題江夏修静寺 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白197


 李邕は盛唐の詩人としても注目すべき一人であるが、杜甫や李白と交際のあった点が特に注意を要する。彼は揚州の人であり、高宗の顕慶中に仕官してより硬骨の名を悉(ほしいま)まにし、そのため度々左遷され、多く地方官に任じた。義を重んじ、士を愛したため、その入京するや、士人は街路に聚って眺め、すずなりになったといふ。開元の終りに北海(山東省益都)の太守となったが、この時杜甫を招いてこれと詩を語ったことは、杜甫の「八哀詩」その他に見えている。

  陪李北海宴歴下亭  杜甫 20 
   同李太守登歷下古城員外新亭 杜甫 21
 「贈秘書監江夏の李公邕」八哀詩(5)四十二韻


 ここに至って文人を嫌う李林甫の憎しみを受け、受賄の罪に問はれて殺されたのである。朝廷側の記録では、彼はもともと細行を顧みいたちで至る所で賄賂を受け、遊猟をこととし、またその詩文によって得た金も数万に上ったとされている。杜甫の詩、特に八哀詩(5)四十二韻から見ると儒学者であったことから、李林甫への協力を完全に拒否したことにより、逆鱗に触れ、追い詰められたが、全くその姿勢を変えなかった、ということであろう。
李林甫や歴代の宰相に憎まれたのは主として、その士人に於ける人望に対する嫉妬であった (「旧唐書」190中「唐書」202)。李白もこの李邕と関係があり、既に 紀頌之の漢詩 李白188に「李邕ニ上ル」の詩があり、また「江夏ノ修静寺ニ題ス」といふ詩は後に江夏(武昌)の李邕の旧居に至っての作である。

題江夏修静寺(此寺是李北海旧宅)
我家北海宅 作寺南江濱
私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
空庭無玉樹 高殿坐幽人
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
書帯留青草 琴堂冪素塵
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
平生種桃李 寂滅不成春

当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。


我が家の北海の宅、寺となる南江の浜(ほとり)。
室庭 玉樹なく、高殿 幽人を坐せしむ。
書帯 青草を留め 、琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生(へいぜい) 桃李を種えしが、寂滅して春をなさず。
 



題江夏修静寺(此寺是李北海旧宅) 訳註と解説

(本文)
我家北海宅 作寺南江濱
空庭無玉樹 高殿坐幽人
書帯留青草 琴堂冪素塵
平生種桃李 寂滅不成春

(下し文)
我が家の北海の宅、寺となる南江の浜(ほとり)。
室庭 玉樹なく、高殿 幽人を坐せしむ。
書帯 青草を留め 、琴堂 素塵に冪(おほ)はる。
平生(へいぜい) 桃李を種えしが、寂滅して春をなさず。 


私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。




(語訳と注)


我家北海宅 作寺南江濱
私が師と仰いだ李北海の旧宅がある、今、修静寺となっており、南に大河に面しており川洲のほとりにある。
我家 私が師と仰いだ李北海。



空庭無玉樹 高殿坐幽人
庭園は空地にされ、立派な植木もなくなっている、座敷だったところで、隠遁者、修行者が座っている。
高殿 母屋の座敷。○幽人 世を避けている人。隠遁者、修行者。



書帯留青草 琴堂冪素塵
日陰草が青々と生えている、琴を楽しんだ座敷は埃に覆われている。
書帯 草の名。書帯草【山野草】ショタイソウ日陰で葉を長く伸ばして垂れ下がらせる.○青草 役人。官吏が着る上着。青々としたさま。 ○琴堂 琴を楽しんだ座敷。 ○(おお)はる。おおう、かぶせる(べき)



平生種桃李 寂滅不成春
当時は、桃の木やナシの木が植えられ花が咲き誇ったように弟子たちも集まっていたものだが、寂寂としてすべて消え去って今は春なのに春の様相が全くないほど、弟子も出世したものがないのである。
平生 当時。通常。最盛期。 ○桃李 どちらも希望を持つ花とし、書生、弟子、ういういしい芸妓などを指す。○寂滅 寂しくて何もないさま。弟子たちを沢山とりたてたが誰ひとり出世したものはないこと。


 李邕とその関係者は李林甫により徹底的に排除、粛清されたのだ
 朝廷は天宝年代になると、李林甫が牛耳った。やがて彼が752天宝十一載に死するや、楊貴妃の族兄揚国忠がこれに代って益々私党を樹て政権を壟断(ろうだん)したのである。この二人の共通点はがいづれも無学で猜疑心の強い、小人であったことだ。


 賞は論功のないものに与へられ、官には無能者が任ぜられた。746天宝五載、李林甫、陳希烈の二宰相傍に置いたのである。李林甫の無学で、猜疑心の小人なることは前述の如くであるが、陳希烈も安禄山の軍が長安に入城すると同時に降参し、宰相に任ぜられた無節操の徒であった。また玄宗は、また七載には宦官の高力士に驃騎大将軍の官を与へ、九載には安禄山を東平郡王に封じている。いづれも未曾有の待遇であるが、中でも蛮族の出身であり、戦功もない武将を皇族待遇としたことなど前代未聞のことであり、勢力の均衡を意図したものであったが逆に王朝の権威を失墜させることになってしまう。

 もう一つの重要な点は、長安に人口が集中し、食物の需給のバランスが取れなくなり、江南地方の穀物を運河によって供給されることに頼り切ったことである。つまり、運河を断たれたら長安は兵糧攻めに弱い都になってしまっていたのだ。現在の日本の食料自給率が40%程度だといわれているが、ある日突然、外国から食料が輸入できなくなったらどうするか、ということであり、安禄山が反乱を起こす前の数年間、食料倉庫の火災、日照り続き、755年は秋に60日間降り続いた長雨のため、穀物単価が数十倍になった。そこで、備蓄穀物を配給制で供給して、王朝の穀物倉庫に在庫がなくなっていた。


 ここで取り上げた詩は李邕の李林甫による弾圧のため死に追いやられ、弟子たちも粛清されたことを詠ったものであるが、詩の背景には、これらのことがあったのだ。