盛唐詩 秋登蘭山寄張五 孟浩然<40> Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白特集350 -347


卷159_4 「秋登蘭山寄張五」孟浩然

秋登蘭山寄張
9月9日に、肉親の健康を願って蘭山に登り、張家の五番目の弟に寄せる。
北山白雲裏,隱者自怡悅。
北の山は白雲の中に有る、この景色はこの地に隠棲している者にとっておのずから慶び満足するものである。
相望試登高,心飛逐鳥滅。
私もそうだから君もこちらを眺めるだろう試みに高い山に登ってみるとするなら、ここだけは飛んでいき鳥を追って地平線の向こうに消えていく。
愁因薄暮起,興是清秋發。
しかし困った事には夕暮れになって薄暗くなることだ、風興な気持ちは、この清々しい秋が発散している。
時見歸村人,沙行渡頭歇。
そんな気分に浸っていると村にむかって帰るひとがいる、河江の砂地を歩いて意気渡し場のところまで行って休んでいる。
天邊樹若薺,江畔舟如月。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
何當載酒來,共醉重陽節。

この場所は高い山に登ったのと同じだからた、ちょうどよく酒をぶら下げてやって來る、そしたら一緒に重陽の節句として祝って酔おうではないか。


(秋登蘭山寄張五)
北山 白雲の裏、隠者 自ら恰悦す。
相望み 試みに登高すれば、心は飛び 鳥の滅するを逐ふ。
愁因は薄暮に起こり、興は是れ清秋に登す。
時に見る 歸村の人、沙行 渡頭に歇む。
天邊 樹は薺のごとく、江畔 舟は月のごとし。
何か当に酒を載せて來り、共に重陽の節に酔ふべし。

a謝霊運011
  

          
現代語訳と訳註
(本文)

北山白雲裏,隱者自怡悅。
相望試登高,心飛逐鳥滅。
愁因薄暮起,興是清秋發。
時見歸村人,沙行渡頭歇。
天邊樹若薺,江畔舟如月。
何當載酒來,共醉重陽節。


(下し文)
秋、蘭山に登り張五に寄せる
北山 白雲の裏、隠者 自ら恰悦【いえつ】す。
相望み 試みに登高すれば、心は飛び 鳥の滅するを逐ふ。
愁因は薄暮に起こり、興は是れ清秋に發す。
時に見る 歸村の人、平沙 渡頭に歇む。
天邊 樹は薺のごとく、江畔 舟は月のごとし。
何か当に酒を載せて來り、共に重陽の節に酔ふべし。


(現代語訳)
9月9日に、肉親の健康を願って蘭山に登り、張家の五番目の弟に寄せる。
北の山は白雲の中に有る、この景色はこの地に隠棲している者にとっておのずから慶び満足するものである。
私もそうだから君もこちらを眺めるだろう試みに高い山に登ってみるとするなら、ここだけは飛んでいき鳥を追って地平線の向こうに消えていく。
しかし困った事には夕暮れになって薄暗くなることだ、風興な気持ちは、この清々しい秋が発散している。
そんな気分に浸っていると村にむかって帰るひとがいる、河江の砂地を歩いて意気渡し場のところまで行って休んでいる。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
この場所は高い山に登ったのと同じだからた、ちょうどよく酒をぶら下げてやって來る、そしたら一緒に重陽の節句として祝って酔おうではないか。


(訳注)
秋登蘭山寄張五

9月9日に、肉親の健康を願って蘭山に登り、張家の五番目の弟に寄せる。
 9月9日重陽節。○蘭山 浙江省蘭渓の北にある山。天台―建徳―桐盧―蘭渓―金華―会稽。○張五 張家の五番目の弟。


北山白雲裏,隱者自怡悅。
北の山は白雲の中に有る、この景色はこの地に隠棲している者にとっておのずから慶び満足するものである。
恰悦【いえつ】喜び楽しむこと。喜んで満足する。『文選、傳毅、舞賦』「觀者稱麗、莫不恰悦。」(觀る者麗しと稱し、恰悦せざる莫し。)


相望試登高,心飛逐鳥滅。
私もそうだから君もこちらを眺めるだろう試みに高い山に登ってみるとするなら、ここだけは飛んでいき鳥を追って地平線の向こうに消えていく。
 たがいに。相手がいない場合も、自分がそうだから、君もそうだろう。○登高 重陽にはたかい所に登る。「遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。」(遥かに知る兄弟高きに登る処、遍く茱萸を挿して一人を少くを。)kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 145 九月九日憶山東兄弟  王維
陳子昂『峴山懷古』「秣馬臨荒甸、登高覽舊都。」
李白『古風 其三十九』「登高望四海。 天地何漫漫。」


愁因薄暮起,興是清秋發。
しかし困った事には夕暮れになって薄暗くなることだ、風興な気持ちは、この清々しい秋が発散している。
愁因 秋は困ったもの原因がある。白雲と日暮れが速いこと。○薄暮起 秋の夕暮はつるべ落としという。あっという間に薄暗くなってしまう。○ 風流、趣興。○清秋 すがすがしい秋。重陽の節句の常套語。


時見歸村人,沙行渡頭歇。
そんな気分に浸っていると村にむかって帰るひとがいる、河江の砂地を歩いて意気渡し場のところまで行って休んでいる。
○時見 しばらくしてみると。○歸村 山に登った人たちが帰るのを見ること。○沙行 川が大きくて砂浜が長くある。○渡頭 船着き場。渡し場。○ 船を待つのに休んでいることを示す。


天邊樹若薺,江畔舟如月。
大空と川とのほとりに木樹がまるで、ナズナのように見える、河江の畔には船がまるで月のように止まっている。
天邊 大空と山の端、大空と水面、水平線。○ なずな。茱萸のように感じることをいう。○舟如月 小船は船首、船尾が反りあがっているので三日月ということで、高い山に上がったと同じ情景とする。


何當載酒來,共醉重陽節。
この場所は高い山に登ったのと同じだからた、ちょうどよく酒をぶら下げてやって來る、そしたら一緒に重陽の節句として祝って酔おうではないか。
何當 この場所は水面が空みたいで船が三日月。山に登ったのと同じようなものだ。○重陽節 九月九日、重陽節に、茱萸(「ぐみ」の一種)の枝をかざして兄弟や親しい友人が小高い丘に登り、菊の花びらを浮かべた酒を飲み、粽を食べて健康を祈るものなのだ。


重陽の節句は高い所に登って、菊酒を飲み風習であるが、川のほとりに居ても高い山に登ったのと同じ景色である。それだったら重陽の節句をここでしよう、というもので、村人は、故郷を離れて旅や、戦に行っている人たちの健康を願って山登りをして帰ってきた。きっと白雲で見えないし、暗くなってきて見合ない高い所に登っても相手には届かなかったのではないか。
川面に浮んだ一槽の船は三日月なのだ。高い山は雲に隠れて登っても仕方がない。君が山に登って私のことを祝ってくれるように、ここに居ても同じように祝ってあげられる。
 孟浩然の着眼点の素晴らしさは他に例を見ない面白いものである。孟浩然の時代までの詩人は武人が多く万能選手のように何でもできる人間であることが条件みたいなものであったが、此のものぐさで、ある意味、不真面目ともいえるものである。詩人は新境地を作り上げたのだ。


blogram投票ボタン

毎日それぞれ一首(長詩の場合一部分割掲載)kanbuniinkai紀 頌之の漢詩3ブログ
05rihakushi350

李白詩350首kanbuniinkai紀頌之のブログ

700Toho shi

kanbuniinkai11の頌之漢詩 杜甫詩700首



800tousouSenshu
kanbuniinkai10 頌之の漢詩 唐宋詩人選集 Ⅰ李商隠150首 Ⅱ韓退之(韓愈)Ⅶ孟郊
各詩人についてはブログ内の検索を利用したほうが良い場合もあります。
burogutitl770

http://kanshi100x100.blog.fc2.com/




唐宋詩 
(Ⅰ李商隠Ⅱ韓退之(韓愈))

李白詩INDEX02
日ごとのブログ目次

李商隠INDEX02
ブログ日ごとの目次

杜甫詩INDEX02
日ごとのブログ目次