単于(ぜんう)漢の宣帝のとき匈奴は五単于ならび立った。・狼戻(ろうれい)狼の如く心ねぢけ道理にもとる。

7.   鐵關 唐書地理志に「焉耆より西五十里鉄門関を過ぐ」とあって、西域の極門としてある。青海から、玉門關へ、その距離の倍程度西に行った地点で黄河と西域の分水嶺のあたり。

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李白  紫騮馬

紫騮行且嘶,雙翻碧玉蹄。臨流不肯渡,似惜錦障泥。

白雪關山遠,黃雲海戍迷。揮鞭萬里去,安得念春閨。
(西域の邊塞後の守りには紫騮馬の跨ってゆくものであるが、賢い馬なので、功をなすことだろう、ただ問題は、あまりにいい馬であるために、家で待つ妻のことを思い出す暇がないということになってしまう)

わが赤毛の駒は、路を行きながら、嘶きつつ、碧玉の如き蹄を遊び翻して足なみも、極めて静かで賢いのである。途中に流水に遇ったら王濟のように馬のことがわかっているから渡らないし、当然、錦の泥よけを汚すことを恐れるからで、さすがに、名馬である。今、この馬に跨り、遠く出でて邊塞を守れば、白雪、黄雲の地であり、關山遠くして、望むものであるが、青海となれば、亦た この馬であっても迷うであろう。但し、鞭を揮って萬李の先へ馳せ行く間は、意、功名の事だけに専念して、里心を起こし、香閏を守って居る人を思う暇などどうしてあるものか。

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年:743年天寶二年43歳 94-49

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    紫騮馬

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

寫及地點:無

交遊人物/地點:  

 

 

紫騮馬

(西域の邊塞後の守りには紫騮馬の跨ってゆくものであるが、賢い馬なので、功をなすことだろう、ただ問題は、あまりにいい馬であるために、家で待つ妻のことを思い出す暇がないということになってしまう)

紫騮行且嘶,雙翻碧玉蹄。

わが赤毛の駒は、路を行きながら、嘶きつつ、碧玉の如き蹄を遊び翻して足なみも、極めて静かで賢いのである。

臨流不肯渡,似惜錦障泥。

途中に流水に遇ったら王濟のように馬のことがわかっているから渡らないし、当然、錦の泥よけを汚すことを恐れるからで、さすがに、名馬である。

白雪關山遠,黃雲海戍迷。

今、この馬に跨り、遠く出でて邊塞を守れば、白雪、黄雲の地であり、關山遠くして、望むものであるが、青海となれば、亦た この馬であっても迷うであろう。

揮鞭萬里去,安得念春閨。

但し、鞭を揮って萬李の先へ馳せ行く間は、意、功名の事だけに専念して、里心を起こし、香閏を守って居る人を思う暇などどうしてあるものか。

 

(紫騮馬)

紫騮 行いて且つ嘶く,雙翻す 碧玉の蹄。

流に臨んで 肯て渡らず,惜むに似たり 錦障の泥を。

白雪 關山遠く,黃雲 海戍迷う。

鞭を揮って萬里に去る,安ぞ得ん 春閨を念うを。

馬002

『紫騮馬』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

紫騮馬

紫騮行且嘶,雙翻碧玉蹄。

臨流不肯渡,似惜錦障泥。

白雪關山遠,黃雲海戍迷。

揮鞭萬里去,安得念春閨。
詩文(含異文)

紫騮行且嘶,雙翻碧玉蹄。臨流不肯渡,似惜錦障泥。白雪關山遠【白雪關城遠】,黃雲海戍迷【黃雲海樹迷】。揮鞭萬里去,安得念春閨【安得戀春閨】。


(下し文)
(紫騮馬)

紫騮 行いて且つ嘶く,雙翻す 碧玉の蹄。

流に臨んで 肯て渡らず,惜むに似たり 錦障の泥を。

白雪 關山遠く,黃雲 海戍迷う。

鞭を揮って萬里に去る,安ぞ得ん 春閨を念うを。

(現代語訳)
紫騮馬(西域の邊塞後の守りには紫騮馬の跨ってゆくものであるが、賢い馬なので、功をなすことだろう、ただ問題は、あまりにいい馬であるために、家で待つ妻のことを思い出す暇がないということになってしまう)

わが赤毛の駒は、路を行きながら、嘶きつつ、碧玉の如き蹄を遊び翻して足なみも、極めて静かで賢いのである。

途中に流水に遇ったら王濟のように馬のことがわかっているから渡らないし、当然、錦の泥よけを汚すことを恐れるからで、さすがに、名馬である。

今、この馬に跨り、遠く出でて邊塞を守れば、白雪、黄雲の地であり、關山遠くして、望むものであるが、青海となれば、亦た この馬であっても迷うであろう。

但し、鞭を揮って萬李の先へ馳せ行く間は、意、功名の事だけに専念して、里心を起こし、香閏を守って居る人を思う暇などどうしてあるものか。

李白の足跡0000馬003
(訳注)

紫騮馬

(西域の邊塞後の守りには紫騮馬の跨ってゆくものであるが、賢い馬なので、功をなすことだろう、ただ問題は、あまりにいい馬であるために、家で待つ妻のことを思い出す暇がないということになってしまう)

紫騮馬は、楽府題にして、横吹曲に属し、古辭に十五従軍征、八十始得帰。道逢郷里人 、家中有阿誰。遥望是君家 、松柏冢纍纍。(十五にして軍に従いて征き、八十にして始めて帰るを得たり。道に郷里の人に逢う、家中に何誰か有りや。遥かに望む是れ君が家、松柏の冢【つか】纍纍たり。)といい、梁の同題の曲に「獨柯不成樹、獨樹不成林、念郎錦禰襠、 恒長不忘心。」といい、大抵、従軍久戍、歸るを懐うという作であるが、梁の簡文帝、元帝、陳の後主、徐陵の諸作に至りては、単に馬を詠じて居る。李白の此詩は、両者を抱きませた様なもので、なお多少の古色があるというものである。

巻三20採蓮曲

若耶溪傍採蓮女,笑隔荷花共人語。

日照新妝水底明,風飄香袂空中舉。

岸上誰家遊冶郎,三三五五映垂楊。

紫騮嘶入落花去,見此踟躕空斷腸。

 

紫騮行且嘶,雙翻碧玉蹄。

わが赤毛の駒は、路を行きながら、嘶きつつ、碧玉の如き蹄を遊び翻して足なみも、極めて静かで賢いのである。

紫騮 赤毛の馬、説文に「騮は赤馬、黒毛の尾あり」とあり、爾雅の註に「赤色黒鬣」とある。紫は、つまり赤の濃いものである。鄭玄の毛詩箋に「赤身黒鬣を騮という。」とある。

《巻三20採蓮曲》「紫騮嘶入落花去。 見此踟躕空斷腸。

《巻五12紫騮馬》「紫騮行且嘶。 雙翻碧玉蹄。 臨流不肯渡。 似惜錦障泥。

《巻十七27宣城送劉副使入秦》「昔贈紫騮駒。 今傾白玉卮。 同歡萬斛酒。 未足解相思。」

碧玉蹄 馬蹄の美しさを形容していう。 亦た良馬、賢い馬をいう。沈佺期《驄馬》「西北五花驄,來時道向東。四蹄碧玉片,雙眼黃金瞳。 鞍上留明月,嘶間動朔風。借君馳沛艾,一戰取雲中。」とある。

 

臨流不肯渡,似惜錦障泥。

途中に流水に遇ったら王濟のように馬のことがわかっているから渡らないし、当然、錦の泥よけを汚すことを恐れるからで、さすがに、名馬である。

臨流不肯渡 《晉書王濟傳》“濟善解馬性, 嘗乘一馬, 著連乾鄣泥, 前有水, 終不肯渡。濟云:「此必是惜鄣泥。」使人解去,便渡。”善く馬の性を解す、かつて、一馬に乗り、連金の障泥を著く。前に水あれば、終に肯て渡らず。済云ふ、これ必ず障泥は惜しむならむと。人をして解き去らしめ、便ち渡る)とある。

王済は馬の性質をよく理解した。かつて馬に乗っていると、乾いて道を塞ぐ泥が連なっており、前方には川があった。ついに王済は、馬に川を渡らせなかった。王済は「馬が泥で汚れるとイヤだ」と言った。人に(泥の障壁を)壊させてから、渡った。ゆえに杜預は「王済には馬癖がある」と言われた。

 

白雪關山遠,黃雲海戍迷。

今、この馬に跨り、遠く出でて邊塞を守れば、白雪、黄雲の地であり、關山遠くして、望むものであるが、青海となれば、亦た この馬であっても迷うであろう。

白雪,黃雲 ともに成名。白雪に、吐蕃との閥境に常り、責書は.何虞だか分らねが、海戊といへぼ、いづれ青海近傍であらう。

 

揮鞭萬里去,安得念春閨。

但し、鞭を揮って萬李の先へ馳せ行く間は、意、功名の事だけに専念して、里心を起こし、香閏を守って居る人を思う暇などどうしてあるものか。

念春閨 里心を起こし、香閏を守って居る人を思うこと、手紙の一つを書くこと。

743年(49)李白 巻五10-《折楊柳》(垂楊拂綠水,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(49) <李白> Ⅰ李白詩1707 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7083

李白  折楊柳 

垂楊拂綠水,搖豔東風年。花明玉關雪,葉暖金窗煙。

美人結長想,對此心淒然。攀條折春色,遠寄龍庭前。
(長安には若い寡婦が多い、出征する夫と別れに楊柳を折って無事を祈ったが、何年もたっても西域から帰ってこない、今年も春になって柳がなびくそこでもう一度折楊柳して無事を願うという)

垂楊は、春に成って緑を囘し、澄める水を拂いつ、東風に向いて靡いて居る。岸辺の楊花は、白くして、玉關の雪より明かにしげり、葉は暖かに、黄金を飾れる窓に映って、靄は虹のように煙って居る。その家の空閏の美人は、池のほとりの楊花を見て、遠征の夫を思い出し、心悽然として、長き思いが解けやることはなかった。やがて、その枝を攀じってみる、春の色をこめたるを折り取って、はるかに、龍庭の彼方に居る夫に贈りたいと思っている。

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年:-743年天寶二年43歳 94-49

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    折楊柳

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門  

交遊人物/地點:  

 

 

折楊柳

(長安には若い寡婦が多い、出征する夫と別れに楊柳を折って無事を祈ったが、何年もたっても西域から帰ってこない、今年も春になって柳がなびくそこでもう一度折楊柳して無事を願うという)

垂楊拂綠水,搖豔東風年。

垂楊は、春に成って緑を囘し、澄める水を拂いつ、東風に向いて靡いて居る。

花明玉關雪,葉暖金窗煙。

岸辺の楊花は、白くして、玉關の雪より明かにしげり、葉は暖かに、黄金を飾れる窓に映って、靄は虹のように煙って居る。

美人結長想,對此心淒然。

その家の空閏の美人は、池のほとりの楊花を見て、遠征の夫を思い出し、心悽然として、長き思いが解けやることはなかった。

攀條折春色,遠寄龍庭前。

やがて、その枝を攀じってみる、春の色をこめたるを折り取って、はるかに、龍庭の彼方に居る夫に贈りたいと思っている。

 

(折楊柳)

垂楊は綠水を拂い,搖豔 東風の年。

花は明かなり 玉關の雪,葉は暖かなり 金窗の煙。

美人 長想を結び,此に對して 心淒然。

攀條 春色を折り,遠く寄す 龍庭の前。
長安城図 作図00

 

『折楊柳』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

折楊柳

垂楊拂綠水,搖豔東風年。

花明玉關雪,葉暖金窗煙。

美人結長想,對此心淒然。

攀條折春色,遠寄龍庭前。
詩文(含異文)     垂楊拂綠水,搖豔東風年【豔裔東風年】。花明玉關雪,葉暖金窗煙。美人結長想【美人結長恨】,對此心淒然【相對心淒然】。攀條折春色,遠寄龍庭前【遠寄龍沙邊】。


(下し文)
(折楊柳)

垂楊は綠水を拂い,搖豔 東風の年。

花は明かなり 玉關の雪,葉は暖かなり 金窗の煙。

美人 長想を結び,此に對して 心淒然。

攀條 春色を折り,遠く寄す 龍庭の前。

(現代語訳)
折楊柳(長安には若い寡婦が多い、出征する夫と別れに楊柳を折って無事を祈ったが、何年もたっても西域から帰ってこない、今年も春になって柳がなびくそこでもう一度折楊柳して無事を願うという)

垂楊は、春に成って緑を囘し、澄める水を拂いつ、東風に向いて靡いて居る。

岸辺の楊花は、白くして、玉關の雪より明かにしげり、葉は暖かに、黄金を飾れる窓に映って、靄は虹のように煙って居る。

その家の空閏の美人は、池のほとりの楊花を見て、遠征の夫を思い出し、心悽然として、長き思いが解けやることはなかった。

やがて、その枝を攀じってみる、春の色をこめたるを折り取って、はるかに、龍庭の彼方に居る夫に贈りたいと思っている。


(訳注)

折楊柳

(長安には若い寡婦が多い、出征する夫と別れに楊柳を折って無事を祈ったが、何年もたっても西域から帰ってこない、今年も春になって柳がなびくそこでもう一度折楊柳して無事を願うという)

折楊柳は、鼓角、横吹曲の一で、矢張、軍楽である。古今註によれば「張騫、西域に入って、その法を伝え、唯だ魔訶兜勒の十曲を得たり、李延年、因って新聾二十八曲を造る、魏晋以來、存せず、黃鵠、隴頭、折楊柳等の十曲を用ひらる」とある。

 

古今註 「横吹胡樂也張騫入西域傳其法唯得摩詞兠勒一曲李延年因造新聲二十八解。魏晉以來不存見用黄鵠隴頭折楊栁等十曲

魏晉以來,二十八解保存不全了,常用的,只有黃鵠、隴頭、出關、入關、出塞、入塞、折揚柳、黃覃子、赤之楊、望行人等十曲而已。 還有“鼓角橫吹曲”。

 

詩題の「折楊柳」は、前漢の張騫が西域から持ち帰った音楽を素にして出来たものだが、この時の辞は、魏晉時代に亡失してしまっているという。晉代には兵事の労苦が陳べられるようになり、それが南朝の梁、陳に始まり唐代ではさらにひろがった。

 

『折楊柳』の曲調。別離の曲。離愁を覚えるということ。

謝靈運 折楊柳行二首之一

鬱鬱河邊樹,青青田野草,舍我故客,將適萬里道,妻妾牽衣袂,淚沾懷抱,還拊幼童子,顧托兄與嫂,辭訣未及終,嚴駕一何早,負笮引文舟,飢渴常不飽,誰令爾貧賤,咨嗟何所道。

折楊柳行二首之二

騷屑出穴風,揮霍見日雪,颼颼無搖,皎皎幾時潔,未覺泮春冰,巳復謝秋節,空對尺素遷,獨視寸陰滅,否桑未易繫,泰茅難重拔,桑茅迭生運,語默寄前哲。

(楊柳を折るの行 二首)その一

鬱鬱【うつうつ】たる河辺の柳、青青たる野田の草。

我を舎【す】つ故郷の客、将に万里の道を適【ゆ】かんとす。

妻妾【さいしょう】は衣袂【いべい】を牽【ひ】き、涙を【おさ】めつつ懐抱【ふところ】を沾【うる】おす。

還【かえ】って幼童の子を拊で、顧みて兄と嫂とに托す。

辞訣【じけつ】未だ終わるに及ばざるに、駕【くるま】を厳【ととの】えること一【いつ】に何ぞ早き。

笮【えびら】を負い文舟【ぶんしゅう】を引き、飢渇して常に飽かず。

誰か爾【なんじ】をして貧賤【ひんせん】ならしむ、咨嗟【ああ】何の道【い】う所ぞ。

折楊柳行 その一 謝霊運(康楽) 詩<72-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩495 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1302

 

王翰 『涼州詞』「秦中花鳥已應闌,塞外風沙猶自寒。夜聽胡笳折楊柳,敎人意氣憶長安。」

 

李白に『春夜洛城聞笛』「誰家玉笛暗飛聲,散入春風滿洛城。此夜曲中聞折柳,何人不起故園情。」とある。

206 (改訂版) 巻24-20春夜洛城聞笛 (誰家玉笛暗飛聲)Index-12 Ⅱ―7 -732年開元二十年32 12首 <206> Ⅰ李白詩1437 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5733

春夜洛城聞笛

(春の夜に洛陽の街で「折楊柳」の笛曲を奏でるのをきく。)

同様のモチーフのものに、王翰の『涼州詞』「秦中花鳥已應闌,塞外風沙猶自寒。夜聽胡笳折楊柳,敎人意氣憶長安。」や、王昌齢 『出塞』「秦時明月漢時關、萬里長征人未還。但使龍城飛將在、不敎胡馬渡陰山。」がある。

 

 

垂楊拂綠水,搖豔東風年。

垂楊は、春に成って緑を囘し、澄める水を拂いつ、東風に向いて靡いて居る。

 

花明玉關雪,葉暖金窗煙。

岸辺の楊花は、白くして、玉關の雪より明かにしげり、葉は暖かに、黄金を飾れる窓に映って、靄は虹のように煙って居る。

【一】   玉關 玉門關の略、中国の甘粛(かんしゅく)省北西部、敦煌(とんこう)(トゥンホワン)市西北約100kmのゴビ砂漠の中にある、唐の時代のシルクロード交易の関所で、河西回廊の防衛拠点の遺跡。玉門関は漢の時代に、南に位置する陽関とともに初めて設けられたが、現在残っているのは唐の時代の遺跡である。玉門関はシルクロード交易の重要な中継地となり、新疆(しんきょう)の和田で算出される玉を中原へ運ぶための中継地ともなったことから、玉門関と名づけられたといわれている。

【二】   金窓 黄金で飾った窓。

 

美人結長想,對此心淒然。

その家の空閏の美人は、池のほとりの楊花を見て、遠征の夫を思い出し、心悽然として、長き思いが解けやることはなかった。

【三】    結同心(同心を結ぶ)心変わりをしないということを表すほどけない結び空を言う。

 

攀條折春色,遠寄龍庭前。

やがて、その枝を攀じってみる、春の色をこめたるを折り取って、はるかに、龍庭の彼方に居る夫に贈りたいと思っている。

【四】 龍庭 漢記「五月大會龍城,祭其先天地鬼神」(匈奴、五月、大に龍庭に會して、その先祖天地鬼神を祭る)とある。

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李白  相逢行 #4

願因三青鳥,更報長相思。光景不待人,須臾髮成絲。

當年失行樂,老去徒傷悲。持此道密意,毋令曠佳期。

勿論面と向っては、兎角にうら恥かしく、胸の思いも、十分に述べられぬから、彼の王母の使いと称する三羽の青鳥に言づけて、長く相思うが心を知らせたいものである。

本当に、まあ、この眼前に広がる情景は人を待たず過行く、緑の髪も、見る間に絲の如く乱れてしらがとなる。

今しも、行楽の今ある機会を逃さないようにしないといけない、年が寄ってから、徒に悲むばかりで、何の甲斐もないことである。

そこで、こころに秘める思いを打ち明けて訴えるので、あなたとの佳期というものが曠しいものでないために、どうか、わが願いをかなえてもらいたいものである。

743年(48)李白366-#4 巻五05-《相逢行》(朝騎五花馬,) 366-#4Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-48) <李白366-#4> Ⅰ李白詩1711 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7103

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-48

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

霸城門 (京畿道 京兆府 長安) 別名:青門    

交遊人物/地點:  

 

 

相逢行 #1

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

秀色誰家子,雲車珠箔開。

すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。

金鞭遙指點,玉勒近遲回。

そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。

(相逢行) #1

朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。

秀色 誰が家の子,雲車 珠箔 開く。

金鞭 遙かに指點,玉勒 近く遲回。
#2

夾轂相借問,疑從天上來。

かくて、娘の近くにようやく来たが、車の毅をはさんで、ちょっと尋ねる慵惰、その人は、どこから御出でに成ったか、天上からでも降ってこられたのでは無いか、どうも、只だの人とは見えないようだ、

蹙入青綺門,當歌共銜杯。

願わくは、これから、一処に青綺門より城中に入り、どこぞ然るべき酒楼に上り、歌を聞きながら、杯を銜んで、酒でも飲みましょうといい、とうとう、之を誘って酒楼に上った。

銜杯映歌扇,似月雲中見。

かくて、杯を口にみつつ、歌扇に映ずる美人の顔を倫み見ると、さながら、月が雲間から、ちらり見えたようである。

相見不得親,不如不相見。

そこで、男がいうには、すでに縁あって相見たるに、親しむことができねば、見ない方がましである。

#2

轂を夾んで 相い借問し,天上より來るを疑う。

青綺門に蹙入し,歌に當って共に杯を銜まん。

杯を銜んで歌扇に映ずれば,月を雲中に見るに似たり。

相い見て親しむを得ざれば,相い見ざるに如かず。
#3

相見情已深,未語可知心。

又、ひたすら見つめてみるに、もし御身の情が深いならば、こちら方から語るまえに、その心うちを読めそうなものである。

胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

御身は、これほどの美貌を有しながら、如何なるわけがあるのか、ひとり空閏を守って、寂しい寝牀での夢は寒いもの、錦衾の重きをかこちつつあるであろう。

錦衾與羅幃,纏綿會有時。

今はいないお方の錦衾と羅幃を垂れたままでも、御身と心置きなく語り明かす時は、必ず有るであろう。

春風正澹蕩,暮雨來何遲。

今しも、この春風を正に澹蕩として、行楽の好時節であるのに、かの巫山神女の「朝雲暮雨」が、来るのか来ないのか、何と遅い。

#3

相見て 情 已に深ければ,未だ語らざるに心を知る可し。

胡ん為れぞ 空閨を守り,孤眠 錦衾を愁う。

錦衾と羅幃と,纏綿 會らず 時有り。

春風 正に澹蕩,暮雨 來る何ぞ遲き。
#4

願因三青鳥,更報長相思。

勿論面と向っては、兎角にうら恥かしく、胸の思いも、十分に述べられぬから、彼の王母の使いと称する三羽の青鳥に言づけて、長く相思うが心を知らせたいものである。

光景不待人,須臾髮成絲。

本当に、まあ、この眼前に広がる情景は人を待たず過行く、緑の髪も、見る間に絲の如く乱れて白髪となる。

當年失行樂,老去徒傷悲。

今しも、行楽の今ある機会を逃さないようにしないといけない、年が寄ってから、徒に悲むばかりで、何の甲斐もないことである。

持此道密意,毋令曠佳期。

そこで、こころに秘める思いを打ち明けて訴えるので、あなたとの佳期というものが曠しいものでないために、どうか、わが願いをかなえてもらいたいものである。

#4

願わくば三青鳥に因って,更に長相思を報ぜん。

光景 人を待たず,須臾にして 髮 絲を成す。

當年 行樂を失い,老去 徒らに傷悲。

此を持って密意を道う,佳期を曠しうせしむる毋【な】かれ。

 

漢長安城 00 

『相逢行』 現代語訳と訳註解説

(本文)
#4

願因三青鳥,更報長相思。

光景不待人,須臾髮成絲。

當年失行樂,老去徒傷悲。

持此道密意,毋令曠佳期。
詩文(含異文)

願因三青鳥,更報長相思。光景不待人,須臾髮成絲。當年失行樂,老去徒傷悲。持此道密意,毋令曠佳期【案:一本「長相思」下,無此六句。】。


(下し文)
#4

願わくば三青鳥に因って,更に長相思を報ぜん。

光景 人を待たず,須臾にして 髮 絲を成す。

當年 行樂を失い,老去 徒らに傷悲。

此を持って密意を道う,佳期を曠しうせしむる毋【な】かれ。

(現代語訳)
#4

勿論面と向っては、兎角にうら恥かしく、胸の思いも、十分に述べられぬから、彼の王母の使いと称する三羽の青鳥に言づけて、長く相思うが心を知らせたいものである。

本当に、まあ、この眼前に広がる情景は人を待たず過行く、緑の髪も、見る間に絲の如く乱れてしらがとなる。

今しも、行楽の今ある機会を逃さないようにしないといけない、年が寄ってから、徒に悲むばかりで、何の甲斐もないことである。

そこで、こころに秘める思いを打ち明けて訴えるので、あなたとの佳期というものが曠しいものでないために、どうか、わが願いをかなえてもらいたいものである。


(訳注) #4

相逢行 #4

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

1 相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

 

願因三青鳥,更報長相思。

勿論面と向っては、兎角にうら恥かしく、胸の思いも、十分に述べられぬから、彼の王母の使いと称する三羽の青鳥に言づけて、長く相思うが心を知らせたいものである。

8 青鳥 山海経の西山経に「三危の山、三青鳥、これに居る」とあって、郭僕の註に「三青鳥に、主として、王母の為に食を取るもの、別に自ら此山に棲息するなり。竹書に日く、穆王西征、青鳥の解くところに至るなり」とある。叉大荒西経に「沃の野、三青鳥あり、赤首黒目、一名大鶖といい、一名少鶖といい、一名青とりといふ」とあって、郭璞の註に「皆西王母の使うところなり」とある。

17 長相思 久遠の辞、行人久寿戍、書を寄せて思うところをおくる。夜着の中には「長相思」の綿をつめて、縁のかざりは「結不解」のかがり糸にして、固く結んで解けぬ意をもたせるという女の気持ちを詠う。

李白 長相思【寄遠】,二首之一

日色已盡花含煙,月明欲素愁不眠。

趙瑟初停鳳凰柱,蜀琴欲奏鴛鴦弦。

此曲有意無人傳,願隨春風寄燕然。

憶君迢迢隔青天,昔日橫波目。【昔時橫波目】。

今成流淚泉。

不信妾腸斷,歸來看取明鏡前。

 (長相思,二首之一)

日色 已に盡きて 花は煙を含む,月明 素ならんと欲して愁て眠らず。

趙瑟 初めて停む鳳凰の柱,蜀琴 奏せんと欲す 鴛鴦の弦。

此曲 意有れども人の傳うる無し,願くば 春風に隨って燕然に寄せん。

君を憶えば迢迢として青天を隔ち,昔日 橫波の目。

今は流淚の泉と成る。

妾の腸斷つを信ぜざれば,歸り來って明鏡の前へ看取せよ。

 

光景不待人,須臾髮成絲。

本当に、まあ、この眼前に広がる情景は人を待たず過行く、緑の髪も、見る間に絲の如く乱れて白髪となる。

18 光景 1 目前に広がる景色。眺め。「白銀にかがやく峰々の―」2 ある場面の具体的なありさま。情景。「惨憺 (さんたん) たる―」3 日のひかり。

19 須臾 短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。

 

當年失行樂,老去徒傷悲。

今しも、行楽の今ある機会を逃さないようにしないといけない、年が寄ってから、徒に悲むばかりで、何の甲斐もないことである。

20 行樂 山野に出たりして,遊び楽しむこと。漢樂府《西門行》詩:“夫為樂,為樂當及時。”《古詩十九首·生年不滿百》:“ 為樂當及時,何能待來茲”。

「出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。夫爲樂、爲樂當及時。」(西門を出で、歩みて之を念う、今日 樂しみを作さずんば、當【まさ】に何れの時をか待つべき。

夫れ樂しみを爲さん、樂しみを爲すには當に時に及ぶべし。

西門行 漢の無名氏 詩<81-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩511 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1350

第十五首

生年不滿百,常懷千憂。

晝短苦夜長,何不秉燭遊!

為樂當及時,何能待來茲?

愚者愛惜費,但為後世嗤。

卡人王子喬,難可蜿等期。

生年は百に満たず、常に千歳の憂を懐く。

晝は短くして夜の長きに苦しみ、何ぞ燭を秉って遊ばざる。

欒しみを為すは常に時に及ぶべし、何ぞ能く來茲【らいし】を待たん。

愚者は費を愛惜し、但後世の嗤【わらい】と為るのみ。

仙人王子喬は、蜿【えん】に期を等しうす可きこと難し。

人間は百歳までは生きられないのだ、なのにどうして日夜、千年後のことまで考えて憂いをいだくのである。

秋になると昼が短く、夜が長いのを苦にするようになる、だったらどうして燭を照らして、夜を日につぎ遊ばないのだ。

楽しみを求めるにはつとめて今ある機会を逃さないようにするのがよいのだ。あてにもならない来年のことなど、待ってもどうなるというものではないのである。

愚かな者は、いたずらに費用を出し惜しんで金をためるものだが、そうであればただ後の人々に笑われるだけである。

王子喬は仙人になり不老長生を得たと伝えるが、常人にはうねうね続く年寿をすべきであっても、とてもできないことなのだ。

古詩十九首之十五 漢の無名氏(15) 漢詩<102>Ⅱ李白に影響を与えた詩536 漢文委員会紀頌之の漢詩ブログ1425

 

持此道密意,毋令曠佳期。

そこで、こころに秘める思いを打ち明けて訴えるので、あなたとの佳期というものが曠しいものでないために、どうか、わが願いをかなえてもらいたいものである。

21 佳期 こころよい季節。男女の逢う約束。あいびきの時。李白『大堤曲』「漢水臨襄陽。花開大堤暖。佳期大堤下。淚向南云滿。」 謝靈運 《石門在永嘉》 #1

躋険築幽居、披雲臥石門。

苔滑誰能歩、葛弱豈可捫。

嫋嫋秋風過、萋萋春草繁。

美人遊不遠、佳期何繇敦。』

(石門は永嘉に在り)#1
険に躋【のぼ】りて幽居を築き、雲を披【ひら】きて石門に臥す。
苔は滑【なめ】らかにして誰か能く歩せん、葛は弱くして豈捫る可けんや。
嫋嫋【じょうじょう】と秋風が過ぎ、萋萋【せいせい】と春草も繁り。
美人は遊びて還らず、佳期は何に繇【よ】りてか敦【さだ】めん。
《石門新營所住四面高山回溪石瀨修竹茂林》石門在永嘉 謝霊運<30#2 詩集 405  kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1032

 

 

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李白  相逢行#3

相見情已深,未語可知心。胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

錦衾與羅幃,纏綿會有時。春風正澹蕩,暮雨來何遲。

又、ひたすら見つめてみるに、もし御身の情が深いならば、こちら方から語るまえに、その心うちを読めそうなものである。御身は、これほどの美貌を有しながら、如何なるわけがあるのか、ひとり空閏を守って、寂しい寝牀での夢は寒いもの、錦衾の重きをかこちつつあるであろう。今はいないお方の錦衾と羅幃を垂れたままでも、御身と心置きなく語り明かす時は、必ず有るであろう。今しも、この春風を正に澹蕩として、行楽の好時節であるのに、かの巫山神女の「朝雲暮雨」が、来るのか来ないのか、何と遅い。

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年:743年天寶二年43歳 94-48

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

霸城門 (京畿道 京兆府 長安) 別名:青門    

交遊人物/地點:  

 

 

相逢行 #1

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

秀色誰家子,雲車珠箔開。

すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。

金鞭遙指點,玉勒近遲回。

そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。

(相逢行) #1

朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。

秀色 誰が家の子,雲車 珠箔 開く。

金鞭 遙かに指點,玉勒 近く遲回。
#2

夾轂相借問,疑從天上來。

かくて、娘の近くにようやく来たが、車の毅をはさんで、ちょっと尋ねる慵惰、その人は、どこから御出でに成ったか、天上からでも降ってこられたのでは無いか、どうも、只だの人とは見えないようだ、

蹙入青綺門,當歌共銜杯。

願わくは、これから、一処に青綺門より城中に入り、どこぞ然るべき酒楼に上り、歌を聞きながら、杯を銜んで、酒でも飲みましょうといい、とうとう、之を誘って酒楼に上った。

銜杯映歌扇,似月雲中見。

かくて、杯を口にみつつ、歌扇に映ずる美人の顔を倫み見ると、さながら、月が雲間から、ちらり見えたようである。

相見不得親,不如不相見。

そこで、男がいうには、すでに縁あって相見たるに、親しむことができねば、見ない方がましである。

#2

轂を夾んで 相い借問し,天上より來るを疑う。

青綺門に蹙入し,歌に當って共に杯を銜まん。

杯を銜んで歌扇に映ずれば,月を雲中に見るに似たり。

相い見て親しむを得ざれば,相い見ざるに如かず。
#3

相見情已深,未語可知心。

又、ひたすら見つめてみるに、もし御身の情が深いならば、こちら方から語るまえに、その心うちを読めそうなものである。

胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

御身は、これほどの美貌を有しながら、如何なるわけがあるのか、ひとり空閏を守って、寂しい寝牀での夢は寒いもの、錦衾の重きをかこちつつあるであろう。

錦衾與羅幃,纏綿會有時。

今はいないお方の錦衾と羅幃を垂れたままでも、御身と心置きなく語り明かす時は、必ず有るであろう。

春風正澹蕩,暮雨來何遲。

今しも、この春風を正に澹蕩として、行楽の好時節であるのに、かの巫山神女の「朝雲暮雨」が、来るのか来ないのか、何と遅い。

#3

相見て 情 已に深ければ,未だ語らざるに心を知る可し。

胡ん為れぞ 空閨を守り,孤眠 錦衾を愁う。

錦衾と羅幃と,纏綿 會らず 時有り。

春風 正に澹蕩,暮雨 來る何ぞ遲き。
#4

願因三青鳥,更報長相思。

光景不待人,須臾髮成絲。

當年失行樂,老去徒傷悲。

持此道密意,毋令曠佳期。

#4

願わくば三青鳥に因って,更に長相思を報ぜん。

光景 人を待たず,須臾にして 髮 絲を成す。

當年 行樂を失い,老去 徒らに傷悲。

此を持って密意を道う,佳期を曠しうせしむる毋【な】かれ。

 

漢長安城 00 

『相逢行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

相見情已深,未語可知心。

胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

錦衾與羅幃,纏綿會有時。

春風正澹蕩,暮雨來何遲。


(下し文)
#3

相見て 情 已に深ければ,未だ語らざるに心を知る可し。

胡ん為れぞ 空閨を守り,孤眠 錦衾を愁う。

錦衾と羅幃と,纏綿 會らず 時有り。

春風 正に澹蕩,暮雨 來る何ぞ遲き。

(現代語訳)
#3

又、ひたすら見つめてみるに、もし御身の情が深いならば、こちら方から語るまえに、その心うちを読めそうなものである。

御身は、これほどの美貌を有しながら、如何なるわけがあるのか、ひとり空閏を守って、寂しい寝牀での夢は寒いもの、錦衾の重きをかこちつつあるであろう。

今はいないお方の錦衾と羅幃を垂れたままでも、御身と心置きなく語り明かす時は、必ず有るであろう。

今しも、この春風を正に澹蕩として、行楽の好時節であるのに、かの巫山神女の「朝雲暮雨」が、来るのか来ないのか、何と遅い。


(訳注) #3

相逢行 #3

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

1 相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

 

相見情已深,未語可知心。

又、ひたすら見つめてみるに、もし御身の情が深いならば、こちら方から語るまえに、その心うちを読めそうなものである。

 

胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

御身は、これほどの美貌を有しながら、如何なるわけがあるのか、ひとり空閏を守って、寂しい寝牀での夢は寒いもの、錦衾の重きをかこちつつあるであろう。

12 錦衾 にしきでつくったりっぱな夜着。《詩經.唐風.葛生》:「角枕粲兮,錦衾爛兮,予美亡此,誰與獨旦。」(角枕 粲たり,錦衾 爛たり,予が美 此に亡し,誰と與に獨り旦【あか】さん。)

 

錦衾與羅幃,纏綿會有時。

今はいないお方の錦衾と羅幃を垂れたままでも、御身と心置きなく語り明かす時は、必ず有るであろう。

13 羅幃 薄絹の帷。盧照鄰【長安古意】詩:「雙燕雙飛繞畫梁,羅幃翠被鬱金香。」(雙燕 雙飛 畫梁を繞り,羅幃 翠被 金香を鬱す。)

14 纏綿 1 からみつくこと。2 複雑に入り組んでいること。心にまつわりついて離れないさま。

 

春風正澹蕩,暮雨來何遲。

今しも、この春風を正に澹蕩として、行楽の好時節であるのに、かの巫山神女の「朝雲暮雨」が、来るのか来ないのか、何と遅い。

15 澹蕩 ゆったりしてのどかな・こと(さま)。

16 暮雨 朝雲暮雨《楚 () の懐王が夢の中で契りを交わした神女が、朝には雲に、夕暮れには雨になると言ったという、宋玉「高唐賦」などにみえる故事から》男女の堅い契り。巫山 (ふざん) の雲雨

霓裳羽衣舞001 

 

 

李白 相逢行 【字解】

【1】         相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

【2】        李白の詩は、以下の《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。

齊国の少年輩が、遊猟の歸途、互に相逢うて、馬が良いとか、乗りっ振りが善いとかいつて、褒め合ふことを述べている。

詩経 齊風 

子之還兮 遭我乎峱之閒兮。 

並驅從兩肩兮、揖我謂我儇兮。 

子の還たる 我に峱【どう】の閒に遭ふ。

竝【なら】び驅せて兩肩を從【お】ふ 我をして揖【ゆう】して我を儇【けん】と謂ふ。

 子之茂兮 遭我乎峱之道兮

竝驅從兩牡兮 揖我謂我好兮

子の茂【ばう】なる 我に峱の道に遭ふ。

竝びて驅せて兩牡【りやうぼ】を從ふ 我を揖して我を好【よし】と謂ふ。

 子之昌兮 遭我乎峱之陽兮

竝驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮

子の昌なる 我に峱【どう】の陽に遭ふ。

竝びて驅りて兩狼を從【お】う 我を揖して我を臧【よし】と謂ふ

 

 

年:       731       開元十九年          31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

相逢行

相逢紅塵,高揖黃金鞭。

垂楊裡,君家阿那邊。

 (相い逢うの行)

相い逢う 紅塵の,高く揖す 黃金の鞭。

 垂楊の裡,君が家は阿那の邊。

(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

【3】     五花馬 美しい毛並みの馬。青白雑色の馬。《巻2-8 將進酒》「主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。五花馬,千金裘。呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。」(主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。五花の馬 千金の裘。児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。)

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【4】 銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。

【5】 珠箔 金玉珠璣を以て簾に箔が置いてある。

【6】 玉勒 勒はくつわ。

【7】 青綺門 水経註に「長安東に出づ、第三門、本と覇城門と名づく。民、その門色の青きを見て、叉青城門と名づけ、或は青綺門といひ、亦た青門という」とある。

【8】 青鳥 山海経の西山経に「三危の山、三青鳥、これに居る」とあって、郭僕の註に「三青鳥に、主として、王母の為に食を取るもの、別に自ら此山に棲息するなり。竹書に日く、穆王西征、青鳥の解くところに至るなり」とある。叉大荒西経に「沃の野、三青鳥あり、赤首黒目、一名大鶖といい、一名少鶖といい、一名青とりといふ」とあって、郭璞の註に「皆西王母の使うところなり」とある。

9 轂 こしき車輪の軸を受ける部分。こしき。「轂下・轂撃 /輦轂」楚辭.屈原.九歌.國殤:「操戈兮被犀甲,車錯轂兮短兵接。」戈を操りて 犀甲を被り,車は轂を錯えて 短兵 接す。)

10 借問【しゃもん】ためしに問うこと。ちょっと尋ねてみること。

11 青綺門 即ち青門、漢の長安城の東、灞城門のこと。長安の古城門を邈然という場合もある。 古代常用為送別之處。《三輔黃圖‧都城十二門》「長安城 東出南頭第一門曰 霸城門 , 民見門色青, 名曰 青城門 , 或曰 青門」、《廟記》に曰く「霸城門 亦曰 青綺門 。」 李白 《送裴十八圖南歸嵩山之一》「何處可為別, 長安 青綺門 。”亦省作“ <<青綺>>。」

12 錦衾 にしきでつくったりっぱな夜着。《詩經.唐風.葛生》:「角枕粲兮,錦衾爛兮,予美亡此,誰與獨旦。」(角枕 粲たり,錦衾 爛たり,予が美 此に亡し,誰と與に獨り旦【あか】さん。)

13 羅幃 薄絹の帷。盧照鄰【長安古意】詩:「雙燕雙飛繞畫梁,羅幃翠被鬱金香。」(雙燕 雙飛 畫梁を繞り,羅幃 翠被 金香を鬱す。)

14 纏綿 1 からみつくこと。2 複雑に入り組んでいること。心にまつわりついて離れないさま。

15 澹蕩 ゆったりしてのどかな・こと(さま)。

16 暮雨 朝雲暮雨《楚 () の懐王が夢の中で契りを交わした神女が、朝には雲に、夕暮れには雨になると言ったという、宋玉「高唐賦」などにみえる故事から》男女の堅い契り。巫山 (ふざん) の雲雨

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韓愈  相逢行 #2

夾轂相借問,疑從天上來。蹙入青綺門,當歌共銜杯。

銜杯映歌扇,似月雲中見。相見不得親,不如不相見。

かくて、娘の近くにようやく来たが、車の毅をはさんで、ちょっと尋ねる慵惰、その人は、どこから御出でに成ったか、天上からでも降ってこられたのでは無いか、どうも、只だの人とは見えないようだ、

願わくは、これから、一処に青綺門より城中に入り、どこぞ然るべき酒楼に上り、歌を聞きながら、杯を銜んで、酒でも飲みましょうといい、とうとう、之を誘って酒楼に上った。

かくて、杯を口にみつつ、歌扇に映ずる美人の顔を倫み見ると、さながら、月が雲間から、ちらり見えたようである。

そこで、男がいうには、すでに縁あって相見たるに、親しむことができねば、見ない方がましである。

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年:743年天寶二年43歳 94-48

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

霸城門 (京畿道 京兆府 長安) 別名:青門    

交遊人物/地點:  

 

 

相逢行 #1

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

秀色誰家子,雲車珠箔開。

すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。

金鞭遙指點,玉勒近遲回。

そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。

(相逢行) #1

朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。

秀色 誰が家の子,雲車 珠箔 開く。

金鞭 遙かに指點,玉勒 近く遲回。
#2

夾轂相借問,疑從天上來。

かくて、娘の近くにようやく来たが、車の毅をはさんで、ちょっと尋ねる慵惰、その人は、どこから御出でに成ったか、天上からでも降ってこられたのでは無いか、どうも、只だの人とは見えないようだ、

蹙入青綺門,當歌共銜杯。

願わくは、これから、一処に青綺門より城中に入り、どこぞ然るべき酒楼に上り、歌を聞きながら、杯を銜んで、酒でも飲みましょうといい、とうとう、之を誘って酒楼に上った。

銜杯映歌扇,似月雲中見。

かくて、杯を口にみつつ、歌扇に映ずる美人の顔を倫み見ると、さながら、月が雲間から、ちらり見えたようである。

相見不得親,不如不相見。

そこで、男がいうには、すでに縁あって相見たるに、親しむことができねば、見ない方がましである。

#2

轂を夾んで 相い借問し,天上より來るを疑う。

青綺門に蹙入し,歌に當って共に杯を銜まん。

杯を銜んで歌扇に映ずれば,月を雲中に見るに似たり。

相い見て親しむを得ざれば,相い見ざるに如かず。
#3

相見情已深,未語可知心。

胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

錦衾與羅幃,纏綿會有時。

春風正澹蕩,暮雨來何遲。

#4

願因三青鳥,更報長相思。

光景不待人,須臾髮成絲。

當年失行樂,老去徒傷悲。

持此道密意,毋令曠佳期。

 

 

『相逢行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

夾轂相借問,疑從天上來。

蹙入青綺門,當歌共銜杯。

銜杯映歌扇,似月雲中見。

相見不得親,不如不相見。

(下し文)
#2

轂を夾んで 相い借問し,天上より來るを疑う。

青綺門に蹙入し,歌に當って共に杯を銜まん。

杯を銜んで歌扇に映ずれば,月を雲中に見るに似たり。

相い見て親しむを得ざれば,相い見ざるに如かず。

(現代語訳)
#2

かくて、娘の近くにようやく来たが、車の毅をはさんで、ちょっと尋ねる慵惰、その人は、どこから御出でに成ったか、天上からでも降ってこられたのでは無いか、どうも、只だの人とは見えないようだ、

願わくは、これから、一処に青綺門より城中に入り、どこぞ然るべき酒楼に上り、歌を聞きながら、杯を銜んで、酒でも飲みましょうといい、とうとう、之を誘って酒楼に上った。

かくて、杯を口にみつつ、歌扇に映ずる美人の顔を倫み見ると、さながら、月が雲間から、ちらり見えたようである。

そこで、男がいうには、すでに縁あって相見たるに、親しむことができねば、見ない方がましである。

 

 (訳注) #2

相逢行 #1

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

1 相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

 

夾轂相借問,疑從天上來。

かくて、娘の近くにようやく来たが、車の毅をはさんで、ちょっと尋ねる慵惰、その人は、どこから御出でに成ったか、天上からでも降ってこられたのでは無いか、どうも、只だの人とは見えないようだ、

9 轂 こしき車輪の軸を受ける部分。こしき。「轂下・轂撃 /輦轂」楚辭.屈原.九歌.國殤:「操戈兮被犀甲,車錯轂兮短兵接。」戈を操りて 犀甲を被り,車は轂を錯えて 短兵 接す。)

10 借問【しゃもん】ためしに問うこと。ちょっと尋ねてみること。

 

蹙入青綺門,當歌共銜杯。

願わくは、これから、一処に青綺門より城中に入り、どこぞ然るべき酒楼に上り、歌を聞きながら、杯を銜んで、酒でも飲みましょうといい、とうとう、之を誘って酒楼に上った。

11 青綺門 即ち青門、漢の長安城の東、灞城門のこと。長安の古城門を邈然という場合もある。 古代常用為送別之處。《三輔黃圖‧都城十二門》「長安城 東出南頭第一門曰 霸城門 , 民見門色青, 名曰 青城門 , 或曰 青門」、《廟記》に曰く「霸城門 亦曰 青綺門 。」 李白 《送裴十八圖南歸嵩山之一》「何處可為別, 長安 青綺門 。”亦省作“ <<青綺>>。」

 

銜杯映歌扇,似月雲中見。

かくて、杯を口にみつつ、歌扇に映ずる美人の顔を倫み見ると、さながら、月が雲間から、ちらり見えたようである。

 

相見不得親,不如不相見。
そこで、男がいうには、すでに縁あって相見たるに、親しむことができねば、見ない方がましである。

漢長安城 00 

 

 

 

李白 相逢行 【字解】

【1】         相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

【2】        李白の詩は、以下の《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。

齊国の少年輩が、遊猟の歸途、互に相逢うて、馬が良いとか、乗りっ振りが善いとかいつて、褒め合ふことを述べている。

詩経 齊風 

子之還兮 遭我乎峱之閒兮。 

並驅從兩肩兮、揖我謂我儇兮。 

子の還たる 我に峱【どう】の閒に遭ふ。

竝【なら】び驅せて兩肩を從【お】ふ 我をして揖【ゆう】して我を儇【けん】と謂ふ。

 子之茂兮 遭我乎峱之道兮

竝驅從兩牡兮 揖我謂我好兮

子の茂【ばう】なる 我に峱の道に遭ふ。

竝びて驅せて兩牡【りやうぼ】を從ふ 我を揖して我を好【よし】と謂ふ。

 子之昌兮 遭我乎峱之陽兮

竝驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮

子の昌なる 我に峱【どう】の陽に遭ふ。

竝びて驅りて兩狼を從【お】う 我を揖して我を臧【よし】と謂ふ

 

 

年:       731       開元十九年          31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

相逢行

相逢紅塵,高揖黃金鞭。

垂楊裡,君家阿那邊。

 (相い逢うの行)

相い逢う 紅塵の,高く揖す 黃金の鞭。

 垂楊の裡,君が家は阿那の邊。

(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

【3】     五花馬 美しい毛並みの馬。青白雑色の馬。《巻2-8 將進酒》「主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。五花馬,千金裘。呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。」(主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。五花の馬 千金の裘。児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。)

235-#3李白 89(改訂版)《巻2-8  將進酒 -#3》Index-16 Ⅱ―11-736年開元二十四年36歳 <235-#3> Ⅰ李白詩1480 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5948

【4】 銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。

【5】 珠箔 金玉珠璣を以て簾に箔が置いてある。

【6】 玉勒 勒はくつわ。

【7】 青綺門 水経註に「長安東に出づ、第三門、本と覇城門と名づく。民、その門色の青きを見て、叉青城門と名づけ、或は青綺門といひ、亦た青門という」とある。

【8】 青鳥 山海経の西山経に「三危の山、三青鳥、これに居る」とあって、郭僕の註に「三青鳥に、主として、王母の為に食を取るもの、別に自ら此山に棲息するなり。竹書に日く、穆王西征、青鳥の解くところに至るなり」とある。叉大荒西経に「沃の野、三青鳥あり、赤首黒目、一名大鶖といい、一名少鶖といい、一名青とりといふ」とあって、郭璞の註に「皆西王母の使うところなり」とある。

9 轂 こしき車輪の軸を受ける部分。こしき。「轂下・轂撃 /輦轂」楚辭.屈原.九歌.國殤:「操戈兮被犀甲,車錯轂兮短兵接。」戈を操りて 犀甲を被り,車は轂を錯えて 短兵 接す。)

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11 青綺門 即ち青門、漢の長安城の東、灞城門のこと。長安の古城門を邈然という場合もある。 古代常用為送別之處。《三輔黃圖‧都城十二門》「長安城 東出南頭第一門曰 霸城門 , 民見門色青, 名曰 青城門 , 或曰 青門」、《廟記》に曰く「霸城門 亦曰 青綺門 。」 李白 《送裴十八圖南歸嵩山之一》「何處可為別, 長安 青綺門 。”亦省作“ <<青綺>>。」

長安城図 作図00 

743年(48)李白 巻五05-《相逢行》(朝騎五花馬,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(47) <李白> Ⅰ李白詩1706 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7078

李白  相逢行 #1

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。秀色誰家子,雲車珠箔開。金鞭遙指點,玉勒近遲回。

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。

743年(48)李白 巻五05-《相逢行》(朝騎五花馬,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-48) <李白> Ⅰ李白詩1706 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7078

 

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-48

卷別:    卷一六五              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              銀臺門 (京畿道 京兆府 長安)           

霸城門 (京畿道 京兆府 長安) 別名:青門    

交遊人物/地點:  

 

 

相逢行 #1

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

秀色誰家子,雲車珠箔開。

すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。

金鞭遙指點,玉勒近遲回。

そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。

(相逢行) #1

朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。

秀色 誰が家の子,雲車 珠箔 開く。

金鞭 遙かに指點,玉勒 近く遲回。
#2

夾轂相借問,疑從天上來。

蹙入青綺門,當歌共銜杯。

銜杯映歌扇,似月雲中見。

相見不得親,不如不相見。

#3

相見情已深,未語可知心。

胡為守空閨,孤眠愁錦衾。

錦衾與羅幃,纏綿會有時。

春風正澹蕩,暮雨來何遲。

#4

願因三青鳥,更報長相思。

光景不待人,須臾髮成絲。

當年失行樂,老去徒傷悲。

持此道密意,毋令曠佳期。

 

 

 

『相逢行』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

相逢行 #1

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。

秀色誰家子,雲車珠箔開。

金鞭遙指點,玉勒近遲回。
詩文(含異文)

#1

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。秀色誰家子,雲車珠箔開【雲中珠箔開】。

金鞭遙指點,玉勒近遲回。


(下し文)
(相逢行) #1

朝に五花の馬に騎し,帝に謁して 銀臺を出ず。

秀色 誰が家の子,雲車 珠箔 開く。

金鞭 遙かに指點,玉勒 近く遲回。

(現代語訳)
相逢行 #1(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。

そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。


(訳注)

相逢行 #1

(貴公子が美人に専ら云い寄ることを詠う。)

【一】 相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

【二】 李白の詩は、以下の《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。

齊国の少年輩が、遊猟の歸途、互に相逢うて、馬が良いとか、乗りっ振りが善いとかいつて、褒め合ふことを述べている。

詩経 齊風 

子之還兮 遭我乎峱之閒兮。 

並驅從兩肩兮、揖我謂我儇兮。 

子の還たる 我に峱【どう】の閒に遭ふ。

竝【なら】び驅せて兩肩を從【お】ふ 我をして揖【ゆう】して我を儇【けん】と謂ふ。

 子之茂兮 遭我乎峱之道兮

竝驅從兩牡兮 揖我謂我好兮

子の茂【ばう】なる 我に峱の道に遭ふ。

竝びて驅せて兩牡【りやうぼ】を從ふ 我を揖して我を好【よし】と謂ふ。

 子之昌兮 遭我乎峱之陽兮

竝驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮

子の昌なる 我に峱【どう】の陽に遭ふ。

竝びて驅りて兩狼を從【お】う 我を揖して我を臧【よし】と謂ふ

 

年:       731       開元十九年          31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 相逢行

相逢紅塵,高揖黃金鞭。

垂楊裡,君家阿那邊。

 (相い逢うの行)

相い逢う 紅塵の,高く揖す 黃金の鞭。

 垂楊の裡,君が家は阿那の邊。

(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

 

朝騎五花馬,謁帝出銀臺。

朝に五花の文ある名馬に跨って参内し、天子に拝謁したる後、銀臺門を出でて歸途に就いた人がある。

【三】 五花馬 ①美しい毛並みの馬で五色の文を爲すをいう。②青白雑色の馬。③馬の鑣の両端を金の花に、五色の飾り紐が垂れている。いずれにしても貴公子の持ち馬を言う。《巻2-8 將進酒》「主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。五花馬,千金裘。呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。」(主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。五花の馬 千金の裘。児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。

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【四】 銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。

 

秀色誰家子,雲車珠箔開。

すると、かえり途にして秀色抜群の一美人に遇ったが、それは誰が家の娘であらうか。その女は、立派な車に乗り、金玉珠璣の箔を置いた簾を掲げて、外面を見廻わしている。

【五】 珠箔 金玉珠璣を以て簾に箔が置いてある。

 

金鞭遙指點,玉勒近遲回。

そこで前の官人は、金鞭を揮って、はるかに之を指し示し、玉の飾ある鑣を引きしめて、その方に勿体付けて静々と向って往った。

【六】 玉勒 勒はくつわ。

大明宮-座標02 

 

 

 

 

 

李白 相逢行 【字解】

【1】         相逢行 相逢行は、一に相逢狭路問行ともいい、又長安有狭斜行ともいい、漢人の作に係り、一寸長いが、その古詞の文意は、鶏鳴曲と同じである。

【2】        李白の詩は、以下の《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。

齊国の少年輩が、遊猟の歸途、互に相逢うて、馬が良いとか、乗りっ振りが善いとかいつて、褒め合ふことを述べている。

詩経 齊風 

子之還兮 遭我乎峱之閒兮。 

並驅從兩肩兮、揖我謂我儇兮。 

子の還たる 我に峱【どう】の閒に遭ふ。

竝【なら】び驅せて兩肩を從【お】ふ 我をして揖【ゆう】して我を儇【けん】と謂ふ。

 子之茂兮 遭我乎峱之道兮

竝驅從兩牡兮 揖我謂我好兮

子の茂【ばう】なる 我に峱の道に遭ふ。

竝びて驅せて兩牡【りやうぼ】を從ふ 我を揖して我を好【よし】と謂ふ。

 子之昌兮 遭我乎峱之陽兮

竝驅從兩狼兮 揖我謂我臧兮

子の昌なる 我に峱【どう】の陽に遭ふ。

竝びて驅りて兩狼を從【お】う 我を揖して我を臧【よし】と謂ふ

 

 

年:       731       開元十九年          31

卷別:    卷一六三              文體:    樂府

詩題:    相逢行

作地點:長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

 

相逢行

相逢紅塵,高揖黃金鞭。

垂楊裡,君家阿那邊。

 (相い逢うの行)

相い逢う 紅塵の,高く揖す 黃金の鞭。

 垂楊の裡,君が家は阿那の邊。

(《詩経 齊風、還》詩を継承して詠ったもの。)

軽装した遊侠の少年が、馬に跨り、紅塵を蹴立てて馳せ行くとき、向うからも同じ様な少年が来て、はたっと出合った。すると、黄金の鞭を軽げに揮いながら、両手を前にたかくして会釈した、

片片が萬家の隠見する垂柳の中を指し、君の御住居は、どの辺でありますかといって尋ねた。

【3】     五花馬 美しい毛並みの馬。青白雑色の馬。《巻2-8 將進酒》「主人何為言少錢,徑須沽取對君酌。五花馬,千金裘。呼兒將出換美酒,與爾同銷萬古愁。」(主人 なんすれ 銭少しという、ただちにすべからく沽【か】い取り 君に対して酌むべし。五花の馬 千金の裘。児を呼びもち出でて美酒に換へ、なんじとともに銷【け】さん 万古の愁。)

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【4】 銀臺 雍録載するところの大典大明宮の圖に「紫宸殿側に右銀臺門、左銀臺門あり」と記してある。學士は院門を出でてより、右銀臺門に至るまで、皆歩行して直に至り、すでに宮城の銀臺門外に出でて、それから馬に乗ることに成って居る。

【5】 珠箔 金玉珠璣を以て簾に箔が置いてある。

【6】 玉勒 勒はくつわ。
長安城図 作図00 

743年(47)李白365-#2 巻五02 -《陌上桑》(美女渭橋東,) 365-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(47) <李白365-#2> Ⅰ李白詩1707 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7083

李白  陌上桑 #2

綠條映素手,採桑向城隅。使君且不顧,況復論秋胡。

寒螿愛碧草,鳴鳳棲青梧。託心自有處,但怪傍人愚。徒令白日暮,高駕空踟躕。

今しも桑を採ろうとして、城隅に来て作業を始めた、緑にしげった桑の枝は、白い手に映じて居るのは、誰しも美しいと思うものである。彼女は、もとより夫ある身で、他人の言い寄るのをうるさく思って居る。たとえ、使君と云はれる様な貴き御方であらうとも、決して顧みることはしないし、まして、古の色好みの秋胡などは、まるで相手にしようなどとは思いもしなかったのである。塞螿というものは碧草を愛し、鳳凰は碧梧桐に栖むものであり、物は各々その分に従うべきものである。彼女の心を託するところは、きちんとと定まって揺れ動いたりせずにいるのに、これを知るや、知らずや、やたらに厭らしい甘い誘惑の事ばかり、いってくる旁人の云い寄って来る愚かさは、むしろ不思議におもうところである。かの趙王にしても、その通りで、立派な乗り物を停め、躊躇して去らなかった、いたずらに、白日をして暮れしむるは、大の男のすることとして何たる事であろうか、いやはや、しっかりしてもらいたいと思うところである。

743年(47)李白365-#2 巻五02 -《陌上桑》(美女渭橋東,) 365-#2Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-47) <李白365-#2> Ⅰ李白詩1707 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7083

 

 
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  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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年:743年天寶二年43歳 94-46

卷別:  卷一六五        文體:  樂府

詩題:  陌上桑

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        渭橋 (京畿道 京兆府 長安)        

交遊人物/地點:

 

 

陌上桑

(長安大通りのそばの桑を摘む貞女、秦氏の娘女、羅敷を詠う)

美女渭橋東,春還事蠶作。

秦氏の女、羅敷は、絶代の美人で、渭橋の東に居り、春の歸りくるままに、養蚕を事とし、

その為に、陌上に於で、桑の葉を摘んで居た。

五馬如飛龍,青絲結金絡。

すると、そこへ飛龍の如く逞しき五馬を引き従えて来た人があって、馬の尾を束ねた青い絲は、馬の頭を絡めた黄金の手綱に結び付けられて、まことに美美しく、馬さへ、かくの如く、その人の派手にみやびやかなることは、言うまでもない。

不知誰家子,調笑來相謔。

何処の誰であるか知らぬが、無作法にも、馴れ馴れしく笑い戯れて、私に向ってからかった。

妾本秦羅敷,玉顏豔名都。

私は、もと秦氏の娘女、名を羅敷というもので、玉の如き顔は、艶名を大都に歌われたものである。

#2

綠條映素手,採桑向城隅。

今しも桑を採ろうとして、城隅に来て作業を始めた、緑にしげった桑の枝は、白い手に映じて居るのは、誰しも美しいと思うものである。

使君且不顧,況復論秋胡。

彼女は、もとより夫ある身で、他人の言い寄るのをうるさく思って居る。たとえ、使君と云はれる様な貴き御方であらうとも、決して顧みることはしないし、まして、古の色好みの秋胡などは、まるで相手にしようなどとは思いもしなかったのである。

寒螿愛碧草,鳴鳳棲青梧。

螿というものは碧草を愛し、鳳凰は碧梧桐に栖むものであり、物は各々その分に従うべきものである。

託心自有處,但怪傍人愚。

彼女の心を託するところは、きちんとと定まって揺れ動いたりせずにいるのに、これを知るや、知らずや、やたらに厭らしい甘い誘惑の事ばかり、いってくる旁人の云い寄って来る愚かさは、むしろ不思議におもうところである。

徒令白日暮,高駕空踟躕。

かの趙王にしても、その通りで、立派な乗り物を停め、躊躇して去らなかった、いたずらに、白日をして暮れしむるは、大の男のすることとして何たる事であろうか、いやはや、しっかりしてもらいたいと思うところである。

 

(陌上桑)

美女 渭橋の東,春 還って 蠶作を事とす。

五馬 飛龍の如く,青絲 金絡を結ぶ。

知らず 誰が家の子か,調笑 來って相い謔むる。

妾 本と秦羅敷なり,玉顏 名都に豔なり。

 

綠條 素手に映じ,桑を採って城隅に向う。

使君 且つ顧みず,況や復た秋胡を論ずるや。

螿は碧草を愛し,鳴鳳は青梧に棲む。

心を託す 自ら處有り,但だ怪む 傍人の愚。

徒らに白日をして暮れしめ,高駕 空しく踟

長安付近図00 

『陌上桑』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

綠條映素手,採桑向城隅。

使君且不顧,況復論秋胡。

愛碧草,鳴鳳棲青梧。

託心自有處,但怪傍人愚。

徒令白日暮,高駕空踟

(下し文)
#2

綠條 素手に映じ,桑を採って城隅に向う。

使君 且つ顧みず,況や復た秋胡を論ずるや。

は碧草を愛し,鳴鳳は青梧に棲む。

心を託す 自ら處有り,但だ怪む 傍人の愚。

徒らに白日をして暮れしめ,高駕 空しく踟


(現代語訳)
#2

今しも桑を採ろうとして、城隅に来て作業を始めた、緑にしげった桑の枝は、白い手に映じて居るのは、誰しも美しいと思うものである。

彼女は、もとより夫ある身で、他人の言い寄るのをうるさく思って居る。たとえ、使君と云はれる様な貴き御方であらうとも、決して顧みることはしないし、まして、古の色好みの秋胡などは、まるで相手にしようなどとは思いもしなかったのである。

螿というものは碧草を愛し、鳳凰は碧梧桐に栖むものであり、物は各々その分に従うべきものである。

彼女の心を託するところは、きちんとと定まって揺れ動いたりせずにいるのに、これを知るや、知らずや、やたらに厭らしい甘い誘惑の事ばかり、いってくる旁人の云い寄って来る愚かさは、むしろ不思議におもうところである。

かの趙王にしても、その通りで、立派な乗り物を停め、躊躇して去らなかった、いたずらに、白日をして暮れしむるは、大の男のすることとして何たる事であろうか、いやはや、しっかりしてもらいたいと思うところである。


(訳注)#2

陌上桑

(長安大通りのそばの桑を摘む貞女、秦氏の娘女、羅敷を詠う)

1 陌上桑 陌上桑には二つある。一には、李白がこの詩、子夜に述べた羅敷「秦氏有好女,自名為羅敷。」であり、二は魯の秋胡の妻、《列女伝 秋胡子》「潔婦者,魯秋胡子妻也。」、顔延之(延年)《秋胡詩》のこと、李白はこの詩の後半最後に「使君且不顧,況復論秋胡。徒令白日暮,高駕空踟躕。」と述べている。

 

綠條映素手,採桑向城隅。

今しも桑を採ろうとして、城隅に来て作業を始めた、緑にしげった桑の枝は、白い手に映じて居るのは、誰しも美しいと思うものである。

9 綠條 緑にしげった桑の枝

 

使君且不顧,況復論秋胡。

彼女は、もとより夫ある身で、他人の言い寄るのをうるさく思って居る。たとえ、使君と云はれる様な貴き御方であらうとも、決して顧みることはしないし、まして、古の色好みの秋胡などは、まるで相手にしようなどとは思いもしなかったのである。

10 使君 高級官僚の尊称。

11 秋胡 〔二の列女傳〕〔魯国の秋胡子の妾なる潔婦〕新婚わずか5日で、秋胡は魯国を出発し、陳国に5年間単身赴任し、その間彼女は、姑に孝養をつくした。 5年後の帰宅途中、出会った美女が妻であることに気づかず、秋胡は彼女にしつこくいいよった。道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、そのまま帰らず、遂に河に投死した。

 

寒螿愛碧草,鳴鳳棲青梧。

螿というものは碧草を愛し、鳳凰は碧梧桐に栖むものであり、物は各々その分に従うべきものである。

12 寒螿 昆虫名。秋蟬。蝉に似て小さい、という。ひぐらしであろう。似蝉而小, 色青赤。《文選謝惠連〈搗衣〉詩》肅肅莎雞羽, 烈烈寒螿啼。(粛粛【しゅくしゅく】として莎雞【さけい】は羽【はね】ふるい、烈烈として寒螿【かんしょう】は啼く。)

擣衣 謝惠連 詩<83-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩513 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1356

13 鳴鳳棲青梧 《詩経、大雅、巻阿》「鳳凰鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽。」(鳳凰鳴けり、彼の高き岡に。梧桐生ず、彼の朝陽に)とある。

 

託心自有處,但怪傍人愚。

彼女の心を託するところは、きちんとと定まって揺れ動いたりせずにいるのに、これを知るや、知らずや、やたらに厭らしい甘い誘惑の事ばかり、いってくる旁人の云い寄って来る愚かさは、むしろ不思議におもうところである。

 

徒令白日暮,高駕空踟躕。

かの趙王にしても、その通りで、立派な乗り物を停め、躊躇して去らなかった、いたずらに、白日をして暮れしむるは、大の男のすることとして何たる事であろうか、いやはや、しっかりしてもらいたいと思うところである。

14 踟躕-1 女性の作業をしているところをその場に立ち止まって見ていることを言う。《文選.曹植.贈白馬王彪詩》:「欲還無蹊,攬轡止踟躕。」(還えらんと欲するも絶えて蹊なく、轡【たずな】を撹りて止【ただ】ちに踟躕【ちゅうちょ】す。)

贈白馬王彪 其三 曹植(曹子建) 魏詩<42>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1948

また、躊躇-2については、 趙王の躊躇をいう。趙王とは、前漢の皇族で趙の共王、劉 恢(りゅう かい、紀元前203年? - 紀元前181年)のこと。はじめは淮陽王に封じられ、紀元前196年夏6月に、梁王・彭越(彭の遠祖)が謀反の疑いで息子とともに蜀に流罪される途中で、劉邦の妻である呂后(呂雉)に遭遇してしまったために、かえって彼女によって長安に連行されて、呂后が夫・劉邦に讒言したことで彭越父子は揃って処刑された揚句に、その肉を塩漬けにされ、淮南王・英布(黥布)ら諸侯に贈られたのである。

 

長安城漢唐 

 

李白  陌上桑 【字解】

 

【1】 陌上桑 陌上桑には二つある。一には、李白がこの詩、子夜に述べた羅敷「秦氏有好女,自名為羅敷。」であり、二は魯の秋胡の妻、《列女伝 秋胡子》「潔婦者,魯秋胡子妻也。」、顔延之(延年)《秋胡詩》のこと、李白はこの詩の後半最後に「使君且不顧,況復論秋胡。徒令白日暮,高駕空踟躕。」と述べている。

一、羅敷

子夜歌【子夜四時歌】四首:春歌

秦地羅敷女,採桑綠水邊。

素手青條上,紅妝白日鮮。

蠶飢妾欲去,五馬莫留連。 

(子夜歌【子夜四時の歌】四首:春の歌)

秦地羅敷の女,桑を綠水の邊に採る。

素手 青條の上,紅妝 白日鮮かなり。

蠶 飢えて 妾 去らんと欲す,五馬 留連する莫れ。 

李白303 《巻五 27李白22 子夜呉歌 其一 春》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白303> Ⅰ李白詩1605 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6573

陌上桑行 〔艶歌羅敷行、日出東南隅行

陌上桑 #1
日出東南隅,照我秦氏樓。秦氏有好女,自名為羅敷。

羅敷喜蠶桑,採桑城南隅。
青絲為籠係,桂枝為籠鉤。頭上倭墮髻,耳中明月珠。

#2
緗綺為下裙,紫綺為上襦。行者見羅敷,下擔捋髭須。
少年見羅敷,
帽著頭。耕者忘其犁,鋤者忘其鋤。
來歸相怨怒,但坐觀羅敷。
#3
使君從南來,五馬立踟躕。使君遣吏往,問是誰家姝。
“秦氏有好女,自名為羅敷。”
“羅敷年幾何?”
“二十尚不足,十五頗有餘。”
“使君謝羅敷,寧可共載不?”
#4
羅敷前置辭:“使君一何愚!使君自有婦,羅敷自有夫。”
“東方千餘騎,夫婿居上頭。何用識夫婿?白馬從驪駒;
青絲係馬尾,黃金絡馬頭;
#5
腰中鹿盧劍,可直千萬餘。十五府小吏,二十朝大夫,
三十侍中郎,四十專城居。為人潔白晰,
鬑鬑頗有須。
盈盈公府步,冉冉府中趨。坐中數千人,皆言夫婿殊。”
#1
日は東南隅に出でて、我が案氏の榎を照らす。秦氏に好女有り、自ら名つけて羅敦と為す。羅敷荒桑を善くし、桑を城の南隅に探る。青緑をは籠系と為し、桂枝をば寵鈎と為す。頭上には倭堕の磐、耳中には明月の珠。

#2
純綿を下裾と為し、紫緒を上宿と為す。行く者は羅敦を見て、標を下して髭麦を括り、少年は羅敷を見て、帽を睨して略頭を著はす、耕す者は其の梁を忘れ、鋤く者は其の鋤を忘る。来り節って相怨怒するは、但羅数を観るに坐するのみ。
#3
使君南より来り、五馬立って蜘踊す。使君束をして徒かしめ、間ふ 「是れ誰が家の妹ぞ」 と。「秦氏に好女有り、自ら名いうて羅数と為す」。「羅敷は年幾何ぞ」。「二十には筒は足らず、十五頗る飴り有り」 と。使君羅敦に謝す、「寧ろ共に載る可きゃ不」 と。
#4
羅敷前んで詞を致す、「使君一に何ぞ愚なる。使君自ら婦有り、羅敷は自ら夫有り。東方の千絵騎、夫巧は上頭に居る。何を用てか夫靖を識る、白馬磯駒を徒へ、青練を馬屋に繋け、黄金を番頭に絡ふ。
#5
腰中の鹿底の鉱は、千萬徐に値す可し。十五に心て府の小史、二十にして朝の大夫。三十にして侍中部、四十にして城を専らにして居る。人と為り潔自習、孝養として頗る裏有り。盈盈として公府に歩み、再再として府中に趨る。坐中の数千人、皆言ふ 『夫巧は殊なり』 と。

二、魯国の秋胡子の妾なる潔婦についてのべた。

列女伝

魯秋潔婦. 潔婦者,魯秋胡子妻也。既納之五日,去而宦於陳,五年乃歸。未至家,見路旁婦人採桑,秋胡子悅之,下車謂曰:若曝採桑,吾行道,願託桑蔭下,下齎休焉。婦人採桑不輟,秋胡子謂曰:力田不如逢豐年,力桑不如見國卿。吾有金,願以與夫人。婦人曰:『採桑力作,紡績織紝以供衣食,奉二親養。夫子已矣,不願人之金。秋胡遂去。歸至家,奉金遺母,使人呼其婦。婦至,乃嚮採桑者也,秋胡子慚。婦曰:子束髮脩身,辭親往仕,五年乃還,當所悅馳驟,揚塵疾至。今也乃悅路傍婦人,下子之糧,以金予之,是忘母也。忘母不孝,好色淫泆,是行也,行不義。夫事親不孝, 則事君不忠。處家不義,則治官不理。孝義並亡,必不遂矣。妾不忍見,子改娶矣,妾亦不嫁。遂去而東走,投河而死。

秋胡子は、潔婦を納れ、五日にして、去りて陳に宦す。五年にして帰る。末だ其の家に至らざるとき、路傍に美しき婦人の方に桑を採るもの有るを見る。秋胡子は車より下り、謂うげて日く、いま吾に金あり、願はくは以て夫人に与へんと。婦人日く、嘻、妾は桑を採りて二親に奉ず。人の金を願わずと。秋湖子遂に去り、帰って家に至り金を奉じて其の母に遣る。その母、人をして其の婦を呼ばしむ。婦至る、乃ち向に桑を採りしものなり。秋湖は之を見て慙(は)づ。婦人日く、髪を束ね身む修め、親を辞し往いて仕ふ。五年にして乃ち還るを得たり。まさに親戚を見るべきなるに、今や乃ち路傍の婦人を悦びて、子の装を下し、金を以て之に与へんとす。これ母を忘るるの不孝なり。妾は不孝の人を見るに忍びずと。遂に去りて走り、自ら河に投じて裾す」(列女伝 秋胡子)

(大意)

魯の潔婦は秋胡子の妻である。新婚五日、秋湖は単身陳に赴任した。五年後に帰宅の道で、桑摘む美女を見て金を贈ろうとした。美人は拒絶したので、帰って母に贈った。妻を見ると、さきの採桑の美女であった。妻は五年振りの帰省に、道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、遂に河に投死した。(西京雑記もほぼ同じ)とある。

秋胡詩 (9) 顔延之(延年) 詩<11>Ⅱ李白に影響を与えた詩480 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1257

【2】  渭橋 横橋とも中渭橋ともいう。長安の北を流れる渭水に架けた橋で、ここを渡ると咸陽の町。唐の時代には西域に通じる要道の一。長安には、便橋、東渭橋の三本の橋があった。①中渭橋は秦の時、始めて設置され,本らいの名称は橫橋という 。②東渭橋 は紀元前145年、漢の景帝五年に建置され,涇水が渭水に合流した下流の 東側に位置する。③西渭橋 は紀元前138年、漢の建元三年建置,長安城の便門に相對し,便橋 或は 便門橋という 。唐じだいには 咸陽橋と名づけられ,長安から 人、客を西行する場合に送別のため、多く此地に到って相い別れをした。

【3】  春還 春が帰ってくる。

【4】  蠶作 養蚕。

【5】  五馬  太守を称するもの、鄭注に謂う:『《周禮》:州長旟を建つ。』漢太守比に州長とし,故に云う。後見して龐幾先云う:『古より駟馬車に乘る,漢時に至り,太守出でて則ち一馬を增す,事 《漢官儀》見える也。』〕故に五馬と爲す。鄭注謂:『《周禮》:州長建旟。』漢太守比州長,故云。後見龐幾先云:『古乘駟馬車,至漢時,太守出則增一馬,事見《漢官儀》也。』〕

【6】  青絲結金絡 馬の後部を縛った青い紐絲が、馬の首を絡めた黄金の手綱に結び付くといふ意。《艶歌羅敷行》「靑絲繋馬尾,黃金絡馬頭,腰中鹿盧劍,可千萬餘。」

7】調笑 からかい笑いがあり、嘲り戯れがあったりすること。戲謔嘲笑。文選·謝靈運·擬鄴中集詩·應瑒詩:「調笑輒酬答,嘲謔無慚沮。」(調笑には輒ち酬答し,嘲謔【ちょうぎゃく】にも慚沮【ざんそ】する無し。)

8】名都 長安。

9 綠條 緑にしげった桑の枝

10 使君 高級官僚の尊称。

11 秋胡 〔二の列女傳〕〔魯国の秋胡子の妾なる潔婦〕新婚わずか5日で、秋胡は魯国を出発し、陳国に5年間単身赴任し、その間彼女は、姑に孝養をつくした。 5年後の帰宅途中、出会った美女が妻であることに気づかず、秋胡は彼女にしつこくいいよった。道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、そのまま帰らず、遂に河に投死した。

12 寒螿 昆虫名。秋蟬。蝉に似て小さい、という。ひぐらしであろう。似蝉而小, 色青赤。《文選謝惠連〈搗衣〉詩》「肅肅莎雞羽, 烈烈寒螿啼。」(粛粛【しゅくしゅく】として莎雞【さけい】は羽【はね】ふるい、烈烈として寒螿【かんしょう】は啼く。)

擣衣 謝惠連 詩<83-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩513 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1356

13 鳴鳳棲青梧 《詩経、大雅、巻阿》「鳳凰鳴矣、于彼高岡。梧桐生矣、于彼朝陽。」(鳳凰鳴けり、彼の高き岡に。梧桐生ず、彼の朝陽に)とある。

14 踟躕-1 女性の作業をしているところをその場に立ち止まって見ていることを言う。《文選.曹植.贈白馬王彪詩》:「欲還無蹊,攬轡止踟躕。」(還えらんと欲するも絶えて蹊なく、轡【たずな】を撹りて止【ただ】ちに踟躕【ちゅうちょ】す。)

贈白馬王彪 其三 曹植(曹子建) 魏詩<42>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1948

また、躊躇-2については、 趙王の躊躇をいう。趙王とは、前漢の皇族で趙の共王、劉 恢(りゅう かい、紀元前203年? - 紀元前181年)のこと。はじめは淮陽王に封じられ、紀元前196年夏6月に、梁王・彭越(彭の遠祖)が謀反の疑いで息子とともに蜀に流罪される途中で、劉邦の妻である呂后(呂雉)に遭遇してしまったために、かえって彼女によって長安に連行されて、呂后が夫・劉邦に讒言したことで彭越父子は揃って処刑された揚句に、その肉を塩漬けにされ、淮南王・英布(黥布)ら諸侯に贈られたのである。

743年(46)李白 巻五02 -《陌上桑》(美女渭橋東,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(46) <李白> Ⅰ李白詩1705 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7073

李白  陌上桑

美女渭橋東,春還事蠶作。五馬如飛龍,青絲結金絡。

不知誰家子,調笑來相謔。妾本秦羅敷,玉顏豔名都。
長安大通りのそばの桑を摘む貞女、秦氏の娘女、羅敷を詠う)

秦氏の女、羅敷は、絶代の美人で、渭橋の東に居り、春の歸りくるままに、養蚕を事とし、

その為に、陌上に於で、桑の葉を摘んで居た。すると、そこへ飛龍の如く逞しき五馬を引き従えて来た人があって、馬の尾を束ねた青い絲は、馬の頭を絡めた黄金の手綱に結び付けられて、まことに美美しく、馬さへ、かくの如く、その人の派手にみやびやかなることは、言うまでもない。何処の誰であるか知らぬが、無作法にも、馴れ馴れしく笑い戯れて、私に向ってからかった。私は、もと秦氏の娘女、名を羅敷というもので、玉の如き顔は、艶名を大都に歌われたものである。

743年(46)李白 巻五02 -《陌上桑》(美女渭橋東,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-46) <李白> Ⅰ李白詩1705 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7073

 

 
  2015年12月17日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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743年(46)李白 巻五02 -《陌上桑》(美女渭橋東,) Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(46) <李白> Ⅰ李白詩1705 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7073  
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年:743年天寶二年43歳 94-46

卷別:  卷一六五        文體:  樂府

詩題:  陌上桑

作地點:        長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:        渭橋 (京畿道 京兆府 長安)        

交遊人物/地點:

 

 

陌上桑

(長安大通りのそばの桑を摘む貞女、秦氏の娘女、羅敷を詠う)

美女渭橋東,春還事蠶作。

秦氏の女、羅敷は、絶代の美人で、渭橋の東に居り、春の歸りくるままに、養蚕を事とし、

その為に、陌上に於で、桑の葉を摘んで居た。

五馬如飛龍,青絲結金絡。

すると、そこへ飛龍の如く逞しき五馬を引き従えて来た人があって、馬の尾を束ねた青い絲は、馬の頭を絡めた黄金の手綱に結び付けられて、まことに美美しく、馬さへ、かくの如く、その人の派手にみやびやかなることは、言うまでもない。

不知誰家子,調笑來相謔。

何処の誰であるか知らぬが、無作法にも、馴れ馴れしく笑い戯れて、私に向ってからかった。

妾本秦羅敷,玉顏豔名都。

私は、もと秦氏の娘女、名を羅敷というもので、玉の如き顔は、艶名を大都に歌われたものである。

綠條映素手,採桑向城隅。

使君且不顧,況復論秋胡。

寒螿愛碧草,鳴鳳棲青梧。

託心自有處,但怪傍人愚。

徒令白日暮,高駕空踟躕。

 

(陌上桑)

美女 渭橋の東,春 還って 蠶作を事とす。

五馬 飛龍の如く,青絲 金絡を結ぶ。

知らず 誰が家の子か,調笑 來って相い謔むる。

妾 本と秦羅敷なり,玉顏 名都に豔なり。

綠條映素手,採桑向城隅。

使君且不顧,況復論秋胡。

愛碧草,鳴鳳棲青梧。

託心自有處,但怪傍人愚。

徒令白日暮,高駕空踟

 

 

『陌上桑』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

陌上桑

美女渭橋東,春還事蠶作。

五馬如飛龍,青絲結金絡。

不知誰家子,調笑來相謔。

妾本秦羅敷,玉顏豔名都。

(下し文)
(陌上桑)

美女 渭橋の東,春 還って 蠶作を事とす。

五馬 飛龍の如く,青絲 金絡を結ぶ。

知らず 誰が家の子か,調笑 來って相い謔むる。

妾 本と秦羅敷なり,玉顏 名都に豔なり。

(現代語訳)
陌上桑(長安大通りのそばの桑を摘む貞女、秦氏の娘女、羅敷を詠う)

秦氏の女、羅敷は、絶代の美人で、渭橋の東に居り、春の歸りくるままに、養蚕を事とし、

その為に、陌上に於で、桑の葉を摘んで居た。

すると、そこへ飛龍の如く逞しき五馬を引き従えて来た人があって、馬の尾を束ねた青い絲は、馬の頭を絡めた黄金の手綱に結び付けられて、まことに美美しく、馬さへ、かくの如く、その人の派手にみやびやかなることは、言うまでもない。

何処の誰であるか知らぬが、無作法にも、馴れ馴れしく笑い戯れて、私に向ってからかった。

私は、もと秦氏の娘女、名を羅敷というもので、玉の如き顔は、艶名を大都に歌われたものである。


(訳注)

陌上桑

(長安大通りのそばの桑を摘む貞女、秦氏の娘女、羅敷を詠う)

1.  陌上桑 陌上桑には二つある。一には、李白がこの詩、子夜に述べた羅敷「秦氏有好女,自名為羅敷。」であり、二は魯の秋胡の妻、《列女伝 秋胡子》「潔婦者,魯秋胡子妻也。」、顔延之(延年)《秋胡詩》のことである。

一、羅敷

子夜歌【子夜四時歌】四首:春歌

秦地羅敷女,採桑綠水邊。

素手青條上,紅妝白日鮮。

蠶飢妾欲去,五馬莫留連。 

(子夜歌【子夜四時の歌】四首:春の歌)

秦地羅敷の女,桑を綠水の邊に採る。

素手 青條の上,紅妝 白日鮮かなり。

蠶 飢えて 妾 去らんと欲す,五馬 留連する莫れ。 

李白303 《巻五 27李白22 子夜呉歌 其一 春》Index-22 Ⅲ―1 742年天寶元年42 18首 <李白303> Ⅰ李白詩1605 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6573

陌上桑行 〔艶歌羅敷行、日出東南隅行

陌上桑 #1
日出東南隅,照我秦氏樓。秦氏有好女,自名為羅敷。

羅敷喜蠶桑,採桑城南隅。
青絲為籠係,桂枝為籠鉤。頭上倭墮髻,耳中明月珠。

#2
緗綺為下裙,紫綺為上襦。行者見羅敷,下擔捋髭須。
少年見羅敷,
帽著頭。耕者忘其犁,鋤者忘其鋤。
來歸相怨怒,但坐觀羅敷。
#3
使君從南來,五馬立踟躕。使君遣吏往,問是誰家姝。
“秦氏有好女,自名為羅敷。”
“羅敷年幾何?”
“二十尚不足,十五頗有餘。”
“使君謝羅敷,寧可共載不?”
#4
羅敷前置辭:“使君一何愚!使君自有婦,羅敷自有夫。”
“東方千餘騎,夫婿居上頭。何用識夫婿?白馬從驪駒;
青絲係馬尾,黃金絡馬頭;
#5
腰中鹿盧劍,可直千萬餘。十五府小吏,二十朝大夫,
三十侍中郎,四十專城居。為人潔白晰,
鬑鬑頗有須。
盈盈公府步,冉冉府中趨。坐中數千人,皆言夫婿殊。”
#1
日は東南隅に出でて、我が案氏の榎を照らす。秦氏に好女有り、自ら名つけて羅敦と為す。羅敷荒桑を善くし、桑を城の南隅に探る。青緑をは籠系と為し、桂枝をば寵鈎と為す。頭上には倭堕の磐、耳中には明月の珠。

#2
純綿を下裾と為し、紫緒を上宿と為す。行く者は羅敦を見て、標を下して髭麦を括り、少年は羅敷を見て、帽を睨して略頭を著はす、耕す者は其の梁を忘れ、鋤く者は其の鋤を忘る。来り節って相怨怒するは、但羅数を観るに坐するのみ。
#3
使君南より来り、五馬立って蜘踊す。使君束をして徒かしめ、間ふ 「是れ誰が家の妹ぞ」 と。「秦氏に好女有り、自ら名いうて羅数と為す」。「羅敷は年幾何ぞ」。「二十には筒は足らず、十五頗る飴り有り」 と。使君羅敦に謝す、「寧ろ共に載る可きゃ不」 と。
#4
羅敷前んで詞を致す、「使君一に何ぞ愚なる。使君自ら婦有り、羅敷は自ら夫有り。東方の千絵騎、夫巧は上頭に居る。何を用てか夫靖を識る、白馬磯駒を徒へ、青練を馬屋に繋け、黄金を番頭に絡ふ。
#5
腰中の鹿底の鉱は、千萬徐に値す可し。十五に心て府の小史、二十にして朝の大夫。三十にして侍中部、四十にして城を専らにして居る。人と為り潔自習、孝養として頗る裏有り。盈盈として公府に歩み、再再として府中に趨る。坐中の数千人、皆言ふ 『夫巧は殊なり』 と。

二、魯国の秋胡子の妾なる潔婦についてのべた。

列女伝

魯秋潔婦. 潔婦者,魯秋胡子妻也。既納之五日,去而宦於陳,五年乃歸。未至家,見路旁婦人採桑,秋胡子悅之,下車謂曰:若曝採桑,吾行道,願託桑蔭下,下齎休焉。婦人採桑不輟,秋胡子謂曰:力田不如逢豐年,力桑不如見國卿。吾有金,願以與夫人。婦人曰:『採桑力作,紡績織紝以供衣食,奉二親養。夫子已矣,不願人之金。秋胡遂去。歸至家,奉金遺母,使人呼其婦。婦至,乃嚮採桑者也,秋胡子慚。婦曰:子束髮脩身,辭親往仕,五年乃還,當所悅馳驟,揚塵疾至。今也乃悅路傍婦人,下子之糧,以金予之,是忘母也。忘母不孝,好色淫泆,是行也,行不義。夫事親不孝, 則事君不忠。處家不義,則治官不理。孝義並亡,必不遂矣。妾不忍見,子改娶矣,妾亦不嫁。遂去而東走,投河而死。

秋胡子は、潔婦を納れ、五日にして、去りて陳に宦す。五年にして帰る。末だ其の家に至らざるとき、路傍に美しき婦人の方に桑を採るもの有るを見る。秋胡子は車より下り、謂うげて日く、いま吾に金あり、願はくは以て夫人に与へんと。婦人日く、嘻、妾は桑を採りて二親に奉ず。人の金を願わずと。秋湖子遂に去り、帰って家に至り金を奉じて其の母に遣る。その母、人をして其の婦を呼ばしむ。婦至る、乃ち向に桑を採りしものなり。秋湖は之を見て慙(は)づ。婦人日く、髪を束ね身む修め、親を辞し往いて仕ふ。五年にして乃ち還るを得たり。まさに親戚を見るべきなるに、今や乃ち路傍の婦人を悦びて、子の装を下し、金を以て之に与へんとす。これ母を忘るるの不孝なり。妾は不孝の人を見るに忍びずと。遂に去りて走り、自ら河に投じて裾す」(列女伝 秋胡子)

(大意)

魯の潔婦は秋胡子の妻である。新婚五日、秋湖は単身陳に赴任した。五年後に帰宅の道で、桑摘む美女を見て金を贈ろうとした。美人は拒絶したので、帰って母に贈った。妻を見ると、さきの採桑の美女であった。妻は五年振りの帰省に、道端の女を悦んで、母を忘れる不孝な人にはまみえないといって、遂に河に投死した。(西京雑記もほぼ同じ)とある。

秋胡詩 (9) 顔延之(延年) 詩<11>Ⅱ李白に影響を与えた詩480 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1257

 

美女渭橋東,春還事蠶作。

秦氏の女、羅敷は、絶代の美人で、渭橋の東に居り、春の歸りくるままに、養蚕を事とし、

その為に、陌上に於で、桑の葉を摘んで居た。

2.  渭橋 横橋とも中渭橋ともいう。長安の北を流れる渭水に架けた橋で、ここを渡ると咸陽の町。唐の時代には西域に通じる要道の一。長安には、便橋、東渭橋の三本の橋があった。①中渭橋は秦の時、始めて設置され,本らいの名称は橫橋という 。②東渭橋 は紀元前145年、漢の景帝五年に建置され,涇水が渭水に合流した下流の 東側に位置する。③西渭橋 は紀元前138年、漢の建元三年建置,長安城の便門に相對し,便橋 或は 便門橋という 。唐じだいには 咸陽橋と名づけられ,長安から 人、客を西行する場合に送別のため、多く此地に到って相い別れをした。

3.  春還 春が帰ってくる。

4.  蠶作 養蚕。

 

五馬如飛龍,青絲結金絡。

すると、そこへ飛龍の如く逞しき五馬を引き従えて来た人があって、馬の尾を束ねた青い絲は、馬の頭を絡めた黄金の手綱に結び付けられて、まことに美美しく、馬さへ、かくの如く、その人の派手にみやびやかなることは、言うまでもない。

5.  五馬  太守を称するもの、鄭注に謂う:『《周禮》:州長旟を建つ。』漢太守比に州長とし,故に云う。後見して龐幾先云う:『古より駟馬車に乘る,漢時に至り,太守出でて則ち一馬を增す,事 《漢官儀》見える也。』〕故に五馬と爲す。鄭注謂:『《周禮》:州長建旟。』漢太守比州長,故云。後見龐幾先云:『古乘駟馬車,至漢時,太守出則增一馬,事見《漢官儀》也。』〕

6.  青絲結金絡 馬の後部を縛った青い紐絲が、馬の首を絡めた黄金の手綱に結び付くといふ意。《艶歌羅敷行》「靑絲繋馬尾,黃金絡馬頭,腰中鹿盧劍,可千萬餘。」

 

不知誰家子,調笑來相謔。

何処の誰であるか知らぬが、無作法にも、馴れ馴れしく笑い戯れて、私に向ってからかった。

7.  調笑 からかい笑いがあり、嘲り戯れがあったりすること。戲謔嘲笑。文選·謝靈運·擬鄴中集詩·應瑒詩:「調笑輒酬答,嘲謔無慚沮。」(調笑には輒ち酬答し,嘲謔【ちょうぎゃく】にも慚沮【ざんそ】する無し。)

 

妾本秦羅敷,玉顏豔名都。

私は、もと秦氏の娘女、名を羅敷というもので、玉の如き顔は、艶名を大都に歌われたものである。

8.  名都 長安。

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李白  清平調詞,三首之三

名花傾國兩相歡,長得君王帶笑看。

解釋春風無限恨,沈香亭北倚闌干。
(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)

名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。

この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。

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清平調詞,三首之一

(興慶宮での宴の模様を述べる)

雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。

雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。

若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。

ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

 

(清平調詞 三首其の一)

雲には、衣裳かと想い、花には、容かと想う、春風 檻を払って、露華 濃かなり。

若し 群玉山頭に見るに非ざれば、会ず 瑤臺の月下に向って逢わん。

 

 

年:       天寶二年

寫作時間:           743

寫作年紀:           43

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    清平調詞,三首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              巫山 (山南東道 夔州 巫山)              

交遊人物/地點:  

 

清平調詞,三首之二

(沈香亭の牡丹が咲き誇るのを、巫山の神女、趙飛燕に比して、そしてそのどれより誰より美しい妃嬪が此処にいると述べる)

一枝穠豔露凝香,雲雨巫山枉斷腸。

一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。

借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。

漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。

(清平調詞,三首の二)

一枝の穠豔 露 香を凝らし,雲雨 巫山 枉げて斷腸。

借問す 漢宮 誰が似るを得たる,可憐の飛燕 新妝に倚る。

 

743年天寶二年43歳 94-46

卷別:    卷一六四               巻四32 文體:             樂府

詩題:    清平調詞,三首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:無

交遊人物/地點:  

 

 

清平調詞其三 

(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)

名花傾國兩相歡、長得君王帶笑看。 

名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。

解釋春風無限恨、沈香亭北倚欄干。 

この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。

 

(清平調詞 其の三)

名花 傾国 両つながら相い歓び、長く君王の笑いを帯びて看るを得たり。

解釈す 春風無限の恨み、沈香亭北 欄干に倚る。

 


『清平調詞,三首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

清平調詞,三首之三

名花傾國兩相歡,長得君王帶笑看。

解釋春風無限恨,沈香亭北倚闌干。

(下し文)
(清平調詞 其の三)

名花 傾国 両つながら相い歓び、長く君王の笑いを帯びて看るを得たり。

解釈す 春風無限の恨み、沈香亭北 欄干に倚る。

(現代語訳)
清平調詞,三首之三(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)

名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。

この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。


(訳注)

清平調詞,三首之三

(この時代までの絶色美人は趙飛燕といわれた、李白は、漠然と楊貴妃を比したのであろう。高力氏の言う諷刺の意味で比擬したのではなかった。)

 

名花傾國兩相歡、長得君王帶笑看。

名花と名高い牡丹の花と傾国の美女とが、二つながらたがいにその美を歓びあう。もとより甲乙はつけがたく、君王は常々楽しげに眺めて、いつまでも微笑みをかえしておられるというのは当然のことである。

14. 傾国 絶世の美女をいう。漢の武帝の寵臣、名歌手として知られた李延年の歌、

北方有佳人,絶世而獨立。

一顧傾人城,再顧傾人國。

寧不知傾城與傾國,佳人難再得。

「北方に佳人有り、絶世にして独立す。一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く」に基づく。李延年は自分の妹を「傾国の美女」として武帝に勧めた。後にその妹は「李夫人」となる。

白居易「長恨歌」、李商隠「柳」「北斉二首其一」(小燐)にもみえる。国を傾けるほどの美人という意味にマイナスの意味を感じない中国人的表現である。美しいことへの最大限の表現であるが、結果的に国を傾けてしまうことを使うとよくないことを暗示するのが日本的であるのかもしれない。しかし、西施についても李延年の妹「李夫人」についても後世の詩で、ただ美人だけの意味では使用していない。趙飛燕について、家柄が低い家系である後に、平民に落とされたものに比較したこと、貴族社会で最大の屈辱であることは理解できる。李延年も兄弟、趙飛燕の姉妹、北斎の小燐も姉妹で寵愛された。やはり李白は、ただ、お抱え詩人の地位に不満を持ち、宮中で長くは続かないことを感じ取っていたのだろう。

15. 君王 天子とは訳せない。もう少し小さい国の王、戦国、六朝の王に使用する場合が多い。

 

解釋春風無限恨、沈香亭北倚欄干。 

この二つがあればこそ、懶い春の日、愁いをも消し去ることができるので、沈香亭の北にある欄干に倚り沿った姿は、例えるものは何もない。この庭園の牡丹の花とこの妃嬪とは、ともに愛すべくすべてのものを破除して、この興慶宮での歓業に随うことになるのである。

16. 解釋 解きほぐす。解き明かす。理解する。解き放す。 

17. 春風無限恨 春風がもたらす様々な鬱屈の情。

18. 沈香亭 沈香(水に沈む堅く重い香木)で作ったのでこう名づけられた建物。興慶宮の芝池の東南に在った。現在も興慶公園の沈香亭として復元されている。

19.   身をもたせる。よりかかる。

 



親友の杜甫も、「李十二白に寄せる、二十韻」

昔年有狂客,號爾謫仙人。筆落驚風雨,詩成泣鬼神。

聲名從此大,沒一朝伸。文彩承殊渥,流傳必倫。

龍舟移棹晚,獸錦奪袍新。白日來深殿,青雲滿後塵。

乞歸優詔許,遇我夙心親。未負幽棲誌,兼全寵辱身。

劇談憐野逸。嗜酒見天真,醉舞梁園夜,行歌泗水春。』

 

才高心不展,道屈善無鄰。處士衡俊。諸生原憲貧。

稻粱求未足,薏苡謗何頻?五嶺炎蒸地,三危放逐臣。

幾年遭鵩鳥,獨泣向麒麟。蘇武元還漢,黃公豈事秦?

楚筵辭醴日,梁獄上書辰。已用當時法,誰將此議陳?

老吟秋月下,病起暮江濱。莫怪恩波隔,乘槎與問津。』

昔年 狂客有り、爾を謫仙人【たくせんにん】と号す。筆落つれば風雨【ふうう】驚き、詩成れば鬼神【きしん】泣く。声名 此 従【よ】り大に、沒【こつぼつ】一朝に伸ぶ。文彩【ぶんさい】 殊渥【しゅあく】を承【う】く、流伝【るてん】するは必ず絶倫【ぜつりん】なり。竜舟【りょうしゅう】棹【さお】を移すこと晩く、獣錦【じゅうきん】奪袍【だつほう】新たなり。

白日【はくじつ】 深殿【しんでん】に来たる、青雲に後塵【こうじん】満つ。帰るを乞うて優詔【ゆうしょう】許さる、我に遇うて宿心【しゅくしん】親しむ。未だ負【そむ】かず幽棲【ゆうせい】の志に、兼ねて全うす寵辱【ちょうじょく】の身。劇談【げきだん】野透【やいつ】を憐れむ、嗜酒【ししゅ】天真【てんしん】を見る。酔舞【すいぶ】す梁園【りょえん】の夜、行歌【こうか】す泗水【しすい】の春。』

 

才高くして心展べず、道屈【くつ】して善【ぜん】隣り無し。処士【しょし】衡【でいこう】俊【しゅん】に、諸生【しょせい】原憲【げんけん】貧なり。稲梁【とうりょう】求むる未だ足らず、薏苡【よくい】謗【そしり】り何ぞ頻りなる。五嶺【ごれい】炎蒸【えんじょう】の地、三危【さんき】放逐【ほうちく】の臣。幾年か鵩鳥【ふくちょう】に遭える、独泣【どくきゅう】麟鱗【きりん】に向こう。

蘇武【そぶ】元【もと】漢に還る、黃公【こうこう】豈に秦に事【つか】えんや。楚筵【そえん】醴【れい】を辞せし日、梁獄【りょうごく】書を上りし辰【とき】。巳に当時の法を用う、誰か此の議を将で陳【ちん】せん。老いて吟ず秋月の下、病起【へいき】す暮江【ぼこう】の浜【ほとり】。怪しむ莫れ恩波【おんは】の隔たるを、槎【さ】に乗じて与【た】めに津【しん】を問わん。』

に、「筆落とせば風雨を驚かせ、詩成れば鬼神か泣かしむ」といい、かの賀知章が「烏夜噂」を嘆賞して「鬼神を泣かしむ」といったことを含みつつ、李白の詩を激賞している。そして、「文采は殊寵を承け、流伝すれば必ず絶倫たり」といって、天子の「殊寵を承け」たことを歌っている。真実を歌う杜甫がいうほどだから、玄宗の特別の寵愛があったことは確かであろう

 

楊貴妃はすこぶる寵愛された。馬に乗るごとに高力士が轡を執って鞭を振るった。 貴妃院専従の織工は七百人もおり、中外は争って器服珍玩を献上した。嶺南経略使張九章や広陵長史王翼は、 献上物が精緻で美しかったので、九章には三品が加えられ、翼は朝廷にて戸部侍郎となった。 天下は、風に靡くように従った。

  民間では、歌にまで歌われた。

  「男を産んでも喜ぶな。女を産んでも悲しむな。主君は今、女を見て出世させるぞ。」

  楊貴妃が生茘支を欲しがると、嶺南から駅伝で届けるよう命じた。長安へ届いたときには、 色も味も劣化していなかった。

  そこまで愛されたので、楊貴妃は不遜になり嫉妬や悍気を発するようになった。 玄宗皇帝は怒り兄の楊銛の屋敷に送り返すよう命じた。

  その日、玄宗皇帝は不機嫌で、一日中食事も摂らず、近習が少しでも気に入らないと、容赦なく鞭でぶっ叩いた。 高力士は玄宗皇帝の想いを知り、院中の官女全員が、車百台で楊貴妃を迎えに行くよう請うた。 玄宗皇帝は喜び、自ら膳を賜った。

  夜になって、楊貴妃が院に帰ってきたと、高力史が上奏した。 ついに、禁門を開いて楊貴妃を入れた。

  この一件で、寵恩はますます隆くなり、後宮の女性は誰も相手にされなくなった。

 

杜甫 麗人行

三月三日天氣新,長安水邊多麗人。態濃意遠淑且真,肌理細膩骨肉勻。

繍羅衣裳照暮春,蹙金孔雀銀麒麟。頭上何所有,    翠微盎葉垂鬢唇。

背後何所見,    珠壓腰穩稱身。就中雲幕椒房親,賜名大國虢與秦。

紫駝之峰出翠釜,水精之盤行素鱗。犀箸厭飫久未下,鸞刀縷切空紛綸。

黄門飛鞚不動塵,御廚絡繹送八珍。簫管哀吟感鬼神,賓從雜遝實要津。

後來鞍馬何逡巡,當軒下馬入錦茵。楊花雪落覆白蘋,靑鳥飛去銜紅巾。

炙手可熱勢絶倫,慎莫近前丞相嗔。

 

三月三日 天氣 新たに,長安の水邊 麗人 多し。態は濃く 意は遠くして淑且かつ真に,肌理は 細膩にして 骨肉は勻し。

繍羅の衣裳は 莫春に 照はゆる,蹙金の孔雀 銀の麒麟。頭上何の有る所ぞ, 翠を盎葉と爲して鬢脣に 垂たる。背後何の見る所ぞ,珠は腰衱を壓して穩やかに身に稱ふ。』

就中【なかんづ】く 雲幕の椒房の親しん,名を賜ふ 大國 虢くと秦と。紫駝の峰を翠釜より 出だし,水精の盤に 素鱗 行くばる。犀箸 厭飫して久しく未だ下さず,鸞刀 縷切して 空しく紛綸たり。黄門 鞚を飛ばして塵を動かさず,御廚 絡繹として 八珍を送る。簫管 哀吟して 鬼神をも感ぜしめ,賓從 雜遝して 要津に實つ。』

後れ來たる鞍馬は何ぞ 逡巡する,軒に當たりて 馬より下りて 錦茵に入る。楊花 雪のごとく落ちて 白蘋を覆ひ,靑鳥 飛び去りて 紅巾を銜む。手を炙らば 熱す可べし 勢は絶倫なり,慎みて 近前する莫れ 丞相 嗔からん。』

 

 

清平調詞,三首  【字解】

 

1 云想衣裳  霓裳羽衣舞のことで、興慶宮、花萼相輝樓前で300人以上の妃嬪妓優などで舞わせた。 これはは唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと、雲の様にうかびながれる。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。云想 雲は艶情詩の世界では艶めかしい女性を示す。・衣裳 衣装はあでやかさを示す。

 花想容 美しい花、沈香亭の

 檻 沈香亭の龍池に面した舞台の欄干。

 露華 興慶宮での夜の華やかな屋外舞台。玄宗皇帝は興慶宮、勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。

この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。

 群玉山 不老不死の仙女、西王母の住むという伝説上の仙山、崑崙山。《山海經西山經》. 又西三百五十里曰玉山,是西王母所居也。 《穆天子傳》謂之羣玉之山,見其山河無險,四徹中繩,先王之所謂策府。

6 瑤台 五色の玉で作った高台。崑崙山の西王母の臺、神仙の住むという土地。瑤池もある。

7 雲雨巫山 昔、楚の先王(懐王)が、楚の雲夢の沢にあった高唐の台に遊び、昼寝の夢の中で巫山の神女と契った。神女は去るに当たり、「妾は、巫山の陽、高丘の阻(険岨な場所)に在り。且には朝雲と為り、暮には行雨と為る。朝々暮々、陽台の下」と、その思いを述べた。翌朝、見てみると、その言葉どおりだったので、神女のために廟を立てて「朝雲」と名づけた。(宋玉の「高唐の拭、序を幷す」〔『文選』巻十九〕に見える話であるが、宋玉にこの賦を作らせた襄王〔懐王の子〕のこととして語られることが多い)。
8   いたずらに、甲斐もなく。
9 断腸 はらわたがちぎれる。恋慕の情の激しさ、言葉の意味の中にセックスの意味が込められた悲痛を表わす慣用語。

10 借間   ちょっとたずねたい。軽く問いかける時の慣用語。
11
 可憐  激しい感情の動きを表わす慣用語。プラスにもマイナスにも用いる。ここでは、美人の愛らしさに用いている。
12
 飛燕  前漠の成帝の皇后、趙飛燕。やせ形で身の軽い、漢代随一の美人だったとされる。(「宮中行楽詞、其の二」)。
13
 倍新粧 新たに化粧した容貌を誇らかに示す。「俺」は、悼みとして自信をもつこと。

14. 傾国 絶世の美女をいう。漢の武帝の寵臣、名歌手として知られた李延年の歌、

北方有佳人,絶世而獨立。

一顧傾人城,再顧傾人國。

寧不知傾城與傾國,佳人難再得。

「北方に佳人有り、絶世にして独立す。一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く」に基づく。李延年は自分の妹を「傾国の美女」として武帝に勧めた。後にその妹は「李夫人」となる。

白居易「長恨歌」、李商隠「柳」「北斉二首其一」(小燐)にもみえる。国を傾けるほどの美人という意味にマイナスの意味を感じない中国人的表現である。美しいことへの最大限の表現であるが、結果的に国を傾けてしまうことを使うとよくないことを暗示するのが日本的であるのかもしれない。しかし、西施についても李延年の妹「李夫人」についても後世の詩で、ただ美人だけの意味では使用していない。趙飛燕について、家柄が低い家系である後に、平民に落とされたものに比較したこと、貴族社会で最大の屈辱であることは理解できる。李延年も兄弟、趙飛燕の姉妹、北斎の小燐も姉妹で寵愛された。やはり李白は、ただ、お抱え詩人の地位に不満を持ち、宮中で長くは続かないことを感じ取っていたのだろう。

15. 君王 天子とは訳せない。もう少し小さい国の王、戦国、六朝の王に使用する場合が多い。

16. 解釋 解きほぐす。解き明かす。理解する。解き放す。 

17. 春風無限恨 春風がもたらす様々な鬱屈の情。

18. 沈香亭 沈香(水に沈む堅く重い香木)で作ったのでこう名づけられた建物。興慶宮の芝池の東南に在った。現在も興慶公園の沈香亭として復元されている。

19.   身をもたせる。よりかかる。

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李白  清平調詞,三首之二

一枝穠豔露凝香,雲雨巫山枉斷腸。

借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。

(沈香亭の牡丹が咲き誇るのを、巫山の神女、趙飛燕に比して、そしてそのどれより誰より美しい妃嬪が此処にいると述べる)

一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。

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清平調詞,三首之一

(興慶宮での宴の模様を述べる)

雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。

雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。

若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。

ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

 

(清平調詞 三首其の一)

雲には、衣裳かと想い、花には、容かと想う、春風 檻を払って、露華 濃かなり。

若し 群玉山頭に見るに非ざれば、会ず 瑤臺の月下に向って逢わん。

 

 

年:       天寶二年

寫作時間:           743

寫作年紀:           43

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    清平調詞,三首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              巫山 (山南東道 夔州 巫山)              

交遊人物/地點:  

 

清平調詞,三首之二

(沈香亭の牡丹が咲き誇るのを、巫山の神女、趙飛燕に比して、そしてそのどれより誰より美しい妃嬪が此処にいると述べる)

一枝穠豔露凝香,雲雨巫山枉斷腸。

一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。

借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。

漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。

(清平調詞,三首の二)

一枝の穠豔 露 香を凝らし,雲雨 巫山 枉げて斷腸。

借問す 漢宮 誰が似るを得たる,可憐の飛燕 新妝に倚る。

 

『清平調詞,三首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

清平調詞,三首之二

一枝穠豔露凝香,雲雨巫山枉斷腸。

借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。
詩文(含異文)

一枝穠豔露凝香【一枝紅豔露凝香】,雲雨巫山枉斷腸。

借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。


(下し文)
(清平調詞,三首の二)

一枝の穠豔 露 香を凝らし,雲雨 巫山 枉げて斷腸。

借問す 漢宮 誰が似るを得たる,可憐の飛燕 新妝に倚る。

(現代語訳)
清平調詞,三首之二(沈香亭の牡丹が咲き誇るのを、巫山の神女、趙飛燕に比して、そしてそのどれより誰より美しい妃嬪が此処にいると述べる)

一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。

漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。


(訳注)

清平調詞,三首之二

(沈香亭の牡丹が咲き誇るのを、巫山の神女、趙飛燕に比して、そしてそのどれより誰より美しい妃嬪が此処にいると述べる)

側近の宦官、高力士は、かつて宴席で李白の靴を脱がせられたことを恨みに思い、この第二首に前漢の成帝の皇后趨飛燕が歌われていることを理由として(第二首の語釈参照)、李白のことを貴妃に議言し、李白の登用に強く反対させたため、玄宗もついに断念することになった。(趙飛燕は漢代随一の美人とされるが、後年、王葬に弾劾されて庶民となり、自殺している。それを太真妃になぞらえたということが、彼女の怒りを買ったのである)。李白がなぜ楊貴妃とタイプが違い、何よりも権力の掌握度が圧倒的に違っていたし、姉妹で皇帝に寵愛された趙飛燕を喩えにとったかは理解できないが、残っている資料は支配者側のものでしかない。事実はあったかもしれないが宮廷を追われるほどのものかどうか疑問が残る点である。

 

一枝紅艷露凝香、云雨巫山枉斷腸。 

一枝濃艶の紅い牡丹の花、暁の露を含んでただよわせる濃密な香りで、またひとしおになる。花はそうであるし、人もそうである。昔、楚の襄王は、巫山の神女にあったというが、朝雲暮雨、夢寐恍惚、醒めて心をいたずらに悩ますばかりで、今日この光景には及ばないのである。

7 雲雨巫山 昔、楚の先王(懐王)が、楚の雲夢の沢にあった高唐の台に遊び、昼寝の夢の中で巫山の神女と契った。神女は去るに当たり、「妾は、巫山の陽、高丘の阻(険岨な場所)に在り。且には朝雲と為り、暮には行雨と為る。朝々暮々、陽台の下」と、その思いを述べた。翌朝、見てみると、その言葉どおりだったので、神女のために廟を立てて「朝雲」と名づけた。(宋玉の「高唐の拭、序を幷す」〔『文選』巻十九〕に見える話であるが、宋玉にこの賦を作らせた襄王〔懐王の子〕のこととして語られることが多い)。
8   いたずらに、甲斐もなく。
9 断腸 はらわたがちぎれる。恋慕の情の激しさ、言葉の意味の中にセックスの意味が込められた悲痛を表わす慣用語。

 

借問漢宮誰得似、可憐飛燕倚新妝。 

漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。

10 借間   ちょっとたずねたい。軽く問いかける時の慣用語。
11
 可憐  激しい感情の動きを表わす慣用語。プラスにもマイナスにも用いる。ここでは、美人の愛らしさに用いている。
12
 飛燕  前漠の成帝の皇后、趙飛燕。やせ形で身の軽い、漢代随一の美人だったとされる。(「宮中行楽詞、其の二」)。
13
 倍新粧 新たに化粧した容貌を誇らかに示す。「俺」は、悼みとして自信をもつこと。

 

 

清平調詞,三首  【字解】

 

1 云想衣裳  霓裳羽衣舞のことで、興慶宮、花萼相輝樓前で300人以上の妃嬪妓優などで舞わせた。 これはは唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと、雲の様にうかびながれる。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。云想 雲は艶情詩の世界では艶めかしい女性を示す。・衣裳 衣装はあでやかさを示す。

 花想容 美しい花、沈香亭の

 檻 沈香亭の龍池に面した舞台の欄干。

 露華 興慶宮での夜の華やかな屋外舞台。玄宗皇帝は興慶宮、勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。

この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。

 群玉山 不老不死の仙女、西王母の住むという伝説上の仙山、崑崙山。《山海經西山經》. 又西三百五十里曰玉山,是西王母所居也。 《穆天子傳》謂之羣玉之山,見其山河無險,四徹中繩,先王之所謂策府。

6 瑤台 五色の玉で作った高台。崑崙山の西王母の臺、神仙の住むという土地。瑤池もある。

7 雲雨巫山 昔、楚の先王(懐王)が、楚の雲夢の沢にあった高唐の台に遊び、昼寝の夢の中で巫山の神女と契った。神女は去るに当たり、「妾は、巫山の陽、高丘の阻(険岨な場所)に在り。且には朝雲と為り、暮には行雨と為る。朝々暮々、陽台の下」と、その思いを述べた。翌朝、見てみると、その言葉どおりだったので、神女のために廟を立てて「朝雲」と名づけた。(宋玉の「高唐の拭、序を幷す」〔『文選』巻十九〕に見える話であるが、宋玉にこの賦を作らせた襄王〔懐王の子〕のこととして語られることが多い)。
8   いたずらに、甲斐もなく。
9 断腸 はらわたがちぎれる。恋慕の情の激しさ、言葉の意味の中にセックスの意味が込められた悲痛を表わす慣用語。

 

借問漢宮誰得似、可憐飛燕倚新妝。 

漢の時代、後宮では、妃嬪に國色が多かったというが、今、そのうちの何人に架比すべき。その比すことができる妃嬪といえば、ただ一人可憐であった趙飛燕だけであり、それも新妝と比すれば誇るほどのものではない。このお方、すでにかくのごとくであり、又花も又思うべきである。

10 借間   ちょっとたずねたい。軽く問いかける時の慣用語。
11
 可憐  激しい感情の動きを表わす慣用語。プラスにもマイナスにも用いる。ここでは、美人の愛らしさに用いている。
12
 飛燕  前漠の成帝の皇后、趙飛燕。やせ形で身の軽い、漢代随一の美人だったとされる。(「宮中行楽詞、其の二」)。
13
 倍新粧 新たに化粧した容貌を誇らかに示す。「俺」は、悼みとして自信をもつこと。

743年(44)李白362 巻四30-《清平調詞,三首之一》(雲想衣裳花想容,) 362Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(44) <李白362> Ⅰ李白詩1703 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7063

李白  清平調詞,三首之一

雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。

若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。
(興慶宮での宴の模様を述べる)

雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

743年(44)李白362 巻四30-《清平調詞,三首之一》(雲想衣裳花想容,) 362Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-44) <李白362> Ⅰ李白詩1703 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7063

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-44

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    清平調詞,三首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

 

 

清平調詞,三首之一

(興慶宮での宴の模様を述べる)

雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。

雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。

若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。

ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

 

(清平調詞 三首其の一)

雲には、衣裳かと想い、花には、容かと想う、春風 檻を払って、露華 濃かなり。

若し 群玉山頭に見るに非ざれば、会ず 瑤臺の月下に向って逢わん。

 

 

『清平調詞,三首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

清平調詞,三首之一

雲想衣裳花想容,春風拂檻露華濃。

若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。

(下し文)
(清平調詞 三首其の一)

雲には、衣裳かと想い、花には、容かと想う、春風 檻を払って、露華 濃かなり。

若し 群玉山頭に見るに非ざれば、会ず 瑤臺の月下に向って逢わん。

(現代語訳)
清平調詞,三首之一(興慶宮での宴の模様を述べる)

雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。

ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。


(訳注)

清平調詞,三首之一

(興慶宮での宴の模様を述べる)

 

 宋の楽史の『李翰林集別集』序や『楊太真外伝』にも載っている。

「開元中,禁中初重木芍藥,即今牡丹也。《開元天寶》花呼木芍藥,本記云禁中為牡丹花。得四本紅、紫、淺紅、通白者,上因移植於興慶池東沉香亭前。會花方繁開,上乘月夜召太真妃以步輦從。詔特選梨園子弟中尤者,得樂十六色。」(開元中、禁中、はじめて木芍薬を重んず、即ち今の牡丹なり。四本、紅、紫、浅紅、通白なるものを得たり。上、輿慶地東の沈香亭前に移植す。たまたま、花、まさに繁開す。上、照夜白の馬に乗じ、太眞妃、歩輦を以て従う。詔して、特に梨園弟子中の尤なるものを選び、樂十六部を得たり。)

李龜年手捧檀板,押眾樂前,將欲歌。上曰:"賞名花對妃子焉用舊樂辭?"為遽命,龜年持金花箋,宣賜翰林學士李白進清平調辭三章,白欣承詔旨,猶苦宿醒未解,援筆賦: 雲想衣裳花想容, 春風拂檻露華濃。 若非群玉山頭見, 會向瑤台月下逢。   一枝紅豔露凝香, 雲雨巫山枉斷腸。 借問漢宮誰得似, 可憐飛燕倚新妝。   名花傾國兩相歡, 常得君王帶笑看。 解釋春風無限恨, 沉香亭北倚欄幹。   龜年捧詞進,上命黎園弟子約略詞調撫絲竹,遂捉龜年以歌。妃持頗黎七寶杯,酌西涼州葡萄酒,笑領歌意甚厚。

(李亀年、歌を以て一時の名をほしいままにす、手に檀板を捧げ、衆樂を押して前み、将に之を歌はむとす。上曰く、名花を賞し、妃子に対す、焉んぞ、舊樂詩を用ふるを爲さむ、と。遂に亀年に命じ、金花箋を持し、翰林供奉李白に宣賜し、立どころに、清平調辭三首を進めしむ。白、欣然として旨を承け、なお宿酲未だ解けざるに苦みつつ、因って、筆を援って之を賦す。その辭に曰く、云云と。龜年、遽に辭を以て進む。上、梨園の弟子に命じ、約略、絲竹を調撫し、遂に龜年を促し、以て歌はしむ。太眞妃、披璃七賓を持して、西涼州の蒲桃酒を酌み、笑って歌意を領する、甚だ惇し。)

開元中、天子は、牡丹(木芍薬)を重んじた。紅、紫、浅紅、裏白の四本を興慶池の東、沈香亭の前に移植した。花の真っ盛りのときに、天子は昭夜白の馬に乗り、楊貴妃は手車で従った。梨園の弟子の特に選抜された者に詔をして楽曲十六章を選んだ。李亀年は当時の歌唱の第一人者である。この李亀年に梨園の楽人を指揮して歌わせようとした。李亀年は紫檀の拍子板をもって楽人の前で指揮して歌おうとしたとき、玄宗は、「名花を質し、妃子に対す、いずくんぞ旧楽詞を用いんや」といって、そこで李亀年に命じ、金花箋を持ってこさせ、翰林供奉の李白に命じた。李白は立ちどころに「清平調詞」三章を作ってたてまつった。天子は梨園の弟子たちに命じ楽器に調子を合わさせて、李亀年に歌わせた。楊貴妃は、玻璃七宝の盃を持ち、涼州のぶどう酒を飲み、歌意をさとりにっこりし、また玄宗も、みずから玉笛を吹いて曲に和し、曲の移り変わりのときには、調子をゆるめて妃に媚びた。玄宗はこれ以後、李白を特に重視するようになった。

 

 

云想衣裳花想容、春風拂檻露華濃。 

雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。

1 云想衣裳  霓裳羽衣舞のことで、興慶宮、花萼相輝樓前で300人以上の妃嬪妓優などで舞わせた。 これはは唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと、雲の様にうかびながれる。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。云想 雲は艶情詩の世界では艶めかしい女性を示す。・衣裳 衣装はあでやかさを示す。

 花想容 美しい花、沈香亭の

 檻 沈香亭の龍池に面した舞台の欄干。

 露華 興慶宮での夜の華やかな屋外舞台。玄宗皇帝は興慶宮、勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。

この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。

 

若非群玉山頭見、會向瑤台月下逢。 

ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

 群玉山 不老不死の仙女、西王母の住むという伝説上の仙山、崑崙山。《山海經西山經》. 又西三百五十里曰玉山,是西王母所居也。 《穆天子傳》謂之羣玉之山,見其山河無險,四徹中繩,先王之所謂策府。

6 瑤台 五色の玉で作った高台。崑崙山の西王母の臺、神仙の住むという土地。瑤池もある。


唐代には上は天子、公卿から、下は庶民、士人に至るまでの、すべての人々にとって欠くことのできない芸術的楽しみであった。それゆえこれらは宮廷から、あらゆる社会の階層に至るまで盛んに行われた。宮廷の中にあった教坊、宜春院、梨園、それに長安・洛陽両京にあった外教坊などには、歌舞と音栗に携わる芸妓が多数集中していた。朝廷は天下の名人を広く捜し出したので、唐代の女性芸術家の最も優れた人々をそこに集めることができたのである。彼女たちは恵まれた条件を与えられ、専門的な教育を受けた。また宮廷では常時大規模な催しが開かれたので、彼女たちは芸術的才能を充分に発揮することができ、高度な芸術的才能をもった人々が輩出することになった。

 

彼女たちの中には一声喉をころがせば長安の大通りに鳴り響いたといわれる歌手、曲を作り楽器を見事に奏でる音楽家、舞姿が美しく絶妙な芸を身につけた舞踊家、その他様々な方面に才能を発揮した芸術家がいた。

唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。

 

興慶宮002 

清平調詞,三首  【字解】

 

1 云想衣裳  霓裳羽衣舞のことで、興慶宮、花萼相輝樓前で300人以上の妃嬪妓優などで舞わせた。 これはは唐代舞踊を代表する演目で、「霓裳」とは虹のように美しいもすそ(スカート)、「羽衣」は鳥の羽のように軽い衣のこと、雲の様にうかびながれる。唐の玄宗皇帝が夢のなかで天上の月宮に遊び、仙女が舞っていた調べをもとに作った。云想 雲は艶情詩の世界では艶めかしい女性を示す。・衣裳 衣装はあでやかさを示す。

 花想容 美しい花、沈香亭の

 檻 沈香亭の龍池に面した舞台の欄干。

 露華 興慶宮での夜の華やかな屋外舞台。玄宗皇帝は興慶宮、勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。

この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。

 

若非群玉山頭見、會向瑤台月下逢。 

ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

 群玉山 不老不死の仙女、西王母の住むという伝説上の仙山、崑崙山。《山海經西山經》. 又西三百五十里曰玉山,是西王母所居也。 《穆天子傳》謂之羣玉之山,見其山河無險,四徹中繩,先王之所謂策府。

6 瑤台 五色の玉で作った高台。崑崙山の西王母の臺、神仙の住むという土地。瑤池もある。
興慶宮の位置関係00
 

李白研究05 清平調詞について  <李白研究05> Ⅰ李白詩1702 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7058

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李白 清平調について

楽府の一つ。唐の玄宗が楊貴妃と沈香亭で牡丹をながめて楽しんだとき、李白が勅を受けて作ったもの。楽府には、清調・平調・瑟調があったが、李白が、清調と平調を合わせて清平調三章を作った。

 

清平調とは、欒律の名で、

通典に「『清商三調』,而其初,則是僅有『清商』曲之稱.我們如今就來談漢朝起初的『清商』曲的古琴的訂弦法.而唐朝杜佑《通典》:『平調、清調、瑟調,皆周房中曲之遺聲,漢世謂之三調。』則似漢代己有清商三調的稱呼了.」

(『清商三調』,而其初,則是僅有『清商』曲之稱.我們如今就來談漢朝起初的『清商』曲的古琴的訂弦法.而唐朝杜佑《通典》:平調、清調、瑟調は皆周の房中曲の遺聲、漢世、これを三調といい、すべて相和調という。則似漢代己有清商三調的稱呼了.」とある。

李白の巻四303132-《清平調詞,三首之一・二・三》詩は、沈香亭の牡丹の宴に際し、勅命に因って作ったので、清調平調の二つを合して曲に譜したから、清平調といったので、もとより詩題ではない。それから、李白が勅命に因って作ったのは、この詩と宮中行楽詞十首とであるが、これに就いては、後人の記述が錯雑して、傳聞異辭、頗る多く、紛粉として、歸著するところを知らぬようである。そこで、今正史たる新舊唐書の文を挙げ、それから他の雑書の説をも引抄して、一わたり、研究して見ようと思う。但し、是等は、大抵、王埼註文の序誌碑傳年譜などに集めてあるので、何もここで新たに詮議したわけではないこと一言ここに断って置く。

劉句の《舊唐書》

「白既嗜酒,日與飲徒醉於酒肆。玄宗度曲,欲造樂府新詞,亟召白,白已臥於酒肆矣。召入,以水灑面,即令秉筆,頃之成十餘章,帝頗嘉之。嘗沉醉殿上,引足令高力士靴,由是斥去。乃浪?江湖,終日沉飲。時侍御史崔宗之謫官金陵,與白詩酒唱和。」

白、すでに酒をたしなみ、日に飲徒とともに酒肆に酔う。玄宗、曲を度して、楽府新調を造らんと欲し、すみやかに白を召す。年すでに酒肆に臥す。召し入るとき、水を以て面に灌ぎ、即ち筆を秉らしむ。これに頃くして、十餘草を成す。帝、頗る之を嘉す。かつて、殿上に沈醉し、高力士をして、靴を脱せしむ。これに由って、斥け去られ、乃ち江湖に浪跡し、終日沈飲す。時に侍御史崔宗之は金陵に謫官し,白詩と酒と唱和す。」とある。

次に宋祁の《新唐書・李白傳》

「玄宗,召見金鑾殿,論當世事,奏頌一篇。帝賜食,親為調羹,有詔供奉翰林。白猶與飲徒醉於市。帝坐沈香亭子,意有所感,欲得白為樂章;召入,而白已醉,左右以水靧面,稍解,援筆成文,婉麗精切無留思。帝愛其才,數宴見。白嘗侍帝,醉,使高力士靴。力士素貴,恥之,擿其詩以激楊貴妃,帝欲官白,妃輒沮止。白自知不為親近所容,益驁放不自脩,與知章、李適之、汝陽王璡、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂為「酒八仙人」。懇求還山,帝賜金放還。白浮游四方,嘗乘舟與崔宗之自采石至金陵,著宮錦袍坐舟中,旁若無人。」

玄宗、金鑾殿に召し見て、当世の事を論じ、頌一篇を奏す。帝、食を賜ひ、親ら爲に羹を調す、詔あり、翰林に供奉せしむ。白、なお飲徒と市に醉ふ。帝、沈香亭中に坐し、意咸ずるところあり、白を得て樂章を爲らしめむと欲し、召し入るれば、白、すでに醉へり。左右、水を以て面に注ぎ、稍々や解くるや、筆をとって之を成す、艶麗精切にして、恩を留むるなし。帝、その才を愛し、数ば宴飲す。

白、常に帝に侍し、酔うて、高力士をして靴を脱せしむ。力士顕貴、これを恥とし、その詩を摘まんで、以て楊貴妃を激す。帝、白を官せむと欲す、妃、輒ち沮んで止む。白、自ら近親に容れられざるを知り、益す驁放にして、自ら修せず、賀知章、李適之、汝陽王、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂とともに、酒中の八仙人となり、懇ろに山に還るを求む。帝、金を賜うて放還す。白 四方に浮游し,嘗て與崔宗之と乘舟し 采石より金陵に至る,宮錦袍を著し舟中に坐す,旁若無人。」とある。

《新唐書》卷二百二〈文藝列傳中·李白〉~5762

天寶初,南入會稽,與筠善,筠被召,故白亦至長安。往見賀知章,知章見其文,歎曰:「子,謫仙人也!」言於玄宗,召見金鑾殿,論當世事,奏頌一篇。帝賜食,親為調羹,有詔供奉翰林。白猶與飲徒醉于市。帝坐沈香子亭,意有所感,欲得白為樂章,召入,而白已醉,左右以水面,稍解,授筆成文,婉麗精切,無留思。帝愛其才,數宴見。白嘗侍帝,醉,使高力士靴。力士素貴,恥之,擿其詩以激楊貴妃,帝欲官白,妃輒沮止。白自知不為親近所容,益驁放不自脩,與知章、李適之、汝陽王璡、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂為「酒八仙人」。懇求還山,帝賜金放還。白浮游四方,嘗乘月與崔宗之自采石至金陵,著宮錦袍坐舟中,旁若無人。

(天寶の初め,南の方會稽入る,與筠と善くす,筠被召し,故に白 亦た長安に至る。往いて賀知章に見う,知章 其の文を見て,歎して曰く:「子,謫仙人也!」於れを玄宗に言う,金鑾殿に召して見う,論 世事に當る,頌一篇を奏す。食を賜ひ、親ら爲に羹を調す、詔あり、翰林に供奉せしむ。白、なお飲徒と市に醉ふ。帝 沈香子亭に坐し,意 感ずる所有r,白を得て樂章を為らしめんと欲し,召し入るれば,白 已に醉えり,左右、水を以て面に注ぎ、稍々や解くるや、筆をとって之を成す、艶麗精切にして、恩を留むるなし。帝、その才を愛し、数ば宴飲す。

白、常に帝に侍し、酔うて、高力士をして靴を脱せしむ。力士顕貴、これを恥とし、その詩を摘まんで、以て楊貴妃を激す。帝、白を官せむと欲す、妃、輒ち沮んで止む。白、自ら近親に容れられざるを知り、益す驁放にして、自ら修せず、賀知章、李適之、汝陽王、崔宗之、蘇晉、張旭、焦遂とともに、酒中の八仙人となり、懇ろに山に還るを求む。帝、金を賜うて放還す。白 四方に浮游し,嘗て與崔宗之と乘舟し 采石より金陵に至る,宮錦袍を著し舟中に坐す,旁若無人。

 

舊唐書、新唐書、二書の記するところ、各も詳略はあるも、李白の作ったのは、欒府新調、もしくは楽章というだけで、詩を特定しているわけではない。しかし、舊唐書には十餘章とあるから、宮中行楽詞を指したものらしく、新書には、「帝 沈香亭中に坐す」とあるから、どうやら、興慶宮の龍池のほとり沈香亭の前の牡丹を詠じた清平調詩らしいが、これだけでは、どうも確定まではできない。それから孟棨の本事詩は、前に宮中行楽詞の候下に引いたが、明かに、同詞である。

 

 

次に太平廣記に引ける韋叡の松窓録は、一番詳しく、

「開元中,禁中初重木芍藥,即今牡丹也。《開元天寶》花呼木芍藥,本記云禁中為牡丹花。得四本紅、紫、淺紅、通白者,上因移植於興慶池東沉香亭前。會花方繁開,上乘月夜召太真妃以步輦從。詔特選梨園子弟中尤者,得樂十六色。」(開元中、禁中、はじめて木芍薬を重んず、即ち今の牡丹なり。四本、紅、紫、浅紅、通白なるものを得たり。上、輿慶地東の沈香亭前に移植す。たまたま、花、まさに繁開す。上、照夜白の馬に乗じ、太眞妃、歩輦を以て従う。詔して、特に梨園弟子中の尤なるものを選び、樂十六部を得たり。)

李龜年手捧檀板,押眾樂前,將欲歌。上曰:"賞名花對妃子焉用舊樂辭?"為遽命,龜年持金花箋,宣賜翰林學士李白進清平調辭三章,白欣承詔旨,猶苦宿醒未解,援筆賦: 雲想衣裳花想容, 春風拂檻露華濃。 若非群玉山頭見, 會向瑤台月下逢。   一枝紅豔露凝香, 雲雨巫山枉斷腸。 借問漢宮誰得似, 可憐飛燕倚新妝。   名花傾國兩相歡, 常得君王帶笑看。 解釋春風無限恨, 沉香亭北倚欄幹。   龜年捧詞進,上命黎園弟子約略詞調撫絲竹,遂捉龜年以歌。妃持頗黎七寶杯,酌西涼州葡萄酒,笑領歌意甚厚。

(李亀年、歌を以て一時の名をほしいままにす、手に檀板を捧げ、衆樂を押して前み、将に之を歌はむとす。上曰く、名花を賞し、妃子に対す、焉んぞ、舊樂詩を用ふるを爲さむ、と。遂に亀年に命じ、金花箋を持し、翰林供奉李白に宣賜し、立どころに、清平調辭三首を進めしむ。白、欣然として旨を承け、なお宿酲未だ解けざるに苦みつつ、因って、筆を援って之を賦す。その辭に曰く、云云と。龜年、遽に辭を以て進む。上、梨園の弟子に命じ、約略、絲竹を調撫し、遂に龜年を促し、以て歌はしむ。太眞妃、披璃七賓を持して、西涼州の蒲桃酒を酌み、笑って歌意を領する、甚だ惇し。)

上因調玉笛以倚曲,每曲遍將換,則遲其聲以媚之。太真飲罷,斂繡巾重拜上。龜年常語於五王,獨憶以歌得自勝者,無出於此,抑亦一時之極致耳。上自是顧李翰林尤異於他學士。

(上、因って、玉笛を調し、以て曲に倚り、曲遍、將に換らむとする毎に、すなはち、其聲を遅くして、以て之に媚ぶ。太眞妃、飲罷んで、繍巾を斂め、重ねて、上を拝す。龜年、常に五王に語る、ひとり憶ふに、歌を以て自ら勝るを得るもの、これより出づるはなしと。抑も、亦一時の極致のみ。上、これより一、李翰林を顧みること、尤も他の學士に異なり)とあって、ここには、明かに清平調としてある。それから、李陽氷の草堂集序には「天寳中,皇祖下詔,徵就金馬,降輦歩迎,如見綺皓,以七寳牀賜食,御手調羮以飯之,謂曰:卿是布衣,名為朕知,非素蓄道義,何以及此。?'置於金鑾殿, 出入翰林中, 問以國政, 潛草詔誥, 人無知者。」(天寶中、皇祖〔玄宗を指す〕詔を下し、徴して、金馬に就かしめ、輦を降って歩迎し、綺晧を見るが如く、七寶牀を以て食を賜ひ、御手子、羹を調し、以て之に飲ましむ。謂って日く、卿は是れ布衣なるも、名、朕に知らる、素より道義を蓄ふるに非ざれば、何を以て、此に及ばむと。金鑾殿に置き、翰林中に出入し、問ふに国政を以てし、潜に詔誥を草せしむ、人、知るものなし)とあって、酔中に詩を賦した事などは、少しも書いてない。勿諭、陽氷は、太白の族叔であるから、この序中には、唯だ大なるものを挙げて、その他を略したのであらう。

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李白  宮中行樂詞,八首之八

水綠南薰殿,花紅北闕樓。鶯歌聞太液,鳳吹繞瀛洲。

素女鳴珠珮,天人弄綵毬。今朝風日好,宜入未央遊。

(興慶宮南薫殿に、大明宮奥御殿北闕樓に花が咲き、興慶宮龍池から大明宮の太掖池にすい春水があふれ、鶯が鳴き、天人が散歩し、宮女の瑟琴がきこえ、蹴鞠の声が響く、春の行楽は喜ばしい限りである)

長安城東に位置する興慶宮南薰殿まえの龍池には春水の緑に透き通る水がゆたかにたたえ宮殿に花は咲きほこり、龍首渠にそって奥御殿北闕楼にいたるまで、花紅に萌えるような春景色である。大明宮の大液池上には鶯の歌ごえが聞こえてくる。神仙三山の瀛州の島をめぐって、鳳凰の笙の音がとどいて、そこらは艶なる春景色になっていて、鳥も人も行楽を歓んでいる。宮中の素女は瑟琴を弾き、天女のような宮女は身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら散歩し、また、天の乙女は、美しい鞠を蹴って戯れ遊んでいる。今朝は、琴に天気が良く、はる風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊んだなら、又、一段といいと思われる。
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年:743年天寶二年43歳 94-43

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之八

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:南熏殿 (京畿道 京兆府 長安) 別名:南薰殿  

北闕樓 (京畿道 京兆府 長安)           

太液池 (京畿道 京兆府 長安)           

未央宮 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:  

 

 

宮中行樂詞,八首之八

(興慶宮南薫殿に、大明宮奥御殿北闕樓に花が咲き、興慶宮龍池から大明宮の太掖池に春水があふれ、鶯が鳴き、天人が散歩し、宮女の瑟琴がきこえ、蹴鞠の声が響く、春の行楽は喜ばしい限りである)

水綠南薰殿,花紅北闕樓。

長安城東に位置する興慶宮南薰殿まえの龍池には春水の緑に透き通る水がゆたかにたたえ宮殿に花は咲きほこり、龍首渠にそって奥御殿北闕楼にいたるまで、花紅に萌えるような春景色である。
鶯歌聞太液,鳳吹繞瀛洲。

大明宮の大液池上には鶯の歌ごえが聞こえてくる。神仙三山の瀛州の島をめぐって、鳳凰の笙の音がとどいて、そこらは艶なる春景色になっていて、鳥も人も行楽を歓んでいる。
素女鳴珠珮,天人弄綵毬。

宮中の素女は瑟琴を弾き、天女のような宮女は身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら散歩し、また、天の乙女は、美しい鞠を蹴って戯れ遊んでいる。
今朝風日好,宜入未央遊。

今朝は、琴に天気が良く、はる風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊んだなら、又、一段といいと思われる。

(宮中行楽詞 其の八)
水は綠なり 南薫殿、花は紅なり 北闕楼。
鶯歌 太液に聞こえ、鳳吹 瀛洲を繞る。
素女は 珠佩を鳴らし、天人は 彩毬を弄す。
今朝 風日好し、宜しく未央に入りて遊ぶべし。


興慶宮002興慶宮の位置関係00
『宮中行樂詞,八首之八』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之八

水綠南薰殿,花紅北闕樓。

鶯歌聞太液,鳳吹繞瀛洲。

素女鳴珠珮,天人弄綵毬。

今朝風日好,宜入未央遊。

(下し文)
(宮中行楽詞 其の八)

水は綠なり 南薫殿、花は紅なり 北闕楼。

鶯歌 太液に聞こえ、鳳吹 瀛洲を繞る。

素女は 珠佩を鳴らし、天人は 彩毬を弄す。

今朝 風日好し、宜しく未央に入りて遊ぶべし。

(現代語訳)
(興慶宮南薫殿に、大明宮奥御殿北闕樓に花が咲き、興慶宮龍池から大明宮の太掖池に春水があふれ、鶯が鳴き、天人が散歩し、宮女の瑟琴がきこえ、蹴鞠の声が響く、春の行楽は喜ばしい限りである)

長安城東に位置する興慶宮南薰殿まえの龍池には春水の緑に透き通る水がゆたかにたたえ宮殿に花は咲きほこり、龍首渠にそって奥御殿北闕楼にいたるまで、花紅に萌えるような春景色である。
大明宮の大液池上には鶯の歌ごえが聞こえてくる。神仙三山の瀛州の島をめぐって、鳳凰の笙の音がとどいて、そこらは艶なる春景色になっていて、鳥も人も行楽を歓んでいる。
宮中の素女は瑟琴を弾き、天女のような宮女は身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら散歩し、また、天の乙女は、美しい鞠を蹴って戯れ遊んでいる。
今朝は、琴に天気が良く、はる風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊んだなら、又、一段といいと思われる。

(訳注)

宮中行樂詞,八首之八

(興慶宮南薫殿に、大明宮奥御殿北闕樓に花が咲き、興慶宮龍池から大明宮の太掖池に春水があふれ、鶯が鳴き、天人が散歩し、宮女の瑟琴がきこえ、蹴鞠の声が響く、春の行楽は喜ばしい限りである)


水綠南薰殿。 花紅北闕樓。 
長安城東に位置する興慶宮南薰殿まえの龍池には春水の緑に透き通る水がゆたかにたたえ宮殿に花は咲きほこり、龍首渠にそって奥御殿北闕楼にいたるまで、花紅に萌えるような春景色である。
66. 南薫殿 興慶宮の北側中央部分にある。長安志「興慶宮興慶殿前に瀛州門あり、内に南薫殿あり」と記してある。興慶宮と大明宮は天子専用道路とする夾城によって結ばれており、唐の制度では、宮殿の下の衛兵である綵仗が玄武門まで数㎞も並んで警護していた。龍首渠によって終南山からの流れと渭水、滻水を結ぶ運河とされ、興慶宮の龍池と連結されていた。この詩の春の時期には雪解け水で満水であった。

67. 北闕樓 いずれも唐代の長安の大明宮玄武門の名。長安城北の見張り台のある楼閣。左右に石の高さ15メートル以上石壁がありその上に大きな宮殿のような楼閣が聳えるように建っていた玄武殿と玄武門をさす、いわゆる、奥御殿。


鶯歌聞太液。 鳳吹繞瀛洲。 
大明宮の大液池上には鶯の歌ごえが聞こえてくる。神仙三山の瀛州の島をめぐって、鳳凰の笙の音がとどいて、そこらは艶なる春景色になっていて、鳥も人も行楽を歓んでいる。
68. 太液 池の名。漢の太液池は漢の武帝が作った。池の南に建章宮という大宮殿を建て、池の中には高さ二十余丈の漸台というものを建て、長さ三文の石の鯨を刻んだ。また、池に三つの島をつくり、はるか東海にあって仙人が住むと信じられた瀛洲・蓬莱・方丈の象徴とした。漢の成帝はこの池に舟をうかべ、愛姫趙飛燕をのせて遊びたわむれた。唐代においても、大明宮に漢代のそれをまねて、蓬莱殿の北に太液池をつくり、池の中の三山の島を蓬莱・瀛州・方丈山。

69. 鳳吹 笙(しょうのふえ)のこと。鳳のかたちをしている。

70. 瀛洲 仙島の一つ。別に蓬莱、方丈がある。


素女鳴珠佩。 天人弄彩毬。 
宮中の素女は瑟琴を弾き、天女のような宮女は身に佩びた真珠の飾りを鳴らしながら散歩し、また、天の乙女は、美しい鞠を蹴って戯れ遊んでいる。
71. 素女 仙女の名。瑟(琴に似た楽器)をひくのが上手といわれる。

72. 珠佩 真珠のおびもの。礼服の装飾で、玉を貫いた糸を数本つないで腰から靴の先まで垂れ、歩くとき鳴るようにしたもの。宮中に入るものすべてのものがつけていた。階級によって音が違った。

73. 天人 仙女。天上にすむ美女。天の乙女。

74. 彩毬 美しい模様の鞠。


今朝風日好。 宜入未央游。 
今朝は、琴に天気が良く、はる風も、日の光もすばらしい。こんな日こそ、未央宮に入って遊んだなら、又、一段といいと思われる。
75. 未央 漢の皇居の正殿の名。中国、漢代に造られた宮殿。高祖劉邦(りゅうほう)が長安の竜首山上に造営したもの。唐代には宮廷の内に入った。

 

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李白  宮中行樂詞,八首之七

寒雪梅中盡,春風柳上歸。宮鶯嬌欲醉,簷燕語還飛。

遲日明歌席,新花豔舞衣。晚來移綵仗,行樂泥光輝。

(後宮には年中花が咲く、春になれば日長宴席でけいこを始め、そのまま夜遅くまで宴席は続く、天子の御臨席で、光彩燦然とした見事なものである。

梅の花が咲きほこっているなかで、さすがに残っていたつめたい雪は完全に消えてなくなった、暖かな香しい春風が柳の木々のあいだをぬけてくる、春はまたここに、帰ってきたのである。宮樹の中を鳴き遶うぐいすは、梅の香りに酔いたいとおもっていて愛らしくなる。軒端のつばめは、たがいにかたりつつ、また、柳の木のあたりに飛んで行ってたり帰ったりしている。長閑に長い春の日には、明るいうちは、歌の稽古の席が盛んにおこなわれている、合わせて稽古する舞の衣装は、新たに咲き始めた春の花花に映じて見える。やがて日暮れになると、天子は綵仗の衛兵を移動させられ、ここに臨御され、宴を開かれ、行楽は華やかに光り輝きをほしいままにせられるが、この天上の出来事は、心も言葉にも尽くせぬ光彩燦然とした見事なものである。
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年:743年 天寶二年 43

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之七

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:明光殿 (京畿道 京兆府 長安)           

 

 

宮中行樂詞,八首之七

(後宮には年中花が咲く、春になれば日長宴席でけいこを始め、そのまま夜遅くまで宴席は続く、天子の御臨席で、光彩燦然とした見事なものである。

寒雪梅中盡,春風柳上歸。

梅の花が咲きほこっているなかで、さすがに残っていたつめたい雪は完全に消えてなくなった、暖かな香しい春風が柳の木々のあいだをぬけてくる、春はまたここに、帰ってきたのである。

宮鶯嬌欲醉,簷燕語還飛。

遲日明歌席,新花豔舞衣。

宮樹の中を鳴き遶うぐいすは、梅の香りに酔いたいとおもっていて愛らしくなる。軒端のつばめは、たがいにかたりつつ、また、柳の木のあたりに飛んで行ってたり帰ったりしている。
晚來移綵仗,行樂泥光輝。

長閑に長い春の日には、明るいうちは、歌の稽古の席が盛んにおこなわれている、合わせて稽古する舞の衣装は、新たに咲き始めた春の花花に映じて見える。
やがて日暮れになると、天子は綵仗の衛兵を移動させられ、ここに臨御され、宴を開かれ、行楽は華やかに光り輝きをほしいままにせられるが、この天上の出来事は、心も言葉にも尽くせぬ光彩燦然とした見事なものである。

(宮中行楽詞 其の七)
寒雪 梅中に尽き、春風 柳上に帰る。
宮鶯 嬌として酔わんと欲し、簷燕 語って還た飛ぶ。
遲日 歌席明らかに、新花 舞衣 豔なり。
晩来 綵仗を移し、行楽 光輝に泥かし。

 

霓裳羽衣舞001 

『宮中行樂詞,八首之七』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之七

寒雪梅中盡,春風柳上歸。

宮鶯嬌欲醉,簷燕語還飛。

遲日明歌席,新花豔舞衣。

晚來移綵仗,行樂泥光輝。

(下し文)
(宮中行楽詞 其の七)

寒雪 梅中に尽き、春風 柳上に帰る。

宮鶯 嬌として酔わんと欲し、簷燕 語って還た飛ぶ。

遲日 歌席明らかに、新花 舞衣 豔なり。

晩来 綵仗を移し、行楽 光輝に泥かし。

(現代語訳)
(後宮には年中花が咲く、春になれば日長宴席でけいこを始め、そのまま夜遅くまで宴席は続く、天子の御臨席で、光彩燦然とした見事なものである。

梅の花が咲きほこっているなかで、さすがに残っていたつめたい雪は完全に消えてなくなった、暖かな香しい春風が柳の木々のあいだをぬけてくる、春はまたここに、帰ってきたのである。

宮樹の中を鳴き遶うぐいすは、梅の香りに酔いたいとおもっていて愛らしくなる。軒端のつばめは、たがいにかたりつつ、また、柳の木のあたりに飛んで行ってたり帰ったりしている。
長閑に長い春の日には、明るいうちは、歌の稽古の席が盛んにおこなわれている、合わせて稽古する舞の衣装は、新たに咲き始めた春の花花に映じて見える。
やがて日暮れになると、天子は綵仗の衛兵を移動させられ、ここに臨御され、宴を開かれ、行楽は華やかに光り輝きをほしいままにせられるが、この天上の出来事は、心も言葉にも尽くせぬ光彩燦然とした見事なものである。
花蕊夫人002
(訳注)

宮中行樂詞,八首之七

(後宮には年中花が咲く、春になれば日長宴席でけいこを始め、そのまま夜遅くまで宴席は続く、天子の御臨席で、光彩燦然とした見事なものである。

玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。

 

寒雪梅中盡、春風柳上歸。 
梅の花が咲きほこっているなかで、さすがに残っていたつめたい雪は完全に消えてなくなった、暖かな香しい春風が柳の木々のあいだをぬけてくる、春はまたここに、帰ってきたのである。

 

宮鶯嬌欲醉、簷燕語還飛。 
宮樹の中を鳴き遶うぐいすは、梅の香りに酔いたいとおもっていて愛らしくなる。軒端のつばめは、たがいにかたりつつ、また、柳の木のあたりに飛んで行ってたり帰ったりしている。
59. 宮鶯 後宮の中であちこちの木々で鳴いている鶯。首聯上句の梅に対しての語である。

60. 簷燕 のきばのつばめ。首聯下句の柳に対しての語である。

 

遲日明歌席、新花艷舞衣。 
長閑に長い春の日には、明るいうちは、歌の稽古の席が盛んにおこなわれている、合わせて稽古する舞の衣装は、新たに咲き始めた春の花花に映じて見える。
61. 遲日 日が長くなる春。なかなか日が暮れない。「詩経」の豳風(ひんふう)に「七月ふみづき」
七月流火  九月授衣  春日載陽  有鳴倉庚  
女執深筐  遵彼微行  爰求柔桑  春日遅遅
采蘩祁祁  女心傷悲  殆及公子同歸
一緒になりたいと待っている女心を詠っている。
62.
 歌席 音楽の演奏会。

 

晚來移綵仗、行樂泥光輝。 
やがて日暮れになると、天子は綵仗の衛兵を移動させられ、ここに臨御され、宴を開かれ、行楽は華やかに光り輝きをほしいままにせられるが、この天上の出来事は、心も言葉にも尽くせぬ光彩燦然とした見事なものである。
63. 晩来 夕方。

64. 綵仗 唐の制度では、宮殿の下の衛兵を仗という。綵は、着飾ってはなやかなという形容、飾り物が華麗である場合に使用する。別のテキストでは彩としている。この場合は色のあでやかさの場合が多い。

65. 行楽泥光輝 野外において性的行為をする光景を詠っている。光と影が交錯していること。景色を泥はやわらかくする。

 

 

 

 

 




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李白  宮中行樂詞,八首之六

今日明光裡,還須結伴遊。春風開紫殿,天樂下朱樓。

豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。更憐花月夜,宮女笑藏鉤。

(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)

明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
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年:743年天寶二年43歳 94-41

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之六

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:明光殿 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:  

 

 

宮中行樂詞,八首之六

(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)

今日明光裡,還須結伴遊。

明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。
春風開紫殿,天樂下朱樓。

春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。
豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。

なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。

更憐花月夜,宮女笑藏鉤。

それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
(宮中行楽詞 其の六)
今日 明光の裏、還た須らく伴を結んで遊ぶべし。
春風 紫殿を開き、天樂 珠樓に下る。
豔舞 全く巧を知る。 嬌歌 半ば羞じんと欲す。
更に憐れむ 花月の夜、 宮女 笑って鉤を藏するを。

 

『宮中行樂詞,八首之六』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之六

今日明光裡,還須結伴遊。

春風開紫殿,天樂下朱樓。

豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。

更憐花月夜,宮女笑藏鉤。

(下し文)
(宮中行楽詞 其の六)

今日 明光の裏、還た須らく伴を結んで遊ぶべし。

春風 紫殿を開き、天樂 珠樓に下る。

豔舞 全く巧を知る。 嬌歌 半ば羞じんと欲す。

更に憐れむ 花月の夜、 宮女 笑って鉤を藏するを。


(現代語訳)
(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)

明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。
春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。
なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。

それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。

(訳注)

宮中行樂詞,八首之六

(玄宗に寵愛されている、妃嬪、宮女、妓優たちの日常生活について)

宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。

長く宮中に住む宮妓の他に、玄宗の時代から長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、宦官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上手だった。彼女たちは宮妓と同じょうに民間から選抜された技芸練達の人々であった。玄宗は彼女たちをたいへん愛したが、しかし「侠遊(民間の遊里)の盛んなるを奪うを欲せず、未だ嘗て置きて宮禁(宮中)に在らしめず」)と詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新豊の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録』補遺)、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裳大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名手公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。

 

今日明光裡,還須結伴遊。

明光宮に集められた妃嬪は日常これといった仕事がないので、日の明るいうちに、また、いろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きるのである。
51. 明光 漢代の宮殿の名。「三輔黄図」という宮苑のことを書いた本に「武帝、仙を求め、明光宮を起し、燕趙の美女二千人を発して之に充たす」とある。

52. 還須結伴遊 『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。①形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。②彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きる。③「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、④「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。

 

春風開紫殿,天樂下朱樓。

春風が暖かに吹き渡るころ、紫殿に「内人」とか、「前頭人」とかいわれる宮女たちのかぐわしさが充満している、天上の音楽が珠楼のうえからおりてくる。
53. 紫殿 唐の大明宮にもある。「三輔黄図」にはまた「漢の武帝、紫殿を起す」とある。漢の武帝が神仙の道を信じ、道士たちにすすめられて、大規模な建造物をたくさん建てたことは、吉川幸次郎「漢の武帝」(岩波新書)にくわしい。玄宗も同じように道教のために寄進している。

54. 天樂 玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。○梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。○霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。

 

豔舞全知巧,嬌歌半欲羞。

なまめかしい姿の舞姫は、すべての技巧を知りつくした誇り顔で踊るし、かわいいしぐさの歌姫は、すこしばかり恥ずかしそうにはにかんでいる。

55. 豔舞全知巧 張雲容がその代表であろう。全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

56. 嬌歌半欲羞 許和子(永新)のこと。『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥・李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている

 

更憐花月夜,宮女笑藏鉤。

それから、月の百花を照らす秋には、北斎の憐花のような琴や踊りの上手い宮女や月のような妃嬪たちの夜が楽しい、妃嬪たちが蔵鉤の遊戯をして笑いころげているのである。
57. 憐花 北斉の後主高給が寵愛した馮淑妃の名。燐は同音の蓮とも書かれる。もとは穆皇后の侍女であったが、聡明で琵琶、歌舞に巧みなのが気に入られて穆皇后への寵愛がおとろえ、後宮に入った。開元年間の後期の、念奴のことであろう。『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。

58. 蔵鉤 遊戯の一種。魏の邯鄲淳の「芸経」によると、じいさん、ばあさん、こどもたちがこの遊戯をしていたという三組にわかれ、一つの鈎を手の中ににぎってかくしているのを、他の組のものが当て、たがいに当てあって勝敗をきそう。漢の武帝の鈎弋夫人は、幼少のころ、手をにぎったまま開かなかった。武帝がその拳にさわると、ふしぎと閲いたが、手の中に玉の釣をにぎっていた。蔵鈎の遊戯は鈎弋夫人の話から起ったといわれている。
これをもとに宮妓たちの間では送鉤という遊びをしていた。二組の遊びで、艶めかしい遊びに変化したようだ。

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李白  宮中行樂詞,八首之五

香風暖,紗窗曙色新。宮花爭笑日,池草暗生春。

綠樹聞歌鳥,青樓見舞人。昭陽桃李月,羅綺自相親。

(後宮に多く妃嬪を選ばれる、華やかな生活、祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式に劣り、歌って参加した)

繍戸には、香しき風徐に吹き入って暖かに、紗窓の外は、曙の景色が、ひとしお新しく見える。風の香しきは、宮樹に花開いて、朝日に笑うからであるし、曙色の新なるは、地草が春にうながされて、萌え出たからである。それのみか、緑樹の間には鳥の歌うのが朗かに聞こえ、名君といわれた六朝齋の武帝の様に青樓の上には宮女が舞の稽古をして居るのが見える、桃や李の花吹く弥生の頃は、昭陽殿中の女ども、いずれも羅騎を着かざって、親しげに笑いさざめいている。

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年:743年天寶二年43歳 94-40

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之五

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              昭陽殿 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:  

 

 

宮中行樂詞,八首之五

(後宮に多く妃嬪を選ばれる、華やかな生活、祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式に劣り、歌って参加した)

香風暖,紗窗曙色新。

繍戸には、香しき風徐に吹き入って暖かに、紗窓の外は、曙の景色が、ひとしお新しく見える。

宮花爭笑日,池草暗生春。

風の香しきは、宮樹に花開いて、朝日に笑うからであるし、曙色の新なるは、地草が春にうながされて、萌え出たからである。

綠樹聞歌鳥,青樓見舞人。

それのみか、緑樹の間には鳥の歌うのが朗かに聞こえ、名君といわれた六朝齋の武帝の様に青樓の上には宮女が舞の稽古をして居るのが見える、

昭陽桃李月,羅綺自相親。

桃や李の花吹く弥生の頃は、昭陽殿中の女ども、いずれも羅騎を着かざって、親しげに笑いさざめいている。

(宮中行楽詞 其の五)

繍戸 香風暖かに、紗窓 曙色新たなり。

宮花 争って日に笑い、池草 暗に春を生ず。

綠樹には 歌鳥を聞き、青楼には 舞人を見る。

昭陽 桃李の月、羅綺 自ら相い親しむ。

 

 

『宮中行樂詞,八首之五』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之五

香風暖,紗窗曙色新。

宮花爭笑日,池草暗生春。

綠樹聞歌鳥,青樓見舞人。

昭陽桃李月,羅綺自相親。
詩文(含異文)     香風暖,紗窗曙色新。宮花爭笑日,池草暗生春。綠樹聞歌鳥,青樓見舞人。昭陽桃李月,羅綺自相親【羅綺坐相親】。


(下し文)
(宮中行楽詞 其の五)

繍戸 香風暖かに、紗窓 曙色新たなり。

宮花 争って日に笑い、池草 暗に春を生ず。

綠樹には 歌鳥を聞き、青楼には 舞人を見る。

昭陽 桃李の月、羅綺 自ら相い親しむ。


(現代語訳)
(後宮に多く妃嬪を選ばれる、華やかな生活、祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式に劣り、歌って参加した)

繍戸には、香しき風徐に吹き入って暖かに、紗窓の外は、曙の景色が、ひとしお新しく見える。

風の香しきは、宮樹に花開いて、朝日に笑うからであるし、曙色の新なるは、地草が春にうながされて、萌え出たからである。

それのみか、緑樹の間には鳥の歌うのが朗かに聞こえ、名君といわれた六朝齋の武帝の様に青樓の上には宮女が舞の稽古をして居るのが見える、

桃や李の花吹く弥生の頃は、昭陽殿中の女ども、いずれも羅騎を着かざって、親しげに笑いさざめいている。


(訳注)

宮中行樂詞,八首之五

(後宮に多く妃嬪を選ばれる、華やかな生活、祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式に劣り、歌って参加した)

・宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

・后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加すること〔-これは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた〕。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ、「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」 ことがあった(『資治通鑑』巻二一三、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賎しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。

・宮中の生活が贅沢になりすぎたので、皇帝は宮中にあった珠玉宝石、錦柄を焼き捨て、また宮中の衣服を専門に供する織錦坊を閉鎖したことがあった。しかし、いくばくもなく開元の盛世が到来すると、玄宗も初志を全く翻したので、宮中生活はまた華美に復した。玄宗は寵愛した妃嬪に大量の褒美を与えた。王鉷は、毎年百億にものぼる銭、宝貨を皇室に寄進し、専ら玄宗が妃嬪に賜る恩賞の費用とした。そして「三千の寵愛、一身に在り」と称された楊貴妃は、さらに一層贅沢の限りを尽したので、宮中にいた七百人の織物職人が専門に彼女のために刺繍をし、また他に数百人の工芸職人が彼女の調度品を専門に制作していた。また、楊貴妃は荔枝が好きだったので、玄宗は万金を費やすのを惜しまず、昼夜駅伝の馬を走らせ、荔枝を蜀(四川)より長安に運ばせた。詩人杜牧はそれを風刺し、「一騎 紅塵 妃子笑う、人の是れ荔枝来るを知る無し」(「華清宮に過る絶句」)と詠じた。

 

香風暖,紗窗曙色新。

繍戸には、香しき風徐に吹き入って暖かに、紗窓の外は、曙の景色が、ひとしお新しく見える。

45】 繍戸 きらびやかに飾りたてた扉。宮中の女の部屋をさす。

46】 紗窗 薄絹を張った窓。

47】 曙色 あけぼのの光。

 

宮花爭笑日,池草暗生春。

風の香しきは、宮樹に花開いて、朝日に笑うからであるし、曙色の新なるは、地草が春にうながされて、萌え出たからである。

48】 宮花争笑日 「劉子新論」に「春の葩は日を含みで笑うが似く、秋の葉は露に泫おいて泣くが如し」とある。宮妓たちが微笑み、花々が競って咲き誇る春の日。

49】 弛草幡生春 南宋、謝霊運の長詩《登池上楼閣》「初景革緒風、新陽改故陰。池塘春草生、園柳変鳴禽。」(初景【はつはる】は緒風を革【あらた】め、新陽は故き蔭【ふゆ】を改む。池の塘【つつみ】は春の草生じ、園の柳に鳴く禽【とり】も変りぬ。)池の堤防にびっしり春の草が生えている、庭園の柳の梢に鳴いている小鳥たちも冬のものと違って聞こえてくる。

登池上樓 #2 謝靈運<25>#2  詩集 396 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1005

別に李白は、Kanbuniinkai紀頌之漢詩ブログ 李白「灞陵行送別」に「上有無花之古樹、下有傷心之春草。」とある。同じように使用している。

 

綠樹聞歌鳥,青樓見舞人。

それのみか、緑樹の間には鳥の歌うのが朗かに聞こえ、名君といわれた六朝齋の武帝の様に青樓の上には宮女が舞の稽古をして居るのが見える、

50】 青楼 「南史」に、斉の武帝は、「興光楼上に青い漆をぬり、世人これを青楼とよんだ」、とある。
斉の武帝(ぶてい、440 - 493年)は、斉の第2代皇帝。姓は蕭、諱は賾。高帝蕭道成の長子。 父の死で即位する。即位後は国力増強に力を注ぎ、大規模な検地を実施した。あまりに厳しい検地であったため、逆に農民の反発を招くこととなってしまったこともあったが、反乱自体は微弱なものに過ぎず、検地は結果的に大成功したという。また戸籍を整理したり、貴族の利権を削減して皇帝権力の強化に務めるなどの政治手腕を見せた。このため、武帝は南朝における名君の一人として讃えられている。

 

 



 

 

 

 

 

李白  宮中行樂詞,八首 【字解】

 

【1】    〔宮中における内職、冊封制度について〕

古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも孺人【じゅじん】等の媵妾【ようしょう】の身分があった。

唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃嬢だけが史書にいささかの痕跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』「后妃伝」 には、全部で二十六人の皇后、十人の妃嫁が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には竇皇后の他に、万貴妃、ヂ徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、佳境、楊嬢、小楊嬢、張捷好、郭妊婦、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趨麗妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高娃好、柳娃好、鍾美人、慮美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、闇才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嫁がたしかに最も多かったようである。

 

【2】   宮中行楽詞 宮中における行楽の歌。李白は数え年で四十二歳から四十四歳まで、足かけ三年の間、宮廷詩人として玄宗に仕えた。この宮中行楽詞八首と、つぎの晴平調詞三首とは、李白の生涯における最も上り詰めた時期の作品である。唐代の逸話集である孟棨の「本事詩」には、次のような話がある。

本事詩

嘗因宮人行樂,謂高力士曰:「對此良辰美景,豈可獨以聲伎為

倘時得逸才詞人吟詠之,可以誇耀於後。」遂命召白。

時寧王邀白飲酒,已醉。

既至,拜舞然。上知其薄聲律,謂非所長,命為宮中行樂五言律詩十首。

白頓首曰:「寧王賜臣酒,今已醉。倘陛下賜臣無畏,始可盡臣薄技。」

上曰:「可。」即遣二臣掖扶之,命研墨濡筆以授之。

又令二人張朱絲欄於其前。白取筆抒思,略不停綴,十篇立就,更無加點。

筆跡遒利,鳳跱龍拏。律度對屬,無不精

嘗て宮人行樂するに因り,高力士に謂って曰く:「此の良辰美景に對し,豈に獨り聲伎を以って可けんや

倘し時逸才の詞人を得て之を吟詠すれば,以て後に誇耀す可し。」と。遂に命して白を召す。

時に寧王 白を邀えて酒を飲ましめ,已に醉う。

既に至るや,拜舞して然たり。上 其の聲律を薄しとするを知り,謂えらく長ずる所に非ずと,命じて宮中行樂の五言律詩十首を為らしむ。

白 頓首して曰く:「寧王 臣に酒を賜い,今 已に醉う。倘し 陛下 臣に畏るる無きを賜わば,始めて臣の薄技を盡す可し。」と。

上 曰く:「可なり。」と。即ち遣二臣をして之を掖扶せしめ,命じて墨を研し筆を濡し以て之を授け。

又た 令二人をして 朱絲欄を其の前に張らしむ。白 筆を取って思いを抒べ,略 停綴せず,十篇 立ちどころに就る,更に點を加うる無し。

筆跡 遒利,鳳跱 龍拏。律度對屬,精ならざるなし

玄宗皇帝があるとき、宮中での行楽のおり、側近の高力士にむかって言った。「こんなに良い季節、うるわしい景色を前にしながら、単に歌手の歌をきいてたのしむだけでは物足りぬ。天才の詩人が来て、この行楽を詩にうたえば、後の世までも誇りかがやかすことであろう」と。そこで、李白が召されたのだ。李白はちょうど皇帝の兄の寧王にまねかれて酒をのみ、泥酔していたが、天子の前にまかり出ても、ぐったりとなっていた。玄宗は、この奔放な詩人に、律詩を十首つくるよう命じた。五言律詩は、対句が基本、最も定型的な詩形である。李白はあまり得意としない詩形であった。玄宗は知っていて、酔っているので命じたのである。そし二、三人の側近に命じて、李白を抱きおこさせ、墨をすらせ、筆にたっぷり警ふくませて李白に持たせ、朱の糸で罫をひいた絹幅を李白の前に張らせた。李白は筆とると、少しもためらわず、十篇の詩を、たちまち書きあげた。しかも、完璧なもので、筆跡もしっかりし、律詩の規則も整っていた。現在は八首のこっている。


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李白  宮中行樂詞,八首之四 

玉樹春歸日,金宮樂事多。後庭朝未入,輕輦夜相過。

笑出花間語,嬌來竹下歌。莫教明月去,留著醉嫦娥。

(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)

宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-39

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之四

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

 

 

宮中行樂詞,八首之四

(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)

玉樹春歸日,金宮樂事多。

宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。

後庭朝未入,輕輦夜相過。

天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。
笑出花間語,嬌來竹下歌。

その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。
莫教明月去,留著醉嫦娥。

春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。

(宮中行楽詞 其の四)
玉樹 春 帰るの日、金宮 楽事 多し。
後庭 朝に未だ入らず、輕輦 夜 相過ぐ。
笑って 花間を出でて語り、嬌として 竹に下し来って歌う。
明月をして去らしむる莫れ、留著して 嫦蛾を酔わしめん。

 

『宮中行樂詞,八首之四』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之四

玉樹春歸日,金宮樂事多。

後庭朝未入,輕輦夜相過。

笑出花間語,嬌來竹下歌。

莫教明月去,留著醉嫦娥。


詩文(含異文)

玉樹春歸日【玉殿春歸日】【玉樹春歸好】【玉殿春歸好】,金宮樂事多。

後庭朝未入,輕輦夜相過。

笑出花間語,嬌來竹下歌【嬌來燭下歌】。

莫教明月去,留著醉嫦娥。


(下し文)
(宮中行楽詞 其の四)

玉樹 春 帰るの日、金宮 楽事 多し。

後庭 朝に未だ入らず、輕輦 夜 相過ぐ。

笑って 花間を出でて語り、嬌として 竹に下し来って歌う。

明月をして去らしむる莫れ、留著して 嫦蛾を酔わしめん。

(現代語訳)
宮中行楽詞 其四(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)

宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。
天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。

その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。
春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。


(訳注)

宮中行樂詞,八首之四

(春になると夕刻になると黄金の宮殿で天子は後宮の数多の妃嬪たちと酒宴が開かれ、嫦娥のような妃嬪が酒に酔い天子と過ごす。)

宮中の威厳のある立派な木々に春が、漢武帝の黄金の宮で行楽行事がある。寝殿奥の御殿、軽輦によって、夜の訪れになる。ほほえみに花を咲かせ、歓びの声、蝋燭の光、簾の下の歌のような声にあふれた。あの美しい月のような美人を帰らせてはいけない。引きとどめておいて、月の精の嫦娥を酔わせるのだ。

李白のこの詩に極似の詩を下に示す。

陳叔寶《玉樹後庭花》

麗宇芳林對高閣,新粧艶質本傾城。

映戸凝嬌乍不進,出帷含態笑相迎。

妖姫臉似花含露,玉樹流光照後庭。

麗宇 芳林  高閣に 對し,新粧 艶質  本より 傾城。

戸に映(は)ゆに 嬌を凝らして  乍(たちま)ち 進まず,帷を出で 態を含みて  笑ひて 相ひ迎ふ。

妖姫 臉(かほ)は  花の露を含むに 似て,玉樹 光を流して  後庭を照らす。

 
玉樹春歸日。金宮樂事多。 
宮中の威厳のある立派な木々に春がもどって来て賑やかに花を咲かせる頃、漢の武帝の様に迎えるために用意した黄金の宮殿では春の行楽、年中行事が多い。
33】 玉樹 (1)美しい木。 (2)すぐれて高潔な姿の人。 (3)エンジュの異名。⑷美しい樹。転じて姿の美しいさま。才能の優れた人。ここでは、後宮の美しい妃嬪を指す。

34】 金宮 こがね作りの宮殿。漢の武帝の故事。長公主はまだ幼い皇太子の劉徹と娘の阿嬌を会わせ、劉徹に「阿嬌を得たいかい?」と訊いた。劉徹は「もし阿嬌を得る事ができたら、金の建物に住まわせるよ」と答えたので、長公主は喜んで娘を彼に娶わせ、阿嬌は皇太子妃となった。

36】 樂事多 春には年中行事、行楽行事が目白押しにある。

後庭朝未入。輕輦夜相過。 
天子が朝は紫宸殿に臨んで天下の政事、諸事をおこなわれるので、後宮へは入って行かれることはない。夜の訪れに伴い、手軽な輦車にのって後宮に入られ、妃嬪たちを相手に、酒宴を開かれる。
37】 後庭 玉樹後庭花, 后庭花  1.樂府 聲歌曲名。 南朝 陳後主 作。 《陳書皇后傳後主張貴妃》:後主 每引賓客對 貴妃 等遊宴, 則使諸貴人及女學士與狎客共賦新詩, 互相贈答。後宮。宮中の奥御殿

38】 朝 朝は、紫宸殿で日の出に朝礼が行われ、列を整えて礼をする。その後、天下の政事、諸事をおこなう。

39】 輕輦 手車の呼び方を変えている。「其一」・歩輩 手車。人がひく車。人力車。「其二」・雕輦 彫刻をほどこした手くるま。宮中において天子のみが使用する車で宮中を象徴するものとしてとらえている。


笑出花間語。嬌來竹下歌。
その時幾多いる妃嬪たちは、ほほえんで花間より出でてきたって語り、やがて、燭下で、詩詞を竹札に書き下ろし、なまめかしい声で歌う。
40花間語 宮女の話し声。花は宮女。

41 美しい。艶めかしい。声や色合いが美しい。可愛がる。

42竹下歌 紙のない時代は紙の代わりに用いた。蝋燭のもとで竹に書き物をする。また、竹の簾のもと、閨を意味しそこでの男女の情交の際の声を歌で示した。


莫教明月去。留著醉嫦蛾。
春の夜は短く、せっかくの行楽も十分な歓を尽くさないことがあり、あの美しい月をここにとどめて、そして、月中に奔った嫦娥のような美人を酔わせるようにしたいのである。

43留著 とめておく。

44嫦蛾 。古代の神話中の女性。努という弓の名人の妻であったが、夫が酎欝が(仙女)からもらってきた不死の薬。宮中では、不死薬は媚薬でもあり、精力増強剤とされていた。それを、夫のるすの問にぬすんでのんだため、体が地上をはなれて月にむかってすっとび、それいらい、月の精となった。月の世界で、「女の盛りに、一人で、待っている女性」という意味でつかわれる。魯迅の「故事新編」の中の「奔月」は、この話がもとになっている。

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白兔搗藥秋復春,嫦娥孤棲與誰鄰。

嫦娥 李商隠
雲母屏風燭影深、長河漸落暁星沈。
嫦娥應悔倫塞薬、碧海青天夜夜心。


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李白  宮中行樂詞,八首之三

盧橘為秦樹,葡萄出漢宮。煙花宜落日,絲管醉春風。

笛奏龍吟水,簫鳴鳳下空。君王多樂事,還與萬方同。

(玄宗期は国力が有史以来最高となり、特に芸術も多岐にわたり整備され、宮廷音楽が確立し、発展したことを理解させる詩)

皇城、後宮、禁苑(漢は上林苑)には様々な珍果名木が植えられている。枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になったし、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできるようになった。宮中には花も様々に年中咲いていて、はるには春霞と咲きほこる花につつまれ、落ちかかる日のひかりがその場所をてらすと上手い具合に花が鮮やかに見え、たいまつを回らしてそれから酒宴が開かれ、春風に酔い、絃管楽器をはじめ音楽がながれ、催しが始まるのである。絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。今しも、天下太平で、「開元の治」といわれるほど、隆盛を極めており、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会である天子の年中行事も欠かすことなく、天下とともに楽しまれるのである。

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宮中行樂詞,八首之一

(漢の阿嬌と同じように高貴な家で育てられ、十五になって後宮に入って寵愛を得た、行楽、酒宴で、妃嬪がそろうと、それが終わってから寵愛を失うことが心配で仕方がない。)

小小生金屋,盈盈在紫微。

幼い子供のときから、黄金で飾った家で育てられ、やがて後宮に入れば、容貌豊盈、六宮に冠たることはいうまでもないが、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。

山花插寶髻,石竹繡羅衣。

髪のもとどりには、山花一輪を挿しはさみ、薄絹の衣装には、なでしこの花を刺繍していてその風情は、えもいわれない。

每出深宮裡,常隨步輦歸。

常に天子に倍して、奥の御殿の中から出て遊び暮らし、やがて、歩輦に随って帰ってくる。
只愁歌舞散,化作綵雲飛。

天子の寵愛を専らにして、おそばを離れられずにいるのは、この通りである。ただし、歌舞が終わり散会したとき、彩雲に化して天上に飛び去りはしないかと、ただこれを愁えているばかりである。

(宮中行楽詞、八首の一)

小小 金屋に生れ、盈盈 紫微に在り。

山花 寶髻に插しはさみ、石竹 羅衣を繡す。

每に深宮の裏より出で、常に歩輦に隨って歸る。

只だ愁う 歌舞散じ、化して綵雲と作って飛ぶを。

 

 

宮中行樂詞,八首之二

(君主が言葉を発して、行楽について述べたもの)

柳色黃金嫩,梨花白雪香。

柳が嫩い芽をふき出したばかり、柳の色は、黄金のようにかがやき、(しかも見るからにやわらかく玄宗皇帝のようである。)梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっていて(楊太真)、春の盛りで、行楽にはこの上もない季節となる。
玉樓巢翡翠,金殿鎖鴛鴦。

絶色の妓優は翡翠や鴛鴦の文彩あるものたちが、玉楼に、それから、珠殿に、居となして、妃嬪となって居並ぶ。
選妓隨雕輦,徵歌出洞房。

そこで、天子はすぐれた妓優の者をえらばれ、行楽に出遊の際、雕輦のあとについて歩くよう命じられ、また、酒宴に歌手をよびよせて、歌わせるため、洞房にいたものに出て来るよう命じられ、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演する。

宮中誰第一,飛燕在昭陽。

しかし、宮中において寵幸第一をほこるものは、昭陽殿にいる趙飛燕こそは、色藝雙絶のお方であり、宮中は、はなやぎ、盛んである。

(宮中行楽詞 其の二)

柳色黄金にして嫩【やわら】か、梨花白雪にして香し。

玉楼には翡翠巣くい、珠殿には鴛鴦を鎖す。

妓を選んで雕輦に随わしめ、歌を徴して洞房を出でしむ。

宮中 誰か第一なる、飛燕  昭陽に在り。

 

年:743年天寶二年43歳 94-38

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

 

 

宮中行樂詞,八首之三

(玄宗期は国力が有史以来最高となり、特に芸術も多岐にわたり整備され、宮廷音楽が確立し、発展したことを理解させる詩)

盧橘為秦樹,葡萄出漢宮。

皇城、後宮、禁苑(漢は上林苑)には様々な珍果名木が植えられている。枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になったし、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできるようになった。
煙花宜落日,絲管醉春風。

宮中には花も様々に年中咲いていて、はるには春霞と咲きほこる花につつまれ、落ちかかる日のひかりがその場所をてらすと上手い具合に花が鮮やかに見え、たいまつを回らしてそれから酒宴が開かれ、春風に酔い、絃管楽器をはじめ音楽がながれ、催しが始まるのである。
笛奏龍吟水,簫鳴鳳下空。

絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。

君王多樂事,還與萬方同。

絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。
今しも、天下太平で、「開元の治」といわれるほど、隆盛を極めており、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会である天子の年中行事も欠かすことなく、天下とともに楽しまれるのである。

(宮中行楽詞 其の三)

盧橘は 秦樹と為り、 蒲桃は漢宮より出づ。

煙花 落日に宜しく、 絲管 春風に醉う。

笛奏 龍 水に鳴き、 蕭吟 鳳 空より下る。

君王 樂事多く、 還た 萬方と同じくする。

 

『宮中行樂詞,八首之三』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之三

盧橘為秦樹,葡萄出漢宮。

煙花宜落日,絲管醉春風。

笛奏龍吟水,簫鳴鳳下空。

君王多樂事,還與萬方同。

詩文(含異文)     盧橘為秦樹,葡萄出漢宮。煙花宜落日,絲管醉春風。笛奏龍吟水,簫鳴鳳下空。君王多樂事,還與萬方同【何必向回中】。


(下し文)
(宮中行楽詞 其の三)

盧橘は 秦樹と為り、 蒲桃は漢宮より出づ。

煙花 落日に宜しく、 絲管 春風に醉う。

笛奏 龍 水に鳴き、 蕭吟 鳳 空より下る。

君王 樂事多く、 還た 萬方と同じくする。

(現代語訳)
(玄宗期は国力が有史以来最高となり、特に芸術も多岐にわたり整備され、宮廷音楽が確立し、発展したことを理解させる詩)

皇城、後宮、禁苑(漢は上林苑)には様々な珍果名木が植えられている。枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になったし、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできるようになった。
宮中には花も様々に年中咲いていて、はるには春霞と咲きほこる花につつまれ、落ちかかる日のひかりがその場所をてらすと上手い具合に花が鮮やかに見え、たいまつを回らしてそれから酒宴が開かれ、春風に酔い、絃管楽器をはじめ音楽がながれ、催しが始まるのである。
絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。

絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。
今しも、天下太平で、「開元の治」といわれるほど、隆盛を極めており、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会である天子の年中行事も欠かすことなく、天下とともに楽しまれるのである。

(訳注)

宮中行樂詞,八首之三

(玄宗期は国力が有史以来最高となり、特に芸術も多岐にわたり整備され、宮廷音楽が確立し、発展したことを理解させる詩)

枇杷はもともと湘南の果物、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできる。花も年中、
花霞につつまれ、景色に調和する。音楽も、春風にのって流れ、笛をかなでると、竜が水の中で鳴きだしてくる、簫をふくと、鳳が空からまいおりてくる。国の天子には、楽しい行事があり、天下のこと、万事に楽しまれる。

宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。

唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。

 

盧橘為秦樹、 蒲桃出漢宮。 
皇城、後宮、禁苑(漢は上林苑)には様々な珍果名木が植えられている。枇杷はもともと湘南の果物、それが今や秦の地方の木になったし、ぶどうもまた、この漢の宮殿の中でできるようになった。
24】 盧橘 果樹、枇杷の別名。もと南方の植物、で秋に花を咲かせ、夏に実を結ぶ。戴叔倫の「湘南即事」に「盧橘花開楓菓哀」とあるのもそれがもとは南方の風物であることを示したもの。

25】 秦樹 太古から長安の街を眼下に置いていた樹木。李白はこの詩のみであるが、杜甫は以下の三首、李商隠も使っている。

杜甫(卷三16)投贈哥舒開府翰二十韻「日月低秦樹,乾坤繞漢宮。」

杜甫(卷二二70)千秋節有感二首其一「湘川新涕淚,秦樹遠樓臺。」

杜甫(卷三18) 送張十二參軍赴蜀州因呈楊五侍御「兩行秦樹直,萬點蜀山尖。」

 長安の地方。李商隠「寄令狐郎中」では
嵩雲秦樹久離居、雙鯉迢迢一紙書。
休問梁園舊賓客、茂陵秋雨病相如。
秦樹は長安を長い時代見ていた樹という意味に使っている。
26】 蒲桃 葡萄。ぶどう。ペルシャ原産で、西域を通って中国に入ったのは、漢の武帝のときである。


煙花宜落日、絲管醉春風。 
宮中には花も様々に年中咲いていて、はるには春霞と咲きほこる花につつまれ、落ちかかる日のひかりがその場所をてらすと上手い具合に花が鮮やかに見え、たいまつを回らしてそれから酒宴が開かれ、春風に酔い、絃管楽器をはじめ音楽がながれ、催しが始まるのである。
27】 煙花 かすみと花とでの花霞。

28】 絲管 弦楽器と管楽器。つまり、音楽。

 
笛奏龍鳴水、蕭吟鳳下空。 
絃管楽器は、笛をかなでると、《長笛賦》にいう“龍の水底に吟ずるがごとく”、簫をふくと、蕭史のごとく“鳳の天上より下る”と、その旋律、音律は、人間の者とは思えないほどである。
29】 節奏竜鳴水 漢馬融《長笛賦》“「龍鳴水中不見已, 截竹吹之聲相似。」後則多指管首為龍形的笛。” 漢の馬融の「笛の賦」によれば、西方の異民族である羌の人が、竹を伐っていると、龍があらわれて水中で鳴いた。すぐに龍は見えなくなったが、羌人が、きり出した竹でつくった笛を吹くと、龍のなき声と似ていたという。龍は、空想の動物である。

30】 蕭吟鳳下空 簫は管楽器の一種。「列仙伝」に、蕭史という人が、上手に簫を吹いた。すると鳳凰がとんで来て、その家の屋根に止まった、とある。鳳凰もまた、空想の動物である。鳳がおす、凰がめす。

漢·劉向·《列仙傳·卷上·蕭史》「秦穆公有女弄玉,善吹簫,公以弄玉妻之。遂教弄玉作鳳鳴。居十數年,吹簫似鳳聲,鳳凰來止其屋。」

君王多樂事、還與萬方同。 
今しも、天下太平で、「開元の治」といわれるほど、隆盛を極めており、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会である天子の年中行事も欠かすことなく、天下とともに楽しまれるのである。
31】 万方 万国と同じ。天下、万事のこと。

32】 君王多樂事 行事は、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。

〔宮中の代表的な行事〕

元会は、元旦に都である長安の太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。

人日節は正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。

上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽、揚州、涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。


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李白  宮中行樂詞,八首之二

柳色黃金嫩,梨花白雪香。玉樓巢翡翠,金殿鎖鴛鴦。

選妓隨雕輦,徵歌出洞房。宮中誰第一,飛燕在昭陽。

(君主が言葉を発して、行楽について述べたもの)

柳が嫩い芽をふき出したばかり、柳の色は、黄金のようにかがやき、(しかも見るからにやわらかく玄宗皇帝のようである。)梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっていて(楊太真)、春の盛りで、行楽にはこの上もない季節となる。絶色の妓優は翡翠や鴛鴦の文彩あるものたちが、玉楼に、それから、珠殿に、居となして、妃嬪となって居並ぶ。そこで、天子はすぐれた妓優の者をえらばれ、行楽に出遊の際、雕輦のあとについて歩くよう命じられ、また、酒宴に歌手をよびよせて、歌わせるため、洞房にいたものに出て来るよう命じられ、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演する。しかし、宮中において寵幸第一をほこるものは、昭陽殿にいる趙飛燕こそは、色藝雙絶のお方であり、宮中は、はなやぎ、盛んである。

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  2015年12月6日 の紀頌之5つのBlog  
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  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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作年:743年天寶二年43歳 94-37

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              昭陽殿 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:  

 

 

宮中行樂詞,八首之二

(君主が言葉を発して、行楽について述べたもの)

柳色黃金嫩,梨花白雪香。

柳が嫩い芽をふき出したばかり、柳の色は、黄金のようにかがやき、(しかも見るからにやわらかく玄宗皇帝のようである。)梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっていて(楊太真)、春の盛りで、行楽にはこの上もない季節となる。
玉樓巢翡翠,金殿鎖鴛鴦。

絶色の妓優は翡翠や鴛鴦の文彩あるものたちが、玉楼に、それから、珠殿に、居となして、妃嬪となって居並ぶ。
選妓隨雕輦,徵歌出洞房。

そこで、天子はすぐれた妓優の者をえらばれ、行楽に出遊の際、雕輦のあとについて歩くよう命じられ、また、酒宴に歌手をよびよせて、歌わせるため、洞房にいたものに出て来るよう命じられ、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演する。

宮中誰第一,飛燕在昭陽。

しかし、宮中において寵幸第一をほこるものは、昭陽殿にいる趙飛燕こそは、色藝雙絶のお方であり、宮中は、はなやぎ、盛んである。

(宮中行楽詞 其の二)

柳色黄金にして嫩【やわら】か、梨花白雪にして香し。

玉楼には翡翠巣くい、珠殿には鴛鴦を鎖す。

妓を選んで雕輦に随わしめ、歌を徴して洞房を出でしむ。

宮中 誰か第一なる、飛燕  昭陽に在り。

長安皇城宮城00 

『宮中行樂詞,八首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

宮中行樂詞,八首之二

柳色黃金嫩,梨花白雪香。

玉樓巢翡翠,金殿鎖鴛鴦。

選妓隨雕輦,徵歌出洞房。

宮中誰第一,飛燕在昭陽。
詩文(含異文)     柳色黃金嫩,梨花白雪香。玉樓巢翡翠【玉樓關翡翠】,金殿鎖鴛鴦【珠殿鎖鴛鴦】。選妓隨雕輦【選妓隨朝輦】,徵歌出洞房。宮中誰第一,飛燕在昭陽。


(下し文)
(宮中行楽詞 其の二)

柳色黄金にして嫩【やわら】か、梨花白雪にして香し。

玉楼には翡翠巣くい、珠殿には鴛鴦を鎖す。

妓を選んで雕輦に随わしめ、歌を徴して洞房を出でしむ。

宮中 誰か第一なる、飛燕  昭陽に在り。

(現代語訳)
宮中行樂詞,八首之二(君主が言葉を発して、行楽について述べたもの)

柳が嫩い芽をふき出したばかり、柳の色は、黄金のようにかがやき、(しかも見るからにやわらかく玄宗皇帝のようである。)梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっていて(楊太真)、春の盛りで、行楽にはこの上もない季節となる。
絶色の妓優は翡翠や鴛鴦の文彩あるものたちが、玉楼に、それから、珠殿に、居となして、妃嬪となって居並ぶ。
そこで、天子はすぐれた妓優の者をえらばれ、行楽に出遊の際、雕輦のあとについて歩くよう命じられ、また、酒宴に歌手をよびよせて、歌わせるため、洞房にいたものに出て来るよう命じられ、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演する。

しかし、宮中において寵幸第一をほこるものは、昭陽殿にいる趙飛燕こそは、色藝雙絶のお方であり、宮中は、はなやぎ、盛んである。

興慶宮002
(訳注)

宮中行樂詞,八首之二

(君主が言葉を発して、行楽について述べたもの)

1₎宮中行楽詞 宮中における行楽の歌。李白は数え年で四十二歳から四十四歳まで、足かけ三年の間、宮廷詩人として玄宗に仕えた。この宮中行楽詞八首と、つぎの晴平調詞三首とは、李白の生涯における最も上り詰めた時期の作品である。

 

柳色黃金嫩、梨花白雪香。 
柳が嫩い芽をふき出したばかり、柳の色は、黄金のようにかがやき、(しかも見るからにやわらかく玄宗皇帝のようである。)梨の花は、まっ白な雪のよう、しかも、よい香をはなっていて(楊太真)、春の盛りで、行楽にはこの上もない季節となる。
11】 柳色 芽をふき出したばかりの柳の色であるが、男性を示唆する柳は龍で玄宗。楊は女性、楊貴妃を示す。

12】 嫩 物がまだ新しく、若くて、弱い状態。

13】 梨花 女性を示唆する、楊太真(貴楊妃)。


玉樓巢翡翠、珠殿鎖鴛鴦。 
絶色の妓優は翡翠や鴛鴦の文彩あるものたちが、玉楼に、それから、珠殿に、居となして、妃嬪となって居並ぶ。
14】 玉楼 宝玉でかざり立てた楼閣。

15】 翡翠 かわせみ。うつくしい羽根の鳥。

16】 珠殿 真珠をちりばめた御殿。

17】 鴛鴦 おしどり。おす(鴛)と、めす(鴦)と仲むつまじい鳥。

 

選妓隨雕輦、徵歌出洞房。 
そこで、天子はすぐれた妓優の者をえらばれ、行楽に出遊の際、雕輦のあとについて歩くよう命じられ、また、酒宴に歌手をよびよせて、歌わせるため、洞房にいたものに出て来るよう命じられ、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演する。

18】  宮妓、教坊妓 宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職責は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。

宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸*、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上手だったため選ばれて宮中に入った。辞填壇はもとは色町の妓女であったが、挙が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、玄宗時代には特に「搊弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『古今図書集成』閏媛典閏艶部、崔令欽『教坊記』による。)。

*楽戸 楽籍という賤民身分の戸籍に属し、宮中の官妓、在野の楽人などが登録されていた。

彼女たちの中には、また別に朝臣や外国からの使節が献上した女性も、一部分であるが含まれていた。たとえば、敬宗の時代、浙東(浙江省一帯)から朝廷に飛燕、軽風という二人の舞妓が献上されている。また文宗の時代、回紇に降嫁した太和公主が馬にまたがって弓をひく七人の娘を献上したこともあった(『杜陽雜編』巻中、『旧唐書』文宗紀下)。それ以外に、少数ではあるが、元々官女であった女性の中から選ばれ、訓練を受けて宮妓になったものもいた。宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。

玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院**などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣***」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。

**梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。

***霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。

19】 雕輦 彫刻をほどこした手ぐるま。

20】 洞房 奥ぶかい部屋。


宮中誰第一、飛燕在昭陽。 
しかし、宮中において寵幸第一をほこるものは、昭陽殿にいる趙飛燕こそは、色藝雙絶のお方であり、宮中は、はなやぎ、盛んである。

21飛燕 漢の成帝の愛姫、超飛燕。もとは長安の生れで身分は低かったが、歌や舞がうまく、やせ型の美人で、その軽やかな舞はツバメが飛ぶようであったから、飛燕とよばれた。ある時、おしのびで遊びに出た成帝の目にとまり、その妹とともに宮中に召され、帝の寵愛を一身にあつめた。十余年、彼女は日夜、帝を誘惑したので、しまいに帝は精根つきはてで崩御した。晩年、彼女は不遇となり、さいごには自殺した。彼女は漢代随一の美女とされている。また、やせた美人の代表は漢の趙飛燕、ふとった美人の代表は唐の楊貴妃とされているが、唐詩において趙飛燕をうたうとき、多くの易合、玄宗の後宮における第一人者、楊貴妃そのひとを暗に指す。もっともこの時期は楊太真で、李白が都を追われた後、楊貴妃となる。

22】 昭陽 趙飛燕がすんでいた宮殿の名。

 

 

 

 

 

 

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李白  宮中行樂詞,八首之一 

小小生金屋,盈盈在紫微。山花插寶髻,石竹繡羅衣。

每出深宮裡,常隨步輦歸。只愁歌舞散,化作綵雲飛。

(漢の阿嬌と同じように高貴な家で育てられ、十五になって後宮に入って寵愛を得た、行楽、酒宴で、妃嬪がそろうと、それが終わってから寵愛を失うことが心配で仕方がない。)

幼い子供のときから、黄金で飾った家で育てられ、やがて後宮に入れば、容貌豊盈、六宮に冠たることはいうまでもないが、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。髪のもとどりには、山花一輪を挿しはさみ、薄絹の衣装には、なでしこの花を刺繍していてその風情は、えもいわれない。常に天子に倍して、奥の御殿の中から出て遊び暮らし、やがて、歩輦に随って帰ってくる。天子の寵愛を専らにして、おそばを離れられずにいるのは、この通りである。ただし、歌舞が終わり散会したとき、彩雲に化して天上に飛び去りはしないかと、ただこれを愁えているばかりである。
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年:743年天寶二年43歳 94-36

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    宮中行樂詞,八首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

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交遊人物/地點:  

 

 

宮中行樂詞,八首之一

(漢の阿嬌と同じように高貴な家で育てられ、十五になって後宮に入って寵愛を得た、行楽、酒宴で、妃嬪がそろうと、それが終わってから寵愛を失うことが心配で仕方がない。)

小小生金屋,盈盈在紫微。

幼い子供のときから、黄金で飾った家で育てられ、やがて後宮に入れば、容貌豊盈、六宮に冠たることはいうまでもないが、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。

山花插寶髻,石竹繡羅衣。

髪のもとどりには、山花一輪を挿しはさみ、薄絹の衣装には、なでしこの花を刺繍していてその風情は、えもいわれない。

每出深宮裡,常隨步輦歸。

常に天子に倍して、奥の御殿の中から出て遊び暮らし、やがて、歩輦に随って帰ってくる。
只愁歌舞散,化作綵雲飛。

天子の寵愛を専らにして、おそばを離れられずにいるのは、この通りである。ただし、歌舞が終わり散会したとき、彩雲に化して天上に飛び去りはしないかと、ただこれを愁えているばかりである。

(宮中行楽詞、八首の一)

小小 金屋に生れ、盈盈 紫微に在り。

山花 寶髻に插しはさみ、石竹 羅衣を繡す。

每に深宮の裏より出で、常に歩輦に隨って歸る。

只だ愁う 歌舞散じ、化して綵雲と作って飛ぶを。
大明宮-座標02

長安皇城宮城00 

『宮中行樂詞,八首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)


詩文(含異文)

小小生金屋,盈盈在紫微。

山花插寶髻,石竹繡羅衣。

每出深宮裡【每上深宮裡】,常隨步輦歸。

只愁歌舞散【只愁歌舞罷】,化作綵雲飛。


(下し文)
(宮中行楽詞、八首の一)

小小 金屋に生れ、盈盈 紫微に在り。

山花 寶髻に插しはさみ、石竹 羅衣を繡す。

每に深宮の裏より出で、常に歩輦に隨って歸る。

只だ愁う 歌舞散じ、化して綵雲と作って飛ぶを

(現代語訳)
(漢の阿嬌と同じように高貴な家で育てられ、十五になって後宮に入って寵愛を得た、行楽、酒宴で、妃嬪がそろうと、それが終わってから寵愛を失うことが心配で仕方がない。)

幼い子供のときから、黄金で飾った家で育てられ、やがて後宮に入れば、容貌豊盈、六宮に冠たることはいうまでもないが、みずみずしいうつくしさで天子の御殿に住んでいる。

髪のもとどりには、山花一輪を挿しはさみ、薄絹の衣装には、なでしこの花を刺繍していてその風情は、えもいわれない。

常に天子に倍して、奥の御殿の中から出て遊び暮らし、やがて、歩輦に随って帰ってくる。
天子の寵愛を専らにして、おそばを離れられずにいるのは、この通りである。ただし、歌舞が終わり散会したとき、彩雲に化して天上に飛び去りはしないかと、ただこれを愁えているばかりである。 

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李白  玉階怨

玉階生白露,夜久侵羅襪。卻下水晶簾,玲瓏望秋月。

(閏怨の詩で、寵愛を失い愛するお方の訪れの無いままに、長い秋の夜を過ごす宮女の身になって作ったものである。)

秋の夜、玉すだれの音もせず、白玉の階きざはしに白い露が珠のようにおり、夜は更けて羅襪につめたさが侵みてくる。 御殿奥の閨に水晶簾をさっとおろすと、あきらめたものの何度も振り向いてみる。水精簾の玲瓏としてあかるい隙間からは、秋の澄んだ月を望んで、思いに堪えられないことに苦しむ。

743年(34)李白353 巻四16-《玉階怨》(李白と謝朓の) 353Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94-34) <李白353> Ⅰ李白詩1693 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7013

 

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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唐朝の命婦制度では宮中の妃嬢はすべて「内命婦」といい、公主、王妃以下の貴婦人を「外命婦」と称した。外命婦の制度は、次のように規定する。親王の母と妻を「妃」とし、文武の二品官と国公の母と妻を「国夫人」に封じ、三品官以上の官僚の母と妻を「郡夫人」に封じ、四品官の官僚の母と妻を「郡君」に封じ、五品官の官僚の母と妻を「県君」に封ず、と。以上の婦人はそれぞれ封号を与えられたが、母親の封号には別に「太」の字が付け加えられた。もし、夫や子の身分によって封号を授与されたものでない人は、別に封号を加えて某品夫人、某晶郡君、某晶県君等と称した(『唐会要』巻二六「命婦朝皇后」)。封号は原則的にはただ正妻だけに与えられるものであり、側室には与えられなかった。

唐朝の命婦の大半は、夫や子が高位高官であるが故に封号を授けられたか、あるいは夫や子が天子の寵愛を特に受けて授けられたかであり、「母は子を以て貴く、妻は夫を以て栄える」のであった。たとえば、宰相牛仙客の妻は邪国夫人に封ぜられ、節度使安禄山の二人の妻は共に国夫人に封ぜられた。韓愈等二十九名の官僚たちの亡き母親は、同日にそれぞれ郡太夫人・国太夫人等々の封号を追贈された。一級下のもの、たとえば刺史の李遜の母などは県太君等に封ぜられた(いずれも『全唐文』にみえる)。その他に、皇親と国威(外戚)であることによって、封号を与えられたものが少数いた。たとえば武則天の母は栄国夫人、姉は韓国夫人、姪は魂国夫人の封号を与えられた。楊貴妃の三人の姉妹は韓国夫人、我国夫人、秦国夫人の封号を与えられた。また少数ではあるが、皇帝の乳母や上級の宮人で特に皇帝から寵愛を受けたもの、たとえば高宗、中宗、容宗の乳母は、それぞれ国夫人、郡夫人に封ぜられた。それ以外に、本人が功を立てたとか、あるいは別の事情で封号の授与にあずかったものもいた。たとえば、刺史の那保英の妻実氏は契丹の侵入に抵抗して功を立て、誠節夫人に封ぜられ、県令の古玄応の妻高氏は突蕨の侵入に抵抗して功を立て、狗忠県君に封ぜられた(『旧唐書』列女伝)。また、武則天のとき故郷の八十歳以上の女性が郡君に封ぜられた、といった例である。

命婦に封ぜられたものに対しては、朝廷がおおむねその品級に応じて一定の俸料銭(給金)を支給した。『全唐文』には玄宗の「乳母の賓氏に賜る俸料は三品(官)に準ずる詔」が収録されている。これは、乳母の燕国夫人(華氏)に三品官を標準として俸給を授与せよと命じているのである。ただすべての命婦が俸給を授与されたかどうかは不明である。『容斎三筆』には、宋代の郡夫人、国夫人などの命婦には「みな月俸の銭米の支給と春と冬の絹布・生綿の支給があり、その数量はきわめて多いものだった」と記載されている。おそらく唐代にもほぼ類似の制度があったと思われる。そのほか、『太平広記』巻四九七には、顔呆卿の妻以降、湖南観察使には特別に夫人の脂粉銭(化粧料)の費目があり、柳州刺史の場合もそうだった、という。しかしこれは特定地域の現象に過ぎないだろうし、この『太平広記』 の記載が歴史的事実でない可能性もある。

 

命婦には皇后に朝見する儀式があった。武則天が皇后になった時から、この大礼が始まった。その後、各代の記念日や祝典には、いつも命婦が皇后、太后に朝見することが慣例となった。憲宗のとき詔を下して次のように命じたことがある。およそ外命婦で皇太后に朝見する儀式に休暇をとって出席しなかったものは、官がその夫や子の一カ月の官俸を罰として取り上げる、また儀式にしばしば出席しないものは皇帝に報告せよ、と(『旧唐書』意宗紀上)。どうやら欠席は罰を受けねばならなかったようである。朝廷の命婦はちょっとした公職とみなされていたことが分かる。元横の妻はかって郡君の身分で、興慶宮で命婦の班長となって太后に朝見したことがある。この際、元稹は妻に贈った詩の中で、あなたは「興慶にて千の命婦に首行し、……君はこの外に更に何をか求めん」(「初で漸東(観察使)に除せらる。妻に阻色あり、困りで四韻を以て之に暁す」)と述べている。人々の意識においでは、官僚の婦人として命婦に封ぜられ、宮中において謁見を賜ることが生涯最大の栄誉であったことが分かる。

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-34

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    玉階怨

地點:    長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

 

玉階怨

(閏怨の詩で、寵愛を失い愛するお方の訪れの無いままに、長い秋の夜を過ごす宮女の身になって作ったものである。)

玉階生白露,夜久侵羅襪。

秋の夜、玉すだれの音もせず、白玉の階きざはしに白い露が珠のようにおり、夜は更けて羅襪につめたさが侵みてくる。 

卻下水晶簾,玲瓏望秋月。

御殿奥の閨に水晶簾をさっとおろすと、あきらめたものの何度も振り向いてみる。水精簾の玲瓏としてあかるい隙間からは、秋の澄んだ月を望んで、思いに堪えられないことに苦しむ。

 

(玉階の怨み)

玉階は白露を生じ,夜は久しく侵羅襪をす。

水晶簾を卻下すれば,玲瓏 秋月を望む。

 長安城図 作図00

『玉階怨』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

玉階怨

玉階生白露,夜久侵羅襪。

卻下水晶簾,玲瓏望秋月。

(下し文)
(玉階の怨み)

玉階は白露を生じ,夜は久しく侵羅襪をす。

水晶簾を卻下すれば,玲瓏 秋月を望む。

(現代語訳)
玉階怨(閏怨の詩で、寵愛を失い愛するお方の訪れの無いままに、長い秋の夜を過ごす宮女の身になって作ったものである。)

秋の夜、玉すだれの音もせず、白玉の階きざはしに白い露が珠のようにおり、夜は更けて羅襪につめたさが侵みてくる。 

御殿奥の閨に水晶簾をさっとおろすと、あきらめたものの何度も振り向いてみる。水精簾の玲瓏としてあかるい隙間からは、秋の澄んだ月を望んで、思いに堪えられないことに苦しむ。


(訳注)

  玉階怨
(閏怨の詩で、寵愛を失い愛するお方の訪れの無いままに、長い秋の夜を過ごす宮女の身になって作ったものである。)

 楽府特集『相和歌・楚調曲』。宮怨(失寵の閨怨)を歌う楽曲名。題意は、後宮の宮女が(なかなか来ない)皇帝の訪れを待ち侘びる、という意。

 

玉階生白露、夜久侵羅襪。
秋の夜、玉すだれの音もせず、白玉の階きざはしに白い露が珠のようにおり、夜は更けて羅襪につめたさが侵みてくる。 

【一】 玉階:大理石の後宮のきざはし。外を誰かが通っていても玉階からの音で誰だかわかる。大理石に響く靴の音はそれぞれの人で違うのだ。ほかの通路とは違う意味を持っている。 

【二】 生白露:夜もすっかり更けて、夜露が降りてきた。時間が経ったことをいう。

【三】 夜久:待つ夜は長く。 

【四】 :ここでは(夜露が足袋に)浸みてくること。 

【五】 羅襪:うすぎぬのくつした。 ・襪:〔べつ〕くつした。足袋。 足袋だけ薄絹をつけているのではなく全身である。したがって艶めかしさの表現である。


却下水精簾、玲瓏望秋月。
御殿奥の閨に水晶簾をさっとおろすと、あきらめたものの何度も振り向いてみる。水精簾の玲瓏としてあかるい隙間からは、秋の澄んだ月を望んで、思いに堪えられないことに苦しむ。

【六】 却下:下ろす。 ・水:うるおす。水に流す。水とか紫烟は男女の交わりを示す言葉。 

【七】 精簾:水晶のカーテン。窓際につける外界と屋内を隔てる幕。今夜もだめか! 思いのたけはつのるだけ。

【八】 玲瓏:玉(ぎょく)のように光り輝く。この「玲瓏」の語は、月光の形容のみではなく、「水精簾」の形容も副次的に兼ねており、「透き通った『水精簾』を通り抜けてきた月光」というかけことばとして、全体の月光のようすを形容している。「却下・水・精簾+玲瓏・望・秋月。」 

【九】 望秋月:待ちながらただ秋の月を眺め望んでいる。 ・望:ここでの意味は、勿論、「眺める」だが、この語には「希望する、待ち望む」の意があり、そのような感じを伴った「眺める」である。

 

 

李白 玉階怨 【字解】

 

     玉階 大理石の後宮のきざはし。外を誰かが通っていても玉階からの音で誰だかわかる。大理石に響く靴の音はそれぞれの人で違うのだ。ほかの通路とは違う意味を持っている。 

     生白露 夜もすっかり更けて、夜露が降りてきた。時間が経ったことをいう。

     夜久 待つ夜は長く。 

     侵 ここでは(夜露が足袋に)浸みてくること。 

     羅襪 うすぎぬのくつした。 ・襪:〔べつ〕くつした。足袋。 足袋だけ薄絹をつけているのではなく全身である。したがって艶めかしさの表現である。

     却下:下ろす。 ・水:うるおす。水に流す。水とか紫烟は男女の交わりを示す言葉。 

     精簾 水晶のカーテン。窓際につける外界と屋内を隔てる幕。今夜もだめか! 思いのたけはつのるだけ。

     玲瓏 玉(ぎょく)のように光り輝く。この「玲瓏」の語は、月光の形容のみではなく、「水精簾」の形容も副次的に兼ねており、「透き通った『水精簾』を通り抜けてきた月光」というかけことばとして、全体の月光のようすを形容している。「却下・水・精簾+玲瓏・望・秋月。」 

     望秋月 待ちながらただ秋の月を眺め望んでいる。 ・望:ここでの意味は、勿論、「眺める」だが、この語には「希望する、待ち望む」の意があり、そのような感じを伴った「眺める」である。

 

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謝朓①玉階怨
夕殿下珠簾,流螢飛復息。
長夜縫羅衣,思君此何極。


大理石のきざはしで区切られた中にいての満たされぬ思い。
夕方になると後宮では、玉で作ったスダレが下される。飛び交えるのはホタルで、飛んだり、とまったり繰り返している。
長い夜を一人で過ごすために、あなたに着てもらうためのうすぎぬのころもを縫っている。あなたを思い焦がれる気持ちは、いつ終わる時があるのだろうか。



(玉階の怨み)
夕殿 珠簾を下し,流螢は 飛びて 復た 息【いこ】う。
長夜 羅衣を 縫ひ,君を思ひて 此に なんぞ 極まらん。

 

 

 

 

いわゆる閏怨の詩で、寵愛を失い愛するお方の訪れの無いままに、長い秋の夜を過ごす宮女の身になって作ったものである。『玉台新詠』巻一〇。

玉階怨

夕殿下珠簾,流螢飛復息。

長夜縫羅衣,思君此何極。

(玉階の怨み)
夕殿 珠簾を下し,流螢は 飛びて 復た 息【いこ】う。
長夜 羅衣を 縫ひ,君を思ひて 此に なんぞ 極まらん。

 

玉階の怨み

夕方の殿舎には珠簾が下ろされ

流れる蛍が 飛んでは復た息んでいる

長い秋の夜 私は羅の衣を縫いながら

あなたのことを いつまでも思い続ける

 

 

1 玉階怨【字解】

  玉階 玉で作られた、きざはし (宮殿に登る階段)。その階段の上にある建物に、此の詩に出てくる妃嬪が住んでいるのであろう。

  珠簾珠を綴った簾。

  流蛍珠簾の向側を流れてゆく蛍の光。

  飛復息 スーツと動いては復た止まっている。待ちつづけて珠簾ごしに外を見つめている女の目に映る情景を描いている。

  長夜秋の夜長に。

  縫羅衣「羅衣」は、愛する男のためのものであろう。

  一針一針、時々深い溜め息をつきながら縫っている姿が目に浮かぶようである。

  思君「古詩十九首」に「思君令人老、歳月忽巳晩」(君を思へば人をして老いしむ、歳月 忽ち己に晩れぬ) のように使われている。

 

 

玉階怨
楽府相和歌辞・楚調曲。『古詩源』巻十二にも録されている。


夕殿下珠簾、流螢飛復息。
夕方になると後宮では、玉で作ったスダレが下される。飛び交えるのはホタルで、飛んだり、とまったり繰り返している。
・夕殿:夕方の宮殿で。 ・下:おろす。 ・珠簾:玉で作ったスダレ。 ・流螢:飛び交うホタル。 ・飛復息:飛んでは、また、とまる。飛んだりとまったりすることの繰り返しをいう。・息 とまる。文の終わりについて、語調を整える助詞。


長夜縫羅衣、思君此何極。
長い夜を一人で過ごすために、あなたに着てもらうためのうすぎぬのころもを縫っている。あなたを思い焦がれる気持ちは、いつ終わる時があるのだろうか。 
・長夜:夜もすがら。普通、秋の夜長や冬の長い夜をいうが、一人待つ夜は長い。ホタルのように私もあなたのもとに飛べればいいのにそれはできない。せめてあなたにまとってもらいたい肌着を作っている。 ・縫:ぬう。 ・羅衣:うすぎぬのころも。肌着。・思君:貴男を思い焦がれる。 ・此:ここ。これ。 ・何極:終わる時があろうか。

743年(34)李白352 巻四15-《塞上曲》(大漢無中策,) 352Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(34) <李白352> Ⅰ李白詩1692 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7008

李白   塞上曲

大漢無中策,匈奴犯渭橋。五原秋草綠,胡馬一何驕。

命將征西極,橫行陰山側。燕支落漢家,婦女無華色。

轉戰渡黃河,休兵樂事多。蕭條清萬里,瀚海寂無波。

(太宗、即位して間もなく、突厥が長安、渭橋の北まで入寇した、太宗は僅か6騎を伴い渭水のほとりに御幸し、頡利と語り、「渭水之盟」をなし、突厥は唐から引き上げた。数年後には、西北方の遊牧諸部族をことごとく唐朝の支配とした。)

むかしから、塞外の夷狄を控制するのは、とても困難なことであり、大漢は、7266月、「玄武門の変」もあり、内乱状態で、わづかに下策を得たものと称し、中策にすらも達しなかった。そこで、太宗いまだ即位のない7月、突厥、匈奴は、長安の近郊まで押し寄せて、渭橋の北に陣を敷くことさえあった。その年、北限の領域である五原郡が、秋草、なお緑である頃というのに、胡馬は、南下して、その勢も凄じいものであった。そこで、漢の方、太宗は、李勣・李靖を登用して大将を命じて、北から西域の極地までも遠征させた、到るところ、種族、酋族、匈奴を撃破して、西は天山山脈、北は陰山山脈を越えることがないように横行し、族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上したのである。かくて、燕支山がひとたび漢軍の手に落ちてから、方游牧民族の歌謠に云う「匈奴の婦女は、花の如き顔色も無くなった」と。漢兵は、頻りに轉戦して、黄河を渡って、有史以来最大の領土となったのだが、いよいよ兵を休めて凱旋することになり、その楽しみも、非常にたくさんあるのである。今しも、万里の塞外、胡塵はのこりなく、静まり、見わたすかぎり、蕭條として邊なく、澣海も寂として、立ち騒ぐ波さえもなくなるということになったのである。

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  2015年12月3日 の紀頌之5つのBlog  
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  index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首 index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首 index-13 821年~822年 55歳 22首 index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首 韓愈 哲学・儒学「五原」 賦・散文・上奏文・碑文など  
  孟郊 張籍          
  ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"  
  Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog 767年-5-#4杜甫 《20-98 鄭典設自施州歸》#4 杜甫詩index-15-767年大暦2年56歲-5-#4 <1066> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7010   
  杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首 杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩)  杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首 杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首 杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首 杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首  
  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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  ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集  
  Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog 12孫光憲《巻七46浣溪沙九首其九》『花間集』348全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7012  
  薛濤の全詩 花間集(1巻 花間集(2巻 花間集(3巻 花間集(4巻 花間集(5巻  
  魚玄機全詩 花間集(6巻 花間集(7巻 花間集(8巻 花間集(9巻 花間集10巻  
  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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年:       天寶二年

寫作時間:           743

寫作年紀:           43

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞上曲

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              陰山 ( 豐州 陰山)    

刪丹山 (隴右道東部 甘州 刪丹) 別名:燕支山、焉支山           

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)             

五原 ( 鹽州 五原)   

交遊人物/地點:  

 

 

塞上曲

(太宗、即位して間もなく、突厥が長安、渭橋の北まで入寇した、太宗は僅か6騎を伴い渭水のほとりに御幸し、頡利と語り、「渭水之盟」をなし、突厥は唐から引き上げた。数年後には、西北方の遊牧諸部族をことごとく唐朝の支配とした。)

大漢無中策,匈奴犯渭橋。

むかしから、塞外の夷狄を控制するのは、とても困難なことであり、大漢は、7266月、「玄武門の変」もあり、内乱状態で、わづかに下策を得たものと称し、中策にすらも達しなかった。そこで、太宗いまだ即位のない7月、突厥、匈奴は、長安の近郊まで押し寄せて、渭橋の北に陣を敷くことさえあった。

五原秋草綠,胡馬一何驕。

その年、北限の領域である五原郡が、秋草、なお緑である頃というのに、胡馬は、南下して、その勢も凄じいものであった。

命將征西極,橫行陰山側。

そこで、漢の方、太宗は、李勣・李靖を登用して大将を命じて、北から西域の極地までも遠征させた、到るところ、種族、酋族、匈奴を撃破して、西は天山山脈、北は陰山山脈を越えることがないように横行し、族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上したのである。

燕支落漢家,婦女無華色。

かくて、燕支山がひとたび漢軍の手に落ちてから、方游牧民族の歌謠に云う「匈奴の婦女は、花の如き顔色も無くなった」と。

轉戰渡黃河,休兵樂事多。

漢兵は、頻りに轉戦して、黄河を渡って、有史以来最大の領土となったのだが、いよいよ兵を休めて凱旋することになり、その楽しみも、非常にたくさんあるのである。

蕭條清萬里,瀚海寂無波。

今しも、万里の塞外、胡塵はのこりなく、静まり、見わたすかぎり、蕭條として邊なく、澣海も寂として、立ち騒ぐ波さえもなくなるということになったのである。

 

(塞上曲)

大漢 中策無く,匈奴 渭橋を犯す。

五原 秋草綠なる,胡馬 一に何ぞ驕れる。

將に命じ 西極を征し,橫行す 陰山の側。

燕支 漢家に落ち,婦女に華色無し。

轉戰 黃河を渡り,休兵 樂事 多し。

蕭條 萬里に清み,瀚海 寂として波無し。

 

『塞上曲』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

塞上曲

大漢無中策,匈奴犯渭橋。五原秋草綠,胡馬一何驕。

命將征西極,橫行陰山側。燕支落漢家,婦女無華色。

轉戰渡黃河,休兵樂事多。蕭條清萬里,瀚海寂無波。

(下し文)
(塞上曲)

大漢 中策無く,匈奴 渭橋を犯す。

五原 秋草綠なる,胡馬 一に何ぞ驕れる。

將に命じ 西極を征し,橫行す 陰山の側。

燕支 漢家に落ち,婦女に華色無し。

轉戰 黃河を渡り,休兵 樂事 多し。

蕭條 萬里に清み,瀚海 寂として波無し。

(現代語訳)
塞上曲(太宗、即位して間もなく、突厥が長安、渭橋の北まで入寇した、太宗は僅か6騎を伴い渭水のほとりに御幸し、頡利と語り、「渭水之盟」をなし、突厥は唐から引き上げた。数年後には、西北方の遊牧諸部族をことごとく唐朝の支配とした。)

むかしから、塞外の夷狄を控制するのは、とても困難なことであり、大漢は、7266月、「玄武門の変」もあり、内乱状態で、わづかに下策を得たものと称し、中策にすらも達しなかった。そこで、太宗いまだ即位のない7月、突厥、匈奴は、長安の近郊まで押し寄せて、渭橋の北に陣を敷くことさえあった。

その年、北限の領域である五原郡が、秋草、なお緑である頃というのに、胡馬は、南下して、その勢も凄じいものであった。

そこで、漢の方、太宗は、李勣・李靖を登用して大将を命じて、北から西域の極地までも遠征させた、到るところ、種族、酋族、匈奴を撃破して、西は天山山脈、北は陰山山脈を越えることがないように横行し、族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上したのである。

かくて、燕支山がひとたび漢軍の手に落ちてから、方游牧民族の歌謠に云う「匈奴の婦女は、花の如き顔色も無くなった」と。

漢兵は、頻りに轉戦して、黄河を渡って、有史以来最大の領土となったのだが、いよいよ兵を休めて凱旋することになり、その楽しみも、非常にたくさんあるのである。

今しも、万里の塞外、胡塵はのこりなく、静まり、見わたすかぎり、蕭條として邊なく、澣海も寂として、立ち騒ぐ波さえもなくなるということになったのである。


(訳注)

塞上曲

(太宗、即位して間もなく、突厥が長安、渭橋の北まで入寇した、太宗は僅か6騎を伴い渭水のほとりに御幸し、頡利と語り、「渭水之盟」をなし、突厥は唐から引き上げた。数年後には、西北方の遊牧諸部族をことごとく唐朝の支配とした。)

 

大漢無中策,匈奴犯渭橋。

むかしから、塞外の夷狄を控制するのは、とても困難なことであり、大漢は、7266月、「玄武門の変」もあり、内乱状態で、わづかに下策を得たものと称し、中策にすらも達しなかった。そこで、太宗いまだ即位のない7月、突厥、匈奴は、長安の近郊まで押し寄せて、渭橋の北に陣を敷くことさえあった。

64】 大漢無中策 太宗は即位直前に和議を結んでいた突厥の侵攻を受ける。『旧唐書』によれば、怒りにまかせた太宗は僅か6騎を伴い渭水に布陣した突厥軍の前に立ち突厥の協定違反を責めた。その態度に恐れをなした突厥は唐から引き上げたと記録されているが、これは太宗の勇猛さを誇張した内容であり、太宗を追った唐軍との対決を避けて撤退したとも、または突厥に対し貢物を贈り撤退を依頼したとも言われている、[渭水之盟、「便橋會盟」]

就在玄武門之變後,突厥「頡利可汗」乘唐朝亂,大舉入侵。太宗遣尉遲敬德出戰,大敗突厥。未幾,頡利又再入侵,到達渭水便橋,並遣使臣到長安示威。太宗於是親率六騎到渭水,與頡利隔河相會,數頡利背棄盟約,這時唐朝大軍亦陸續到達。頡利見唐軍軍容鼎盛,以為無隙可乘,於是於太宗議和,隨即北歸,此即為「便橋會盟」。

629年(貞観3年)、充実した国力を背景に突厥討伐を実施する。李勣・李靖を登用して出兵し、630年(貞観4年)には突厥の頡利可汗を捕虜とした。これにより突厥は崩壊し、西北方の遊牧諸部族が唐朝の支配下に入ることとなった。族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上する。天可汗は北方遊牧民族の君主である可汗より更に上位の君主を意味する称号であり、唐の皇帝は、中華の天子であると同時に北方民族の首長としての地位も獲得することとなった。

(29)渭橋 横橋とも中渭橋ともいう。長安の北を流れる渭水に架けた橋で、ここを渡ると咸陽の町。唐の時代には西域に通じる要道の一。長安には、便橋、東渭橋の三本の橋があった。①中渭橋は秦の時、始めて設置され,本らいの名称は橫橋という ②東渭橋 は紀元前145年、漢の景帝五年に建置され,涇水が渭水に合流した下流の 東側に位置する。③西渭橋 は紀元前138年、漢の建元三年建置,長安城の便門に相對し,便橋 或は 便門橋という 。唐じだいには 咸陽橋と名づけられ,長安から 人、客を西行する場合に送別のため、多く此地に到って相い別れをした。

 

五原秋草綠,胡馬一何驕。

その年、北限の領域である五原郡が、秋草、なお緑である頃というのに、胡馬は、南下して、その勢も凄じいものであった。

66】 五原初は郡名、後には縣名、漢め五原郡は、縣十を領して、延袤甚だ廣かった。漢代に,現在のフフホト (呼和浩特) 付近を中心に,内モンゴルの南部におかれた郡。秦代には九原郡といったが,漢初,匈奴に占領されていたのを前漢の武帝が奪い返して五原と改めた。黄河最北流地点付近。

 

命將征西極,橫行陰山側。

そこで、漢の方、太宗は、李勣・李靖を登用して大将を命じて、北から西域の極地までも遠征させた、到るところ、種族、酋族、匈奴を撃破して、西は天山山脈、北は陰山山脈を越えることがないように横行し、族長たちは長安に集結し太宗に天可汗の称号を奉上したのである。

67】 陰山 北塞外、突厥の領域南側に位置する山脈を言う。中国北部,内モンゴル (蒙古) 自治区中部,ホワン () 河大湾曲部の北にある地塊山地。東西 400kmにわたって標高 15002000mの山が連なる。主脈のターチンシャン (大青山) 山脈は南方のホータオ (河套) 平原から比高 1000mの断崖をなして屹立しているが,北斜面はモンゴル高原にゆるやかに低下する。

 

燕支落漢家,婦女無華色。

かくて、燕支山がひとたび漢軍の手に落ちてから、方游牧民族の歌謠に云う「匈奴の婦女は、花の如き顔色も無くなった」と。

68】 燕支 《記正義括地志》史に焉支山と云う、一名、丹山は甘州/縣に在る、東南五十里。 また、《西河舊事》に祈連・燕支二山は 張掖・酒泉二界の上に在り、 東西二百餘里、南北百里、松柏五木有り、水草美しく、冬は温く、夏は凉し。畜牧に宜し匈奴はこの二山を失ったとき、乃ち歌って曰く「我、祈連山を失い、我、六畜 蕃息できず使む、我燕支山を失い、我が婦女は顔色無らしむ。」と。

69】 婦女無華色 北方游牧民族の歌謠に云う:「我が燕支山を失い,我が婦女は顏色を無わせしむ,我が祈連山を失い,我が六畜は蕃息せざらしむ。」と。北方游牧民族歌謠云:「失我燕支山,使我婦女無顏色,失我祈連山,使我六畜不蕃息。」〔蕃息:盛んにふえること。繁殖すること。〕

 

轉戰渡黃河,休兵樂事多。

漢兵は、頻りに轉戦して、黄河を渡って、有史以来最大の領土となったのだが、いよいよ兵を休めて凱旋することになり、その楽しみも、非常にたくさんあるのである。

70】休兵樂事多 太宗による、「貞観の治」各地に盗賊もなく徳の政治が行われた。

 

蕭條清萬里,瀚海寂無波。

今しも、万里の塞外、胡塵はのこりなく、静まり、見わたすかぎり、蕭條として邊なく、澣海も寂として、立ち騒ぐ波さえもなくなるということになったのである。

71】 澣海 東西南北、その橋は崖があり、大海とつながるいわゆる四海、此処では、北海の名、今のバイカル湖だろうといわれている。

 

 


李白32 塞上曲  李白

大漢無中策。 匈奴犯渭橋。 五原秋草綠。胡馬一何驕。

命將征西極。 橫行陰山側。 燕支落漢家。 婦女無華色。

轉戰渡黃河。休兵樂事多。 蕭條清萬里。 瀚海寂無波。 

 

 


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李白  塞下曲,六首之六

烽火動沙漠,連照甘泉雲。漢皇按劍起,還召李將軍。

兵氣天上合,鼓聲隴底聞。橫行負勇氣,一戰淨妖氛。

(古代より、秋になれば北辺に匈奴が入寇してくると、戦鼓が山隴の下まで響き渡って聞こえてくると、のろしを上げて、朝廷に知らせが届けられ、李廣将軍のような人と従軍できるなら、縦横無尽に戦い功績を挙げたいものである)

秋になって、匈奴が北辺に入寇したというので、烽火がゴビの砂漠のほとりにあがると、つぎつぎに伝えられ、雲まで照らして甘泉宮にまでとどく。漢家の天子は赫怒され、剣に手をかけて起ち上られ、又もや李廣李将軍のような名将軍を召されて、急きょその地に赴き是を、これを防がしめる。戦争のきざしが天の上でおこったとすれば、太鼓の音が陝西と甘粛のさかいにある大きな坂、山隴の下まで響き渡って聞こえる。

従軍することになれば、平生の勇気を恃んで、匈奴の中を縦横無尽に横行し、妖氛を鎮め、必ず匈奴を追いまくりたいと思っている。

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塞下曲,六首之一

(西域の辺境、天山山脈あたりには春夏という季節がない上に、夜となく昼となく戦いをする。そして太古の昔も今も闘いをしている)

五月天山雪,無花祗有寒。

天山山脈白山は、音に聞こえた高山で、殊に邊境にあたり、夏の真ん中の五月でさえも、その絶頂には雪が晧晧として積って居るから、その地方一帯、花の咲くことなくして、唯だ寒いばかりである。
笛中聞折柳,春色未曾看。

この邊境に征成して居る兵士が吹きすさぶ笛の曲には、折楊柳といふものがあるが、実際に於いては、柳は目に入らず、まったく春色を見たことが無い。
曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。

それから、暁に金鼓は鴫り響いて、進軍を促せば、号令に應じで、敵と聯はねばならぬし、夜は玉鞍を抱いて、馬上ながら眠るというように、すこしも警戒を怠らない。

願將腰下劍,直為斬樓蘭。

しかし、ひとたび戦場に出た上は、身命をいたして、国家のために大功を立てたいと思うので、願わくば、腰下の剣を揮って、楼蘭王を斬り、天晴、一かどの功名を立てたいと念じて居るばかりである。

 

(塞下曲,六首之一)

五月 天山の雪,花 無くして  祗だ 寒のみ 有り。

笛中 折柳を 聞くも,春色 未だ 曾て 看ず。

曉に戰ふに 金鼓に 隨ひ,宵に眠るに 玉鞍を 抱く。

願はくは 腰下の劍を將って,直ちに 爲に 樓蘭を斬らん。

 

塞下曲,六首之二

(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

天兵下北荒,胡馬欲南飲。

天兵は、北方荒漠の地に討って出で、匈奴は之と反封に南に向って馬にみずを飲まそうとし、そこで、大衝突が起った。

橫戈從百戰,直為銜恩甚。

この間、式を横へて、かん百戦の役に従い、も辛苦を厭わざるは、従来國恩を銜むこと厚く、必ず之に報いむと欲するからである。

握雪海上餐,拂沙隴頭寢。

そこで、ある時は、雪を握って、それを食しつつ、北海の邊に征戍し、ある時は、風に吹き捲きあがる砂を払いつつ、隴頭に臥し、その困難は、一通りではない。

何當破月氏,然後方高枕。

そして、期するところは、はるかに遠き月氏をも打破り、然る後、邊境はじめて虞なく、中國の上下を挙げ、枕を高くして安眠するようにしたいというので、その間は、如何な事にも屈せやしで、征途の苦に甘んじて居るのである。

 

(塞下曲,六首の二)

天兵 北荒を下り,胡馬 南に飲【みずか】わんと欲す。

戈を橫えて 百戰に從うは,直ちに恩を銜む甚じきが為なり。

雪を握って 海上に餐し,沙を拂うて隴頭に寢ぬ。

何ぞ當に月氏を破り,然る後 方に枕を高うすべき。

 

年:743年天寶二年43歳 94-30

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:麒麟閣 (京畿道 京兆府 長安) 別名:麟閣      

渭橋 (京畿道 京兆府 長安)             

 

 

塞下曲,六首之三

(長安の西、渭橋を渡って西域の匈奴と勇敢に戦っても、皆が皆正当な評価を受けるわけではない)

駿馬似風飆,鳴鞭出渭橋。

駿馬にまたがり、疾走するのは、さながら旋風をおこすが如くであり、さらに、これに鞭を鳴らし、長安の都を西に出でて渭橋を越えて、いよいよ征途に向かうことになった。

彎弓辭漢月,插羽破天驕。

漢家の明月を背にし、弓を引き絞って白羽の矢を射る、さて、いよいよ戦争になり、矢をつがえて“いたずら坊主”の匈奴の単于を追いかけ、退けた。

陣解星芒盡,營空海霧消。

それから、陣を引き払って凱旋となるときには、天上の星も、光芒すでに斂まって、兵気は方に散じ尽し、屯営の跡には海霧消えて、見わたすかぎり、さっぱりして、何等すさまじい景色もなくなっている。

功成畫麟閣,獨有霍嫖姚。

しかし、戦功全きに因って、麒麟閣にその像を畫かれるのは、本来、主将たる霍嫖姚、ただ一人であったのに、それすらないのである、ましてや、実際に戦った多くの勇士の功績などに及ばないのは、まことに遺憾である。

 

(塞下曲,六首之三)

駿馬は風飆の似く,鞭を鳴らして渭橋を出づ。

弓を彎いて 漢月を辭し,羽を插んで 天驕を破る。

陣は解けて 星芒 盡き,營は空しゅうして 海霧 消ゆ。

功 成って 麟閣に畫かれるは,獨り 霍嫖姚 有るのみ。

 

塞下曲,六首之四

(白馬の将軍に従って西域の守りに就いた夫を思い、留守の家に残る夫との思い出のものを見て涙する嬬について述べる)

白馬黃金塞,雲沙繞夢思。那堪愁苦節,遠憶邊城兒。

吾夫は、白馬にまたがって、遥か西域の国境、黄金の塞にむかって出かけた、あの人を思うと、雲砂漠漠として夢をめぐり、それがどこだかはわからない。

螢飛秋窗滿,月度霜閨遲。摧殘梧桐葉,蕭颯沙棠枝。

まして、秋になってゆくので、悲愁はましてきてくるしいじきとなる、遠く国境守備の人をおもうことの、まことに堪えることができないことである。涼風が吹き込んでくる秋の窓辺には、秋のホタルがいっぱいに満ち、飛びかう。やがて、寂しい月は霜のふる閏中にゆっくりとした時間の経過の後、奥まで差し込んでくる。

無時獨不見,流淚空自知。

二人で過ごすとときには繁っていた梧桐の葉は、枯れて落ちしまい、沙棠の枝にこがらしが颯々として吹きなびいている。どんな時でも、吾が夫を幻の中、夢の中に見ないことはない、そうすると、こうして一人空しく涙を流すことしかないのである。

 

塞下曲,六首之五

(なぜ出征しなければいけないのか、どうやって徴発するのか、軍中の秋景を述べ、翻って少婦の怨嗟する情をのべた)

塞虜乘秋下,天兵出漢家。

秋の季節になると、国境のえびす、匈奴は、西風に乗るかのように邊塞にきまって「下り」また「入寇」する。漢の朝廷はこれを征伐するために「天兵」といわれる天子の軍隊を差し向けられる。
將軍分虎竹,戰士臥龍沙。

将軍は、天子から軍兵徴発の用の銅虎符、軍兵以外徴発の用に充てられる竹使符をいただき、兵隊は白竜堆の砂漠、ゴビの砂漠で夜営する。

邊月隨弓影,胡霜拂劍花。

軍中の秋景といえば国境の三日月は、弓の影のようにまるく、砂漠の霜は、剣、武具、甲冑の上に降りかかって花を咲かせる。

玉關殊未入,少婦莫長嗟。

しかし、出征してこの地に来たものは、生きて帰り、再び玉門関に入ろうなど、思いもよらぬことだから、閨中のわかい嫁は、その夫を思って長いため息をつかないわけにはいくまい。この征夫と少婦とをこのような状態にしたのは、だれなのか、しかしどうにもならないことなのである。

(塞下曲,六首の五)

塞虜 秋に乘じて下り,天兵 漢家を出づ。

將軍は虎竹を分かち,戰士は龍沙に臥す。

邊月 弓影に隨い,胡霜 劍花を拂う。
玉關 殊に未だ入らず,少婦 長嗟すること莫れ

8世紀唐と周辺国00 

年:743年天寶二年43歳 94-33

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之六

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              甘泉宮 (京畿道 京兆府 雲陽) 別名:雲陽宮  

交遊人物/地點:  

 

塞下曲,六首之六

(古代より、秋になれば北辺に匈奴が入寇してくると、戦鼓が山隴の下まで響き渡って聞こえてくると、のろしを上げて、朝廷に知らせが届けられ、李廣将軍のような人と従軍できるなら、縦横無尽に戦い功績を挙げたいものである)

烽火動沙漠,連照甘泉雲。

秋になって、匈奴が北辺に入寇したというので、烽火がゴビの砂漠のほとりにあがると、つぎつぎに伝えられ、雲まで照らして甘泉宮にまでとどく。

漢皇按劍起,還召李將軍。

漢家の天子は赫怒され、剣に手をかけて起ち上られ、又もや李廣李将軍のような名将軍を召されて、急きょその地に赴き是を、これを防がしめる。

兵氣天上合,鼓聲隴底聞。

戦争のきざしが天の上でおこったとすれば、太鼓の音が陝西と甘粛のさかいにある大きな坂、山隴の下まで響き渡って聞こえる。

橫行負勇氣,一戰淨妖氛。

従軍することになれば、平生の勇気を恃んで、匈奴の中を縦横無尽に横行し、妖氛を鎮め、必ず匈奴を追いまくりたいと思っている。

 

(塞下曲,六首の六)

蜂火 沙漠に動き、連【しき】りに照らす 甘泉の雲。

漢皇 剣を按じて起ち、還た 召す 李将軍。

兵気 天上に合し、鼓声 隴底に聞こゆ。

横行して 勇気を負い、一戦 妖氛を静めん。

塞上曲

大漢無中策,匈奴犯渭橋。五原秋草綠,胡馬一何驕。

命將征西極,橫行陰山側。燕支落漢家,婦女無華色。

轉戰渡黃河,休兵樂事多。蕭條清萬里,瀚海寂無波。


○韻 雲、軍、官、氛。
安史の乱期 勢力図 002 

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李白  塞下曲,六首之五

塞虜乘秋下,天兵出漢家。將軍分虎竹,戰士臥龍沙。

邊月隨弓影,胡霜拂劍花。玉關殊未入,少婦莫長嗟。

(なぜ出征しなければいけないのか、どうやって徴発するのか、軍中の秋景を述べ、翻って少婦の怨嗟する情をのべた)

秋の季節になると、国境のえびす、匈奴は、西風に乗るかのように邊塞にきまって「下り」また「入寇」する。漢の朝廷はこれを征伐するために「天兵」といわれる天子の軍隊を差し向けられる。将軍は、天子から軍兵徴発の用の銅虎符、軍兵以外徴発の用に充てられる竹使符をいただき、兵隊は白竜堆の砂漠、ゴビの砂漠で夜営する。軍中の秋景といえば国境の三日月は、弓の影のようにまるく、砂漠の霜は、剣、武具、甲冑の上に降りかかって花を咲かせる。しかし、出征してこの地に来たものは、生きて帰り、再び玉門関に入ろうなど、思いもよらぬことだから、閨中のわかい嫁は、その夫を思って長いため息をつかないわけにはいくまい。この征夫と少婦とをこのような状態にしたのは、だれなのか、しかしどうにもならないことなのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-32

卷別:    卷一六四              文體:    樂府

詩題:    塞下曲,六首之五

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門  

 

 

塞下曲,六首之五

(なぜ出征しなければいけないのか、どうやって徴発するのか、軍中の秋景を述べ、翻って少婦の怨嗟する情をのべた)

塞虜乘秋下,天兵出漢家。

秋の季節になると、国境のえびす、匈奴は、西風に乗るかのように邊塞にきまって「下り」また「入寇」する。漢の朝廷はこれを征伐するために「天兵」といわれる天子の軍隊を差し向けられる。
將軍分虎竹,戰士臥龍沙。

将軍は、天子から軍兵徴発の用の銅虎符、軍兵以外徴発の用に充てられる竹使符をいただき、兵隊は白竜堆の砂漠、ゴビの砂漠で夜営する。

邊月隨弓影,胡霜拂劍花。

軍中の秋景といえば国境の三日月は、弓の影のようにまるく、砂漠の霜は、剣、武具、甲冑の上に降りかかって花を咲かせる。

玉關殊未入,少婦莫長嗟。

しかし、出征してこの地に来たものは、生きて帰り、再び玉門関に入ろうなど、思いもよらぬことだから、閨中のわかい嫁は、その夫を思って長いため息をつかないわけにはいくまい。この征夫と少婦とをこのような状態にしたのは、だれなのか、しかしどうにもならないことなのである。

(塞下曲,六首の五)

塞虜 秋に乘じて下り,天兵 漢家を出づ。

將軍は虎竹を分かち,戰士は龍沙に臥す。

邊月 弓影に隨い,胡霜 劍花を拂う。
玉關 殊に未だ入らず,少婦 長嗟すること莫れ


李白の足跡0000

『塞下曲,六首之五』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

塞下曲,六首之五

塞虜乘秋下,天兵出漢家。

將軍分虎竹,戰士臥龍沙。

邊月隨弓影,胡霜拂劍花。

玉關殊未入,少婦莫長嗟。

(下し文)
(塞下曲,六首の五)

塞虜 秋に乘じて下り,天兵 漢家を出づ。

將軍は虎竹を分かち,戰士は龍沙に臥す。

邊月 弓影に隨い,胡霜 劍花を拂う。
玉關 殊に未だ入らず,少婦 長嗟すること莫れ。


(現代語訳)
塞下曲,六首之五(なぜ出征しなければいけないのか、どうやって徴発するのか、軍中の秋景を述べ、翻って少婦の怨嗟する情をのべた)

秋の季節になると、国境のえびす、匈奴は、西風に乗るかのように邊塞にきまって「下り」また「入寇」する。漢の朝廷はこれを征伐するために「天兵」といわれる天子の軍隊を差し向けられる。
将軍は、天子から軍兵徴発の用の銅虎符、軍兵以外徴発の用に充てられる竹使符をいただき、兵隊は白竜堆の砂漠、ゴビの砂漠で夜営する。

軍中の秋景といえば国境の三日月は、弓の影のようにまるく、砂漠の霜は、剣、武具、甲冑の上に降りかかって花を咲かせる。

しかし、出征してこの地に来たものは、生きて帰り、再び玉門関に入ろうなど、思いもよらぬことだから、閨中のわかい嫁は、その夫を思って長いため息をつかないわけにはいくまい。この征夫と少婦とをこのような状態にしたのは、だれなのか、しかしどうにもならないことなのである。


(訳注)

塞下曲,六首之五

(古代西域では、東胡と月氏が強盛であった。これらの國は、南下するのに衝突し漢の孝文帝の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺されたが、いまだに枕を高くして眠れるときは少ない。)

出塞、入塞等の曲は、漢代に李延年が造ったが、唐になると、塞上、塞下等の諸曲がついで起って、いづれも邊塞の事を歌って居る。元来、出塞、入塞等は、主として従軍中に於ける悲愴凄惨の意をうつして居るが、李白の此曲は、非常に雄壮なる調子である。開元,天寶の盛時に於で、哥舒翰、安緑山等は、吐蕃回紇と大戦を試みたことがあって、この詩の作は、恰もその時にあたって居るから、すこしも、悲哀の意を帯びず、いわば兵士を鼓舞するような精神を以てしたのである。この六首はほぼ、順序だっていて、意味が一貫している。

 

塞虜乘秋下,天兵出漢家。

秋の季節になると、国境のえびす、匈奴は、西風に乗るかのように邊塞にきまって「下り」また「入寇」する。漢の朝廷はこれを征伐するために「天兵」といわれる天子の軍隊を差し向けられる。
○この詩は唐詩選にとられている。

【1】  塞虜乘秋下 匈奴は寒くなると南下し、「入寇」する。西方からはその地が長安、中元から見て天上のように高いから「下る」という。・塞虜 国境のえびす。匈奴をののしって言った言葉。

【2】  天兵 天子の軍隊。

【3】  漢家 漢の朝廷。歴代の王朝家。ここではそうした歴代王朝の礎の下の唐王朝を言う。

 

將軍分虎竹,戰士臥龍沙。
将軍は、天子から軍兵徴発の用の銅虎符、軍兵以外徴発の用に充てられる竹使符をいただき、兵隊は白竜堆の砂漠、ゴビの砂漠で夜営する。

【4】  虎竹 兵士を徴発する時に用いる剖符。銅片又は竹片を用い、虎の形を刻み、まっぷたつに割り、半分はみやこに留め、あと半分は各地の将軍にあたえる。「牌符」或いは「符節」とは、本来、権威の表象を目的として作られた一種の「タプレット」の謂であり、古くから中國に打われた制度であるか、時代に従って、その名称と形状を異にしている。その用途としては、例えば、信任状とし乙肩車・大守に与え、或いは、使者に給して軍兵・驛馬徴発の権限を賦與する證票としたものである。漢書に「銅虎符は軍兵徴発の用に、竹使符は軍兵以外徴発の用に充てられ、この他、驛馬徴発のため公用旅行者に授けた「木傅信」、関門出入の證票として一般旅行者に與えた「繻符」の制があった。 銅虎符は、鑄銅製であり、虎形を作っている。羅振玉の「歴代符牌圖録」に収めてある「桂陽大守虎符」等の八個の拓本は、均しくこの銅虎符である。 符は素より信任状の用をなすのであるか、右牛・左半の二片に作られ京師にその右半を留め、左半を地方長官に交付した。軍兵を地方に徴する時、朝廷は右半を使臣に與え、使臣はこれを携えて地方に赳くのであるか、長官は自らの所持する左半と勘合し、始めて正常の使臣であることを承認するのである。  

【5】  竜沙 白竜堆の砂漠、つまり今の蒙古のゴビの砂漠。

 

邊月隨弓影,胡霜拂劍花
軍中の秋景といえば国境の三日月は、弓の影のようにまるく、砂漠の霜は、剣、武具、甲冑の上に降りかかって花を咲かせる。

【6】  胡霜 胡地の霜

【7】  邊月 国境の月。三日月を言う。

 

玉關殊未入,少婦莫長嗟。
しかし、出征してこの地に来たものは、生きて帰り、再び玉門関に入ろうなど、思いもよらぬことだから、閨中のわかい嫁は、その夫を思って長いため息をつかないわけにはいくまい。この征夫と少婦とをこのような状態にしたのは、だれなのか、しかしどうにもならないことなのである。

【8】  玉関 玉門関の略。中国本部からの出口に当る関所。甘粛省の西北端にあり、現在は油田開発の町。当時はここを出て戦地に行けば、ちょっと戻れない。

【9】  少婦 わかいよめ。

 長安城図 作図00

塞下曲,六首之五

塞虜乘秋下,天兵出漢家。

將軍分虎竹,戰士臥龍沙。

邊月隨弓影,胡霜拂劍花。

玉關殊未入,少婦莫長嗟。(塞下曲,六首の五)

塞虜 秋に乘じて下り,天兵 漢家を出づ。

將軍は虎竹を分かち,戰士は龍沙に臥す。

邊月 弓影に隨い,胡霜 劍花を拂う。
玉關 殊に未だ入らず,少婦 長嗟すること莫れ。

 

【字解】

  塞虜乘秋下 匈奴は寒くなると南下し、「入寇」する。西方からはその地が長安、中元から見て天上のように高いから「下る」という。・塞虜 国境のえびす。匈奴をののしって言った言葉。

  天兵 天子の軍隊。漢家 漢の朝廷。歴代の王朝家。ここではそうした歴代王朝の礎の下の唐王朝を言う。

   虎竹 兵士を徴発する時に用いる剖符。銅片又は竹片を用い、虎の形を刻み、まっぷたつに割り、半分はみやこに留め、あと半分は各地の将軍にあたえる。「牌符」或いは「符節」とは、本来、権威の表象を目的として作られた一種の「タプレット」の謂であり、古くから中國に打われた制度であるか、時代に従って、その名称と形状を異にしている。その用途としては、例えば、信任状とし乙肩車・大守に与え、或いは、使者に給して軍兵・驛馬徴発の権限を賦與する證票としたものである。漢書に「銅虎符は軍兵徴発の用に、竹使符は軍兵以外徴発の用に充てられ、この他、驛馬徴発のため公用旅行者に授けた「木傅信」、関門出入の證票として一般旅行者に與えた「繻符」の制があった。 銅虎符は、鑄銅製であり、虎形を作っている。羅振玉の「歴代符牌圖録」に収めてある「桂陽大守虎符」等の八個の拓本は、均しくこの銅虎符である。 符は素より信任状の用をなすのであるか、右牛・左半の二片に作られ京師にその右半を留め、左半を地方長官に交付した。軍兵を地方に徴する時、朝廷は右半を使臣に與え、使臣はこれを携えて地方に赳くのであるか、長官は自らの所持する左半と勘合し、始めて正常の使臣であることを承認するのである。

  竜沙 白竜堆の砂漠、つまり今の蒙古のゴビの砂漠。

  胡霜 胡地の霜。

  邊月 国境の月。三日月を言う。 

  玉関 玉門関の略。中国本部からの出口に当る関所。甘粛省の西北端にあり、現在は油田開発の町。当時はここを出て戦地に行けば、ちょっと戻れない。

  少婦 わかいよめ。

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