古朗月行 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集 265/350
#1
小時不識月、呼作白玉盤。
又疑瑤台鏡、飛在青云端。
仙人垂兩足、桂樹何團團。
白兔搗藥成、問言與誰餐。
#2
蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。
だが、月の中にはヒキガエルがすんでいて、月のまるい影を食べている。月明かりが大きく照らさている夜があり、欠けてしまって夜の明りがのこる。
羿昔落九烏、天人清且安。
大むかし十個の太陽があっって、日が定まらず困っていたので、弓の名手の羿が、九羽のカラスを射落すことによって、天は清らかに、人びとは安らかになった。
陰精此淪惑、去去不足觀。
天道には、陰と陽があり、陰の象徴である月の梧桐から追い出され后妃を殺し、沈みきって蜀まで迷い逃げた。叛乱軍は衰えるところなく時は、しだいに都を見るかげもないものにして行った。
憂來其如何、淒愴摧心肝。
この先行きに対し、憂いのおこるのをどうしたらよいのであろう。この国のことを考えるにつけ、いたみかなしみがとめどなく、わたしの心をこなごなにする。
#1
小時(しょうじ)月を識(し)らず、呼んで白玉(はくぎよく)の盤(はち)と作(な)す。
又た疑ふ瑤台(ようだい)の鏡、飛んで碧雲(へきうん)の端に在るかと。
又た疑う 瑶台の鏡、飛んで青雲の端に在るかと。
仙人 両足を垂る、桂樹 何ぞ団団たる。
白兔 薬を搗いて成る、問うて言う 誰に与えて餐(さん)せしむるかと。
#2
蟾蜍(せんじょ)は 円影を蝕し、大明 夜已に残く。
羿(げい)は昔 九鳥を落とし、天人 清く且つ安し。
陰精(いんせい) 此に淪惑(りんわく)、去去 観るに足らず。
憂 來りて 其れ如何、悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く。
#2 現代語訳と訳註
(本文) #2
蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。
羿昔落九烏、天人清且安。
陰精此淪惑、去去不足觀。
憂來其如何、淒愴摧心肝。
(下し文) #2
蟾蜍(せんじょ)は 円影を蝕し、大明 夜已に残く。
羿(げい)は昔 九鳥を落とし、天人 清く且つ安し。
陰精(いんせい) 此に淪惑(りんわく)、去去 観るに足らず。
憂 來りて 其れ如何、悽愴(せいそう) 心肝を摧(くだ)く。
(現代語訳)
だが、月の中にはヒキガエルがすんでいて、月のまるい影を食べている。月明かりが大きく照らさている夜があり、欠けてしまって夜の明りがのこる。
大むかし十個の太陽があっって、日が定まらず困っていたので、弓の名手の羿が、九羽のカラスを射落すことによって、天は清らかに、人びとは安らかになった。
天道には、陰と陽があり、陰の象徴である月の梧桐から追い出され后妃を殺し、沈みきって蜀まで迷い逃げた。叛乱軍は衰えるところなく時は、しだいに都を見るかげもないものにして行った。
この先行きに対し、憂いのおこるのをどうしたらよいのであろう。この国のことを考えるにつけ、いたみかなしみがとめどなく、わたしの心をこなごなにする。
(訳注)
蟾蜍蝕圓影、大明夜已殘。
だが、月の中にはヒキガエルがすんでいて、月のまるい影を食べている。月明かりが大きく照らさている夜があり、欠けてしまって夜の明りがのこる。
○蟾蜍 月の中にすむヒキガエル。これに食われて月が欠けるという。○大明 月のこと。○残 不完全になる。月かける夜が残る。
羿昔落九烏、天人清且安。
大むかし十個の太陽があっって、日が定まらず困っていたので、弓の名手の羿が、九羽のカラスを射落すことによって、天は清らかに、人びとは安らかになった。
○羿昔落九烏 「准南子」に見える話。大むかし、堯帝の時代に、天上に十個の太陽が出現して、地上の草木がみな焼けて枯れてしまった。堯帝は弓の名手の羿に命じて、穹を放ち太陽を退治させ、九つの太陽を射落した。太陽の中には一羽ずつの烏がすんでいたが、九羽の鳥がみな射られて死んだ。残ったのが三本足の八咫烏である。
陰精此淪惑、去去不足觀。
天道には、陰と陽があり、陰の象徴である月の梧桐から追い出され后妃を殺し、沈みきって蜀まで迷い逃げた。叛乱軍は衰えるところなく時は、しだいに都を見るかげもないものにして行った。
○陰精 漢の張衡の「霊憲」に「月は陰精の宗」とある。ここでは、陰精はすなわち月。ここでの月は玄宗皇帝を示す。月の梧桐を追い出された鳳凰夫婦のことを言う。○淪惑 しすみ、まどう。○去去 やすむことなく進行するさま。
憂來其如何、淒愴摧心肝。
この先行きに対し、憂いのおこるのをどうしたらよいのであろう。この国のことを考えるにつけ、いたみかなしみがとめどなく、わたしの心をこなごなにする。
○淒愴 いたみかなしむ。○心肝 こころ。くわしくいえば、心臓と肝臓。
解説 と このブログについて
太陽がかつて十個あったという神話は、殷王朝も共有していた(干支の「十干」や暦の「旬」に今も残る。この前後・相互関係は極めて複雑かつ微妙で、要するに不明である)。三本足のカラスは「八咫烏」(やたがらす)として有名である。
月のウサギは道教の神・西王母(せいおうぼ)の神話に属しているが、西方の仙界・崑崙山(こんろんさん)に棲むその西王母に従うものにウサギがいる。ウサギは、上下対称で中央部を持って搗(つ)く杵(きね)でもって、餅ではなく不死の薬草を練って作る。
以上の諸神話は習合し、定式化されたのは、数千年前であろう。それが時代に合わせて微調整され現代に至っているのである。現代も古代もそれほどのちがいはないのかもしれない。
太陽にはカラスが棲み(あるいは太陽の神使であり)、月(太陰)にはウサギが棲んで杵を搗くということになった。これを実証してくれたのが、楚とその先行文明を色濃く残した地・湖南省長沙市から出た、漢代の馬王堆(まおうたい)遺跡の帛画(はくが:絹衣に描かれた絵)である。そこには扶桑に宿る十個の太陽とカラス、それに三日月にウサギが描かれている。ところが、月にはより大きくヒキガエルが描かれ、しかもカラスは二本足であったのだ。
十日の父、天を懲(こ)らしめよとだけ命じたのに、羿はわが子を射殺してしまった。英雄羿とその妻・嫦娥(じょうが)は天界を追放される。それでも不老不死を願う二人は崑崙山に西王母を訪ね、ウサギが煎じた例の妙薬を二人分もらった。
ところが、嫦娥は勝手にその仙薬を一人で飲んでしまう。効果はてきめんで、たちまち仙界の月に嫦娥は昇る。しかしその報いかどうか、嫦娥の姿は月で蟾蜍(せんじょ:ヒキガエル)に変わってしまった。
月が天界で地上が俗界、また天界にいた神女が天の罰を受けて一度地上に墜ち、その後許されて月へ昇天するというのは、そう、ご存知「かぐや姫」の元型である。
月には桂の樹木がうっそうと茂っていた。梧桐の葉に棲むとされるつがいの鳳凰は玄宗皇帝と楊貴妃に喩えられて詩に登場する。宮殿は一般のものが見られないものであり、贅の限りを尽くしたものはこのようのものでないということで、神格化につなげたものである。身分社会における神格化と、叛乱のできないほとのギリギリの貧困で留めることは、王朝の維持存続に不可欠のものであったのだ。
これらの伝説は王朝の宮廷の神格化のために作られたものといって過言ではない。それが、道教の神仙思想、陰陽道、などと結びつき伝説だけが、一人歩きした。科学力のない時代において、超常現象と伝説は神格化に必要不可欠のものであった。
皇帝の死にたいし、新年号に改め、3年の喪に伏すことは数千年前から行われていることなのである。これを不思議なものとしないために、どの時代、どの王朝にも神話、伝説が必要であった。
詩人がこうした神話、伝説を使う場合、そのほとんどが王朝の批判に使っている。表立って言えないことを神話の部隊の不可思議なものとして詠ったのである。李白の古風五十九首を全体を通してみると間違いなく批判している。一つ一つでは見えないものがとおしてみると見えるのである。それは、李白だけではなく、杜甫、王維、白居易、韓愈、李商隠・・・・それぞれの方向性に違いはあっても、王朝批判をしている。
日本では、詩の一部分を切り取り、それをその時の都合に合わせて解釈して行くことがほとんどの詩の読み方であった。古詩の一部分を絶句のように、あるいは律詩のように一部分を切り取って都合よく紹介されているのはほとんどである。長詩を読まないとその詩人の性格がわからない。長詩にはその詩人の性格がすべて出ている。そしてそうした長詩の幾つかを重ね合わすといろんな人生が見えてくるのである。
身分社会であること、どこで讒言されるかわからない時代である。詩人はその網をすり抜けて現代に遺産として残してくれたのである。
このブログでは、できるだけその時の状況、政治体制などを考慮し、詩に書かれてあることの深い意味を紹介しようと思っている。そのため、一般的に本に書かれていることと違う解釈になっていること多いのである。これも、毎日少しずつ紹介しているので、論文の様な訳にはいかないが、李白350首特集はそれ全体で李白の研究論文ということかもしれない。
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