盛唐詩 將適天臺,留別臨安李主簿 孟浩然26 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -333


將に天台に適かんとし臨安の李主簿に留別す 孟浩然
☆前集巻上
★文苑巻二八六(留別)、唐百、全唐詩巻一五九、孟浩然集(四部叢刊初編)巻
一卷159_15 「將適天臺,留別臨安李主簿」孟浩然


將適天臺,留別臨安李主簿
今まさに天台山に赴くところだ、旅立ちの別れに際して臨安の李主簿にこの詩を。
枳棘君尚棲,匏瓜吾豈系。
いま、居心地の非常に悪いあなたにふさわしくない低い地位に留まられている。私もひさご瓜のようにただぶら下がって、人に認められないでいるだけというのはいやなものである。
念離當夏首,漂泊指炎裔。
もう初夏で更に熱くなろうという時に、あなたとお別れして船旅で漂いながら南の異民族の住む土地を目指していこうとしている。
江海非墮游,田園失歸計。
長江を下り、湖海を漂泊して行くのはただ無駄に過ごしてしまってはいけない。若い時に田園に隠遁し、仕官を目指しはじめた時が遅く、計画の時機を逸してしまったのだ。
定山既早發,漁浦亦宵濟。
定山を早朝に出発し、漁浦潭を宵には渡る(あの謝康楽先生がされたことなのだ)。
泛泛隨波瀾,行行任艫枻。
ひろびろとした水面を波にまかせて漂い、船の行くままに進んでゆく。
故林日已遠,群木坐成翳。
故郷の澗南園の素晴らしい林は日々遠く離れていっている、この辺りの群生している大木に囲まれているとまあ日陰となってはくれるようだ。(空気中の湿度多さをいい、故郷の林間の清々しさを思うのである)
羽人在丹丘,吾亦從此逝。

仙境の道士たちは丹を練り、天台山で道を求めてしゅぎょうしている。私もまたその地へ赴いていこうとしている。



(將に天台に適【ゆ】かんとし臨安の李主簿に留別す)
枳棘【ききょく】に君 尚お棲み、匏瓜【ほうか】吾豈に繋がらん。
離れを念がうこと 夏首に當り、漂泊して夷裔【いえい】を指す。
江海は堕遊にあらず、田園に歸計を失う。
定山既に早く發っし、漁浦 亦た宵に濟【わた】る。
泛泛として波瀾に隨い、行行として艫枻【ろえい】に任す。
故林 日に已に遠く、群木坐【むなし】く翳【かげ】を成す。
羽人 丹邱に在り、吾も亦た此より逝かん。



現代語訳と訳註
(本文)
將適天臺,留別臨安李主簿
枳棘君尚棲,匏瓜吾豈系。
念離當夏首,漂泊指炎裔。
江海非墮游,田園失歸計。
定山既早發,漁浦亦宵濟。
泛泛隨波瀾,行行任艫枻。
故林日已遠,群木坐成翳。
羽人在丹丘,吾亦從此逝。


(下し文) (將に天台に適【ゆ】かんとし臨安の李主簿に留別す)
枳棘【ききょく】に君 尚お棲み、匏瓜【ほうか】吾豈に繋がらん。
離れを念がうこと 夏首に當り、漂泊して夷裔【いえい】を指す。
江海は堕遊にあらず、田園に歸計を失う。
定山既に早く發っし、漁浦 亦た宵に濟【わた】る。
泛泛として波瀾に隨い、行行として艫枻【ろえい】に任す。
故林 日に已に遠く、群木坐【むなし】く翳【かげ】を成す。
羽人 丹邱に在り、吾も亦た此より逝かん。


(現代語訳)
今まさに天台山に赴くところだ、旅立ちの別れに際して臨安の李主簿にこの詩を。
いま、居心地の非常に悪いあなたにふさわしくない低い地位に留まられている。私もひさご瓜のようにただぶら下がって、人に認められないでいるだけというのはいやなものである。
もう初夏で更に熱くなろうという時に、あなたとお別れして船旅で漂いながら南の異民族の住む土地を目指していこうとしている。
長江を下り、湖海を漂泊して行くのはただ無駄に過ごしてしまってはいけない。若い時に田園に隠遁し、仕官を目指しはじめた時が遅く、計画の時機を逸してしまったのだ。
ひろびろとした水面を波にまかせて漂い、船の行くままに進んでゆく。
定山を早朝に出発し、漁浦潭を宵には渡る(あの謝康楽先生がされたことなのだ)。
故郷の澗南園の素晴らしい林は日々遠く離れていっている、この辺りの群生している大木に囲まれているとまあ日陰となってはくれるようだ。(空気中の湿度多さをいい、故郷の林間の清々しさを思うのである)
仙境の道士たちは丹を練り、天台山で道を求めてしゅぎょうしている。私もまたその地へ赴いていこうとしている。



(訳注)
將適天臺,留別臨安李主簿

今まさに天台山に赴くところだ、旅立ちの別れに際して臨安の李主簿にこの詩を。
臨安 杭州府臨安県。○李主簿 不詳。主簿は職名で、県に置かれ、文書の管理を任務とする。


枳棘君尚棲,匏瓜吾豈系。
いま、居心地の非常に悪いあなたにふさわしくない低い地位に留まられている。私もひさご瓜のようにただぶら下がって、人に認められないでいるだけというのはいやなものである。
枳棘【ききょく】 からたちといばら。心にとげのある人や、居心地の非常に悪い場所などをたとえていう。いずれもとげのある低木。『後漢書』巻七六覧伝に、主簿という低い地位についていた仇覧に、上司である王渙が「枳棘非鸞鳳所棲(枳棘といった悪木は鸞や鳳凰のようなすぐれた鳥が宿るところではない)」と述べた挿話がある。賢人に似合わない低い地位。○匏瓜 ひさご・ふくべの類。苦くて食べられないとされ、『論語』‐陽貨篇の「吾豈匏瓜哉、焉能繋而不食」(瓜ではあるまいに、ぶら下がっていて食べられないでいるということができようか)から、人に認められないこと、起用してもらえないことのたとえに用いられる。


念離當夏首,漂泊指炎裔。
もう初夏で更に熱くなろうという時に、あなたとお別れして船旅で漂いながら南の異民族の住む土地を目指していこうとしている。
夏首 初夏。○炎裔 南方の異民族、またそこに近い地方。炎が南方を象徴し、南の夷狄の住む土地という意味。


江海非墮游,田園失歸計。
長江を下り、湖海を漂泊して行くのはただ無駄に過ごしてしまってはいけない。若い時に田園に隠遁し、仕官を目指しはじめた時が遅く、計画の時機を逸してしまったのだ。
○堕遊 生産に携わらずただ遊んでいること、またその人。○帰計 聞き従うべき計略、手だて。「史記」淮陰侯列伝に「僕委心帰計、願足下勿辞(私は従うべき策のままにしようと思います、どうかあなたも辞することはやめてください)」とある。ここは、及第する人間は十五歳を過ぎて長安に登り、受験を始めるもので自分は40歳近くになって始めたことを示すものである。挫折というより後悔を表現するものである。


定山既早發,漁浦亦宵濟。
定山を早朝に出発し、漁浦潭を宵には渡る(あの謝康楽先生がされたことなのだ)。
定山、漁浦 地名。謝霊運「富春渚」(「文選」巻二六)に「宵済漁浦潭、旦及富春郭。定山緬雲霧、赤亭無淹薄(夜明けには漁浦という名の淵を出発し、朝に富春の城郭に着いた。定山は雲や霧の彼方にかすみ、赤亭のあたりは流れが早くて船を留めることができない)」とあり、どちらも富春江沿いの地名である。謝霊運は始寧から永嘉へ赴く途上に富春渚を経由したようだが、孟浩然は臨安から富春に至り、そこから謝霊運が来た道を逆にたどったようである。謝 霊運(しゃ れいうん、385年(太元10年) - 433年(元嘉10年))は、中国東晋・南朝宋の詩人・文学者。本籍は陳郡陽夏(現河南省太康)。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山水を詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は淝水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃破した東晋の名将である。祖父の爵位である康楽公を継いだため、後世では謝康楽とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。
漁浦については、孟浩然に『早發漁浦潭』の詩がある。
卷159_49  早發漁浦潭 孟浩然
東旭早光芒,渚禽已驚聒。臥聞漁浦口,橈聲暗相撥。
日出氣象分,始知江湖闊。美人常晏起,照影弄流沫。
飲水畏驚猿,祭魚時見獺。舟行自無悶,況值晴景豁。


泛泛隨波瀾,行行任艫枻。
ひろびろとした水面を波にまかせて漂い、船の行くままに進んでゆく。
泛泛 浮かび漂う様。文苑の如く汎汎ならば、水が漲る様。○波瀾 波。○枻 艫は船の舳先や船尾。枻は舟をこぐかい。あわせて動いている船を表す。


故林日已遠,群木坐成翳。
故郷の澗南園の素晴らしい林は日々遠く離れていっている、この辺りの群生している大木に囲まれているとまあ日陰となってはくれるようだ。(空気中の湿度多さをいい、故郷の林間の清々しさを思うのである)
故林 故郷の澗南園の林間を指す。


羽人在丹丘,吾亦從此逝。
仙境の道士たちは丹を練り、天台山で道を求めてしゅぎょうしている。私もまたその地へ赴いていこうとしている。
羽人 中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。羽人、僊人ともいう。 道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。○丹丘 胡紫陽の事蹟は李白の作「漢東紫陽先生碑銘」あり、ここに詳しく伝えられている。 「胡紫陽は代々道士の家に生れ、九歳で出家し、十二歳から穀類を食うことをやめ(これが修行の第一段階である)、二十歳にして衡山(五嶽の一、南嶽、湖南省衡陽の北)に遊んだ。(この後は欠文があって判りにくいが、その後、召されて威儀及び天下採経使といふ道教の官に任ぜられ、隋州に飡霞楼を置いたなどのことが書かれている。)彼の道統は漢の三茅(茅盈、茅固、茅衷の三兄弟)、晋の許穆父子等に流を発し、その後、陳の陶弘景(陶隠居)、その弟子唐の王遠知(昇元先生)、その弟子潘師正(体元先生)、その弟子で李白とも交りのあった司馬承禎(貞一先生)を経て、李含光より伝はった。弟子は三千余人あったが、天宝の初、その高弟元丹邱はこれに嵩山(スウザン)及び洛陽に於いて伝籙をなさんことを乞うたが、病と称して往かぬといふ高潔の士であった。その後、いくばくもなくして玄宗に召されると、止むを得ないで赴いたが、まもなく疾と称して帝城を辞した。その去る時には王公卿士みな洛陽の龍門まで送ったが、葉県(河南省)まで来て、王喬(また王子喬、王子晋といい周の王子で仙人だったと)の祠に宿ったとき、しずかに仙化した。この年十月二十三日、隋州の新松山に葬った。時に年六十二歳であった。」 と示しており、李白が紫陽と親交あり、紫陽の説教の十中の九を得たことをいっている。李白にはまた別に「隋州の紫陽先生の壁に題す」という詩があり、紫陽との交りを表している。しかし胡紫陽先生よりも、その高弟子元丹邱との関係は、さらに深い。その関係を表す詩だけでも、12首もある。
「楚辞」遠遊に「仍羽人於丹丘兮、留不死之旧郷」、孫綽「遊天台山賦」に「仍羽人於丹丘、尋不死之福庭」とある。


解説
五言古詩。
韻字 繋・裔・計・濟・枻・翳・逝

この詩は、天台山へ向かう途上、浙江の臨安県で知人に別れた留別の詩である。孟浩然は謝霊運『登臨海嶠、初發疆中作』とほぼ同じルートで天台山へ向かっている。これは、謝霊運の詩に基づき詩作したものである。孟浩然の官界への深い失望感が表され、天台山はイメージとしてうたっているので、具体性、動的な観察表現は全くない。ゆったりと波にまかせて進んだ先にあること、木陰をなす川筋の先にあることなど、天台山への道のりが、快適な自然の中にあること、すべてがイメージだけのものである。

またすぐれた道士が修行をする聖地として捉えられている。これから訪れる、未だ見ぬ天台山に対する期待感が込められている。この詩には、謝霊運を踏まえたものは見られるが、孫綽の「遊天台山賦」や司馬承禎に関わる詩句は見られない。
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