行路難 三首 其二 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白184




李白は長安を去って、河南の開封地方に行ったが、そのとき、洛陽にも足を延ばしている。時に744年天宝三年である。このとき、詩聖といわれる杜甫との出会いがあった。
このとき、杜甫は、山東地方漫遊から帰って、試験にも落第して、たまたま洛陽に住んでいた。二人が会ったときは、李白は四十四歳、杜甫は十一歳下の三十三歳である。杜甫は、その性格から、当時の虚偽に満ちた世相を厭わしく思っていたところ、たまたま神仙を求め楽天的に振る舞う豪快な李白を見て、その詩にひきつけられ、意気投合して共に遊び、共に飲み、共に詩を作るようになった。また、詩人高適ともめぐり会う遭遇し、三人共に会して痛飲し、時世を憤慨したものである。
李白「秋猟孟諸夜帰置酒単父東楼観妓」
杜甫「書懐」「昔游」

 行路難其の二は、唐王朝の体制には居場所がないこと、魑魅魍魎の棲みかで、聖人、賢人の活躍の機会はないことを述べている。杜甫は妻を娶って間もないこともあり、また父の意向で士官を強く要望されていた。詩人として生きていくことにしているが、二人とも岐路に立っていると感じていた。

其二
大道如青天,我獨不得出。
天子の御政道は青天のように清朗で広く包み込むものである、私、ひとりその道を得ることができなかった。
羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
はずかしいことではあるが長安城中で若い衆らとやってしまう、闘鶏や闘犬に梨栗程度の賭けをして遊んでいたのだ。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
馮驩は剣を弾いて作詩した歌を唄い宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかった。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせた、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
君見ているだろう  戦国燕の昭王は郭隗を重用したではないか、鄒衍を迎えるに 礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材の登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。

昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金台。
それだけの昭王であっても今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。
行路難,歸去來。

目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ隠遁して桃源郷に帰ろう。

其二
大道如青天,我獨不得出。
羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金台。
行路難,歸去來。

其の二

大道(たいどう)は晴天の如し、我(われ)独り出ずるを得ず。

()ず  長安社中の児()を逐()うて、赤鶏(せきけい) 白狗(はくく) 梨栗(りりつ)を賭するを。

剣を弾じ歌を作()して苦声(くせい)を奏(そう)し、裾(すそ)を王門に曳きて  情に称(かな)わず。

淮陰(わいいん)の市井 韓信(かんしん)を笑い、漢朝(かんちょう)の公卿  賈生(かせい)を忌()む。


君見ずや 昔時(せきじ)の燕家(えんか)郭隗を重んじ? (すい)を擁し節(せつ)を折って嫌猜(けんさい)無し

劇辛(げきしん) 楽毅(がくき) 恩分(おんぶん)に感じ、肝を輸(いた)し膽(たん)を剖()いて英才を效(いた)

昭王の白骨 蔓草(まんそう)?(まと)わる、誰人(たれひと)か更に掃(はら)わん 黄金(おうごん)

行路(こうろ)は難(かた)し、いざ帰去来(かえりなん)



天子の御政道は青天のように清朗で広く包み込むものである、私、ひとりその道を得ることができなかった。
はずかしいことではあるが長安城中で若い衆らとやってしまう、闘鶏や闘犬に梨栗程度の賭けをして遊んでいたのだ。
馮驩は剣を弾いて作詩した歌を唄い宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかった。
淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせた、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
君見ているだろう  戦国燕の昭王は郭隗を重用したではないか、鄒衍を迎えるに 礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材の登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。

それだけの昭王であっても今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。
目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ隠遁して桃源郷に帰ろう。





其二
大道如青天,我獨不得出。

天子の御政道は青天のように清朗で広く包み込むものである、私、ひとりその道を得ることができなかった。
○大道 道は万物に備わったそれぞれの道をいい、それら万物すべてに共通する道をしめす。天下の御政道




羞逐長安社中兒,赤雞白狗賭梨栗。
はずかしいことではあるが長安城中で若い衆らとやってしまう、闘鶏や闘犬に梨栗程度の賭けをして遊んでいたのだ。
○羞逐 はずかしいことではあるがやってしまう。
○兒 若い衆、任侠の使徒。子供は童。○梨栗 実際には、お金をかけたのかもしれないが、レートとして、高くないことを示している。



彈劍作歌奏苦聲,曳裾王門不稱情。
馮驩は剣を弾いて作詩した歌を唄い宰相の孟嘗君に聞かせて聞き入れられた、いくら弁舌が上手くても漢の鄒陽は王に仕えて話す真意がすぐには思うように伝わらなかった。
○馮驩 すうかん斉の宰相孟嘗君に仕えた政治家。孟嘗君の食客として迎えられ、下級宿舎に泊まらせられた。馮驩は剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、食う魚なし」という歌を歌い出した。それを聞いた孟嘗君は中級宿舎に泊まらせた。すると馮驩はまた剣を叩きながら「我が長剣よ、帰ろうか、外にも出ようも御輿がない」という歌を歌い出した。詳しくはウィキペディア「馮驩」「斉の宰相と馮驩」参照。○曳裾王門不稱情 弁舌の上手い使徒を雇い入れ、王に意見を述べさせても、述べた本質のところの理解はすぐにできるのではない。「史記」巻八十三は戦国の弁舌の徒・魯仲連と漢代に文章を以て重用された鄒陽の合伝にある故事に基づいている。



淮陰市井笑韓信,漢朝公卿忌賈生。
淮陰の街の人たちの若い徒は韓信をあなどり「股くぐり」をさせた、漢の貴族、官僚たちは若くして要職に就いた賈誼に嫉妬し忌み嫌い讒言し、左遷させた。
○韓信 淮陰(現:江蘇省淮安市)の出身。貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。出来ないならば俺の股をくぐれ」と挑発された。韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ」と冷静に判断していたのである。この出来事は「韓信の股くぐり」として知られることになる。
 ○賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。李商隠「賈生」 李商隠:紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64 参照



君不見昔時燕家重郭隗,擁彗折節無嫌猜。
君見ているだろう  戦国燕の昭王は郭隗を重用したではないか、鄒衍を迎えるに 礼を尽くして讒言や諫言など猜疑心の意見がある中、全く疑わないで使いにだし成功した。
○燕家重郭隗 昭王は人材を集めることを願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。郭隗の返答は「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答え、昭王はこれを容れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。 ○擁彗折節無嫌猜 鄒衍(前305頃―前240) 戦国時代の陰陽五行家。斉の人。弁才にたけ、燕・斉を歴遊した。晩年、斉の使いとして趙に赴き、公孫竜を説得して尊敬された。陰陽のことを研究し、「五徳終始」説を提唱、春秋戦国時代に流行する「五行」説を社会・歴史の変化と王朝の交代になぞらえて、漢代の懺緯学の主な源流となった。著書の『鄒子』などは全部散逸した。 


劇辛樂毅感恩分,輸肝剖膽效英才。
燕昭王が集めた人材、劇辛や楽毅は 君恩に報いようと五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ。よき人材の登用すれば「肝胆を砕いて 才能の限りをつくす」働きをするものだ。
○劇辛樂毅感恩分 劇辛は趙の国出身の人物で、郭隗の進言を聞き入れた燕昭王が「隗より始めよ」と富国強兵の為の人材優遇を始めて以降に、楽毅や鄒衍らと同様に、賢人を求め優遇する燕昭王の元へと赴き、燕の臣となった。楽毅は、戦国燕の武将で、昭王を助けて仇敵の斉を五国連合を率いて打ち破り、斉を滅亡寸前にまで追い込んだ稀代の軍略家。 ○輸肝剖膽效英才



昭王白骨縈爛草,誰人更掃黃金台。
それだけの昭王であっても今は白骨になり蔓草に蔽われ墓のしたにある。昭王が政治を行った黄金台の跡をだれが見守り掃除するというのか。



行路難,歸去來。
目標を持った行路を進んでいくというのは困難なことだ、いっそ隠遁して桃源郷に帰ろう。



李白は人材登用が全くなされようとしない玄宗の唐王朝に嫌気がしたのだ。最後の2聯が言いたいことではない。国に帰ることを言いたいのではない。李林甫、高級官僚の讒言に動かされ、淮陰の街の使徒のように宦官たちがよき人材を侮るようなことをしている。李白は憤っていたのであるが、無能呼ばわりだけしたのではおとがめられるので、自分の進むべき道が分からないと思考方向を自らに向けたのだ。
燕の昭王、孟嘗君らが登用した歴史上で有名な七人の快男子、馮驩、韓信、韓信、鄒衍、郭隗、劇辛、樂毅について取り上げ、適正な登用がなされれば、かならず「感恩分、輸肝剖膽效英才」(恩分に感じ、肝を輸し膽を剖いて英才を效す)ということになるのであるということが李白の主張である。

 陶淵明をいいとは思っていないということがこの詩ではっきりしている。これについては別のところで取り上げたい。