漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之のブログ 女性詩、漢詩・建安六朝・唐詩・李白詩 1000首:李白集校注に基づき時系列に訳注解説

李白の詩を紹介。青年期の放浪時代。朝廷に上がった時期。失意して、再び放浪。李白の安史の乱。再び長江を下る。そして臨終の歌。李白1000という意味は、目安として1000首以上掲載し、その後、系統別、時系列に整理するということ。 古詩、謝霊運、三曹の詩は既掲載済。女性詩。六朝詩。文選、玉臺新詠など、李白詩に影響を与えた六朝詩のおもなものは既掲載している2015.7月から李白を再掲載開始、(掲載約3~4年の予定)。作品の作時期との関係なく掲載漏れの作品も掲載するつもり。李白詩は、時期設定は大まかにとらえる必要があるので、従来の整理と異なる場合もある。現在400首以上、掲載した。今、李白詩全詩訳注掲載中。

▼絶句・律詩など短詩をだけ読んでいたのではその詩人の良さは分からないもの。▼長詩、シリーズを割席しては理解は深まらない。▼漢詩は、諸々の決まりで作られている。日本人が読む漢詩の良さはそういう決まり事ではない中国人の自然に対する、人に対する、生きていくことに対する、愛することに対する理想を述べているのをくみ取ることにあると思う。▼詩人の長詩の中にその詩人の性格、技量が表れる。▼李白詩からよこみちにそれているが、途中で孟浩然を45首程度(掲載済)、謝霊運を80首程度(掲載済み)。そして、女性古詩。六朝、有名な賦、その後、李白詩全詩訳注を約4~5年かけて掲載する予定で整理している。
その後ブログ掲載予定順は、王維、白居易、の順で掲載予定。▼このほか同時に、Ⅲ杜甫詩のブログ3年の予定http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-tohoshi/、唐宋詩人のブログ(Ⅱ李商隠、韓愈グループ。)も掲載中である。http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/,Ⅴ晩唐五代宋詞・花間集・玉臺新詠http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-godaisoui/▼また漢詩理解のためにHPもいくつかサイトがある。≪ kanbuniinkai ≫[検索]で、「漢詩・唐詩」理解を深めるものになっている。
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Author:漢文委員会 紀 頌之です。
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ずいぶん回復してきました。(12/10)
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漢詩、唐詩は、日本の詩人に大きな影響を残しました。
だからこそ、漢詩をできるだけ正確に、出来るだけ日本人の感覚で、解釈して,紹介しています。
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2020年03月

李白集校注 訳注解説Blog 750年-6 《留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】》-#3 漢文委員会 紀 頌之 Blog11168

李白集校注 訳注解説Blog 750-6 《留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】》-#3  漢文委員会 紀 頌之 Blog11168

 

750

天寶九年 750

 

6. 留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】 #3

 

李白集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 11168

 

 

 

 

留別金陵諸公  #1
海水昔飛動。 三龍紛戰爭。 
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。 
黃旗一掃蕩。 割壤開
京。 
-

六代更霸王。 遺跡見都城。 
至今秦淮間。 禮樂秀群英。

地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。 
-#3

五月金陵西。 祖余白下亭。 
欲尋廬峰頂。 先繞漢水行。 
香爐紫煙滅。 瀑布落太清。 
若攀星辰去。 揮手緬含情。 
(
跡一作都 ) ( 都一作空 )

1
海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。 

六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。 
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。 
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。 

五月 金陵の西。 祖余 白下亭。 
盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。
香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。
もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。


-1
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

海水昔飛動、三龍紛戦争。
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。

鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。

黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。

2

六代更霸王、遺跡見都城。 
孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
至今秦淮間、禮樂秀群英。 
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。
地扇鄒魯學。詩騰顏謝名。 

そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。
-#3

五月金陵西。祖余白下亭。 

いまは五月、真夏に向かう季節である、「将に行かんとそして酒を飲む」祖道ということで、恒例として、旅立つ私を金陵城の西側にある白下亭に招いてくれたということでまことにありがたいものである。

欲尋盧峰頂、先繞漢水行。

わたしがしたいのは、江西の盧山の絶頂に登ろうと思っているのだけれど、それにはまずこのやまの麓をぐるりとめぐり、漢水をさかのぼっていこうとしているのである。

 

香炉紫煙滅、瀑布落太清。

盧峰の嶤嶤嵺嵺とした香炉峰の紫の霞も消えつくし、名高い落差三百丈の瀑布が、「玄気は大赤天の太清境と化す」ととてもはっきりと見えることだろう。

若攀星辰去、揮手緬含情。( 跡一作都 ) ( 都一作空 )

そこまで行けば手を延ばすだけで星辰に届くだろうから、いよいよ絶頂に達したら、手を振って、情を含み、緬然として諸公のこの地にあるのを思い起こすに違いないのである。

 

 

清・王琦 李白集校注(卷十五 〔一〕九二六

金陵諸
海水昔飛動、三龍紛戰爭。 鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。 黃旗一掃蕩、割壤開京。 

六代更霸王、遺跡見都城。 一作遺都見空城  至今秦淮間、禮樂秀群英。

地扇鄒魯學、詩騰顏謝名。 

五月金陵西、祖余白下亭。 欲尋廬峰頂、先繞漢水行。 香爐紫煙滅、瀑布落太清。 

若攀星辰去、揮手緬含情。 

海水〕王云: 劇秦美新、海水羣飛。 李善註: 海水萬民、羣飛言亂。

三龍〕  三龍蜀魏也。

 鐘山〕 太平寰宇記:蔣山在昇州上元縣東北十五里、周迴六十里面南顧東東逹青龍門等山西臨青溪。絶山南面有鍾浦水流下入秦淮、北連雉亭山。 按輿地志云: 蔣山古曰金陵山、縣之名因此而立。 漢輿地圖名鍾山、大帝時有蔣子文發神騐於此、封子文為蔣侯、改曰蔣山。  参考:巻七金陵歌送別范宜註。

〕謝朓詩:奔鯨自此曝。 顔延年詩:襟衛徙京金陵也。以人所都。 故曰 

都城〕 王云: 景定建康志: 古都城。  按官苑記:呉大帝所築、周迴二十里一十九步、在淮水北五里。 晉元帝過江、不改其舊。宋、齊、梁、陳皆都之。 輿地志曰: 晉琅邪王渡江、鎮建業、因舊都、修而居之。宋、齊而下、室有因革、而都城不改。 東南利便書曰: 孫權雖據石頭、以扼江險、然其都邑、則在建業、歴代所謂都城也。 東晉、宋、齊、梁因之、雖時有改築、而其經畫皆之舊。

秦淮〕初學記 孫盛晉陽秋曰:秦始皇東望氣者云五百年後金陵有天子氣、於是始皇、於方山掘流西入江亦曰:淮今在潤州江寧縣土俗號曰:秦淮太平寰宇記、丹陽記云:始皇鑿金陵方山其斷處為瀆、即今淮水經城中入大江是曰秦淮。 

鄒魯〕史記鄒魯濱邾泗猶有周公遺風俗好儒備於禮 漢書 鄒魯守經學。

 

顏謝〕 宋書顔延之與謝靈運俱以詞采齊名自。 潘岳陸機之後文士莫及也江左稱顔謝焉所著並傳於世

〕鄭𤣥儀禮註將行而飲酒曰祖

白下〕 蕭士曰圖經白下亭在上元縣西北

廬峰〕 廬峰即廬山也。 

 香爐〕江西通志:廬山在南康府治北二十里、九江府城南二十五里、脈接衡陽由武功來古南障山也髙三千三百六十丈或云七千三百六十丈。凡有七重、周迴五百里、山無主峰横潰四出、嶤嶤嵺嵺、各為尊髙。不相拱揖異於武當太岳、諸名山出風降雨抱異懷靈道書稱為第八洞天香爐峰在開先文殊寺後其形圓聳如爐山南山北皆見峰上常出雲氣、有似香烟故名。

瀑布〕太平寰宇記:廬山瀑布在山東、亦名白水源出、髙峰挂流三百許丈望如匹布故名瀑布。

揮手劉琨詩揮手長相

 

 

李白集校注(卷十五 〔一〕九二六

《留別金陵諸公》 現代語訳と訳註
(
本文)

-
3
五月金陵西。祖余白下亭。 
欲尋盧峰頂、先繞漢水行。
香炉紫煙滅、瀑布落太清。
若攀星辰去、揮手緬含情。

 

 (下し文)
#3

五月 金陵の西。 祖余 白下亭。

盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。

香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。

もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。

 

 (現代語訳)

(留別金陵諸公)
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

いまは五月、真夏に向かう季節である、「将に行かんとそして酒を飲む」祖道ということで、恒例として、旅立つ私を金陵城の西側にある白下亭に招いてくれたということでまことにありがたいものである。
わたしがしたいのは、江西の盧山の絶頂に登ろうと思っているのだけれど、それにはまずこのやまの麓をぐるりとめぐり、漢水をさかのぼっていこうとしているのである。

盧峰の嶤嶤嵺嵺とした香炉峰の紫の霞も消えつくし、名高い落差三百丈の瀑布が、「玄気は大赤天の太清境と化す」ととてもはっきりと見えることだろう。

そこまで行けば手を延ばすだけで星辰に届くだろうから、いよいよ絶頂に達したら、手を振って、情を含み、緬然として諸公のこの地にあるのを思い起こすに違いないのである。

 

(訳注)
留別金陵諸公

(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

金陵に来た李白は、旧知の友人たちとの再会を喜びつつ酒を飲み、一時を楽しんで、やがて廬山を目指して旅立ってゆく。「金陵の諸公に留別す」では、その送別の宴で、廬山に隠棲したい胸の中を明らかにしている詩である。

 

五月金陵西。祖余白下亭。 
いまは五月、真夏に向かう季節である、「将に行かんとそして酒を飲む」祖道ということで、恒例として、旅立つ私を金陵城の西側にある白下亭に招いてくれたということでまことにありがたいものである。
祖余 旅に出るわたし。〕 鄭𤣥儀禮の註に、「將に行かんとして、酒を飲むを祖と曰う。

白下〕 蕭士贅曰く「圖經に白下亭は上元縣の西北に在る」とある。


欲尋盧峰頂、先繞漢水行。
わたしがしたいのは、江西の盧山の絶頂に登ろうと思っているのだけれど、それにはまずこのやまの麓をぐるりとめぐり、漢水をさかのぼっていこうとしているのである。

廬峰〕 廬峰は即ち廬山なり。 

漢水 漢水は陝西省漢中市寧強県の嶓冢山を水源とする。東に流れ湖北省に入り武漢市で長江に合流する。支流として胥水河(中文)、旬河(中文)、堵河(中文)(最大)、丹江(中文)、唐白河(中文)等を併せる。流域の主要な都市として漢中市、安康市、十堰市、襄陽市、武漢市などがある。漢水の上流に丹江口ダム(中文)があり、南水北調工程(南方の水を北方へ引く国家プロジェクト、English、中文)の水源となっている。『書経・禹貢』に「嶓冢導漾東流為漢。」とあり、清代の『嘉慶一統志』漢中府・山川に「漢水,在寧羌州北,源出嶓冢山。東流経沔県南,又東経褒城県南,又東経府治南鄭県南......東南流入興安府石泉県界。」とある。地形の変化のため、安康より上流は航行することができない。また支流は冬季には断流することがある。漢水の中・下流の流域では都市は川床よりも低い位置にあり、漢水の氾濫は大きな災難をもたらす。


香炉紫煙滅、瀑布落太清
盧峰の嶤嶤嵺嵺とした香炉峰の紫の霞も消えつくし、名高い落差三百丈の瀑布が、「玄気は大赤天の太清境と化す」ととてもはっきりと見えることだろう。

 香爐〕江西通志に「廬山は南康府治北二十里に在り、九江府城の南二十五里の脈は衡陽に接す。由に武功は古に來るは南障山なり。 髙さは三千三百六十丈であり或は七千三百六十丈と云う、凡そ、七重有り、周迴五百里、山無主峰横潰四出、嶤嶤嵺嵺【ギョウギョウコウコウ】各の尊髙を為し、相拱さず、於武當太岳に揖異し、諸名山風降雨出し抱き、異懷靈道書に第八洞天と稱すを為す。香爐峰は開先文殊寺の後に在り、其の形は圓聳爐の如く、山南山北、皆峰上常に雲氣を出すを見る。 香烟に似たる有り、故に名づく。」とある。

瀑布〕太平寰宇記に「廬山瀑布は山東に在り、亦た白水と名づく源は、髙峰に出て、挂流三百許丈、望すれば匹布の如し、故に瀑布と名づく。

太清  道教の創世紀は、三十六天の天界が派生したことも説いている。その中には欲界・色界・無色界の「三界二十八天」が含まれているほか、三界の外の八天(四梵天・三清境と最高の大羅天)も含まれる。欲界には六天があり、人々が性交によって胎生し、姿形を備え情欲を持つ現実世界である。色界には十八天があり、人々は変化によって生まれ、姿形はあるが情欲はなく、およそ道士たちが修練する世界である。無色界の四天では、人々に色欲はなく、その姿を知覚することはできないが、真人だけはその姿を見ることができる。実際にはここは修練の精神の境界である。三界を越えた所に四梵天があり、ここが人々の言う天である。ここでは生死や災禍はなく、修道の完成した人が帰属する場所である。それを越えて行くと、三清境がある。その最も高いところが玉清境の清微天、その次が上清境の禹餘天、その次が太清境の大赤天である。三清境は道教が理想とする仙人の境界であり、道教の三清の尊神が住む場所でもある。最高の大羅天は、「道」の象徴である。大羅天で生み出された玄・元・始の三が、三清天に変化する。始気は清微天の玉清界と化し、元気は禹餘天の上清境と化し、玄気は大赤天の太清境と化す


若攀星辰去、揮手緬含情。
そこまで行けば手を延ばすだけで星辰に届くだろうから、いよいよ絶頂に達したら、手を振って、情を含み、緬然として諸公のこの地にあるのを思い起こすに違いないのである。

星辰 1.夜空で光っているように見える天体。星。 2.天球上の恒星を動物やものに見立てて区分したもの。星座。

揮手〕 劉琨詩に手長に揮って相い謝す。

------- 参考 --------------

謝霊運  385433 南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 

謝霊運詩の一覧表

顔 延之(がん えんし) 384 - 456 、)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。

謝朓(しゃちょう) 464 - 499 南北朝時代、南斉の詩人。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり

巻三-32-#2 雜詩三首其一七月七日夜詠牛女〔謝恵連〕漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ

李白集校注 訳注解説ブログ 750年-6 《留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】》-#2 漢文委員会 紀 頌之 Blog11160

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750

天寶九年 750

 

6. 留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】 #2

 

李白集校注 訳注解説

 

 

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留別金陵諸公  #1
海水昔飛動。 三龍紛戰爭。 
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。 
黃旗一掃蕩。 割壤開
京。 
-

六代更霸王。 遺跡見都城。 
至今秦淮間。 禮樂秀群英。

地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。 
-#3

五月金陵西。 祖余白下亭。 
欲尋廬峰頂。 先繞漢水行。 
香爐紫煙滅。 瀑布落太清。 
若攀星辰去。 揮手緬含情。 
(
跡一作都 ) ( 都一作空 )

1
海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。 

六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。 
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。 
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。 

五月 金陵の西。 祖余 白下亭。 
盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。
香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。
もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。


-1
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

海水昔飛動、三龍紛戦争。
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。

黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。

2

六代更霸王、遺跡見都城。 
孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
至今秦淮間、禮樂秀群英。 
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。
地扇鄒魯學。詩騰顏謝名。 

そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。

 

李白集校注 関係個所 抜粋

都城〕 王云: 景定建康志: 古都城。  按官苑記:呉大帝所築、周迴二十里一十九步、在淮水北五里。 晉元帝過江、不改其舊。宋、齊、梁、陳皆都之。 輿地志曰: 晉琅邪王渡江、鎮建業、因舊都、修而居之。宋、齊而下、室有因革、而都城不改。 東南利便書曰: 孫權雖據石頭、以扼江險、然其都邑、則在建業、歴代所謂都城也。 東晉、宋、齊、梁因之、雖時有改築、而其經畫皆之舊。

秦淮〕初學記 孫盛晉陽秋曰:秦始皇東望氣者云五百年後金陵有天子氣、於是始皇、於方山掘流西入江亦曰:淮今在潤州江寧縣土俗號曰:秦淮太平寰宇記、丹陽記云:始皇鑿金陵方山其斷處為瀆、即今淮水經城中入大江是曰秦淮。 

鄒魯〕史記鄒魯濱邾泗猶有周公遺風俗好儒備於禮 漢書 鄒魯守經學。

 

顏謝〕 宋書顔延之與謝靈運俱以詞采齊名自。 潘岳陸機之後文士莫及也江左稱顔謝焉所著並傳於世

 

李白集校注(卷十五 〔一〕九二六

《留別金陵諸公》 現代語訳と訳註
(
本文)

-

六代更霸王。 遺跡見都城。 
至今秦淮間。 禮樂秀群英。

地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。

 

 (下し文)
六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。 
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。 
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。 

 

 (現代語訳)

(留別金陵諸公)
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。

そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。

(訳注)
留別金陵諸公

(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

金陵に来た李白は、旧知の友人たちとの再会を喜びつつ酒を飲み、一時を楽しんで、やがて廬山を目指して旅立ってゆく。「金陵の諸公に留別す」では、その送別の宴で、廬山に隠棲したい胸の中を明らかにしている詩である。

#2

六代更霸王、 遺跡見都城。 
孫氏はそれに引き続いて、六代のあいだ、ここに覇王としてつづいた、その後遺跡はすべて都城にのこっており、帝都では無くなっても東南の都の城郭をみることができるのである。
六代 かつては呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、王朝の都であった。

都城〕  王云: 景定建康志に古都城とある。  按ずるに官苑記に呉大帝の築く所なり、周迴二十里一十九步、淮水の北五里に在る。 晉の元帝 江を過ぎ、其の舊を改めず。宋、齊、梁、陳は皆 之を都す。 輿地志に曰う: 晉の琅邪王江を渡る、建業を鎮め、因て舊都とし、之を居にして修す。宋、齊は下って、室は因を有すれば革有り、而して都城 改めず。 東南利便書に曰く: 孫權は石頭に據すと雖も、以て江險を扼し、然し其れ都邑とし、則ち建業を在す、歴代 所謂る都城とするなり。 東晉、宋、齊、梁之に因って、時に改築有ると雖も、而して其の經畫は皆  之れ舊なり。


至今秦淮間、 禮樂秀群英。 
今にいたるも金陵の秦淮河のほとりは華やかな文化をたたえており、礼儀と音楽、礼記と楽記の文人の秀でたものがあつまり英知の中心の地とするところなのである。
禮樂礼儀と音楽、礼記と楽記、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものである。全49篇。これは唐代以降、五経の1つとして尊重された。楽記‐一説に前漢の武帝のときに河間献王が編纂させたといわれている。その他、公孫尼子、荀子などの説もある。

長江と秦淮河の辺には歓楽街があった。

秦淮〕 初學記に 孫盛え、晉陽秋に曰う:秦始皇が東氣を望む者、五百年後金陵とい、天子の氣有り、是に於て始皇、於方山西入江に掘流し、亦た曰う:淮は今、潤州の江寧縣に在る。土俗號に曰う:秦淮は太平寰宇記と、丹陽記に云う:始皇、金陵の方山を鑿つ、其の斷ずる為瀆と處す、即ち今、淮水經城の中、大江に入り、是て秦淮と曰う。 

 

地扇鄒魯學。詩騰顏謝名。 
そうして、この地の湧き上がる風は、鄒魯とする老荘孟子の思想、孔子の儒教を学ばせているのが流行し誰でも学んだし、顔延之、謝靈運がでてきて、詩歌はここで盛んになり、謝朓など多くの詩人が生まれ、江南文化は中国を席巻したのである。
地扇 その地の湧き上がる風 

鄒魯學 鄒と魯の国の学問、鄒は孟子、魯は孔子。老荘思想、儒教。
詩騰 詩の高ぶり。

顏謝 顔 延之と謝霊運の山水詩人。文末に参考として掲載。

鄒魯〕 孔子、孟子の生地、儒学を指す。史記に鄒とは邾泗に濱し、猶お周公の遺風有り。 俗、儒を好み、禮に備る。 漢書に鄒魯は、經學を守る。とある。

李白集校注 訳注解説ブログ 750年-6 《留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】》 漢文委員会 紀 頌之 Blog11152

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750

天寶九年 750

 

6. 留別金陵諸公 【巻一五(一)九二六】 #1

 

李白集校注 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 11152

 

 

 

留別金陵諸公  #1
海水昔飛動。 三龍紛戰爭。 
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。 
黃旗一掃蕩。 割壤開
京。 
-

六代更霸王。 遺跡見都城。 
至今秦淮間。 禮樂秀群英。

地扇鄒魯學。 詩騰顏謝名。 
-#3

五月金陵西。 祖余白下亭。 
欲尋廬峰頂。 先繞漢水行。 
香爐紫煙滅。 瀑布落太清。 
若攀星辰去。 揮手緬含情。 
(
跡一作都 ) ( 都一作空 )

1
海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。 

六代 更に霸王、遺跡 都城を見る。 
今に至る秦淮の間、禮樂 群英 秀し。 
地扇 魯學を鄒。 詩騰 顏謝の名。 

五月 金陵の西。 祖余 白下亭。 
盧峰の頂を尋ね、先に漢水を繞(めぐ)り行かんと欲す。
香炉の紫煙滅し、瀑布落ちること太(はなは)だ清ならん。
もし星辰を攀じり去らんも、手を揮うに緬として情を含まん。


-1
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

海水昔飛動、三龍紛戦争。
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。

黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。

 

清・王琦 李白集校注(卷十五 〔一〕九二六

金陵諸
海水昔飛動、三龍紛戰爭。 鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。 黃旗一掃蕩、割壤開京。 

六代更霸王、遺跡見都城。 一作遺都見空城  至今秦淮間、禮樂秀群英。

地扇鄒魯學、詩騰顏謝名。 

五月金陵西、祖余白下亭。 欲尋廬峰頂、先繞漢水行。 香爐紫煙滅、瀑布落太清。 

若攀星辰去、揮手緬含情。 

海水〕王云: 劇秦美新、海水羣飛。 李善註: 海水萬民、羣飛言亂。

三龍〕  三龍蜀魏也。

 鐘山〕 太平寰宇記:蔣山在昇州上元縣東北十五里、周迴六十里面南顧東東逹青龍門等山西臨青溪。絶山南面有鍾浦水流下入秦淮、北連雉亭山。 按輿地志云: 蔣山古曰金陵山、縣之名因此而立。 漢輿地圖名鍾山、大帝時有蔣子文發神騐於此、封子文為蔣侯、改曰蔣山。  参考:巻七金陵歌送別范宜註。

都城〕 謝朓詩:奔鯨自此曝。 顔延年詩:襟衛徙京金陵也。以人所都。 故曰 

王云: 景定建康志: 古都城。  按官苑記:呉大帝所築、周迴二十里一十九步、在淮水北五里。 晉元帝過江、不改其舊。宋、齊、梁、陳皆都之。 輿地志曰: 晉琅邪王渡江、鎮建業、因舊都、修而居之。宋、齊而下、室有因革、而都城不改。 東南利便書曰: 孫權雖據石頭、以扼江險、然其都邑、則在建業、歴代所謂都城也。 東晉、宋、齊、梁因之、雖時有改築、而其經畫皆之舊。

秦淮〕初學記 孫盛晉陽秋曰:秦始皇東望氣者云五百年後金陵有天子氣、於是始皇、於方山掘流西入江亦曰:淮今在潤州江寧縣土俗號曰:秦淮太平寰宇記、丹陽記云:始皇鑿金陵方山其斷處為瀆、即今淮水經城中入大江是曰秦淮。 

鄒魯〕史記鄒魯濱邾泗猶有周公遺風俗好儒備於禮 漢書 鄒魯守經學。

 

顏謝〕 宋書顔延之與謝靈運俱以詞采齊名自。 潘岳陸機之後文士莫及也江左稱顔謝焉所著並傳於世

〕鄭𤣥儀禮註將行而飲酒曰祖

白下〕 蕭士曰圖經白下亭在上元縣西北

廬峰〕 廬峰即廬山也。 

 香爐〕江西通志:廬山在南康府治北二十里、九江府城南二十五里脈接衡陽由武功來古南障山也髙三千三百六十丈或云七千三百六十丈凡有七重周迴五百里山無主峰横潰四出嶤嶤嵺嵺各為尊髙不相拱揖異於武當太岳諸名山出風降雨抱異懷靈道書稱為第八洞天香爐峰在開先文殊寺後其形圓聳如爐山南山北皆見峰上常出雲氣有似香烟故名

瀑布〕太平寰宇記:廬山瀑布在山東、亦名白水源出、髙峰挂流三百許丈望如匹布故名瀑布。

劉琨詩揮手長相

 

 

 

《留別金陵諸公》 現代語訳と訳註
(
本文)

留別金陵諸公

海水昔飛動。 三龍紛戰爭。 
鐘山危波瀾。 傾側駭奔鯨。 
黃旗一掃蕩。 割壤開
京。 

 

(下し文)
(別金陵の諸公に留す)

海水 昔 飛動し、三龍 紛として戦争す。
鐘山 波瀾に危うく、傾側して奔鯨を駭(おどろ)かす。
黄旗一たび掃蕩し、割り尽くして呉京を開けり。 

(現代語訳)
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。
金陵山は「王気がある」ことからみだされ渦に呑みこまれそうになった、傾き崩れ自在な巨鯨のような始皇帝によって驚かされたのだ。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。

(訳注)

留別金陵諸公
(李白が廬山に行くので、お世話になった金陵の諸公、友人にに際して詩を贈ったもの)

 

 

海水昔飛動、三龍紛戦争
むかし、春秋戦国の時代から呉越戦争に代表される戰があったが、その後も事あるごとに金陵のあたりまで海水が飛びあがるように遡ってきたことがあった。その後は魏後蜀の三國がいりまじって三匹の龍が激しく争う戦があり、また、その後小国乱立した時代にも小さな戦争が続いていたのがこの地域である。
海水昔飛動、戦国時代に呉と楚と秦の三国がここ金陵の地で戦いがあった。 海水〕王琦云う: 揚雄の劇秦美新に、海水羣飛とあって、李善の註に: 海水は萬民にえ、羣飛は亂を言う。とある。

三龍 魏後蜀の三國がいりまじって戦争を行った。三龍〕  三龍は蜀魏なり。とある。

紛戦争 南北朝、五胡十六国時代には、局地戦争のようにあちこちで戦が起こった。


鐘山危波瀾、傾側駭奔鯨。
いかに金陵山は「王気がある」と金陵は守られているといっても、みだされ渦に呑みこまれそうになったのである、そして、傾き崩れていったが自在な巨鯨のような始皇帝によって天下統一さえたのには驚かされたものだ。
この二句の根拠 春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。戦国時代に呉を征服した楚は金陵邑を設置。その後秦朝による統一事業が達成され、始皇帝がこの地に巡幸してきた際に、「この地に王者の気がある」と言われ、それに怒って地形を無理やり変えてこの地の気を絶とうとした。また名前も金から秣(まぐさ)の秣陵県と改称している。このことを示している。

鐘山 金陵の東の郊外にある紫金山(鍾山)を金陵山と呼ぶところから生まれた。-現在の南京市の雅名。李白は特にこの名を愛用している。金陵 現在の南京市。六朝の古都。南朝の各朝の首都。金陵、建業、建、建康、南京。戦国時代の楚の威王が金を埋めて王気を鎮めたことによる。

 鐘山、別名の紫金山、南京市の東の北の郊外に位置して、中山陵を中心にして、紫金山、玄武湖の2の大きい地区を含む。自然が優美な地域で、古跡の文化財の豊かにすること、“金陵毓ショー”の称賛がある。鐘山は寧月城鎮山脈の西端で、南京の中で山門の外で横たわって、古くて有名な金陵山、聖人は山に泳いで、三国の時に東呉はそれを蒋山と呼んでことがあるものの長い7.4キロメートル、南北の幅の3キロメートル、周囲は約20数キロメートル。くねくねと起伏して、投げてもし竜に泳ぐならば、だから古人は“時計の多い竜蟠”を語っている。金陵毓ショーの鐘山、中国の第1陣の国家級の名勝の中の一つです。山の上に紫色の岩石層があって、日光が照らすもとに、はるかに紫金の生耀を見て、故人達はまたそれを紫金山と呼んだのである。山に3匹の龍がいるが、詩中にある三龍は戦の子というための比喩であるからこの山のことを言うのではない。

それは、主峰の北のピーク、海抜の468メートル、金陵最高峰で、第二峰の偏る東南、名小茅山、海抜の360メートル、中山陵のあるその南の麓、第三峰の偏る南西、太平天国の曾在山の上で築天トーチカ城のため、だから1日のトーチカの山を語って、海抜の250メートル、有名な紫金山天文台はすぐこの山頂の上にある。 玄武湖は鐘山の西で、南京城北、古名桑は停泊して、またトップに立つ湖である。鏡のような湖と青々した山が相映っている景色である。湖水は青く波打って、島の上で緑の木は青々と茂って、周囲の青い山は青黒色である。

 鐘山〕 太平寰宇記:即ち蔣山は昇州上元縣東北十五里に在り、周迴六十里、南に面し東を顧る、東に青龍・雁門等山に逹り、西に青溪を臨む。絶山の南面には鍾浦が有り水流下って秦淮に入り、北に雉亭山に連る。 按ずるに輿地志に云う: 蔣山は古曰金陵山といい、縣の名は此れに立つことに因る。 漢の輿地圖には鍾山と名す、大帝の時、蔣子に文に此に神騐を發すと有る、封子の文に 蔣侯と為す、改めて蔣山と曰う。  参考:巻七に 《金陵歌送別》范宜の註。

奔鯨 秦の始皇帝の南巡により、この地が平定されたことを指す。謝朓詩に「奔鯨は自ら此に曝れる。」 


黄旗一掃蕩、割尽開呉京。
孫氏が黄色い旗をおし建てて帝王が現われると、江南一帯を掃蕩し、混乱を収拾したのである、壊され傾いた部分を打ち壊し、土壌をきりひらいて呉の都、金陵を経営したのである。
黄旗 孫権による呉の建国。孫権の中央の船隊はすべて 黄旗をひるがえしたとある。

呉京 呉の都、建業(金陵)とした。顔延年詩に「襟衛は京をす。京は金陵なり。以て人都とする所なり。 故に京と曰う。


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