魯郡東石門送杜二甫 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白189



魯郡東石門送杜二甫  李白

 李白と杜甫は中国が生んだ最も偉大な詩人である。
 この二人は李白が11歳年長だったことを考慮に入れても、ほぼ同時代人であった。そこから李杜と並び称されるようにもなるが、これは単に同時代人としての併称であることを超えて、中国4000年の文学の真髄を表したものなのである。

 この二人が生きたのは8世紀の前半、盛唐と称される時代である。唐王朝が誕生して約100年、盤石であった律令体制にほころびが出始めた時期である。則天武后による逸脱、や王朝の権力闘争の陰で、柱であった均田制と府兵制、拡張しすぎた領土、王朝の維持に節度使制により、解決されるが、これが、国を大きく揺るがせる叛乱の大極元年(712)玄宗が皇位について、未曾有の繁栄を謳歌する。李白はよきにつけ悪しきに付けこの時代の雰囲気を体現して、1000首余りに上る膨大な詩を残した。

李杜の作風にはおのずから相違がある。その相違はまた中国文学の持つ二つの特質をある意味で表現したものだともいえる。杜甫の作風は堅実で繊細、しかも社会の動きにも敏感で、民衆の苦悩に同情するあまり時に社会批判的な傾向を帯びる。

それに対して李白の作風は豪放磊落という言葉に集約される。調子はリズミカルで内容は細事に拘泥せず、天真爛漫な気持ちを歌ったものが多い。社会の動きに時に目を配ることはあっても、人民の苦悩に同情するところはほとんどない。こんなこともあって、現代中国では杜甫に比較して評価が低くなってもいるが、その作風が中国文学の大きな流れのひとつを体現していることは間違いない。

李白の出自については長らく、四川省出身の漢民族だという説が有力であった。しかし前世紀の半ば以降緻密な研究が重ねられた結果、李白の一族は四川省土着のものではないということが明らかになった。彼の父とその祖先は西域を根拠としてシルクロードの貿易に従事する人たちだったらしい。その一家が李白の生まれた頃に蜀(四川省)にやってきた。そして李白が5歳の頃に、現在の四川省江油市あたりに定住した。もしかしたら、李白は漢民族ではなく、西域の血を引いていた可能性がある。


 唐の時代には、偉大な文学者はほとんどすべて官僚であった。官僚にならずに終わった人も、生涯のある時期、官僚を目指して進士の試験を受けるのが当たり前であった。ところが李白には自らこの試験を受けようとした形跡がない。彼は生涯を無衣の人として過ごすのであり、放浪に明け暮れた人生を送った。また人生の節々で色々な人と出会い、宮殿の端に列するようなこともあったが、その折の李白は文人としては敬意を評されても、一人の人間として高い尊敬を受けたとは思えない。これらのことが彼の出自と関係していることは大いに考えられる。

  遣懐(昔我遊宋中) 杜甫15大暦3年76857歳夔州

贈李白 杜甫16(李白と旅する)天宝3載74433
贈李白 杜甫17 (李白と旅する) 33

  昔遊 杜甫19(李白と旅する)大暦3年76857歳夔州
與李十二白同尋范十隱居 天宝4載74534

冬日億李白
春日憶李白 天宝5載 746 35

送孔巢父謝病歸游江東,兼呈李白35

飲中八仙歌 杜甫28   35  

10/15現在杜甫755年頃ブログ進行中 この後六首 掲載予定
秦州**********************乾元2年759年48歳
⑧五言古詩夢李白二首其の一  
⑨五言古詩夢李白二首其の二
⑩五言律詩天末懷李白
⑪五言古詩寄李十二白二十韻
成都・浣花渓**************上元2年761年50歳
⑫五言古詩 不見  
菱州**********************大暦3年768年57歳
⑬五言古詩 昔游 
⑭五言古詩 遣懷
⑮五言古詩 壯游
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李白と杜甫の別れ
 李白と杜甫の交友が始まって、何日も何日も二人は酒を酌み交わす日々が続いたが、二人の生活は一年足らずで終わることとなる。ある時、杜甫が仕官のため魯郡を離れて都に出たいと打ち明け時、李白はその無念さを酒で紛らわした詩「石門にて杜二甫を送る」がある。
これより李白と杜甫との交誼は親密度を加え、しばしば詩文を論じあうことがあった。また、二人して当時の文学の大先輩であり、もはや七十歳に近い李邕を済南に訪ねている。李邕はこのとき、北海の太守であった。李邕は『文選』に注した李善の子であって、父の注の補いもしている文選学者でもある。杜甫が後年、李邕の知遇を得たのは、このときの縁であり、杜甫が『文選』を学ぶようになったのも、この李邕のおかげである。

上李邕 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白188

746年天宝5載35歳

その年の夏、李邕が済州(済南)にやって来たので、杜甫は李邕に従い、済州の駅亭にある歴下亭や、済州城の北方にある鵲山亭での宴遊に加わって、当代の文壇のあれこれについて談じた。話は祖父審言にも及び、李邕は審言の詩の美しきを賛えた。杜甫は祖父の存在を、どんなに誇りに思ったことであろう。
 秋になって、杜甫は兗州に李白を訪ねた。李白は兗州に程近い任城(済寧)に家を構えており、二人の子供をそこに置いていた。杜甫は、すでに高天師のところから帰っていた李白と、東方にある蒙山に登って、董錬師、元逸人という道士を訪ねたり、城北に范十隠居を訪問したりしている。

杜甫③「李十二と同に花十隠居を尋ぬ」詩を見ると、李白の詩の佳句は、六朝梁の詩人、陰鐘に似ていると評している。陰鐙は、自然の美しきを歌うことが多いから、その点が似ているといっているのかもしれない。また、二人は兄弟のごとき親しさをもち、「酔うて眠るに秋には被を共にき、手を携えて日ごとに行を同にす」と歌っている。
與李十二白同尋范十隱居 杜甫
李侯有佳句,往往似陰鏗
余亦東蒙客,憐君如弟兄。
醉眠秋共被,攜手日同行。
更想幽期處,還尋北郭生。
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李白と杜甫は、このあとまもなく山東の曲阜近くの石門の地で別れることになる。杜甫は官職を求め希望を抱いて長安の都に行くためであり、李白も新しい遍歴の旅に上ることになったからである。石門の地で手を別って以来、終生再び遇うことはなかった。李白は杜甫に対して送別の詩「魯郡の東 石門にて、杜二甫を送る」を作っている。



魯郡東石門送杜二甫
酔別復幾日、登臨徧池臺。
別れを惜しんで酒に酔うことを、もう幾日くりかえしたことであろう。高い所に登って見晴らすために、池や展望台は、ことごとく廻り歩いた。
何言石門路、重有金樽開。
ああ、いつの日に、石門の路でふたたび、黄金の酒樽を開けることか。
秋波落泗水、海色明徂徠。
秋のさざ波は満水の泗水の川面に落ち、東海のはてまで澄みきった秋の色に、徂徠山は明るい。
飛蓬各自遠、且尽林中盃。

風に飛ぶ蓬根無し草のように、遠くはなればなれになってしまうぼくたち、今はともかく、手の中にある杯を飲みほそう!

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魯郡東石門送杜二甫 訳註と解説

(本文)
魯郡東石門送杜二甫
酔別復幾日、登臨徧池臺。
何言石門路、重有金樽開。
秋波落泗水、海色明徂徠。
飛蓬各自遠、且尽林中盃。

(下し文) 魯郡の東 石門にて杜二甫を送る

(現代語訳)

酔別(すいべつ)()た幾日(いくにち)ぞ、登臨(とうりん)池台(ちだい)(あまね)し。

何ぞ言わん石門(せきもん)の路(みち)、重ねて金樽(きんそん)の開く有らんと。

秋波(しゅうは)泗水(しすい)に落ち、海色(かいしょく) 徂徠(そらい)に明かなり。

飛蓬(ひほう)各自(かくじ)遠し、且(しばら)く林中(りんちゅう)の盃(はい)を尽くさん。

別れを惜しんで酒に酔うことを、もう幾日くりかえしたことであろう。高い所に登って見晴らすために、池や展望台は、ことごとく廻り歩いた。
ああ、いつの日に、石門の路でふたたび、黄金の酒樽を開けることか。
秋のさざ波は満水の泗水の川面に落ち、東海のはてまで澄みきった秋の色に、徂徠山は明るい。
風に飛ぶ蓬根無し草のように、遠くはなればなれになってしまうぼくたち、今はともかく、手の中にある杯を飲みほそう!


魯郡東石門送杜二甫
○魯郡 いまの山東省兗州市。○石門 いまの山東省曲阜県の東北、泗水の岸にあった。○杜二甫 まん中の二は、杜甫が一族の中で上から二番目の男子であることを示す。



酔別復幾日、登臨徧池臺。
別れを惜しんで酒に酔うことを、もう幾日くりかえしたことであろう。高い所に登って見晴らすために、池や展望台は、ことごとく廻り歩いた。
酔別 別れの酒に酔う。○登臨 登山臨水。



何言石門路、重有金樽開
ああ、いつの日に、石門の路でふたたび、黄金の酒樽を開けることか。
何言 「言」が日であったり、時であるばあいもある。 ○金樽 口の広い酒器、盃より大きい。



秋波落泗水、海色明徂徠。
秋のさざ波は満水の泗水の川面に落ち、東海のはてまで澄みきった秋の色に、徂徠山は明るい。
洒水 山東省を流れる川。大運河に流れ込む。黄河の支流。兗州を流れる。○徂徠 山東省奉安県の東南にある山。北に見る泰山に対する山として有名。



飛蓬各自遠、且尽林中盃。
風に飛ぶ蓬根無し草のように、遠くはなればなれになってしまうぼくたち、今はともかく、手の中にある杯を飲みほそう!
飛蓬 風に飛ぶ蓬根無し草。寒山、李賀にみえる。杜甫は「飄蓬」をよくつかう。根はないが、芯はしっかりした場合に使う。ただの風来坊には使わない。


(解説)
冒頭「酔別幾日ぞ」とは、よほど名残り惜しかったことだろう。続いて と詠んでいる。山東省滋陽県の辺りを「魯郡」という。李白は、ここの滋陽県の辺に家族を置いていた。東魯とか兗州と呼んでいたところである。た。当時、李白はこの二つを往来し、「石門」は曲阜の近くにある山である。
それとは別に、汁州の梁園(開封)に再婚の妻を置いていまた、ここを中心に各地方を遍歴していたと推定される。この詩、李白の家族の住む近くで遊んで別れることになった。作られた年代は、黄氏は、天宝三年八七四四)、四十四歳のとき、唐氏は、それよりのちの四十六歳とするが、洛陽で杜甫と会って、それからのことであるから、唐氏の説が当たっているかもしれない。
「いっしょに飲んで別れて幾日たったであろうか。きみとあらゆる名所の池や台に遊びまわった。この石門の地で別れたらもう再び飲んで遊びまわることはないかもしれない」。
「秋のけはいの中に酒水が低く流れている」。「泗水」は石門山付近を流れる。「遠くの海水の色が輝き、近くの徂徠山が明るく見えている」。「徂徠」山は、曲卓の近くにある。東の海ははるかで遠いが、秋波と対句にするためにあえていったもの。「秋波」 は秋の薄雲がなびくさまをいうか。