「古風」 第九首 李白109

 はじめに荘子の「斉物論」を引き、ついで秦の東陵侯邵平をと引き合いに出し、損得勘定にあくせくする俗人に対して夢を持つことを述べている。


古風 其九
莊周夢胡蝶。 胡蝶為庄周。
荘周はあるとき蝴蝶になった夢をみた、さめてみると蝴蝶がまた荘周となっていた。
一體更變易。 萬事良悠悠。
万物は本来一体であるものが、交互に姿をかえるだけなのだ。万事はまことに、はてしなく運動してゆくのである
乃知蓬萊水。 復作清淺流。
このことはすなわち、仙人の島の蓬莱山を浮かべている東海の水が、またもや清く浅い流れになろうとすることも理解できる。
青門種瓜人。 舊日東陵侯。
長安の青城門の郊外で瓜を作っている人は、昔は位の高い東陵侯という人であった。
富貴故如此。 營營何所求。

富んでいて尊敬できる人というものは、このように位が高い人なのに同じように瓜を作っている。あくせくして損得勘定だけの行動をするなんて愚かなことか。


荘周はあるとき蝴蝶になった夢をみた、さめてみると蝴蝶がまた荘周となっていた。
万物は本来一体であるものが、交互に姿をかえるだけなのだ。万事はまことに、はてしなく運動してゆくのである
このことはすなわち、仙人の島の蓬莱山を浮かべている東海の水が、またもや清く浅い流れになろうとすることも理解できる。
長安の青城門の郊外で瓜を作っている人は、昔は位の高い東陵侯という人であった。
富んでいて尊敬できる人というものは、このように位が高い人なのに同じように瓜を作っている。あくせくして損得勘定だけの行動をするなんて愚かなことか。


(書き下し文)
荘周胡蝶を夢み
胡蝶は荘周となる。
一体たがひに変易し
万事まことに悠悠たり。
すなはち知る蓬莱の水の
また清浅の流れとなるを。
青門に瓜を種うるの人は
旧日の東陵侯なり。
富貴はもとよりかくのごとし
営々なんの求むるところぞ。 


莊周夢蝴蝶。 蝴蝶為庄周。
荘周はあるとき蝴蝶になった夢をみた、さめてみると蝴蝶がまた荘周となっていた。
荘周 紀元前四世紀の人。いまの河南省に生れた。哲学者。「荘子」の著者。○夢蝴蝶 「荘子」の「斉物論」篇に見える話。あるとき荘周が夢のなかで蝴蝶になった。ひらひらと空を舞う蝴蝶。かれはすっかりいい気持になり、自分が荘周であることをわすれてしまった。ところが、ふと目がさめてみると、まぎれもなく、荘周にかえっている。かれは考えた。荘周が夢をみて蝴蝶となったのか、それとも、蝴蝶が夢をみて荘周になっているのだろうか。荘周と蝴蝶とは、はっきりと区別される。すると、これは「物の変化」ということであろうか。つまり、荘子は、人間と蝴蝶、夢と現実を区別する常識的な分別を問題にせず、渾沌とした世界の中で自由にたのしむことをよしと考えたのである。


一體更變易。 萬事良悠悠
万物は本来一体であるものが、交互に姿をかえるだけなのだ。万事はまことに、はてしなく運動してゆくのである
一体更変易 万物は本来一つであるということを明らかにするのが、荘子の斉物論である。世の中のあらゆる現象は、もともと一体であるものが、いろいろに姿をかえているのである。○悠悠 無限に運動するさま。

乃知蓬萊水。 復作清淺流。
このことはすなわち、仙人の島の蓬莱山を浮かべている東海の水が、またもや清く浅い流れになろうとすることも理解できる。
蓬莱水 蓬莱というのは、東海の中にあるといわれる仙人の島。麻姑という女の仙人が言った。「東の海が三遍干上って桑畑にかわったのを見たが、先ごろ蓬莱島に行ってみると、水が以前の半分の浅さになってしまっている。またもや陸地になるのだろうか。」王遠という者が嘆いて言った。「聖人はみな言っている、海の中もゆくゆくは砂塵をまきあげるのだと。」「神仙伝」に見える話。

青門種瓜人。 舊日東陵侯。
長安の青城門の郊外で瓜を作っている人は、昔は位の高い東陵侯という人であった。
青門 長安城の東がわ、南から数えた第一の門を新開門という。青い色であったから通称を青城門、または青門といった。下図 曲江の東にある門
mapchina00201長安城の図 東南側は陵墓と瓜畑が広がっていた。
種瓜人 広陵の人、邵平は、秦の時代に東陵侯であったが、秦が漢に破れると、平民となり、青門の門外で瓜畑を経営した。瓜はおいしく、当時の人びとはこれを東陵の瓜 押とよんだ。

富貴故如此。 營營何所求。
富んでいて尊敬できる人というものは、このように位が高い人なのに同じように瓜を作っている。あくせくして損得勘定だけの行動をするなんて愚かなことか。
富貴 ふうき 富んでいて尊いこと。富んでいて尊敬できる人。○営営 あくせくとはたらいて利益を追求すること。損得勘定により行動をすること。


<参考>
荘周 「夢蝴蝶」
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。 自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。 ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。 荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
<原文>
 昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。
俄然覚、則蘧蘧然周也。
 不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。
此之謂物化。
<書き下し文>
 昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。 自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。 知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。 周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。