「送賀賓客帰越」:Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白137

李白 賀知章の思い出(4) 李白137 
 
送賀賓客帰越       
鏡湖流水漾清波、狂客帰舟逸興多。
天子から賜った静かな湖面の鏡湖と漢水の上流澄み切った水の流れる漾水(ようすい)は 清らかな波がたつ、四明狂客の賀殿が船でのご帰還とあれば、興味深いことが数々おこって 面白いことでしょう
山陰道士如相見、応写黄庭換白鵝。

越の会稽地方の道士にきっと出会うと思う、そうしたら、ちょうどよい。立派な黄庭経を書き写して白鵝(あひる)と換えることに応じたらよいのです。


天子から賜った静かな湖面の鏡湖と漢水の上流澄み切った水の流れる漾水(ようすい)は 清らかな波がたつ、四明狂客の賀殿が船でのご帰還とあれば、興味深いことが数々おこって 面白いことでしょう
越の会稽地方の道士にきっと出会うと思う、そうしたら、ちょうどよい。立派な黄庭経を書き写して白鵝(あひる)と換えることに応じたらよいのです。



賀賓客が越に帰るを送る
鏡湖(きょうこ) 流水 清波(せいは)を漾(ただよ)わし
狂客(きょうかく)の帰舟(きしゅう) 逸興(いつきょう)多し
山陰(さんいん)の道士 如(も)し相(あい)見れば
応(まさ)に黄庭(こうてい)を写して白鵝(はくが)に換うべし



鏡湖流水漾清波、狂客帰舟逸興多。
天子から賜った静かな湖面の鏡湖と漢水の上流澄み切った水の流れる漾水(ようすい)は 清らかな波がたつ、四明狂客の賀殿が船でのご帰還とあれば、興味深いことが数々おこって 面白いことでしょう
鏡湖 山陰にある湖。天宝二年、賀知章は年老いたため、官をやめ郷里に帰りたいと奏上したところ、玄宗は詔して、鏡湖剡川の地帯を賜わり、鄭重に送別した。○漾清波、○水漾 陝西省漢水の上流の嶓冢山から流れ出る川の名であるが、澄み切って綺麗な流れということで、きれいなものの比較対象として使われる。きれいな心の持ち主の賀知章が長安のひと山越えて、漢水のきれいな水に乗って鏡湖に帰ってきたいうこと。○この句「鏡湖流水漾清波」は、次の句の帰舟にかかっている。  ○狂客帰舟逸興多 ・賀知章:659年~744年(天寶三年)盛唐の詩人。越州永興(現・浙江省蕭山県)の人。字は季真。則天武后の代に進士に及第して、国子監、秘書監などになった。・狂客:奇抜な振る舞いをする文人。また、軽はずみな人。常軌を逸した人。狂草で有名な張旭と交わり、草書も得意としていた。酒を好み、酒席で感興の趣くままに詩文を作り、紙のあるに任せて大書したことから、杜甫の詩『飲中八仙歌』では八仙の筆頭に挙げられている賀知章の自号は「四明狂客」で、ここでは彼を指す。 ・賀季真:賀知章を字で呼ぶ。親しい友人からの呼びかけになる。気の大きい明るい人で話がうまかった。かれを見ないと心が貧しくなるという人もいた。則天武后の時、官吏の試験に合格して、玄宗の時には太子の賓客という役になった。、また秘書監の役にもなった。しかし、晩年には苦く羽目をはずし、色町に遊び、自分から四明狂客、または租書外監と号した。これは、李林甫と宦官たちの悪政に対し、数少ない抗議をする役割を借ってもいたのだ。竹林の七賢人の役割を意識してのものであった。政治的な抵抗は、「死」を意味する時代であった。李白が初めて長安に来たとき、かれを玄宗に推薦したのは、この人であったと伝えられる。天宝二年、老齢のゆえに役人をやめ、郷里にかえって道士になった。


山陰道士如相見、応写黄庭換白鵝。
越の会稽地方の道士にきっと出会うと思う、そうしたら、ちょうどよい。立派な黄庭経を書き写して白鵝(あひる)と換えることに応じたらよいのです。
山陰 浙江省紹興市、会稽山あたりのこと。○道士 道教の本山が近くにあって、賀知章も道士であった。道教の熱心な地域である。○黄庭 王羲之の書の中では『蘭亭序』・『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』が特に有名である。他に『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などが見られるが、そのうちの『黄庭経』を書いてもらうためにこの地の道士たちが、王羲之が大変好きであった、白鵝(あひる)をたくさん送って書いてもらったことに基づく。賀知章も文字が上手だったので、「黄庭経」を書いて白鵝を貰うといいよ。 賀知章を王羲之に見立てて面白いことが起こるという。

晋の書家。王羲之(最高峰の書家)は当時から非常に有名だったので、その書はなかなか手に入れるのが困難であった。山陰(いまの浙江省紹興県)にいた一人の道士は、王羲之が白い鵞鳥を好んで飼うことを知り、一群の鵞をおくって「黄庭経」を書かせた。その故事をふまえで、この詩では山陰の故郷に帰る賀知章を、王義之になぞらえている。


 天宝二年(743)の十二月、賀知章は八十六歳の高齢でもあり、病気がちでもあったので、道士になって郷里に帰ることを願い出て許された。翌天宝三載(この年から年を載というように改められた)の正月五日に、左右相以下の卿大夫(けいたいふ)が長楽坡で賀知章を送別し、李白も詩を贈っている。
 賀知章がこんなに早くなくなるとはだれも思っていなかった。故郷に帰ってすぐなくなったわけであるから。




 この山陰地方で語るべきは、謝朓と王羲之である。謝朓は別に取り上げているので王羲之について概略を述べる。
王羲之(303年 - 361年)は書道史上、最も優れた書家で書聖と称される。末子の王献之と併せて二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称され、また顔真卿と共に中国書道界の二大宗師とも謳われた。
「書道の最高峰」とも言われ、近代書道の体系を作り上げ、書道を一つの独立した芸術としての地位を確保し、後世の書道家達に大きな影響を与えた。その書の中では『蘭亭序』・『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』が特に有名で、他に『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などがある。
  王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望され、東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後、護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
 会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、この地方の頼りになる人材となった。
 354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となり、王羲之は王述の下になることを恥じ、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、道教の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。