三五七言 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白171


玄宗(4)
735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に冊立された。

 楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。
 女性は美しいということ、性的要求を満足させる道具か、そうでなければ、はたを織りとして価値を求められた。後に楊貴妃専用の機織りは5、600人であったという。娘が宮中に上がると恩賞を得られたのである。うまくいけば、一族全員恩賞にあずかることもあった。

 楊玉環はどういう経緯で宮中に入ったのか、寿王とのめぐり会いはどうだったのか。
*****(取り上げる李白の詩と「玄宗ものがたり」の時期はかならずしも一致しない。)*****
遡ること3年。寿王の李清は李瑁となる。寿王の母・武恵妃は、改名に重要な意味があると判断し、寿王が皇位に就くための計画を練り、寿王が大人になった印象を玄宗皇帝に与えるために結婚を画策する。姉の咸宜姫の婚儀を行うが、そこに現れた楊玉環を見て、寿王は一目惚れをしてしまう。この時、楊玉環は意中の男性がほかにいた。同じ洛陽に棲む彭勃という人物であった。
楊玉環(後の楊貴妃)は、楊玄璬(きょう)の娘として、洛陽に暮らしていた。ある日、玉環が親友の謝阿蛮と外出中に、偶然、彭勃と出会ったのである。この頃洛陽に絶世の美人がいるということは有名になりつつあったので、果毅副将軍という人物が楊玉環を調査するため彭勃を使いに出していたのである。当時は美人を探し出し、情報提供するだけでも褒美がもらえるから、官の禄では食べていけないので美人探しが本業であったかもしれない。

三五七言

秋風清、    秋月明。
落葉衆還散、  寒鴉棲復驚。
相思相見知何日、此時此夜難怠惰。

 


三五七言
秋風 清く、  秋月 明らかなり。
落莫 衆まって還た散じ、寒鴉 棲んで復た驚く。
相思い相見る 知る何れの日ぞ、此の時此の夜 情を為し難し。





三五七言   三言、五言、七言、それぞれ二旬ずつ対になっている。この詩体は李白の創作といわれる。カラスは、芸妓の中でも相手が決まっている、いわゆるかこわれ者を指す。芸妓は宮妓、官妓、貴族などの家妓、娼屋などの街妓などあったが、ここでいう鴉は芸ごとがよくできるものを指す。春から夏にかけては宴、納涼などで歌われるので、鴉、烏の登場はない。秋の夜長に待ちわびている状況になって登場するのである。この詩でも、そういうシチュエーションである。




秋風清、    秋月明。
秋の風はすがすがしく、秋の月はあかるい。
秋風清 ここでいう風は女性自身の香りを運ぶかぜである。 ○秋月明 ここでいう月は女性自身である。

落葉衆還散、  寒鴉棲復驚。
落葉は風に吹きよせられては、また散る。からすはねぐらに帰ったかと思うと、ふいに驚いて飛び立つ。
 葉は肢体をしめす。ここでは性行為を示している。○衆還散 くっついたり離れたり、これも性行為の描写の言葉。○寒鴉 秋の夜長に、寒空に待つ身のからす。夜が長いのでいろんなことを思いめぐらす。
棲復驚 自分はずっと待っているが、隣の芸妓は出たり入ったりしている。そんなボーとしていて予期していない自分に声がかかったのでびっくりしたのであろう。



相思相見知何日、此時此夜難怠惰。
思うひとにあえるのは、いつの日のことか知れない。こんな時、こんな夜、もえさかる気持を、どうしてよいかわからない。
○相思相見 この場合の相はお互いにという意味ではなく相手のことを思う、見るであり、一人なのである。ここを相思相愛、決まった相手と互いに重い互いを見つめると訳すと、狭い範囲の理解しかできなく、わけのわからないものになる。片思いの場合でも使うのである。

*この詩などの艶歌、閨情詩、行為詩、など当時の文化として理解すべきで、それによって李白の詩が低俗なものとしてとらえられたりする方がおかしい。こういった詩にはわけのわからない解釈が多い。特に、李白と李商隠の詩に多い。むしろ、李白の詩に味わい深みが増してくるというものである。
Kanbuniinkaiで李商隠と李白を同時にブログしているのは理解できない解釈にたいして、歯に衣を着せないで、記述していくことにあるからである。もっとも誰かにそのことを訴えようとか、知ってもらいたいとか思っているわけでもないことは付け加えておきたい。