漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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2016年01月

743年(70)李太白集卷十六23-《送白利從金吾董將軍西征》(西羌延國討,) 389Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(70) Ⅰ李白詩1745 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7265

李白  送白利從金吾董將軍西征

西羌延國討,白起佐軍威。劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。抗手凜相顧,寒風生鐵衣。

(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

743年(70

送白利從金吾董將軍西征

kanbuniinkai紀頌之の

漢詩ブログ7265

李太白集

卷十六23

389

Index-23-2

743年天寶二年43歳 94-70

 

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-70

卷別:    卷一七六              文體:    五言律詩

詩題:    送白利從金吾董將軍西征

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:白利          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

董將軍    詩文提及

 

 

送白利從金吾董將軍西征

(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

西羌延國討,白起佐軍威。

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。

劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。

馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。

抗手凜相顧,寒風生鐵衣。

何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

白利の金吾董將軍に從って西征するを送る)

西羌 國討を延べ,白起 軍威を佐く。

劍は決す 浮雲の氣,弓は彎く 明月の輝。

馬 行いて 邊草綠なり,旌 卷いて 曙霜飛ぶ。

手を抗げて 凜として相い顧みれば,寒風 鐵衣に生ず。

 

『送白利從金吾董將軍西征』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送白利從金吾董將軍西征

西羌延國討,白起佐軍威。

劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。

抗手凜相顧,寒風生鐵衣。
詩文(含異文)

西羌延國討,白起佐軍威。劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛【旗卷曙霜飛】。抗手凜相顧,寒風生鐵衣。


(下し文)

白利の金吾董將軍に從って西征するを送る)

西羌 國討を延べ,白起 軍威を佐く。

劍は決す 浮雲の氣,弓は彎く 明月の輝。

馬 行いて 邊草綠なり,旌 卷いて 曙霜飛ぶ。

手を抗げて 凜として相い顧みれば,寒風 鐵衣に生ず。

(現代語訳)
送白利從金吾董將軍西征(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。

かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。

馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。

何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

安史の乱期 勢力図 002長安皇城宮城00
(訳注)

送白利從金吾董將軍西征

(秦の白起ともいうべき白利君が、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送る詩)

唐書百官志に「左右金吾衞上将軍各々一人、将軍各々二人」とある。董将軍は、名字不詳。この詩は、白利というものが、金吾将軍董某に従って、西羌征討に出かけるのを送って作ったものである。

これは五言律詩で、中間両聯が叙景、即ち実事であるところに、内容が充実したように見える。それから、白起は、同姓の故を以て点醒したので、例の慣用手段である。結句二句は、邊庭苦寒の状を述べて、従軍者を勗励したものである。

 

西羌延國討,白起佐軍威。

西域の羌といわれる吐蕃は、国際的征伐として、数しば兵を動かしたが、のびのびに成って、まだ十分に片が付かない。そこで、今のたび、君は金吾將軍の幕府に参し、軍威を佐けて、愈いよ出兵することに成ったのである。

西羌 青海省は漢族からはチベット系の〈羌(きよう)〉族の住む地とされた。漢代には西羌とよばれ,西寧西方には臨羌県もおかれた。後漢には西平郡がおかれ,西寧は西都県に属し郡の治所となった。

《後漢書西羌傳》「西羌之本,出自三苗,姜姓之別也。其國近南嶽。及舜流四凶,徙之三危,河關之西南羌地是也。濱于賜支,至乎河首,撓地千里。賜支者,禹貢所謂析支者也。南接蜀、漢徼外蠻夷,西北接鄯善、車師諸國。所居無常,依隨水草。地少五穀,以牧為業。

 遅延。

白起 白 起(はく き、? - 紀元前25711月)は、中国・戦国時代末期の秦の武将。公孫起とも表記される。秦国郿県(現在の陝西省眉県)の出身。昭襄王に仕え、各地を転戦して趙・魏・楚などの軍に数々の勝利を収め、秦の領土拡大に貢献した。戰國四大名將(白起、廉頗、王翦、李牧)のうち最も勇壮な将軍であった。白起は用兵を善くし,史書に “敵を料り合變す,奇に出し窮めること無し,天下に聲震す”と 記載されている。他に一生征戰37年,百戦百勝まけしらずであり,戦国六國に敵として比するものはなかった。

 

劍決浮雲氣,弓彎明月輝。

かくて、莊子が剣について説いたように、剣を拂えば、浮雲の気を切るであろうし、弓を引けば、明月が輝いて居るというほど引き番えるのである。

劍決浮雲氣 莊子、雜篇劍》「運之无旁,上決浮雲,下地紀。(天子の剣は、上は浮雲を決り、下は地紀(大地の根本)を断つ。)とあるのにもとづくもの。

李白《古風,五十九首之三》「秦皇掃六合。虎視何雄哉。揮劍決浮云。諸侯盡西來。明斷自天。大略駕群才。收兵鑄金人。函谷正東開。」(秦皇 六合を掃いて、虎視 何ぞ 雄なる哉。 劍を揮って 浮云を決れば、諸侯 盡く西に來る。明斷 天よりき、大略 群才を駕す。 兵を收めて 金人を鑄【い】り、函谷 正に東に開く。)とある。

 

馬行邊草綠,旌卷曙霜飛。

馬の行くところには、西辺の地の草、なお緑に茂り、旌旗を巻けば、暁天の霜を吹き飛ばす想いがする。

 

抗手凜相顧,寒風生鐵衣。

何は兎もあれ、大沙漠の物凄じき景色は、おぼえず心を傷ましめるばかりであろうが、征軍の大将、士輩が、凛として身ぶるいをすることで、手をあげて相顧みつつある間に、寒風は颯として鐡衣に生ずる。この壮別に際し、願うは、苦寒に堪え、いち早く、栄誉、功勲を立てて天子にまみえて貰ひたいことである。

抗手凜相顧 凛として身ぶるいをすることで、手をあげて拝し、相顧みつつある間に~する。抗手とは手をあげて拝することをいう。《孔叢子》卷下〈儒服〉「子高游趙, 平原君客有鄒文、 季節者與子高相友善。 及將還魯, 故人訣既畢, 文節送行, 三宿臨別, 文節流涕交頤, 子高徒抗手而已, 分背就路。」(子高趙に游ぶ, 平原君の客に鄒文、 季節という者有り、子高と相い友善し。將に魯に還らんとするに及び, 故人訣れて既に畢る, 文節 送行, 三宿別に臨み, 文節 流涕頤に交り, 子高 徒らに抗手するのみ,背を分って路に就く。)とある。

鐵衣 将軍は寒風吹く中、鐵衣を輝かして百戦百勝し、帰ってきて朝堂に坐す天子にまみえるもであるという意味の語。《樂府詩集橫吹曲辭五木蘭詩》:朔氣傳金柝, 寒光照鐵衣。”とあり、「将軍百戰死,壯士十年歸。 歸來見天子,天子坐明堂。」(將軍は百戰して死し,壯士は十年して歸える。 歸り來れば天子に見ゆ,天子明堂に坐す。)ということに基づいている。
8世紀唐と周辺国00 

743年(69)李太白集卷十六21-《送族弟綰從軍安西》(漢家兵馬乘北風,) 388Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(69) Ⅰ李白詩1744 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7260

李白  送族弟綰從軍安西

漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。
(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。

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年:743年天寶二年43歳 94-69

卷別:    卷一七六              文體:    七言律詩

詩題:    送族弟綰從軍安西

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              安西都護府 (隴右道西部 無第二級行政層級 安西都護府) 別名:安西幕府

葡萄宮 (京畿道 京兆府 長安)           

交遊人物/地點:李綰          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送族弟綰從軍安西

(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。

爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。

今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。

匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。

やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。

(族弟綰の安西に從軍するを送る)

漢家の兵馬 北風に乘じ,鼓行して西し 犬戎を破る。

爾 漢將に隨って門を出でて去り,虜を剪ること草の若く奇功を收む。

君王 劍を按じて邊色を望めば,旄頭 已に落ちて 胡天空し。

匈奴 頸を繫いで 數 應に盡すべし,明年 應に入るべし 葡萄宮に。

 

『送族弟綰從軍安西』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送族弟綰從軍安西

漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。

爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。

匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。
詩文(含異文)     漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。君王按劍望邊色【君王按劍望邊邑】,旄頭已落胡天空。匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。


(下し文)
(族弟綰の安西に從軍するを送る)

漢家の兵馬 北風に乘じ,鼓行して西し 犬戎を破る。

爾 漢將に隨って門を出でて去り,虜を剪ること草の若く奇功を收む。

君王 劍を按じて邊色を望めば,旄頭 已に落ちて 胡天空し。

匈奴 頸を繫いで 數 應に盡すべし,明年 應に入るべし 葡萄宮に。

(現代語訳)
送族弟綰從軍安西(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。

汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。

今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。

やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。


(訳注)

送族弟綰從軍安西

(安西都護府に従軍して赴く族弟綰を送る詩)

族弟綰、一に琯に作る。安西は、通典に「安西都護府は、本と亀玆國なり、大唐明慶中に置く。東、焉耆に接し、西、疏勒に連なり、南、吐蕃に鄰り、北、突厥を拒ぐ」とある。すると、この詩は、族弟李綰といふものが、従軍して安西都護府に赴くを送って作ったのである。

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漢家兵馬乘北風,鼓行而西破犬戎。

今や、中国の兵馬は、北風に乗じて、勢すさまじく、そして、鼓を打撃ちつつ、西に向って進行し、必ず西戎を破って見せるという手筈である。

漢家 唐王朝の義、中国という意。

鼓行 西域の戦いに進行する出征兵士の戦意を鼓舞する鼓。漢書 項籍傳 「我引兵鼓行而西,必舉秦矣。」(我 兵を引いて、鼓行して西せば,必ず秦を舉げん。)

犬戎 西戎のこと。西戎あるいは戎および犬戎は、四夷の一つ。中国西部に住んでいた遊牧民族で、たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行ったことから、西戎という言葉に蔑んだ意味合いを込めている。古代中国人がトルコ族・チベット族など西方の異民族を称した語。

 

爾隨漢將出門去,剪虜若草收奇功。

汝は、中国の大将軍に従う為に門を出でて従軍し、胡虜を斬ること草を薙ぐが如く、十分に奇功を収めることができるようである。

 

君王按劍望邊色,旄頭已落胡天空。

今しも、天子は、剣に手をかけて、辺境の風色をのぞまれ、折しも旄頭の星、地に落ちて、胡天寥闊、物もないのである。

邊色 邊塞地の景色。

旄頭 星名。二十八星宿之一,白虎七宿の第四星と為す。昴星。すばるぼし(六連星:異称)おうし座17番星、戦に吉兆。(神仏詣で・祝い事・開店に吉)《漢書.卷二六.天文志》:「昴を旄頭と曰う,胡星なり,白衣の會を為す。」とある。

 

匈奴繫頸數應盡,明年應入葡萄宮。

やがて、匈奴は、球数繋ぎに首を縛られ、あらん限りの数を尽くし、明年、これをかりたてて葡萄宮に入朝するだろうといって、待って居られる。汝等も、そのつもりで、一身を投げ打って、奮闘し、天子の予期せらるるところに負かぬ様にして欲しい。

匈奴繫頸 《漢書》卷四十八《賈誼傳》「陛下何不試以臣為屬國之官以主匈奴?行臣之計,請必系單于之頸而制其命,伏中行而笞其背,舉匈奴之眾唯上之令。」(陛下 何ぞ試みに臣を以て 屬國の官と為し以て匈奴を主らさん?臣の計を行はざる,請う必ず單于の頸を系ぎて其の命を制せん,中行の伏して其の背に笞ち,匈奴の眾を舉げ唯だ之の令を上る。)とある。

葡萄宮 葡萄宮 漢の上林苑にあった宮の名、唐の御苑内の宮をいうのに天子を指すことになるので、古い呼び名をかり用いる。事実は758年乾元元年八月、回紇が其の臣骨啜特勅及び帝徳をつかわし、驍騎三千をもって安慶緒を討つことを助けさせた。天子は、朔方左武鋒便僕国懐恩をして、これを領せしめたということがある。葡萄宮:漢元帝時,單于來朝,居上林苑葡萄宮。此指回紇長安住所。

《漢書》卷九十四下《匈奴傳下》

元壽二年,單于來朝,上以太厭勝所在,舍之上林苑蒲陶宮。告之以加敬於單于,單于知之。加賜衣三百七十襲,錦繡繒帛三萬匹,絮三萬斤,它如河平時。既罷,遣中郎將韓況送單于。單于出塞,到休屯井,北度車田盧水,道里回遠。況等乏食,單于乃給其糧,失期不還五十餘日。

杜甫       06-55 洗兵馬()》「京師皆騎汗血馬,回紇喂肉葡萄宮。」(京師【けいし】皆 騎【の】る汗血【かんけつ】の馬、回紇【かいこつ】肉を喂【い】す葡萄宮【ぶどうきゅう】。)長安のみやこでも回紇(ウイグル騎馬)の兵が援助にきて彼等はみな汗血の馬に騎り、葡萄宮の役割の御苑宮城ですべて養われつつあるのである。

743年(68)李太白集卷十六18-3-《送外甥鄭灌從軍,三首之三》(月蝕西方破敵時,) 387Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(68) Ⅰ李白詩1743 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7255

李白  送外甥鄭灌從軍,三首之三

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。

743年(68

送外甥鄭灌從軍,三首之三

387

743年天寶二年43歳 94-68

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李太白集
卷十六18-3

Index-23-2

 

 
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送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

送外甥鄭灌從軍,三首之二

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の二)

丈八の蛇矛 隴西を出づ,弧を彎き 箭を拂えば 白猿啼く。

胡を破る 必ず龍韜の策を用いよ,積甲 應に熊耳と齊しかるべし。

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-68

卷別:    卷一七六              文體:    七言

詩題:    送外甥鄭灌從軍,三首之三

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:鄭灌          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首之三

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。

斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の三)

月蝕 西方 敵を破るの時,瓜に及んで歸る日 未だ應に遲かるべからず。

胡を斬れば 血は變ず黃河の水,首を梟す 當に懸くべし 白鵲の旗。
8世紀唐と周辺国00

 

『送外甥鄭灌從軍,三首之三』現代語訳と訳註解説
(
本文)

送外甥鄭灌從軍,三首之三

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。

斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

(下し文)
(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の三)

月蝕 西方 敵を破るの時,瓜に及んで歸る日 未だ應に遲かるべからず。

胡を斬れば 血は變ず黃河の水,首を梟す 當に懸くべし 白鵲の旗。

(現代語訳)
送外甥鄭灌從軍,三首之三(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。

されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。


(訳注)

送外甥鄭灌從軍,三首之三

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その三

 

月蝕西方破敵時,及瓜歸日未應遲。

もうすぐ月蝕になるという、それは西方の敵を討つ時期が来たということを意味する、瓜期に及んで帰るという故事ということを言うが、まさにそのこと言っている秋の期日、規定がせまってきたということである。

14 月蝕 月蝕、英語: lunar eclipse)とは地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。望(満月)の時に起こる。 日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。ここでは、西域の異民族を打ち破る絶好の時期である。

15 及瓜歸日 瓜期(カキ):任期が終わった時。更代の時。→ 瓜時(カジ)。瓜の熟する時、陰暦七月。春秋、斉の襄公が連称と管至父とをして葵丘を戍(まも)らせ、瓜の熟する頃に遣して明年の瓜の熟する頃に更代(こうたい)させようと約した故事。転じて任期の満ちるとき。更代の時期。 《左傳·荘公八年》齊侯使連稱、管至父戍葵丘,瓜時而往,曰:“及瓜而代。"

 

斬胡血變黃河水,梟首當懸白鵲旗。

されば、速かに兵を進めて胡虜を斬り、その血をして、黄河の水を紅に染めることであり、やがて、首を梟して、吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗を懸けたらば善かろうとおもっている。

16 梟首 斬首した人の首を木にかけてさらすこと。また、その首。

17 白鵲旗 吉兆のしるしの白鵲の翅で飾った勝利の旗。白鵲白羽鵲。 古時以為瑞鳥。 《舊唐書五行志》「貞觀初, 白鵲巢於殿庭之槐樹, 其巢合歡如腰鼓, 左右稱賀。」

 

 安史の乱期 勢力図 002

 

 

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首 【字解】

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

前半は博戯を以て功名に此し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、縁起よく祝ったのである。

2 六博 紀元前後の漢時代を中心に戦国時代から魏晋時代に流行した2人用の盤上遊戯。 340cm四方の盤上で、さいころを使って各自12個の駒を進める。 盤にはアルファベットのLやTのような記号が描かれているが、複数の種類が発見されている。 駒を進めるためにはさいころを用いるが、6本の棒状のものや18面体のものが発見されている。双六のようなレースゲームであるという説と、駒を取り合う戦争ゲームであるという説がある。多くはふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれるというもの。李伯《猛虎行》「有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。」(有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。)そのとき六博の賭けごとに興じ快壯の気分になる。床を三回囘そして一回賽を投げろと連呼するのだ。”と、この詩と同じように使っている語である。

3 好彩 彩は賽の目の文を指したもので、黒白の色も以て別ち、雉犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といって投げ出し、そしてうまく中れば勝つので、仍って、その出た目を彩と名づけた。

4 金盤 双六の賽を投げ入れる青銅の盤。

5 一擲 一回賽を投げろと連呼する。

6 衣錦回 故郷に錦を飾る。《卷十六34送張遙之壽陽幕府》「勗爾效才略,功成衣錦還。」(爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。)一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

7 丈八蛇矛 一種矛, 長一丈八尺, 形狀像長槍。 晉書·卷一○三·劉曜載記:安左手奮七尺大刀, 右手執丈八蛇矛。”十六國春秋に「隴上の人、壮士の歌か作って日く、丈八蛇矛左右盤、十十決無當前」とある。・十蕩十決拼音:shi2 dang4 shi2 jue2 多次衝擊, 每次皆能衝破敵陣。 形容作戰驍勇。 樂府詩集·卷八十五·雜歌謠辭三·隴上歌: “驄父馬鐵鍛鞍, 七尺大刀奮如湍, 丈八蛇矛左右盤, 十蕩十決無當前。

8 隴西 隴西郡は中華人民共和国甘粛省にかつて存在した郡。漢代から隋初にかけて現在の甘肅省東南部に設置された。607年に設置された同名の隴西郡があるが、これは渭州を改称したものであり別の行政区画である。 隴西郡が初めて設置されたのは秦初に三十六郡が設置された際である。

9 彎弧 (弯弧)木の弓のこと。 《太平廣記》卷三二五引南朝梁任昉《述异記薄紹之》「有一人, 披錦袍, 彎弧注鏃, 直向紹之。」

10 拂箭 木の弓を放つ

11 白猿啼 春秋時代の弓の名人。楚の荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は殿(しんがり)をつとめ1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。生没年未詳。養由。《淮南子》卷十六〈山訓〉「楚王有白蝯,王自射之,則搏矢而熙;使養由基射之,始調弓矯矢,未發而蝯擁柱號矣,有先中中者也。(楚王白蝯有り,王 自ら之を射れば,則ち矢を搏って熙ぶ;使養由基をして之を射らしむ,始め弓を調へ矢を矯む,未だ發せざるにして蝯 柱を擁して號ばん,先に中る有るは中る者なり。)

12 龍韜策 古代の兵法書。《六韜》と《三略》のこと。《六韜》は周の功臣太公望の著とされ,《三略》は漢の功臣張良が黄石公から授かったとされるが仮託である。兵法七書中の2を占める。六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民(けいせいさいみん)の術、富国強兵の策を説くもので、第1巻は文韜12編・武韜5編、第2巻は龍(りゅう)13編・虎韜12編・第3巻には豹(ひょう)8編・犬(けん)10編、計360編からなり、文・武では治国、龍韜は奇変、虎韜は勇猛果断、豹韜は奇計、犬韜は突進を主題としている。三略は上略・中略・下略の3巻からなり、戦略の機微を上・中・下の三つに分かち、礼賞を設けて奸雄(かんゆう)を分かち、賢者を用いて国の安危を察し、将を御(ぎょ)して衆を暢()ぶるの道を明らかにしている。わが国では、934年(承平4)大江維時(おおえのこれとき)が唐から帰朝の際に持ち帰ったと伝え、以後大江家の兵法となり、源家(げんけ)の古伝(こでん)兵法に受け継がれたという。

13 積甲應將熊耳齊 兵甲堆疊如山。極言其多。《後漢書·劉盆子傳》赤眉軍は中国の新朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。この赤眉軍を平定した、後漢書に「積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。」とある故事をいう。劉秀は宜陽に行幸し、司馬を先鋒、中軍を次鋒とし、驍騎・元戎の陣列を左右に展開した。赤眉軍は恐怖におののき、劉恭を使者として降服を願い出て、劉盆子・徐宣らの二十人あまりは着物を脱いで更始帝の璽綬を献上し、宜陽の城西に積みあげられた武具は熊耳山と同じ高さになった。

《後漢書·劉盆子傳》「赤眉忽遇大軍,驚震不知所謂,乃遣劉恭乞降曰:“盆子將百萬衆降陛下,何以待之?”帝曰:“待汝以不死耳!”丙午,盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降,上所得傳國璽綬。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。後漢書に「赤眉、忽ち大軍に遇ひ、驚震、為すところを知らず、乃ち劉恭を遣わして降を乞う。兵甲を宜陽城西に積んで、熊耳山と斉し」とある。

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李白  送外甥鄭灌從軍,三首之二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

743年(67

送外甥鄭灌從軍,三首之二

386

743年天寶二年43歳 94-67

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李太白集
卷十六18-2

Index-23-2

 

 
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送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

 

年:743年天寶二年43歳 94-67) 

卷別:    卷一七六              文體:    七言

詩題:    送外甥鄭灌從軍,三首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              隴西 (隴右道東部 渭州 隴西)           

熊耳山 (都畿道 河南府 熊耳山)       

交遊人物/地點:鄭灌          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首之二

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の二)

丈八の蛇矛 隴西を出づ,弧を彎き 箭を拂えば 白猿啼く。

胡を破る 必ず龍韜の策を用いよ,積甲 應に熊耳と齊しかるべし。

 

『送外甥鄭灌從軍,三首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送外甥鄭灌從軍,三首之二

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

(下し文)
(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の二)

丈八の蛇矛 隴西を出づ,弧を彎き 箭を拂えば 白猿啼く。

胡を破る 必ず龍韜の策を用いよ,積甲 應に熊耳と齊しかるべし。


(現代語訳)
送外甥鄭灌從軍,三首之二(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。


(訳注)

送外甥鄭灌從軍,三首之二

送外甥鄭灌從軍,三首之二

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)その二

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

【餘論】この首は、毎句に故事を用いて居るが、善く融化して、少しも、わざとらしい處のないのは、

 

 

丈八蛇矛出隴西,彎弧拂箭白猿啼。

汝は、一丈八尺もある大きな蛇矛をたずさえて、しづしづと隴西から出てきたので、さながら、音に聞く古しえの壮士の通りであり、そして、弓を引き搾り、箭をはなって番うと、むかしの養由基を其の儘に、白猿は驚いて泣き叫ぶのである。

7 丈八蛇矛 一種矛, 長一丈八尺, 形狀像長槍。 晉書·卷一○三·劉曜載記:安左手奮七尺大刀, 右手執丈八蛇矛。”十六國春秋に「隴上の人、壮士の歌か作って日く、丈八蛇矛左右盤、十十決無當前」とある。・十蕩十決拼音:shi2 dang4 shi2 jue2 多次衝擊, 每次皆能衝破敵陣。 形容作戰驍勇。 樂府詩集·卷八十五·雜歌謠辭三·隴上歌: “驄父馬鐵鍛鞍, 七尺大刀奮如湍, 丈八蛇矛左右盤, 十蕩十決無當前。

8 隴西 隴西郡は中華人民共和国甘粛省にかつて存在した郡。漢代から隋初にかけて現在の甘肅省東南部に設置された。607年に設置された同名の隴西郡があるが、これは渭州を改称したものであり別の行政区画である。 隴西郡が初めて設置されたのは秦初に三十六郡が設置された際である。

9 彎弧 (弯弧)木の弓のこと。 《太平廣記》卷三二五引南朝梁任昉《述异記薄紹之》「有一人, 披錦袍, 彎弧注鏃, 直向紹之。」

10 拂箭 木の弓を放つ

11 白猿啼 春秋時代の弓の名人。楚の荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったともいう。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという。また共王が戦に敗れたとき、養由基は殿(しんがり)をつとめ1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう。生没年未詳。養由。《淮南子》卷十六〈山訓〉楚王有白蝯,王自射之,則搏矢而熙;使養由基射之,始調弓矯矢,未發而蝯擁柱號矣,有先中中者也。(楚王白蝯有り,王 自ら之を射れば,則ち矢を搏って熙ぶ;使養由基をして之を射らしむ,始め弓を調へ矢を矯む,未だ發せざるにして蝯 柱を擁して號ばん,先に中る有るは中る者なり。)

 

破胡必用龍韜策,積甲應將熊耳齊。

汝の材武、かくの如く、今次従軍をすれば、必ず大功を立てるに相違ない。但し、胡虜を破るには、太公が龍轁に論じた《六韜》と《三略》を用いて、正正堂堂の陣を張るべく、かくて、胡虜が降服する時は、丁度、赤眉軍が兵甲を釋き、これを積み上げたら、熊耳山とひとしかったというように定めて目ざましい働きをすることであろう。

12 龍韜策 古代の兵法書。《六韜》と《三略》のこと。《六韜》は周の功臣太公望の著とされ,《三略》は漢の功臣張良が黄石公から授かったとされるが仮託である。兵法七書中の2を占める。六韜は周の文王・武王の問いに対し、呂尚が経世済民(けいせいさいみん)の術、富国強兵の策を説くもので、第1巻は文韜12編・武韜5編、第2巻は龍(りゅう)13編・虎韜12編・第3巻には豹(ひょう)8編・犬(けん)10編、計360編からなり、文・武では治国、龍韜は奇変、虎韜は勇猛果断、豹韜は奇計、犬韜は突進を主題としている。三略は上略・中略・下略の3巻からなり、戦略の機微を上・中・下の三つに分かち、礼賞を設けて奸雄(かんゆう)を分かち、賢者を用いて国の安危を察し、将を御(ぎょ)して衆を暢()ぶるの道を明らかにしている。わが国では、934年(承平4)大江維時(おおえのこれとき)が唐から帰朝の際に持ち帰ったと伝え、以後大江家の兵法となり、源家(げんけ)の古伝(こでん)兵法に受け継がれたという。

13 積甲應將熊耳齊 兵甲堆疊如山。極言其多。《後漢書·劉盆子傳》赤眉軍は中国の新朝末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。この赤眉軍を平定した、後漢書に「積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。」とある故事をいう。劉秀は宜陽に行幸し、司馬を先鋒、中軍を次鋒とし、驍騎・元戎の陣列を左右に展開した。赤眉軍は恐怖におののき、劉恭を使者として降服を願い出て、劉盆子・徐宣らの二十人あまりは着物を脱いで更始帝の璽綬を献上し、宜陽の城西に積みあげられた武具は熊耳山と同じ高さになった。

《後漢書·劉盆子傳》「赤眉忽遇大軍,驚震不知所謂,乃遣劉恭乞降曰:“盆子將百萬衆降陛下,何以待之?”帝曰:“待汝以不死耳!”丙午,盆子及丞相徐宣以下三十餘人肉袒降,上所得傳國璽綬。積兵甲宜陽城西,與熊耳山齊。後漢書に「赤眉、忽ち大軍に遇ひ、驚震、為すところを知らず、乃ち劉恭を遣わして降を乞う。兵甲を宜陽城西に積んで、熊耳山と斉し」とある。

 

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首 【字解】

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

前半は博戯を以て功名に此し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、縁起よく祝ったのである。

2 六博 紀元前後の漢時代を中心に戦国時代から魏晋時代に流行した2人用の盤上遊戯。 340cm四方の盤上で、さいころを使って各自12個の駒を進める。 盤にはアルファベットのLやTのような記号が描かれているが、複数の種類が発見されている。 駒を進めるためにはさいころを用いるが、6本の棒状のものや18面体のものが発見されている。双六のようなレースゲームであるという説と、駒を取り合う戦争ゲームであるという説がある。多くはふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれるというもの。李伯《猛虎行》「有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。」(有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。)そのとき六博の賭けごとに興じ快壯の気分になる。床を三回囘そして一回賽を投げろと連呼するのだ。”と、この詩と同じように使っている語である。

3 好彩 彩は賽の目の文を指したもので、黒白の色も以て別ち、雉犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といって投げ出し、そしてうまく中れば勝つので、仍って、その出た目を彩と名づけた。

4 金盤 双六の賽を投げ入れる青銅の盤。

5 一擲 一回賽を投げろと連呼する。

6 衣錦回 故郷に錦を飾る。《卷十六34送張遙之壽陽幕府》「勗爾效才略,功成衣錦還。」(爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。)一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

743年(66)李太白集卷十六18-1-《送外甥鄭灌從軍,三首之一》(六博爭雄好彩來,) 385Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(66) Ⅰ李白詩1741 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7245

李白  送外甥鄭灌從軍,三首之一

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。
(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

743年(66

送外甥鄭灌從軍,三首之一

385

743年天寶二年43歳 94-66

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李太白集
卷十六18-1

Index-23-2

 

 

年:743年天寶二年43歳 94-66

卷別:    卷一七六              文體:    七言

詩題:    送外甥鄭灌從軍,三首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:鄭灌          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

京兆地域図002 

『送外甥鄭灌從軍,三首之一』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送外甥鄭灌從軍,三首之一

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

(下し文)

(外甥の鄭灌の從軍するを送る,三首の一)

六博 雄を爭って 好彩 來れば,金盤一擲 萬人開く。

丈夫 命を賭して 天子に報ず,當に胡頭を斬り 錦を衣て回るべし。

(現代語訳)
送外甥鄭灌從軍,三首之一(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

大明宮の圖003
(訳注)

送外甥鄭灌從軍,三首之一

(外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作った詩)

1 外甥鄭灌 外甥といえば、母方の甥で、つまり、母の姉妹の子である。この詩は、外甥の一人鄭灌というものの従軍を送って作ったのであるが、鄭灌の名字閲歴等は、一切分らない。

前半は博戯を以て功名に此し、後半は、賭命の賭の字を以て之を受け、そして、縁起よく祝ったのである。

 

六博爭雄好彩來,金盤一擲萬人開。

たとへば、六博の戯をなして雄をあらそうように、よい賽の目が出てくれれば、「金盤一擲」と声をあげて大きな賭けをして、たちまち大もうけをなして、萬人を驚かすことも出来る。

2 六博 紀元前後の漢時代を中心に戦国時代から魏晋時代に流行した2人用の盤上遊戯。 340cm四方の盤上で、さいころを使って各自12個の駒を進める。 盤にはアルファベットのLやTのような記号が描かれているが、複数の種類が発見されている。 駒を進めるためにはさいころを用いるが、6本の棒状のものや18面体のものが発見されている。双六のようなレースゲームであるという説と、駒を取り合う戦争ゲームであるという説がある。多くはふた組に分かれて酒を賭け、馳せゆく時の間に酔いしれるというもの。李伯《猛虎行》「有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。」(有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。)そのとき六博の賭けごとに興じ快壯の気分になる。床を三回囘そして一回賽を投げろと連呼するのだ。”と、この詩と同じように使っている語である。

3 好彩 彩は賽の目の文を指したもので、黒白の色も以て別ち、雉犢の物を以て別つは、皆彩である。何の色といって投げ出し、そしてうまく中れば勝つので、仍って、その出た目を彩と名づけた。

4 金盤 双六の賽を投げ入れる青銅の盤。

5 一擲 一回賽を投げろと連呼する。

 

丈夫賭命報天子,當斬胡頭衣錦回。

今、汝は従軍するとのことであるが、天晴、丈夫たるもの、その身命を賭して、天子に報いることを心がけるべく、そうすれば、うまい場合にめぐり合い、胡人の頭を斬って、大功を立て、やがて、錦衣を着て凱旋することもできるので、必ずかくあれかしと𧄍望する次第である。

6 衣錦回 故郷に錦を飾る。《卷十六34送張遙之壽陽幕府》「勗爾效才略,功成衣錦還。」(爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。)一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

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李白  送張遙之壽陽幕府 #2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。勗爾效才略,功成衣錦還。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

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年:743年天寶二年43歳 94-65

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送張遙之壽陽幕府

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              壽州 (淮南道 壽州 壽州) 別名:壽陽             

八公山 (淮南道 壽州 八公山)           

交遊人物/地點:張遙          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

投軀紫髯將,千里望風顏。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

勗爾效才略,功成衣錦還。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

 

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

#2

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。

 

『送張遙之壽陽幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。

勗爾效才略,功成衣錦還。

(下し文)
#2

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。

(現代語訳)
#2

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しえの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。


(訳注) #2

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

《新唐書·卷三十一·地理五》:「壽州壽春郡,中都督府。本淮南郡,天寶元年更名。」「淮南道に壽州あり、壽春羣・蓋寿都中都督府、本と淮南部、天寶元年、名を更む」とある。王琦の説に「按するに、壽春の名は、本と戦国よりす。史記楚世家、考烈王、都を壽春に徙す。正義に日く、壽春は南壽州縣に在りと。是れなり。壽陽の名は、東晉より起る。通典、東晋、鄭皇后の諱を以て、壽春を改めて壽陽といひ、宜春を宜陽といひ、富春を富陽といひ、凡そ春と名がつくるものは、悉く之を改む。唐時、壽春と名づけ、太白壽陽を用ふるは、蓋し旧名を襲用するのみ」といった。それから、幕府は、史記索隠に「凡そ将軍、これを幕府と謂うは、蓋し兵門合わせて帷帳を施す、故に幕府と称す。崔浩日く、古しへ出征して将帥たり、軍、還れば罷む、理、常處なし、幕奕を以て府署となす、故に幕府といふ」とある。すると、この詩は、張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作ったのである。

前八句は壽春が故事、後六句は迭別の正意で、両者の関係は、自然緊密である。

壽陽幕府 

壽陽、現在の寿県のこと。安徽省淮南市に位置する県である。安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。楚は秦の圧力に対抗するため、春申君の提言で寿春へ遷都し、寿春を「郢」と改める。楚の都城の遺跡は現在の寿県県城内にある。楚の滅亡後、秦代には寿春に改名され、三十六郡のひとつ九江郡の治所となった。漢の初期のころは外姓王の英布が淮南王に封じられその王都となっている。淮南王であった劉安はこの地で『淮南子』を著した。後漢末期、袁術は寿春を都に皇帝を称した。三国時代の魏の後期には相次いで大きな兵変が発生した。

東晋の時代、華北を制した前秦が南征を行い、寿春の八公山に至り淝水で東晋軍と激突した。これが淝水の戦いであり、前秦軍が総崩れになり壊走した。「投鞭断流」、「風声鶴唳」、「草木皆兵」などの故事成語はこの戦いが起源である。

隋および唐は寿春を寿州と改名した。当時、この地で興った「壽州窯」は古代中国の著名な陶器の生産地で、その産品は南北の風格を兼ね備え、朝野に広く受け容れられた。

 

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

麾下の戦士は、その勇悍なること、熊の如く、虎の如く、見事に敵を破り、しかも余裕綽々として居た。

熊虎 戦う姿が熊虎の様で、軀命を惜しまずというもの。

 

張子勇且英,少輕衛霍孱。

ここに、張遥は、勇鋭英俊であり、年少にして漢の武帝時代の衛青、霍去病の如き古しへの将軍をさえ、孱弱な者として之を軽んずる位であるという。

張子 張遥のこと。

衛霍孱 衛青、霍去病のこと。孱は、孱弱ということ。弱々しいこと。かよわいこと。また、そのさま。

去病 紀元前140 - 紀元前117年、Huò Qù-bìng)は、前漢の武帝時代の武将である。 父は、霍仲孺。異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光。

衛青は幼少時の苦労から、将軍になっても威張るようなことはなく、兵卒にも気軽に接していた。また、自殺に追い込んでしまった李広に負い目を感じてか、李広の息子の李敢に切りつけられても黙っていた(しかし霍去病はこれを聞きつけ怒り、李敢を殺害した)。

 

投軀紫髯將,千里望風顏。

かくて、今回、「碧眼紫髯」という孫権に比すべき名将の幕下に身を投じ、千里の遠きを馳せて、態態これに逢いに行くというので、汝に勧めるは他にいないというものである。

紫髯將 現在では孫権のことを「碧眼紫髯」と形容しているが、紫髯將というのがただしい。「献帝春秋」で張遼が孫権を「紫髯将軍」と述べている。

張遼 《献帝春秋》「張遼問降人、向有紫髯将軍、長上短下、便馬善射、是誰。降人答曰、是孫会稽。

 

勗爾效才略,功成衣錦還。

一たび、幕客となりし後は、十分に才略を致し、やがて、功成りし後は、錦を衣で故郷に帰れということである。

743年(65)李太白集卷十六13-《送張遙之壽陽幕府》(壽陽信天險,) 384Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(65) Ⅰ李白詩1739 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7235

李白  送張遙之壽陽幕府

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。
(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

743年(65)李太白集卷十六13-《送張遙之壽陽幕府》(壽陽信天險,) 384Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-65) Ⅰ李白詩1739 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7235

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-65

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送張遙之壽陽幕府

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              壽州 (淮南道 壽州 壽州) 別名:壽陽             

八公山 (淮南道 壽州 八公山)           

交遊人物/地點:張遙          當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

詩文:

 

 

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

#2

戰夫若熊虎,破敵有餘閒。

張子勇且英,少輕衛霍孱。

投軀紫髯將,千里望風顏。

勗爾效才略,功成衣錦還。

 

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

#2

戰夫 熊虎の若く,敵を破って餘閒有り。

張子 勇にして且つ英,少にして 輕んず衛霍の孱なるを。

軀を投ず 紫髯の將,千里 風顏を望む。

爾を勗【つと】む 才略を效【いた】し,功 成らば錦を衣て還れ。

 

『送張遙之壽陽幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送張遙之壽陽幕府

壽陽信天險,天險橫荊關。

苻堅百萬,遙阻八公山。

不假築長城,大賢在其間。

(下し文)

(張遙の壽陽幕府に之くを送る)

壽陽は信に天險たり,天險 荊關に橫たう。

苻堅 百萬の,遙に 八公の山を阻【へだ】。つ

長城を築く假らず,大賢 其の間に在り。

(現代語訳)
送張遙之壽陽幕府(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。


(訳注)

送張遙之壽陽幕府

(張遥といふものが、壽春に駐在する将軍の幕下に身を投せるが為に、はるばる壽春に出かけるに就いて、これを送る為に作った)

前八句は壽春が故事、後六句は迭別の正意で、両者の関係は、自然緊密である。

壽陽幕府 

壽陽、現在の寿県のこと。安徽省淮南市に位置する県である。安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。楚は秦の圧力に対抗するため、春申君の提言で寿春へ遷都し、寿春を「郢」と改める。楚の都城の遺跡は現在の寿県県城内にある。楚の滅亡後、秦代には寿春に改名され、三十六郡のひとつ九江郡の治所となった。漢の初期のころは外姓王の英布が淮南王に封じられその王都となっている。淮南王であった劉安はこの地で『淮南子』を著した。後漢末期、袁術は寿春を都に皇帝を称した。三国時代の魏の後期には相次いで大きな兵変が発生した。

東晋の時代、華北を制した前秦が南征を行い、寿春の八公山に至り淝水で東晋軍と激突した。これが淝水の戦いであり、前秦軍が総崩れになり壊走した。「投鞭断流」、「風声鶴唳」、「草木皆兵」などの故事成語はこの戦いが起源である。

隋および唐は寿春を寿州と改名した。当時、この地で興った「壽州窯」は古代中国の著名な陶器の生産地で、その産品は南北の風格を兼ね備え、朝野に広く受け容れられた。

 

壽陽信天險,天險橫荊關。

壽春城は、まことに天険で、南方の楚地、荊門から関門として続く天然の要害の地によって、まもられている。横たわっている。

壽陽 陽城。太平寰宇記「陽城臨淝水、北有八/公山、山北即淮水、自東晉至今、常為 要害之地。」陽城は淝水に臨み、北に八公山り、山北 即ち淮水 東晉より今に至るまで 常に要害の地為り。)とある。

信天險 まことに天に何もなく広がる青空の中でただ一つ鋭くたっている姿を言う。

天險橫荊關 その天険の地は、南方の楚地、荊門から続く天然の要害の地によって、まもられている。

 

苻堅百萬眾,遙阻八公山。

むかし、苻堅は、百万の衆を率いて、江南を挙げむとし、遥かに八公山を隔てて、ここに陣取った。

苻堅百萬眾 淝水の戦いをいう。3838月、苻堅は南北統一を目指して群臣の反対を押し切り、総勢100万と号する東晋討伐の軍を起こした。前秦軍は苻融の軍が寿春を落とすなど優勢だったが、漢族将軍でかつての東晋の梁州刺史朱序が「堅、敗れたり!」と叫んで苻堅を裏切り、さらに東晋軍の謝玄・謝石らに動揺した隙を突かれて大敗した。苻堅は流れ矢に当たって負傷しながらも弟の苻融と共に鮮卑族の慕容垂の軍勢によって守られて敗走したが、苻融は戦死した。《十六國春秋》 秦遣兵分道、寇晉  八月,以苻融為前鋒都督,指揮慕容垂等步騎二十五萬先行,苻堅隨後繼發,戎卒六十餘萬,騎二十七萬,旗鼓相望,前後千里。晉以以謝石為前線大都督,謝玄為先鋒,並謝琰、桓伊等人,領八萬兵馬,分三路迎擊前秦軍。」

八公山 《江南通志》「八公山,在壽陽城北五里、在淝北淮南,亦名北山。峽石山西北夾淮為險,在西岸為峽石,在東岸為壽陽山。」(八公山は,壽陽城北五里に在り,淝北淮南に在り,亦たの名を北山という。峽石山の西北は夾淮 險を為し,西岸は峽石を為す在り,東岸は壽陽山を為す在る。)

 

不假築長城,大賢在其間。

その勢は、まことにに凄じい位であったが、東晋の方には、長城を築くまでもなく、幸にも、謝玄・謝石の如き大賢が其間に居たのである。

大賢在其間 淝水の戦いにおける謝玄・謝石のことをいう。

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李白  送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-64

卷別:    卷一七六              文體:    七言古詩

詩題:    送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              安西都護府 (隴右道西部 無第二級行政層級 安西都護府) 別名:安西、安西幕府交遊人物/地點:程侍郎           當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

劉眺         當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

獨孤峻     當地交遊(京畿道 京兆府 長安)

 

 

送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

(程・劉二侍郎の獨孤判官と安西幕府に赴くを送る)

安西の幕府 材雄多し,喧喧 惟だ道う 三數公。

繡衣 貂裘 積雪よりも明かに,書を飛ばし 檄を走らすこと 飄風の如し。

朝 明主を辭して 紫宮を出で,銀鞍 別を送って 金城空し。

天外の飛霜 蔥海に下り,火旗雲馬 光彩を生ず。

胡塞 塵を清めて 幾日か歸る,漢家 草綠にして遙に相い待つ。

 

大明宮の圖003 

『送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

(下し文)
(程・劉二侍郎の獨孤判官と安西幕府に赴くを送る)

安西の幕府 材雄多し,喧喧 惟だ道う 三數公。

繡衣 貂裘 積雪よりも明かに,書を飛ばし 檄を走らすこと 飄風の如し。

朝 明主を辭して 紫宮を出で,銀鞍 別を送って 金城空し。

天外の飛霜 蔥海に下り,火旗雲馬 光彩を生ず。

胡塞 塵を清めて 幾日か歸る,漢家 草綠にして遙に相い待つ。

(現代語訳)
送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。

安史の乱期 勢力図 002
(訳注)

送程劉二侍郎兼獨孤判官赴安西幕府

(侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するのを送る詩)

舊唐書封常清傳に「開元の末、安西四鎭節度使夫蒙靈詧判官に劉眺・獨孤峻あり」と見えて居るから、劉侍御、獨孤判官は大方その人であらう。但し、程は何人だか、わからない。

通鑑唐紀に「安西節度は、西域を撫寧し、龜玆、焉耆、于、疎勒の四鎭を統べ、龜玆城に治す、兵二万四千」とある。

この詩は、侍御劉胱、及び程某、判官獨孤峻の三人が、安西都護府に赴任するを送って作ったのである。

起首四句は、三人の人物を写し、朝辭の二句は、送別の有様、天外の二句は、途中の光景を想像し、胡塞の二句は、その帰京の早からむことを嘱望したのである。

 

安西幕府多材雄,喧喧惟道三數公。

安西都護府は、西域一帯の地を牽制するから、その必要上、才気雄傑の人が多いが、その中でも、喧喧として、人口に上るのは、侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻の三数公といわれる人たちである。

安西幕府 安西都護府の地方、安西は新疆省庫車、唐代におかれた六都護府の一つ。辺境警備・周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関。都護府の長官は都護と呼ばれていた。

三數公 侍御の劉胱、程某、判官の獨孤峻。

 

繡衣貂裘明積雪,飛書走檄如飄風。

三数公は、繍衣をつけ、貂裘を披き、それが満地の積雪より明かに、そして、書を飛ばしたり、檄を走らせたりする場合に、その疾いことは、さながら飄風の如く、まことに、あっぱれの人物で、それなればこそ、この重職も、やすやすと務まるわけである。

繍衣 漢書に「侍御史に繍衣直指あり」と記し、顔師古の註に「衣するに繍を以てするは、これを尊重するなり」とある。

飛書走檄 西京雜記に「枚皐文章敏疾」とあり、揚子法言に「軍族の際、戎鳥の間、飛書馳檄には枚皐を用ふ」とある。

 

朝辭明主出紫宮,銀鞍送別金城空。

今次、三数公は、朝に聖明の君に辭して、紫微垣より出て、そして、その行を送る人人は、馬に銀鞍を置いて、美美しき打扮、しかも、その数の多いことは、長安城が空に成るかとおもうくらいである。

紫薇 紫微垣、即ち紫微宮、天子の居るところ。古代中国天文学において天球上を3区画に分けた三垣の中垣。天の北極を中心とした広い天区。あるいはその主体となった星官(星座)のことを指す場合もある。「紫微」「紫微宮(しびきゅう)」「紫宮(しきゅう)」「紫垣(しえん)」ともいい、天帝の在所とされたため、転じて皇宮、朝廷の異称ともなった。「紫禁城」の「紫」もこれに基づく。

金城 長安城、。

 

天外飛霜下蔥海,火旗雲馬生光彩。

これより、行く手の路は、いとも遥かにして、天外の飛霜は、葱海に下り、まことに凄寒に堪へられぬが、一行は、火のやうな赤い旗を押し立て、相従う人馬の多きことは、雲の如く、まことに見事である。

葱海 諷典に「安西郡、西、凍勒乳讐軍に至る三千里、葱洩忘去る七百里」とあり、涼州異物志に「葱譲の水、東西lこ分流し、西に大海に入り、束は河浦となるJとある。

火旗 旗の赤くして火に似たるわいふ。 

雲馬 馬の多くして雷に似たるむいふ。

 

胡塞清塵幾日歸,漢家草綠遙相待。

かくて、何れの時かに胡塞の塵が収まって、目出たく歸京せらるるか、都に於では、春囘り、草再び緑にして、遥かに三数公の歸るのを待って居るのである。
8世紀唐と周辺国00 

743年(63)李太白集卷十六08-《送竇司馬貶宜春》(天馬白銀鞍,) 382Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(63) Ⅰ李白詩1737 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7225

李白  送竇司馬貶宜春

天馬白銀鞍,親承明主歡。鬥雞金宮裡,射雁碧雲端。

堂上羅中貴,歌鍾清夜闌。何言謫南國,拂劍坐長歎。

趙璧為誰點,隋珠枉被彈。聖朝多雨露,莫厭此行難。

(竇某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、いよいよ赴任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送った詩)

今まで、君は、天馬に白銀の鞍を置いて、得意に乗りまわし、しずしずと入朝して、親しく明主の歓心を承けていた。そして、鶏を金宮の庭裏に闘わしたり、雁を碧雲の端より射落したりして、天子の御側に奉仕してきた。それから、家に還れば、堂上に中貴人の輩を列坐せしめ、歌鐘に興を添へで.晴夜、すでに闌にならむとする頃に及び、まことに富貴栄華を極めて居た。しかも、どうして罪に問われたのかわからず、一朝罪を得て、遠く南方の宜春に貶謫せられるということであるが、覚悟のうえで、剣を彿って長嘆し、感慨に堪へぬ有様であるが、潔くいかれるであろう。君の才彼を以てして、今次の貶謫に遭遇したのは、たとえば、莊子が言う、趙に伝わる“和氏の璧”が何者かに汚され、“随侯の明珠を以て、雀か何かを弾ずる”ようなもので、まことに、不幸の至である。しかし、聖明の世には雨露多く、いづれ遠からぬ内に、一切の事がわかって、召し還されるに相違ないから、この貶謫の行の困難を厭わず、何事も運命と諦めて、兎に角、出かけたら善かろう。

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年:743年天寶二年43歳 94-63

卷別:    卷一七六              文體:    五言古詩

詩題:    送竇司馬貶宜春

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:袁州 (江南西道 袁州 袁州) 別名:宜春         

交遊人物/地點:竇司馬      當地交遊 (京畿道 京兆府 長安)

 

 

送竇司馬貶宜春

(竇某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、いよいよ赴任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送った詩)

天馬白銀鞍,親承明主歡。

今まで、君は、天馬に白銀の鞍を置いて、得意に乗りまわし、しずしずと入朝して、親しく明主の歓心を承けていた。

鬥雞金宮裡,射雁碧雲端。

そして、鶏を金宮の庭裏に闘わしたり、雁を碧雲の端より射落したりして、天子の御側に奉仕してきた。

堂上羅中貴,歌鍾清夜闌。

それから、家に還れば、堂上に中貴人の輩を列坐せしめ、歌鐘に興を添へで.晴夜、すでに闌にならむとする頃に及び、まことに富貴栄華を極めて居た。

何言謫南國,拂劍坐長歎。

しかも、どうして罪に問われたのかわからず、一朝罪を得て、遠く南方の宜春に貶謫せられるということであるが、覚悟のうえで、剣を彿って長嘆し、感慨に堪へぬ有様であるが、潔くいかれるであろう。

趙璧為誰點,隋珠枉被彈。

君の才彼を以てして、今次の貶謫に遭遇したのは、たとえば、莊子が言う、趙に伝わる“和氏の璧”が何者かに汚され、“随侯の明珠を以て、雀か何かを弾ずる”ようなもので、まことに、不幸の至である。

聖朝多雨露,莫厭此行難。

しかし、聖明の世には雨露多く、いづれ遠からぬ内に、一切の事がわかって、召し還されるに相違ないから、この貶謫の行の困難を厭わず、何事も運命と諦めて、兎に角、出かけたら善かろう。

(竇司馬の宜春に貶せらるるを送る)

天馬 白銀の鞍,親ら明主の歡を承く。

鬥雞 金宮の裡,雁を射る 碧雲の端。

堂上には 中貴を羅ね,歌鍾 清夜闌【たけなわ】なり。

何ぞ言わん 南國に謫せられ,劍を拂いて坐して長歎す。

趙璧 誰が為に點ずる,隋珠 枉げて彈せらる。

聖朝 雨露多し,此の行 難きを厭う莫れ。
韓愈の地図01

 

『送竇司馬貶宜春』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

送竇司馬貶宜春

天馬白銀鞍,親承明主歡。

鬥雞金宮裡,射雁碧雲端。

堂上羅中貴,歌鍾清夜闌。

何言謫南國,拂劍坐長歎。

趙璧為誰點,隋珠枉被彈。

聖朝多雨露,莫厭此行難。

(下し文)

(竇司馬の宜春に貶せらるるを送る)

天馬 白銀の鞍,親ら明主の歡を承く。

鬥雞 金宮の裡,雁を射る 碧雲の端。

堂上には 中貴を羅ね,歌鍾 清夜闌【たけなわ】なり。

何ぞ言わん 南國に謫せられ,劍を拂いて坐して長歎す。

趙璧 誰が為に點ずる,隋珠 枉げて彈せらる。

聖朝 雨露多し,此の行 難きを厭う莫れ。

(現代語訳)
(竇某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、いよいよ赴任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送った詩)

今まで、君は、天馬に白銀の鞍を置いて、得意に乗りまわし、しずしずと入朝して、親しく明主の歓心を承けていた。

そして、鶏を金宮の庭裏に闘わしたり、雁を碧雲の端より射落したりして、天子の御側に奉仕してきた。

それから、家に還れば、堂上に中貴人の輩を列坐せしめ、歌鐘に興を添へで.晴夜、すでに闌にならむとする頃に及び、まことに富貴栄華を極めて居た。

しかも、どうして罪に問われたのかわからず、一朝罪を得て、遠く南方の宜春に貶謫せられるということであるが、覚悟のうえで、剣を彿って長嘆し、感慨に堪へぬ有様であるが、潔くいかれるであろう。

君の才彼を以てして、今次の貶謫に遭遇したのは、たとえば、莊子が言う、趙に伝わる“和氏の璧”が何者かに汚され、“随侯の明珠を以て、雀か何かを弾ずる”ようなもので、まことに、不幸の至である。

しかし、聖明の世には雨露多く、いづれ遠からぬ内に、一切の事がわかって、召し還されるに相違ないから、この貶謫の行の困難を厭わず、何事も運命と諦めて、兎に角、出かけたら善かろう。

李白の足跡0000
(訳注)

送竇司馬貶宜春

(竇某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、いよいよ赴任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送った詩)

1 宜春 唐時の宜春郡は、即ち袁州で、江南西道に隷して、上州であった。袁州は中国にかつて存在した州。現在の江西省宜春市。前201年、漢朝により設置された宜春県である。前129年に宜春侯国とされたが、前112年に廃止となり宜春県が再び設置された。591年(開皇11年)、袁州を設置し、宜陽県(526年に宜春県と改称)に州治を置く。607年(大業3年)、袁州を宜春郡と改称した。

2 司馬 上州には、潮史長史の下に司馬一人あって、従五品である。春秋時代までは軍事の最高指揮官で,漢代には中央政府の最高官の一つとして大司馬が置かれたことがある。別に軍の最高指揮官が将軍になると,将軍や都督の属官としての司馬が生まれた。魏晋南北朝時代には公府や軍府の幕僚で長史に次ぐ位として司馬があった。隋,唐には州にも置かれ,宋以後にはなくなったが,後世に中央政府では兵部尚書を,地方官では府同治のことを司馬と雅称することがあった。

3【解説】この詩は、竇某が何か罪を得て、宜春の司馬に貶せられ、いよいよ赴任するに際し、慰藉の意を寓して、その行を送ったのである。

前半六句は往日の豪貴、後年六句は今日の貶謫で、結句二句は慰藉の意を寓して居る。

 

天馬白銀鞍,親承明主歡。

今まで、君は、天馬に白銀の鞍を置いて、得意に乗りまわし、しずしずと入朝して、親しく明主の歓心を承けていた。

4 白銀鞍 優れた良い馬に着ける馬具を言う。陳の後主の樂府に「蹀躞紫騮馬,照耀白銀鞍。」(蹀躞す紫騮の馬,照耀す白銀の鞍。)とある。陳叔寶(553604),字元秀,南朝陳最後一位皇帝。公元582年—589年在位。

《樂府詩集》二十四。《詩紀》九十八。

嫖姚紫塞歸,蹀躞紅塵飛。玉珂鳴廣路,金絡耀晨輝。

蓋轉時移影,香動屢驚衣。禁門猶未閉,連騎恣相追。

蹀躞紫騮馬,照耀白銀鞍。直去黃龍外,斜趨玄菟端。

垂鞬還細柳,揚塵歸上蘭。

大明宮の圖003 

鬥雞金宮裡,射雁碧雲端。

そして、鶏を金宮の庭裏に闘わしたり、雁を碧雲の端より射落したりして、天子の御側に奉仕してきた。

5 鬥雞 《『荘子』達成篇 十九》紀省子爲王養闘鶏。十日而問、鷄已乎。曰、未也。方虚驕而恃氣。十日又問。曰、未也。猶應響景。十日又問。曰、未也。猶疾視而盛氣。十日又問。曰、幾矣。鷄雖有鳴者、已無変矣。望之似木鷄矣。其徳全矣。異鷄無敢應者、反走矣。(紀渻子、王の為に闘鶏を養ふ。 十日にして問ふ、 鶏は已にするや、と。 曰く、未だなり、方に虚憍にして気を恃む、と。 十日にして又た問ふ、曰く、 未だなり、猶ほ嚮景に応ず、と。十日にして又た問ふ、曰く、未だなり、猶ほ疾視して気を盛んにす、と。十日にして又た問ふ、曰く、 幾し。 鶏に鳴く者有りと雖も、已に変ずる無し。 之に望むに木鶏に似たり。

其の徳は全し。 異鶏に敢へて応ずる者無く、反りて走る、と)

二羽のニワトリを左右につがえて蹴り合わせる鶏合わせ=闘鶏は、もともとその勝敗により神意を判定する神占であった。中国古代の黄帝時代に、蒼頡(そうけつ)が鳥の足跡を見て漢字を作ったという故事を踏まえて詠まれたとされている。

 

堂上羅中貴,歌鍾清夜闌。

それから、家に還れば、堂上に中貴人の輩を列坐せしめ、歌鐘に興を添へで.晴夜、すでに闌にならむとする頃に及び、まことに富貴栄華を極めて居た。

6 中貴 宮中において幅をきかしていた宦官。李白《古風五十九首之二十四》「中貴多黃金,連雲開甲宅。」(中貴は 黄金多く、雲に連なって 甲宅を開く。)これは宮中の宦官が君寵を得て、さも得意げに振る舞って、いばっているやからが黄金を沢山ため込んでいる、その家の瓦は雲が連なっているような大邸宅を建てている。

24 《古風五十九首之二十四》Index-10Ⅱ― 6-731年開元十九年31100古風,五十九首之十六寶劍雙蛟龍, <24> Ⅰ李白詩1181 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4453

7 歌鍾 歌声に合わせて鐘を敲いて躍る。後宮の宴で妓優が演じる芸。

 

何言謫南國,拂劍坐長歎。

しかも、どうして罪に問われたのかわからず、一朝罪を得て、遠く南方の宜春に貶謫せられるということであるが、覚悟のうえで、剣を彿って長嘆し、感慨に堪へぬ有様であるが、潔くいかれるであろう。

 

趙璧為誰點,隋珠枉被彈。

君の才彼を以てして、今次の貶謫に遭遇したのは、たとえば、莊子が言う、趙に伝わる“和氏の璧”が何者かに汚され、“随侯の明珠を以て、雀か何かを弾ずる”ようなもので、まことに、不幸の至である。

8 趙璧 春秋時代の楚()の人。山中で得た宝玉の原石を楚の厲王(れいおう)に献じたが信じてもらえず左足を切られ、次の武王のときにも献じたが、ただの石だとして右足を切られた。文王が位につき、これを磨かせると、はたして玉であったので、この玉を「和氏(かし)の璧(たま)」と称した。のち、趙(ちょう)の恵文王がこの玉を得たが、秦の昭王が15の城と交換したいと言ったので、「連城の璧」とも称された。

9 為誰點 白璧に青がとまってよごしたこと。卑劣な讒言をするもののことを言う。陳子昂 《宴胡楚真禁所》詩:青蠅一相點, 白璧遂成冤。”青蠅玷白璧, 讒人陷害忠良

10 隋珠 「隋珠を以て雀を弾(う)つ」 得るところが少なくて、失うところが多いことの例え。《莊子讓王》「今且有人於此, 以隨侯之珠, 彈千仞之雀, 世必笑之。 是何也?則其所用者重, 而所要者輕也。」(今且つ此於に人有り,隨侯の珠を以て,千仞の雀を彈ぜば, 世必ず之を笑わん。 是れ何ぞや?則ち其の用うる所の者重くして,要する所の者輕ければ也。)《捜神記》 隋侯珠:隋県(湖北省)を流れる溠水のほとりに、断蛇邱という丘がある。昔、隋侯がこのあたりまで出かけて来たときに、大蛇が傷を負って、胴体のなかほどから断ち切られているのを見かけ、霊ある蛇ではないかと思ったので、家来に命じて薬を塗り包帯をしてやった。すると、蛇はやっと動けるようになったのであった。そこでこの場所を断蛇邱と呼ぶようになったのである。

それから一年あまりたって、蛇が明るく光る珠をお礼のしるしにくわえて来た。珠は直径一寸、純白で、夜になると光を放つ。それは月の光のように明るくて、部屋を照らすことができた。だからこの珠は、隋侯珠・霊蛇珠、あるいは明月珠と呼ばれる。その丘の南には隋の大夫、李良の池がある。

 

聖朝多雨露,莫厭此行難。

しかし、聖明の世には雨露多く、いづれ遠からぬ内に、一切の事がわかって、召し還されるに相違ないから、この貶謫の行の困難を厭わず、何事も運命と諦めて、兎に角、出かけたら善かろう。

11 聖朝 当代の朝廷や天子を敬っていう語。

12 多雨露 雨露をしのぐということが多いということもあるが、天子に慶弔もあり、恩赦、特赦ということが必ずあるということを言う。

743年(62)李太白集巻十四34-《贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 381-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(62) Ⅰ李白詩1736 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7220

李白  贈別王山人歸布山#2

我心亦懷歸,屢夢松上月。傲然遂獨往,長嘯開巖扉。

林壑久已蕪,石道生薔薇。願言弄笙鶴,晚來相依
われも、客土に飄零すること既に久しく、って、歸るを懐うて、夢に故山の松に懸れる月の景色見るほどである。君は、傲然 一人行きて長嘯し、旧居の巌扉を開いて、その中に住まわれるであろう。しかし、久しい間、誰も居なかったところであるから、林壑も荒れはてているだろうし、石のかどが出た細い道に、野ばらが生い茂っていて、往来するにも難しい状態であろう。だから、君はここに在って、笙の笛を吹いて白鶴を伴って、心長閑に浮世の事を忘れて居れば善いのではないか、われも、晩年に成ったらば、世事を謝して、そこへいって、君と一所に住むことにいたそうと思っているところなのである。

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年:743年天寶二年43歳 94-62

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    贈別王山人歸布山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              桂平 (嶺南道東部 潯州 桂平) 別名:布山      

交遊人物/地點:王山人      當地交遊

 

 

贈別王山人歸布山 #1

(王山人が奥山に帰る時、別に際して贈った)

王子析道論,微言破秋毫。

王山人が宇宙の本体たる道を解析して論ずるを聞けば、いかにも微妙で、極めて細かいところまで行き亙り、さすがに、その修養の深いことが分かる。

還歸布山隱,興入天雲高。

君は、今、ここより還って、山奥に隠遁することとし、歸興は、高く天上の雲に入るばかりである。

爾去安可遲,瑤草恐衰歇。

汝、去ること、決して遅かる、べからす、今しも秋で、瑤草は衰歇せんとして居る。

#2

我心亦懷歸,屢夢松上月。

われも、客土に飄零すること既に久しく、って、歸るを懐うて、夢に故山の松に懸れる月の景色見るほどである。

傲然遂獨往,長嘯開巖扉。

君は、傲然 一人行きて長嘯し、旧居の巌扉を開いて、その中に住まわれるであろう。

林壑久已蕪,石道生薔薇。

しかし、久しい間、誰も居なかったところであるから、林壑も荒れはてているだろうし、石のかどが出た細い道に、野ばらが生い茂っていて、往来するにも難しい状態であろう。

願言弄笙鶴,晚來相依。

だから、君はここに在って、笙の笛を吹いて白鶴を伴って、心長閑に浮世の事を忘れて居れば善いのではないか、われも、晩年に成ったらば、世事を謝して、そこへいって、君と一所に住むことにいたそうと思っているところなのである。

(王山人の布山に歸るに贈別す) #1

王子 道論を析し,微言 秋毫を破る。

還た歸って 布山に隱れ,興は天雲に入って高し。

爾 去る 安んぞ遲かる可けんや,瑤草 衰歇を恐る。

#2

我が心 亦た歸るを懷い,屢ば松上の月を夢む。

傲然として遂に獨往,長嘯して 開巖扉をく。

林壑 久しく已に蕪し,石道 薔薇を生ず。

願わくば言【ここ】に笙鶴を弄せよ,晚 來って相い依らん。

 

西嶽華山00 

『贈別王山人歸布山』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

我心亦懷歸,屢夢松上月。

傲然遂獨往,長嘯開巖扉。

林壑久已蕪,石道生薔薇。

願言弄笙鶴,晚來相依

(下し文)
#2

我が心 亦た歸るを懷い,屢ば松上の月を夢む。

傲然として遂に獨往,長嘯して 開巖扉をく。

林壑 久しく已に蕪し,石道 薔薇を生ず。

願わくば言【ここ】に笙鶴を弄せよ,晚 來って相い依らん

(現代語訳)
#2

われも、客土に飄零すること既に久しく、って、歸るを懐うて、夢に故山の松に懸れる月の景色見るほどである。

君は、傲然 一人行きて長嘯し、旧居の巌扉を開いて、その中に住まわれるであろう。

しかし、久しい間、誰も居なかったところであるから、林壑も荒れはてているだろうし、石のかどが出た細い道に、野ばらが生い茂っていて、往来するにも難しい状態であろう。

だから、君はここに在って、笙の笛を吹いて白鶴を伴って、心長閑に浮世の事を忘れて居れば善いのではないか、われも、晩年に成ったらば、世事を謝して、そこへいって、君と一所に住むことにいたそうと思っているところなのである。


(訳注) #2

贈別王山人歸布山 #2

(王山人が奥山に帰る時、別に際して贈った)

この詩は、王山人が奥山に帰る時、別に際して贈ったのである。しかし、気配を消す道士であるため王山人の閲歴等はわからない。

 

我心亦懷歸,屢夢松上月。

われも、客土に飄零すること既に久しく、って、歸るを懐うて、夢に故山の松に懸れる月の景色見るほどである。

6 松上月 岩場に生える松の上にかかる月。心静かな夜の表現。

 

傲然遂獨往,長嘯開巖扉。

君は、傲然 一人行きて長嘯し、旧居の巌扉を開いて、その中に住まわれるであろう。

7 傲然 おごり高ぶって尊大に振る舞うさま。

 

林壑久已蕪,石道生薔薇。

しかし、久しい間、誰も居なかったところであるから、林壑も荒れはてているだろうし、石のかどが出た細い道に、野ばらが生い茂っていて、往来するにも難しい状態であろう。

8 林壑 山林幽深の地方。

文選.謝靈運《石壁精舍還湖中作詩》(石壁精舎より湖中に還りて作る)

昏旦變氣候。山水含清暉。清暉能人。遊子憺忘歸。

出谷日尚早。入舟陽已微。林壑斂暝色。雲霞收夕霏。

昏旦【こんたん】に気候【きこう】変じ、山水 清暉【せいき】を。清暉 能く人を娯【たのし】ませ、游子【ゆうし】憺【やす】みて帰るを忘れる。

谷を出でて日尚はやく、舟に入りて陽已に微なり。林壑【りんがく】瞑色【めいしょく】を斂【おさ】め、雲霞 夕霏【せきひ】を収む。」

南の山の石壁精舍から北山の住まいへ帰る巫湖の中に船から見ての作詩。

午前中とくらべ夕がたになると気候が変わりってきた、(わたしの勉学修行に満足感があり)山も水も清々しい光を含んでいるようだ。

その清らかな光彩は人をこころから楽しませることができ、旅ゆく人の心を和ませてたのしむため帰ることをわすれるのである。

石壁精舎のある谷を出るときは日はまだ高かったが、船に乗るころには太陽はもう暗く微かになっていた。

林や谷、山影に夕暮れの色が深くこめてきている、空は雲や夕霞に夕映えがはえていて、やまかげには夕靄がすっかり治まってしまっている。

石壁精舎還湖中作 謝霊運(康楽) 詩<42#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩422 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1083

 

願言弄笙鶴,晚來相依。

だから、君はここに在って、笙の笛を吹いて白鶴を伴って、心長閑に浮世の事を忘れて居れば善いのではないか、われも、晩年に成ったらば、世事を謝して、そこへいって、君と一所に住むことにいたそうと思っているところなのである。

9 笙鶴 白鶴に乗って昇天した王子喬のことをいう。王山人を王子喬に比している。漢劉向《列仙傳》載「周靈王太子晉( 王子喬),好吹笙,作鳳鳴,游伊洛間,道士浮丘公接上嵩山, 三十餘年後乘白鶴駐緱氏山頂,舉手謝時人仙去。後以“笙鶴”指仙人乘騎之仙鶴。」(周靈王の太子晉を 王子喬という, 好く笙を吹き,鳳鳴を作す,伊洛の間に游び, 道士 浮丘公 接して嵩山に上る, 三十餘年後 白鶴に乘って緱氏山【こうしざん】頂に駐る,手を舉げて謝し時に人 仙去す。 後 以て“笙鶴”は仙人 乘騎の仙鶴を指す。)

鶴に乗って昇天したといわれる神仙で、周の霊王(在位前572~前545)の38人の子の一人である太子晋のこと。王喬ともいう。

 伝説によると、王子喬は若くから才能豊かで、笙の笛を吹いては鳳凰が鳴くような音を出すことができた。伊水と洛水あたり(河南省洛陽南部)を巡り歩いていたとき、道士の浮丘公に誘われ中岳嵩山に入り、帰らなくなった。それから30年以上後、友人の桓良が山上で王子喬を探していると、ふいに本人が現れ、「7月7日に緱氏山【こうしざん】の頂上で待つように家族に伝えてくれ」といった。

 その日、家族がいわれたとおり山に登ると、王子喬が白鶴に乗って山上に舞い降りた。だが、山が険しく家族は近づくことができなかった。と、王子喬は手を上げて家族に挨拶し、数日後白鶴に乗って飛び去ったという。

 そこで、人々は緱氏山の麓や嵩山の山頂に祠を建てて、王子喬を祀ったといわれている。
華山蓮花峰00 

743年(62)李太白集巻十四34-《贈別王山人歸布山》(王子析道論,) 381Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(62) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210

李白  贈別王山人歸布山 #1

王子析道論,微言破秋毫。還歸布山隱,興入天雲高。

爾去安可遲,瑤草恐衰歇。
(王山人が奥山に帰る時、別に際して贈った)

王山人が宇宙の本体たる道を解析して論ずるを聞けば、いかにも微妙で、極めて細かいところまで行き亙り、さすがに、その修養の深いことが分かる。君は、今、ここより還って、山奥に隠遁することとし、歸興は、高く天上の雲に入るばかりである。汝、去ること、決して遅かる、べからす、今しも秋で、瑤草は衰歇せんとして居る。

743年(62)李太白集巻十四34-贈別王山人歸布山(王子析道論,) 381Index-23-2-743年天寶二年43歳 94-62) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210

 

 
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年:743年天寶二年43歳 94-62

卷別:    卷一七四              文體:    五言古詩

詩題:    贈別王山人歸布山

作地點:              目前尚無資料

及地點:              桂平 (嶺南道東部 潯州 桂平) 別名:布山      

交遊人物/地點:王山人      當地交遊

 

 

贈別王山人歸布山 #1

(王山人が奥山に帰る時、別に際して贈った)

王子析道論,微言破秋毫。

王山人が宇宙の本体たる道を解析して論ずるを聞けば、いかにも微妙で、極めて細かいところまで行き亙り、さすがに、その修養の深いことが分かる。

還歸布山隱,興入天雲高。

君は、今、ここより還って、山奥に隠遁することとし、歸興は、高く天上の雲に入るばかりである。

爾去安可遲,瑤草恐衰歇。

汝、去ること、決して遅かる、べからす、今しも秋で、瑤草は衰歇せんとして居る。

 

我心亦懷歸,屢夢松上月。

傲然遂獨往,長嘯開巖扉。

林壑久已蕪,石道生薔薇。

願言弄笙鶴,晚來相依。

 

 

(王山人の布山に歸るに贈別す) #1

王子 道論を析し,微言 秋毫を破る。

還た歸って 布山に隱れ,興は天雲に入って高し。

爾 去る 安んぞ遲かる可けんや,瑤草 衰歇を恐る。

#2

我が心 亦た歸るを懷い,屢ば松上の月を夢む。

傲然として遂に獨往,長嘯して 開巖扉をく。

林壑 久しく已に蕪し,石道 薔薇を生ず。

願わくば言【ここ】に笙鶴を弄せよ,晚 來って相い依らん。

 

京兆地域図002洛陽 函谷関 嵩山005 

『贈別王山人歸布山』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

贈別王山人歸布山 #1

王子析道論,微言破秋毫。

還歸布山隱,興入天雲高。

爾去安可遲,瑤草恐衰歇。

(下し文)
(王山人の山に布し歸るに贈別す) #1

王子 道論を析し,微言 秋毫を破る。

還た歸って 布山に隱れ,興は天雲に入って高し。

爾 去る 安んぞ遲かる可けんや,瑤草 衰歇を恐る。


(現代語訳)
贈別王山人歸布山 #1(王山人が奥山に帰る時、別に際して贈った)

王山人が宇宙の本体たる道を解析して論ずるを聞けば、いかにも微妙で、極めて細かいところまで行き亙り、さすがに、その修養の深いことが分かる。

君は、今、ここより還って、山奥に隠遁することとし、歸興は、高く天上の雲に入るばかりである。

汝、去ること、決して遅かる、べからす、今しも秋で、瑤草は衰歇せんとして居る。


(訳注)

贈別王山人歸布山 #1

(王山人が奥山に帰る時、別に際して贈った)

この詩は、王山人が奥山に帰る時、別に際して贈ったのである。しかし、気配を消す道士であるため王山人の閲歴等はわからない。

1 布山 山奥に隠遁する。布はゆきわたることをいう。《漢書地理志下》「鬱林郡、縣十二、布山。」廣西省布山縣。というのがあるが、嵩山、王屋山をめぐる隠遁する山奥の場所と考えることが良いであろう。

 

王子析道論,微言破秋毫。

王山人が宇宙の本体たる道を解析して論ずるを聞けば、いかにも微妙で、極めて細かいところまで行き亙り、さすがに、その修養の深いことが分かる。

2 析:析,分也,解也。,即ち道家の經論を解析する。

3 微言(1) 凝縮された言葉,深い意味を込めた短い言葉.(2) 内緒話,はっきり口にせぬ言葉.精妙の。劉歆《移太常博士》夫子没而微言」(夫子没して微言。)

4 秋毫 :精微の理を謂う。微妙な言辞がきわめてこまかいところまでいきわたることをいう。《三国志·魏·管輅》裴松注:“《》曰:何尚書神明精微,言皆巧妙,巧妙之至,殆破秋毫。”(何尚書、神明精微,言皆巧妙,巧妙の至,殆んど秋毫を破る。)とあり、孫綽の太尉庚亮碑「微言散秋毫玄風暢徳音」(微言、秋毫に散じ、玄風、徳音に暢ぶ)

 

還歸布山隱,興入天雲高。

君は、今、ここより還って、山奥に隠遁することとし、歸興は、高く天上の雲に入るばかりである。

 

爾去安可遲,瑤草恐衰歇。

汝、去ること、決して遅かる、べからす、今しも秋で、瑤草は衰歇せんとして居る。

5 瑤草 :伝説中の仙草,靈芝等のこと。能く百病を治し或いは生をする食にする。漢東方朔《与友人書》:“相期拾瑶草,吞日月之光,共輕耳。”亦泛指珍之草。(相期には瑶草を拾い,日月の光華を,共に輕く擧ぐるのみ”亦異の泛指

743年(61)李太白集巻十二06-《夕霽杜陵登樓寄韋繇》 380-#2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(61) Ⅰ李白詩1734 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7210

李白  夕霽杜陵登樓寄韋繇#2

蹈海寄遐想,還山迷舊蹤。徒然迫晚暮,未果諧心胸。

結桂空佇立,折麻恨莫從。思君達永夜,長樂聞疏鐘。

かくて海をふんで東海の仙界を遐想を寄せようとするし、山に還ろうとすれば、旧蹤を尋ねてはいけないとされるから、心は実に海山の間に彷徨して居るのである。おもへば、従来することがなく無為にして、次第に年を取り晩期を迎え、この心胸に諧う様な快心の事業をもなしとげることもない。桂枝を結んで、心をつなぐ誓をたてたとすれば、ここを去らずにここに空しく佇むのであり、こんどは麻の幹を折って、結同心として我が思う人に贈ろうとするも、心の儘にならないのである。このように、おのが不遇を嘆き侘び、いよいよ君を懐かしく思い、はては、長き夜を寝ることもせず、夜を更かし、長樂宮の鐘の聲を聞くように成ったのである。

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