贈王判官時余歸隱居廬山屏風疊 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -229
「王判官に贈る 時に余帰隠し廬山屏風畳に居る」李白


756年至徳元年、廬山の屏風畳にいた頃の作。王判官はわかっていないが、別離後、久しく会っていない彼に、これまでの自己の足跡を語り今の心境を寄せたものである。


贈王判官時余歸隱居廬山屏風畳
昔別黃鶴樓、蹉跎淮海秋。
昔、君と別れの酒を酌み交わしたのは黄鶴楼だった、なかなか別れがたく、ぐずぐず過ごした淮海の秋がとても懐かしい。
俱飄零落葉、各散洞庭流。』
お互いに放浪の身で、枯葉のように疲れ切っていた、 だけど 各々分散する洞庭の流のようにわかれたのだ。』
中年不相見、蹭蹬游吳越。
暫くの間、お互い音信不通であったのだ、これといった目標がないままに江南地方で遊んだ。
何處我思君、天台綠蘿月。』
それでもどこにいても私は君のことを考えていた、緑の蔦のおい茂る天台山に登って月影をあおぎながら。』
會稽風月好、卻繞剡溪回。
会稽地方はさわやかな風、すばらしい月が印象的なところだ。 中でも剡溪の辺りは。気に入ったので何回も廻りまわった。
云山海上出、人物鏡中來。
海上に湧き上がってくる雲の山はひとのかたちを出してきた、時には水面が鏡のようになり雲の人物を写してこちらに来るようでもあった
一度浙江北、十年醉楚台。
ひとたび この銭塘江わたって浙江の北に旅した。 十年たった今、楚の国の中心だったところにいて、こうして酒に酔っている。
荊門倒屈宋、梁苑傾鄒枚。』
荊州では屈原、宋玉に傾倒した、江蘇地方では梁の国の食客であった鄒陽、枚乗、司馬相如らに傾倒して学んだのだ。
苦笑我夸誕、知音安在哉。』
苦しいことも笑えることもわたしは大げさに言い立てたりしたのだ。 よく心の中を知りあっている人はどこにいるのだろうか。』
大盜割鴻溝、如風掃秋葉。
いまや大盜賊化して略奪の限りを尽くす安禄山の叛乱軍は項羽と劉邦が対峙したように潼関でにらみ合っている。天下に吹く風というものは 落ち葉を掃き清めてくれるものである。
吾非濟代人、且隱屏風疊。』
わたしは経済人ではないし、大衆迎合などできないのだ、 且くはここ屏風疊に隱れているのだ。』
中夜天中望、憶君思見君。
昼も夜も大空を仰ぎ見ている、それは君のことを憶い 君と会えること思って見上げるのだ。
明朝拂衣去、永與海鷗群。』

しかし、明朝になったら、ここの衣を拂って去ることにしよう、これからずっと永く 海鷗とでも遊ぼうと思うのだ。』

「王判官に贈る 時に余帰隠し廬山屏風畳に居る」
むかし黄鶴楼に別れ、蹉跎(さた)たり 淮海(わいかい)の 秋。
ともに零落の葉を飄(ひ るがへ)し、おのおの洞庭の流に散ず。』
中年あい見(まみ)えず、蹭蹬(そうとう) 呉越に遊ぶ。
何の処かわれ君を思う、天台 緑蘿(りょくら)の月。』
会稽 風月好し、かえって剡溪(えんけい)を繞(めぐ)って廻(かへ)る。
雲山 海上に出で、人物 鏡中に来る。
ひとたび 浙江を度(わたり)て 北し、十年 楚台に酔う。
荊門に屈宋を倒し、梁苑には鄒枚を傾く。』
苦笑す わが誇誕(こたん)、知音(ちいん) いづこ にありや。
大盗 鴻溝を割(さ)く、風の秋葉を掃うがごとし。
われは代を済(すくう)の人にはあらず、しばらく屏風畳に隠れる。』

中夜 天中を望み、君を憶うて 君を見んことを思う。
明朝 衣を払って去り、永く海鴎と群せん。』


nat0019


贈王判官時余歸隱居廬山屏風畳 現代語訳と訳註
(本文)
昔別黃鶴樓、蹉跎淮海秋。
俱飄零落葉、各散洞庭流。』
中年不相見、蹭蹬游吳越。
何處我思君、天台綠蘿月。』
會稽風月好、卻繞剡溪回。
云山海上出、人物鏡中來。
一度浙江北、十年醉楚台。
荊門倒屈宋、梁苑傾鄒枚。』
苦笑我夸誕、知音安在哉。』
大盜割鴻溝、如風掃秋葉。
吾非濟代人、且隱屏風疊。』
中夜天中望、憶君思見君。
明朝拂衣去、永與海鷗群。』


(下し文)

むかし黄鶴楼に別れ、蹉跎(さた)たり 淮海(わいかい)の 秋。
ともに零落の葉を飄(ひ るがへ)し、おのおの洞庭の流に散ず。』
中年あい見(まみ)えず、蹭蹬(そうとう) 呉越に遊ぶ。
何の処かわれ君を思う、天台 緑蘿(りょくら)の月。』
会稽 風月好し、かえって剡溪(えんけい)を繞(めぐ)って廻(かへ)る。
雲山 海上に出で、人物 鏡中に来る。
ひとたび 浙江を度(わたり)て 北し、十年 楚台に酔う。
荊門に屈宋を倒し、梁苑には鄒枚を傾く。』
苦笑す わが誇誕(こたん)、知音(ちいん) いづこ にありや。
大盗 鴻溝を割(さ)く、風の秋葉を掃うがごとし。
われは代を済(すくう)の人にはあらず、しばらく屏風畳に隠れる。』
中夜 天中を望み、君を憶うて 君を見んことを思う。
明朝 衣を払って去り、永く海鴎と群せん。』


(現代語訳)

昔、君と別れの酒を酌み交わしたのは黄鶴楼だった、なかなか別れがたく、ぐずぐず過ごした淮海の秋がとても懐かしい。
お互いに放浪の身で、枯葉のように疲れ切っていた、 だけど 各々分散する洞庭の流のようにわかれたのだ。』
暫くの間、お互い音信不通であったのだ、これといった目標がないままに江南地方で遊んだ。
それでもどこにいても私は君のことを考えていた、緑の蔦のおい茂る天台山に登って月影をあおぎながら。』
会稽地方はさわやかな風、すばらしい月が印象的なところだ。 中でも剡溪の辺りは。気に入ったので何回も廻りまわった。
海上に湧き上がってくる雲の山はひとのかたちを出してきた、時には水面が鏡のようになり雲の人物を写してこちらに来るようでもあった
一度この銭塘江わたって浙江の北に旅した。 十年たった今、楚の国の中心だったところにいて、こうして酒に酔っている。
荊州では屈原、宋玉に傾倒した、江蘇地方では梁の国の食客であった鄒陽、枚乗、司馬相如らに傾倒して学んだのだ。
苦しいことも笑えることもわたしは大げさに言い立てたりしたのだ。 よく心の中を知りあっている人はどこにいるのだろうか。』
いまや大盜賊化して略奪の限りを尽くす安禄山の叛乱軍は項羽と劉邦が対峙したように潼関でにらみ合っている。天下に吹く風というものは 落ち葉を掃き清めてくれるものである。
わたしは経済人ではないし、大衆迎合などできないのだ、 且くはここ屏風疊に隱れているのだ。』
昼も夜も大空を仰ぎ見ている、それは君のことを憶い 君と会えること思って見上げるのだ。
しかし、明朝になったら、ここの衣を拂って去ることにしよう、これからずっと永く 海鷗とでも遊ぼうと思うのだ。』


(訳注)
昔別黃鶴樓、蹉跎淮海秋。

昔、君と別れの酒を酌み交わしたのは黄鶴楼だった、なかなか別れがたく、ぐずぐず過ごした淮海の秋がとても懐かしい。
黄鶴楼 江夏(現在の湖北省武漢市武昌地区)の黄鶴(鵠)磯に在った楼の名。(現在は蛇山の山上に再建)。仙人と黄色い鶴に関する伝説で名高い。黄鶴伝説 『列異伝れついでん』 に出る故事。 子安にたすけられた鶴 (黄鵠) が、子安の死後、三年間その墓の上でかれを思って鳴きつづけ、鶴は死んだが子安は蘇って千年の寿命を保ったという。 ここでは、鶴が命の恩人である子安を思う心の強さを住持に喩えたもの。○広陵 揚州(江蘇省揚州市)の古名。○蹉跎 つまずいて時機を失すること。 [形動タリ]時機を逸しているさま。不遇であるさま。○淮海  上海の中心的な繁華街の一つ。(4)


俱飄零落葉、各散洞庭流。』
お互いに放浪の身で、枯葉のように疲れ切っていた、 だけど 各々分散する洞庭の流のようにわかれたのだ。』 ○飄 放浪の身.○零落  枯葉


中年不相見、蹭蹬游吳越。
暫くの間、お互い音信不通であったのだ、これといった目標がないままに江南地方で遊んだ。
蹭蹬 不遇で志を得ないさま


何處我思君、天台綠蘿月。』
それでもどこにいても私は君のことを考えていた、緑の蔦のおい茂る天台山に登って月影をあおぎながら。』


會稽風月好、卻繞剡溪回。
会稽地方はさわやかな風、すばらしい月が印象的なところだ。 中でも剡溪の辺りは。気に入ったので何回も廻りまわった。


云山海上出、人物鏡中來。
海上に湧き上がってくる雲の山はひとのかたちを出してきた、時には水面が鏡のようになり雲の人物を写してこちらに来るようでもあった。


一度浙江北、十年醉楚台。
一度この銭塘江わたって浙江の北に旅した。 十年たった今、楚の国の中心だったところにいて、こうして酒に酔っている。
一度 剡渓にいたので銭塘江を渡るという意味。○楚台 その国の諸台、政治、軍事の中心であったところ。


荊門倒屈宋、梁苑傾鄒枚。』
荊州では屈原、宋玉に傾倒した、江蘇地方では梁の国の食客であった鄒陽、枚乗、司馬相如らに傾倒して学んだのだ。
荊門 荊州。秋下荊門 李白 4     渡荊門送別 李白 5屈宋 荊州 生れの屈原(1)・宋玉(2)などの詩人。○梁苑傾鄒枚 梁の孝王の食客だった鄒陽、枚乗(3)で司馬相如らと共にした。枚乗ばい じょう前漢淮陰の人で賦や文章を得意とした遊説の徒。


苦笑我夸誕、知音安在哉。』
苦しいことも笑えることもわたしは大げさに言い立てたりしたのだ。 よく心の中を知りあっている人はどこにいるのだろうか。』
誇誕 大げさに言い立てること。見栄を張って、ぎょうさんそうに誇ること。○知音 よく心の中を知りあっている人。親友。


大盜割鴻溝、如風掃秋葉。
いまや大盜賊化して略奪の限りを尽くす安禄山の叛乱軍は項羽と劉邦が対峙したように潼関でにらみ合っている。天下に吹く風というものは 落ち葉を掃き清めてくれるものである。


吾非濟代人、且隱屏風疊。』
わたしは経済人ではないし、大衆迎合などできないのだ、 且くはここ屏風疊に隱れているのだ。』
濟代人 経済人。大衆迎合のひと。そろばん勘定で動く人。


中夜天中望、憶君思見君。
昼も夜も大空を仰ぎ見ている、それは君のことを憶い 君と会えること思って見上げるのだ。


明朝拂衣去、永與海鷗群。』
しかし、明朝になったら、ここの衣を拂って去ることにしよう、これからずっと永く 海鷗とでも遊ぼうと思うのだ。』
海鷗群 世の中の人。庶民。・海鷗は遊女ということも考えられる。


参考------------------------------------
(1)屈原(くつげん) [前340ころ~前278ころ] 中国、戦国時代の楚(そ)の政治家・詩人。名は平。原は字(あざな)。楚の王族に生まれ、懐王に仕え内政・外交に活躍したが、汨羅(べきら)に身を投じたという。

(2)宋玉(そうぎょく) ? 中国、戦国時代、楚(そ)の文人。楚王に仕え、のち落魄の生涯を送ったといわれるが、生没年・伝記ともに未詳。屈原の弟子とされる。

(3)枚 乗(ばい じょう、生没年不詳)は、前漢の人。字は叔。淮陰の人。賦や文章を得意とした遊説の徒。
呉王劉濞の郎中となっていたが、呉王が漢に対し恨みを持ち反逆しようとすると、枚乗は上書してそれを諌めた。しかしながら呉王はそれを取り上げなかったので、枚乗は呉を去って梁へ行き、梁王劉武の元に就いた。
景帝前3年(紀元前154年)に呉王はついに他の六国と共に反乱を起こし(呉楚七国の乱)、晁錯の誅殺を反乱の名目に掲げた。漢はそれを知ると晁錯を殺して諸侯に謝罪した。枚乗は再び呉王に対し書を奉り、速やかに兵を帰還させることを説いたが呉王は用いず、反乱は失敗に終わり呉王は滅びた。
役人となることを喜ばず、病気と称して官を辞して再度梁の賓客となった。梁の賓客の中でも彼が最も賦に長じていた。

(4)淮海 上海の中心的な繁華街の一つ。
広義の淮海路は人民路から西蔵南路までの淮海東路、西蔵南路から崋山路までの淮海中路、崋山路から虹橋路までの淮海西路の三つを含む。淮海東路は373メートル、淮海西路は1506メートルである。終端は越境路まで続いている。淮海西路と淮海東路は淮海中路に繋がっているが一本道とは言えず、中路と東西路は趣が異なる。



毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi
kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首

800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首