猛虎行 #2 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -277

「猛虎行」は李白が溧陽(江蘇省常州市の南に位置する西湖の西端から50km位西に行ったあたり)にいるとき作った詩である。
この地で草書の名人張旭(杜甫「飲中人仙歌」にも出る)と遇って、酒を飲んで歓を尽くし、別れに際して作ったもので、亡国の感慨を歌ったものである。
4回に分けて掲載。その2回目
宮島(5)

#1 吟、琴/道、倒、草、城、寧。

朝作猛虎行。 暮作猛虎吟。
腸斷非關隴頭水。 淚下不為雍門琴。』
旌旗繽紛兩河道。 戰鼓驚山欲傾倒。
秦人半作燕地囚。 胡馬翻銜洛陽草。
一輸一失關下兵。 朝降夕叛幽薊城。
巨鰲未斬海水動。 魚龍奔走安得寧。』

#2 時、止、市/貧、臣、人/此、士/鱗、人』

頗似楚漢時。 翻覆無定止。
趙の将軍廉頗が楚との戦いで活躍したときは今の唐の時代と似ている。趙楚の戦いも形勢は変わりやすかった、攻めたり攻められたり、体制は流動的で態勢がきまったわけではない。
朝過博浪沙。 暮入淮陰市。』
張良は朝に鉄槌を投げて暗殺未遂をした博浪沙をすぎた。夕方にはもう韓信が漂母に出会った淮陰の街に着いていた。
張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
張良は韓信が貧しかったうちには未だであっていない.劉邦と項羽は存亡をかけた両雄が鴻門の会を結べたのは張良と韓信の存在があったからだ。
暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。」
張良は暫くして下邳では黄石公に平方の戦略を習って倒すことができたのである。韓信は川で漂泊をしているおばあさんに御馳走になりこれを主人とすることで立派な人として抜擢されたのだ。
賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
張良という賢人と韓信という哲人でさえあくせくしていたのも昔のことであるがここにいる、私と張旭の二人があくせくするのも当たり前だろう。今、こんな時世であるから、もう若い時に描いていた、天下国家を動かそうなんていう青雲の志い詩を持った指導者なんていらないのだろう。
有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
策略はいくらでもあるだから無理をして粛宗の龍と永王の鱗をどちらかということ時期ではないはずなのだ。自分らは張良のように身を竄して、湖南や浙江の南國に叛乱軍を避け、情勢をよく見ることにしていよう。
寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』
( 玉一作長 )
今、叛乱軍によって、翰林院の大切な宝のような書物、受け継がれてきた輝く宝飾で飾られた剣、それらの価値のわからない奴ら間、高閣にただ置かれているだけで生かし切ることができないのだ。貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍つけて、優れて走り抜ける馬に乗っていた長安時代の友人、官僚の友人たちは今はもういないのだ。

#3 客。石。擲。/ 奇。知。隨。

昨日方為宣城客。制鈴交通二千石。
有時六博快壯心。 繞床三匝呼一擲。
楚人每道張旭奇。 心藏風云世莫知。
三吳邦伯皆顧盼。  四海雄俠兩追隨。 ( 皆一作多 )
蕭曹曾作沛中吏。攀龍附鳳當有時。』

#4 春、人、塵、賓、親。

溧陽酒樓三月春。楊花茫茫愁殺人。
胡雛綠眼吹玉笛。吳歌白紵飛梁塵。
丈夫相見且為樂。槌牛撾鼓會眾賓。
我從此去釣東海。得魚笑寄情相親。


猛虎の行 ( 此の詩、蕭士に贇に云う、是れ偽作。 )
#1
朝に 猛虎の行を作す、暮に 猛虎吟を作す。
腸斷す 關に非らずして 隴頭の水。 淚下 為さずして 雍門の琴。』
旌旗 繽紛として 兩の河道。 戰鼓 山を驚かして 傾倒せんと欲っす。
秦人 半ば作すと 燕地の囚となる。 胡馬 銜を翻して 洛陽の草。
一輸 一失 關下の兵。 朝降 夕べに叛し 幽薊の城。
巨鰲は未だ海水を動して斬らず。 魚龍は 奔走 安ぞ寧を得る。』

#2
頗 似て楚漢の時。 翻 覆て定むる止るることなし。
朝 博 浪沙を過ぎ。 暮 淮陰の市に入る。
張良 未だ 韓信の貧に遇わず。劉項 存亡すること兩に臣在る。
暫く 下邳にて 兵略 受けて到る。來りて 漂母 主人と作して投ざるる。
賢哲 棲棲 古きこと此の如し。今時 亦 青云の士棄る。
策 有り 敢て龍鱗を犯さず。身を竄して 南國に 胡塵を避ける。
寶書 玉劍 高閣に挂る。金鞍 駿馬 故人は散る。』

#3
昨日 方に宣城の客と為し。制鈴 交通 二千石。
有時 六博 快壯の心。 床を繞らし 三匝 一擲を呼ぶ。
楚人 每道 張旭は奇なり。 心藏 風云 世に知る莫れ。
三吳 邦伯 皆盼を顧る。  四海 雄俠 兩に追隨す。 ( 皆一作多 )
蕭曹 曾て沛中の吏と作す。龍を攀げて 鳳に當に時に有りて附く。』-#3
#4
溧陽の酒楼に三月の春、楊花は茫茫たり、人を愁殺せしむ。
胡の雛(こども )緑の眼にて玉笛を吹き、呉歌の白紵(はくちょ)は梁の塵を飛ばす。
丈夫相い見えば且く楽しみを為せ、牛を槌(う)ち鼓を撾きて衆賓を会す。
我は此より去って東海に釣りせん、魚を得ば笑って寄せて情相親しまん。

猛虎の行 #2 現代語訳と訳註
(本文)#2

頗似楚漢時。 翻覆無定止。
朝過博浪沙。 暮入淮陰市。
張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。
賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』

(下し文)
頗 似て楚漢の時。 翻覆して定むる止むることなし。

朝に博浪の沙を過ぎる。 暮に淮陰の市に入る。
張良 未だ韓信の貧しきに遇わず。劉項存亡在兩臣。
暫く 下邳にて 兵略 受けて到る。來りて 漂母 主人と作して投ざるる。
賢哲 棲棲として 古きこと此くの如し。今時 亦た青云の士 棄る。
策 有りて 敢て龍鱗を犯さず。竄身 南國に胡塵を避く。
寶書 玉劍 高閣に挂かる。金鞍 駿馬 故人に散す。』

(現代語訳)#2
趙の将軍廉頗が楚との戦いで活躍したときは今の唐の時代と似ている。趙楚の戦いも形勢は変わりやすかった、攻めたり攻められたり、体制は流動的で態勢がきまったわけではない。
張良は朝に鉄槌を投げて暗殺未遂をした博浪沙をすぎた。夕方にはもう韓信が漂母に出会った淮陰の街に着いていた。
張良は韓信が貧しかったうちには未だであっていない.劉邦と項羽は存亡をかけた両雄が鴻門の会を結べたのは張良と韓信の存在があったからだ。
張良は暫くして下邳では黄石公に平方の戦略を習って倒すことができたのである。韓信は川で漂泊をしているおばあさんに御馳走になりこれを主人とすることで立派な人として抜擢されたのだ。
張良という賢人と韓信という哲人でさえあくせくしていたのも昔のことであるがここにいる、私と張旭の二人があくせくするのも当たり前だろう。今、こんな時世であるから、もう若い時に描いていた、天下国家を動かそうなんていう青雲の志い詩を持った指導者なんていらないのだろう。
策略はいくらでもあるだから無理をして粛宗の龍と永王の鱗をどちらかということ時期ではないはずなのだ。自分らは張良のように身を竄して、湖南や浙江の南國に叛乱軍を避け、情勢をよく見ることにしていよう。
今、叛乱軍によって、翰林院の大切な宝のような書物、受け継がれてきた輝く宝飾で飾られた剣、それらの価値のわからない奴ら間、高閣にただ置かれているだけで生かし切ることができないのだ。貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍つけて、優れて走り抜ける馬に乗っていた長安時代の友人、官僚の友人たちは今はもういないのだ。


(訳注)#2
頗似楚漢時。 翻覆無定止。
趙の将軍廉頗が楚との戦いで活躍したときは今の唐の時代と似ている。趙楚の戦いも形勢は変わりやすかった、攻めたり攻められたり、体制は流動的で態勢がきまったわけではない。
廉頗(れんぱ、生没年不詳)は、中国戦国時代の趙の将軍。藺相如との関係が「刎頸の交わり」として有名。○翻覆 上に向けたり、下に向けること。変わりやすいこと。


朝過博浪沙。 暮入淮陰市。
張良は朝に鉄槌を投げて暗殺未遂をした博浪沙をすぎた。夕方にはもう韓信が漂母に出会った淮陰の街に着いていた。
博浪沙 いまの河南省原陽県(陽武)。開封の近くにある。李白『經下邳圯橋懷張子房』「椎秦博浪沙」
漢の高祖(鋸鰯の参謀として漢の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。
淮陰市 韓信が人生を変えた漂母と出会った街。


張良未遇韓信貧。劉項存亡在兩臣。
張良は韓信が貧しかったうちには未だであっていない.劉邦と項羽は存亡をかけた両雄が鴻門の会を結べたのは張良と韓信の存在があったからだ。
張良・韓信 張良・蕭何・韓信で漢の三傑。○劉項 秦軍を撃破した漢の劉邦、楚の項羽
鴻門の会 咸陽占領を巡る項羽と劉邦の咸陽城外での講和会議。懐王はかねて咸陽を陥落させた者を関中王とすると宣していたが、咸陽を開城させた劉邦は項羽の接近に対して関門を閉じ、一時は交戦となるところを張良・項伯の周旋で鴻門での和睦となった。会盟中、項羽の軍師の范増は劉邦暗殺を謀ったが、項伯・樊噲・張良の機転で果たせず、散会後に項羽を「豎子、ともに図るに足りず」と罵り、これが後の項羽と范増の不和の最初になったという。   

暫到下邳受兵略。來投漂母作主人。
張良は暫くして下邳では黄石公に平方の戦略を習って倒すことができたのである。韓信は川で漂泊をしているおばあさんに御馳走になりこれを主人とすることで立派な人として抜擢されたのだ。
○この聯は 注釈を参照。
經下邳圯橋懷張子房 李白-272

扶風豪士歌 安史の乱と李白(3215

淮陰書懷寄王宗成李白350-199

李白32 玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首 其二



賢哲棲棲古如此。今時亦棄青云士。
張良という賢人と韓信という哲人でさえあくせくしていたのも昔のことであるがここにいる、私と張旭の二人があくせくするのも当たり前だろう。今、こんな時世であるから、もう若い時に描いていた、天下国家を動かそうなんていう青雲の志い詩を持った指導者なんていらないのだろう。
○賢【賢哲】 (名・形動) [文]ナリ [1]賢人と哲人。[2]賢明で道理に通じていること。
棲棲 いそがしいさま。落ち着かないさま。あくせくする。○青云士
經亂後將避地剡中留贈崔宣城 李白-217-2

古風五十九首 其四十 李白198


有策不敢犯龍鱗。竄身南國避胡塵。
策略はいくらでもあるだから無理をして粛宗の龍と永王の鱗をどちらかということ時期ではないはずなのだ。自分らは張良のように身を竄して、湖南や浙江の南國に叛乱軍を避け、情勢をよく見ることにしていよう。
龍鱗 下句の胡塵が対句であるから、ここでは、唐王朝、天子を指す。李白は、玄宗から追放を受けた訳で、龍:玄宗と鱗:粛宗ともいえるが、のち、永王鄰の軍に参加することを考えると、兄弟仲があまり良くなかった:粛宗で、:永王璘というのが妥当であろうと思う。




寶書玉劍挂高閣。金鞍駿馬散故人。』
今、叛乱軍によって、翰林院の大切な宝のような書物、受け継がれてきた輝く宝飾で飾られた剣、それらの価値のわからない奴ら間、高閣にただ置かれているだけで生かし切ることができないのだ。貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍つけて、優れて走り抜ける馬に乗っていた長安時代の友人、官僚の友人たちは今はもういないのだ。
寶書 翰林院の大切な宝のような書物。○挂高閣 朝廷内の高閣に置いている。それを生かし切ることができないことをいう。金鞍 貴族以上の身分のものが付ける馬の鞍。 ○駿馬 優れて走り抜ける馬。 ○故人 長安時代の友人、官僚の友人をいう。




○張子房 張良のこと。子房はそのあざな。漢の高祖(鋸鰯の参謀として漠の帝国樹立に功績があり、斎何、韓信とともに、創業の表といわれている。のち、大名に封ぜられ、留侯と呼ばれた。張良の先祖は韓の人で、祖父も父も韓国の宰相をつとめた。秦が韓を滅ぼした時、張良はまだ少年であったが、家財を投げ出して晴箸を求め、秦の始皇帝を警うと決意した。

家柄からして、韓のために仇を報いざるを得なかったのである。かれは捨海君という異民族の夏に力の強い男を芸してもらい、大きな鉄のハンマーをつくり、案の始皇帝が博浪汐という所に行幸したのを狙撃させた。狙いは外れて予備の車にあたった。始皇帝は大いに怒った。天下に犯人をもとめ、捜索は非常にきびしかった。張良は変名して下警身をかくしていた。ある日のこと、張良がぶらぶら散歩して下邸の土橋にさしかかると、一人のじいさんがそまつな着物をきて張良のそばに寄ってきた。

いきなり、自分の靴を橋の下におとし、張良の顔をみて言った。「小僧、おりで靴を警て来い」張良はびっくりした。殴ってやろうかと思ったが、年よりだから、がまんして→りてゆき靴を拾った。じいさんは言った。「わしにはかせろ」張良は是や靴を拾った以上仕方がない。誓まずいて、はかせてやった。じいさんは足で受け、笑って立ち去った。張良があっけにとられて後姿を見送っていると、しばらくして引きかえしてきたじいさんが言った。

「小僧、警がいのある奴だ。音のち、明け方にわしと此所で会晋」張良は怪しみながらも「はい」と答えた。音たって夜明けに張良が行くと、じいさんは先に来ている。そして怒って言う。「老人と約束七で遅れるとは何事だー・」去りながら言った。「音のち、朝早く会おう」こんどは妄鶏がなくころ張良は行った。じいさんはやっぱ。先に来ていた。また怒って言う。「おくれるとは何事だー三富のち、もっと早く来い」張良、こんどこそはと、夜中にもならないうちに行った。しばらくするとじいさんがやってきて、はじめてニ…コした。「こうこなくちゃいかん」-警書を菅出して言った。「これを読めば、王者の師となれる。十年のち、出掌る。

十三年のち、小僧はわしを済北の穀城山のふきに見つけるであろう、黄石がつま。わしなんだ」言い至ると、さっと姿晶した。夜が明けてその書をよく見ると、太公望の兵書であった。張良はふしぎに思い、いつ登れを詞読した。

やがて高祖が兵をあげる主柄豊てたが、十三年のち、高祖に従って済北を過ぎたとき、張良ははたして黄色
の石を見つけたので、警できてそれをまつったということであった。



淮陰書懷寄王宗成 李白
暝投淮陰宿。 欣得漂母迎。』
日暮れに淮陰に着き、宿をとることができました。幸いにも韓信の故事の 漂母のような方が迎えてくれたのです
○漂母 史記、韓信の故事。淮陰にいたころ貧乏だった。人の家に居候ばかりして、嫌われていた。ある日、綿晒しに来たおばあさんが、釣りをしていた韓信を植えている様子を見て、食事をとらせた。綿晒しが終わるまで、数十日食事をさせてくれた。漂は綿をさらすこと。

予為楚壯士。 不是魯諸生。
私は楚の雄壮な武士であります、けっして魯の孔子の里の儒家思想の人間ではないのです。
○楚壯士 楚の国は勇壮な武士をたくさん出している。○魯諸生 山東省魯の孔子の里。

玉真公主別館苦雨贈衛尉張卿二首
飢從漂母食。閑綴羽陵簡。
●后稷(こうしょく)は、伝説上の周王朝の姫姓の祖先。中国の農業の神として信仰されている。
●漂母 韓 信(かん しん、生未詳 - 紀元前196年)は、貧乏で品行も悪かったために職に就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという遊侠無頼の生活に終始していた。こんな有様であったため、淮陰の者はみな韓信を見下していた。とある亭長の家に居候していたが、嫌気がした亭長とその妻は韓信に食事を出さなくなった。いよいよ当てのなくなった韓信は、数日間何も食べないで放浪し、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる有様であった。韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたが可哀想だからしてあげただけのこと。御礼なんて望んでいない」といわれた。老女が真綿を晒す老女であったことから、漂母という。
●丹徒の布衣者と一斛いっこくの檳榔びんろう
 劉 穆之(りゅう ぼくし、360年 - 417年)は、中国五胡十六国時代の東晋末期に劉裕(宋の武帝)に仕えた政治家のことさす。若く貧しかった頃は、妻の兄である江氏の家に食事を乞いに行っては、しばしば辱められ、妻にも行くのを止められたが、これを恥としなかった。後に劉穆之は江氏の祝いの宴会に赴き、食後の消化に檳榔を求めたが、江氏の兄弟に「いつも腹を空かしているのにそんなものがいるのか」とからかわれた。妻は髪を切った金で兄弟に代わり劉穆之に食事を出したが、これ以後、劉穆之の身繕いをしなくなった。後に劉穆之は丹陽尹となると、妻の兄弟を呼び寄せようとした。妻が泣いて劉穆之に謝ると、劉穆之は「もともと怨んでもいないのだから、心配することもない」といい、食事で満腹になると金の盆に盛った1斛の檳榔を彼らに進めたという。

唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))
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