行路難 三首 其三 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白185


其三
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
儒教思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。
自分自身に光り輝く才能を持っていて世の中に大使は無名であることを尊いことという。どうして自分一人で崇高でいたとして大空の雲や満月ほど崇高といえるのか。
吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。
自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。
子胥既棄呉江上,屈原終投湘水濱。
呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、葉かは作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜 のすなになっている。
陸機雄才豈自保,李斯稅駕苦不早。
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず謀反の疑いで処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
華亭鶴唳渠可聞,上蔡蒼鷹何足道。
華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたい。 上蔡の敏俊な蒼鷹にしてもどうしてそうなりえたのか言わなくてもわかっている。
君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君は見ているだろう、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったことを。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。

今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって名声を拍したとして何になろうか。
 


(本文)其三
有耳莫洗潁川水,有口莫食首陽蕨。
含光混世貴無名,何用孤高比雲月。
吾觀自古賢達人,功成不退皆殞身。
子胥既棄呉江上,屈原終投湘水濱。
陸機雄才豈自保,李斯稅駕苦不早。
華亭鶴唳渠可聞,上蔡蒼鷹何足道。
君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
(下し文)

耳あるも洗うなかれ潁川の水 口あるも食すこと莫かれ首陽の蕨

光を含み世に混ざりて名なきを貴ぶ 何ぞ用いん 孤高 雲月に比するを

吾 古しへより賢達の人を観るに 功成って退かざれば 皆身を損(おと)す

子胥は既に棄てらる呉江の上(ほとり) 屈原は終に投ず湘水の浜

陸機の雄才 豈に自ら保たんや 李斯の税駕 早からざるに苦しむ

華亭の鶴唳 何ぞ聞くべけんや 上蔡の蒼鷹 何ぞ道(いう)に足らむ

君見ずや呉中の張翰 達生と称す 秋風忽ち憶う江東へ行く

且つ楽む生前一杯の酒 何ぞ身後千載の名を須(もちひ)るや


(詩訳)

儒虚思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。
自分自身に光り輝く才能を持っていて世の中に大使は無名であることを尊いことという。どうして自分一人で崇高でいたとして大空の雲や満月ほど崇高といえるのか。
自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。
呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、葉かは作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜 のすなになっている。
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず謀反の疑いで処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたい。 上蔡の敏俊な蒼鷹にしてもどうしてそうなりえたのか言わなくてもわかっている。
君は見ているだろう、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったことを。
今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって名声を拍したとして何になろうか。



李白「行路難」三首其三 訳注解説
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有耳莫洗潁川水 有口莫食首陽蕨
儒虚思想の許由は、仕官の誘いに故郷の潁川の水耳を洗って無視をした、同じ儒教者の伯夷、叔齊はにげて 首陽山の蕨を食べついには餓死した。こういうことはしてはいけない。
有耳莫洗潁川水 、堯の時代の許由という高潔の士は、堯から天子の位をゆずろうと相談をもちかけられたとき、それを受けつけなかったばかりか、穎水の北にゆき隠居した。堯が又、かれを招いて九州の長(当時全国を九つの州に分けていた)にしようとした時、かれはこういぅ話をきくと耳が汚れると言って、すぐさま穎水の川の水で耳を洗った。○首陽蕨 伯夷、叔齊のかくれた首陽山のわらび。彼等は、祖国殷を征服した周の国の禄を食むのを拒み、この山に隠れワラビを食べて暮らし、ついに餓死した。陶淵明「擬古九首其八
陶淵明「飲酒其二
積善云有報、夷叔在西山。
善惡苟不應、何事立空言。
九十行帶索、飢寒况當年。
不賴固窮節、百世當誰傳。
(末尾に訳注を参照)




含光混世貴無名 何用孤高比雲月
自分自身に光り輝く才能を持っていて世の中に大使は無名であることを尊いことという。どうして自分一人で崇高でいたとして大空の雲や満月ほど崇高といえるのか。



吾観自古賢達人 功成不退皆損身
自分は 昔から賢人といわれる人たちというものを見てきたが、共通して言えることは目標を達成する、勲功を得るなど功を成しとげて引退したものでなければ、皆その意志の通りを貫くことはできない。志半ばで死んでしまう。

子胥既棄呉江上 屈原終投湘水浜
呉の躍進に大きく貢献した子胥は呉王に疎まれ、葉かは作られず、呉江に流棄され今は川の中だ。屈原は秦の張儀の謀略で、賄賂漬けになっている家臣、踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して湘水に入水自殺し今は川の浜 のすなになっている。
子胥 伍子胥(ごししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代の政治家、軍人。諱は員(うん)。子胥は字。復讐鬼。呉に仕え、呉の躍進に大きく貢献したが、次第に呉王から疎まれるようになり、最後には誅殺された。伍子胥は夫差から剣を渡され自害するようにと命令された。
 その際、伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、それを以って(夫差の)棺桶が作れるように。自分の目をくりぬいて東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い、自ら首をはねて死んだ。
 その言葉が夫差の逆鱗に触れ、伍子胥の墓は作られず、遺体は馬の革袋に入れられ川に流された。人々は彼を憐れみ、ほとりに祠を建てたという。ちなみにこの行為が日本の端午の節句や中国での厄よけの風習として、川に供養物を流す由来になったと言われている。
屈原 (くつげん、紀元前343年1月21日? - 紀元前278年5月5日?)は、中国戦国時代の楚の政治家、詩人。姓は羋、氏は屈。諱は平または正則。字が原。春秋戦国時代を代表する詩人であり、政治家としては秦の張儀の謀略を見抜き踊らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。

陸機雄才豈自保 李斯稅駕苦不早
あれだけの節操と勇気と文才を持った陸機が自分の身を守れず謀反の疑いで処刑された。李斯は度量衡の統一、税制を確立し、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。
陸 機(りくき261年- 303年)は、呉・西晋の儒家文学者・政治家・武将。字は士衡。呉の四姓(朱・張・顧・陸)の一つ、陸氏の出身で、祖父・父は三国志演義の登場人物としても有名な陸遜・陸抗。謀反の疑いで処刑された。
李 斯(り し? - 紀元前208年)儒家中国秦代の宰相。法家にその思想的基盤を置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れて殺害された。



華亭鶴唳何可聞 上蔡蒼鷹何足道
華亭にいるあのすばらしい鶴がどうして唳を流しているのか聞いてみたい。 上蔡の敏俊な蒼鷹にしてもどうしてそうなりえたのか言わなくてもわかっている。
華亭県(かてい-けん)は中華人民共和国甘粛省平涼市に位置する県。県人民政府の所在地は東華鎮。華亭県は東は崇信県、西は庄浪県、寧夏回族自治区の涇源県、南は張家川回族自治県と陝西省隴県、北は崆峒區に隣接する。
上蔡県(じょうさい-けん)は中華人民共和国河南省の駐馬店市に位置する県。



君不見呉中張翰稱達生,秋風忽憶江東行。
君は見ているだろう、呉の国にいた張翰は達生と称したが、秋風に誘われ、世の乱れを察していた張翰が故郷の味が懐かしいと口実をつくり、江東へ帰っていったことを。
張翰昔、晋の張翰が、秋風に故郷である呉の菰菜(こさい)、蓴羹(じゅんさいのあつもの)、鱸魚膾(すずきのなます)を思い出し、それを食べたい一念で官を辞して故郷へ帰った。この後、すぐ世が乱れた。人々は、世の乱れを察していた張翰が故郷の味を口実に先手を打ったのだと思ったという逸話。李白「秋荊門を下る」

且樂生前一杯酒,何須身後千載名。
今生きているこの時の一杯の酒こそが自分を楽しませ生かせてくれるものなのだ。どうして死んだ千年も後になって名声を拍したとして何になろうか。




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道教思想により死んだあとの名声より今の一杯の酒を楽しむ李白。
ここでの 行路難 三首其三 李白
迭裴十八図南歸嵩山其二 李白

 それとまったく好対照の陶淵明の飮酒二十首 其二  陶淵明「九十行く索を帶びし,飢寒况んや當年をや。」末尾に紹介する。





迭裴十八図南歸嵩山其二 李白
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君思穎水綠、忽復歸嵩岑。
歸時莫洗耳、爲我洗其心。
洗心得眞情、洗耳徒買名。
謝公終一起、相與済蒼生。
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君は頴水のあの澄み切った緑色を思い出し、急に嵩山の高峰にまた帰ろうとしている。
帰った時を境に、耳を洗うようなことはしないでくれ、わたしのために、心を洗うことをしてくれないか。
心を洗うことができたら、真理、情実のすがたをつかむことが出来よう。かの許由のように耳を洗って、名前が売れるだけでつまらないものだ。
晉の時代の謝安石が、ついに起ちあがって活躍した、その時は君とともに天下の人民を救うためやろうではないか。
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裴十八図南の嵩山に帰るを送る 其の二
君は穎水(えいすい)の綠なるを思い、忽ち復た 嵩岑に帰る
帰る時 耳を洗う莫れ、我が為に 其の心を洗え。
心を洗わば 真情を得ん、耳を洗わば 徒らに名を買うのみ。
謝公 終(つい)に一たび起ちて、相与に 蒼生を済わん。
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飮酒二十首 其二  陶淵明
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積善云有報、夷叔在西山。
善惡苟不應、何事立空言。
九十行帶索、飢寒况當年。
不賴固窮節、百世當誰傳。
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飮酒 其二
積善 報い有りと 云ふも,夷叔 西山に 在り。
善惡 苟にも 應ぜざらば,何事ぞ 空言を 立てし。
九十 行(ゆくゆ)く 索を 帶びし,飢寒 况(いは)んや 當年をや。
固窮の節に 賴らざれば,百世 當(まさ)に 誰をか 傳へん。
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積み重ねた善行には、(それに相応する)善い報いがあるといわれている(が)。(しかしながら正義を貫いた)伯夷と叔齊は、(節を保持しようとしたために、却って世から遁れざるを得ず、)首陽山に(隠棲して、餓死するはめになって)いる。

正義を貫いた伯夷と叔齊は、節を保持しようとしたために、却って首陽山に隠棲して、餓死するはめになったが、このような、かりそめにも善と悪とに相応した結果が伴わない場合には。(もしもかりそめにも、善と悪とに、相応したむくいがないのならば、)どうしてこのような「積善云有報」というような「空言」を言ってきたのか。

九十歳になんなんとした栄啓期は、縄を帯にして、楽器を打ち鳴らして歌を唱うという行為をした。
(栄啓期の老年期の)貧窮生活は、壮年時代よりも一層のものだ。
貧窮を固守する節操に依拠しないとすれば。仏教的な「積善云有報」ではなくて、清貧に甘んじる節操・儒教的な「固窮節」こそが、後世に伝うべきものであろう。
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