翰林讀書言懷呈集賢諸學士 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白176


玄宗(9)
李白が長安を追われる直接の原因となったのは、魏顥の『李翰林集』序によると、「張洎の讒言」であったとされる。張洎は、もとの宰相張説の子で、玄宗の娘を妻にして、玄宗に寵愛された人であるが、のち安禄山に寝返り、その宰相となる。朝廷に召される10年前、李白は長安に来ている。その時道教の友人に張洎を紹介されているのだ。張洎に終南山の麓に居を紹介され、わずかの間棲んでいる。

李白32 玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其二



その頃、張洎とうまくいっていなかったのか、李白も後のフォローに問題点があったであろうと思う。朝廷内の影響力を持つ人物からの助言、援助は考えられないもであったのはまちがいない。
劉全白の「翰林学士李君碣記」にも、「同列者の謗る所と為る」とあるが、これも中書舎人であった張洎のことかもしれない。

さらに、高力士の讒言というのも伝えられる。
『太平広記』巻204に引く『松窓録』によると、「高力士はかつての脱靴のことを怨みに思っていた」ところ、楊貴妃が「清平調詞」(三首)を吟じているのを聞いて、「飛燕を以って妃子を指すは、これを闇しむこと甚だしきなり」と謹言し、「貴妃も然りとした」という。宮女程度ならまだしも、王妃である。「清平調詞」(三首)貴妃の側からすれば手放しで喜べる内容ではない。4,50年かけて築いてきた地位、飛ぶ鳥を落とす勢いのある高力士にとって、昨日、今日入朝したての李白の奔放不覇な性格と態度、朝廷内でうまくゆくはずはない。


誰も味方してくれない状態の中で、李白は酔態を晒すばかりであったろう。入朝したいきさつからも、詩文を立ちどころに書き上げた才能はある意味当たり前の事なのである。それを当たり前のこととされると、高力士をはじめ禁中の者から見ると、李白のような倣慢無礼のやつ、天子の前でも何ものも恐れない態度をとるやつは許せなかったにちがいない。何かのきっかけを待って李白を陥れられるのは時間の問題であったろう。


翰林院供奉の職として、天子の詔勅を草する者としては、酔態は異常である。「宮中行楽詩」十首を作ったときも、寧王のところで飲んでいたのを召されて、ふらふらした状態であった。また、『松窓録』にある「清平調詞」三章を作った話も、「宿酲未だ解けざるに苦しむ」と、二日酔いのさめぬ苦しさの中に筆を執った。この『松窓録』にある一連の話は楽史の『李翰林別集』序にも見る。

范伝正の「李公新墓碑」には、、玄宗が、白蓮池に舟を浮かべて遊んでいたとき、呼び出されて、序を作らされた。このとき、李白は翰林中で酒を飲んでいたので、高力士に助けられて舟に登ったとある。これも、『太平広記』引く『琴言』にあるが、『携言』では、「白蓮花開序」を作ったとある。そのとき大酔していたので、女官たちが、冷水をかけて、醒まして、一気に筆を執って書き上げ、修正もしなかったという、とある。

魏顥の『李翰林集』序では、また別の話を伝える。すなわち、天子に召されたとき、李白は高官の家で飲んでいた。たまたま「半酔」の状態であったが、「出師詔」を作った。下書きもせずに一切しなかった。
これだけで、高力士の讒言がたとえなくとも、はじめから禁中の高官連中から快く思われていない李白が正規の官に就任できなかったのは、当然のことである。


李白自身も、もはや居るべき所ではないと感じ、晩かれ早かれ、宮中を出てゆく運命にあった。李白は、当時の高官たちの悪意に満ちた非難、冷笑をひしひしと身に感じていた。



翰林讀書言懷呈集賢諸學士
晨趨紫禁中。 夕待金門詔。
朝礼に間に合うように急ぎ足で歩く、天子の住居にて執務にあたる。夕べには翰林学士院で待詔している。
觀書散遺帙。 探古窮至妙。
また、古い書物をひもどいて読みあさり、古しえよりの至理をきわめるのが仕事である。
片言苟會心。 掩卷忽而笑。
一言一句でも感動するものがあれば、書物を閉じてふと笑えむのである。
青蠅易相點。 白雪難同調。
青い蝿はその糞で白い玉を汚しがちのもの、お高く留まった「白雪の歌」は歌いにくいもので和せるものではないのだ。
本是疏散人。 屢貽褊促誚。
自分はもともと気ままの人物であり、しばしば、偏狭な人物であると非難されるばかりである。
云天屬清朗。 林壑憶游眺。
本当は晴天なのに、宮廷というのはこのように雲が重たくかかっている、山林幽谷はそこにあり、わが心を慰めてくれるのは、自然の美しい眺めなのである。
或時清風來。 閑倚檐下嘯。
ときには清々しい風流な時もやってくる。そういうひとときの合間には、欄干によりかかり、あるいは下河原でのどかに詩を吟ずるのである。
嚴光桐廬溪。 謝客臨海嶠。
厳光は宮廷のことなど考えず桐廬溪で釣り糸を垂れたのだ、謝霊雲は左遷されるとき臨海の山のいただきに登った。
功成謝人間。 從此一投釣。

今は務めの身、天子から招かれた身分、一応はやることだけはしとげて、それから天子にお暇乞いをして、もっぱら釣り糸を垂れる身分となりたい。


朝礼に間に合うように急ぎ足で歩く、天子の住居にて執務にあたる。夕べには翰林学士院で待詔している。
また、古い書物をひもどいて読みあさり、古しえよりの至理をきわめるのが仕事である。
一言一句でも感動するものがあれば、書物を閉じてふと笑えむのである。
青い蝿はその糞で白い玉を汚しがちのもの、お高く留まった「白雪の歌」は歌いにくいもので和せるものではないのだ。
自分はもともと気ままの人物であり、しばしば、偏狭な人物であると非難されるばかりである。
本当は晴天なのに、宮廷というのはこのように雲が重たくかかっている、山林幽谷はそこにあり、わが心を慰めてくれるのは、自然の美しい眺めなのである。
ときには清々しい風流な時もやってくる。そういうひとときの合間には、欄干によりかかり、あるいは下河原でのどかに詩を吟ずるのである。
厳光は宮廷のことなど考えず桐廬溪で釣り糸を垂れたのだ、謝霊雲は左遷されるとき臨海の山のいただきに登った。
今は務めの身、天子から招かれた身分、一応はやることだけはしとげて、それから天子にお暇乞いをして、もっぱら釣り糸を垂れる身分となりたい。


晨には紫禁の中に趨り。 夕には金門の詔を待つ。
書を観て遺帙を散き、古探り至妙を窮む
片言 苟し心に会せば、巻を掩いて忽ちにして笑う
青き蝿は相い点し易く、白雪は同調し難し
本もと是れ疎散なる人にして屡しば褊促なる誚りを貽す
雲天は清朗と属り、林林壑に遊朓を憶う
時或りて清風来たり、閒ま欄下に倚って囁く
厳光の桐廬の溪、謝客の臨海の嶠
功成りて人君に謝し、此より一えに釣を投げん





晨趨紫禁中。 夕待金門詔。
朝礼に間に合うように急ぎ足で歩く、天子の住居にて執務にあたる。夕べには翰林学士院で待詔している。
 夜明けに朝礼がある。○趨 急ぎ足で歩く。○紫禁 皇居、天子の住居。○金門 右銀台門、翰林学士院を示す。 ○ 天子からの詔をまっている。
自分のしごとは、「禁中に出て、翰林院で天子の詔を待っている身。「金門」は漢の金馬門、漢の武帝は、ここで学士を集めて詔を待たせた。金馬門は唐では、右銀台門に当たり、ここを入ると翰林学士院がある。よって翰林学士院で待詔すことをかくいった。


觀書散遺帙。 探古窮至妙。
また、古い書物をひもどいて読みあさり、古しえよりの至理をきわめるのが仕事である。
遺帙 古い書物をひもどいて読み  ○探古窮至妙 古しえよりの至理をきわめるのが仕事である



片言苟會心。 掩卷忽而笑。
一言一句でも感動するものがあれば、書物を閉じてふと笑えむのである。



青蠅易相點。 白雪難同調。
青い蝿はその糞で白い玉を汚しがちのもの、お高く留まった「白雪の歌」は歌いにくいもので和せないのだ。
青蠅 青い蝿。○相點 糞で白い玉を汚す。○白雪難同調 潔白の人にとっては、人の中傷非難はありがち、また高傑の人には俗人はついてこない。いま自分はそれと同じである。「白雪」は曲の名であり、宋玉の「楚王の問いに対う」に、俗な曲は和する者が多かったが、陽春・白雪のような高尚な曲は、和する者数十人にすぎなかったという。これにもとづき、高傑の人物は孤立しがちのものであることにたとえる。
 

本是疏散人。 屢貽褊促誚。
自分はもともと気ままの人物であり、しばしば、偏狭な人物であると非難されるばかりである。
本是 自分はもともと。○疏散人気ままな人物。○ 屢貽褊促誚。この表現をみると、李白は宮中において、すでに非難攻撃を受けていることを十分知っている。そして、宮廷の人々とは合わないことも十分知っている。とすると、聾一昆よって追放さかることがなくても、李白のほうも、もはやみずから出てゆく時が来ていると覚悟していたにちがいない。



云天屬清朗。 林壑憶游眺。
本当は晴天なのに、宮廷というのはこのように雲が重たくかかっている、山林幽谷はそこにあり、わが心を慰めてくれるのは、自然の美しい眺めなのである。
云天 宮中は魑魅魍魎が住み着くところ。○林壑 山林幽谷の自然を愛す。○憶游眺 自然に浸り詩歌を詠う。



或時清風來。 閒倚檐下嘯。
ときには清々しい風流な時もやってくる。そういうひとときの合間には、欄干によりかかり、あるいは下河原でのどかに詩を吟ずるのである。
清風來 清々しい風流な時もやってくる。○(うそぶ)くはのどの奥から声を出す。六朝人は、よく山水に遊んで噴く習慣があり、世俗を超越した隠遁者の超俗的態度であったが、唐に入ると、声を出さずに、そうした態度だけをすることも「囁」といった。ここも必ずしも声を出さずに、俗たちを低く見る態度をとったとみてもよい。ここでは自然の風景によって心の憂いをはらすともに、宮廷の俗人たちを無視した気持ちも表わしているとみられる。

 

嚴光桐廬溪。 謝客臨海嶠。
厳光は宮廷のことなど考えず桐廬溪で釣り糸を垂れたのだ、謝霊雲は左遷されるとき臨海の山のいただきに登った。
厳光 後漢の「厳光」(字は子陵)は、光武帝と若いころ友人であったが、光武帝が即位してから、招かれても応ぜず、桐廬溪でいつも釣りをしていた。この渓は今、杭州湾に流れこむ富春江を湖えと厳陵瀬の急瑞があり、厳光が釣りをしていたところといわれる。○謝客 六朝、宋の大詩人謝霊運も、この江を潤って永嘉(温州)の太守に左遷されるとき、この厳陵瀬のことを歌っている。彼は幼名を客児と呼ばれたために、当時から「謝客」と加阿客とか呼ばれていた。永嘉の太守をやめて、故郷の会稽に帰って、しばしばこの付近の山水探勝を試み、臨海(今の臨海県)の山にも登っている。



功成謝人間。 從此一投釣。
今は務めの身、天子から招かれた身分、一応はやることだけはしとげて、それから天子にお暇乞いをして、もっぱら釣り糸を垂れる身分となりたい。
功成謝人間 謝には「臨海晴」の詩がある。ともに世間との交渉を断ち、山水に遊んだ人。「こうした人々がうらやましく、自分もそうした身分になりたい。」という。


○韻  中、詔、妙、笑、調、誚、眺、嘯、嶠、釣。

ここでは自由の身になることを望んでいる。ただ天子に対してやるべき「功」だけはやって、それが「成」きあがったらという。「功」とは、翰林院における与えられた職務である。宮中の宮人官僚たちの非難冷笑を受けて、もはや相容れないと感じ、翰林院を去る時期を、李白はうかがっていたにちがいない。その機会は、高力士、あるいは張泊の讒言であったかもしれないが、それよりも李白にとって政治的助言の場が全くなく、芸人のような処遇に耐えきれないものがあった。それは、李白の矜持に触れるものであったからである。