漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
◎漢文委員会のHP http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/profile1.html
Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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ずいぶん回復してきました。(12/10)
訪問ありがとうございます。いつもありがとうございます。
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ただ、コメント頂いたても、こちらからの返礼対応ができません。というのも、
毎日、6 BLOG,20000字以上活字にしているからです。
漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
体の続く限り、広げ、深めていきたいと思っています。掲載文について、いまのところ、すべて自由に使ってもらって結構ですが、節度あるものにして下さい。
どうぞよろしくお願いします。

2016年03月

744年年44歳-14李太白集161巻四36東武吟  -4 428-#4Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-14【56首】Ⅰ李白詩1804 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7560

李白  東武吟  #4

一朝去金馬,飄落成飛蓬。賓客日疏散,玉樽亦已空。 才力猶可倚,不慚世上雄。

閑作東武吟,曲盡情未終。 書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。

李太白集巻36-4

東  武  吟

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7555

Index-24  744年天寶三年44歳 56-14-4

428 <1000

 

 
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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-376-161巻四36 東武吟 〔出東門后書懷留別翰林諸公 〕  (好古笑流俗,) 

Index-24-3 744年天寶三年44-1556首】

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

164_39

文體:

樂府

李太白集 

36 -#4

 

 

詩題:

東武吟

序文

出東門后書懷留別翰林諸公 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 金城

及地點:

新豐

甘泉宮  

 

咸陽

交遊人物:

 

 

 

 

164_39 《東武吟》、李太白集 巻四36 -#1 

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

方希佐明主,長揖辭成功。 

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

白日在高天,回光燭微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

#2

清切紫霄迥,優遊丹禁通。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

君王賜顏色,聲價淩煙虹。 

君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。

やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。

寶馬麗景,錦衣入新豐。 

その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。

#3

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。

やがて、驪山に到着してから後は、巌によりかかって、松に降り積もる雪を眺め、酒に対して琴を掻き鳴らし、日日悠悠として、遊び暮らした。

因學揚子雲,獻賦甘泉宮。 

やがて、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで自分は、古しえの揚子雲にならって、賦を献じたのである。

天書美片善,清芬播無窮。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

歸來入咸陽,談笑皆王公。 

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

#4

一朝去金馬,飄落成飛蓬。

賓客日疏散,玉樽亦已空。 

才力猶可倚,不慚世上雄。

閑作東武吟,曲盡情未終。 

書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。

賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。

そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。

だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。

今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。

 

(東武吟)

古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。方に明主を佐け,長揖して成功を辭せんことを希う。 

白日、高天に在り,回光 微躬を燭らす。恭しく鳳凰の詔りを承け,欻ち雲蘿の中より起つ。 

#2

清切 紫霄迥かに,優遊 丹禁通ず。君王 顏色を賜わり,聲價 煙虹を淩ぐ。 

輿に乘じて翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。寶馬 かに,錦衣新豐に入る。 

#3

岩に依って松雪を望み,酒に對して 絲桐を鳴らす。揚子雲を學ぶに因って,賦を獻ず甘泉宮。 

天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。歸り來って 咸陽に入り,談笑 皆 王公。 

#4

一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。 

才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。 

此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。 

 

李白の足跡0000 

『東武吟』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#4

一朝去金馬,飄落成飛蓬。

賓客日疏散,玉樽亦已空。

才力猶可倚,不慚世上雄。

閑作東武吟,曲盡情未終。

書此謝知己,吾尋黃綺翁。


(下し文)
#4

一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。

才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。

此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。

(現代語訳)
#4

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。

賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。

そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。

だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。

今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。

安史の乱期 勢力図 002
(訳注) #4

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

1 詩題 「出金門後、書懐、留翰林諸公」「金門を出し後、懐を書して、翰林諸公に留別す。」とあって、李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。

 

一朝去金馬,飄落成飛蓬。

しかし、天命、我に與みせず、まもなく、金馬門を去ることになり、この身は飛蓬のように、処定まらない、放浪の身となったのである。

 

賓客日疏散,玉樽亦已空。 

賓客も、日日に疎くなって散じつくし、酒樽は、空に成ったままになっていった。

 

才力猶可倚,不慚世上雄。

そうであっても、我が才力には、これからもなお、たのむべく、世上の豪雄たるに愧じない積りである。

 

閑作東武吟,曲盡情未終。 

だからこうして東武吟を作って、わが経歴の一斑を歌ったのであるが、曲は既につきても、言いたい情は未だ終るものでなく、気は治まるものではないのである。

 

書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

今この詩を書して、知己に挨拶をおくるが、吾は、これから商山に分け入って、夏貴公、綺里李等、いわゆる商山の四皓ともいうべき人々を尋ねて、ともに遊び暮そうと思うのである。

21 黃綺翁 夏黃公、綺里季のことで、商山の四皓の二人を言う。東園公・綺里季・夏黄公・甪里【ろくり】先生の四人の隠士。みな鬚眉【しゅび】が皓白の老人であったのでいう。

 

 

 

 

 東武吟

  一作出金門後書懐留翰林諸公東樂/府詩集古今樂録曰王僧技録有 武吟行今不歌樂府觧題曰鮑照云主人且勿諠沈/約云天徳深且廣傷時移事異榮華徂謝也

  左思齊都賦註云東武太山皆齊之土風絃歌謳吟之/曲名也通典曰漢有東武郡今高諸城縣是

  元和郡縣志州諸城縣即漢東武縣也属琅邪/郡樂府章所謂東武吟者也海録碎事東武吟樂府詩人有少壮從征伐年老被棄/於東武者不敢論功但戀君

好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。 

白日在高天,回光燭微躬。恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

#2

清切紫霄迥,優游丹禁通。君王賜顔色、聲價凌烟虹。

乗輿擁翠盖、扈從金城東。寳馬麗錦衣入新豐

#3

繆本/作倚巖望松雪、對酒鳴絲桐。因學揚子雲、獻賦甘泉

天書片善、清芬播無窮。歸來入咸陽、談笑皆王公。許本誤失/去此二句

#4

一朝去金馬、飄落成飛蓬。繆本/作友日疎散、玉樽亦已。

才力猶可倚、一作/不慙世上雄。閒作東武吟、曲盡情未終。

書此謝知已、吾尋黄綺翁。一作扁舟尋釣翁達劉/峻廣絶交論斯賢

素交沈約詩便欲息微躬漢書恭承嘉惠兮顔師古註/恭敬也.

 十六國春秋石虎在臺上有詔書以五色紙著

凰 口中既銜詔侍 人放數百丈緋轆轤迴轉状/若飛翔飛下端門以木作之五色文身脚皆用金

《宋書》殷淳居黄門為清切魏書對九重之清切望八襲之/嶸。

 梁簡文帝圍城賦升紫霄之丹地排玉殿之金

《隋書》分司丹禁侍衛左右上官儀詩清切丹禁。

 静顔之/推詩楚王賜顔色出入章華裏鮑照詩輝石亂烟虹賈

誼新書 天子車曰乗輿  《淮南子》建翠盖髙誘註 翠盖以/翠鳥羽飾葢也。

 上林賦扈從横行出乎四校之中 晉灼註扈大也。

封氏聞見記 百官從駕謂之扈從葢臣下侍/從至尊各供所職猶僕御扈養以從上故謂之扈從耳

《上林賦》云扈從横行 顔監釋云謂扈從縱恣而行也。 據/顔此觧乃讀從為放縱不取行從之義所未詳也石林

燕語從駕謂之扈從始 司馬相如《上林賦》晉灼以扈為/大張揖謂跋扈縱横不安鹵簿 故顔師古因之亦以為

跋扈恣縱而行果爾從葢作去聲侍天子而言跋扈可/乎唐封演以為扈從以從猶之僕御此或近之 

張協詩 朱軒耀金城 劉良註金城長安城也。

  史記 中廐之寳馬/臣得賜之 水經註 魏武與張繡戰於宛馬名絶景為流矢所中

舊唐書 京兆府、有昭應縣、本隋之新豐縣治古/新豐城北、天寳三載、分新豐萬年置昌縣七載省豐縣改昌為昭應治

温泉之西北琦按自乗輿擁/翠葢而下 是指其侍從温泉宮而言在新豐縣之驪山下正直

唐京師之東太白入朝、在天寳二三載、是時/新豐尚未省也。顔延年詩 倚巖聴緒風、又曰庭昏見野隂山明望松雪

漢書 揚雄待、詔承明之庭正月、從上甘泉、還奏甘泉賦、以風桓譚新論、揚子雲從成帝祠甘泉

詔雄作 賦思精苦困倦小卧夢五臟出外以手收而納/之及覺病喘悸少氣王筠詩自知心所 愛獻賦甘泉

鮑照詩 片善辭革萊 漢書 公孫𢎞拜為博士待詔金馬/門 

曹植詩 玉樽盈桂酒夏黄公綺里季事見 四巻註 歘音旭又音忽

744年年44歳-14李太白集161巻四36東武吟  -3 428-#3Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-16【56首】Ⅰ李白詩1803 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7555

東武吟  #3

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。因學揚子雲,獻賦甘泉宮。 

天書美片善,清芬播無窮。歸來入咸陽,談笑皆王公。 

やがて、驪山に到着してから後は、巌によりかかって、松に降り積もる雪を眺め、酒に対して琴を掻き鳴らし、日日悠悠として、遊び暮らした。やがて、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで自分は、古しえの揚子雲にならって、賦を献じたのである。その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

李太白集巻36-3

東  武  吟

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  2016年3月29日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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韓愈144-#1《 巻02-19喜侯喜至贈張籍、張徹 (昔我在南時,)》  #1 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(17)<1716> Ⅱ #1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7556  
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-376-161巻四36 東武吟 〔出東門后書懷留別翰林諸公 〕  (好古笑流俗,) 

Index-24-3 744年天寶三年44-1556首】

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

164_39

文體:

樂府

李太白集 

36 -#3

 

 

詩題:

東武吟

序文

出東門后書懷留別翰林諸公 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 金城

及地點:

新豐

甘泉宮  

 

咸陽

交遊人物:

 

 

 

 

 

 

 

164_39 《東武吟》、李太白集 巻四36 -#1 

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

方希佐明主,長揖辭成功。 

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

白日在高天,回光燭微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

#2

清切紫霄迥,優遊丹禁通。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

君王賜顏色,聲價淩煙虹。 

君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。

やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。

寶馬麗景,錦衣入新豐。 

その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。

#3

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。

やがて、驪山に到着してから後は、巌によりかかって、松に降り積もる雪を眺め、酒に対して琴を掻き鳴らし、日日悠悠として、遊び暮らした。

因學揚子雲,獻賦甘泉宮。 

やがて、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで自分は、古しえの揚子雲にならって、賦を献じたのである。

天書美片善,清芬播無窮。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

歸來入咸陽,談笑皆王公。 

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

#4

一朝去金馬,飄落成飛蓬。賓客日疏散,玉樽亦已空。 

才力猶可倚,不慚世上雄。閑作東武吟,曲盡情未終。 

書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

 

(東武吟)

古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。方に明主を佐け,長揖して成功を辭せんことを希う。 

白日、高天に在り,回光 微躬を燭らす。恭しく鳳凰の詔りを承け,欻ち雲蘿の中より起つ。 

#2

清切 紫霄迥かに,優遊 丹禁通ず。君王 顏色を賜わり,聲價 煙虹を淩ぐ。 

輿に乘じて翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。寶馬 かに,錦衣新豐に入る。 

#3

岩に依って松雪を望み,酒に對して 絲桐を鳴らす。揚子雲を學ぶに因って,賦を獻ず甘泉宮。 

天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。歸り來って 咸陽に入り,談笑 皆 王公。 

#4

一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。 

才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。 

此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。 

 

秦嶺山脈終南山 

『東武吟』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。

因學揚子雲,獻賦甘泉宮。

天書美片善,清芬播無窮。

歸來入咸陽,談笑皆王公。

(下し文)
#3

岩に依って松雪を望み,酒に對して 絲桐を鳴らす。

揚子雲を學ぶに因って,賦を獻ず甘泉宮。

天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。

歸り來って 咸陽に入り,談笑 皆 王公。

(現代語訳)
#3

やがて、驪山に到着してから後は、巌によりかかって、松に降り積もる雪を眺め、酒に対して琴を掻き鳴らし、日日悠悠として、遊び暮らした。

やがて、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで自分は、古しえの揚子雲にならって、賦を献じたのである。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

漢文委員会紀頌之タイトル
(訳注)  #3

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

1 詩題 「出金門後、書懐、留翰林諸公」「金門を出し後、懐を書して、翰林諸公に留別す。」とあって、李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。

 

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。

やがて、驪山に到着してから後は、巌によりかかって、松に降り積もる雪を眺め、酒に対して琴を掻き鳴らし、日日悠悠として、遊び暮らした。

15 依岩望松雪 楚辞に「石巌に倚りて以て涕を流す」、遵野莽以呼風兮,步從容於山廋。巡陸夷之曲衍兮,幽空虛以寂寞。倚石巖以流涕兮,憂憔悴而無樂。登巑岏以長企兮,望南郢而闚之。山脩遠其遼遼兮,塗漫漫其無時。聽玄鶴之晨鳴兮,于高岡之峨峨。獨憤積而哀兮,翔江洲而安歌。

離騒「余既茲蘭之九畹兮,又樹蕙之百畝。畦留夷與掲車兮,雑杜蘅與芳芷。冀枝葉之峻茂兮,愿竢時乎吾將刈。雖萎絶其亦何傷兮,哀衆芳之蕪穢。」

・秋冬之緒風『楚辞』「九章」の「渉江」

・緒風 秋冬の風の名残をいう。に、「乗鄂渚而反顧兮、欵秋冬之緒風。」(鄂渚に乗りて反顧すれば、ああ、秋冬の緒風なり。)とある。顏延年《和謝監靈運》「倚岩聽緒風,攀林結留荑。」(岩に倚【よ】りて 緒風【しょふう】を聽き,林を攀【ひ】きて留荑【りゅうてい】を結ぶ。また、岩によりかかって風の音に耳をすましたり、林の木を引いて香草を結び、それを君に贈ろうなどとした。

和謝監靈運 顏延年 詩<61-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩457 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1188

16 絲桐 琴弦をかき鳴らす

 

因學揚子雲,獻賦甘泉宮。

やがて、甘泉宮に入御されるにも持従し、そこで自分は、古しえの揚子雲にならって、賦を献じたのである。

17 揚子雲 揚雄のことで、(前53―後18)中国、漢代の儒学者、文人。蜀郡成都(四川省)の人。字は子雲。前漢、新、後漢の三王朝に仕えた。学者として高名である。著書としては『易経』に擬した『太玄経』と、『論語』を模した『法言』が有名である。また司馬相如の影響を受けて賦をよくした。『太玄経』は『易経』の六四卦()三八四爻【こう】に倣って八一首七二九賛とし、新しい占筮書とした。その根本原理は老子の道の思想より得た玄である。その生成を説くに、一玄が分かれて三方となり、三方が九州となり、九州が二七部となり、二七部が八一家となるとする。これを人事にあてて、三方は三公、九州は九卿(けい)、二七部は大夫、八一家は元士にかたどり、一玄を君主としてこれを統べるものと説いた。『法言』は『論語』に倣い、巻1の「学行」から巻10の「孝至」に及んで、聖人を尊び、王道を説いた。漢・唐の諸儒は揚雄を高く評価したが、宋(そう)代の程伊川(ていいせん)や朱熹(朱子)が、聖人の書の模作を難じ、性善悪混説を唱え、三朝に仕えたことなどで批判したため、それ以後の儒者も多くこれに倣った。

18 甘泉宮 秦の始皇帝が前220年に首都咸陽(かんよう)の北西の甘泉山(陝西省淳化県)に築いた離宮の林光宮に始まる。漢の武帝が建元年間(140‐前135)に高光宮,迎風館,通天台などを増築し,周囲19(7.7km)12宮,11台などを甘泉宮と総称した。別に山谷に沿って雲陽に至る周囲540(219km)の甘泉苑を設け,仙人,石闕(せきけつ),封巒(ほうらん),鳷鵲(しじやく)諸観など宮殿台閣100ヵ所以上があった。

 

天書美片善,清芬播無窮。

その賦がつまらぬ業くれながら、御書を賜はって、特に清芬であると賞美せられたことから、名誉は無窮に播いたのである。

19 清芬 すがすがしく、よいかおりのするさま。きよい匂いただようさま。

 

歸來入咸陽,談笑皆王公。

それから長安に歸ってきてからは、王公輩と交際して、談笑したものである。

20 咸陽 ここでは長安のこと。秦朝の首都として大いに栄えた。風水においては山・丘・阜などの南側、河・江・川・湖などの水辺の北側を陽と言う。この都市は九嵕山の南、渭水の北に当たり「咸陽」なためにこの名前がついた。
簷間樹 

744年年44歳-14李太白集161巻四36東武吟  -2 428-#2Ⅰ李白詩1802 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7550

李白  東武吟  #2

清切紫霄迥,優遊丹禁通。君王賜顏色,聲價淩煙虹。 

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。寶馬麗景,錦衣入新豐。 

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。

李太白集巻36-2

東  武  吟

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7535

Index-24  744年天寶三年44歳 56-14

428 <1000

 

 

 
  2016年3月28日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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  index-5 806年39歳 50首の(2)25首 index-6[807年~809年 42歳]20首 index-7[810年~811年 44歳] 34首 index-8 [812年~814年47歳]46首 index-9[815年~816年 49歳] 57首 index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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17 毛熙震《巻十05木蘭花》『花間集』458全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-7554
 
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-376-161巻四36 東武吟 〔出東門后書懷留別翰林諸公 〕  (好古笑流俗,) 

Index-24-3 744年天寶三年44-1556首】

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

164_39

文體:

樂府

李太白集 

36 -#2

 

 

詩題:

東武吟

序文

出東門后書懷留別翰林諸公 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 金城

及地點:

新豐

甘泉宮  

 

咸陽

交遊人物:

 

 

 

 

 

 

 

164_39 《東武吟》、李太白集 巻四36 -#1 

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

方希佐明主,長揖辭成功。 

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

白日在高天,回光燭微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

#2

清切紫霄迥,優遊丹禁通。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

君王賜顏色,聲價淩煙虹。 

君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。

やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。

寶馬麗景,錦衣入新豐。 

その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。

#3

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。因學揚子雲,獻賦甘泉宮。 

天書美片善,清芬播無窮。歸來入咸陽,談笑皆王公。 

#4

一朝去金馬,飄落成飛蓬。賓客日疏散,玉樽亦已空。 

才力猶可倚,不慚世上雄。閑作東武吟,曲盡情未終。 

書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

 

(東武吟)

古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。方に明主を佐け,長揖して成功を辭せんことを希う。 

白日、高天に在り,回光 微躬を燭らす。恭しく鳳凰の詔りを承け,欻ち雲蘿の中より起つ。 

#2

清切 紫霄迥かに,優遊 丹禁通ず。君王 顏色を賜わり,聲價 煙虹を淩ぐ。 

輿に乘じて翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。寶馬 かに,錦衣新豐に入る。 

#3

岩に依って松雪を望み,酒に對して 絲桐を鳴らす。揚子雲を學ぶに因って,賦を獻ず甘泉宮。 

天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。歸り來って 咸陽に入り,談笑 皆 王公。 

#4一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。 

 

才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。 

此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。 

 

京兆地域図002 

『東武吟』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

清切紫霄迥,優遊丹禁通。

君王賜顏色,聲價淩煙虹。

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。

寶馬麗景,錦衣入新豐

(下し文)
#2

清切 紫霄迥かに,優遊 丹禁通ず。

君王 顏色を賜わり,聲價 煙虹を淩ぐ。

輿に乘じて翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。

寶馬 景麗かに,錦衣新豐に入る

(現代語訳)
#2

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。

その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。


(訳注)  #2

大明宮の圖003 

清切紫霄迥,優遊丹禁通。

清切の閒官を得て、天上の遥かなるに朝し、優游して、自在に宮禁に出入することになった。

7 紫霄迥 紫霄とは、天上、此処では、宮禁を言う。天子の詔勅を授かったものは、朝廷内を比較的自由に歩けることを意味する。鳳凰(天子)が、紫泥で封をした詔勅を初めて下す。五胡十六国の一つ後題の皇帝石虎が、木製の鳳凰のロに詔勅をくわえさせ、高い楼観の上から緋色の絶で回転させ舞いおろさせた、という故事(『初学記』巻三十、所引『鄭中記』)に基づく。「紫泥」は、紫色の粘り気のある泥。ノリの代りに用いた。

8 丹禁通   朱で塗った宮殿の階段、紫微宮、外朝(含元殿)、中朝(宣政殿)、内朝(紫宸殿)これらをつなぐ庭、丹陛は丹く塗られていたことで、皇城、大明宮を示す。。

 

君王賜顏色,聲價淩煙虹。

君王は、拝謁を賜はり、特に御引立下さったから、聲價は、煙虹を凌いで、天にも届く位になった。

 

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。

やがて、天子が御幸になり、翠蓋を擁して、乗輿を進められる時には、自分も、供奉の列に備わって、長安の東なる驪山の温泉に御供をした。

9 乘輿 天子の輦をいう。

10 扈從 天子の御供をしてゆくこと。

11 金城東 長安城の東、驪山にある温泉離宮をさす。

 

寶馬麗景,錦衣入新豐。

その時は、古しえの義の武帝の名馬、“絶景”にも勝れる名馬に跨り、きらきらの錦衣を著て、新豊の市に入ったことがあったのである。

12 寶馬 天子の厩に飼育されている馬たちを言う。史記「中廐之寳馬臣得賜之」(中廐の寳馬、臣、之を賜り得る)

13  魏の武帝が袁紹と戦った時の馬の名前で、名馬をさす。 水經註 「魏武與張繡戰於宛。馬名絶景為流矢所中」(魏武と張繡と宛に於て戰う。馬、絶景と、流矢に中る所と為す。

14 新豐 驪山の温泉宮の離宮への登り口がある、宿場の駅のある町。舊唐書「京兆府、有昭應縣、本隋之新豐縣治古新豐城北」(京兆府、昭應縣に有り、本と隋の新豐縣であり、古えより新豐城の北を治む

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李白  東武吟

好古笑流俗,素聞賢達風。方希佐明主,長揖辭成功。 

白日在高天,回光燭微躬。恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)  わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

李太白集巻36-1

東  武  吟

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-376-161巻四36 東武吟 〔出東門后書懷留別翰林諸公 〕  (好古笑流俗,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

164_39

文體:

樂府

李太白集 

36 -#1

 

 

詩題:

東武吟

序文

出東門后書懷留別翰林諸公 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安) 金城

及地點:

新豐

甘泉宮  

 

咸陽

交遊人物:

 

 

 

 

 

 

 

164_39 《東武吟》、李太白集 巻四36 -#1 

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。
方希佐明主,長揖辭成功。 

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。
白日在高天,回光燭微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。
恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。 

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

#2

清切紫霄迥,優遊丹禁通。君王賜顏色,聲價淩煙虹。 

乘輿擁翠蓋,扈從金城東。寶馬麗景,錦衣入新豐。 

#3

依岩望松雪,對酒鳴絲桐。因學揚子雲,獻賦甘泉宮。 

天書美片善,清芬播無窮。歸來入咸陽,談笑皆王公。 

#4

一朝去金馬,飄落成飛蓬。賓客日疏散,玉樽亦已空。 

才力猶可倚,不慚世上雄。閑作東武吟,曲盡情未終。 

書此謝知己,吾尋黃綺翁。 

 

(東武吟)

古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。方に明主を佐け,長揖して成功を辭せんことを希う。 

白日、高天に在り,回光 微躬を燭らす。恭しく鳳凰の詔りを承け,欻ち雲蘿の中より起つ。 

#2

清切 紫霄迥かに,優遊 丹禁通ず。君王 顏色を賜わり,聲價 煙虹を淩ぐ。 

輿に乘じて翠蓋を擁し,扈從す 金城の東。寶馬 かに,錦衣新豐に入る。 

#3

岩に依って松雪を望み,酒に對して 絲桐を鳴らす。揚子雲を學ぶに因って,賦を獻ず甘泉宮。 

天書 片善を美し,清芬 無窮に播く。歸り來って 咸陽に入り,談笑 皆 王公。 

#4一朝 金馬を去り,飄落 飛蓬と成る。賓客 日に疏散,玉樽 亦た已に空し。 

 

才力 猶お倚る可く,世上の雄たるに慚じず。閑に東武吟を作り,曲盡きて 情 未さ終らず。 

此を書して 知己に謝し,吾は 黃綺の翁を尋ねん。 

 

長安皇城宮城00 

『東武吟』現代語訳と訳註解説
(
本文)

東武吟

好古笑流俗,素聞賢達風。

方希佐明主,長揖辭成功。

白日在高天,回光燭微躬。

恭承鳳凰詔,起雲蘿中

(下し文)
(東武吟)

古を好んで、流俗を笑う,素より賢達の風を聞く。

方に明主を佐け,長揖して成功を辭せんことを希う。

白日、高天に在り,回光 微躬を燭らす。

恭しく鳳凰の詔りを承け,ち雲蘿の中より起つ

(現代語訳)
東武吟(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。


(訳注) 

東武吟

(李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。)

1 詩題 「出金門後、書懐、留翰林諸公」「金門を出し後、懐を書して、翰林諸公に留別す。」とあって、李白が山に還りたいと願い出て、許され、三月長安を出る。後にその時の思いを齊に遊びに行って、その地の土風に倣って作り、述べたものである。

2 東部吟 蕭士贇の解に「曰《東武吟》即樂府正聲東門行也。」(曰く《東武吟》は即ち樂府正聲の東門行なり。)「晉樂奏古辭云《出東門不顧歸》言、士有貧不安其居、拔劔去、妻子牽衣留之、願共餔糜、斯足。不求富貴也。太白詩、則自述其志也。」(晉樂奏古辭に云『東門を出でて顧いて歸るをせず』言うは、士、貧にして其の居に安んぜざる有り、劔を拔いて去る、妻子 衣を牽いて之を留む、願わくば餔糜を共にすれば、斯に足らん。富貴を求めざるなり。太白の詩は、則ち自ら其の志を述ぶるなり。)とあり、切実な思いを述べている。

王琦の解には、《樂府詩集、古今樂録》「曰、王僧技録有 東武吟行今不歌。」(曰く、王僧技録に東武吟行り、今は歌わず。)。樂府觧題に曰く、「鮑照云、『主人且勿諠』、沈約云、「天徳深且廣。」、傷時移事異榮華徂謝也。」(鮑照は云う、『主人とし且つ諠する勿れ』、沈約は云う、「天徳は深く且つ廣し。」、時移り、事異に、榮華の徂謝するを傷むなり。)と。  左思の《齊都賦》の註に云う、「東武太山皆齊之土風、絃歌謳吟之曲名也。」(東武太山は皆、齊の土風であり、絃歌の謳吟の曲名なり。)と。通典に曰く、「漢有東武郡、今、高諸城縣是也。」(漢に東武郡有り、今、高 諸城縣が是なり。 《元和郡縣志》には、「州諸城縣、即漢東武縣也。属琅邪/郡。樂府章所謂東武吟者也。」(州の諸城縣、即ち漢の東武縣なり。琅邪郡にす。樂府章に所謂る東武吟なる者なり。と。《海録碎事》には、「東武吟樂府、詩人有少壮從征伐、年老被棄、於東武者不敢論功、但戀君耳。」(東武吟は樂府であり、詩人は有少壮に征伐に從い、年老いて棄て被れ、東武に於てぶ者あり、敢えて功を論ぜず、但だ君に戀うるのみ

 

好古笑流俗,素聞賢達風。

わが性分は、古風を好み、滔滔たる流俗の軽薄なるものを笑い、早くより、古しえの賢達の人の風を聞いて、之を敬慕して居た。

 

方希佐明主,長揖辭成功。

自分の志ざすところは、明主を輔佐して、大功を為し、やがて、長揖して歸臥するといふことであった。

 

白日在高天,回光燭微躬。

天子は、白日の高天に在るが如く、その廻転する光が、この微躯を照らし、特に恩眷の御沙汰があった。

3 微躬 自らを謙遜して言う。

 

恭承鳳凰詔,欻起雲蘿中。

かくて、紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅を授かり、一朝、雲蘿の中より起って都に上り、皇城の正門朱雀門はひらかれ登場することになった。

4 恭承 恭しく敬いながら承る。

5 鳳凰詔 十六國春秋「石虎在臺上有詔書以五色紙著凰口中既銜詔。侍人放數百丈緋轆轤迴轉、状若飛翔飛下端門。以木作之、五色文身脚皆用金。」(石虎、臺上に在り、詔書有り五色の紙を以て凰の口中に著く。既に詔を銜む。侍人、數百丈の緋ち、轆轤迴轉、状、飛翔するが若く、飛んで端門を下る。は、木を以て之を作り、五色文身、脚、皆金を用う。紫泥で皇帝が儀式をされた鳳凰の詔勅が、初めて下された日、私は皇帝に拝謁し、酒杯を挙げて、御宴に登ったのだ。

鳳凰(天子)が、紫泥で封をした詔勅を初めて下す。五胡十六国の一つ後題の皇帝石虎が、木製の鳳凰のロに詔勅をくわえさせ、高い楼観の上から緋色の絶で回転させ舞いおろさせた、という故事(『初学記』巻三十、所引『鄭中記』)に基づく。「紫泥」は、紫色の粘り気のある泥。ノリの代りに用いた。

鳳銜 鳳詔と同じ。 鳳凰が口に銜える。詔勅を木製の鳳凰に銜えさせた故事。鳳詔:《鄴中記》.「石季龍與皇后在觀上為詔書,五色紙著鳳口中,鳳既銜詔,詩人放,數百丈緋繩轆盧回轉,鳳凰飛下,謂之鳳詔。鳳凰以木作之,五色漆畫,皆用金。」

韋莊《巻3-14 喜遷鶯二首 其二》「鳳銜金膀出雲來,平地一聲雷。

街鼓動,禁城開,天上探人回。

鳳銜金膀出雲來,平地一聲雷。

鶯已遷,龍已化,一夜滿城車馬。

家家樓上簇神仙,爭看鶴冲天。

(喜遷鶯二首 其の二)

街は鼓動し,禁城 開く,天上 人を探して回る。

鳳は金膀を銜へ 雲來に出づ,平地 一聲雷。

鶯は已に遷り,龍 已に化す,一夜 城の車馬に滿つ。

家家の樓上 神仙に簇【むらが】り,爭って看る 鶴の天に冲【のぼ】るを。

(喜遷鶯【きせんのう】二首 其の二:科挙の試験に合格し、天子にお目見えするさまを、そして、その後街中を無礼講で歩き回り、夜の宮中晩さん会を仙郷に喩えて詠う。)

長安の街に「引見」の太鼓の音が鳴り響き、皇城の正門朱雀門はひらかれ、宮官人たちは早くから動きにぎわい、宮中では人を探し回るほどの騒ぎである。

古来より恒例の詔勅の入った金沙の袋を木製の鳳凰が口に銜えたのが、天子につづいて、更に百官が居並んでてきて、平地には祝福の号砲のような雷が鳴り響く。

既に鶯は谷を渡ったという、進士の試験に及第した、龍が既に化身したがこれからどれだけ伸びてくれるか計り知れない前途洋洋である。その夜は長安城には及第者は無礼講で、溢れるほどの車馬でいっぱいになった。

多くの人が家家の高楼の上にあがって、仙郷である朝廷の及第者の様子を見ようと群がって見ている。そこに鶴に乗って天に上る及第者が御殿に昇っていくのをみんな爭ってみるのである。

『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-36韋荘114《巻3-14 喜遷鶯二首 其二》三巻14-114〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5772
大明宮 作図011 

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744年年44歳-13李太白集139巻四09 來日大難 -3 427-#3Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-13#3【56首】Ⅰ李白詩1800 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7540

思填東海,強銜一木。道重天地,軒師廣成。 

蟬翼九五,以求長生。下士大笑,如蒼蠅聲。 

だから、自分は、その有り難さに堪えかねて、何とか恩を報じたいと思ったが、どうにも成らない。しかし、心に済まぬ気持ちが残り、かの精衛が木石を銜んで東海に投げ入れたというように、強いて一木を銜んで、この恩に報いたいと思うところである。

抑も長生不死の道たるや、天地間に於いて、この上もなく重大なもので、むかし、軒轅皇帝は、廣成子を師として之を求められた。

九五の帝位でさえも蝉の翼の如き軽い物と見限り、これを棄てて長生を求められたという位だから、今自分が仙人から丹薬を授けられたのは、この上もなく有り難いことである。

しかし、この理窟は到底分る筈もない世間下劣な者どもは、これを聞くと、等しく聾を揚げて大笑するが、我我が聞くと、気の毒にも、「下士大笑」の聾は、まるで蒼蝿がうなって居るようなものであるということである。

李太白集 巻四142

來日大難 2

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Index-24

744年天寶三年44歳 

56-13)#2

427 <1000

 

 

 
  2016年3月26日 の紀頌之5つのBlog  
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-375-139巻四14 來日大難  (來日一身,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六四  09

文體:

樂府

李太白集 

巻四14

 

 

詩題:

來日大難

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

交遊人物:

 

 

 

 

164_9 《來日大難》李白

 來日大難

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

來日一身,攜糧負薪。

これまで過ごしてきたことを顧みれば、一身、糧を携え、「負薪の資」により不遇であった。

道長食盡,苦口焦唇。 

長途に辛苦し、はては、食物が尽きて、口は苦く、は焦げるような非常の難苦を経てきた。

今日醉飽,樂過千春。

しかし、今日は、非常に樂な時節と成ったから、酒を十分に飲み、美食にも飽きて、千歳の樂、これに過ぐるものは無いと思われる。

仙人相存,誘我遠學。 

その上、仙人がしばしばおとづれて、我を誘い、遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われた。

(來日大難)

來日 一身,糧を攜え 薪を負う。

道 長く 食 盡く,苦口をくし 唇を焦がす。

今日 醉飽す,樂み 千春を過ぐ。

仙人 相い存し,我を誘うて 遠く學ぶ。
#2

海淩三山,陸憩五嶽。

そして、その学ぶところを以てすれば、東海の滄海には三山が凌いであり、陸には五嶽に憩い、あそぶべく、自由自在に三山五嶽の間を飛翔して、仙術を学ぶのである。

乘龍天飛,目瞻兩角。

さて其処へ行くには、どうするかというと、自分は、龍の背中に乗っただけで、目がくらみ、その両角を見ていただけであり、その外のところは、少しも見えなかったのである。

授以仙藥,金丹滿握。

かくて、仙人のところへ行くと、仙薬という、金丹を手にいっぱい賜った。

蟪蛄蒙恩,深愧短促。

蟪蛄の如く、寿命の極めて短い人並の凡夫が、仙人の恩を蒙ったということである。

#2

海に 三山を淩ぐ,陸に 五嶽に憩う。

龍は 天飛に乘じ,目に 兩角を瞻る。

授くるに 仙藥を以てし,金丹は 握に滿つ。

蟪蛄 恩を蒙り,深く短促を愧ず。
#3

思填東海,強銜一木。

だから、自分は、その有り難さに堪えかねて、何とか恩を報じたいと思ったが、どうにも成らない。しかし、心に済まぬ気持ちが残り、かの精衛が木石を銜んで東海に投げ入れたというように、強いて一木を銜んで、この恩に報いたいと思うところである。

道重天地,軒師廣成。 

抑も長生不死の道たるや、天地間に於いて、この上もなく重大なもので、むかし、軒轅皇帝は、廣成子を師として之を求められた。

蟬翼九五,以求長生。

九五の帝位でさえも蝉の翼の如き軽い物と見限り、これを棄てて長生を求められたという位だから、今自分が仙人から丹薬を授けられたのは、この上もなく有り難いことである。

下士大笑,如蒼蠅聲。 

しかし、この理窟は到底分る筈もない世間下劣な者どもは、これを聞くと、等しく聾を揚げて大笑するが、我我が聞くと、気の毒にも、「下士大笑」の聾は、まるで蒼蝿がうなって居るようなものであるということである。

東海を 填めんこと思い,強いて 一木を銜む。

道は天地に重く,軒 廣成を師とす。

九五を蟬翼とし,以て長生を求む。

下士は大笑すれども,蒼蠅の聲の如し。

 

 

『來日大難』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#3

思填東海,強銜一木。

道重天地,軒師廣成。

蟬翼九五,以求長生。

下士大笑,如蒼蠅聲。

(下し文)
#3

東海を 填めんこと思い,強いて 一木を銜む。

道は天地に重く,軒 廣成を師とす。

九五を蟬翼とし,以て長生を求む。

下士は大笑すれども,蒼蠅の聲の如し。

(現代語訳)
#3

だから、自分は、その有り難さに堪えかねて、何とか恩を報じたいと思ったが、どうにも成らない。しかし、心に済まぬ気持ちが残り、かの精衛が木石を銜んで東海に投げ入れたというように、強いて一木を銜んで、この恩に報いたいと思うところである。

抑も長生不死の道たるや、天地間に於いて、この上もなく重大なもので、むかし、軒轅皇帝は、廣成子を師として之を求められた。

九五の帝位でさえも蝉の翼の如き軽い物と見限り、これを棄てて長生を求められたという位だから、今自分が仙人から丹薬を授けられたのは、この上もなく有り難いことである。

しかし、この理窟は到底分る筈もない世間下劣な者どもは、これを聞くと、等しく聾を揚げて大笑するが、我我が聞くと、気の毒にも、「下士大笑」の聾は、まるで蒼蝿がうなって居るようなものであるということである。


(訳注) #3

來日大難

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

1 詩題 来日大難は、古しへ善哉行と称し、古辭の起首に來日大難、口燥唇乾とあるから、その四字を取って、来日大難と題したのである。その古辭に墟ると、人命は保つべからす、これまでは非常に苦労をしたが、今は之と反封に非常に柴に成ったから、この機骨を失はねやうに、何虞までも苦労を忘れたいといい、最後に淮南王が、八仙を従えて登仙せられたといふ其仙術を学んだら善からう。今の樂地に於ては、これ以上の望は無いといふので、李白も、矢張、これに依傍し、仙人が自分に道術を授けて呉れた、これ位、有り難いことは無いといふ意を述べたのである。

2 士贇曰詩意謂 「黃帝猶知以道為重師問廣成、視天位猶蟬翼之輕、以求長生久視之術。而下愚之士、乃戀浮榮、聞道而笑、亦可哀矣。」(士贇曰く、詩意謂えらく 黃帝、猶お以道をて重しと為すことを知り、廣成に師問し、天位を視ること猶お蟬翼の輕きなり、以て長生久視の術を求む。而して下愚の士、乃ち浮榮を戀し、聞道をいいて笑う、亦た哀しむ可し。

 

思填東海,強銜一木。

だから、自分は、その有り難さに堪えかねて、何とか恩を報じたいと思ったが、どうにも成らない。しかし、心に済まぬ気持ちが残り、かの精衛が木石を銜んで東海に投げ入れたというように、強いて一木を銜んで、この恩に報いたいと思うところである。

填東海 《述異記》「昔、炎帝女溺死東海中。化為精衛、其名自呼、常銜西山木石、填東海。」(昔、炎帝の女、東海中に溺死す。化して精衛と為す、其の名を自ら呼び、常に西山の木石を銜んで、東海を填む。)とあるに基づく。

 

道重天地,軒師廣成。

抑も長生不死の道たるや、天地間に於いて、この上もなく重大なもので、むかし、軒轅皇帝は、廣成子を師として之を求められた。

軒師 黄帝のこと。神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年)

廣成 軒轅皇帝就浩浩蕩蕩的帶了很多侍衛,欲拜訪廣成子。《抱朴子》黄帝過崆峒、從廣成子受自然之經。

 

蟬翼九五,以求長生。

九五の帝位でさえも蝉の翼の如き軽い物と見限り、これを棄てて長生を求められたという位だから、今自分が仙人から丹薬を授けられたのは、この上もなく有り難いことである。

蝉翼九五 帝王の最高権威を蝉の翅のように軽く見下す。九五とは、陽數中の九は最高を為し,五居正中とし,これにより「九」と「五」でもって帝王の權威の象徵としている,之を稱して「九五之尊」と為る。

 

下士大笑,如蒼蠅聲。

しかし、この理窟は到底分る筈もない世間下劣な者どもは、これを聞くと、等しく聾を揚げて大笑するが、我我が聞くと、気の毒にも、「下士大笑」の聾は、まるで蒼蝿がうなって居るようなものであるということである。

下士大笑 老子「上士聞道,勤而行之;中士聞道,若存若亡;下士聞道,大笑之。不笑,不足以爲道。」(上士は道を聞けば,勤めて之を行い;中士は道を聞けば,存するが若く亡きが若し;下士は道を聞けば,大として之を笑う。笑わざれば,以れ道を爲すに足らず。

すぐれた人物は道を聞けば、努力して実行するが、並みの人物は道のことを聞いて、半信半疑の態度で、そういう道があるかあるのだかないのだか見当もつかないもので、知恵の低いものになると、小馬鹿にして笑いとばす。しかし、彼らに笑いとばされるくらいでなければ、真の道とはいえないものである。(衆人には容易に理解できるものではない)

蒼蠅聲 《詩經小雅甫田之什青蠅》. 毛詩序:「青蠅,大夫刺幽王也。」(青蠅は,大夫幽王を刺るなり。)「青蠅. 營營青蠅,止於樊。豈弟君子,無信讒言。」(営営たる青蠅、樊 (垣根)に止る王が好んで讒言を聞くので、詩人がそれを青蠅の飛びまわって物を汚すさまにたとえて戒めた。

   來日大難

   士贇曰、來日大難者、即古樂府善哉行、亦曰、日苦短也古辭云來日大難口燥唇乾言。 人命不可保當樂見。 親友求長生術與王喬八公遊

來日一身,攜糧負薪。道長食盡,苦口焦唇。

今日醉飽、樂過千春。齊賢曰 言始者貧苦、今幸懽樂當思圖。 仙人相存以下皆寓言。

仙人相存、誘我學。

海淩三山,陸憩五嶽。乘龍天飛,目瞻兩角。

授以仙藥,金丹滿握。蟪蛄蒙恩,深愧短促。

思填東海,強銜一木。齊賢曰 司馬曰 蟪蛄寒/蟬一名蝭蟧春生夏死

道重天地,軒師廣成。

蟬翼九五,以求長生。下士大笑,如蒼蠅聲。

士贇曰詩意謂 黃帝猶知以道為重師問廣成、視天位猶蟬翼之輕、以求長生久視之術。/而下愚之士、乃戀浮榮、聞道而笑、亦可哀矣。

 

 

  來日大難

  來日大難、即古善哉行也。葢摘首句以命題耳。樂府古題要解善哉行、古詞來日大難口噪唇乾言、人命不可保當樂見親友且求長生術、王喬八公遊焉。按樂府詩集 王僧技録善哉行 乃相和歌、瑟調三十八曲之一。

來日一身、携糧負薪。道長蕭本作/長鳴食盡、苦口焦唇。

今日醉飽、樂過千春。仙人相存、誘我學。

來日謂已來之日猶徃日也。《韓詩外傳》 乾喉焦唇仰天而嘆 《梁宣帝賦》 餐霞永日静坐千春。

魏武帝詩 越陌度阡枉用相存説文存恤問也。 

海淩繆本/作陵三山、陸憩五岳。

乗龍天飛、目瞻兩角。繆本作乗龍上三/天飛目瞻兩角

謝靈運詩 越海淩三山 李周翰注三山蓬萊方丈瀛洲也

鄭康成、《周禮》註 五岳、東曰岱宗、南曰衡山、西曰華山/、北曰恒山、中曰嵩高山。

授以神蕭本/作仙藥、金丹滿握。蟪蛄恩。深媿短促。

荘子 蟪蛄不知春秋陸德明。註 司馬云蟪蛄寒蟬也。 一名蝭蟧春生夏死夏生秋死、崔云蛁也。或曰、山蟪秋鳴者不及春、春鳴者不及秋。 廣雅云、蟪蛄蛁也、即楚辭 所謂寒也。

思填東海、強銜一木。道重天地、軒師廣成。

蟬翼九五。以求長生。下士大如蒼蠅聲

《述異記》昔、炎帝女溺死東海中。化為精衛、其名自呼、常銜西山木石、填東海。

偶海燕而生子生雌状如精衛、生雄如海燕。今、東海精衛、誓水處。

曾溺於此川誓不飲其水 詩意言人命

短促有如蟪蛄恩而授之神藥得使長生其徳深矣。思欲報之却如精衛銜一木以填東海耳、

甚言其德之深而無以為報也。 

抱朴子黄帝過崆峒、從廣成子受自然之經

蟬翼九五、視九五天子之位如蟬翼之輕也

老子「下士聞道大笑」  之詩 國風 蒼蠅之聲

744年年44歳-13李太白集139巻四14 來日大難 -2 427-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-13#2【56首】Ⅰ李白詩1799 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7535

李白  來日大難#2

海淩三山,陸憩五嶽。乘龍天飛,目瞻兩角。

授以仙藥,金丹滿握。蟪蛄蒙恩,深愧短促。

そして、その学ぶところを以てすれば、東海の滄海には三山が凌いであり、陸には五嶽に憩い、あそぶべく、自由自在に三山五嶽の間を飛翔して、仙術を学ぶのである。さて其処へ行くには、どうするかというと、自分は、龍の背中に乗っただけで、目がくらみ、その両角を見ていただけであり、その外のところは、少しも見えなかったのである。かくて、仙人のところへ行くと、仙薬という、金丹を手にいっぱい賜った。蟪蛄の如く、寿命の極めて短い人並の凡夫が、仙人の恩を蒙ったということである。

李太白集 巻四142

來日大難 2

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7535

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-13)#2

427 <1000

 

 

 

 
  2016年3月25日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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-375-139巻四14 來日大難  (來日一身,) 

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744

天寶三年

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全唐詩卷別:

一六四  09

文體:

樂府

李太白集 

巻四14

 

 

詩題:

來日大難

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

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164_9 《來日大難》李白

 來日大難

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

來日一身,攜糧負薪。

これまで過ごしてきたことを顧みれば、一身、糧を携え、「負薪の資」により不遇であった。

道長食盡,苦口焦唇。 

長途に辛苦し、はては、食物が尽きて、口は苦く、は焦げるような非常の難苦を経てきた。

今日醉飽,樂過千春。

しかし、今日は、非常に樂な時節と成ったから、酒を十分に飲み、美食にも飽きて、千歳の樂、これに過ぐるものは無いと思われる。

仙人相存,誘我遠學。 

その上、仙人がしばしばおとづれて、我を誘い、遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われた。

(來日大難)

來日 一身,糧を攜え 薪を負う。

道 長く 食 盡く,苦口をくし 唇を焦がす。

今日 醉飽す,樂み 千春を過ぐ。

仙人 相い存し,我を誘うて 遠く學ぶ。
#2

海淩三山,陸憩五嶽。

そして、その学ぶところを以てすれば、東海の滄海には三山が凌いであり、陸には五嶽に憩い、あそぶべく、自由自在に三山五嶽の間を飛翔して、仙術を学ぶのである。

乘龍天飛,目瞻兩角。

さて其処へ行くには、どうするかというと、自分は、龍の背中に乗っただけで、目がくらみ、その両角を見ていただけであり、その外のところは、少しも見えなかったのである。

授以仙藥,金丹滿握。

かくて、仙人のところへ行くと、仙薬という、金丹を手にいっぱい賜った。

蟪蛄蒙恩,深愧短促。

蟪蛄の如く、寿命の極めて短い人並の凡夫が、仙人の恩を蒙ったということである。

#2

海に 三山を淩ぐ,陸に 五嶽に憩う。

龍は 天飛に乘じ,目に 兩角を瞻る。

授くるに 仙藥を以てし,金丹は 握に滿つ。

蟪蛄 恩を蒙り,深く短促を愧ず。
#3

思填東海,強銜一木。道重天地,軒師廣成。 

蟬翼九五,以求長生。下士大笑,如蒼蠅聲。 

 

 

 

『來日大難』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

海淩三山,陸憩五嶽。

乘龍天飛,目瞻兩角。

授以仙藥,金丹滿握。

蟪蛄蒙恩,深愧短促。

(下し文)
#2

海に 三山を淩ぐ,陸に 五嶽に憩う。

龍は 天飛に乘じ,目に 兩角を瞻る。

授くるに 仙藥を以てし,金丹は 握に滿つ。

蟪蛄 恩を蒙り,深く短促を愧ず。

(現代語訳)
#2

そして、その学ぶところを以てすれば、東海の滄海には三山が凌いであり、陸には五嶽に憩い、あそぶべく、自由自在に三山五嶽の間を飛翔して、仙術を学ぶのである。

さて其処へ行くには、どうするかというと、自分は、龍の背中に乗っただけで、目がくらみ、その両角を見ていただけであり、その外のところは、少しも見えなかったのである。

かくて、仙人のところへ行くと、仙薬という、金丹を手にいっぱい賜った。

蟪蛄の如く、寿命の極めて短い人並の凡夫が、仙人の恩を蒙ったということである。


(訳注) #2

來日大難

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

1 詩題 来日大難は、古しへ善哉行と称し、古辭の起首に來日大難、口燥唇乾とあるから、その四字を取って、来日大難と題したのである。その古辭に墟ると、人命は保つべからす、これまでは非常に苦労をしたが、今は之と反封に非常に柴に成ったから、この機骨を失はねやうに、何虞までも苦労を忘れたいといい、最後に淮南王が、八仙を従えて登仙せられたといふ其仙術を学んだら善からう。今の樂地に於ては、これ以上の望は無いといふので、李白も、矢張、これに依傍し、仙人が自分に道術を授けて呉れた、これ位、有り難いことは無いといふ意を述べたのである。

2 士贇曰詩意謂 「黃帝猶知以道為重師問廣成、視天位猶蟬翼之輕、以求長生久視之術。而下愚之士、乃戀浮榮、聞道而笑、亦可哀矣。」(士贇曰く、詩意謂えらく 黃帝、猶お以道をて重しと為すことを知り、廣成に師問し、天位を視ること猶お蟬翼の輕きなり、以て長生久視の術を求む。而して下愚の士、乃ち浮榮を戀し、聞道をいいて笑う、亦た哀しむ可し。

 

海淩三山,陸憩五嶽。

そして、その学ぶところを以てすれば、東海の滄海には三山が凌いであり、陸には五嶽に憩い、あそぶべく、自由自在に三山五嶽の間を飛翔して、仙術を学ぶのである。

7 三山 神仙三山、蓬萊、方丈、瀛洲をいう。それは、東方の海中には五山(方丈、蓬莱、滄州、扶桑州、瀛州のちに三山)が大亀の背に載って浮かび、そこには不老長寿の妙薬が生え、不死不老の「東王父」らの神仙が棲むということである。

8 五嶽 中国の道教の聖地である5つの山の総称。五名山とも呼ばれる。陰陽五行説に基づき、木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。 東岳 泰山(山東省泰安市泰山区) 南岳 衡山(湖南省衡陽市衡山県) 中岳 嵩山(河南省鄭州市登封市) 西岳 華山(陝西省渭南市華陰市) 北岳 恒山(山西省大同市渾源県)である。神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。

 

乘龍天飛,目瞻兩角。

さて其処へ行くには、どうするかというと、自分は、龍の背中に乗っただけで、目がくらみ、その両角を見ていただけであり、その外のところは、少しも見えなかったのである。

9 乘龍天飛 仙界を逍遥、浮遊する、道教の修行場を転々とすることを言う。

 

授以仙藥,金丹滿握。

かくて、仙人のところへ行くと、仙薬という、金丹を手にいっぱい賜った。

10 仙藥 ① 飲めば不老不死の仙人になるという薬。 不思議な効き目のある薬。霊薬。

11 金丹 道教の道士が金石を砕いて練って作ったという不老不死の薬。

 

蟪蛄蒙恩,深愧短促。

蟪蛄の如く、寿命の極めて短い人並の凡夫が、仙人の恩を蒙ったということである。

12 蟪蛄 春生まれれば、夏に死に、夏に生まれたものは秋に死ぬ寒蝉をいう。《荘子 逍遙遊篇》「朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋。」(朝菌は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を知らず。朝菌は朝から暮れまでのいのちで、夜と明け方を知らず、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないのであるから、どうして夏が夏であることを知りえようか。

 

 

   來日大難

   士贇曰、來日大難者、即古樂府善哉行、亦曰、日苦短也古辭云來日大難口燥唇乾言。 人命不可保當樂見。 親友求長生術與王喬八公遊

來日一身,攜糧負薪。道長食盡,苦口焦唇。

今日醉飽、樂過千春。齊賢曰 言始者貧苦、今幸懽樂當思圖。 仙人相存以下皆寓言。

仙人相存、誘我學。

海淩三山,陸憩五嶽。乘龍天飛,目瞻兩角。

授以仙藥,金丹滿握。蟪蛄蒙恩,深愧短促。

思填東海,強銜一木。齊賢曰 司馬曰 蟪蛄寒/蟬一名蝭蟧春生夏死

道重天地,軒師廣成。

蟬翼九五,以求長生。下士大笑,如蒼蠅聲。

士贇曰詩意謂 黃帝猶知以道為重師問廣成、視天位猶蟬翼之輕、以求長生久視之術。/而下愚之士、乃戀浮榮、聞道而笑、亦可哀矣。

 

 

 

 

  來日大難

  來日大難、即古善哉行也。葢摘首句以命題耳。樂府古題要解善哉行、古詞來日大難口噪唇乾言、人命不可保當樂見親友且求長生術、王喬八公遊焉。按樂府詩集 王僧技録善哉行 乃相和歌、瑟調三十八曲之一。

來日一身、携糧負薪。道長蕭本作/長鳴食盡、苦口焦唇。

今日醉飽、樂過千春。仙人相存、誘我學。

來日謂已來之日猶徃日也。《韓詩外傳》 乾喉焦唇仰天而嘆 《梁宣帝賦》 餐霞永日静坐千春

魏武帝詩 越陌度阡枉用相存説文存恤問也。 

海淩繆本/作陵三山、陸憩五岳。

乗龍天飛、目瞻兩角。繆本作乗龍上三/天飛目瞻兩角

謝靈運詩 越海淩三山 李周翰注三山蓬萊方丈瀛洲也

鄭康成、《周禮》註 五岳、東曰岱宗、南曰衡山、西曰華山/、北曰恒山、中曰嵩高山。

授以神蕭本/作仙藥、金丹滿握。蟪蛄恩。深媿短促。

荘子 蟪蛄不知春秋陸德明。註 司馬云蟪蛄寒蟬也。 一名蝭蟧春生夏死夏生秋死、崔云蛁也。或曰、山蟪秋鳴者不及春、春鳴者不及秋。 廣雅云、蟪蛄蛁也、即楚辭 所謂寒也。

思填東海、強銜一木。道重天地、軒師廣成。

蟬翼九五。以求長生。下士大如蒼蠅聲

《述異記》昔、炎帝女溺死東海中。化為精衛、其名自呼、常銜西山木石、填東海。

偶海燕而生子生雌状如精衛生雄如海燕東海精衛誓水處曾溺於此川誓不飲其水詩意言人命

短促有如蟪蛄今恩而授之神藥得使長生其徳深/矣思欲報之却如精衛銜一木以填東海耳甚言其德

之深而無以為報也抱朴子黄帝過崆峒從廣成子受/自然之經蟬翼九五視九五天子之位如蟬翼之輕也

老子下士聞道大笑/之詩國風蒼蠅之聲

 

744年年44歳-13#1【56首】李太白集139巻四14 來日大難  427Index-24Ⅲ-3 Ⅰ李白詩1796 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7520

 李白  來日大難

來日一身,攜糧負薪。道長食盡,苦口焦唇。 

今日醉飽,樂過千春。仙人相存,誘我遠學。 

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

これまで過ごしてきたことを顧みれば、一身、糧を携え、「負薪の資」により不遇であった。

長途に辛苦し、はては、食物が尽きて、口は苦く、は焦げるような非常の難苦を経てきた。しかし、今日は、非常に樂な時節と成ったから、酒を十分に飲み、美食にも飽きて、千歳の樂、これに過ぐるものは無いと思われる。その上、仙人がしばしばおとづれて、我を誘い、遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われた。

李太白集 

巻四14#1

來日大難 #1

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7520

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-13)#1

427 <1000

 

 

 744年天寶三年44-13

-375-139巻四14 來日大難  (來日一身,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六四  09

文體:

樂府

李太白集 

巻四14

 

 

詩題:

來日大難

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

交遊人物:

 

 

 

 

164_9 《來日大難》李白

 來日大難

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

來日一身,攜糧負薪。

これまで過ごしてきたことを顧みれば、一身、糧を携え、「負薪の資」により不遇であった。

道長食盡,苦口焦唇。 

長途に辛苦し、はては、食物が尽きて、口は苦く、は焦げるような非常の難苦を経てきた。

今日醉飽,樂過千春。

しかし、今日は、非常に樂な時節と成ったから、酒を十分に飲み、美食にも飽きて、千歳の樂、これに過ぐるものは無いと思われる。

仙人相存,誘我遠學。 

その上、仙人がしばしばおとづれて、我を誘い、遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われた。

(來日大難)

來日 一身,糧を攜え 薪を負う。

道 長く 食 盡く,苦口をくし 唇を焦がす。

今日 醉飽す,樂み 千春を過ぐ。

仙人 相い存し,我を誘うて 遠く學ぶ。

海淩三山,陸憩五嶽。乘龍天飛,目瞻兩角。

授以仙藥,金丹滿握。蟪蛄蒙恩, 深愧短促。

 

思填東海,強銜一木。道重天地,軒師廣成。 

蟬翼九五,以求長生。下士大笑,如蒼蠅聲。 

 

 

 

『』現代語訳と訳註解説
(
本文)

來日大難

來日一身,攜糧負薪。

道長食盡,苦口焦唇。

今日醉飽,樂過千春。

仙人相存,誘我遠學。

(下し文)
(來日大難)

來日 一身,糧を攜え 薪を負う。

道 長く 食 盡く,苦口をくし 唇を焦がす。

今日 醉飽す,樂み 千春を過ぐ。

仙人 相い存し,我を誘うて 遠く學ぶ。

(現代語訳)
來日大難(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

これまで過ごしてきたことを顧みれば、一身、糧を携え、「負薪の資」により不遇であった。

長途に辛苦し、はては、食物が尽きて、口は苦く、は焦げるような非常の難苦を経てきた。

しかし、今日は、非常に樂な時節と成ったから、酒を十分に飲み、美食にも飽きて、千歳の樂、これに過ぐるものは無いと思われる。

その上、仙人がしばしばおとづれて、我を誘い、遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われた。


(訳注) 

來日大難

(これまでいろいろ苦労をしてきたけれど、少し楽になり、千載の楽しみをして、神仙の道を学び、龍に乗って三山五岳に戦術を学び、仙薬を賜ることだろう。)

来日大難は、古しへ善哉行と称し、古辭の起首に來日大難、口燥唇乾とあるから、その四字を取って、来日大難と題したのである。その古辭に墟ると、人命は保つべからす、これまでは非常に苦労をしたが、今は之と反封に非常に柴に成ったから、この機骨を失はねやうに、何虞までも苦労を忘れたいといい、最後に淮南王が、八仙を従えて登仙せられたといふ其仙術を学んだら善からう。今の樂地に於ては、これ以上の望は無いといふので、李白も、矢張、これに依傍し、仙人が自分に道術を授けて呉れた、これ位、有り難いことは無いといふ意を述べたのである。

 

善哉行 曹丕(魏文帝) 魏詩<9-#1>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 630 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1737

善哉行 曹丕(魏文帝) 魏詩<9-#2>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 631 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1741

善哉行 楽府歌辭 漢詩<10-#1>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 632 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1745

善哉行 楽府歌辭 漢詩<10-#2>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 633 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1749

善哉行 靈運 宋詩<11-#1>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 634 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1753

善哉行 謝靈運 宋詩<11-#2>玉台新詠・文選楽府 古詩源 巻五 635 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1757

 

謝靈運《善哉行》

陽谷躍升,虞淵引落。景曜東隅,晼晚西薄。

三春燠敷,九秋蕭索。涼來溫謝,寒往暑却。

居德斯頤,積善嬉謔。陰灌陽叢,凋華墮蕚。

歡去易慘,悲至難鑠。擊節當歌,對酒當酌。

鄙哉愚人,戚戚懷瘼。善哉達士,滔滔處樂。

(善哉行)

陽は谷より躍升し,虞淵して引き落つ。

景は曜く東隅に,晼【かたむ】きて晚れ西に薄【せま】る。

三春は燠敷し,九秋は蕭索す。

涼來たり溫謝【さ】り,寒往き暑さ却【しりぞ】く。

德に居り斯【ここ】に頤【やしな】う,善を積み嬉謔【きぎゃく】す。

陰灌【あきら】かにし陽叢まる,凋【しぼ】む華は蕚より墮つ。

歡び去り慘【いた】み易く,悲しみ至り鑠【と】け難し。

擊節し當に歌うべし,對酒して當に酌【く】むべし。

鄙なる哉 愚人,戚戚として瘼【くる】しみを懷う。

善哉の達士,滔滔として樂に處す。

 

來日一身,攜糧負薪。

これまで過ごしてきたことを顧みれば、一身、糧を携え、「負薪の資」により不遇であった。

來日 未来をさすのではなく、已來した日々。往日。

負薪 ・負薪の憂 《「礼記」曲礼下》自分の病気を謙遜していう言葉。たきぎを背負った疲れが出て病むの意からとも、病気でたきぎを負うことができないの意からともいう。采薪(さいしん)の憂い。負薪の病い。

・負薪の資 《「後漢書」袁紹伝》いやしい生まれつき。劣った資質。

 

道長食盡,苦口焦唇。

長途に辛苦し、はては、食物が尽きて、口は苦く、は焦げるような非常の難苦を経てきた。

 

今日醉飽,樂過千春。

しかし、今日は、非常に樂な時節と成ったから、酒を十分に飲み、美食にも飽きて、千歳の樂、これに過ぐるものは無いと思われる。

樂過千春 千歳の春の行樂を過ごすこと、これよりよいものは無い。

 

仙人相存,誘我遠學。

その上、仙人がしばしばおとづれて、我を誘い、遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われた。

相存 しばしばおとづれていてくれることの意。

誘我遠學 遠く懸け離れたところへ行って、神仙の道を学べと言われる。

 

 

 

   來日大難

   士贇曰、來日大難者、即古樂府善哉行、亦曰、日苦短也古辭云來日大難口燥唇乾言。 人命不可保當樂見。 親友求長生術與王喬八公遊

來日一身,攜糧負薪。道長食盡,苦口焦唇。

今日醉飽、樂過千春。齊賢曰 言始者貧苦、今幸懽樂當思圖。 仙人相存以下皆寓言。

仙人相存、誘我學。

海淩三山,陸憩五嶽。乘龍天飛,目瞻兩角。

授以仙藥,金丹滿握。蟪蛄蒙恩,深愧短促。

思填東海,強銜一木。齊賢曰 司馬曰 蟪蛄寒/蟬一名蝭蟧春生夏死

道重天地,軒師廣成。

蟬翼九五,以求長生。下士大笑,如蒼蠅聲。

士贇曰詩意謂 黃帝猶知以道為重師問廣成、視天位猶蟬翼之輕、以求長生久視之術。/而下愚之士、乃戀浮榮、聞道而笑、亦可哀矣。

 

 

 

 

  來日大難

  來日大難即古善哉行也葢摘首句以/命題耳樂府古題要解善哉行古詞來日大難口噪唇乾言人命不可保當樂見親友且/求長生術王喬八公遊焉按樂府詩集王僧技録善哉行乃相和歌/瑟調三十八曲之一

  

來日一身携糧負薪道長蕭本作/長鳴食盡苦口焦唇今日

醉飽樂過千春仙人相存誘我學海淩繆本/作陵三山陸

憩五岳乗龍天飛目瞻兩角繆本作乗龍上三/天飛目瞻兩角授以神

蕭本/作仙藥金丹滿握蟪蛄恩深媿短促思填東海強

一木道重天地軒師廣成蟬翼九五以求長生下士大

笑如蒼蠅聲

來日謂已來之日猶徃日也韓詩外傳乾/喉焦唇仰天而嘆梁宣帝賦餐霞永日静坐千春

魏武帝詩越陌度阡枉用相存説文存恤問也。 謝靈運詩越海淩三山 李周翰注三山蓬萊方丈瀛洲也

鄭康成周禮註五岳東曰岱宗南曰衡山西曰華山/北曰恒山中曰嵩高山荘子蟪蛄不知

春秋陸德明註司馬云蟪蛄寒蟬也。 一名蝭蟧春生夏死夏生秋死崔/云蛁也。或曰山蟪秋鳴者不及春、春鳴者不及秋廣雅云蟪蛄蛁也即楚辭所謂寒

述異記昔炎帝/女溺死東海中化為精衛其名自呼常銜西山木石填

東海偶海燕而生子生雌状如精衛生雄如海燕今東/海精衛誓水處曾溺於此川誓不飲其水詩意言人命

短促有如蟪蛄今恩而授之神藥得使長生其徳深/矣思欲報之却如精衛銜一木以填東海耳甚言其德

之深而無以為報也抱朴子黄帝過崆峒從廣成子受/自然之經蟬翼九五視九五天子之位如蟬翼之輕也

老子下士聞道大笑/之詩國風蒼蠅之聲

 

744年年44歳-12李太白集118巻三29 上之回  426-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-12【56首】Ⅰ李白詩1795 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7515

李白  上之回 #2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

李太白集 巻三29#2

上之回 #2

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Index-24

744年天寶三年44歳 

56-12) #2

426 <1000

 

 
  2016年3月23日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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744年年44歳-12李太白集118巻三29 上之回  426-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-12【56首】Ⅰ李白詩1795 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7515  
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韓愈143-#5《 巻02-19薦士 -#5》 韓愈(韓退之) 806年貞元22年 39歳-(15)-#5<1708> Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7516  
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-374-118巻三29 上之回  (三十六離宮,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  27

文體:

樂府

李太白集 

巻三29

 

 

詩題:

上之回

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

交遊人物:

 

 

 

 

 

京兆地域図002 

上之回

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)

三十六離宮,樓臺與天通。

長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。

閣道步行月,美人愁煙空。

その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。

恩疏寵不及,桃李傷春風。

それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。

淫樂意何極,金輿向回中。

天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、中に向って行幸せられた。

(上之回【じょうしかい】お上は囘りゆく)#1

三十六離宮,樓臺 天と通ず。

閣道 行月に步し,美人 煙り空しきを愁う。

恩疏にして 寵 及ばず,桃李 春風を傷む。

淫樂 意 何ぞ極まらん,金輿 回中に向う。

#2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。

前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。

しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。

唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

#2

萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。

前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。

豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。

但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。

 

『上之回』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

(下し文)
#2

萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。

前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。

豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。

但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。

 

 (現代語訳)
#2

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。

前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。

しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。

唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

扶風雍州長安003
(訳注)  #2

上之回

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)

1 上之回 宋書、漢の鼓吹鐃歌十八曲中に、上之回が有る。樂府古題の要解に、「上之回は、漢武帝、元封の初め雍に至るに因って、遂に回中の道に通じ、後に數ば遊幸す。其の歌、『帝游石、望諸國、月支臣、匈奴服。』と稱し、皆、當時の事を美するなり。

魏には『充官渡』言って、曹公が袁紹を官渡に於て破りしことをいうなり。 には『烏林』言って、周瑜が魏武を烏林に於て破ったことをいうなり。 晉には『宣輔政』と言って、宣帝の業をいうものである。 梁には、『道亡』と言って、東昏が道義を失って、師、樊鄧に起りしこというのである。 北齊には、『珍隴』と言って、神武が侯莫、陳恱を遣わし、賀技岳を誅して、隴を定めしことをいうなり。 後周には、『平竇泰』と言って、太祖が竇泰を討平したことをいうものである

贇曰「此詩言/秦皇漢武之幸回中者不過消志於神仙之亊而已豈知求賢哉時明/皇亦好神仙其諷諫之作歟」

蕭士贇の註に「この詩は、秦皇漢武の囘中に幸行するは、志を神仙の事に溺らすに過ぎざるのみ、豈に賢を求むるを知らむや、明皇も、亦た神仙を好む、其れ諷諫の作なるか」といって居る。

 

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

かくて、万乗の鹵簿を整えて、輦道より出たならば、旌旗は彩虹が揚がったように長くたくさんならぶ。

10 黃道 天子の通る道。《漢書天文志》「日有中道中道者黄道也。日君象故天子所行之道、亦曰黄道。」(日に中道有り、中道は黄道なり。日は君の象で、故に天子の行く所の道を、亦た黄道と曰う。)宋之問詩囂聲引颺聞黄道王氣周廻入紫宸。 蕭士贇曰前漢天文志 

・天球上で太陽の年周運動の行路にあたる大円。赤道と約 23°27′傾き,春分点,秋分点の 2点でそれと交わる。太陽はこの上を西から東へ 1年に 1周する。黄道上を春分点から東へ 90°動いた点を夏至点,270°つまり秋分点から 90°動いた点を冬至点といい,それぞれ赤緯+23°27′,-23°27′にあたる (→至点)

 

前軍細柳北,後騎甘泉東。

前軍は既に細柳の北に至るというのに、後騎は、やつと甘泉の東に差しかかったほどで、その行列の賑賑しく仰山なことは、言語に絶して居る。

11 細柳 漢の文帝の時、胡に備えて、三将軍が配置され、その一つ周亜夫将軍が細柳に開營下、その場所を言ってこの故事に基づいた。 《史記 ·絳侯周勃世家》。「漢文帝后元六年,匈奴大規模侵入漢朝邊境。於是,朝廷委派宗正官劉禮為將軍,駐軍霸陵;祝茲侯徐厲為將軍,駐軍在棘門;委派河郡太守周亞夫為將軍,駐軍細柳,以防備匈奴的侵略。

細柳

111巻三22司馬將軍歌 代隴上健兒陳安

紫髯若戟冠崔嵬、細柳開營揖天子。

118巻三29上之回

前軍細柳北、後騎甘泉東。

《史記 ·絳侯周勃世家》

文帝之后六年、匈奴大入邊。乃以宗正劉禮為將軍、軍霸上、祝茲侯徐厲為將軍、軍棘門、以河守亞夫為將軍、軍細柳以備胡。
(文帝の后六年、匈奴大いに邊に入る。乃ち宗正劉禮を以て將軍と為し、霸上に軍し、祝茲侯、徐厲を將軍と為し、棘門に軍し、河守、亞夫を以て將軍と為し、細柳に軍し以て胡に備う。
漢孝文帝の後六年、匈奴が大挙して辺境に入った。すなわち宗正の劉礼を以って将軍と為し、覇上に軍営を張った。祝茲侯徐万を将軍と為して、棘門に軍営を張った。河内守亞夫を以って将軍と為し、細柳に軍営を張った。以って胡(匈奴)に備えた。
上、自勞軍、至霸上及棘門軍、直馳入、將以下、騎送迎。已而之細柳軍。軍士吏被甲、兵刃彀弓弩持滿。
上、自ら軍を勞し、霸上に至り棘門軍に及び、直ちに馳せ入るや、將 以下、騎して送迎す。已に而して細柳軍ゆく。軍士吏は甲を被り、兵は刃彀弓弩で滿を持す。
上(漢孝文帝)は自ら軍を労い、覇上軍及び棘門軍に至り、直ちに馳せ入り、将軍以下騎兵が送迎した。すでに細柳軍に行き、軍の兵士、役人は鎧を被り、鋭兵刃物の武器、弓、弩(ど:おおゆみ)を引き絞り、満を持していた。
天子、先驅至、不得入軍門。先驅曰、天子且至。
天子、先驅に至るも、軍門に入るを得ず。先驅 曰く、天子 且に至らん。
天子(漢孝文帝)の先駆(さきがけ)が至ったが軍門に入ることを得られず。先駆が曰く「天子がまさに至らんとす」と。
都尉曰、將軍令曰、軍中聞將軍令、不聞天子之詔。
都尉 曰く、將軍の令に曰く、軍中には將軍の令を聞、天子の詔を聞かず。
都尉曰く、「将軍令曰く『軍営中は将軍令を聞き、天子の詔は聞かない』と。」と。
居無何、上、至又不得入、於是上乃使、使持節詔將軍、吾欲入勞軍。亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏、謂從屬車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。
居無何して、上、至るも又た入るを得ず、是に於て上 乃ち使をして 節を持って將軍に詔りせしめ、吾 軍を勞するに入らんと欲す。亞夫 乃ち言を傳えて、壁門を開く。壁門の士吏、從屬の車騎に謂うて曰く、將軍約すらく、軍中には 驅馳するを得ず。
幾許(居無何:いくばく)とたたないうちに、上(漢孝文帝)が至ったが、また入ることを得られず。ここに於いて上(漢孝文帝)はすなわち節を持った使者をつかわし将軍に詔を告げた。「吾は入り軍営を労いたい」と。周亞夫はすなわち壁門を開くよう伝言した。壁門の士吏は従属の車騎に謂った、曰く「将軍の約束で、軍営中では(車騎を)駆け馳せらせることはできない」と。
於是天子、乃按轡徐行、至營。將軍亞夫持兵揖曰、介胄之士不拜、請以軍禮見。
是に於て天子、乃ち轡を按じて徐行し、營に至る。將軍 亞夫 兵を持し揖して曰く、介胄の士は拜せず、請う軍禮を以て見えん。
ここに於いて天子はすなわち轡【くつわ】をおさえて徐行した。陣屋に至り、将軍亞夫は兵器を持ちあいさつをして曰く「鎧冑の兵士は拝礼をしません。軍礼を以って見【まみ】えることを請う」と。
天子為、動改容、式車、使人稱謝、皇帝敬勞將軍。成禮而去。既出軍門、群臣皆驚。
天子 為に、動かして容を改め、車を式し、人をして稱謝せしめ、皇帝 敬んで將軍を勞う。禮を成して去る。既に軍門に出づ、群臣 皆 驚く。
天子(漢孝文帝)は感動し、改めて聞き入れ車の前方に手をかけて礼をした。人をつかわし称えわびをさせ、「皇帝は将軍(周亞夫)を敬い労う」と。礼を成して去った。すでに軍門を出て、群臣はみな驚いた。
文帝曰、嗟乎、此真將軍矣。曩者霸上棘門軍若兒戲耳。其將固可襲而虜也。至於亞夫可得而犯邪。稱善者久之。
文帝 曰く、嗟乎、此れ真の將軍! 曩の者、霸上棘門軍は兒戲の若きのみ。其れ將て固く襲とす可して虜なり。於至り亞夫に得可くして犯邪なり。善と稱する者久しく之とす。
漢孝文帝曰く「ああ、あれが真の将軍である。さきの霸上軍、棘門軍は子供が戯れているようなだけだ。その将(将軍)はきっと襲)われ虜となるだろう。周亞夫に至っては犯すことができるだろうか」と。善いと称えること久しかった。

12 甘泉東 三輔黄圗闗輔記》林光一曰甘泉秦所造在今池陽縣西故甘泉山以山為名周匝十餘里、漢武帝建元中、増廣。之周十九里。去長安三百里、望見長安城、黄帝以來圜丘祭天處。」(林光甘泉曰う秦が造る所なり、今の池陽縣の西、故の甘泉山に在る。周匝十餘里、漢武帝建元中、増廣。之周十九里。長安を去ること三百里、望見長安城を、黄帝以來の圜丘、祭天する處なり。

 

豈問渭川老,寧邀襄野童。

しかし、天子は、むかし、周の文王が渭水の上に太公望を尋ねあてたという様な訪賢の志もなく、又、黄帝が襄陽城の野で童子にたまたま出遭ったという様な謙虚さも、得道の願もないのである。

13 渭川老 太公望のこと。

14 襄野童 《荘子》黄帝将見大隗乎具茨之山至於襄城之野七聖皆迷無所問途。適遇牧馬童子問途焉。黄帝再拜稽首稱天師而退。」(黄帝 将に大隗を具茨の山に見んとし、襄城の野に至る。七聖 皆 迷い、途を問う所を無し。適ま牧馬の童子に遇うて途を問わん。黄帝 再拜 稽首して、天師と稱して退る。

 

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

唯だ、周の穆王が瑤池に於て、西王母と宴を催したという様な神仙の事を慕われて居るだけなので、やがて、歸られても、その樂、歓楽、快楽というものが、とこしえに尽きることがない様にと、心に祈って居られるのである。

15 瑤池宴 神仙の故事である《列子》「周穆王升崑崙之丘於西王母觴於瑶池之上。」(周穆王、崑崙之丘に升り、遂に西王母、瑶池之上に於て觴す。)とあるに基づく。
李白図102 

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李白  上之回

三十六離宮,樓臺與天通。閣道步行月,美人愁煙空。

恩疏寵不及,桃李傷春風。淫樂意何極,金輿向回中。

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)  長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、中に向って行幸せられた。

李太白集 

巻三29

上之回

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7510

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-12

426 <1000

 

 
  2016年3月22日 の紀頌之5つのBlog  
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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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  温庭筠66首 花間集1・2巻 皇甫松11首 花間集二巻 韋莊47首 花間集二巻 薛昭蘊19首 花間集三巻 牛嶠31首 花間集三・四巻 張泌27首 花間集四巻  
  毛文錫31首 花間集5巻 牛希濟11首 花間集5巻 欧陽烱17首 花間集5・6巻 和凝20首 花間集6巻 顧夐56首 花間集6・7巻 孫光憲47首 花間集7・8巻  
  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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-374-118巻三29 上之回  (三十六離宮,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  27

文體:

樂府

李太白集 

巻三29

 

 

詩題:

上之回

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

   

交遊人物:

 

 

 

 

 

全唐詩 卷163_27 《上之回》李白 

上之回

三十六離宮,樓臺與天通。閣道步行月,美人愁煙空。 

恩疏寵不及,桃李傷春風。淫樂意何極,金輿向回中。 

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。 

豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。 

 

李太白集分類補註巻四  宋 楊齊賢 集註 元 蕭士贇 補註

   上之回

   士贇曰 漢帝、元封初、因至雍、遂通回中道、後數遊幸。焉其歌稱『帝遊石諸國月支臣匈奴服』葢誇時事也。

魏曰 『充官渡』言、曹公破袁紹於官渡也。 曰 『烏林』言、周瑜破魏武於烏林也。 晉曰『宣輔政』言、宣帝之業也。 梁曰、『道亡』言、東昏失道義、師、起樊鄧也。 北齊曰、『珍隴』言、神武遣侯莫陳恱、誅賀技岳、定也。 後周曰、『平竇泰』言、太祖討平竇泰也。

   三十六離樓臺與天通。閤道步行月美人愁煙空

   /賢曰西都賦離/館三十六所

恩踈寵不及桃李傷春風淫樂意何極金輿向回中

士贇曰「《括地志》云、秦回中在岐州雍縣西四十里」

萬乗出黄道、千旗揚彩虹。前軍細柳北後騎甘泉東

齊賢曰天子曰萬/乗日行黄道言人君動法於日也士贇曰秦之林光漢之甘泉在雍州/雲陽西北八十里秦始皇作甘泉去長安三百里望見長安城黄帝以/來祭天屯兵處

豈問渭川老邀襄野童但慕瑶池宴歸來樂未窮

渭川老:齊賢曰渭川老望也士。

贇曰此詩言/秦皇漢武之幸回中者不過消志於神仙之亊而已豈知求賢哉時明/皇亦好神仙其諷諫之作歟

 

 

李太白集注巻四   錢塘 王𤦺 撰

  上之回

  按宋書漢鼓吹鐃歌十八曲中、有上之回。樂府古題要解、「上之回、漢武帝、元封初因至雍、遂通回中道、後數遊幸焉。其歌、稱『帝游石望諸國、月支臣、匈奴服。』、皆、美當時事也。

三十六離宮,樓臺與天通。閣道步行月,美人愁煙空。 

恩疏寵不及,桃李傷春風。淫樂意何極,金輿向回中。 

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。前軍細柳北,後騎甘泉東。 

豈問渭川老,寧邀襄野童。但慕瑤池宴,歸來樂未窮。 

三十六離宮・西都/賦離宫别館三十六所 

・章懐太子註三輔黄圖曰上林有建/章承光等一十一平樂繭觀等二十五館凡三十六所與天通極言其髙與天相近也。

閣道・《西京賦》閣道穹窿。向註 閣道飛陛也。

行月・沈約詩騰葢隠奔星低鑾避行月 

金輿・史記人體安駕乗為之金輿錯衡以繁其飾

回中・漢書元封四/年冬十月行幸雍祠五畤通回中道 應劭曰回中在安定高平有險阻蕭在其北又  ・《史記正義括地志》云秦/回中在岐州雍縣西四十里。・太平寰宇記回中翔府天興縣西。

黃道 宋之問詩囂聲引颺聞黄道王氣周廻入紫宸。 蕭士贇曰前漢天文志日有中道中道者黄道也。日君象故天子所行之道亦曰黄道。 

魏文帝詩/丹霞蔽日彩霞垂天漢書註細栁服曰在長安西北如淳曰長安倉在渭北近石

徼張揖曰在昆明/池南今有市是也。

三輔黄圗闗輔記林光一曰甘泉秦所造在今池陽縣西故甘泉山以山為名/周匝十餘里漢武帝建元中増廣之周十九里去長安三百里望見長安城黄帝以來圜丘祭天處遁甲開山/圖云雲陽先生之墟也

梁簡文帝上之回云前回中後車隅桂太白盖用其句法史記尚盖嘗窮困/年老矣以魚釣干周西伯西伯将出獵卜之曰所獲非龍非彲非虎非羆所獲霸王之輔於是周西伯獵果遇/太公於渭之陽與語大悦曰自吾先君太公曰當有聖人適周、周以興子真是耶吾太公望子久矣、故號之曰/太公望載與俱歸立為師荘子黄帝将見大隗乎具茨之山至於襄城之野七聖皆迷無所問途適遇牧馬童/子問途焉曰若知具茨之山乎曰然若知大隗之所存乎

曰然黄帝曰異哉。小童非徒知具茨之山又知大隗/之所存請問為天下小童曰予少而自游於六合之内予適有瞀病有長者教予曰若乗日之車而遊於襄城/之野今予病稍痊予又且復遊於六合之外夫為天下亦若此而已矣又奚事哉

黄帝再拜稽首稱天師而退

梁簡文帝詩聊驅式道侯無勞襄野童列子周穆王升崑崙之丘遂於西王母觴於瑶池之上

蕭士贇曰詩/言漢武幸回中不過溺志於神仙之事豈為求賢

明皇亦好神仙此/其諷諌之作歟

 

漢長安城 00 

上之回

(漢の武帝の遊幸するのを賛美したことを述べて、玄宗を諷したものである。)

三十六離宮,樓臺與天通。

長安の近郊には、三十六所の離宮があって、いずれも、楼臺高く聳えて天にも届くばかり。

閣道步行月,美人愁煙空。

その間には、閣道を以てそれぞれ通じ、美人は、更け行く月に乗じて、おもむろに歩を移し、苑中の樹の間に煙りの晴れた時にも似て、その顔には、暗愁を帯びて居る。

恩疏寵不及,桃李傷春風。

それは何故かというと、天子の恩澤、甚だ疏にして、寵幸未だ其身に及ばざるが故に、桃李の艶なるも、春風を傷んで、自らたえざるが如くである。

淫樂意何極,金輿向回中。

天子は、淫樂を旨として、飽くことを知らず、そして、始終、宮中にばかり居ては面白くないというので、はるかに、金輿を移し、中に向って行幸せられた。

(上之回【じょうしかい】お上は囘りゆく)#1

三十六離宮,樓臺 天と通ず。

閣道 行月に步し,美人 煙り空しきを愁う。

恩疏にして 寵 及ばず,桃李 春風を傷む。

淫樂 意 何ぞ極まらん,金輿 回中に向う。

#2

萬乘出黃道,千旗揚彩虹。

前軍細柳北,後騎甘泉東。

豈問渭川老,寧邀襄野童。

但慕瑤池宴,歸來樂未窮。

#2

萬乘 黃道を出で,千旗 彩虹を揚ぐ。

前軍は 細柳の北,後騎は 甘泉の東。

豈に問わんや 渭川の老,寧ろ邀えんや 襄野の童。

但だ 瑤池の宴を慕い,歸り來って 樂み 未だ窮らず。

 

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李白  山人勸酒#2

  各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。起佐太子,漢王乃複驚。

  顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。歸來商山下,泛若雲無情。

  舉觴酹巢由,洗耳何獨清。浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。
四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

李太白集 

巻三7

山 人 勸 酒 #2

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-373-96巻三7 山人勸酒  (蒼蒼雲松,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  7

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

山人勸酒

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

商山 (山南東道 商州 商縣、 洛南の南

嵩嶽(中嶽)  穎水   

交遊人物:

 

 

 

 

  卷163_7 《山人勸酒》李白 

山人勸酒

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼雲松,落落綺皓。 

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。 

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。 

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

(山人 酒を勸む)

蒼蒼たる雲松,落落たる綺皓。

春風 爾 來って阿誰【あすい】の為にする,蝴蝶 忽然として芳草に滿つ。

秀眉は霜雪 顏は桃花,骨は青く髓は綠なり 長しえに美好なり。

是を稱して  “秦時世を避けるの人”と,酒を勸め 相い歡んで 老いを知らず。
#2

各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。

四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。

欻起佐太子,漢王乃複驚。 

ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。

顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。

その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。

歸來商山下,泛若雲無情。 

かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。

舉觴酹巢由,洗耳何獨清。

かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。

浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。 

それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

#2

各おの麋鹿の志を守り,龍虎の爭に隨うを恥ず。

欻ち起って太子を佐け,漢王 乃ち複た驚く。

顧みて戚夫人に謂う,彼の翁羽 翼 成れり、と。

歸り來る 商山の下,泛として雲の情無きが若し。

觴を舉げて 巢由に酹す,耳を洗う 何ぞ獨り清き。

浩歌して 嵩嶽を望めば,意氣 還た相い傾く。

 

 

『山人勸酒』現代語訳と訳註解説
(
本文)

#2

各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。

起佐太子,漢王乃複驚。

顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。

歸來商山下,泛若雲無情。

舉觴酹巢由,洗耳何獨清。

浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。

(下し文)
#2

各おの麋鹿の志を守り,龍虎の爭に隨うを恥ず。

欻ち起って太子を佐け,漢王 乃ち複た驚く。

顧みて戚夫人に謂う,彼の翁羽 翼 成れり、と。

歸り來る 商山の下,泛として雲の情無きが若し。

觴を舉げて 巢由に酹す,耳を洗う 何ぞ獨り清き。

浩歌して 嵩嶽を望めば,意氣 還た相い傾く。


(現代語訳)
#2

四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。

ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。

その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。

かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。

かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。

それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

華山蓮花峰00
(訳注)  #2

山人勸酒

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

1 王琦の註によると、「此題、未だ始る所を詳らにせず、而して、樂府詩集、太白の是の作を編して琴曲歌辭中に入る」とあり、古い詩があって、それに基づき、倣ってつくったものであろうからこのような詩形になったと思われる。

 

各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。

四皓等は、糜鹿の野性を守って、人間界に遠ざかり、秦の末から項羽の亡ぶるまで、龍寵虎の争いがたえなかったが、その中に立ち変るを愧じて、長く山中に暮らして居たのである。

麋鹿 大鹿と鹿。獣類。「飛鳥 (ひちょう) () を遺 (のこ) し―痕を印する」〈鹿と同じ種〉シカのような角をもちながらシカでない。ウシのような蹄をもちながらウシでない。ウマのような顔をもちながらウマでない。ロバのような尾をもちながらロバでない。このように四つの動物に似た特徴をもちながら、そのいずれとも異なるために「四不像」と呼ばれる。

龍虎爭 秦未より漢初に亙れる争乱を指す。中国秦末期に陳勝と呉広が起こした、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱は、秦を滅亡させたものであり楚漢戦争を経て漢が全土を平定した。秦末から朝廷権力闘争、王の継承問題が起こっていた。

 

欻起佐太子,漢王乃複驚。

ところが、一朝、時運の到來するや、忽然としで起ち、再び世の中へ出てきて、漢の太子を助けた。

【四】歘起 忽ち~が起こる。

漢王乃複驚 戚夫人の子、如意を皇太子に立てるようにたびたび懇望した。寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた劉盈に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い張良の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たちを自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は趙王のままとされた。

②齊賢曰 《史、留侯 世家》 上 欲廢太子立戚夫人子趙王如意。 后恐。 留侯為畫 曰此難以口舌爭也。 顧 上不能致者天下有四人、逃匿山中、義不為、漢臣、然上髙此四人。 今公誠能、令太子為書、卑辭安車、固請來以為客、時時從入朝、令上見之、則一助也。

-#2 於是后令呂澤使人、奉太子書/卑辭厚禮、迎此四人。四人至客建成侯所十二年、上、從撃破布軍歸疾益甚、愈欲易太子。及燕置酒、太子侍、四人、從太子。年皆八十有餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。 上、怪之問曰、彼何為者!。四人前對、各言名姓曰、東園公、甪里先/生、綺里季、夏黄公。 上 大驚曰 吾求公數歳、公、逃避我。 今公何自從吾兒游乎。 四人皆曰 陛下輕士、善罵。 臣等、義不受辱。故恐而亡匿。 竊聞太子為、人仁孝恭敬、愛士、天下莫不延頸、欲為太子死者。 故臣等來。上曰、煩公、幸卒/調太子。四人為 壽已畢趨去。 

-3 上、目送之、召戚夫人、指示四人者曰、我欲易之彼四人輔之、羽翼已成、難動矣。呂后真而主矣。戚夫人泣。上、曰、「為我楚舞、吾為若楚歌。」歌曰、「鴻鵠髙飛、飛舉千里。羽翮已就、横絶四海、横絶/四海、當可奈何、雖有矰繳尚安所施。」歌數闋、戚夫人、噓唏流涕。上起去、罷酒、不易太子、留侯本招此四人之力也。

齊賢曰 《史、留侯 世家》 上 太子を廢して戚夫人の子趙王如意を立んと欲す。 后恐る。 留侯 に畫 曰く此の難 以て口舌爭うなり。 顧て 上 致す能はざる者、天下に四人有り、山中に逃れて匿れ、義として漢の臣として為らず、然れども、上、此の四人を髙しとす。今、公 誠に能く、太子をして書を為らしめ、卑辭安車、固く請われ來って以て客と為し、時時 從えて入朝し、上をして之を見せしむれば、則ち一助なり。

-#2 是に於て后 呂澤に令じ 使人をして、太子の書を奉じ、辭を卑うし、禮を厚うして、此の四人を迎えしむ。四人は客建し侯と成る所、十二年に至る、上、從て布軍を撃破すも、疾益ます甚しくして歸り、愈いよ太子を易えんと欲す。燕して置酒するに及び、太子侍し、四人、太子に從う。年、皆、八十有餘、鬚眉皓白、衣冠 甚だ偉なり。 上、之を怪しみ問うて曰く、彼 何為する者ぞ、と。四人前んで對え、各おの 名と姓を言うて曰く、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公、と。 上 大いに驚いて曰く 吾 公を求むること數歳、公を避け我を逃れる。 今、公 何ぞ自ら吾が兒に從って游ぶや。 四人 皆 曰く「陛下士を輕んじて、善く罵る。 臣等、義として辱めを受けず。故に恐れて亡げ匿る。 竊に聞く太子と為り、人仁孝恭敬、士を愛し、天下 頸を延し、太子の為に死せんことを欲せざる者は莫し。」と。 故に臣等 來のみ。上曰く、「公を煩わす、幸いに卒に太子を調せよ。」と。四人壽を為し已に畢って趨り去る。 

-3 上、之を目送し、戚夫人を召し、四人者に指示して曰く、我 之を易んと欲す、彼の四人之を輔く、羽翼 已に成る、動かし難しれるや。呂后は真にして主と。戚夫人は泣く。上、曰く、「為我楚舞、吾為若楚歌。」(我がに為楚舞せよ、吾が為に楚歌せん。)と。歌うて曰く、「鴻鵠は髙く飛び、飛び舉ること千里。羽翮已に就く、絶四海を横し、絶四海を横し、奈何にすべきに當り、矰繳有り雖ども尚お安じて施す所なり。」歌 數闋、戚夫人、噓唏流涕す。上 起って去り、酒を罷めて、太子を易えず、留侯 本と此の四人を招くの力なり。」

留侯 張良のこと。秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。諡は文成。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた。蕭何・韓信と共に漢の三傑とされる。劉邦より留に領地を授かったので留侯とも呼ばれる。子には嗣子の張不疑と少子の張辟彊がいる。

 

顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。

その時、高祖は、太子を代えようと思って居たが、最早仕方が無いといって愈よ断念し、寵姫の戚夫人を顧み、かういふ老翁達が出てきて、太子の羽翼となって、これを輔佐するということであって見れば、汝の生んだ趙王如意を立てて太子とすることは到底出家ぬと仰せられ、ついに太子を廃することを断念せられた。

 

歸來商山下,泛若雲無情。

かくて、國本幸に動かす、漢は四百年の帝祚を保つことができた。そこで、初めて安心したというので、四皓は、元の商山に帰り、さながら、泛然たる雲の無心なるが如く、そんな事はまるで知らぬ様な顔をして居た。

商山 通典に「商州上洛願に南山あり、亦失地肺山と名づけ、亦圭楚山と名づく、四時の陰るろところ」とあり、邁鑑地理適確に「商山は商州南路慮南一里に在り」と記してみろ。

 

舉觴酹巢由,洗耳何獨清。

かくて、商山にかえりし後は、いにしえの隠者たる巣父・許由に向つて一杯を献じ、これを弔うことを禁じ得なかったので、その心では、お前さん達は、耳を洗ったらして、住いには相違ないが、毫も天下の事に干與せず、独善主義を守って居たのは、同情し兼ねると思って居たのであろう。

巢由 茶盆と許由.逸士修に「某父に義時の陰人、年老い、樹を以て某となして、その上に痕わ。故に人波して某父と馬す。勇の許由に譲るや、由、以て某父に告ぐ。某父日く.汝、何ぞ汝の形を隙し、汝の光を萩ぜざる、菅が友に非ざるなり、と。乃ち其替わ撃って之ね下す。許由、憤然として自得せず、乃ち清給の水に遇うて、そり耳を淡ひ、その日毎拭うて日く、さきに言を開く、菅が友に負けりと。蓬に去って相見えず」とある。許由は前に見岬。

 

浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。

それから又、巣父・許由の隠れたといふ嵩山を望み、君達も、我等も、ともに世を避けた人であるが、どちらが神仙としての本文であろうかと、意気相傾けて、浩歌したことであろう。

萬嶽 即ち常山、五嶽り「初登記に「嵩高山に五番の中岳なり、南に許由山あり、高大四編、その北に秦嶺山脈終南山穎水あり、勇、許由わ略す、その慶、なほ噂嘩あり」と記してある.



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李白  山人勸酒-#1 

蒼蒼雲松,落落綺皓。春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。
(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

李太白集 

巻三7

山 人 勸 酒#1

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-373-96巻三7 山人勸酒  (蒼蒼雲松,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六三  7

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

山人勸酒

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

商山 (山南東道 商州 商縣、 洛南の南

嵩嶽(中嶽)  穎水   

交遊人物:

 

 

 

 

  卷163_7 《山人勸酒》李白 

山人勸酒-#1

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼雲松,落落綺皓。 

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。 

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。 

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

(山人 酒を勸む)

蒼蒼たる雲松,落落たる綺皓。

春風 爾 來って阿誰【あすい】の為にする,蝴蝶 忽然として芳草に滿つ。

秀眉は霜雪 顏は桃花,骨は青く髓は綠なり 長しえに美好なり。

是を稱して  “秦時世を避けるの人”と,酒を勸め 相い歡んで 老いを知らず。
#2

  各守麋鹿志,恥隨龍虎爭。欻起佐太子,漢王乃複驚。 

  顧謂戚夫人,彼翁羽翼成。歸來商山下,泛若雲無情。 

  舉觴酹巢由,洗耳何獨清。浩歌望嵩嶽,意氣還相傾。 

 

華山001 

 

『山人勸酒』現代語訳と訳註解説
(
本文)

山人勸酒-#1

蒼蒼雲松,落落綺皓。

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。

(下し文)
(山人 酒を勸む)

蒼蒼たる雲松,落落たる綺皓。

春風 爾 來って阿誰【あすい】の為にする,蝴蝶 忽然として芳草に滿つ。

秀眉は霜雪 顏は桃花,骨は青く髓は綠なり 長しえに美好なり。

是を稱して  “秦時世を避けるの人”と,酒を勸め 相い歡んで 老いを知らず。

(現代語訳)
山人勸酒(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

大明宮の圖003
(訳注) 

山人勸酒-#1

(商山の四皓を叙し、漢の太子の逸話を述べ、あわせて、唐の太子についての自分の思いを述べたもの)

1 王琦の註によると、「此題、未だ始る所を詳らにせず、而して、樂府詩集、太白の是の作を編して琴曲歌辭中に入る」とあり、古い詩があって、それに基づき、倣ってつくったものであろうからこのような詩形になったと思われる。

 

蒼蒼雲松,落落綺皓

蒼蒼として雲のいる松の樹の聳え立つ、その下には、落落たる綺里季を筆頭にした商山の四皓が憩うて居る。

2 綺皓 秦末に商山(陝西省商県)に乱を避けて隠居した4人の老人、東園公,夏黄公,甪里【ろくり】先生,綺里季の4人で,鬚眉がみな白かったのでこのように呼ばれた。綺里季,秦朝及漢朝の初年における著名な隱士であり、高士である。商山四皓の一人であり,外三人は、東園公、夏黃公、甪里齊である。四人は秦朝の暴政を經歷し目にし,先後して、山林に隱居して茅を結んだ。漢の高祖劉邦は曾て屢ば次召し他們に見ゆ,都避至ることはなかった。曾て三顧の礼で召されたとき、漢高祖劉邦に廢太子するを勸諫した。この詩の後半に詳しい。

 

春風爾來為阿誰,蝴蝶忽然滿芳草。

この四皓らは、隠棲の山人であるから、その楽しみとする所も、世人とは異なって、遥かに高尚なものであろうが、春風は四皓らのためにふくわけでなく、誰のためというわけでなく、何時しか春になれば、自然に芳草は生じ、蝴蝶は其処に戯れるのである。四皓の四人もこれを見て、面白く感じるものであろう。

3 蝴蝶忽然滿芳草 道教の始祖の1人とされる人物の荘子(荘周)による説話である。『荘子』内篇の斉物論第二にある、 「むかし、荘子は夢に胡蝶となり、自由に楽しく飛び回っていたが、目覚めると紛れもなく荘子である。しかし、荘子が夢に胡蝶となったのだろうか、胡蝶が夢に荘子となったのだろうか……」といった内容で、荘子の思想を象徴する寓話とも言われる。  この説話は、『荘子』の中でも重要とされる「斉物論篇」を締めくくる位置にある。「斉物論」とは「万物は全て斉しい(等しい)とする論」とされ、是非・善悪・彼我を始めとした区別は絶対的なものではない事を主張している。  この説話でも、夢と現実(胡蝶と荘子)の区別が絶対的ではないとされると共に、とらわれのない無為自然の境地が暗示されている。

 

秀眉霜雪顏桃花,骨青髓綠長美好。

ただ、この四人の秀でたる眉は霜雪を積んで白く、顔は桃の花のごとく鮮やかに輝いている、そして、金丹を練って服しているから、骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しく変わることはない。

4 秀眉二句 仙人の様相をいう、青年が白髯を生やしているすがたであるということ、若々しい容貌(骨は青く、髄は緑で、顔色はとこしえに美しい)であり、西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。

 

稱是秦時避世人,勸酒相歡不知老。

この四皓は秦の始皇帝の末期ごろ、暴政を避けて、商山に隠れたのであり、世俗を立ったのであるが、この春景色を見れば、やはり楽しいと見え、互いに酒を進めて歓談し、おいてゆくのも認識することはなかったのである。

5 秦時 秦末期、万里の長城や阿房宮の建設に、主に農民を使役させ、焚書坑儒などの思想政策も断行した。だでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまった頃を言う。

 

 

 

李太白集分類補註巻四  宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註

  山人勸酒 -#1

    〔王琦〕此題、未詳所始、而、樂府詩集、/編太白是作入琴曲歌辭中。   

士贇曰樂府觴酌七/曲其一曰山人勸酒

蒼蒼雲松、落落綺皓

綺皓 士贇曰、綺皓、乃商山四皓之綺里季也。  《髙士傳》「四皓見秦政虐、乃逃入藍田山」 作歌曰 漠漠髙山深谷 逶迤曄曄紫芝可以/療飢唐虞世  吾將安歸駟馬髙  葢其憂甚大富貴之留人不如貧賤而肆志  乃/共入商洛山以待天下定

春風爾來為阿誰、蝴蝶忽然滿芳草。

秀眉霜雪顔桃花、骨青髓綠長美好。

稱是秦時避世人、勸酒相歡不知老。

#2

各守麋鹿志、恥隨龍虎爭

歘起太子漢皇乃復驚。

顧謂戚夫人、彼翁羽翼成。

歘起太子漢皇乃復驚の四句 ②齊賢曰 《史、留侯 世家》 上 欲廢太子立戚夫人子趙王。 如意后恐。 留侯為畫 曰此難以口舌爭也。 顧 上不能致者天下有四人、逃匿山中、義不為、漢臣、然上髙此四人。 今公誠能、令太子為書、卑辭安車、固請來以為客、時時從入朝、令上見之、則一助也。

-#2 於是后令呂澤使人、奉太子書/卑辭厚禮、迎此四人。四人至客建成侯所十二年、上、從撃破布軍歸疾益甚、愈欲易太子、及燕置酒太子、侍四/人、從太子、年皆八十有餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。 上、怪之問曰、彼何為者四人前對、各言名姓曰、東園公、甪里先/生、綺里季、夏黄公。 上 大驚曰 吾求公數歳、公、逃避我。 今公何自從吾兒游乎。 四人皆曰 陛下輕士、善罵臣等、義不受辱。故恐而亡匿。 竊聞太子為人仁孝恭敬愛士、天下莫不延頸、欲為太子死者。 故臣等來。上曰、煩公、幸卒/調太子四人為。 壽已畢趨去。 

-3 上、目送之、召戚夫人、指示四人者曰、我欲易之彼四人輔之、羽翼已成、難動矣。呂后真而主矣。戚夫人泣。上、曰、「為我楚舞、吾為若楚歌。」歌曰、「鴻鵠髙飛、飛舉千里。羽翮已就、横絶四海、横絶/四海、當可奈何、雖有矰繳尚安所施。」歌數闋、戚夫人、噓唏流涕。上起去、罷酒、不易太子、留侯本招此四人之力也。

歸來商山泛若雲無情。

舉觴酹巢由、洗耳何獨清。

浩歌望嵩嶽、意氣還相傾。

巢由 齊賢曰 九域志曰 頴昌府唐之許州許昌郡有許由臺/巢父臺士贇曰逸士傳曰巢父堯時隱人年老以樹為巢而寢其上故人號為巢父堯之讓許由也由以告巢/父巢父曰汝何不隱汝形藏汝光非吾友也。  乃擊其膺而下之許由悵然不自得乃遇清泠之水洗其耳拭、其/目曰、嚮者聞言負吾友遂去終身不相見樊仲父牽牛飲之見巢父洗耳乃驅牛而還恥令其牛飲其下流也

⑤此意謂巢由之矯激、不若四皓之時行時止。一出而國本定、事成、則復歸乎商山。巻舒自在、若無心之雲也。中庸之徳、其至矣乎、何以獨清為哉。太白、葢、為明皇欲廢太子琰 有所感而作是詩也。 

⑥ 初瑛母以倡進鄂光二王/母以色選。 武惠妃寵幸後王、愛與諸子絶等而太子二王以母失寵頗怏怏。惠妃女婿楊揣妃㫖伺太子短譁為醜語。 惠妃訴于帝且泣帝大怒召宰相議廢之。

⑦ 張九齡諫得不廢。 俄而九齡。 罷李林甫、専國數稱王、美以探。 妃意妃果徳之。 二十五年洄復搆瑛瑶琚與妃之兄薛輔異謀。惠妃、使人詭召太子二王曰、宮中有賊、請戒、以兵入。太子從之。 妃白帝曰、太子二王謀、反甲而來帝使中人視之如言。

⑧  遽召宰相林甫議。 答曰陛下家事非臣所宜。 豫帝意决乃詔廢為庶人尋遇害。天下寃之號三庶人。中惠妃病、數見庶人為祟。因召/巫祈之、請改葬、且射行刑者瘞之、訖不解。妃死祟亡、明皇之時、盧鴻、王希夷、隱居嵩山、李元愷、筠之徒、皆以/隱逸稱、或召至闕庭、或遣問政事、徒爾髙議濶論、然未有能如四皓之一言而、太子得不易也。 末句曰、「浩歌望/嵩嶽。意氣還相傾「」亦深不滿於當時嵩嶽之隱者、歟其意、微而婉矣。

出を冠に宗&KR1090

 【】たたり、祟り。

744年年44歳-10李太白集74巻二15 行路難三首 其三 #2 424-#2Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-10【56首】Ⅰ李白詩1791 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7495

李白  行路難三首 之三#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

李太白集巻一44

行路難三首 其三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7485

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

423 <1000

 

 

 
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李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱、太白改、以叶韻、葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。

索隠曰 税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

 

-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君不見張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

李白の足跡0000 

 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)#2

#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

(含異文) 有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(下し文)

#2

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(現代語訳)

あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍したとして、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

 

汜水関などの地図 

(訳注) #2

行路難,三首之三 #2

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

1】      行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

 

陸機雄才豈自保 李斯駕苦不早 
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず、讒言にあって謀反の疑いで軍中に処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、早く官をやめればよかったが、権力争いに敗れて殺害された。

【6】   陸 機 (りくき261- 303年)は、中国三国時代から西晋の文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つである陸氏の出身。祖父は陸遜。父は陸抗。子は陸蔚、陸夏。本籍は呉郡呉県(今の江蘇省蘇州市)。ただし家は呉の都建業(現在の江蘇省南京市)の南や、祖父の封地であった華亭(雲間とも。現在の上海市松江区)等にあったようである。父と共に呉に仕えて牙門将となった。天紀4年(280年)、晋との戦いで二人の兄の陸晏と陸景を失い、間もなく祖国も滅亡したため、故郷に引退する。この滅亡に憤慨して『弁亡論』を著した。やがて、説得に応じて弟と共に晋に仕官する事になった。既に陸機の文名は洛陽にも伝わっていたため、高官である張華は「呉討伐の戦果は、この二人の俊才を得たことだ」と言ったといわれている。その後、太子洗馬・著作郎を務めて、恵帝の治世下でも順調に出世を続けた。だが、次第に八王の乱の混乱に巻き込まれていく事になる。太安28月穎は洛陽で実権を握っていた長沙王司馬乂討伐を決意すると、彼は陸機の能力を評価して平原相・後将軍・河北大都督に任命、陸機は洛陽に向かって進撃したが、彼自身は祖父や父ほど将才に優れていなかった事に加え、配下達も「呉の降将」として彼を蔑んだ事もあって、十分な指揮が執れず、10月に洛陽城の建春門の攻防において大敗してしまった。謀反の疑いで処刑されてしまった。この時、陸機の二人の息子と、弟の陸雲・陸耽までもが連座して殺され、陸遜直系の子孫は断絶となった。《晉書》「成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白、與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。」(成都王穎、兵を起して長沙王乂を討ち、陸機に後將軍河北大都督を假し、北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人を督して、鹿苑に戰う。機の軍、大いに敗る。宦人孟玖、機を穎に譖して、其の異志有るを言う。穎 怒り、秀をして、機を收めしむ。機 戎服を釋き、白著け、秀と相い見て神色自若、既に而て嘆じて曰く、華亭の鶴唳、豈に復た聞く可けんや。遂に害に軍中に遇う。)とある。《世説》の註に八王の乱の故事をひいて曰う、「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」(華亭は、由拳縣の郊外の墅なり。清泉茂林有り。 平ぐ後、陸機兄弟、共に此にぶこと十餘年。)とあり、つづいて語林曰く、「機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。」(機 河北都督と為る。警角の聲を聞き、孫丞に謂うて曰く、聞けば此れ華亭の鶴唳に如しかず、故に刑にんで此れ嘆説の文有り唳するは鶴鳴なり。)と讒言によって、一族は絶えた。

【7】   李 斯(り し? - 紀元前208年)儒家中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。・李斯税駕苦不早 《史記》に「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為。門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、『吾聞之荀卿』、曰、『物禁太盛。』夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位、無居臣上者、可謂富貴極矣。物極則衰、吾未知所税駕也。」(李斯丞相と為り、長男は由、三川の守と為り、諸男、皆 秦の公主を尚し、女は悉く秦の諸公子に嫁す。李由、咸陽に告歸するるや、李斯 家に置酒し、百官の長、皆 前んで為す門庭車騎、以。 李斯、喟然として嘆じて曰く、『吾 之を荀卿に聞く』、曰く、『物は太はだ盛んなるを禁ず。』と。夫れ 斯 乃ち上蔡の布衣、閭巷の黔首、上、其の駑下を知らず、遂に遷た擢んで此に至る。當今、人臣の位、臣の上に居る者無し、富貴極れりと謂う可し。物極まれば則ち衰う、吾 未だ税駕する所を知らざるなり。)とあり、索隠は曰う「税駕猶解駕、言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。」(税駕、言休息なり。李斯の言は 巳、今日富貴、已に 極り未だ向後を知らず、吉凶 止泊し、何處に在らんや。)とある。太平御覽に《史記》を引いて“史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。」(史記に曰う「李斯 刑に臨み、黄犬を牽き、蒼鷹を臂し、上蔡の東門を出んと思えども得可からず。)とあり、蕭士贇の補註に「考今本史記李斯傳中無臂蒼鷹字而太白詩中屢用其事 當另有所本。」(今、この本を考えるに、《史記 李斯傳》中に、「臂蒼鷹」の字は無く、而して太白詩中、屢しば用いたのは、其の事 當に另の本づく所が有ったということである。

 

華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道 
陸機は故郷の華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたいが二度と聞けなかったし、李斯は息子らとともに、敏俊な蒼鷹を臂にし、故国の上蔡の城門を出て、狩をしたいといったのだが、できないと嘆息にしても何の役にも立たない。

【8】   華亭県(かてい-けん)は中華人民共和国甘粛省平涼市に位置する県。県人民政府の所在地は東華鎮。華亭県は東は崇信県、西は庄浪県、寧夏回族自治区の涇源県、南は張家川回族自治県と陝西省隴県、北は崆峒區に隣接する。

【9】   上蔡県(じょうさい-けん)は中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する県。
 

君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君はもう見ることはできないが、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったのである。

【10】 張翰 昔、晋の張翰が、秋風に故郷である呉の菰菜(こさい)、蓴羹(じゅんさいのあつもの)、鱸魚膾(すずきのなます)を思い出し、それを食べたい一念で官を辞して故郷へ帰った。この後、すぐ世が乱れた。人々は、世の乱れを察していた張翰が故郷の味を口実に先手を打ったのだと思ったという逸話。李白「秋荊門を下る」

《晉書》に「張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、『人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。』遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」(張翰、字は季鷹、郡の人なり。清才有り、善く文を屬す、而かも、縱任拘らず。齊王の冏、辟して大司馬、東曹掾と為す。冏、時に權を執る。翰、秋風の起る見るに因って、乃ち中の菰菜、蓴羮、鱸魚の膾を思うて曰く、『人生、適志を得るを貴ぶ、何ぞ能く羇宦數千里、以て名爵を要せんや。』と。遂に駕を命じ、而して歸る。俄にして 冏 敗る。人 皆 之を『機を見る』と謂う。翰は心に任せて自適し、當世に求めず。或いは之に謂ううて曰く、『卿は乃ち縱とい一時に適す可きも、獨り身後の名を為さざるか。』と。荅えて曰く、『我をして身後の名を有らしむも、即時一杯の酒に如かず。』と。時人 其の曠達を貴ぶ。とある。 

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
先の事も、これまでのことを悩んだり悔んだりするより、今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって、名声を拍しても、何になろうか。これ、すなわち行路難のこの世に処する第一の事である。

【11】   【解説】行路難ということ、第一首は、黄河の氷、大行山脈の雪、であった。第二首は、才のある明主に遭わないことであった。この第三首において、行路難の極みをいうが、それは「張翰稱達生」であり,「秋風忽憶江東行」でもって理想的行動、行路としている。行路は難であれ、「千載名」よりも、張翰のごとく「樂生前一杯酒」を大切にするということである。

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李白  行路難三首 之三

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三  才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。 

李太白集巻一44

行路難三首 其三 #1

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Index-24

744年天寶三年44歳 

56-9

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-372-74巻二15 行路難三首 其三  (有耳莫洗潁川水,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  12-3

文體:

樂府

李太白集 

02-15

 

 

詩題:

行路難三首 其三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

首陽山 (都畿道 河南府偃師別名:西山 

上蔡 (河南道 豫州 上蔡)   

交遊人物:

 

 

 

 

 

李太白集分類補註巻三

          宋 楊齊賢 集註  元 蕭士贇 補註 (編集紀頌之)

  行路難,三首之三   其三此首一/作古興

#1

有耳莫洗潁川水、有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名、何用孤髙比雲月。

吾觀自古賢達人、功成不退皆殞身。子胥既棄江上、屈原終投湘水濵。

・潁川水 髙士傳 許由耕於中岳、潁水之陽、箕山之下。 堯召為九州長。由不欲聞之、洗耳于潁水濵

・首陽蕨 史記 武王 巳平殷亂、天下宗周。而伯夷叔齊恥之、義、不食周粟、隠于首陽山 採薇而食之、索隠曰薇蕨也。

梁書 阮孝緒傳 周徳雖興夷齊不厭薇蕨、漢道方盛 黄綺無悶山林薇蕨

本二草而古人亦多混稱太白改以叶韻葢有自也  

・子胥既棄江上 /越春秋 王聞子胥之怨恨也、乃使人賜屬鏤之劍。子胥 伏劍而死。王 取子胥尸、盛以夷之器投之於江/中。子胥 因隨流揚波、依潮來往、蕩激崩岸。

・屈原終投湘水濵 拾遺記 屈原 以忠見斥、隠於沅湘、披榛、茹草、混同禽獸、不交世、務採/栢實、以和桂膏、用養心神。被王逼逐、乃赴清泠之水。楚人思慕、謂之水仙。其神 于天河、精靈時降湘浦。

#2

陸機雄才豈自保、李斯税駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞、上蔡蒼鷹何足道。

君不見呉中張翰稱、一作/達生秋風忽憶江東。行且樂生前一杯、酒何須身後千載名。

・陸機雄才豈自保 晉書 成都王穎 起兵討長沙王乂、假陸機後將軍河北大都督、督北中郎將王粹、冠軍牽秀等、諸軍二十餘萬人、戰/於鹿苑。機軍、大敗。宦人孟玖、譖機于穎、言其有異志。穎 怒、使秀、收機。機 釋戎服、著白與秀相見神色自若、既而嘆曰、華亭鶴唳、豈可復聞乎。遂遇害于軍中。

世説 註 八王故事 曰 「華亭、由拳縣郊外墅也。有清泉茂林。/平後、陸機兄弟共于此十餘年。」語林曰、機為河北都督。聞警角之聲、謂孫丞曰、聞此不如華亭鶴唳、故臨/刑而有此嘆説文唳鶴鳴也。

李斯税駕苦不早 史記 「李斯為丞相、長男由、為三川守、諸男、皆尚秦公主、女悉嫁秦諸公子。李由、告歸咸陽、李斯置酒於家、百官長、皆前為門庭車騎、以千數。 李斯、喟然嘆曰、「吾聞之荀卿、曰、物禁太盛。夫斯乃上蔡布衣、閭巷黔首、上、不知其駑下、遂遷擢至此。當今、人臣之位無居臣上者可謂富貴極矣物極則衰吾未知所税駕也。」

索隠曰 税駕猶解駕言休息也。李斯言 巳 今日富貴、已 極未知向後、吉凶止泊、在何處也。

太平御覽  “史記曰「李斯臨刑、思牽黄犬、臂蒼鷹、出上蔡東門不可得矣。考今本 史記 李斯傳中、無臂蒼鷹、字而太白詩中、屢用、其事 當另有所本。

・張翰 晉書 張翰字季鷹人也。有清才、善屬文、而、縱任不拘。齊王冏、辟為大司馬東曹掾。冏、時執權。翰、因見秋風起、乃思中菰菜蓴羮鱸魚膾曰、人生、貴得適志、何能羇宦數千里、以要名爵乎。遂命駕而歸。俄而冏敗。人皆謂之見機。翰、任心自適、不求當世。或謂之曰、卿乃可縱適一時、獨不為身後名耶。荅曰、使我有身後名、不如即時一杯酒。時人貴其曠達。」

 


行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
#2

陸機雄才豈自保,李斯駕苦不早。

華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。

君不見中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ。

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道【い】うに足らむ。

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く。

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須【もちひ】るや。

 

(含異文)      有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。含光混世貴無名,何用孤高比雲月。吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。陸機雄才豈自保【陸機才多豈自保】,李斯駕苦不早。華亭鶴唳詎可聞,上蔡蒼鷹何足道。君不見中張翰稱達生【君不見中張翰真達生】,秋風忽憶江東行。且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

 

洛陽 函谷関 嵩山005 

『行路難,三首之三』 現代語訳と訳註解説

(本文)

行路難,三首之三 #1

有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。

含光混世貴無名,何用孤高比雲月。

吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。

子胥既棄江上,屈原終投湘水濱。

 

(下し文)

(行路難,三首の三)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨。

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを。

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損【おと】す。

子胥は既に棄てらる呉江の上【ほとり】 屈原は終に投ず湘水の浜。

 

(現代語訳)

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

才あるも、全く用いられず“行路は難し”であり、じっとしていても良い様なものだが、決してそうではない。そのことは、許由が仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をしたし、伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死したが、老荘思想の達成のためとはいえこういうことはしてはいけない。
老荘思想の達成の旨である光を守って包み込み、ことさら世の中に無名であることを尊いことということで世俗にまみえ、特に、孤高を衒って雲間の月に比するようなことはやることではない。

自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、墓は作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜のすなになっている。
李白の足跡0000

(訳注)

行路難,三首之三 #1

(みずからの人生行路は困難なものであるが、滄海の万里の波をのりこえていくような時期がいつかは来るということを心にとめていきると詠う。)その三

1 行路難 もとは漢代の歌謡。のち晋の袁山松という人がその音調を改変し新らしい歌詞をつくり、一時流行した。六朝の飽照の楽府に「擬行路難」十八首がある。 「行路難」はみずからの人生行路の困難を詠う。「行路難し 行路は難し、岐路多くして、今安にか在る」と悲鳴をあげながらも、「長風浪を破る 会に時有るべし」と将来に期待を寄せたい李白は三首つくった。

 

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李白  烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 東方漸高奈樂何。

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)  呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

李太白集巻一44

烏  棲  曲

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744年天寶三年44歳 

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-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六二  06

文體:

樂府

李太白集 

02-06

 

 

詩題:

烏棲曲

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 姑蘇台

 

交遊人物:

 

 

 

 

 

-371-6502-06楽府烏棲曲  (姑蘇臺上烏棲時,) 

  卷162_6 《烏棲曲》李白 

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。 

東方漸高奈樂何。 


烏棲曲 
烏棲の曲。(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。 
呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。 

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。 
そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。


大明宮の圖003
『烏棲曲』現代語訳と訳註解説
(
本文)

烏棲曲

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

東方漸高奈樂何。

(下し文)
(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。

呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お銜まんと欲す、半邊の日。

銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。

東方漸く高く 楽しみを奈何。

(現代語訳)
烏棲曲(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

霓裳羽衣舞002
(訳注) 

烏棲曲

(太平御覧や述異記、豔異編にみる呉越戦争の逸話の、楽しみ極まって、悲しみ生ずる呉王のことを述べ、事実唐の玄宗の淫樂の極みを眼にしてこの詩を作った。)

1 烏棲曲 梁簡文帝、梁の元帝、蕭子顯、並びに此の題有り之を作る。《樂府詩集巻四十八》に「清商曲辞、西曲歌」の歌中に烏夜啼を列して後よりなる。男女の歓楽を詠うものが多い。また、李白詩に、これに倣った「大堤曲」「襄陽歌」「丁都護歌」「荊州歌」「採連曲」などある。

2 本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」とある。

3 蕭士贇は「この樂府は然り深く國風諷刺の體を得り、盛んに其の美を言うて、美ならざる者、自ら見わる。」という。

 

姑蘇臺上烏棲時,王宮裏醉西施。

呉王夫差は、姑蘇臺上において宴を催し、やがて、夕方、烏が塒に歸る頃となって、西施は、初めて酔を爲したという。

4 姑蘇台 春秋時代の末期、呉王の開聞と夫差が、父子二代をかけて築いた姑蘇山の宮殿。現在の江蘇省蘇州市、もしくはその西南約一五キロ、横山の北がその跡とされる。16世紀に王世貞撰よってかかれた《豔異編--第五卷》に、「越王越謀滅,畜天下奇寶、美人、異味進於。殺三牲以祈天地,殺龍蛇以祠川岳。矯以江南億萬民輸為傭保。越又有美女二人,一名夷光,二名修明(即西施、鄭旦之別名),以貢於處以椒華之房,貫細珠為簾幌,朝下以蔽景,夕卷以待月。二人當軒並坐,理鏡靚妝於珠幌之,竊窺者莫不動心驚魂,謂之神人。王妖惑忘政。」(越王 越謀し滅さんとし,天下の奇寶、美人、異味を畜えて進む。三牲を殺し 以て天地を祈り,龍蛇を殺し 以て川岳を祠る。矯って以て江南億萬民を輸して傭保為らしむ。越 又た、美女二人有り,一名は夷光,二名は修明(即ち西施、鄭旦の別名である),以て貢ぐ。處らしむるに椒華の房を以てし,細珠を貫いて簾幌と為し,朝に下し 以て景を蔽い,夕に卷き以て月を待つ。二人 軒に當って並坐し,鏡を理めて珠幌の靚妝し,竊に窺うもの動心驚魂せざるは莫し,之れ神人と謂う。王 妖惑し 政を忘る。

《述異記》に王夫差築姑蘇之臺、三年乃成。周旋詰屈横亘五里、崇飾土木、殫耗人力、妓數千人、上立春宵為長夜之飲、造千石酒鍾、夫差作天池池中造青龍舟、舟中盛陳妓樂、日與西施為水嬉。」(王夫差 姑蘇之臺、三年乃る。周旋詰屈 横に亘る五里、土木を崇飾し、人力を殫耗し、妓數千人、上に春宵立てて夜の飲をし、千石の酒鍾を造り、夫差 天池を作し 池中に青龍舟を造り、舟中盛に妓樂を陳じ、日に西施と水嬉を為す。

《述異記》は、中国の南朝梁の任昉が撰したとされる志怪小説集。2巻。 ... 隋書』や『旧唐書』の「経籍志」および『新唐書』「芸文志」で著録される『述異記』10巻は、撰者を祖沖之としている。

5 呉王 夫差をさす。

6 裏  なか。

7 西施  呉王夫差の歓心を買うために、越王勾践から夫差に献上された美女。

李白8  蘇台覧古

(2)西施ものがたり

 

  

歌楚舞歡未畢,青山欲銜半邊日。

歌雜曲の歌々や、楚の細腰舞など、交互に催されて一日を愉快に遊び暮らし、そして、今や落日が西に落ちかかり、その半邊が既に青山に銜まれる頃となるのが毎日のこととなったのである。

8 呉歌楚舞  呉(江蘇地方)の歌、楚(湖南・湖北地方)の舞い。ここでは、呉王の歓楽の象徴としての長江中流・下流地方の歌舞をいう。

・呉歌《樂府詩集》卷四十四引《晉書·樂志》にく「歌雜曲,並出江南。東晉已來,稍有增廣。其始皆徒歌,既而被之管弦。」とあり、呉歌は、南方の流行歌。

・楚舞 《史記留侯世家》:「高帝謂戚夫人曰:『為我楚舞,吾為若楚歌.』歌曰:「鴻鴈高飛,一舉千里。羽翮已就,橫四海。橫四海,當可奈何!雖有矰繳,尚安所施!」(鴻鵠高く飛んで、一挙に千里。羽翼すでに就って、四海を横絶す。四海を横絶すれば、 当に如何すべき。矰繳あれど、何処に施さん。)といった南方に行われた舞曲。

9 半邊日 青い山脈が、まだ太陽の半輪を衝えている。夕陽が半ば青山に沈み隠れた状態をいう。

銀箭金壺漏水多,起看秋月墜江波。

そして、それから又、夜宴が催され、金壷の上に立てる銀箭が次第に移って、水時計から漏れ落ちる水は、愈よ多く、いつしか夜は更け行くも宴は、まだ終らず続いた。

10 銀箭 水時計の漏水桶に泛べる銀の箭。「箭」は時刻の目盛りを指し示すハリである。江總詩「虬水銀箭莫相催」

11 金壷 金属製の水時計の壷。鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

12 漏水多 水時計の底から水が多く漏れる。長時間の経過を示す。夜は夜明けまでの五更に別れるので、上の桶の水が下の桶に流れ落ちてゆくので、時間の長さを水の量で表現したもの。

 

東方漸高奈樂何。

はては、秋の夜の月が江波に落ちて、東の空が漸く白み渡る頃となり、それは、繰り返され、かくの如く、宴游に限りなくば、その歓楽は、限りなきものである。しかし、呉王夫差のように、陳の後主もこうした頽廃歓楽をして居たために、その國を、やがて滅亡させてしまったことは、まことに、情けない次第である。

13 漸高 (空が)次第に白く明るくなる。ここでは、「高」は「塙」「呆」の音通で用いられている。

14 奈楽何 (たとえ夜空が白もうとも)歓楽を尽くすことに支障はない。


(烏棲曲)

姑蘇の臺上 烏棲む時、呉王の宮裏 西施を酔わしむ。
呉歌 楚舞 歓び未だ畢らず、青山 猶お衝んと欲す、半邊の日。
銀箭 金壷 漏水多し、起って看る 秋月の江波に墜つるを。
東方漸く高く 楽しみを奈何。

 

 

 

【字解】

   烏棲曲

士贇曰樂録烏栖曲者/鳥獸三十一曲之一也

 

姑蘇臺上烏棲時呉王裏醉西施齊賢曰賀知章見/太白烏栖曲嘆賞

曰此詩可/以泣鬼神呉歌楚舞歡未畢青山欲半邊日銀箭

壺漏水多起看秋月墜江波東方漸高柰樂何士贇曰/此詩雖

只樂府然深得國風諷刺之體盛言/其美而不美者自見觀者其毋忽諸

 

 

  烏棲曲梁簡文帝梁元帝蕭子顯並有此題之作/樂府詩集列于西曲歌中烏夜啼之後

姑蘇臺上烏棲時裏醉西施歌楚舞歡未

青山欲繆本/作猶銜半邊日銀箭金壺一作金/壺丁丁漏水多起看

秋月墜江波東方漸髙奈樂何

述異記王夫差/築姑蘇之臺三年乃成周旋詰曲横亘五里崇飾土木殫耗人力官妓千/

立春宵為長夜之飲造千石酒鍾作天池池中造青龍舟舟中盛陳妓樂日與西施為水

晉書 /歌雜曲並出江南 漢書 為我楚舞 

江總詩「虬水銀箭莫」相催 鮑照詩 「金壺夕淪劉良」 註に金壺は、貯し、漏水を刻する者銅を以て之を為し、故に金壺と曰う。

本事詩に李白初めて蜀より京師に至る。賀知章は其の烏棲曲を見て嘆賞苦吟し、曰く「此詩可以泣鬼神矣」。或は言う「是烏夜啼二篇、未だ孰是を知らん。」

 

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李白  古風,五十九首之五十五

齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。慷慨動顏魄,使人成荒淫。

彼美佞邪子,婉孌來相尋。一笑雙白璧,再歌千黃金。

珍色不貴道,詎惜飛光沈。安識紫霞客,瑤臺鳴素琴。

(この詩は、いたずらに、外面の美に眩せられ、色を珍とし、媚に甘く、道を貴ばざる世俗の愚を嘲ったものである。)  齊の国で出来た瑟を弾じて、つぎには、秦の国から出た弦をはらって、西国の音律を弄す。聞く人にそれを聞き分けてもらおうと、様々な曲を演奏すると、これに深く感じ入って,心顏を動かし、はては、荒淫の情を催すようになる。

彼の美人は、佞邪なものであって、巧みに媚をあらわして、人の意を迎えていて、艶やかで、飛び切り美しい顔達で風情ありげにこちらに来て尋ねている。齊瑟秦弦、東吟西音と使分けて相手の心を動かして、最初に一笑すれば、白璧一雙を博し得、再び唄えば、千両の黄金を手にするという有様である。美人の愛嬌は、もとより言をまたざれども、これに惑わされる衆人の不束は愈々持って甚だしいものである。もちろん現代一般の風として、ただの色の美なるをめずらしがり、道の貴きを知らず、つまらぬことに打ち興じて、日月の沈みゆくのを惜しむことがあろうか。このようにして、艶めかしく心を動かす美人の音楽などに比較すれば、霞を食するという仙人が玉で飾った美しい高殿のうえに座して、ことを断ずる、その声の方がはるかに貴く、且つ、思いを得ているのであるから、世人はこれを解さないから仕方がないというものである。

李太白集巻一43

五十九首之五十五

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7480

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-7

421 <1000

 

 
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  魏承班15首 花間集8・9巻 鹿虔扆6首 花間集9巻 閻選8首 花間集9巻 尹鶚6首 花間集9巻 毛熙震29首 花間集9・10巻 李珣39首 花間集10巻  
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-370-055巻一55 古風,五十九首之五十五 (齊瑟彈東吟,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-55

文體:

五言古詩

李太白集 

01-55

 

 

詩題:

古風,五十九首之五十五

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 崑崙山

 

交遊人物:

 

 

 

 

 

制作年:              744年天寶三年    44

卷別:    卷一六一              文體:    五言古詩

詩題:    古風,五十九首之五十五

 

 

古風,五十九首之五十五

(この詩は、いたずらに、外面の美に眩せられ、色を珍とし、媚に甘く、道を貴ばざる世俗の愚を嘲ったものである。)

齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。

齊の国で出来た瑟を弾じて、つぎには、秦の国から出た弦をはらって、西国の音律を弄す。

慷慨動顏魄,使人成荒淫。

聞く人にそれを聞き分けてもらおうと、様々な曲を演奏すると、これに深く感じ入って,心顏を動かし、はては、荒淫の情を催すようになる。

彼美佞邪子,婉孌來相尋。

彼の美人は、佞邪なものであって、巧みに媚をあらわして、人の意を迎えていて、艶やかで、飛び切り美しい顔達で風情ありげにこちらに来て尋ねている。

一笑雙白璧,再歌千黃金。

齊瑟秦弦、東吟西音と使分けて相手の心を動かして、最初に一笑すれば、白璧一雙を博し得、再び唄えば、千両の黄金を手にするという有様である。

珍色不貴道,詎惜飛光沈。

美人の愛嬌は、もとより言をまたざれども、これに惑わされる衆人の不束は愈々持って甚だしいものである。もちろん現代一般の風として、ただの色の美なるをめずらしがり、道の貴きを知らず、つまらぬことに打ち興じて、日月の沈みゆくのを惜しむことがあろうか。

安識紫霞客,瑤臺鳴素琴。

このようにして、艶めかしく心を動かす美人の音楽などに比較すれば、霞を食するという仙人が玉で飾った美しい高殿のうえに座して、ことを断ずる、その声の方がはるかに貴く、且つ、思いを得ているのであるから、世人はこれを解さないから仕方がないというものである。

古風,五十九首之五十五

齊瑟 東吟を彈じ,秦弦 西音を弄ぶ。

慷慨 顏魄を動かし,人をして 荒淫を成さしむ。

彼の美 佞邪【はいじゃ】の子,婉孌【えんれん】 來って相い尋ぬ。

一笑せば 雙の白璧,再歌せば 千黃金。

珍色 道を貴ばざる,詎んぞ 飛光の沈むを惜まん。

安んぞ紫霞の客を識らん,瑤臺 素琴を鳴らすを。

 

霓裳羽衣舞002 

『古風,五十九首之五十五』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之五十五

齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。

慷慨動顏魄,使人成荒淫。

彼美佞邪子,婉孌來相尋。

一笑雙白璧,再歌千黃金。

珍色不貴道,詎惜飛光沈。

安識紫霞客,瑤臺鳴素琴。

(異文)

齊瑟彈東吟【齊瑟揮東吟】,秦弦弄西音。

慷慨動顏魄【慷慨動顏色】,使人成荒淫。

彼美佞邪子,婉孌來相尋。

一笑雙白璧,再歌千黃金。

珍色不貴道,詎惜飛光沈。

安識紫霞客,瑤臺鳴素琴【瑤臺鳴玉琴】。

 

(下し文)

古風,五十九首之五十五

齊瑟 東吟を彈じ,秦弦 西音を弄ぶ。

慷慨 顏魄を動かし,人をして 荒淫を成さしむ。

彼の美 佞邪【はいじゃ】の子,婉孌【えんれん】 來って相い尋ぬ。

一笑せば 雙の白璧,再歌せば 千黃金。

珍色 道を貴ばざる,詎んぞ 飛光の沈むを惜まん。

安んぞ紫霞の客を識らん,瑤臺 素琴を鳴らすを。

花蕊夫人002 

(現代語訳)

(この詩は、いたずらに、外面の美に眩せられ、色を珍とし、媚に甘く、道を貴ばざる世俗の愚を嘲ったものである。)

齊の国で出来た瑟を弾じて、つぎには、秦の国から出た弦をはらって、西国の音律を弄す。

聞く人にそれを聞き分けてもらおうと、様々な曲を演奏すると、これに深く感じ入って,心顏を動かし、はては、荒淫の情を催すようになる。

彼の美人は、佞邪なものであって、巧みに媚をあらわして、人の意を迎えていて、艶やかで、飛び切り美しい顔達で風情ありげにこちらに来て尋ねている。

齊瑟秦弦、東吟西音と使分けて相手の心を動かして、最初に一笑すれば、白璧一雙を博し得、再び唄えば、千両の黄金を手にするという有様である。

美人の愛嬌は、もとより言をまたざれども、これに惑わされる衆人の不束は愈々持って甚だしいものである。もちろん現代一般の風として、ただの色の美なるをめずらしがり、道の貴きを知らず、つまらぬことに打ち興じて、日月の沈みゆくのを惜しむことがあろうか。

このようにして、艶めかしく心を動かす美人の音楽などに比較すれば、霞を食するという仙人が玉で飾った美しい高殿のうえに座して、ことを断ずる、その声の方がはるかに貴く、且つ、思いを得ているのであるから、世人はこれを解さないから仕方がないというものである。

 

 

(訳注)

古風,五十九首之五十五

(この詩は、いたずらに、外面の美に眩せられ、色を珍とし、媚に甘く、道を貴ばざる世俗の愚を嘲ったものである。)

1 古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

 

齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。

齊の国で出来た瑟を弾じて、つぎには、秦の国から出た弦をはらって、西国の音律を弄す。

2 齊瑟 瑟は25絃以上の大きい琴。『史記』「蘇秦伝」に臨淄(斉の首都)の豊かな生活を表現するため、臨淄の民で様々な楽器や遊戯を楽しまない者はいないとし、その中の一つに「鼓瑟(瑟を演奏する)」が出てくる。

曹植(曹子建) 《贈丁廙》 「魏詩秦箏發西氣,齊瑟揚東謳。」(秦箏【しんそう】西気を発し、斉瑟【せいしつ】東謳【とうおう】を揚ぐ。)秦の筝は西方の国のメロディーを流し西方の気分にしてくれる。斉の瑟をかなでると東方の国の歌を声を張り上げて歌うのだ。 

36曹植(曹子建) 《贈丁廙》 魏詩 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3106

3 東吟 東国の歌。

4 秦弦 秦の国から出た弦。

5 西音 西国の音律。魏文帝詩《東舞南歌》「齊倡發東舞,秦箏奏西音。有客從南來,為我彈清琴。」(齊倡 東舞を發き,秦箏 西音を奏る。客有り南從り來り,我が為に清琴を彈く。)とあるにもとづく。唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。

 

慷慨動顏魄,使人成荒淫。

聞く人にそれを聞き分けてもらおうと、様々な曲を演奏すると、これに深く感じ入って,心顏を動かし、はては、荒淫の情を催すようになる。

6 慷慨 ① 世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと。② 意気が盛んなこと。また、そのさま。

7 顏魄 心顏。

 

彼美佞邪子,婉孌來相尋。

彼の美人は、佞邪なものであって、巧みに媚をあらわして、人の意を迎えていて、艶やかで、飛び切り美しい顔達で風情ありげにこちらに来て尋ねている。

8 佞邪 不正な心をもちながら、人にへつらうこと。また、その人。

9 婉孌 艶やかで、飛び切り美しい顔達。妖艶な顔。班固《漢書述哀記》曰「婉孌董公、惟亮天工」顔師古註 婉孌美貌。美貌。 《詩齊風甫田》:婉兮孌兮, 總角丱兮。”

 

一笑雙白璧,再歌千黃金。

齊瑟秦弦、東吟西音と使分けて相手の心を動かして、最初に一笑すれば、白璧一雙を博し得、再び唄えば、千両の黄金を手にするという有様である。

10 一笑 一笑千金【釋義】:美女一笑,價千金。形容美人一笑很難得。 【出處】:漢·崔駰《七依》:“回顧百萬,一笑千金。”白居易《長恨歌》眸一笑百眉生( 眸を廻めぐらして一笑すれば百眉ひゃくび生ずる。)

 

珍色不貴道,詎惜飛光沈。

美人の愛嬌は、もとより言をまたざれども、これに惑わされる衆人の不束は愈々持って甚だしいものである。もちろん現代一般の風として、ただの色の美なるをめずらしがり、道の貴きを知らず、つまらぬことに打ち興じて、日月の沈みゆくのを惜しむことがあろうか。

11 飛光 1日月、飛逝的光陰。 南朝 沈約 《宿東園》「飛光忽我遒, 豈止云暮。」(飛光忽ち我に遒る, 豈に止云暮。) 張銑の註に 飛光とは日月をいう也

 

安識紫霞客,瑤臺鳴素琴。

このようにして、艶めかしく心を動かす美人の音楽などに比較すれば、霞を食するという仙人が玉で飾った美しい高殿のうえに座して、ことを断ずる、その声の方がはるかに貴く、且つ、思いを得ているのであるから、世人はこれを解さないから仕方がないというものである。

12 紫霞客 霞を食するという仙人。

13 瑤臺 玉で飾った美しい高殿。仙人の住む所。淮南子·本經:「帝有桀紂,為琁室瑤臺象廊玉床。」 仙人居住的地方。

李白《巻四30清平調三首之一》(興慶宮での宴の模様を述べる)「若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。」(雲には、衣裳かと想い、花には、容かと想う、春風 檻を払って、露華 濃かなり。若し 群玉山頭に見るに非ざれば、会ず 瑤臺の月下に向って逢わん。)雲の艶めかしさを思い、ながめると美しい衣裳で、牡丹の花はあでやかな豊満な容姿をおもわせる美しさ、春風は龍池の屋外舞台の欄干を通り抜け、霓裳羽衣舞の羽衣による愛撫により、夜の華やかな露はなまめかしくつづく。ああ、これはもう、西王母の「群玉山」のほとりで見られるといわれるものであるし、崑崙山の五色の玉で作られた「瑤台」に月光のさしこむなかでめぐり逢えるという素晴らしい美人である。

743年(44)李白362 巻四30-《清平調詞,三首一》(雲想衣裳花想容,) 362Index-23Ⅲ― 2-743年天寶二年43歳 94首-(44) <李白362> Ⅰ李白詩1703 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7063

14 素琴 琴の素朴にして、金玉珍宝を飾りにしていないものをいう。

嵇康《幽憤詩》「習習谷風吹我素琴。」 素琴とは琴の素樸を謂う。金玉や珍寶を用いず、以て飾を為す者なり。

744年年44歳-7李太白集043巻一43 古風,五十九首之四十三 421Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-7【56首】Ⅰ李白詩1787 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7475

李白  古風,五十九首之四十三

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。淫樂心不極,雄豪安足論。

西海宴王母,北宮邀上元。瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。

李太白集巻一43

五十九首之四十三

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7475

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-7

421 <1000

 

 

 

-369-043巻一43 古風,五十九首之四十三 (周穆八荒意,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-43

文體:

五言古詩

李太白集 

01-43

 

 

詩題:

古風,五十九首之四十三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 崑崙山

 

交遊人物:

 

 

 

 

古風,五十九首之四十三

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

淫樂心不極,雄豪安足論。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

西海宴王母,北宮邀上元。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。

(古風,五十九首之四十三)

周穆 八荒の意,漢皇 萬乘の尊。

淫樂 心極らず,雄豪 安んぞ論ずるに足らん。

西海 王母を宴し,北宮 上元を邀う。

瑤水に遺歌を聞き,玉杯 竟に空しく言う。

靈跡は蔓草を成し,徒らに千載の魂を悲しまん。

 

漢長安城 00 

『古風,五十九首之四十三』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之四十三

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。

淫樂心不極,雄豪安足論。

西海宴王母,北宮邀上元。

瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

 

 

(下し文)

(古風,五十九首之四十三)

周穆 八荒の意,漢皇 萬乘の尊。

淫樂 心極らず,雄豪 安んぞ論ずるに足らん。

西海 王母を宴し,北宮 上元を邀う。

瑤水に遺歌を聞き,玉杯 竟に空しく言う。

靈跡は蔓草を成し,徒らに千載の魂を悲しまん。

 

(現代語訳)

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。

 

(訳注)

古風,五十九首之四十三

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

 

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

1 周穆 齊賢曰“《列子》「周穆王駕八駿至赤水之陽、升崑崙丘觀黄帝之觴王母於瑶池之上。」王母爲王謡王和之。”(《列子》に「周の穆王、八駿に駕して赤水の陽に至り、崑崙の丘に升って黄帝の、王母に瑶池の上に觴す。」王母、王の爲に謡い、王、之に和す。周の穆王は8頭たての馬車に乗り、西の彼方にある赤水の南の神々が住むとされた崑崙山に立ち寄り西王母に会い、黄帝のを觀、王母に瑶池の上に酒を飲み、ねぎらってくれた。王母は王のために謡、穆王はこれに答えて歌った。

周穆王;在位期間:前985? - 940年。穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「謄霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。

2 漢皇 この句は太平廣記に見える故事で、前漢の武帝が仙道を求め,7月7日に女仙の西王母と上元夫人とが武帝のもとに降臨して道教経典と教戒とを授けたが,武帝が行いを慎まなかったため,結局,道を得ることができなかったことを記す。《太平廣記》「元封元年七月七日、王母乘/紫雲輦、駕九色斑麟降漢東向坐。帝跪問寒暄。畢因呼帝坐、遣侍女、與上元夫人相聞云、「比不相見四千餘年、劉徹好道、適來觀之。夫人可暫來否。」帝問、「上元何真也。」曰「是三天真皇之母、上元之官。」俄而夫人至可。年二十餘、頭作三角髻、餘髮散垂至腰。帝拜。夫人曰「汝好道乎。汝胎性暴、胎性淫、胎性奢、胎性酷、胎性賦、五者常舎于榮衛之中、雖暴長生亦自勞耳。」(元封元年七月七日、王母、/紫雲の輦に乘じ、九色の斑麟に駕して漢降る。東向して帝、跪いて寒暄を問う。畢るや、因って帝を呼んで坐せしめ、侍女を遣して、上元夫人と相聞して云う、「比れ相い見ざること四千餘年、劉徹 道を好む、適ま來って之を觀る。夫人、暫く來るべきや否や。」と。帝問う、「上元は何の真ぞや。」曰く「是れ三天真皇の母、上元の官。」と。俄にして、夫人至る可し。年二十餘ばかり、頭には三角髻を作し、餘髮は散垂して腰に至る。 夫人曰く「汝 道を好むや。汝、胎性暴、胎性淫、胎性奢、胎性酷、胎性賦、五者 常に榮衛の中に舎す、長生を暴うと雖も亦た自ら勞するのみ。

漢の武帝。159BC-87BC。前漢7代目。在位141BC-87BC。若くして皇帝となり、治世は54年に及ぶ。内外にわたり思い切った施策を行なう。匈奴には対抗的な政策を取り、衛青、霍去病などを登用する。この匈奴との抗争の際、捕虜となった李陵をめぐり、正論を発した司馬遷を宮刑にするなど、狭量な面もある。張騫を西方に遣わし、シルクロードを創始する。巨視的に見れば、卓越した君主であった。

 

淫樂心不極,雄豪安足論。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

3 淫樂 みだらな楽しみ。肉欲の楽しみ。禎卿曰 淫樂二句言人君好荒淫樂佚則雖其/氣度超邁亦何足論哉。

 

西海宴王母,北宮邀上元。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

4 西王母 中国の神話上の女神。玉山または崑崙(こんろん)山に住む,人面・虎歯・豹尾の女神。のち,神仙思想の発展とともに仙女化され,周の穆(ぼく)王が西に巡狩した時,瑶池で宴を開き,漢の武帝に降臨して仙桃を与えたという。道教の成立後は東王父と一組の神格とされた。

5 北宮 北宮 長安城内にある。桂宮と近い。未央宮の北にある。周回十里。前殿の広さ五十歩(凡そ58m) 甘泉宮 またの一名を雲陽宮という。

・上元 『漢武内伝』王母侍女ヲ遣シテ上元夫人ヲ迎フ. 王母乃ち侍女郭密香を遣はし 上元夫人 ( じょうげんふじん ) に相問して云く、九光の王母敬謝す。 但し相見ざること四千余年なり。天事我を労し、以て ( めん ) ( たが ) ふことを致す。

・六朝(りくちよう)初期の霊宝派や上清派の道教と密接な関係をもちつつ形成された仙伝『漢武内伝』。前漢の武帝が仙道を求め,7月7日に女仙の西王母と上元夫人とが武帝のもとに降臨して道教経典と教戒とを授けたが,武帝が行いを慎まなかったため,結局,道を得ることができなかったことを記す。七夕における女神たちとの神秘的な会合の場は,後世しばしば詩文の題材となった。

 

瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

5 瑤水 西王母が 穆王を接待したのが瑤地であり、天山山脈中の地点に比す人もある。

6 玉杯 武帝が崩御されて、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話は三輔黄圖、廟記にみえる。《三輔黄圖、廟記》“曰「神明臺武帝。祭仙人處、上有承露盤、有銅仙人、舒掌、捧銅盤、玉杯、以承雲表之露。以露和玉屑、服之以求仙道。」(曰く「神明臺、武帝つくる。仙人を祭る處、上に承露盤有り、銅仙人有り、掌を舒べ、銅盤、玉杯、を捧げ、以って雲表の露を承く。露を以て玉屑に和し、之を服して、以て仙道を求む。」)とあり、別に、《太平御覽、漢武故事》には「上崩後鄠縣有一人。于市貨玉杯。吏 疑其御物、欲捕之。因忽不見。縣 送其器推問、乃茂陵中物也。霍光、自呼吏問之、説市人形貌、如先帝其事。」”「上崩ぜし後、鄠縣に一人有り。市に于て玉杯を貨す。吏 其の御物たるを疑うて、之を捕えんと欲す。因って忽ち見えず。縣 其の器を送って推問すれば、乃ち茂陵の中の物なり。霍光、自ら吏を呼んで之を問う、市人の形貌を説く、先帝の其の事の如し。」)とあることが、李白のこの詩と合致する。

 

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。
長安付近図00 

744年年44歳-6李太白集042巻一42 古風,五十九首之四十二 420Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-6【56首】 Ⅰ李白詩1786 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7470

李白  古風,五十九首之四十二

搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。

寄形宿沙月,沿芳戲春洲。吾亦洗心者,忘機從爾遊。

(滄海の上に飛ぶ白鷗を見て、仙郷に往き切れない自らを白鴎をもって擬したもの。)波の上に浮きつ、沈みつする番の白鴎は、滄江の上に飛鳴している。この白鴎は無心なる海上の若者と狎れて遊ぶべくして、仙人を載せて飛ぶという雲中の鶴の類いではない。この白鴎というのは、あくまで閑散を好み、その行動はすべて自在である。かくて形骸を寄せて、砂上の月に宿し、花の下にいては春の洲渚に戯れている。その長閑さは、他にその類を見ないくらい、我もまた塵心を洗い去り、浮世の機を忘れ、悠々として、汝に随って遊びたいものである。 

李太白集巻一42

五十九首之四十二

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Index-24

744年天寶三年44歳 

56-6

4201000

 

 
  2016年3月12日 の紀頌之5つのBlog  
  ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注  
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-368-042巻一42 古風,五十九首之四十二 (搖裔雙白鷗,)

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-42

文體:

五言古詩

李太白集 

01-22

 

 

詩題:

古風,五十九首之四十

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 

 

交遊人物:

 

 

 

古風,五十九首之五  #1

太白何蒼蒼,星辰上森列。去天三百里,邈爾與世

中有綠髮翁,披雲卧松雪。不笑亦不語,冥棲在岩穴。

#2

我來逢真人,長跪問寶訣。粲然玉齒,授以練葯

銘骨傳其語,竦身已電滅。仰望不可及,蒼然五情熱。

吾將營丹砂,永世與人別。

 

古風,五十九首之二十 #1

昔我遊齊都,登華不注峰。茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

蕭颯古仙人,了知是赤松。借予一白鹿,自挾兩青龍。

含笑凌倒景,欣然願相從。

#2

泣與親友別,欲語再三咽。勗君青松心,努力保霜雪。

世路多險艱,白日欺紅顏。分手各千里,去去何時還。

在世復幾時,倏如飄風度。

#3

空聞紫金經,白首愁相誤。撫己忽自笑,沈吟為誰故。

名利徒煎熬,安得閒余步。終留赤玉舄,東上蓬萊路。

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

 

古風,五十九首之二十二

秦水別隴首,幽咽多悲聲。胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。 

感物動我心,緬然含歸情。

#2

昔視秋蛾飛,今見春蠶生。 嫋嫋桑柘葉,萋萋柳垂榮。

急節謝流水,羈心搖懸旌。 揮涕且複去,惻愴何時平。 

 

古風,五十九首之四十

鳳饑不啄粟,所食唯琅玕。焉能與群雞,刺蹙爭一餐。 

朝鳴昆丘樹,夕飲砥柱湍。歸飛海路遠,獨宿天霜寒。 

幸遇王子晉,結交青雲端。懷恩未得報,感別空長歎。 

 

古風,五十九首之四十二

搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。 

寄形宿沙月,沿芳戲春洲。吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

 

古風,五十九首之四十三

  周穆八荒意,漢皇萬乘尊。淫樂心不極,雄豪安足論。 

  西海宴王母,北宮邀上元。瑤水聞遺歌,玉懷竟空言。 

  靈跡成蔓草,徒悲千載魂。 

 

古風,五十九首之五十五

  齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。慷慨動顏魄,使人成荒淫。 

  彼美佞邪子,婉孌來相尋。一笑雙白璧,再歌千黃金。 

  珍色不貴道,詎惜飛光沉。安識紫霞客,瑤台鳴素琴。 

 

 

40巻一 古風,五十九首之四十    鳳飢不啄粟。

年:744  天寶三年  44

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之四十 

作地點: 目前尚無資料 

及地點:  崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)     

三門 (都畿道 陜州 三門) 別名:砥柱    

 

-367-040巻一40 古風,五十九首之四十 (鳳飢不啄粟,) 

古風,五十九首之四十

鳳飢不啄粟。 所食唯琅玕。

焉能與群雞。 刺蹙爭一餐。

朝鳴昆丘樹。 夕飲砥柱湍。

歸飛海路遠。 獨宿天霜寒。

幸遇王子晉。 結交青云端。

懷恩未得報。 感別空長嘆。

(此の詩は君側を遠ざけられた感慨を、鳳凰鳥によせて、「懐恩未得報、感別空長歎。」(恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。)と情思纏綿たることを詠ったもの。)

鳳凰は百鳥の王である、いかに空腹で飢えていても、ただの粟などの穀物を啄んだりはしない、鳳凰が食うのは、琅玕の玉に比すべき、即ち竹の実だけである。

そこで、いかなるばあいでも、にわとりの群れと一緒になってとしても、齷齪として、一餐をとりあらそうような吝なまねなど、一切しない。
かくて、朝には崑崙山の頂上の高き木の上で鳴き、夕方には、黄河の流れの中にある砥柱の早瀬の水を飲むのである。
渺茫たる万里の波濤を越えて飛びかえり、その住まいとするところも人里を遠く離れたところであるから、ひとりで宿る住まいは、天より霜が降りて寒いものであろうが厭いはしない。
ただ、幸いにして、さきに、笙を吹くのがうまかった仙人の王子晋に出会え、青雲の端に結んでその恩恵を受けたことがあるのである。
しかし、受けたご恩に奉ずることはいまだにできていない、そこで、この人に別れるのがつらいということで、覚えずに長歎を空しく繰り返しているのである。

(古風,五十九首の四十)

鳳は飢うるも 粟【ぞく】を啄【つい】ばまず、食う所は 唯だ琅【ろうかん】。

焉んぞ能く 群雞と与【とも】に、刺蹙【せきしゅく】して 一餐【いっさん】を争わん。

朝には崑邱の樹に鳴き、夕には砥柱【ていちゅう】の瑞に飲む。

帰り飛んで 海路遠く、独り宿して 天霜寒し。

幸に王子晋に遇わば、交わりを青雲の端に結ぶ。

恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。

 

 

製作年:  744  天寶三年  44

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之四十二 

作地點: 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安

 

 

古風,五十九首之四十二 

(滄海の上に飛ぶ白鷗を見て、仙郷に往き切れない自らを、白鴎をもって擬したもの。)

搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。

波の上に浮きつ、沈みつする番の白鴎は、滄江の上に飛鳴している。

宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。

この白鴎は無心なる海上の若者と狎れて遊ぶべくして、仙人を載せて飛ぶという雲中の鶴の類いではない。

寄形宿沙月,沿芳戲春洲。

この白鴎というのは、あくまで閑散を好み、その行動はすべて自在である。かくて形骸を寄せて、砂上の月に宿し、花の下にいては春の洲渚に戯れている。

吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

その長閑さは、他にその類を見ないくらい、我もまた塵心を洗い去り、浮世の機を忘れ、悠々として、汝に随って遊びたいものである。

 

古風,五十九首之四十二 

搖裔たる雙白鷗,鳴いて飛ぶ滄江の流。

宜しく 海人と狎るべし,豈に伊れ雲鶴の儔【ちゅう】ならんや。

形を寄せて 沙月に宿し,芳に沿うて春洲に戲る。

吾 亦た 心を洗う者,忘機をれて 爾に從って遊ばん。 

漢文委員会紀頌之タイトル長安付近図00 

 

『古風,五十九首之四十二  』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之四十二 

搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。

宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。

寄形宿沙月,沿芳戲春洲。

吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

 

古風,五十九首之四十二 

搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。

宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。

寄形宿沙月【寄影宿沙月】,沿芳戲春洲。

吾亦洗心者,忘機從爾遊。

 

 (下し文)

古風,五十九首之四十二 

搖裔たる雙白鷗,鳴いて飛ぶ滄江の流。

宜しく 海人と狎るべし,豈に伊れ雲鶴の儔【ちゅう】ならんや。

形を寄せて 沙月に宿し,芳に沿うて春洲に戲る。

吾 亦た 心を洗う者,忘機をれて 爾に從って遊ばん。 

 

(現代語訳)

(滄海の上に飛ぶ白鷗を見て、仙郷に往き切れない自らを、白鴎をもって擬したもの。)

波の上に浮きつ、沈みつする番の白鴎は、滄江の上に飛鳴している。

この白鴎は無心なる海上の若者と狎れて遊ぶべくして、仙人を載せて飛ぶという雲中の鶴の類いではない。

この白鴎というのは、あくまで閑散を好み、その行動はすべて自在である。かくて形骸を寄せて、砂上の月に宿し、花の下にいては春の洲渚に戯れている。

その長閑さは、他にその類を見ないくらい、我もまた塵心を洗い去り、浮世の機を忘れ、悠々として、汝に随って遊びたいものである。

 

 

(訳注)

古風,五十九首之四十二 

(滄海の上に飛ぶ白鷗を見て、仙郷に往き切れない自らを、白鴎をもって擬したもの。)

0 四十二【解説】 元、蕭士贇の補註の説によると、齊賢曰列子海上之人有好鷗鳥者每旦之海上從鷗鳥遊鷗鳥之至者百住而不止士。」「贇曰此太白託興之詩也雲中之鶴在位之人也海/上之鷗閒散之人也(齊賢曰く「列子海上の人、鷗鳥を好む者有り、每旦、海上に之き鷗鳥に從い鷗鳥と之を遊び至る者は百住して、士に止らず。」贇、曰く「此れ太白託興の詩なり。雲中の鶴は在位の人にうなり上の鷗は閒散の人にうなり

詩意は齊、謝朓、和徐勉出新林渚【和徐都曹出新亭渚】.に倣うものである。

和徐勉出新林渚【和徐都曹出新亭渚】(徐都曹の「新亭の渚に出づ」に和す。)

宛洛佳遨遊, 春色滿皇州,

宛・洛は、遨遊するに佳く,春色は皇州に滿つ。

結軫青郊路, 迴瞰蒼江流,

軫を青郊の路に結【めぐ】らし,迴【はる】かに蒼江の流れを瞰る。

日華川上動, 風光草際浮,

日華は川上に動き,風光は草際に浮ぶ。

桃李成蹊徑, 桑楡蔭道周,

桃李 蹊徑を成し,桑楡 道周を蔭う。

東都已俶載, 言歸望綠疇。

東都 已に載【こと】を俶【はじ】む,言【ここ】に歸りて 綠の疇を望まん。

また、南朝宋鮑照《擬行路難》詩之三「寧作野中之雙鳧,不願雲間之別鶴。」もこれの基づいているものとおもえる

雲中の鶴は、仙官の控御にあたる者たちであり、朝廷の者たちを示すものである。海上のカモメは、閒散の人にたとえたもので、李白の半官半隠の思いを示すものである。

 

搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。

波の上に浮きつ、沈みつする番の白鴎は、滄江の上に飛鳴している。

1 搖裔 波の上に浮きつ、沈みつする。

 

宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。

この白鴎は無心なる海上の若者と狎れて遊ぶべくして、仙人を載せて飛ぶという雲中の鶴の類いではない。

2 與海人狎 無心なる海上の若者と狎れて遊ぶ。

3 雲鶴 雲中の鶴。

 

寄形宿沙月,沿芳戲春洲。

この白鴎というのは、あくまで閑散を好み、その行動はすべて自在である。かくて形骸を寄せて、砂上の月に宿し、花の下にいては春の洲渚に戯れている。

 

吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

その長閑さは、他にその類を見ないくらい、我もまた塵心を洗い去り、浮世の機を忘れ、悠々として、汝に随って遊びたいものである。
 大明宮の圖003

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李白  古風,五十九首之四十

鳳飢不啄粟。 所食唯琅玕。焉能與群雞。 刺蹙爭一餐。

朝鳴昆丘樹。 夕飲砥柱湍。歸飛海路遠。 獨宿天霜寒。

幸遇王子晉。 結交青云端。懷恩未得報。 感別空長嘆。

(此の詩は君側を遠ざけられた感慨を、鳳凰鳥によせて、「懐恩未得報、感別空長歎。」(恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。)と情思纏綿たることを詠ったもの。)  鳳凰は百鳥の王である、いかに空腹で飢えていても、ただの粟などの穀物を啄んだりはしない、鳳凰が食うのは、琅玕の玉に比すべき、即ち竹の実だけである。そこで、いかなるばあいでも、にわとりの群れと一緒になってとしても、齷齪として、一餐をとりあらそうような吝なまねなど、一切しない。かくて、朝には崑崙山の頂上の高き木の上で鳴き、夕方には、黄河の流れの中にある砥柱の早瀬の水を飲むのである。渺茫たる万里の波濤を越えて飛びかえり、その住まいとするところも人里を遠く離れたところであるから、ひとりで宿る住まいは、天より霜が降りて寒いものであろうが厭いはしない。ただ、幸いにして、さきに、笙を吹くのがうまかった仙人の王子晋に出会え、青雲の端に結んでその恩恵を受けたことがあるのである。しかし、受けたご恩に奉ずることはいまだにできていない、そこで、この人に別れるのがつらいということで、覚えずに長歎を空しく繰り返しているのである。

李太白集巻一40

五十九首之四十

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7465

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-5

419 <1000

 

 
  2016年3月11日 の紀頌之5つのBlog  
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  Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
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index-23-1 744年天寶三年44-5 古風,五十九首之二十二(鳳饑不啄粟)

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-40

文體:

五言古詩

李太白集 

01-22

 

 

詩題:

古風,五十九首之四十

序文

 

作地點:

 長安

 

 

及地點:

 

 

 

 

 

 

 

 

交遊人物:

 

 

 

古風,五十九首之五

#1

太白何蒼蒼,星辰上森列。去天三百里,邈爾與世

中有綠髮翁,披雲卧松雪。不笑亦不語,冥棲在岩穴。

#2

我來逢真人,長跪問寶訣。粲然玉齒,授以練葯

銘骨傳其語,竦身已電滅。仰望不可及,蒼然五情熱。

吾將營丹砂,永世與人別。

 

古風,五十九首之二十 #1

昔我遊齊都,登華不注峰。茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

蕭颯古仙人,了知是赤松。借予一白鹿,自挾兩青龍。

含笑凌倒景,欣然願相從。

#2

泣與親友別,欲語再三咽。勗君青松心,努力保霜雪。

世路多險艱,白日欺紅顏。分手各千里,去去何時還。

在世復幾時,倏如飄風度。

#3

空聞紫金經,白首愁相誤。撫己忽自笑,沈吟為誰故。

名利徒煎熬,安得閒余步。終留赤玉舄,東上蓬萊路。

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

 

古風,五十九首之二十二

秦水別隴首,幽咽多悲聲。胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。 

感物動我心,緬然含歸情。

#2

昔視秋蛾飛,今見春蠶生。 嫋嫋桑柘葉,萋萋柳垂榮。

急節謝流水,羈心搖懸旌。 揮涕且複去,惻愴何時平。 

 

古風,五十九首之四十

鳳饑不啄粟,所食唯琅玕。焉能與群雞,刺蹙爭一餐。 

朝鳴昆丘樹,夕飲砥柱湍。歸飛海路遠,獨宿天霜寒。 

幸遇王子晉,結交青雲端。懷恩未得報,感別空長歎。 

 

古風,五十九首之四十二

  搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。 

  寄形宿沙月,沿芳戲春洲。吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

 

古風,五十九首之四十三

  周穆八荒意,漢皇萬乘尊。淫樂心不極,雄豪安足論。 

  西海宴王母,北宮邀上元。瑤水聞遺歌,玉懷竟空言。 

  靈跡成蔓草,徒悲千載魂。 

 

古風,五十九首之五十五

  齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。慷慨動顏魄,使人成荒淫。 

  彼美佞邪子,婉孌來相尋。一笑雙白璧,再歌千黃金。 

  珍色不貴道,詎惜飛光沉。安識紫霞客,瑤台鳴素琴。 

 

 

40巻一 古風,五十九首之四十    鳳飢不啄粟。

年:744  天寶三年  44

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之四十 

作地點: 目前尚無資料 

及地點:  崑崙山 (隴右道東部 肅州 崑崙山)     

三門 (都畿道 陜州 三門) 別名:砥柱    

 

-367-040巻一40 古風,五十九首之四十 (鳳飢不啄粟,) 

古風,五十九首之四十

(此の詩は君側を遠ざけられた感慨を、鳳凰鳥によせて、「懐恩未得報、感別空長歎。」(恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。)と情思纏綿たることを詠ったもの。)

鳳飢不啄粟。 所食唯琅玕。

鳳凰は百鳥の王である、いかに空腹で飢えていても、ただの粟などの穀物を啄んだりはしない、鳳凰が食うのは、琅玕の玉に比すべき、即ち竹の実だけである。

焉能與群雞。 刺蹙爭一餐。

そこで、いかなるばあいでも、にわとりの群れと一緒になってとしても、齷齪として、一餐をとりあらそうような吝なまねなど、一切しない。

朝鳴昆丘樹。 夕飲砥柱湍。

かくて、朝には崑崙山の頂上の高き木の上で鳴き、夕方には、黄河の流れの中にある砥柱の早瀬の水を飲むのである。

歸飛海路遠。 獨宿天霜寒。

渺茫たる万里の波濤を越えて飛びかえり、その住まいとするところも人里を遠く離れたところであるから、ひとりで宿る住まいは、天より霜が降りて寒いものであろうが厭いはしない。

幸遇王子晉。 結交青云端。

ただ、幸いにして、さきに、笙を吹くのがうまかった仙人の王子晋に出会え、青雲の端に結んでその恩恵を受けたことがあるのである。

懷恩未得報。 感別空長嘆。

しかし、受けたご恩に奉ずることはいまだにできていない、そこで、この人に別れるのがつらいということで、覚えずに長歎を空しく繰り返しているのである。

 

(古風,五十九首の四十)

鳳は飢うるも 粟【ぞく】を啄【つい】ばまず、食う所は 唯だ琅【ろうかん】。

焉んぞ能く 群雞と与【とも】に、刺蹙【せきしゅく】して 一餐【いっさん】を争わん。

朝には崑邱の樹に鳴き、夕には砥柱【ていちゅう】の瑞に飲む。

帰り飛んで 海路遠く、独り宿して 天霜寒し。

幸に王子晋に遇わば、交わりを青雲の端に結ぶ。

恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。

 

秦嶺山脈終南山 

『古風,五十九首之四十』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之四十

鳳饑不啄粟,所食唯琅玕.

焉能與群雞,刺蹙爭一餐。 

朝鳴昆丘樹,夕飲砥柱湍。

歸飛海路遠,獨宿天霜寒。 

幸遇王子晉,結交青雲端。

懷恩未得報,感別空長歎。 

 

(下し文)

(古風,五十九首の四十)

鳳は飢うるも 粟【ぞく】を啄【つい】ばまず、食う所は 唯だ琅玕【ろうかん】。

焉んぞ能く 群雞と与【とも】に、刺蹙【せきしゅく】して 一餐【いっさん】を争わん。

朝には崑邱の樹に鳴き、夕には砥柱【ていちゅう】の瑞に飲む。

帰り飛んで 海路遠く、独り宿して 天霜寒し。

幸に王子晋に遇わば、交わりを青雲の端に結ぶ。

恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。

 

(現代語訳)

古風,五十九首之四十(此の詩は君側を遠ざけられた感慨を、鳳凰鳥によせて、「懐恩未得報、感別空長歎。」(恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。)と情思纏綿たることを詠ったもの。)

鳳凰は百鳥の王である、いかに空腹で飢えていても、ただの粟などの穀物を啄んだりはしない、鳳凰が食うのは、琅玕の玉に比すべき、即ち竹の実だけである。

そこで、いかなるばあいでも、にわとりの群れと一緒になってとしても、齷齪として、一餐をとりあらそうような吝なまねなど、一切しない。
かくて、朝には崑崙山の頂上の高き木の上で鳴き、夕方には、黄河の流れの中にある砥柱の早瀬の水を飲むのである。
渺茫たる万里の波濤を越えて飛びかえり、その住まいとするところも人里を遠く離れたところであるから、ひとりで宿る住まいは、天より霜が降りて寒いものであろうが厭いはしない。
ただ、幸いにして、さきに、笙を吹くのがうまかった仙人の王子晋に出会え、青雲の端に結んでその恩恵を受けたことがあるのである。
しかし、受けたご恩に奉ずることはいまだにできていない、そこで、この人に別れるのがつらいということで、覚えずに長歎を空しく繰り返しているのである。

西嶽華山00 

(訳注)

古風,五十九首之四十

(此の詩は君側を遠ざけられた感慨を、鳳凰鳥によせて、「懐恩未得報、感別空長歎。」(恩を懐うて 未だ報ずるを得ず、別れを感じて 空しく長嘆。)と情思纏綿たることを詠ったもの。)

 

鳳飢不啄粟、所食唯琅玕。
鳳凰は百鳥の王である、いかに空腹で飢えていても、ただの粟などの穀物を啄んだりはしない、鳳凰が食うのは、琅玕の玉に比すべき、即ち竹の実だけである。

2 鳳凰 姫を鳳、雌を凰といい、想像上の動物。聖人が天子の位にあれば、それに応じて現われるという瑞鳥である。形は、前は臍、後は鹿、くびは蛇、尾は魚、もようは竜、背は亀、あごは燕、くちばしは鶏に似、羽の色は五色、声は五音に中る。梧桐に宿り、竹の実を食い、酵泉の水を飲む、といわれる。李白自身を指す。

3 粟 穀物の総称。賄賂が平然となされていたことを示す。

4 所食唯琅玕 楊齊賢は離騷の注に曰う「南方有鳥其名為鳳天為生樹名/曰瓊枝高百二十仞大三十圍以琳琅為實」(南方に鳥有り、其の名を鳳と為す。天 為めに樹を生じ、名づけて瓊枝と曰う。高さ百二十仞、大きさ三十圍、琳琅を以て實と為す。)にもとづく。・琅玕 玉に似た一種の石の名。「山海経」には「崑崙山に琅玕の樹あり」とある。即ち竹の実。鳳がそれを食うといわれる。天子から受ける俸禄を意味する。


焉能與羣鶏、刺蹙爭一餐。
そこで、いかなるばあいでも、にわとりの群れと一緒になってとしても、齷齪として、一餐をとりあらそうような吝なまねなど、一切しない。
5 羣鶏 宮廷の官吏、宦官、宮女をさす。

6 刺蹙 こせこせ。齷齪とする。


朝鳴崑邱樹、夕飮砥柱湍。
かくて、朝には崑崙山の頂上の高き木の上で鳴き、夕方には、黄河の流れの中にある砥柱の早瀬の水を飲むのである。
7 崑邱樹 崑崙山の絶頂にそびえる木。「山海経」に「西海の南、流沙の浜、赤水の後、黒水の前、大山あり、名を足寄の邸という」とある。朝の朝礼、天子にあいさつする。山海經「西海之南流沙之濵赤水之後黑水之前有大山名曰崑崙之丘。」(西海の南、流沙の濵、赤水の後、黑水の前、大山有り。名を崑崙の丘と曰う。)

8 砥柱濡 湖は早瀬。砥柱は底柱とも書き、黄河の流れの中に柱のように突立っている山の名。翰林院での古書を紐解き勉学する。元和郡縣志「底柱山、俗名三門山、在陜州硤石縣東北五十里黄河中。禹貢曰“𨗳河積石至于龍門又東至于底柱註云河水分流包山而過山見水中若柱然也”」(底柱山、俗名三門、山は陜州硤石縣の東北五十里、黄河中に在り。禹貢 曰く“河に積石を𨗳いて龍門に至り、又、東 底柱に至る。註に云い河水分流、山を包んで過ぐ。山は水中に見われ、柱の若く然るなり”)とある。

9 朝鳴二句「淮南子」に「鳳凰、かって万仞の上に逝き、四海の外に翔翔し、崑崙の疏圃を過ぎ、砥柱の湍瀬に飲む」とあるのにもとづく。


歸飛海路遠、獨宿天霜寒。

渺茫たる万里の波濤を越えて飛びかえり、その住まいとするところも人里を遠く離れたところであるから、ひとりで宿る住まいは、天より霜が降りて寒いものであろうが厭いはしない。
10 海路遠 仙境は東海、滄海の上はるか先に泛ぶ三山の島ということ。


幸遇王子晉、結交青雲端。
ただ、幸いにして、さきに、笙を吹くのがうまかった仙人の王子晋に出会え、青雲の端に結んでその恩恵を受けたことがあるのである。
11 王子晉 むかしの仙人。周の霊王の王子で、名は晋。笙を吹いて鳳の鳴きまねをするのが好きで、道士の浮邱という者といっしょに伊洛(いまの河南省)のあたりに遊んでいたが、ついには白鶴に乗って登仙したといわれる。《列仙傳》曰「周靈王太子名晉好吹笙作鳳鳴遊伊洛間/道士浮丘公接上嵩高山三十年後乘白鶴在緱氏山頭舉手謝時/人數日去」に見える。13の字解を参照。

12 青雲 青雲の志、立身出世。
 

 

懐恩未得報、感別空長歎。
しかし、受けたご恩に奉ずることはいまだにできていない、そこで、この人に別れるのがつらいということで、覚えずに長歎を空しく繰り返しているのである。

13 この二句 元の蕭士贇の《補註》曰「此詩似/太白自比。之作太白雖帝族非凡輩可儕、然孤寒疎知章、薦之方能致身金鑾、帝知遇可、謂「結交青雲端矣」此恩未報臨別之時安能/不感嘆哉」(士贇は曰う“此詩は太白 自ら比するに似たり。之作は太白は雖帝族にして凡輩の儕しゅうす可きに非ずとも、然れども孤寒疎知章、之を薦めて、方に能く身を金鑾に致し、帝の知遇をる、「交りて青雲の端を結ばんや」と謂う可し。此の恩、未だ報せず、別に臨んで之の時、安んぞ能く感嘆せざらんや”

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古風,五十九首之二十二

秦水別隴首,幽咽多悲聲。胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。

感物動我心,緬然含歸情。昔視秋蛾飛,今見春蠶生。

(此の詩は別れの時の詩、長安を去るものの情思纏綿たることを詠ったもの。)  長安を旅立つものは東流する秦水がやがて隴山に別れを告げるために、ひとしれずむせび泣き嗚咽して悲しい声を発てて流れてゆく。胡地の馬がその地を去るときに、は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて長く嘶いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、故郷に別れを告げるのである。此処に、外界の景色を見るにつけて、詩人としての私の心を動かした、わかれにはいろんな思いにふけるものである、これから先の旅路のはるか遠くのことを考えると長安を旅立つというのではなくはやくこの故郷に帰ってきたいと思う気持ちの方が強いものである。先に、家を出るとき、秋の蛾が飛んでいたが、何時しか冬を過ぎたが、いまはどうだろう、もう、春の蚕が生まれていることだろう。

李太白集巻一22

古風,五十九首之二十二

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Index-24

744年天寶三年44歳 

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index-23-1 744年天寶三年44-4 古風,五十九首之二十二(世道日交喪)

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-22

文體:

五言古詩

李太白集 

01-22

 

 

詩題:

古風,五十九首之二十二

序文

 

作地點:

 長安

 

 

及地點:

 臨淄 (河南道 青州 臨淄) 別名:齊都

 

 

 華不注山 (河南道 齊州 華不注山) 別名:華不注峰

 

 

 

 

交遊人物:

 

 

 

古風,五十九首之五

#1

太白何蒼蒼,星辰上森列。

去天三百里,邈爾與世

中有綠髮翁,披雲卧松雪。

不笑亦不語,冥棲在岩穴。

#2

我來逢真人,長跪問寶訣。

粲然玉齒,授以練葯

銘骨傳其語,竦身已電滅。

仰望不可及,蒼然五情熱。

吾將營丹砂,永世與人別。

 

古風,五十九首之二十 #1

昔我遊齊都,登華不注峰。

茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

蕭颯古仙人,了知是赤松。

借予一白鹿,自挾兩青龍。

含笑凌倒景,欣然願相從。

 

#2

泣與親友別,欲語再三咽。

勗君青松心,努力保霜雪。

世路多險艱,白日欺紅顏。

分手各千里,去去何時還。

在世復幾時,倏如飄風度。

 

#3

空聞紫金經,白首愁相誤。

撫己忽自笑,沈吟為誰故。

名利徒煎熬,安得閒余步。

終留赤玉舄,東上蓬萊路。

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

 

 

古風,五十九首之二十二

秦水別隴首,幽咽多悲聲。

胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。 

感物動我心,緬然含歸情。

#2

昔視秋蛾飛,今見春蠶生。 

嫋嫋桑柘葉,萋萋柳垂榮。

急節謝流水,羈心搖懸旌。 

揮涕且複去,惻愴何時平。 

 

古風,五十九首之四十

  鳳饑不啄粟,所食唯琅玕.焉能與群雞,刺蹙爭一餐。 

  朝鳴昆丘樹,夕飲砥柱湍。歸飛海路遠,獨宿天霜寒。 

  幸遇王子晉,結交青雲端。懷恩未得報,感別空長歎。 

 

古風,五十九首之四十二

  搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。 

  寄形宿沙月,沿芳戲春洲。吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

 

古風,五十九首之四十三

  周穆八荒意,漢皇萬乘尊。淫樂心不極,雄豪安足論。 

  西海宴王母,北宮邀上元。瑤水聞遺歌,玉懷竟空言。 

  靈跡成蔓草,徒悲千載魂。 

 

古風,五十九首之五十五

  齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。慷慨動顏魄,使人成荒淫。 

  彼美佞邪子,婉孌來相尋。一笑雙白璧,再歌千黃金。 

  珍色不貴道,詎惜飛光沉。安識紫霞客,瑤台鳴素琴。 

 

 

 

 

 

-366-022巻一22 古風,五十九首之二十二 (秦水別隴首,) 

Index-23-1 744年天寶三年44366

李白index- 23 《744年 高力士に讒言され首都追放。四方遊歴を再開する。》李白詩 全詩<李白index- 23> Ⅰ李白詩1094 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4018

年:  744  天寶三年  44

卷別: 卷一六一  文體: 五言古詩 

詩題: 古風,五十九首之二十二 

 

古風,五十九首之二十二

(此の詩は別れの時の詩、長安を去るものの情思纏綿たることを詠ったもの。)

秦水別隴首,幽咽多悲聲。

長安を旅立つものは東流する秦水がやがて隴山に別れを告げるために、ひとしれずむせび泣き嗚咽して悲しい声を発てて流れてゆく。
胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。

胡地の馬がその地を去るときに、は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて長く嘶いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、故郷に別れを告げるのである。
感物動我心,緬然含歸情。

此処に、外界の景色を見るにつけて、詩人としての私の心を動かした、わかれにはいろんな思いにふけるものである、これから先の旅路のはるか遠くのことを考えると長安を旅立つというのではなくはやくこの故郷に帰ってきたいと思う気持ちの方が強いものである。
#2

昔視秋蛾飛,今見春蠶生。

先に、家を出るとき、秋の蛾が飛んでいたが、何時しか冬を過ぎたが、いまはどうだろう、もう、春の蚕が生まれていることだろう。
嫋嫋桑柘葉,萋萋柳垂榮。

それに、桑の葉は群がり生じて、しなやかにまとわりついているし、柳は見事に繁って、煙れる枝を垂れていることであろう。
急節謝流水,羈心搖懸旌。

時節は流れる水よりも早くながれ、わが旅人の心は旗のように揺れうごいて落ち気はしない。
揮涕且復去,惻愴何時平。 

こうして、今、涙を払ってともかくもこの地を去って、旅を続けようとするので、愴然として心を傷ましめ、この重たく暗い思いは何時になったら平静になるのであろうか。

(古風,五十九首の二十二)

秦水【しんすい】  隴首【ろうしゅ】に別れ、幽咽【ゆうえつ】して悲声多し。

胡馬【こば】  朔雪【さくせつ】を顧み、躞蹀【しょうちょう】として長く嘶鳴【しめい】す。

物に感じて我が心を動かし、緬然【めんぜん】として帰情を含む。

#2
昔は視る  秋蛾【しゅうが】の飛ぶを、今は見る  春蚕【しゅんさん】の生ずるを。
嫋嫋【じょうじょう】として桑は葉を結び、萋萋【せいせい】として柳は栄を垂る。
急節  流水のごとく謝【さ】り、羇心【きしん】   懸旌【けんせい】を揺るがす。
涕を揮って且【しばら】く復()た去り、惻愴【そくそう】  何【いず】れの時か平かならん。

 

馬002 

『古風,五十九首之二十二』 現代語訳と訳註

(本文) 古風,五十九首之二十二

古風,五十九首之二十二

秦水別隴首,幽咽多悲聲。

胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。

感物動我心,緬然含歸情。

#2

昔視秋蛾飛,今見春蠶生。

嫋嫋桑柘葉,萋萋柳垂榮。

急節謝流水,羈心搖懸旌。

揮涕且復去,惻愴何時平。 

 

(下し文)

(古風,五十九首の二十二)

秦水【しんすい】  隴首【ろうしゅ】に別れ、幽咽【ゆうえつ】して悲声多し。

胡馬【こば】  朔雪【さくせつ】を顧み、躞蹀【しょうちょう】として長く嘶鳴【しめい】す。

物に感じて我が心を動かし、緬然【めんぜん】として帰情を含む。

#2

昔は視る  秋蛾【しゅうが】の飛ぶを、今は見る  春蚕【しゅんさん】の生ずるを。

嫋嫋【じょうじょう】として桑は葉を結び、萋萋【せいせい】として柳は栄を垂る。

急節  流水のごとく謝【さ】り、羇心【きしん】 懸旌【けんせい】を揺るがす。

涕を揮って且【しばら】く復()た去り、惻愴【そくそう】  何【いず】れの時か平かならん。

 

(現代語訳)

(此の詩は別れの時の詩、長安を去るものの情思纏綿たることを詠ったもの。)

長安を旅立つものは東流する秦水がやがて隴山に別れを告げるために、ひとしれずむせび泣き嗚咽して悲しい声を発てて流れてゆく。
胡地の馬がその地を去るときに、は故郷の朔地の山に積もった雪の向こうを振り向いて長く嘶いて、馬に付けた鈴や玉を鳴らして、故郷に別れを告げるのである。
此処に、外界の景色を見るにつけて、詩人としての私の心を動かした、わかれにはいろんな思いにふけるものである、これから先の旅路のはるか遠くのことを考えると長安を旅立つというのではなくはやくこの故郷に帰ってきたいと思う気持ちの方が強いものである。
#2

先に、家を出るとき、秋の蛾が飛んでいたが、何時しか冬を過ぎたが、いまはどうだろう、もう、春の蚕が生まれていることだろう。
それに、桑の葉は群がり生じて、しなやかにまとわりついているし、柳は見事に繁って、煙れる枝を垂れていることであろう。
時節は流れる水よりも早くながれ、わが旅人の心は旗のように揺れうごいて落ち気はしない。
こうして、今、涙を払ってともかくもこの地を去って、旅を続けようとするので、愴然として心を傷ましめ、この重たく暗い思いは何時になったら平静になるのであろうか。

太白山001 

(訳注)

古風,五十九首之二十二

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

(此の詩は別れの時の詩、長安を去るものの情思纏綿たることを詠ったもの。)

 

秦水別隴首。 幽咽多悲聲。
長安を旅立つものは東流する秦水がやがて隴山に別れを告げるために、ひとしれずむせび泣き嗚咽して悲しい声を発てて流れてゆく。
1 秦水 渭水の上流部、隴西の流域。 《水經注卷十七》「秦水西逕降隴縣故城南,又西南自亥、松多二水出隴山,合而西南流,逕降隴城北,又西南注秦水。」(秦水の西逕は隴縣故に城南に降り,又、西南に自ら亥【とざ】す、松多く二水は隴山に出づ,合して 西南に流る,隴城の北に逕降し,又 西南に 秦水に注ぐ。

2 隴首 渭水が隴山のすそをながれるあたりは、杜甫《巻二14前出塞九首其三》「磨刀嗚咽水,水赤刃傷手。欲輕腸斷聲,心緒亂已久。」(隴山までくるとむせび泣いている水が流れている、その水で刀をみがく。水の色がさっと赤くなる、刀の刃が自分の手を傷つけたのだ。自分はこんな腸はらわたを断たせるという水の音などはたいしたことはないつもりなのだが、家と国とのことを考えると以前からさまざま思っていて心がみだれてくる。「前出塞九首」其三 紀頌之の漢詩ブログ杜甫特集 42

《太平御覽、辛氏、三秦記》「隴右西關、其坂紆迴、不知髙里。欲上者、七日乃越。髙處可容百餘家。上有清水、四注流下。俗歌曰、隴頭流水、鳴聲幽咽、遥望秦川、肝腸斷絶。隴首即隴頭也。」(隴右の西關、其の坂 紆迴し、髙さ里なるを知らず。上らんと欲する者は、七日乃ち越ゆ。髙處は百餘家を容る可し。清水、四いで流下す。俗歌に曰く、隴頭の流水、鳴聲は幽咽す、秦川を遥望し、肝腸して斷絶す。隴首隴頭なり)とある

沈約詩《西征登隴首、通鑑地理通釋》「秦州隴城縣有大隴山亦曰隴首山。」(秦州の隴城縣に大隴山有り亦た隴首山と曰う。)とある。


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世路多險艱,白日欺紅顏。分手各千里,去去何時還。

在世復幾時,倏如飄風度。空聞紫金經,白首愁相誤。

顧みれば、この世には険艱多く、しかも、白日は流れるように立ち去ってしまい、紅顔は決して長く存せず、やがて、白髪頭の老人になってしまうから、せいぜい衰病せぬようにすることが肝要である。ここは君と手を分かてば各々千里隔たれていて、我は一たびここをされば、いつ帰って来るかわからない、御大事にといって親友と別れたのである。さて考えてみれば、人がこの世にいるのは、幾ばくの間であろうか、そのこつぜんとして去ることはあたかも旋風が吹きわたると同じである。折角、金丹の練り方の秘訣を聞いたところで、老人になるまで、世事に妨げられて仙道の修行ができず、空しく相い間違うようなことになれば、また再び会うこともできない。

李太白集巻一20

古風,五十九首之二十

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Index-23-1 744年天寶三年44365古風,五十九首之二十昔我遊齊都,

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-20

文體:

五言古詩

李太白集 

01-20

 

 

詩題:

古風,五十九首之二十

序文

 

作地點:

 長安

 

 

及地點:

 臨淄 (河南道 青州 臨淄) 別名:齊都

 

 

 華不注山 (河南道 齊州 華不注山) 別名:華不注峰

 

 

 

 

交遊人物:

 

 

 

 

 

古風,五十九首之二十 #1

(仙郷に遊ぶことを詠じている。はじめ赤松に遭遇して愈々仙術を修行することとなり、それから親友に別れて、遠く立ち去る時の感慨を述べたものである。)

昔我遊齊都,登華不注峰。

私が昔、斉都の濟南に遊び、城外のそんなにとおくないところにある華山の華不注峰に登った。

茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

この山は、平原の上に屈起し、山勢峻にして秀逸であり、草木がこれを蔽って、緑の色の艶々しいことは、さながら芙蓉の花の匂いにおなじである。

蕭颯古仙人,了知是赤松。

やがて山頂に登りついてみると道風蕭颯たる一人の老人に出会ったが問わずして名だたる赤松子であることがわかった。

借予一白鹿,自挾兩青龍。

赤松子は自ら二つの青竜を挟んでその上にまたがり、そして、私に一頭の白鹿を貸してこれに乗れと言った。

含笑凌倒景,欣然願相從。

それで子の白鹿に乗って、欣然として笑いを含み、日月を投影を眼底に見下ろされつつ、赤松子に随って愈々天に昇ることになった。

 

#2

泣與親友別,欲語再三咽。

かくして一たび天にしまえばいつ帰るともわからないから、暫時 暇を盗んで、親友に暇乞いをしてから、これと語り合おうとすれば、再三涙にむせび、言葉も出ないのである。

勗君青松心,努力保霜雪。

そうしていうには、君はつとめて堅強なる心を保有し、かの丘に生える松が霜と雪にたゆまぬように努力して養生することがよいのである。

世路多險艱,白日欺紅顏。

顧みれば、この世には険艱多く、しかも、白日は流れるように立ち去ってしまい、紅顔は決して長く存せず、やがて、白髪頭の老人になってしまうから、せいぜい衰病せぬようにすることが肝要である。

分手各千里,去去何時還。

ここは君と手を分かてば各々千里隔たれていて、我は一たびここをされば、いつ帰って来るかわからない、御大事にといって親友と別れたのである。

在世復幾時,倏如飄風度。

さて考えてみれば、人がこの世にいるのは、幾ばくの間であろうか、そのこつぜんとして去ることはあたかも旋風が吹きわたると同じである。

 

#3

空聞紫金經,白首愁相誤。

折角、金丹の練り方の秘訣を聞いたところで、老人になるまで、世事に妨げられて仙道の修行ができず、空しく相い間違うようなことになれば、また再び会うこともできない。

撫己忽自笑,沈吟為誰故。

このように思い悩んでから、忽然として大悟し、そこで自ら大笑いして言うには、いましも沈吟して別れを惜しむは、畢竟、「誰がためにするのか、まったく人間離れをするものではない」という。

名利徒煎熬,安得閒余步。

このような愚痴な了見も出るので、世間におれば、名利のために煮られたり、炒られたりして終始忙しく駆け回らねばならない。どうして私が足並みを静かにしようかと、そんなことは少しも自分に役がない。

終留赤玉舄,東上蓬萊路。

遠游に出かけて翻然高挙、かの赤松子に随って、ゆっくりと仙術の修行をなそうと思うので、かの安期生が赤玉の靴を留めて、遙かに東、蓬莱山にいったとおなじく、わたしもまた遺跡を人間に留めたまま立ち去ろうとするのである。

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

安期生は、一度去った後「秦の始皇帝が使者を遣わして、いくら尋ねてもわからず、東海は蒼蒼として、ただ煙霧の立ち込めるのに任せ、何処にいるか知る由もなかった」と同じく、私としても、この世を辞せし後は、たとえ帝王が捜されたとしても見つかるはずもなく区々たる親友の交誼など特に問うまでもないことなのである。

 

 

古風,五十九首の二十

昔 我 齊都に遊び,華 不注の峰に登る。

茲の山 何ぞ峻秀,綠翠 芙蓉の如し。

蕭颯たる 古仙人,了に知る是れ赤松なるを。

予に一の白鹿を借し,自ら兩の青龍を挾む。

笑を含んで倒景を凌ぎ,欣然として相い從わんことを願う。

 

泣いて親友と別れ,語らんと欲して再三 咽ぶ。

君が青松の心を勗め,努力して霜雪を保てよ。

世路 險艱多く,白日 紅顏を欺く。

分手をてば各の千里,去去 何れの時か還らん。

世に在り 復た幾時ぞ,倏として 飄風の度るが如し。

 

空しく聞く 紫金經を,白首 相い誤るを愁う。

己を撫して忽ち自ら笑う,沈吟 誰が為めの故ぞ。

名利 徒らに煎熬【せんごう】,安んぞ余が步みを閒にするを得ん。

終に赤玉の舄【くつ】を留め,東 蓬萊の路に上る。

秦帝 如し我を求めなば,蒼蒼として但だ煙霧のみ。

 

 

『古風,五十九首之二十』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之二十 #1

昔我遊齊都,登華不注峰。

茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

蕭颯古仙人,了知是赤松。

借予一白鹿,自挾兩青龍。

含笑凌倒景,欣然願相從。

 

#2

泣與親友別,欲語再三咽。

勗君青松心,努力保霜雪。

世路多險艱,白日欺紅顏。

分手各千里,去去何時還。

在世復幾時,倏如飄風度。

 

#3

空聞紫金經,白首愁相誤。

撫己忽自笑,沈吟為誰故。

名利徒煎熬,安得閒余步。

終留赤玉舄,東上蓬萊路。

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

 

(下し文)

(古風,五十九首の二十) #1

昔 我 齊都に遊び,華 不注の峰に登る。

茲の山 何ぞ峻秀,綠翠 芙蓉の如し。

蕭颯たる 古仙人,了に知る是れ赤松なるを。

予に一の白鹿を借し,自ら兩の青龍を挾む。

笑を含んで倒景を凌ぎ,欣然として相い從わんことを願う。

#2

泣いて親友と別れ,語らんと欲して再三 咽ぶ。

君が青松の心を勗め,努力して霜雪を保てよ。

世路 險艱多く,白日 紅顏を欺く。

分手をてば各の千里,去去 何れの時か還らん。

世に在り 復た幾時ぞ,倏として 飄風の度るが如し。

#3

空しく聞く 紫金經を,白首 相い誤るを愁う。

己を撫して忽ち自ら笑う,沈吟 誰が為めの故ぞ。

名利 徒らに煎熬【せんごう】,安んぞ余が步みを閒にするを得ん。

終に赤玉の舄【くつ】を留め,東 蓬萊の路に上る。

秦帝 如し我を求めなば,蒼蒼として但だ煙霧のみ。

 

(現代語訳)

古風,五十九首之二十 #1(仙郷に遊ぶことを詠じている。はじめ赤松に遭遇して愈々仙術を修行することとなり、それから親友に別れて、遠く立ち去る時の感慨を述べたものである。)

 

私が昔、斉都の濟南に遊び、城外のそんなにとおくないところにある華山の華不注峰に登った。

この山は、平原の上に屈起し、山勢峻にして秀逸であり、草木がこれを蔽って、緑の色の艶々しいことは、さながら芙蓉の花の匂いにおなじである。

やがて山頂に登りついてみると道風蕭颯たる一人の老人に出会ったが問わずして名だたる赤松子であることがわかった。

赤松子は自ら二つの青竜を挟んでその上にまたがり、そして、私に一頭の白鹿を貸してこれに乗れと言った。

それで子の白鹿に乗って、欣然として笑いを含み、日月を投影を眼底に見下ろされつつ、赤松子に随って愈々天に昇ることになった。

 

#2

かくして一たび天にしまえばいつ帰るともわからないから、暫時 暇を盗んで、親友に暇乞いをしてから、これと語り合おうとすれば、再三涙にむせび、言葉も出ないのである。

そうしていうには、君はつとめて堅強なる心を保有し、かの丘に生える松が霜と雪にたゆまぬように努力して養生することがよいのである。

顧みれば、この世には険艱多く、しかも、白日は流れるように立ち去ってしまい、紅顔は決して長く存せず、やがて、白髪頭の老人になってしまうから、せいぜい衰病せぬようにすることが肝要である。

ここは君と手を分かてば各々千里隔たれていて、我は一たびここをされば、いつ帰って来るかわからない、御大事にといって親友と別れたのである。

さて考えてみれば、人がこの世にいるのは、幾ばくの間であろうか、そのこつぜんとして去ることはあたかも旋風が吹きわたると同じである。

 

#3

折角、金丹の練り方の秘訣を聞いたところで、老人になるまで、世事に妨げられて仙道の修行ができず、空しく相い間違うようなことになれば、また再び会うこともできない。

このように思い悩んでから、忽然として大悟し、そこで自ら大笑いして言うには、いましも沈吟して別れを惜しむは、畢竟、「誰がためにするのか、まったく人間離れをするものではない」という。

このような愚痴な了見も出るので、世間におれば、名利のために煮られたり、炒られたりして終始忙しく駆け回らねばならない。どうして私が足並みを静かにしようかと、そんなことは少しも自分に役がない。

遠游に出かけて翻然高挙、かの赤松子に随って、ゆっくりと仙術の修行をなそうと思うので、かの安期生が赤玉の靴を留めて、遙かに東、蓬莱山にいったとおなじく、わたしもまた遺跡を人間に留めたまま立ち去ろうとするのである。

安期生は、一度去った後「秦の始皇帝が使者を遣わして、いくら尋ねてもわからず、東海は蒼蒼として、ただ煙霧の立ち込めるのに任せ、何処にいるか知る由もなかった」と同じく、私としても、この世を辞せし後は、たとえ帝王が捜されたとしても見つかるはずもなく区々たる親友の交誼など特に問うまでもないことなのである。

 

(訳注)

古風,五十九首之二十 

(仙郷に遊ぶことを詠じている。はじめ赤松に遭遇して愈々仙術を修行することとなり、それから親友に別れて、遠く立ち去る時の感慨を述べたものである。)

古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集し、李白の生き方を述べたものである。

 

#1

昔我遊齊都,登華不注峰。

私が昔、斉都の濟南に遊び、城外のそんなにとおくないところにある華山の華不注峰に登った。

1 齊都 済南市は中華人民共和国山東省に位置する副省級市。山東省の西部に位置し、省都として省内の通商、政治、文化の中心としての地位を占める。市中を黄河が流れ、南には泰山が控えている。人口のほとんどは漢族であるが、満族や回族なども居住している。 言語は北京語に近いが声調がひどく訛る山東方言がある。740年、孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現山東省)に集まり、「竹渓六逸」と呼ばれることもあった。

2 華不注峰 中国五岳の一。陝西(せんせい)省の南,秦嶺(しんれい)山脈の東端にある名山。海抜1997メートル。双峰が突き出した険しい山が「華不注山」、頂上の丸いのが「鵲山」である。陝西省華陰県,秦嶺東部の山。黄土高原を南流してきた黄河が東方へ90度転換,渭河と合流する地域にある。東岳泰山,中岳嵩山(すうざん)などとならび中国五岳の一つで,西岳,小秦嶺ともいう。東,西,南,北,中の5峰をはじめ,花コウ岩を主とする山峰が発達した断層山地で,最高は南峰落雁峰の1997m。〈華山は天下の雄たり〉の称がある。山中には寺観が大小30余あり,道教の山となってきた。【

 

茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

この山は、平原の上に屈起し、山勢峻にして秀逸であり、草木がこれを蔽って、緑の色の艶々しいことは、さながら芙蓉の花の匂いにおなじである。

3 如芙蓉 華山は、北峰(云台峯)、中峰(玉女峰)、南峰(落雁峰)、西峰(蓮花峰)、東峰(朝陽峰)35つの主な峰からなり、約8千万年前の大きな地殻変動によって出来上がった華山は、火山の噴火などでできた山と違い、断崖絶壁の一枚岩のような作りになっている。この連峰は金鎖関を起点に道が伸びている。この芙蓉というのは、華山の西峰(蓮花峰)と呼ばれるやまをいう。

 

蕭颯古仙人,了知是赤松。

やがて山頂に登りついてみると道風蕭颯たる一人の老人に出会ったが問わずして名だたる赤松子であることがわかった。

4 赤松 赤松子:神農のころの雨師(雨の神)水玉(水精。水晶)を服用し、それを神農にも教えた。  自焼することで火によって尸解したという。西王母の石室に宿り風雨とともに山を上り下りした。  炎帝(神農)の末娘が赤松子を追ってきて仙人になり、二人とも姿を消した。黄帝の曾孫の高辛氏の時代に再び雨師になった。“《列仙傳·赤松子》: 赤松子者,神農時雨師也。服水玉以教神農,能入火自燒。往往至崑崙山上,常止西王母石室中,隨風雨上下。炎帝少女追之,亦得仙,俱去。至高辛時,復為雨師。今之雨師本是焉。 顯示整段. 《太平御覽·昆侖山》: 赤松子者,神農時雨師也。”とある。

 

借予一白鹿,自挾兩青龍。

赤松子は自ら二つの青竜を挟んでその上にまたがり、そして、私に一頭の白鹿を貸してこれに乗れと言った。

5 白鹿 仙人ののるもの。

6 青竜 伝説上の神獣、四神(四象)の1つ。東方青竜。蒼竜(そうりゅう)ともいう。福建省では青虎(せいこ)に置き換わっている。「青」の原義は緑色植物の色であり、本来は緑色をしているとされる。東方を守護する。長い舌を出した竜の形とされる。青は五行説では東方の色とされる。また、青竜の季節は春とされている。天文学上は、二十八宿の東方七宿に対応する。東方七宿(角宿・亢宿・氐宿・房宿・心宿・尾宿・箕宿)をつなげて竜の姿に見立てたことに由来する。

道教における人格神化した名前では、東海青龍王敖広と呼ばれる。清瀧権現の善女龍王は中国・青龍寺に飛来したという。

杜甫『寄張十二山人彪三十韻』

時來故舊少,亂後別離頻。世祖修高廟,文公賞從臣。

商山猶入楚,渭水不離秦。存想青龍秘,騎行白鹿馴。

耕岩非穀口,結草即河濱。

時来たって故旧少なく 乱後別離頻りなり

世祖高廟を修む 文公従臣を賞す

商山猶お楚にガる 洞水秦を離れず

想いを存す青竜の秘なるに 騎行す白鹿の馴るるに

巌に耕すは谷口に非ず 草を結ぶは即ち河浜

四皓の隠れた商山、太公望の釣りを垂れた渭水、みな我が唐に帰した。あなたの隠居の地は回復されている。

道家としての想いは青竜が斎室を守るという道教の秘密を知っており、君はまさに馴れたる白鹿にのってあるくのである。

あなたが漢の鄭子真のように巌石のもとに退耕しようとする場所は長安ちかくの谷口ではない、君が草を結んで庵をつくろうとする処は「神仙伝」にいう河上公の洛陽に遠からざる黄河のほとりであるであろう。

寄張十二山人彪三十韻 杜甫 <318-#4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブロ1484 杜甫詩 700- 459

 

含笑凌倒景,欣然願相從。

それで子の白鹿に乗って、欣然として笑いを含み、日月を投影を眼底に見下ろされつつ、赤松子に随って愈々天に昇ることになった。

7 倒景 司馬相如《大人賦》「貫列缺之倒景兮,涉豐隆之滂濞。」(列缺の倒景を貫き,豐隆の滂濞を涉る)服虔曰:「列缺,天閃也。人在天上,下向視日月,故景倒在下也。師古曰:「豐隆將雨,故言涉也。滂濞,雨水多也。滂音普郎反。濞音匹備反。

 

#2

泣與親友別,欲語再三咽。

かくして一たび天にしまえばいつ帰るともわからないから、暫時 暇を盗んで、親友に暇乞いをしてから、これと語り合おうとすれば、再三涙にむせび、言葉も出ないのである。

 

勗君青松心,努力保霜雪。

そうしていうには、君はつとめて堅強なる心を保有し、かの丘に生える松が霜と雪にたゆまぬように努力して養生することがよいのである。

8 努力 努力して養生することをつくす。

 

世路多險艱,白日欺紅顏。

顧みれば、この世には険艱多く、しかも、白日は流れるように立ち去ってしまい、紅顔は決して長く存せず、やがて、白髪頭の老人になってしまうから、せいぜい衰病せぬようにすることが肝要である。

9 欺紅顏 紅顔は決して長く存せずということ。いまは紅顔であってもすぐに欺かれる、いつまでもよいときは続くものではない。

 

分手各千里,去去何時還。

ここは君と手を分かてば各々千里隔たれていて、我は一たびここをされば、いつ帰って来るかわからない、御大事にといって親友と別れたのである。

 

在世復幾時,倏如飄風度。

さて考えてみれば、人がこの世にいるのは、幾ばくの間であろうか、そのこつぜんとして去ることはあたかも旋風が吹きわたると同じである。

10 飄風 急に激しく吹く風。つむじかぜ。はやて。《「老子」23章から》「故飄風不終朝 驟雨不終日」飄風は朝を終えず驟雨は日を終えず。

つむじ風が朝の間じゅう吹きつづけることはないし、にわか雨が一日じゅう降りつづけることもない。不自然な出来事は長くは続かないというたとえ。

 

 

3

空聞紫金經,白首愁相誤。

折角、金丹の練り方の秘訣を聞いたところで、老人になるまで、世事に妨げられて仙道の修行ができず、空しく相い間違うようなことになれば、また再び会うこともできない。

11 紫金經 煉丹の書。後漢時代に左慈という人物が神人から授かった「金丹仙経」をごく少数の集団を経て伝えられたという。・紫金:赤銅(しゃくどう)の異称。古くは「黄治」や「黄白」とも呼ばれた金丹は、不老不死の効果を持つ薬の製造と服薬により仙人になることを目指すという点から、道教と密接に関連していた。

 

撫己忽自笑,沈吟為誰故。

このように思い悩んでから、忽然として大悟し、そこで自ら大笑いして言うには、いましも沈吟して別れを惜しむは、畢竟、「誰がためにするのか、まったく人間離れをするものではない」という。

 

名利徒煎熬,安得閒余步。

このような愚痴な了見も出るので、世間におれば、名利のために煮られたり、炒られたりして終始忙しく駆け回らねばならない。どうして私が足並みを静かにしようかと、そんなことは少しも自分に役がない。

 

終留赤玉舄,東上蓬萊路。

遠游に出かけて翻然高挙、かの赤松子に随って、ゆっくりと仙術の修行をなそうと思うので、かの安期生が赤玉の靴を留めて、遙かに東、蓬莱山にいったとおなじく、わたしもまた遺跡を人間に留めたまま立ち去ろうとするのである。

12 赤玉舄 安期生が赤玉でもって飾り付けた靴をいう。『列仙伝』 の安期先生も 「赤玉の. 暮」 をのこ し、 『神仙伝』 の茄子訓も棺中にくつを一つのこ していった。 安期先生瑯邪の阜郷(山東省)の人で、秦始皇帝(BC259BC210)が巡遊したとき三日三晩共に語らい、赤玉くつ一足を返礼し、蓬莱山に愚老を捜すように書面を残して去る

13 蓬萊路 古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。

 

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

安期生は、一度去った後「秦の始皇帝が使者を遣わして、いくら尋ねてもわからず、東海は蒼蒼として、ただ煙霧の立ち込めるのに任せ、何処にいるか知る由もなかった」と同じく、私としても、この世を辞せし後は、たとえ帝王が捜されたとしても見つかるはずもなく区々たる親友の交誼など特に問うまでもないことなのである。

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巻一5 古風,五十九首之五

太白何蒼蒼,星辰上森列。去天三百里,邈爾與世

中有綠髮翁,披雲卧松雪。不笑亦不語,冥棲在岩穴。

(翰林供奉として長安にあった時に、終南山に遊び、遊仙のことをのべた。)

太白山は、蒼蒼としてみどりふかく、なんとおごそかであろう、その絶頂には、幾多の星辰がきらめき、森然として羅列している。その高さについて、下からの高さは「不知其高」とわからないが、非常に高くて、「天上から山頂までが三百里」という、それを疑うことはないようで、実際にこれに登ってみれば、邈焉として、浮世を絶縁していることに間違いないのである。そういう名山であるから、緑髪の仙人がその山中に隠れていて雲を披いて衣と為し、松に降り積もる雪をもって褥にしている。 そして、巌穴の間に黙然と座っていて、笑わず、語らず、一心不乱に行い澄ましている。

李太白集巻一05

古風,五十九首之五

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7450

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-2

416 <1000

 

 
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744年天寶三年44巻一05 古風,五十九首之五 (太白何蒼蒼,) 

古風,五十九首之五

太白何蒼蒼,星辰上森列。去天三百里,邈爾與世

中有綠發翁,披雲臥松雪。不笑亦不語,冥棲在岩穴。

我來逢真人,長跪問寶訣。粲然玉齒,授以煉藥

銘骨傳其語,竦身已電滅。仰望不可及,蒼然五情熱。

吾將營丹砂,永與世人別。

 

古風,五十九首之二十 #1

昔我遊齊都,登華不注峰。

茲山何峻秀,綠翠如芙蓉。

蕭颯古仙人,了知是赤松。

借予一白鹿,自挾兩青龍。

含笑凌倒景,欣然願相從。

 

#2

泣與親友別,欲語再三咽。

勗君青松心,努力保霜雪。

世路多險艱,白日欺紅顏。

分手各千里,去去何時還。

在世復幾時,倏如飄風度。

 

#3

空聞紫金經,白首愁相誤。

撫己忽自笑,沈吟為誰故。

名利徒煎熬,安得閒余步。

終留赤玉舄,東上蓬萊路。

秦帝如我求,蒼蒼但煙霧。

 

 

古風,五十九首之二十二

秦水別隴首,幽咽多悲聲。

胡馬顧朔雪,躞蹀長嘶鳴。 

感物動我心,緬然含歸情。

#2

昔視秋蛾飛,今見春蠶生。 

嫋嫋桑柘葉,萋萋柳垂榮。

急節謝流水,羈心搖懸旌。 

揮涕且複去,惻愴何時平。 

 

古風,五十九首之四十

  鳳饑不啄粟,所食唯琅玕.焉能與群雞,刺蹙爭一餐。 

  朝鳴昆丘樹,夕飲砥柱湍。歸飛海路遠,獨宿天霜寒。 

  幸遇王子晉,結交青雲端。懷恩未得報,感別空長歎。 

 

古風,五十九首之四十二

  搖裔雙白鷗,鳴飛滄江流。宜與海人狎,豈伊雲鶴儔。 

  寄形宿沙月,沿芳戲春洲。吾亦洗心者,忘機從爾遊。 

 

古風,五十九首之四十三

  周穆八荒意,漢皇萬乘尊。淫樂心不極,雄豪安足論。 

  西海宴王母,北宮邀上元。瑤水聞遺歌,玉懷竟空言。 

  靈跡成蔓草,徒悲千載魂。 

 

古風,五十九首之五十五

  齊瑟彈東吟,秦弦弄西音。慷慨動顏魄,使人成荒淫。 

  彼美佞邪子,婉孌來相尋。一笑雙白璧,再歌千黃金。 

  珍色不貴道,詎惜飛光沉。安識紫霞客,瑤台鳴素琴。 

 

太白山001 

 

Index-23        -1 744年天寶三年44

巻一5 古風,五十九首之五

#1

太白何蒼蒼,星辰上森列。

(翰林供奉として長安にあった時に、終南山に遊び、遊仙のことをのべた。)

去天三百里,邈爾與世

太白山は、蒼蒼としてみどりふかく、なんとおごそかであろう、その絶頂には、幾多の星辰がきらめき、森然として羅列している。
中有綠髮翁,披雲卧松雪。

その高さについて、下からの高さは「不知其高」とわからないが、非常に高くて、「天上から山頂までが三百里」という、それを疑うことはないようで、実際にこれに登ってみれば、

邈焉として、浮世を絶縁していることに間違いないのである。
不笑亦不語,冥棲在岩穴。

そういう名山であるから、緑髪の仙人がその山中に隠れていて雲を披いて衣と為し、松に降り積もる雪をもって褥にしている。 
そして、巌穴の間に黙然と座っていて、笑わず、語らず、一心不乱に行い澄ましている。
古風,五十九首の五

#1

太白 何んぞ蒼蒼たる、星辰 上に森列す。

天を去る 三百里、邈爾【ばくじ】として世とつ。

中に綠髪の翁有り、雲をかぶりて松雪に臥す。

笑わず 亦 語らず、冥棲【めいせい】して 岩穴にあり。

 

#2

我來逢真人,長跪問寶訣。

もとより、普通の人間が行ったのでは、そうやって見向きもされないだろうが、わたしは幸いにして、仙骨あるものであるから、道教の教義・奥義を探求し、修練を積んだその仙人を訪い、長跪して拝をなし、長生不死の術とはいかなるものかなど、仙家の秘訣をたずねたのである。
粲然玉齒,授以練葯

すると、仙人は、粲然として笑い、玉のような歯なみをみせて、仙薬を錬るにはこのようにいたすべきであると作り方を教えてくれたのである。

銘骨傳其語,竦身已電滅。

折角の口授を忘れてはいけないので、一生懸命にその語を骨に銘じて覚えようとする間に、突然、仙人は身をすくめてしまったと思うと、電光石火ように行方も知らず去っていったのである。
仰望不可及,蒼然五情熱。

あわてて振り仰ぎ眺めまわしたが、とても追いつかず、蒼然として、五情が熱してきたのである。
吾將營丹砂,永世與人別。

たとえ今日、せっかくの仙家の秘訣が十分に覚えきれないにしても、わたしは今後、仙人との縁があることは明確なので、今後、丹砂を練り、仙人が電滅したように、白日昇天して永久に世人と別離したいと思うのである。

#2

我來って 真人に逢い、長跪【ちょうき】して寶訣【ほうけつ】を問う。

粲然として 玉齒【ぎょくし】をき、授くるに煉藥【れんやく】を以てす。

骨に銘じて其語を傳うるに、身を竦めて已に電の滅ゆ。

仰て 望むも及ぶべからず、蒼然として五情 熱す。

吾 將に 丹砂【たんしゃ】を營み、永く世人と別れんとす。

 

 

『古風,五十九首之五』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之五

#1

太白何蒼蒼,星辰上森列。

去天三百里,邈爾與世

中有綠髮翁,披雲卧松雪。

不笑亦不語,冥棲在岩穴。

#2

我來逢真人,長跪問寶訣。

粲然玉齒,授以練葯

銘骨傳其語,竦身已電滅。

仰望不可及,蒼然五情熱。

吾將營丹砂,永世與人別。

 

(下し文)

古風,五十九首の五  #1

太白 何んぞ蒼蒼たる、星辰 上に森列す。

天を去る 三百里、邈爾【ばくじ】として世とつ。

中に綠髪の翁有り、雲をかぶりて松雪に臥す。

笑わず 亦 語らず、冥棲【めいせい】して 岩穴にあり。

#2

我來って 真人に逢い、長跪【ちょうき】して寶訣【ほうけつ】を問う。

粲然として 玉齒【ぎょくし】をき、授くるに煉藥【れんやく】のを以てす。

骨に銘じて其語を傳うるに、身を竦めて已に電の滅ゆ。

仰て 望むも及ぶべからず、蒼然として五情 熱す。

吾 將に 丹砂【たんしゃ】を營み、永く世人と別れんとす。

 

(現代語訳)

(翰林供奉として長安にあった時に、終南山に遊び、遊仙のことをのべた。)

太白山は、蒼蒼としてみどりふかく、なんとおごそかであろう、その絶頂には、幾多の星辰がきらめき、森然として羅列している。
その高さについて、下からの高さは「不知其高」とわからないが、非常に高くて、「天上から山頂までが三百里」という、それを疑うことはないようで、実際にこれに登ってみれば、

邈焉として、浮世を絶縁していることに間違いないのである。
そういう名山であるから、緑髪の仙人がその山中に隠れていて雲を披いて衣と為し、松に降り積もる雪をもって褥にしている。 
そして、巌穴の間に黙然と座っていて、笑わず、語らず、一心不乱に行い澄ましている。
#2

もとより、普通の人間が行ったのでは、そうやって見向きもされないだろうが、わたしは幸いにして、仙骨あるものであるから、道教の教義・奥義を探求し、修練を積んだその仙人を訪い、長跪して拝をなし、長生不死の術とはいかなるものかなど、仙家の秘訣をたずねたのである。
すると、仙人は、粲然として笑い、玉のような歯なみをみせて、仙薬を錬るにはこのようにいたすべきであると作り方を教えてくれたのである。
折角の口授を忘れてはいけないので、一生懸命にその語を骨に銘じて覚えようとする間に、突然、仙人は身をすくめてしまったと思うと、電光石火ように行方も知らず去っていったのである。
あわてて振り仰ぎ眺めまわしたが、とても追いつかず、蒼然として、五情が熱してきたのである。
たとえ今日、せっかくの仙家の秘訣が十分に覚えきれないにしても、わたしは今後、仙人との縁があることは明確なので、今後、丹砂を練り、仙人が電滅したように、白日昇天して永久に世人と別離したいと思うのである。

 

(訳注)

古風,五十九首之五

(翰林供奉として長安にあった時に、終南山に遊び、遊仙のことをのべた。)744年天寶三年44歳の詩。

1.  古風とは古体の詩というほどのことで、漢魏の間に完成した五言古詩の継承を目指すものである。諸篇は一時の作でなく、折にふれて作られた無題の詩を後から編集したのである。

李白index- 23Ⅲ-1 《744年 高力士に讒言され首都追放。四方遊歴を再開する。》李白詩 全詩<李白index- 23> Ⅰ李白詩1094 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4018

太白山00 

太白何蒼蒼、星辰上森列。
太白山は、蒼蒼としてみどりふかく、なんとおごそかであろう、その絶頂には、幾多の星辰がきらめき、森然として羅列している。
2. 太白山 長安の西方80kmにある3767m、陝西省武功県、の南にある山の名。標高もあり、山頂には年中積雪がある。 五嶽より圧倒的に高い。古来、五嶽を基本のして地方を9つに分けて考えられていた世界観からすれば太白山はその世界を外れた天に続く山とされていたのだろう。  陝西省関中道郿縣の南にあり、上に洞窟がある。道教でいう第十一洞天の霊場である。《水經注地理志》「武功縣有太一山、古文以為終南、杜預以為中南。亦曰、太白山在武功縣南、去長安二百里、不知其高何、俗云、武功太白去天三百。」(武功縣に太一山有り、古文には以て終南と為し、杜預は以て中南を為すとした。亦た曰く、太白山は武功縣の南に在り、長安を去ること二百里に、其の高さ何かを知らず、俗に云う、武功太白 天を去ること三百。

695巻二十9登太白峰》  李白 20
西上太白峯、夕陽窮登攀。
太白与我語、為我開天関。
願乗泠風去、直出浮雲間。
挙手可近月、前行若無山。
一別武功去、何時復更還。
西方登は太白峰、夕陽は山擧に窮めた。
太白星は我に語りかけ、私のために天空の門を開いた。
爽やかな風に乗り、すぐにも出たい雲のあいだを。
手を挙げれば月に近づき、前にすすめば遮るものも無いかのように。
ひとたび去る武功の地、いつまた帰ってこられるのか。

李白16 登太白峯 

3. 蒼蒼 山があおあおとしている、そのようす。

4. 星辰 星も辰も、ほし。

5. 森列 いかめしくならぶ。

 

去天三百里、邈爾與世
その高さについて、下からの高さは「不知其高」とわからないが、非常に高くて、「天上から山頂までが三百里」という、それを疑うことはないようで、実際にこれに登ってみれば、

邈焉として、浮世を絶縁していることに間違いないのである。
6. 去天三百里 2.太白山の字解参照。三秦記「武功太白去天三百」(武功の太白、天を去ること三百里)とみえる。

7. 邈爾 ばくじ はるか遠くにあること。

 

中有綠髪翁、披云臥松雪。
そういう名山であるから、緑髪の仙人がその山中に隠れていて雲を披いて衣と為し、松に降り積もる雪をもって褥にしている。 
8.
  着物としてきる。 

9. 云 雲。云は古来文字。

 

不笑亦不語、冥棲在岩穴。
そして、巌穴の間に黙然と座っていて、笑わず、語らず、一心不乱に行い澄ましている。
10.
 冥棲 ひっそりとしたところに棲む。一心不乱に行い澄ます

#2

我來逢真人、長跪問寶訣。
もとより、普通の人間が行ったのでは、そうやって見向きもされないだろうが、わたしは幸いにして、仙骨あるものであるから、道教の教義・奥義を探求し、修練を積んだその仙人を訪い、長跪して拝をなし、長生不死の術とはいかなるものかなど、仙家の秘訣をたずねたのである。
11. 真人 道教の教義・奥義を探求し、修練を積んだ人。仙人を言う。

12. 長跪 ちょうき 長く両ひざをついてお辞儀をする姿勢をとること。

13. 寶訣 ほうけつ、仙家の秘訣。 修行をして体得した悟りとか奥義。

 

粲然玉齒、授以煉藥
すると、仙人は、粲然として笑い、玉のような歯なみをみせて、仙薬を錬るにはこのようにいたすべきであると作り方を教えてくれたのである。
14.
 粲然 にこやかに笑う時に白い歯を見せる貌のさま。あざやかなさま。

15. 煉藥 仙薬を練ること。・丹砂:水銀と硫黄の化合した赤色の土を何回もねり上げる・金丹:黄金となり、それを飲むと仙人になれるという。覚醒状態にさせる薬。


銘骨傳其語、竦身已電滅。
折角の口授を忘れてはいけないので、一生懸命にその語を骨に銘じて覚えようとする間に、突然、仙人は身をすくめてしまったと思うと、電光石火ように行方も知らず去っていったのである。
16 竦身已電滅 仙人は、上はよく身を雲霄にそばだて、下はよく形を川海にひそめる、という。

 

仰望不可及、蒼然五情熱。
あわてて振り仰ぎ眺めまわしたが、とても追いつかず、蒼然として、五情が熱してきたのである。
17
 蒼然 春の草木が萌え出るさま。

18 五情 喜び・怒。・哀しみ・楽しみ・怨みの五つの感情。

‣陶潜《影答形》「身沒名亦盡、念之五情熱。」(身沒すれば 名も亦た盡き,之れを念へば 五情熱す。肉体が滅べば、名声やこの世にいたという形式上の存在のしるしである名も尽き果ててしまう。この「身沒名亦盡」のことを深く心で思っていると心が熱くなってくる。 

・身沒:肉体が滅ぶ。死ぬ。 ・名亦盡:他人の意識の中にある自分というものも尽き果ててなくなってしまう。この世にいたという形式上の存在のしるしも尽き果ててしまう。 ・名:「身」に対して使われ、他人の意識の中にある自分というもの。「身」が肉体的、実体的、個体的存在を云うのに対して、「名」は社会的存在としての自分をいう。他人の意識に反映している自分というもの。名声。・念:深く心で思う。 ・之:・これ。前出「身沒名亦盡」を指す。 ・五情:五つの感情。喜怒哀楽怨。喜怒哀楽慾。 ・熱:あつくなってくる。悶える。 

‣また、《礼記》には「七情六欲」の記載にある。喜、怒、哀、催、愛、悪、欲の七情と、生、死、耳、目、口、鼻の六つから発する欲をいう。1. 喜、 怒、 哀、 懼、 愛、 惡、 欲七種感情。 南朝梁·劉勰·文心雕龍·明詩:人稟七情, 應物斯感, 感物吟志, 莫非自然。” 宋·蘇軾·睡記:昏然不生七情, 茫然不交萬事。” 2. 中醫上指喜、 怒、 憂、 思、 悲、 恐、 驚等七種精神狀態, 為傷病因

封建支配者が人々の肉体と精神を禁縛する手段としての封建道徳であり、、もともと支配者の必要に従って一歩一歩発展してきたものである。支配者というものは、いつだって世も末になればなるほど、人々の頭脳、身体、七情六欲を、女性の足とともに取り締まる必要があると感じるようになり、封建道徳もまた彼らのこうした感覚が日ましに強まるにつれ、いよいよ厳格に、かつ周到になっていったものである。

 

吾將營丹砂、永與世人別。
たとえ今日、せっかくの仙家の秘訣が十分に覚えきれないにしても、わたしは今後、仙人との縁があることは明確なので、今後、丹砂を練り、仙人が電滅したように、白日昇天して永久に世人と別離したいと思うのである。

19 丹砂 水銀と硫黄の化合した赤色の土を何回もねり上げる・金丹:黄金となり、それを飲むと仙人になれるという。覚醒状態にさせる薬。

744年歳-1李太白集230卷六25白云歌送劉十六歸山 415Index-24Ⅲ-3 744年天寶三年44歳-1【56首】Ⅰ李白詩1781 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7445

李白  白云歌送劉十六歸山

楚山秦山皆白云、白云處處長隨君。 長隨君。 君入楚山里。

云亦隨君渡湘水。湘水上。 女蘿衣。   白云堪臥君早歸。
(仙郷に漂う白雲、白雲を題にして、劉十六というものの故郷に帰るを送った詩である。)

君が故国とする楚山も、長安を見守ってきた秦山も、そこには皆白雲を帯びている。 白雲は、所所に於いて、君に随って居るので、君が長安の秦山に居ても、白雲が随って居か、故郷の楚山に居ても、矢張り白雲が随って居る。かくの如く、どこでも白雲が君に随って居る上は、同じ境涯あるから、何も都を棄てて、故郷へ帰る必要は無いように思われるが、故郷の白雲は、又格別なのであろう、だから、君は此度、故郷に帰られるのである。さうして、君が故郷へ帰られると、泰山の雲は、君に随って湘水を渡り、やがて楚山の雲となるのである。湘水のほとりなる楚山には、女蘿が叢生して居るから、これをとって衣となすことができる。かくて、君は薜茘の衣、女蘿の帯となし、白雲に高臥し、優辞、餘生を送られようというのであるから、早く御歸りに成った方が宜しからうと思われる。 

李太白集巻十九18

白云歌送劉十六歸山

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7445

Index-24

744年天寶三年44歳 

56-1

415 <1000

 

 
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363-230卷六25白云歌送劉十六歸山 (楚山秦山多白雲,) 

744

天寶三年

44

56-1

卷別:

卷一八四

文體:

歌吟 樂府

李太白集230巻六25

詩題:

白云歌送劉十六歸山

序文

 

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

楚山

湘水

交遊人物/地點:劉某

長安

詩文:


230卷六25

白云歌送劉十六歸山

(仙郷に漂う白雲、白雲を題にして、劉十六というものの故郷に帰るを送った詩である。)
楚山秦山皆白云、白云處處長隨君。

君が故国とする楚山も、長安を見守ってきた秦山も、そこには皆白雲を帯びている。

長隨君。君入楚山里。云亦隨君渡湘水。

白雲は、所所に於いて、君に随って居るので、君が長安の秦山に居ても、白雲が随って居か、故郷の楚山に居ても、矢張り白雲が随って居る。かくの如く、どこでも白雲が君に随って居る上は、同じ境涯あるから、何も都を棄てて、故郷へ帰る必要は無いように思われるが、故郷の白雲は、又格別なのであろう、だから、君は此度、故郷に帰られるのである。

湘水上。女蘿衣。白云堪臥君早歸。
さうして、君が故郷へ帰られると、泰山の雲は、君に随って湘水を渡り、やがて楚山の雲となるのである。湘水のほとりなる楚山には、女蘿が叢生して居るから、これをとって衣となすことができる。かくて、君は薜茘の衣、女蘿の帯となし、白雲に高臥し、優辞、餘生を送られようというのであるから、早く御歸りに成った方が宜しからうと思われる。

 

(白云歌送劉十六歸山)

楚山秦山皆白云、白云處處長隨君。

長隨君。 君入楚山里。 云亦隨君渡湘水。

湘水上。 女蘿衣。   白云堪臥君早歸。

巫山十二峰002 

『白雲歌送劉十六歸山』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

白云歌送劉十六歸山

楚山秦山皆白云、白云處處長隨君。

長隨君。 君入楚山里。 云亦隨君渡湘水。

湘水上。 女蘿衣。   白云堪臥君早歸。

(下し文)
(白云歌送劉十六歸山)

楚山 秦山 皆白云、白云 處處 長く君に隨う。

長く君に隨う。 君は入る 楚山の里。 云 亦た君に隨って 湘水を渡る。

湘水の上【ほと】り。 女蘿の衣。   白云 臥するに堪えたり 君 早く歸れ。

(現代語訳)
白云歌送劉十六歸山(仙郷に漂う白雲、白雲を題にして、劉十六というものの故郷に帰るを送った詩である。)

君が故国とする楚山も、長安を見守ってきた秦山も、そこには皆白雲を帯びている。

白雲は、所所に於いて、君に随って居るので、君が長安の秦山に居ても、白雲が随って居か、故郷の楚山に居ても、矢張り白雲が随って居る。かくの如く、どこでも白雲が君に随って居る上は、同じ境涯あるから、何も都を棄てて、故郷へ帰る必要は無いように思われるが、故郷の白雲は、又格別なのであろう、だから、君は此度、故郷に帰られるのである。

さうして、君が故郷へ帰られると、泰山の雲は、君に随って湘水を渡り、やがて楚山の雲となるのである。湘水のほとりなる楚山には、女蘿が叢生して居るから、これをとって衣となすことができる。かくて、君は薜茘の衣、女蘿の帯となし、白雲に高臥し、優辞、餘生を送られようというのであるから、早く御歸りに成った方が宜しからうと思われる。

漢文委員会紀頌之タイトル
(訳注)

白云歌送劉十六歸山

(仙郷に漂う白雲、白雲を題にして、劉十六というものの故郷に帰るを送った詩である。)1 劉十六は楚の人で、長安に遊びに来た。その彼が、山水に高臥隠遁していた故郷の山に帰るというのである。

2 白云 白雲について、

陶弘景 

 四十歳で山中に隠棲したが、梁の武帝から常に諮問をうけ、「山中宰相」と呼ばれた。斉の高帝からの詔にこたえる形で書かれた詩。

《詔問山中何所有賦詩以答》

山中何有所、嶺上多白雲

只可自怡悦、不堪持寄君。

(山中に何の有る所ぞと詔問せられ、詩を賦して以って答う)

山中 何の有る所ぞ、嶺上 白雲多し。只だ 自ら怡【たのし】み悦ぶべし、持して 君に寄するに堪えず。

「山の中に何が有るのだ」との御下問ですが、嶺の上には白雲が多くただよっています。しかし、これは私が見て楽しむだけで、残念ながら陛下にお届けする訳にはまいりません。

 

王維 

 唐代随一の田園詩人。仏教に深く帰依し、書画音楽にも優れていた。長く官僚として生活し、相当の地位にのぼりますが、元来、芸術家肌で役人生活は向いていなかったようで、藍田の麓に輞川商荘を営み、半官半隠の生活を送った。ここで「空山不見人」や「獨座幽篁裏」輞川二十首田園楽 七首などの有名な詩が詠んだ。脅迫されて安禄山にやむなく仕えたため、長安奪還後、処刑を命ぜられたが、これまでの功績により、特赦されたが、以降輞川荘にこもった。

 李白の詩と同様に、、故郷に隠棲する友人を送る詩。

「送別」

下馬飲君酒、問君何所之。

君言不得意、歸臥南山陲。

但去莫復問、白雲無盡時。 

馬より下りて君に酒を飲ましむ、君に問う 「何の之【ゆ】く所ぞ」と。

君は言う 「意を得ず、南山の陲【ほとり】に帰臥せん」と。

「但去れ。復た問うこと莫からん、白雲 尽きる時無し」と。

馬から下りて、まず一献。「これから、どうする?」「どうも世の中、思うようにはいかない。終南山の麓にでも引きこもるよ」「そうか、じゃ、行き給え。あの辺りでは、白雲が何時までも君の友達となってくれるだろう」

 

寒山

隠遁には、様々な形があった、自分の気配、存在そのものを消す、あるいは、自然と一体化するのが隠遁である。しかし、多くの詩人は半官半隱を理想とした。詩人は自己の詩を読んでもらいたいという願望があるからである。寒山は実在した証拠さえ消し去った、正真正銘の隠遁者といえるひとである。水墨画の「寒山拾得図」で知られる浙江省天台山(道教・仏教の霊地)に隠れ住んだ唐代末期ころの人だろうと云われる。

寒山の詩は他人に読ませようという意図が全くないため、三百首余り残存するが、すべて「無題」である。

登陟寒山道、寒山路不窮。

谿長石磊磊、澗濶草濛濛。

苔滑非関雨、松鳴不假風。

誰能超世累、共坐白雲中。

寒山の道を登陟れば、寒山 路 窮まらず。

谿は長くして石磊磊、澗は濶くして草濛濛。

苔の滑らかなるは雨に関わるに非ず、松の鳴るは風を仮らず。

誰か能く世累を超えて、共に白雲の中に坐せん。

寒山の路を登って行く。その道はどこまでも尽きることはない。渓谷は長く、石がごろごろと散らばっており、谷川は広く、草がぼうぼうと生えている。苔がしっとりと滑らかなのは、雨のせいではなく幽邃な山気のためであり、松が鳴っているのは、風のせいではなく、自ずからの天籟なのだ。誰か世の煩いから逃れて、私と一緒に白雲の中に坐してくれないだろうか。

 

川集 20首     もうせんしゅう

 もうせんしゅう解説

 

1孟城幼 もうじょうおう

2華子岡 かしこう

3文杏館ぶんきょうかん

4斤竹嶺 きんちくれい

5鹿柴   ろくさい 

6木蘭柴 もくらんさ

7茱萸拌 しゅゆはん

8宮塊陌 きゅうかいはく

9臨湖亭 りんこてい

10南 陀 なんだ

11欹 湖 いこ

12柳 浪 りゅうろう

13欒家瀬らんからい

14金屑泉 きんせつせん

15白石灘はくせきたん

16北 陀 ほくだ

17竹里館 ちくりかん

18辛夷塢 しんいお

19漆 園 しつえん

20椒 園 しょうえん

 

田園楽 七首

田園楽七首 1 千門

田園楽七首 2 再見

田園楽七首 3 採菱

田園楽七首 4 芳草

田園楽七首 5 山下

田園楽七首 6 桃紅

田園楽七首 7 酌酒


楚山秦山皆白云、白云處處長隨君。

君が故国とする楚山も、長安を見守ってきた秦山も、そこには皆白雲を帯びている。

楚山 杜甫《昔遊》「景晏楚山深,水鶴去低回。」(景晏れて 楚山 深し,水鶴 去って 低回す。)「唯甫漂泊楚山,終當為龐公高隱耳。」(唯甫漂泊楚山,終當為龐公高隱耳。)

李白詩における楚山

16巻一16古風五十九首其十六

水深萬丈。 楚山邈千重。

230卷六25白云歌送劉十六歸山

楚山秦山皆白云。 白云處處長隨君。

442巻十三07流夜郎至西塞驛寄裴隱

回巒引群峰。 橫蹙楚山斷。

841巻二十三15擬古十二首其十二

漢水既殊流。 楚山亦此分。

秦山 「楚」山に対して「秦」山といったのであり、長安をめぐる山々ということではあるが、通常は隠遁者が多く棲んだ終南山を意味するものである。

 

長隨君。 君入楚山里。 云亦隨君渡湘水。

白雲は、所所に於いて、君に随って居るので、君が長安の秦山に居ても、白雲が随って居か、故郷の楚山に居ても、矢張り白雲が随って居る。かくの如く、どこでも白雲が君に随って居る上は、同じ境涯あるから、何も都を棄てて、故郷へ帰る必要は無いように思われるが、故郷の白雲は、又格別なのであろう、だから、君は此度、故郷に帰られるのである。

湘水 湘江、あるいは湘水は、中華人民共和国を流れる大きな川の一つで、洞庭湖に注ぐ長江右岸の支流。湖南省最大の川であり、湖南省の別名・「湘」(しょう)はこの川に由来する。長さは856km。桃源郷の伝説もこの一帯から生まれ、屈原の『楚辞』「九歌」や「離騒」には、伝説上の皇帝堯の二人の娘湘君・湘妃の物語が幻想的に詠われている。

渡湘水 

孟浩然《夜渡湘水》

(夜、湘水を渡る)

客行貪利捗、夜裏渡湘川。

客行 利捗を貪り、夜裏 湘川を渡る。

露氣聞香杜、歌聲識採蓮。

露気に 香杜を聞き、歌声に 採蓮を識る。

榜人投岸火、漁子宿潭煙。

榜人は 岸火に投じ、漁子は 潭煙に宿る。

行旅時相問、潯陽何處邊。

行旅 時に相い問う、潯陽は 何処の辺りかと。

 

湘水上。 女蘿衣。   白云堪臥君早歸。

さうして、君が故郷へ帰られると、泰山の雲は、君に随って湘水を渡り、やがて楚山の雲となるのである。湘水のほとりなる楚山には、女蘿が叢生して居るから、これをとって衣となすことができる。かくて、君は薜茘の衣、女蘿の帯となし、白雲に高臥し、優辞、餘生を送られようというのであるから、早く御歸りに成った方が宜しからうと思われる。

女蘿衣 薜茘の衣、女蘿の帯。山鬼の衣帯。《楚辞、九歌、山鬼篇》に「若有人兮山之阿,被薜荔兮。」(ここに人山の阿に有りし薜茘を被り女蘿を帯にす)とある。

 

杜審言 《渡湘江》

(湘江を渡る)

遲日園林悲昔遊、今春花鳥作邊愁。

遅日 園林 昔遊を悲かなしむ、今春 花鳥 辺愁を作なす。

獨憐京國人南竄、不似湘江水北流。

ひとり憐む 京国の人 南竄せられ、湘江の水の北流するに似ざるを。

743年(96)李太白集944巻二十四56思邊  414-2Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 96首-(96) Ⅰ李白詩1780 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7440

李白  思邊

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。

李太白集巻二十四56

思  邊

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Index-23

743年天寶二年43歳 

96-96

414 <1000

 

 

 
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743

天寶二年

43

96-96

卷別:

卷一八四

文體:

七言古詩

李太白集944巻二十四56

詩題:

思邊

【春怨】

序文

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

玉門關 (隴右道東部 瓜州 玉門關) 別名:玉關、玉門

交遊人物/地點:

詩文:

 

 

 

 

思邊

(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。

 

(邊を思う)

去年 何れの時か 君 妾と別れ,南園の綠草に 蝴蝶飛ぶならん。

 何れの時か 妾 君を憶う,西山の白雪に 晴雲暗しならん。

玉關 此れを去ること三千里,音書を寄さんと欲すれど 那んぞ聞く可けんや。

 

 

『思邊』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

思邊

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

(下し文)
(邊を思う)

去年 何れの時か 君 妾と別れ,南園の綠草に 蝴蝶飛ぶならん。

 何れの時か 妾 君を憶う,西山の白雪に 晴雲暗しならん。

玉關 此れを去ること三千里,音書を寄さんと欲すれど 那んぞ聞く可けんや。


(現代語訳)
思邊(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。

今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。

玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。


(訳注)

思邊

(夫を送り出したころは、春草に蝶々が飛び交っていた、音信がなく寂しい思いの寡婦が、春が来て西の方を見ると雪山がみえ、空が暗い。この思いをどうしたらよいのかわからないと詠う)

1 解説 去年のことと今年のことを対比して、筆をおこしたのは、初唐、盛唐詩の常套である。

張協詩、謝朓詩の古詞に倣って作ったものである。玉関の二句が足されたところは、対比から共通の事項で總収したのである。一作には【春怨】とする。743年天寶二年43歳 96-96)この詩を含めこの前後の詩は昨時年度は間違っていないが、特定しにくいので同年の最後に掲載したものである。

 

去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶。

去年、何時、君は、妾に別れて出征されたか、それは、南園の草緑にして、蝴蝶の飛びくるときであった。

2 去年何時君別妾,南園綠草飛蝴蝶 この二句は、古詩二首を習ったもの、遠地に在って帰郷を思う詩《文選張協〈雜詩〉之八》「借問此何時,胡蝶飛南園。」(借問す 此れ何なる時ぞ,胡蝶は南園に飛ぶならん。 2.夫に見放された女の恨みを述べる詩、南朝齊謝朓の文選《和王主簿季哲怨情》:「花叢亂數蝶,風簾入雙燕。」(花叢には數蝶亂れ,風簾に雙燕入る。

雜詩十首其八

述職投邊城, 羈束戎旅間. 下車如昨日, 望舒四五圓。

借問此何時? 胡蝶飛南園. 流波戀舊浦, 行雲思故山。

閩越衣文蛇, 胡馬願度燕. 風土安所習, 由來有固然。

 

和王主簿季哲怨情

掖庭聘國,長門失歡宴。相逢詠蘼蕪,辭寵悲團扇。

花叢亂數蝶,風簾入雙燕。徒使春帶,坐惜紅粧變。

平生一顧重,宿昔千金賤。故人心尚爾,故心人不見。

 

何時妾憶君,西山白雪暗晴雲。

今歳、何時、妾は君を懐うか、それは、西山の白雪、素地の雲を帯びて、ぼんやり暗く見えるときであった。

西山白雪暗晴雲 長安からの西に向かって遠望すると、太白山、隴山が渭水を挟んで並び立ち、その山々に雪が残っている。その山々にまだ冬の厚い雲が垂れこめていて、其処から続く西域に不安なものを感じさせる。

 

玉關去此三千里,欲寄音書那可聞。

玉門関はここを去ること三千里、なかなか遠いから、手紙を寄せようと思ってもとどくかどうかわからないのにはまいってしまう。

玉關 玉門関のことで、敦煌市の北西約90kmにある、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所の1つ。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で、長城をこの地域に建設し紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされる。その後、六朝時代には交通の要綱として栄え、唐代に再建された際は安西の東側に建設された。同じく南西に設置された陽関とともに、西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していた。玉門関は、中国で古代より文化人が辺境の地での戦いや孤独な生活を思い詠嘆する地で、唐代の詩人王之渙は「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須(もち)いん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。俗称は小方盤城。

 

 

 

李白<春怨・思邊・怨情・學古思邊>【字解】

 

1 白馬 若い貴族の出征。「白馬将軍」の名でも知られる公孫瓚がおり、中国の東漢(後漢)〜三国時代初期の人物であり、群雄の一人として北平を中心に勢威を振るった。白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。

『優秀な人間は、取り立ててやっても当然と思うだけで恩義を感じない』という理由で、凡庸な人物を重用した。その一方で、当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで莫大な利益を得ていたという。また、龐徳が白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。 

2 金羈 金をよりこんだ白い手綱。

3 遼海 現在の遼寧省。南満州。

4 羅帷 うすぎぬのとばり。

5 繡被 刺繍で飾ったかけ布団。

6 落月 沈みかけた月。沈みかけた月は性を連想させる。 

7 燭 ともしび。 

8 飛花入 春満開の花びらが舞い散って、戸口から中に入ってくる。梁、簡文帝《序愁賦》「玩飛花之入,看斜暉之度寮。」とあるに基づく。飛花 春満開の花びらが舞い散っている。

9 笑床空 空牀に人無きをあざけり笑う。この笑うという意味は、咲くという意味があり、それが空しいのである。梁、蕭子範、《春望古意》詩「光景斜漢宮,橫梁照采虹,春情寄柳色,鳥語出梅中,氛氳閨裏思,逶迤水上風,落花徒入,何解妾床空。」、の雰囲気其のままである。

 

 

學古思邊 #1

(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

1      學古 楽府、横吹曲辞に、遠征の苦しみと哀しみをうたったものがあり、隴頭歌辭三首に倣って李白は作ったものである。 一、二は原文を示し、之三は詳しく説明した。

之一

隴頭流水,流離山下。

念吾一身,飄然曠野。

 

之二

朝發欣城,暮宿隴頭。

寒不能語,舌捲入喉。

之三

隴頭流水,鳴聲嗚咽。

遙望秦川,心肝斷

《隴頭歌辭》之三 六朝 梁詩 

作者不詳

隴頭流水,鳴聲幽咽。

隴頭の流水,鳴聲  幽咽す。

遙望秦川,心腸斷絶。

遙かに 秦川を 望み,心腸 斷絶す。

 ・隴頭:隴山のほとり。南朝・梁時代の詩。

隴山のほとりの河の流れは立てる音は、かすかににむせぶかのようである。遥かに(郷里の)秦(関中の盆地の平原)を眺めれば、心肝斷絶:腸(はらわた)が断ち切られるほどの悲しさである。 

・隴頭流水:楽府題。意は、甘肅省南部天水附近を流れる川の流れ。(民族戦争の)最前線の地の川の流れ。。南朝・梁の『隴頭歌辭』に「朝發欣城,暮宿隴頭。寒不能語,舌卷入喉。」とある。なお、この山は六盤山のこと。

・鳴聲:立てる音。 

・幽咽 ひそかにむせぶ。一義的には、川の流れの音。

・遙望:遥かに眺める。隴山から東南方向を望むことになる。 

・秦川 陝西省(・甘肅省)地方。この詩で謂えば東南方向の郷里の長安などのある秦(関中)の盆地状の平原。

・心腸:心臓と腸。 

・斷絶:絶える。截断する。人と人の間などで今まであった結びつきが切れること。

 

2【解説】 起首八句は、隴頭()に至って遠望した景色、「白雁從中來」の四句は、雁の書を帯びて来たことを述べ、「離群心斷」から最後まで六句は、歳月すでに移り、相思愈よ切なることを述べたものである。

韻は以下の構成である。

銜悲上隴首  腸斷不見君 

流水若有情  幽哀從此
蒼茫愁邊色  惆悵落日曛 

山外接遠天  天際復有

白雁從中來  飛鳴苦難聞 

足系一書札  寄言難離
離群心斷  十見花成 

胡地無春  征人行不歸 

相思杳如夢  珠淚濕羅衣 

  
  
  
  
  
  
  
  
  

 


3 隴首 隴山のすそ野の小高いところ。隴頭;隴山のほとり、隴山、隴坻・隴坂は山名。陝西省と甘粛省との境にある。昔から、異民族との境界をなす山として、歴代王朝は隴関(ロウカン)などの関を設けた。


4 邊色 邊地の物色、国境周辺の景色。

5 曛 日没後もなお照り残る夕日の光。残照。

 

 

 


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743年(95)李太白集943巻二十四54學古思邊  414Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(95) Ⅰ李白詩1779 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7435

李白  學古思邊 #1

銜悲上隴首、腸斷不見君。 流水若有情、幽哀從此分。

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。 山外接遠天、天際復有云。
(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。

李太白集巻二十四54#1

學 古 思 邊 #1

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7435

Index-23

743年天寶二年43歳 

96-95#1

414 <1000

 

 

 
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743

天寶二年

43

96-95

卷別:

卷一八四

文體:

七言

李太白集944巻二十四56

詩題:

學古思邊

序文

作地點:

長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

隴頭

隴西

邊塞地

交遊人物/地點:

詩文:

 

 

學古思邊 #1

(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

銜悲上隴首、腸斷不見君。

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。

流水若有情、幽哀從此分。

隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。

邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。

山外接遠天、天際復有云。

山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。

#2

白雁從中來、飛鳴苦難聞。

足系一書札、寄言難離群。

離群心斷、十見花成雪。

胡地無春暉、征人行不歸。

相思杳如夢、珠淚濕羅衣。

 

(古の邊を思うを學ぶ) #1

悲を銜んで隴首に上り、腸斷 君を見ず。

流水 情有るが若く、幽哀 此れ從り分る。

蒼茫として邊色愁いしめ、惆悵として 落日曛す。

山外は 遠天に接し、天際は 復た云有り。
#2

白雁 中より來り、飛鳴 苦にして聞き難し。

足には一書札を系ぎ、言を寄すは 群を離て難しと。

離群 心 斷、十たび見るは 花の雪と成るを。

胡地に春暉 無く、征人 行いて 歸らず。

相思 杳として夢の如く、珠淚 羅衣を濕す。

 

yoshu&choan736 

『學古思邊』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

學古思邊 #1

銜悲上隴首、腸斷不見君。

流水若有情、幽哀從此分。

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。

山外接遠天、天際復有云。

(下し文)
(古の邊を思うを學ぶ) #1

悲を銜んで隴首に上り、腸斷 君を見ず。

流水 情有るが若く、幽哀 此れ從り分る。

蒼茫として邊色愁いしめ、惆悵として 落日曛す。

山外は 遠天に接し、天際は 復た云有り。

(現代語訳)
學古思邊 #1(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。

隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。

邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。

山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。


(訳注)

學古思邊 #1

(この詩は、古詩の体に倣うて、邊地に在る夫を思うという意を叙したのである。)

1      學古 楽府、横吹曲辞に、遠征の苦しみと哀しみをうたったものがあり、隴頭歌辭三首に倣って李白は作ったものである。 一、二は原文を示し、之三は詳しく説明した。

之一

隴頭流水,流離山下。

念吾一身,飄然曠野。

之二

朝發欣城,暮宿隴頭。

寒不能語,舌捲入喉。

之三

隴頭流水,鳴聲嗚咽。

遙望秦川,心肝斷

《隴頭歌辭》之三 六朝 梁詩 

作者不詳

隴頭流水,鳴聲幽咽。

隴頭の流水,鳴聲  幽咽す。

遙望秦川,心腸斷絶。

遙かに 秦川を 望み,心腸 斷絶す。

 ・隴頭:隴山のほとり。南朝・梁時代の詩。

隴山のほとりの河の流れは立てる音は、かすかににむせぶかのようである。遥かに(郷里の)秦(関中の盆地の平原)を眺めれば、心肝斷絶:腸(はらわた)が断ち切られるほどの悲しさである。 

・隴頭流水:楽府題。意は、甘肅省南部天水附近を流れる川の流れ。(民族戦争の)最前線の地の川の流れ。。南朝・梁の『隴頭歌辭』に「朝發欣城,暮宿隴頭。寒不能語,舌卷入喉。」とある。なお、この山は六盤山のこと。

・鳴聲:立てる音。 

・幽咽 ひそかにむせぶ。一義的には、川の流れの音。

・遙望:遥かに眺める。隴山から東南方向を望むことになる。 

・秦川 陝西省(・甘肅省)地方。この詩で謂えば東南方向の郷里の長安などのある秦(関中)の盆地状の平原。

・心腸:心臓と腸。 

・斷絶:絶える。截断する。人と人の間などで今まであった結びつきが切れること。

 

2【解説】 起首八句は、隴頭()に至って遠望した景色、「白雁從中來」の四句は、雁の書を帯びて来たことを述べ、「離群心斷」から最後まで六句は、歳月すでに移り、相思愈よ切なることを述べたものである。

韻は以下の構成である。

銜悲上隴首  腸斷不見君 

流水若有情  幽哀從此
蒼茫愁邊色  惆悵落日曛 

山外接遠天  天際復有

白雁從中來  飛鳴苦難聞 

足系一書札  寄言難離
離群心斷  十見花成 

胡地無春  征人行不歸 

相思杳如夢  珠淚濕羅衣 

  
  
  
  
  
  
  
  
  

 

銜悲上隴首、腸斷不見君。

別後の悲に堪えかねて、はるばる隴頭の阪路まできて、西の方を望めば、見わたすかぎり、茫漠として君を見ることはできないのは心と腸が断絶せんばかりである。

3 隴首 隴山のすそ野の小高いところ。隴頭;隴山のほとり、隴山、隴坻・隴坂は山名。陝西省と甘粛省との境にある。昔から、異民族との境界をなす山として、歴代王朝は隴関(ロウカン)などの関を設けた。

 

流水若有情、幽哀從此分。

隴頭の流水は、さながら惰あるが如く、その流れの音は、幽哀の意を帯びて咽びつつ、これより東に向って分れてながれゆく。

 

蒼茫愁邊色、惆悵落日曛。

邊地の物色は、蒼茫として、愁うるが如く、殊に夕日影たゆたう頃は、惆悵として、威慨の至に堪へない。

4 邊色 邊地の物色、国境周辺の景色。

5 曛 日没後もなお照り残る夕日の光。残照。

 

山外接遠天、天際復有云。

山外は遠天に接し、天の邊際には、復た、雲があって、その先は、さえぎられて見えない。
李白の足跡0000 

743年(94)李太白集941巻二十四53怨情  413Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(94) Ⅰ李白詩1778 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7430

李白  怨情

美人卷珠簾,深坐顰蛾眉。

但見淚痕,不知心恨誰。

(恨むことさえなくなった心持を詠う)

寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。

李太白集巻二十四53

怨  情

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7430

Index-23

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94-94

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果てのない長い夜、あばらやに住む貧しい女は、織機の前で夜もすがら機を動かし手を休めず働くが、官府の税の催促に悲しみで腸がちぎれそうだ。後宮の美人は珊瑚の枕の上でたえず寝返りをうち、天子の寵愛の衰えたことに悲しみの涙を流す。 - 同じ女でも身分、地位が異なり、彼女たちの生活、境遇、感情、心理もそれぞれ異なる。唐代の女性を理解しょうとすれば、まず各階層の女性たちの生活状況をそれぞれ観察しなければならない。

唐代三百年間の女性の人数を正確に測る方法はない。しかしある時期の人数はだいたい計算できる。記録によると、唐代の最大の人口は天宝十三載(七五四年)の五二八八万四八八人であり、この数字で計算すれば、半分が女性と仮定した場合、女性が最も多かった時、二千六百余万人に達したことになる。

二千数百万人の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。彼女たちはおよそ次の十種に分けることができる。①后妃、②宮人、③公主(附郡主・県主)、④貴族・宦門婦人、⑤平民労働婦人、⑥商家の婦人、⑦妓優、⑧姫妾・家妓、⑨奴碑、⑩女尼・女冠(女道士)・女巫 - 以上である。

 

杜甫はかつて《観公孫大娘弟子舞剣器行井序》「先帝の侍女八千人」(「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」)767年-23 #1杜少陵集 《20-99 觀公孫大娘弟子舞劍器行 #1 杜甫詩index-15-1141 <1591> 767年大暦2年56-23 #1漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7352(序-3分割、本文3分割)と詠い、白居易もまた《長恨歌》」「後宮の佳麗三千人」と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『全唐文』巻一四二、李百薬「宮人を放つを請うの封事」)といった。『新唐書』の「官者伝」上に、「開元、天宝中、宮嬪はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。宋代の人洪邁は、この時期は漢代以来、帝王の妃妾の数が最も多かった時代であるといっている(『容斎五筆』巻三「開元宮嬪」)。うまい具合に、この時期の女性の総人口は先に紹介した数字 - およそ二千六百余万であるから、四万余人とすれば、じつに全女性人口の六百分の一を占める。つまり、女性六百人ごとに一人が宮廷に入ったことになる。唐末になり、国土は荒れ、国勢は衰えたが、いぜんとして「六宮(後宮)の貴・賤の女性は一万人を減らない」(『資治通鑑』巻二七三、後唐の荘宗同光三年)という状態だった。この驚くべき数字の陰で、どのくらい多くの「曠夫怨女」(男やもめと未婚の老女)を造り出したことか計り知れない。唐末の詩人曹鄴が慨嘆して「天子 美女を好み、夫婦 双を成さず」(「捕漁謡」)と詠ったのも怪しむに足りない。

 

 

 

年:743           天寶二年43

卷別:    卷一八四              文體:    五言

詩題:    怨情

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

 

 

怨情

(恨むことさえなくなった心持を詠う)

美人卷珠簾,深坐顰蛾眉。

寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

但見淚痕不知心恨誰。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。

(怨情)

美人 珠簾を捲き、深く坐して蛾眉を顰【ひそ】む。

但だ見る 涙痕の湿【うるお】えるを、知らず 心に誰をか恨む を。

李白  怨情 

『怨情』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

怨情

美人卷珠簾,深坐顰蛾眉。

但見淚痕,不知心恨誰

(下し文)
(怨情)

美人 珠簾を捲き、深く坐して蛾眉を顰【ひそ】む。

但だ見る 涙痕の湿【うるお】えるを、知らず 心に誰をか恨む を。

(現代語訳)
(恨むことさえなくなった心持を詠う)

寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。


(訳注)

怨情 

(恨むことさえなくなった心持を詠う)

『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々とあるが、閨の簾の上げ下ろしが日課となった妃嬪は、うらむことさえあきらめたおんなたちである。

 

美人捲珠簾、深坐嚬蛾眉。
寵愛を失った妃賓は、今日も最後に珠簾を巻き上げて準備を整えおわる、それから、なにをするわけもなく、独り、坐して身動きもしないでいて、きれいな眉をひそめている。

美人 古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。《禮記》「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
珠簾  玉を飾ったすだれ。「捲珠簾」というこういは、閨の準備が整ったことを言う。

深坐 身動きもしないで座ること。

  眉間にしわをよせて愁いの表情をする。
蛾眉  蛾の触角のような三日月がたの女性の美しい眉。

但見涙痕濕、不知心恨誰。

じっと見ていると 涙がほほが濡れたまま、心に誰をか恨んでいるのだろうが、傍人にはわからない。たくさんの妃賓がいて、ほとんどのものは寵愛を受けていない者たちなのであるから。

涙痕  涙の流れた跡。

不知心恨誰 李白が朝廷にいる頃の玄宗には100人以上の妃賓がいたし、それに近い妓優たちもたくさんいたので、寵愛を失えば人知れず死んでゆくものである。

后妃たちの生活は富貴であり、また賛沢でもあった。彼女たちは衣食の心配の必要はなく、内庫(宮中の資材課)が必要なもの一切を支給した。「唐の法は北周、隋の法を踏襲し、妃嬪、女官には地位に尊卑があったから、その品階によって衣服、化粧の費用を支給した」(『旧唐書』王鉷伝)。唐初以来、国庫が日に日に豊かになると、后妃たちの生活もそれに応じて贅沢になった。玄宗の代になると宮中の生活が贅沢になりすぎたので、皇帝は宮中にあった珠玉宝石、錦柄を焼き捨て、また宮中の衣服を専門に供する織錦坊を閉鎖したことがあった。しかし、いくばくもなく開元の盛世が到来すると、玄宗も初志を全く翻したので、宮中生活はまた華美に復した。玄宗は寵愛した妃嬪に大量の褒美を与えた。王鉷は、毎年百億にものぼる銭、宝貨を皇室に寄進し、専ら玄宗が妃嬪に賜る恩賞の費用とした。そして「三千の寵愛、一身に在り」と称された楊貴妃は、さらに一層贅沢の限りを尽したので、宮中にいた七百人の織物職人が専門に彼女のために刺繍をし、また他に数百人の工芸職人が彼女の調度品を専門に制作していた。また、楊貴妃は荔枝が好きだったので、玄宗は万金を費やすのを惜しまず、昼夜駅伝の馬を走らせ、荔枝を蜀(四川)より長安に運ばせた。詩人杜牧はそれを風刺し、「一騎 紅塵 妃子笑う、人の是れ荔枝来るを知る無し」(「華清宮に過る絶句」)と詠じた。

 

后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加すること〔-これは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた〕。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ、「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」 ことがあった(『資治通鑑』巻二一三、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賎しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。

 

『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまざらわすかということに尽きる。「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。
大明宮の圖003 

743年(93)李太白集939巻二十四50怨情  412Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(93) Ⅰ李白詩1777 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7425

李白  怨情

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

故人昔新今尚故,還見新人有故時。請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

李太白集巻二十四50

怨  情

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紀年:743年天寶二年43歳 94-93

卷別:    卷一八四              文體:    七言古詩

詩題:    怨情

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

寫及地點:無

交遊人物/地點:  

詩文:

 

怨情

(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。

花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。

故人昔新今尚故,還見新人有故時。

以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。

請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

 

(怨情)

新人 花の如く寵ず可し雖ども,故人 玉に似て 由來重し。

花性 飄揚 自ら持せず,玉心 皎潔 終に移らず。

故人 昔 新たに 今 尚お故なり,還た見る 新人の故き時有るを。

請う看よ 陳后の黃金の屋を,寂寂 珠簾 網絲を生ず。

 

漢長安城 00 

『怨情』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

怨情

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。

花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

故人昔新今尚故,還見新人有故時。

請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

(下し文)
(
怨情)

新人 花の如く寵ず可し雖ども,故人 玉に似て 由來重し。

花性 飄揚 自ら持せず,玉心 皎潔 終に移らず。

故人 昔 新たに 今 尚お故なり,還た見る 新人の故き時有るを。

請う看よ 陳后の黃金の屋を,寂寂 珠簾 網絲を生ず。


(現代語訳)
怨情(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。

元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。

以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。

この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

大明宮の圖003
(訳注)

怨情

(心変わりしてゆく夫に対して隋の江總の詩を変化させて、その情思をうたう)

1 怨情とは、女の夫を怨む情思である。この詩は、夫が新に女を引き入れて、故妻を追ひ出したに因り、その故妻に代って作ったのである。

【解説】乾隆御批には「偶ま古辭を引いて、別に新意を出す、怨意言わずして顕わる」とある。それは故人昔新今尚故の二句が、江總の詩に本づいて、いささか変化したことを言ったのである。

《閨怨篇》隋、江總.

蜘蛛作絲滿帳中。 芳草結葉當行路。

紅臉脈脈一生啼。 黃鳥飛飛有時度。

故人雖故昔經新。 新人雖新複應故。

蜘蛛 絲を滿帳の中に作り。 芳草 葉を結んで行路に當る。

紅臉 脈脈として一生啼き。 黃鳥 飛飛として時に度る有り。

故人 故なりと雖も 昔 新らたなるを經たり。 新人 新なりと雖も 複た故に應う。

江總(519 - 594年)は、中国南北朝時代、梁・陳の政治家・文学者。字は総持。済陽郡考城(現河南省)の人。南朝の名門貴族の家に生まれ、梁・陳の高官を歴任し、陳の後主の時代には尚書令(宰相)となるが、後主の宴席にはべり詩文を作るのみで政務に励まず、陳が北朝の隋に滅ぼされる原因を作った一人とされる。

 

新人如花雖可寵,故人似玉由來重。

新たに迎えられた若き人は、容貌絶麗、さながら花の如くにして、まことに寵愛をうけることであろうが、これまでいた夫人は、温潤玉の如く、従来、重んぜられて居たのである。

新人 新たに迎えられた夫人。

可寵 寵愛を受けるべく若くて美しい。

故人 従来からいる夫人。

唐代とはどのような時代 であったのか。人口の半分を占める女性たちは、未来永劫にわたって回復不可能な二等人となり、二度と再び他の半分である男性と平等になることはなかった。かくして、男を生めば「弄璋」(璋をつかむ)といい、女を生めば「弄瓦」(瓦【いとまき】をつかむ。古代、女子が生れると糸巻を与える習慣があった)といった。そこで、「婦は服するなり」「婦人は人に伏すなり」ということになり、「女子と小人(奴僕)は養い難し」とか、「三従四徳」を守れとか、「餓死しても小事であり、貞節を失うことの方が大事だ……」といった価値観が生れた。後宮に入る、ふじんとしてむかえられるということは、選ばれる幸運を与えることができたということである。その理由は二つの方面から説明することができる。まずは、三百年間も続いた大唐帝国は、まさに輝ける封建時代の盛世にへり、封建道徳も後世のように厳格で過酷な段階にまでは発展していなかったからである。封建支配者が人々の肉体と精神を禁縛する手段としての封建道徳は、もともと支配者の必要に従って一歩一歩発展してきたものである。支配者というものは、いつだって世も末になればなるほど、人々の頭脳、身体、七情六欲を、女性の足とともに取り締まる必要があると感じるようになり、封建道徳もまた彼らのこうした感覚が日ましに強まるにつれ、いよいよ厳格に、かつ周到になっていった。

種々の原因によって、唐朝はこの王朝特有の「家庭の風紀の乱れ」、「封建道徳の不振」という状況を生みだした。こうした状況は後世の道学者たちの忌み嫌うところとなったが、しかし逆にこの時代に生きた女性たちにはきわめて大きな幸運をもたらし、彼女たちが受ける抑圧、束縛をいささか少なくしたので、彼女たちは心身共に比較的健康であった。こうして、明朗、奔放、勇敢、活発といった精神的特長、および独特の行動や風格、思想や精神などが形成されたのである。

七情六欲

『礼記』 の記載にある喜、怒、哀、催、愛、悪、欲の七情と、生、死、耳、目、口、鼻の六つから発する欲。

 

花性飄揚不自持,玉心皎潔終不移。

元來、花はその素性諷揚であり、浮気で自ら支持することができないが、玉は其の心は秀麗皎潔であり、決して移ることはない。

飄揚 花びらや、布などがひるがえり舞い上がること。

皎潔 秀麗皎潔: たいへん立派で、清らかでうつくしいこと。「秀麗」は、他のものより一段とりっぱで美しいこと。「皎潔」は、白く清らかで汚れのないさま。

 

故人昔新今尚故,還見新人有故時。

以前からいる夫人も、むかしは新しく若く美しかったが、今は次第に老けてゆくもので、やがて、新人もこの循環に乗って、どうように老けたことを実感する時を見るであろう。

故人昔新今尚故 昔新悲故,今故悲新

還見 唐代の適齢期は、15~18歳で、23歳から25歳までを盛りとする。この5年から10年のサイクルを言う。

 

請看陳后黃金屋,寂寂珠簾生網絲。

この典型は、漢の武帝の陳皇后、玄宗の王皇后であり、その初は、黄金の屋に蔵して、君寵を受けて居たが、兎角する内に長門宮に移され、旧屋には、珠簾寂寂として、蜘蛛が鋼を張るように成って仕舞った。つまり、男の心は秋の空、新故逓降、その思いは決して長く続かず、今の新人も亦た故妾の如く、棄てられる時がかならずあるのである。

 


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李白  春怨

白馬金羈遼海東,羅帷繡被臥春風。

落月低軒窺燭盡,飛花入笑床空。

飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)

白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

李太白集巻二十四44

春  怨

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Index-23

743年天寶二年43 

94-92

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  杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首 杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首 杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首 杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首 杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首 杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首  
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年:743年天寶二年43歳 94-92

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    春怨

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:             

交遊人物/地點:  

詩文:

 

春怨

飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)

白馬金羈遼海東,羅帷繡被臥春風。

白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。
落月低軒窺燭盡,飛花入笑床空。

夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

 

(春怨)

白馬 金羈【きんき】遼海の東、 羅帷【らい】繡被【しゅうひ】春風に臥す。

落月 軒に低【たれ】て 燭の盡くるを窺い。 飛花 に入って 牀の空しきを笑う

 

楊貴妃清華池002 

『春怨』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

春怨

白馬金羈遼海東,羅帷繡被臥春風。

落月低軒窺燭盡,飛花入笑床空

(下し文)
(春怨)

白馬 金羈【きんき】遼海の東、 羅帷【らい】繡被【しゅうひ】春風に臥す。

落月 軒に低【たれ】て 燭の盡くるを窺い。 飛花 に入って 牀の空しきを笑う

(現代語訳)
春怨飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)

白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。
夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

簷間樹
(訳注)

春怨

飛びちる花びらが家の中へ入ってきて、寝床がからっぽなのをあざわらう。宴も開かれて世間は賑やかにしている。貴族の妻妾について詠っている。)


白馬金羈遼海東、羅帷繡被臥春風。
白馬にまたがり、金の手綱を握りしめた選りすぐりの軍団は、遼海の東へ出征し異民族に恐怖をあたえているという。うすぎぬの帳のなかで、刺繍で飾った布団をかけて横になっているところに、春風が吹いてくる。
1 白馬 若い貴族の出征。「白馬将軍」の名でも知られる公孫瓚がおり、中国の東漢(後漢)〜三国時代初期の人物であり、群雄の一人として北平を中心に勢威を振るった。白馬に乗せた選りすぐりの精兵を率い、自身も武勇に優れていたことから「白馬長史」と呼ばれ、異民族からは恐怖の対象だった。

『優秀な人間は、取り立ててやっても当然と思うだけで恩義を感じない』という理由で、凡庸な人物を重用した。その一方で、当時としては卑しい身分とされていた商人を重用し、交易などで莫大な利益を得ていたという。また、龐徳が白馬に乗るのを常としていたため、関羽の軍勢は龐徳を白馬将軍と呼んで畏れた。 

2 金羈 金をよりこんだ白い手綱。

3 遼海 現在の遼寧省。南満州。

4 羅帷 うすぎぬのとばり。

5 繡被 刺繍で飾ったかけ布団。


落月低軒窺燭盡、飛花入笑床空。
夜が更けてくれば、しずみかけた月が軒端より低い空から、燈火の燃えつきた部屋の中をのぞきこんでいる。昼静かなるとき、飛びちる花びらが戸口から乱れ入って、寝床がからっぽなのをあざわらうかのように、この様子を見ると、愈々感慨に堪えぬのである。

6 落月 沈みかけた月。沈みかけた月は性を連想させる。 

7 燭 ともしび。 

8 飛花入 春満開の花びらが舞い散って、戸口から中に入ってくる。梁、簡文帝《序愁賦》「玩飛花之入,看斜暉之度寮。」とあるに基づく。飛花 春満開の花びらが舞い散っている。

9 笑床空 空牀に人無きをあざけり笑う。この笑うという意味は、咲くという意味があり、それが空しいのである。梁、蕭子範、《春望古意》詩「光景斜漢宮,橫梁照采虹,春情寄柳色,鳥語出梅中,氛氳閨裏思,逶迤水上風,落花徒入,何解妾床空。」、の雰囲気其のままである。

743年(91)李太白集931巻二十四42長門怨二首 其二  410Index-23Ⅲ-2-743年天寶二年43歳 94首-(91) Ⅰ李白詩1775 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7415

李白  長門怨,二首之

桂殿長愁不記春,黃金四屋起秋塵。

夜懸明鏡青天上,獨照長門宮裡人。

(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。

李太白集  巻二十四42

長門怨二首 其二

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7415

Index-23

743年天寶二年43歳 

94-91

410 <1000

 

 
  2016年3月1日 の紀頌之5つのBlog  
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年:743年天寶二年43歳 94-90

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    長門怨,二首之一

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

長門怨,二首之一 
(秋の夜、夜空を眺めて、星、月の動きを見て、漢の陳皇后の怨情を思い、司馬相如に倣い詠ったもの)

天迴北斗掛西樓,金屋無人螢火流。

天は北斗七星を廻転させ、宮中の西楼の屋根に星がかかり、皇后は阿嬌を藏すといったあの黄金造りの御殿には長門宮に追い出されたので人影はなく、ホタルの光だけが不気味に流れ飛び、秋は深まって人を感思せしめる。
月光欲到長門殿,別作深宮一段愁。

やがて、月の光が陳皇后の退居する長門殿に差し込んで来ようとしたころには、 眠れぬ夜に、更に一段の愁いが増してゆくことであろう。

長門怨,二首の一
天は北斗を囘らして西樓に挂かり、金屋 人無く 螢火流る。 
月光 到らんと欲す 長門殿、別に作す 深宮一段の愁。

 

年:743年天寶二年43歳 94-91) 

卷別:    卷一八四              文體:    七言

詩題:    長門怨,二首之二

作地點:              長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:              長門宮 (京畿道 京兆府 長安) 別名:長門殿  

交遊人物/地點:  

詩文:

 

 

長門怨,二首之二

(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

桂殿長愁不記春,黃金四屋起秋塵。

その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。
夜懸明鏡青天上,獨照長門宮裡人。

夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。

(長門怨,二首の二)

桂殿 長く愁て 春を記せず。 黃金四屋 秋塵起る。

夜 明鏡を懸け青天の上。 獨照らす長門宮里の人。
大明宮の圖003

 

『長門怨,二首之二』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

長門怨,二首之二

桂殿長愁不記春,黃金四屋起秋塵。

夜懸明鏡青天上,獨照長門宮裡人。

(下し文)
(長門怨,二首の二)

桂殿 長く愁て 春を記せず。 黃金四屋 秋塵起る。

夜 明鏡を懸け青天の上。 獨照らす長門宮里の人。

(現代語訳)
(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。
夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。

(訳注)

長門怨,二首之二

(漢武帝の陳皇后のことを檃括して玄宗の王皇后を詠う)

 

桂殿長愁不記春。 黃金四屋起秋塵。
その身は、柱の香木の御殿に閉じこもっていて、あまりに悲しく、長い愁に、春が来たのも気づかない、あの「金屋」の黄金を張りつけた四方の壁も、衰えゆく季節とともに、秋塵を散じ立てる。
8 桂殿 香のよい桂の木でつくった宮殿。

9 記 記憶する。心にとめる。気付く。

10 起秋塵 六朝の鮑照の詩に「高墉宿寒霧、平野起秋塵」とある。(高い城壁につめたい霧が立ちこめ、平野に秋の塵がおこる) 


夜懸明鏡青天上。 獨照長門宮里人。
夜になれば、月皎皎として高くさしのぼり、さながら、明鏡を青天の上にかけてくれたようで、心ありげに、長門宮の中にすむあの陳皇后を、さびしく照らすかのようにみえる。
11 夜懸明鏡 司馬相如の「長門の賦」に「懸明月以自照兮、徂清夜於洞房」とある。(明月を空にかけて自分を照らし、清らかな夜を奥深い部屋でくらす)

12 長門宮裏人 陳皇后を言うことで、玄宗の王皇后(廃)をいう。

 

漢長安城 00 


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