万里の長城  陳琳と汪遵


万里の長城。世界最大の建造物。そこには建設に狩り出された人々の、血、汗、涙、そして尊い命までもがしみ込んでいるのです。

飲馬長城窟行   陳 琳

飲馬長城窟、水寒傷馬骨。
往謂長城吏、慎莫稽留太原卒。
官作自有程、挙築諧汝声。
男児寧当格闘死、何能怫鬱築長城。


万里の長城の岩穴で馬に水を飲ませてしまうと、その水は冷たく馬の骨まで傷つけるほどだ
俺は監督の役人に言ってやった
「どうか太原から来ている人足を帰してやってください」
訴えを聞いた役人は「お上の仕事には工程が決められているのだ。文句を言わずに杵を取って声を合わせて働け」と言う
人足は「男たるもの戦いの中で死ぬならまだしも、なんでこんな長城を築くやるせない仕事で朽ち果てるのは嫌だ」と憤懣をもらす



馬に飲(みずか)う長城の窟(いわや)
水寒うして馬骨(ばこつ)を傷(いたま)しむ
往きて長城の吏(り)に謂(い)う
慎んで太原(たいげん)の卒(そつ)を稽留(けいりゅう)する莫(なか)れ
官作(かんさく)自ら程(てい)有り
築(きね)を挙げて汝の声を諧(ととの)えよ
男児は寧(むし)ろ当(まさ)に格闘して死すべし
何ぞ能(よ)く怫鬱(ふつうつ)として長城を築かん




陳琳は後漢の建安の七子の一人。秦の万里の長城建設に後漢の衰亡を重ね合わせているという


2)陳 琳(ちん りん)  未詳 - 217年  後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。飲馬長城窟行    易公孫餐與子書



建安文学 (けんあんぶんがく)
 後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。建安の三曹七子 1)孔融・2)陳琳・3)徐幹・4)王粲・5)応楊・6)劉楨・8)阮禹、建安の七子と曹操・曹丕・曹植の三曹を同列とし、建安の三曹七子と呼称する。



時代は9世紀唐のに王遵は詠います。
長城  汪遵


秦築長城比鉄牢、蕃戎不敢逼臨兆。
焉知万里連雲勢、不及堯階三尺高。


秦の始皇帝は鉄のように頑丈な長城を築き、さすがの匈奴を臨兆の街に近づくことはできなかった。だが、はるかかなたの雲まで届きそうな万里の長城はあの聖主である堯帝のわずか三尺の高さの階段にも及ばなかった。


 堯帝とは古代中国を治めた伝説の皇帝です。その宮殿は質素で土の階段で、わずか三尺の高さであった。それでも堯帝は徳を持って国を治めたといわれます。

 一方、秦の始皇帝は万里の長城を始め、権力任せて国を統一した。ある意味では、中国最初の統一国家を成し遂げたことは歴史に残る偉大なことではあるのですが、彼の死後、たちまち国の内部で反乱がおこり、国は滅びたのです。国を興してわずか15年でした。

 国の守りは、築城の険ではなく、「徳に在って、険にあらず」と詠じていますが、秦という国は、国を一気に統一する力を使い切ってしまった結果短期間で滅びたのですが、中国の統一国家は次の漢以後約700年くらい後、581年隋の統一までかかります。


秦 長城を築いて 鉄牢に比す
蕃戎 敢えて 臨兆に逼(せま)らず

焉くんぞ知らん 万里 連雲の勢い
及ばず 堯階 三尺の高きに



これらの詩の漢文委員会の解説

 陳琳の詩そのものは古来からよくある「問答」詩ですが、最初聯、「万里の長城の岩穴で馬に水を飲ませてしまうと、その水は冷たく馬の骨まで傷つけるほどだ」には驚かされます。

 子の頃から、兵役負担は当時の人々には重い税だったのです。律体制に移行する時代の詩で社会情勢をよく反映しています。。


 この王遵の「国を治めるに徳をもって為せ」ですが、もし秦の始皇帝が万里の長城を築かなかったら(実際には1/3の規模でそれまで築かれていた)、異民族にもっと早く滅ぼされ中国の歴史は変わっていたでしょう。古代における長城建設の威力は大きいものがあったのです。
 国力以上のものを建設し、国の富み、特に人民にそれを強いたのが滅ぼす原因で歴史の必然であることには間違いはありません


 匈奴という国は遊牧民族、騎馬民族です。中国、漢民族の農耕民族と決定的な違いは国力の強化は奪うことが基本なのです。略奪する、制覇して力根こそぎ奪うのです。戦争の本質はいつの時代も同じですが、古代においては、大殺戮と焼野原になりますから、殺さなければ奴隷ですから、万里の長城は偉大な建設物だったのです。万里の長城があるおかげで防御はポイント強化、人配置で済みます。もし3尺の土塁しかなかったら、中国の歴史は変わったでしょう。


 この王遵の詩も実際に自分自身が戦ったり、実体験したものでなく、多くの邊塞詩がそうであるように、文人たちの間で交わされる詩であったと思われます。


 現在でも受けを狙って、面白おかしくされる議論に似ています。この詩からは儒教とか道教の徳の論理性とは違うものを感じます。