秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎 孟浩然 「峴山懐古」関連 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -326
孟浩然晩年の作
秦中苦雨思歸,贈袁左丞、賀侍郎(孟浩然 )
苦學三十載,閉門江漢陰。
仕官を目指して学んできたがなかなかうまく行かず三十年も苦しんでいる。金馬門という試験を及第することができないでいて、今はこの漢水の江川の南にいる。
用賢遭聖日,羈旅屬秋霖。
友人であり、後輩である杜甫に粛宗皇帝に会えたのである。自分の旅を続けていて秋の長雨は何時までも続いている。
豈直昏墊苦,亦爲權勢沈。
そして実際に今この晩年になっても悩み苦しんでいる。それにまた、気持を維持し続けることもできず沈んでしまっている。
二毛催白發,百鎰罄黄金。
白髪混じりから白髪にかわってきている。大金、ましてや黄金など空っぽの状態でいる。
淚憶峴山堕,愁懷湘水深。
涙を流すことは峴山にある堕涙碑を思い浮かべることであり、湘水の深さを思えば屈原の愁いを懐かしく思う。
謝公積憤懑,莊舄空謠吟。
謝霊運は奸臣たちに憤懣をつみかさねて隠棲していたし、梁父吟を歌っていた諸葛亮のようにはいかず田舎の田園で空しく謡うだけだ。
躍馬非吾事,狎鷗宜我心。
馬を躍らせるのは自分の仕事でも目標でもはないのであり、馴れた小鳩になることなど私の心にはないのである。
寄言當路者,去矣北山岑。
この詩を同じ思いをしているものによせる、しかしもう嵩山の向こうにあるそそりたつ頂といえる朝廷に仕官することはあきらめてこの隠遁生活に入るのである。
(秦中苦雨歸らんと思い袁左丞賀侍郎に贈る)
學に苦むこと 三十載、門を閉ざす江漢の陰。
賢を用ふ 聖日に遭ふに、羈旅 秋霖に屬す
豈に直に昏墊に苦しめらるる、亦た權勢の為に沈めらるる。
二毛 白髪を催し、百鎰 黄金 罄く。
涙して峴山の堕を憶ひ、愁ひて 湘水の深きを懐ふ。
謝公は憤懑を積み、莊舄は空しく謠吟す。
馬を躍らすは吾が事に非ず、鴎に狎るるは宜に我が心なり。
言を寄す 當路の者に、去りゆかん 北山の岑にと。
現代語訳と訳註
(本文) 秦中苦雨思歸,贈袁左丞、賀侍郎
苦學三十載,閉門江漢陰。
用賢遭聖日,羈旅屬秋霖。
豈直昏墊苦,亦爲權勢沈。
二毛催白發,百鎰罄黄金。
淚憶峴山堕,愁懷湘水深。
謝公積憤懑,莊舄空謠吟。
躍馬非吾事,狎鷗宜我心。
寄言當路者,去矣北山岑。
(下し文) (秦中苦雨歸らんと思い袁左丞賀侍郎に贈る)
學に苦むこと 三十載、門を閉ざす江漢の陰。
賢を用ふ 聖日に遭ふに、羈旅 秋霖に屬す
豈に直に昏墊に苦しめらるる、亦た權勢の為に沈めらるる。
二毛 白髪を催し、百鎰 黄金 罄く。
涙して峴山の堕を憶ひ、愁ひて 湘水の深きを懐ふ。
謝公は憤懑を積み、莊舄は空しく謠吟す。
馬を躍らすは吾が事に非ず、鴎に狎るるは宜に我が心なり。
言を寄す 當路の者に、去りゆかん 北山の岑にと。
(現代語訳)
仕官を目指して学んできたがなかなかうまく行かず三十年も苦しんでいる。金馬門という試験を及第することができないでいて、今はこの漢水の江川の南にいる。
友人であり、詩の後輩である王維に粛宗皇帝に会えたのである。自分の旅を続けていて秋の長雨は何時までも続いている。
そして実際に今この晩年になっても悩み苦しんでいる。それにまた、気持を維持し続けることもできず沈んでしまっている。
白髪混じりから白髪にかわってきている。大金、ましてや黄金など空っぽの状態でいる。
涙を流すことは峴山にある堕涙碑を思い浮かべることであり、湘水の深さを思えば屈原の愁いを懐かしく思う。
(訳注)
苦學三十載,閉門江漢陰。
學に苦むこと 三十載、門を閉ざす江漢の陰。
仕官を目指して学んできたがなかなかうまく行かず三十年も苦しんでいる。金馬門という試験を及第することができないでいて、今はこの漢水の江川の南にいる。
○苦學三十載 この句は宋の謝霊運の「初去郡」詩(『文選』巻二十六「行旅」)に基づいている。
・・・・・・・・・・
負心二十載、於今廢将迎。
理棹遄還期、遵渚騖修垌。
遡渓終水渉、登嶺始山行。
野曠沙岸浄、天高秋月明。
憩石挹飛泉、攀林搴落英。
・・・・・・・・・・
心に負くこと二十載、今において将迎を廢め。
棹を理めて 還る期を遄くし、渚に遵いて修き垌を騖す。
渓を遡り終に水を渉り、嶺に登らんとして始めて山行す。
野は曠くして 沙岸は浄く、天高くして 秋月明らかなり。
謝霊運は、悟った人間は浮世から脱出すべきものである。「低き位をみずから耕すに代えた」というものである。ということを言っていて、孟浩然の心情はまさにおなじものであった。陶淵明にも『歸田園居』というのがあるが、山水、自然、田園について謝霊運の心情にちかく、学んでいる。○閉門 金馬門、朝廷の入り口の門であり、朝廷を意味する。したがって、進士試験に及第をしないこと。王維に玄宗に面会の機会を与えられてもそれを生かせなかったことで挫折したことを示すものである。○江漢陰 江は江川、漢は漢水、陰は南で、澗南園を意味する。
用賢遭聖日,羈旅屬秋霖。
賢を用ふ 聖日に遭ふに、羈旅 秋霖に屬す
友人であり、後輩である杜甫に粛宗皇帝に会えたのである。自分の旅を続けていて秋の長雨は何時までも続いている。
○用賢遭聖日 この句は、王維が朝廷に宿直であった折、玄宗に会うことができたことを示すものである。王維は34才~35歳の頃であった。この後737年、張九齢は荊州長史に左遷され、その地で孟浩然を従事させる。孟浩然48歳の時であった○用賢 賢者に用意をしてもらうこと。この場合賢は王維のことである。○聖日 聖は天子のこと。日も天子のこと。○屬 続く。おびる。注意する。つきしたがう。○秋霖 秋の初めに降りつづく雨。秋の長雨。秋雨(あきさめ)。
豈直昏墊苦,亦爲權勢沈。
豈に直に昏墊に苦しめらるる、亦た權勢の為に沈めらるる。
そして実際に今この晩年になっても悩み苦しんでいる。それにまた、気持を維持し続けることもできず沈んでしまっている。
○昏墊 晩年になって悩み苦しむ。・昏:日暮れて暗くなる。・墊:しずみこむ。なやむ。○權勢 権力と勢力。
二毛催白發,百鎰罄黄金。
二毛 白髪を催し、百鎰【びゃくいつ】 黄金 罄く。
白髪混じりから白髪にかわってきている。大金、ましてや黄金など空っぽの状態でいる。
○百鎰 大金。・鎰:金の目方、一鎰は20両。 罄 使い切る,空(から)になる(する) 告罄 空になる.
淚憶峴山堕,愁懷湘水深。
涙して峴山の堕を憶ひ、愁ひて 湘水の深きを懐ふ。
涙を流すことは峴山にある堕涙碑を思い浮かべることであり、湘水の深さを思えば屈原の愁いを懐かしく思う。
○峴山堕 襄陽の南襄陽城の南十里にある。孫堅が襄陽を攻撃したとき、黄祖(あるいは呂公)はこの山に潜んで孫堅を射殺した。羊祜が荊州の都督として陸抗と対峙していた、荊州の領民を労わるはおろか 相対していた呉の将兵にまで礼節を以て臨み敵味方問わずから尊崇を集めていた。 そんな羊祜が病で没した。死を惜しんだ民により生前彼が好んだ峴山に碑が建立された。 その碑を見た者は皆在りし日の羊祜を偲んで涙を堕とすに及んだ。墮淚碣という。
謝公積憤懑,莊舄空謠吟。
謝公は憤懑を積み、莊舄は空しく謠吟す。
謝霊運は奸臣たちに憤懣をつみかさねて隠棲していたし、梁父吟を歌っていた諸葛亮のようにはいかず田舎の田園で空しく謡うだけだ。
○莊舄 荘園。いなかの田園。 シャク、 サク、 セキ、 タク訓読み:かささぎ 謠吟襄陽は諸葛孔明が「梁甫吟」をうたって田園で耕作していた。
躍馬非吾事,狎鷗宜我心。
馬を躍らすは吾が事に非ず、鴎に狎るるは宜に我が心なり。
馬を躍らせるのは自分の仕事でも目標でもはないのであり、馴れた小鳩になることなど私の心にはないのである
○狎鷗 馴れている鳩。・狎:動物が人に対して警戒心を解き従順になること。
寄言當路者,去矣北山岑。
言を寄す 當路の者に、去りゆかん 北山の岑にと。
この詩を同じ思いをしているものによせる、しかしもう嵩山の向こうにあるそそりたつ頂といえる朝廷に仕官することはあきらめてこの隠遁生活に入るのである。
(秦中苦雨思歸贈袁左丞賀侍郎)
苦學三十載,閉門江漢陰。
用賢遭聖日,羈旅屬秋霖。
豈直昏墊苦,亦爲權勢沈。
二毛催白發,百鎰罄黄金。
淚憶峴山堕,愁懷湘水深。
謝公積憤懑,莊舄空謠吟。
躍馬非吾事,狎鷗宜我心。
寄言當路者,去矣北山岑。
(秦中苦雨歸らんと思い袁左丞賀侍郎に贈る)
學に苦むこと 三十載、門を閉ざす江漢の陰。
賢を用ふ 聖日に遭ふに、羈旅 秋霖に屬す
豈に直に昏墊に苦しめらるる、亦た權勢の為に沈めらるる。
二毛 白髪を催し、百鎰 黄金 罄く。
涙して峴山の堕を憶ひ、愁ひて 湘水の深きを懐ふ。
謝公は憤懑を積み、莊舄は空しく謠吟す。
馬を躍らすは吾が事に非ず、鴎に狎るるは宜に我が心なり。
言を寄す 當路の者に、去りゆかん 北山の岑にと。

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