孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 詩集 359


廬陵王墓下作 #1
曉月發雲陽,落日次朱方。
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
眷言懷君子,沈痛結中腸。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
道消結憤懣,運開申悲涼。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。
#2
神期恆若在,德音初不忘。徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。解劍竟何及,撫墳徒自傷。
#3
平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

 高祖長安を伐つ。騏騎将軍道憐 居守し、版して諮議参軍と為す。
 中書侍郎に転ず。

とある。『宋書』の「武帝紀」によると、義煕十二年〈416〉二月、のちの宋の高祖、すなわち、太尉劉裕は後秦の姚私討伐を謀ることとなり、建康を八月に出発。その留守部隊となった謝霊運は諮議参軍の役に就いた。この役はすべて庶務的な仕事の相談をうけるものである。やがて、中書侍郎へと転じたが、これは宮廷の文書をつかさどるものであった。
「武帝紀」によると、騏騎将軍道憐が留守したのは義煕十一年正月に司馬休之を討つために都を出発したときのことである。

高祖は、417年義煕十三年四月に洛陽に、九月には長安に進んで、これを平定、翌年に都に帰ってきた。そうし、謝霊運を陰に陽にかばってくれた宋国の初代の天子劉裕も永初三年〈422〉三月には病いを患い、五月にはついに死亡してしまうのである。

直情的な謝霊運は政治家としては疎外され、文人として尊重された。謝霊運が当時超一流の文人で、その詩は広く待ち望まれており、発表されると一気にひろまったという。
 劉裕が死亡すると、ただちに長男の義符が裕の跡をつぎ、これが少帝である。『宋書』の「霊運伝」では。

  少帝即位し権は大臣に在り、霊運異同を構扇し執政を非毀す。
  司徒の徐茨之等之を患う。


少帝はとかく素行が修まらなかった。したがって、取り巻きの奸臣の大臣たちがそれを利用し、権力をほしいままにしていた。これに対して、謝霊運は、世間をはばからず、批判を繰り返したようだ。「患之」の二宇によく表現されている。

 この時代は、力のある貴族の上に祭り上げられた皇帝がいるのであり、皇帝の権威は形成されてはいなかった。謝霊運の崇拝した義真は、王の位を奪われ、新安郡(浙江省淳安県)にうつされ、景平二年〈424〉の六月に、その道中で徐羨之グループの手によってわずか十八歳の若さで殺されてしまった。
後日、聡明だけど不幸な盟主義真の墓を訪ねて作ったのが「廬陵王の墓下の作」で、名作の一つとして、『文選』の巻二十三に引用されている。便宜上3分割して掲載する。


(廬陵王の墓下の作)#1
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。
#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。



現代語訳と訳註
(本文)

廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。
含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。
道消結憤懣,運開申悲涼。


(下し文)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。


(現代語訳)
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。


(訳注) 廬陵王墓下作
廬陵王【ろりょうおう】の墓の下で作る
廬陵王 劉義真406~424武帝の次男。『宋書』では「聡明にして文義を愛すれど、軽佻にして徳なし」と評された。東晋末の劉裕の北伐後は関中鎮守に残され、翌418年には内訌と夏軍の来攻で長安を失陥した。劉裕の即位で廬陵王とされ、後に南豫州刺史に叙されたが、夙に帝位への志向が強く、篤交した謝霊運・顔延之・慧林らに即位後の顕官を保証していたことで徐羨之ら託孤六傅に忌まれ、少帝廃黜後の混乱を避けるために少帝に先立って殺されたのである。


曉月發雲陽,落日次朱方。
明け方月がまだ出ているときに雲陽を出発した、夕暮れには南の丹徒についてここに宿泊する。
雲陽 江蘇省丹陽市(鎮江市のすぐ南)曲阿のこと。
 宿の意味、「二」に通じるため、「つぎ」という意味。 杜甫『行次昭陵』 李商隠『行次西郊作 一百韻』
朱方 今の江蘇省鎮江市の丹徒のこと。廬陵王の墓参りのために、明け方に雲陽を発ち、夕方に朱方に着いたという意味になる。

漢の時代に確立された五行思想の世界観が反映されていて、主な事項は以下である。
五行       木  ―火  ―土  ―金  ―水
五色      青(緑) 紅   黄    白   玄(黒)
五方      東    南   中    西   北
五時      春    夏   土用   秋   冬
五節句    人日   上巳  端午  七夕  重陽
(旧暦の日)  (1/1)  (3/3)  (5/5)  (7/7)  (9/9)
             
このことと、十二支による日付の表し方を理解する必要がある。この表現法は、中国社会では切り離せないものである。年号との組み合わせで日付が明確に示されている。何月の何番目の日とか。


含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
身を切るような悲しみの心をもって長江の広い河川に船で移動した。陵墓のある連なる丘を眺めているが涙は兩の頬をそそぐようにあふれている。
 凄と同様で「切」に通じる言葉で、身を切られるような悲しい思いを意味する。○ 水面を覆うように浮く。○ 本来、水を流して洗い流すことだが、涙をたれ流す際にも用いる。○ 左右を広く見渡すこと。


眷言懷君子,沈痛結中腸。
ここをぐるり眺めていて、君主となるべき廬陵王を偲ばれるのである。心が痛み沈んだ気持ちになってゆくこの悲しみを胸に刻んでいる。
君子 廬陵王のこと。○沈痛 心の底に沈殿してゆくような深い痛みをいう。○中腸 胸の痛み。断腸は下腹。
 目をぐるっと回す所から来た言葉で、振り返る、世話をする、目をかけることをいう。眷属というのは、世話をしている配下の者のこと。○ 『詩経』「我ここに」という意味で用いられることがある。小雅の「大東」という詩に「睠言顧之 潸焉出涕(睠かえりみて我ここに之れを顧み、潸焉として涕を出す。)」とあるが、「睠」と「眷」は同じ。


道消結憤懣,運開申悲涼。
消え去ったしかし殺されたということは怒りがわきでききて止めようがない、国の盛運を開いたとしているが、それは門閥たちにとっても事であり、凍りつくような悲しみということでしかない。
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づき対句にしている。○憤懣 憤は噴出すもので、懣はいっぱいになることをいう。○ 糸で口を縛り付けることをいい、「慣懣を結ぶ」とは噴出してくる憤りが溜まりに溜まって、その出口もなくわだかまっていることをいう。○ 道の上を廻るものをいう。○ 心が裂けること。○ 高い所にある水のような凍てつく冷たさをいう。○ 手を前に伸ばすこと。