(1)漁父辞 屈原 李白に影響を与えた詩
 屈原 紀元前343年-紀元前277年 戦国時代に楚の懐王に仕えて、内政、外交に手腕を発揮した。
楚、斉は秦の脅威にさらされていたので、屈原は楚、斉が同盟して秦に対抗する策を推進した。他方、秦の保護下に入って安全を図る連衡を主張する勢力も強く、国論は二分していました。
 このとき、秦は楚を孤立させ、屈原を追放させ、楚斉同盟を破棄させ、はては、楚は滅亡することになる。
 懐王は屈原を再起用して態勢挽回を図るが、秦は懐柔策に出、懐王を呼び寄せ、屈原を再び追放される。屈原は、滅び行く祖国の前途を見るに忍びず、泪羅(ベキラ)の淵に入水自殺することになる。
 屈原は優れた政治家であったばかりでなく、大詩人でもありました。「楚辞」と呼ばれる詩は彼の創始によるもので、後世の詩に絶大な影響を与えた。
 屈原の詩の代表作は「離騒」「九歌」「天問」「九章」がある。



漁父辞
屈原既放  游於江潭
行吟澤畔  顔色憔悴
形容枯槁
漁父見而問之
子非三閭太夫與 何故至於斯

屈原曰
與世皆濁  我独清
衆人皆酔  我独醒
是以見放  

漁父曰
聖人不凝滞於物  而能與世推移
世人皆濁  何不乱其泥
而揚其波  衆人皆酔
何啜其汁  何故深思高挙
自令放為

屈原曰
吾聞之  新沐者必弾冠
新浴者必振衣  安能以身之察察
受物之紋紋者乎  寧赴湘流
葬於江魚之腹中  安能以晧晧之白
而蒙世俗之塵埃乎  漁父莞爾而笑
鼓枻而去

乃歌曰
滄浪之水清兮  可以濯吾纓
滄浪之水濁兮  可以濯吾足

 屈原は放逐されて江や淵をさまよい、詩を口ずさみつつ河岸を歩いていた。顔色はやつれはて、見る影もなく痩せ衰えている。一人の漁夫が彼を見付け、尋ねた。

「あなたは三閭太夫さまではございませぬか。どうしてまたこのような処にいらっしゃるのですか?」

 屈原は言った。

「世の中はすべて濁っている中で、私独りが澄んでいる。人々すべて酔っている中で、私独りが醒めている。それゆえ追放されたのだ」

 漁夫は言った。

「聖人は物事に拘らず、世と共に移り変わると申します。世人がすべて濁っているならば、なぜご自分も一緒に泥をかき乱し、波をたてようとなされませぬ。人々がみな酔っているなら、なぜご自分もその酒かすをくらい、糟汁までも啜ろうとなされませぬ。なんでまたそのように深刻に思い悩み、高尚に振舞って、自ら追放を招くようなことをなさったのです」

 屈原は言った。

「ことわざにいう、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を払ってから被り、湯浴みしたばかりの者は、必ず衣服をふるってから着るものだ』と。どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられよう。いっそこの湘水の流れに身を投げて、魚の餌食となろうとも、どうして純白の身を世俗の塵にまみれさせよう」

 漁夫はにっこりと笑い、櫂を操って歌いながら漕ぎ去った。

「滄浪の水が澄んだのなら、冠の紐を洗うがよい、滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい」

 そのまま姿を消して、彼らは再び語り合うことがなかった。