[峴山の詩] 陳子昂 峴山懷古 李白「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -307
(孟浩然・張九齢・陳子昂・張説・李白「峴山」懐古について)


305 孟浩然 与諸子登峴山  ①(世の移ろい、季節の変化を詠う)
309  〃   輿黄侍御北津泛舟②
310  〃   峴山送張去非遊巴東(峴山亭送朱大)
311  〃   過故人莊      ④
312  〃   峴山送蕭員外之荊州  ⑤
313  〃   登峴山亭寄晉陵張少府
314  〃   澗南園即時貽皎上人  ⑦
315  〃   田園作   ⑧
316  〃   田園作元旦⑨
317  〃   南山下與老圃期種瓜⑩
318  〃   夏日南亭懷辛大⑪
319  〃   登鹿門山懐古 ⑫
320  〃   宿建徳江    ⑬
321  〃   仲夏歸漢南園,寄京邑耆舊   ⑭
322  〃   秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 ⑮
323  〃   歳暮帰南山   ⑯
324  〃   登安陽城樓   ⑰
325  〃   與顏錢塘登障樓望潮作 ⑱
326  〃   下層石  ⑲
327  〃         ⑳
(襄陽・峴山・鹿門山をあつかったものでほかに 九日懷襄陽 、 峴山餞房琯、崔宗之 、 傷峴山雲表觀主 、 大堤行寄萬七 、 襄陽公宅飲 、 和賈主簿弁九日登峴山 ・・・・・etc.と峴山襄陽を詩題としたものが多くある。)

306 張九齢 登襄陽峴山
307 陳子昂 峴山懷古 
308 張 説   還至端駅前与高六別処
328 李 白  襄陽曲四首 其一
329  〃    襄陽曲四首 其二
330  〃    襄陽曲四首 其三
331  〃    襄陽曲四首 其四
332  〃    襄陽歌
333  〃    峴山懐古
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張 説  667年 - 730年  陳子昴 661年 - 702年  張九齢 678年 - 740年
孟浩然 689年 - 740年  李 白  701年 - 762年


詩人名生年 - 歿年 概  要
陳子昴
(ちんすこう)
661年 - 702年六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。
張九齢 (ちょうきゅうれい)678年 - 740年陳子昂の詩と並んで「神味超逸」の風があり、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ「感遇詩」12種の連作が有名。著作に『張曲江集』20巻がある。字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。 
孟浩然     (もうこうねん)689年 - 740年盛唐の詩人。王維とともに「王孟」と並称され、山水自然派の詩人として知られるが、王維が自然の静的な面を客観的に歌うのに比して、より主観的に、自然を人間に親しいものとしてとらえる傾向を持つ。「春眠暁(あかつき)を覚えず」など、日本でも著名な作品が多い。襄陽出身。諱は浩、浩然は字。鹿門山に隠棲し、40才頃に進士に応じて落第し、王維との親交によって玄宗に謁見しながらも、「不才にして明主に棄てられ…」の句で官途を失い、郷里に隠棲した。襄陽長史に遷された張九齢の幕下に加わり、致仕後は江南を巡って王昌齢とも親交したが、まもなく襄陽で病死した。
 盛唐期にあって王維らとともに田園詩人群を形成し、王維とともに後の韋応物・柳宗元と併称される。ともに山水美を訴求しながら、王維の客観的・傍観的・静的態度と異なり、主観的・親近的・動的追及を旨とし、特に『春暁』は人口に膾炙している。
  白   (りはく)701年 - 762年中国最大の詩人の一人。西域で生まれ、綿州(四川省)で成長。字(あざな)は太白(たいはく)。号、青蓮居士。玄宗朝に一時仕えた以外、放浪の一生を送った。好んで酒・月・山を詠み、道教的幻想に富む作品を残した。詩聖杜甫に対して詩仙とも称される。「両人対酌して山花開く、一杯一杯又一杯」「白髪三千丈、愁いに縁(よ)りて個(かく)の似(ごと)く長し」など、人口に膾炙(かいしゃ)した句が多い。


峴山懷古 陳子昂
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
愛馬に秣をあたえ荒れ果てた耕作田を眺める。高い所にのぼって襄陽の旧い街を見入る。
猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
どうしても仁徳をもってこの地を治めてくれた羊祜のために人々は涙を流して立てた堕涙碣の前に来ると哀しさがこみ上げる。それとこに近くにある、隆中において梁父吟を吟じながら農耕に励み、三顧の礼でむかえられ、読む人に涙を誘う忠君の「出師表」を書いた諸葛亮を思うのである。
城邑遙分楚、山川半入吳。
襄陽の城郭の街ははるかなさきでわかれて楚になる。山が続き、漢水が下って呉の国になる。
丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
恵まれた自然の丘陵があるのでいたずらに権力者は出現した。賢者、聖仁は次第に枯渇していった。
野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
野山に青々とした木々が鬱蒼と立ち、春霞さえ断ち切った。船着き場にある高殿は日暮れになるとそこだけめだった。
誰知萬里客、懷古正踟躕。

誰が知るのであろうか、遠くはるかなところまでいる多くの住民のことを、古くから、本当の話、行ったり来たり、良かったり悪かったりというものなのだ。

馬を秣(まぐさ)し 荒甸(こうでん)に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
猶(なお)悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(なお)想う臥竜(がりょう)の図。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとすを。


現代語訳と訳註
(本文)

峴山懷古 陳子昂
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
城邑遙分楚、山川半入吳。
丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
誰知萬里客、懷古正踟躕。

(下し文)
馬を秣し荒甸に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
猶(な)お悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(な)お想う臥竜(がりょう)の図。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとす。

(現代語訳)
愛馬に秣をあたえ荒れ果てた耕作田を眺める。高い所にのぼって襄陽の旧い街を見入る。
どうしても仁徳をもってこの地を治めてくれた羊祜のために人々は涙を流して立てた堕涙碣の前に来ると哀しさがこみ上げる。それとこに近くにある、隆中において梁父吟を吟じながら農耕に励み、三顧の礼でむかえられ、読む人に涙を誘う忠君の「出師表」を書いた諸葛亮を思うのである。
襄陽の城郭の街ははるかなさきでわかれて楚になる。山が続き、漢水が下って呉の国になる。
恵まれた自然の丘陵があるのでいたずらに権力者は出現した。賢者、聖仁は次第に枯渇していった。
野山に青々とした木々が鬱蒼と立ち、春霞さえ断ち切った。船着き場にある高殿は日暮れになるとそこだけめだった。
誰が知るのであろうか、遠くはるかなところまでいる多くの住民のことを、古くから、本当の話、行ったり来たり、良かったり悪かったりというものなのだ。

(訳注)
秣馬臨荒甸、登高覽舊都。
馬を秣し荒甸に臨む、高きに登りて舊都を覽る。
愛馬に秣をあたえ荒れ果てた耕作田を眺める。高い所にのぼって襄陽の旧い街を見入る。


猶悲墮淚碣、尚想臥龍圖。
猶(な)お悲しむ堕涙(だるい)の碣(けつ),尚(な)お想う臥竜(がりょう)の図。
どうしても仁徳をもってこの地を治めてくれた羊祜のために人々は涙を流して立てた堕涙碣の前に来ると哀しさがこみ上げる。それとこに近くにある、隆中において梁父吟を吟じながら農耕に励み、三顧の礼でむかえられ、読む人に涙を誘う忠君の「出師表」を書いた諸葛亮を思うのである。

墮淚碣 羊祜は字を叔子という。武帝(司馬炎)は呉討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢(長江・漢水)流域の民心を手に入れた。呉の人々に対しては大いなる信義を示した。卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。○臥龍圖 臥竜と同じ。建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛された。諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていた。


城邑遙分楚、山川半入吳。
城邑 遙か楚に分る、山川 半ば吳に入る。
襄陽の城郭の街ははるかなさきでわかれて楚になる。山が続き、漢水が下って呉の国になる。
城邑 城壁にかこまれた町。転じて、人家の多い土地。都会。みやこ。


丘陵徒自出、賢聖幾凋枯。
丘陵 徒に自ら出ず、賢聖 幾に凋枯す。
恵まれた自然の丘陵があるのでいたずらに権力者は出現した。賢者、聖仁は次第に枯渇していった。


野樹蒼煙絕、津樓晚氣孤。
野樹 蒼煙絕ち、津樓 晚氣に孤す。
野山に青々とした木々が鬱蒼と立ち、春霞さえ断ち切った。船着き場にある高殿は日暮れになるとそこだけめだった


誰知萬里客、懷古正踟躕。
誰か知る萬里客、懷古して正に踟躕(ちちゅう)せんとす。
誰が知るのであろうか、遠くはるかなところまでいる多くの住民のことを、古くから、本当の話、行ったり来たり、良かったり悪かったりというものなのだ。
踟躕 クモが巣を作るときの、行ったり来たり。行きつ戻りつしている様子を表したものである



堕涙碑(だるいひ)とは晋の将軍羊祜を祀った碑である。
概要
荊州の都督として陸抗と対峙していた羊祜は、荊州の領民を労わるはおろか 相対していた呉の将兵にまで礼節を以て臨み敵味方問わずから尊崇を集めていた。 そんな羊祜も病を得、重篤の身となると後任に杜預を推挙して没したが、 彼の死を惜しんだ民により生前彼が好んだ峴山に碑が建立された。 その碑を見た者は皆在りし日の羊祜を偲んで涙を堕とすに及んだと言う。
墮淚碣 羊祜は字を叔子という。武帝(司馬炎)は呉討伐の志を立て、羊祜を都督荊州諸軍事とし、部隊を率いて南夏(中国南部)に進駐させた。学問所を開設して遠近を手懐け、はなはだ江漢(長江・漢水)流域の民心を手に入れた。呉の人々に対しては大いなる信義を示した。卒去したとき、南方の州の人々は市場に出かけた日に羊祜の死を知り、号泣しない者がなかった。市場を閉めたあとも、至るところで泣き声が挙がった。国境を守る呉の将兵たちもまた彼のために泣いた。その仁徳の広がりはこれほどであった。

羊祜は山や川を愛し、いつも風景を楽しむために峴山へ行き、酒宴を開いて語り合ったり、詩を詠んだりして、ひねもす飽きることがなかった。あるとき感慨深げにため息を吐き、従事中郎鄒湛らの方へ振り返って「宇宙が誕生して、そしてこの山があり、賢明な名士が来訪してはこの山を登って遠望する。我や貴卿のような人は多かったんだろうなあ!しかし、みんな跡形もなく消えてしまった。悲しいことじゃないか。もし百年後でも知覚があるならば、霊魂になってこの山を登ってみたいものだ」と言った。鄒湛は言った。「公の恩徳は四海の頂点、道義は先哲を継承され、声望は立派でいらっしゃいます。必ずやこの山とともに語り継がれることでしょう。鄒湛ごとき弱輩者は、公のおっしゃる通りになるだけです。」

羊祜が卒去したのち、襄陽の百姓たちは羊祜が日ごろ楽しんでいた場所に石碑と廟所を建て、季節ごとに供物を捧げて祭った。その石碑を見れば涙を流さぬ者はなく、そのことから杜預は「堕涙碑」と名付けた。碑文は蜀の李安が書いたものである。李安は別名を李興といった。むかし荊州の諸葛亮旧宅に碣を書いたが、その文章も立派だったし、羊公(羊祜)が卒去したとき、その碑文も巧妙だった。当時の人々はようやくその才能に感服したのであった。

楊世安は記室・主簿の職務に当たることになり(?)、羊祜の石碑を読み終えると、長いため息を吐いて「大丈夫たる者、名声を樹立することを心がけねばなあ。吾は聡明でないが、自分だけが考えないわけにはいかないぞ」と言い、それからは政務に励み、職務では寛容さと簡略さを心がけた。荊州の人々は羊祜の名を避け、(「戸」が「祜」と同音なので)家屋はみな「門」と呼び、戸曹は「辞曹」と改称した。

司馬徽が蜀の諸葛亮(諸葛孔明)をたとえた言葉。


峴山懷古    陳子昂
秣馬臨荒甸 登高覽舊都
猶悲墮淚碣 尚想臥龍圖
城邑遙分楚 山川半入吳
丘陵徒自出 賢聖幾凋枯
野樹蒼煙絕 津樓晚氣孤
誰知萬里客 懷古正踟躕

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