孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<5> 廬陵王墓下作 #2 詩集 360


 南北朝時代の特色とされる貴族制度は南朝と北朝とでは背景や運用が異なり、西晋から続く南朝の貴族制度は九品官人制によって強化され、社会身分の階層化と固定化が進行したが、北防の必要から、貴族の支持を得た寒門武人による易姓革命が肯定された。このため皇帝権力の安定には貴族勢力の協力が不可欠となり、貴族勢力には一種の治外法権が生じ、貴族の家門の興廃と王朝の興亡とは必ずしも連動しなかった。貴族・豪族は多くの佃客・衣食客・部曲を擁する大土地所有者でもあり、広大な山林水沢の利を独占して荘園を経営したが、荘園の閉鎖的な自給性は貨幣経済を停滞させ、貴族や商人による貨幣退蔵と山沢封固は、自営農の没落と商人層の抬頭を促進させた。

 歴朝天子の寒門・寒人重用は、門地二品に偏重した貴族主義に対する一種の抵抗でもあった。、梁武帝の官制改革もその一環に数えられるが、実効まではいかなかった。南朝の貴族社会は侯景の乱と承聖の江陵陥落でほぼ壊滅し、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落は決定的となっていく。


廬陵王墓下作
曉月發雲陽,落日次朱方。含悽泛廣川,灑淚眺連崗。
眷言懷君子,沈痛結中腸。道消結憤懣,運開申悲涼。
#2
神期恆若在,德音初不忘。
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
徂謝易永久,松柏森已行。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
延州協心許,楚老惜蘭芳。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
解劍竟何及,撫墳徒自傷。
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。

平生疑若人,通蔽互相妨。理感深情慟,定非識所將。
脆促良可哀,夭枉特兼常。一隨往化滅,安用空名揚?
舉聲泣已灑,長歎不成章。

(廬陵王の墓下の作)
暁月【ぎょうげつ】に雲陽【うんよう】を發【た】ち、 落日【らくじつ】に朱方【しゅほう】に次【やど】る。
悽【いたみ】を含んで廣川【こうせん】に泛【うか】び、涙を灑【そそ】ぎて連岡【れんこう】を眺【み】る
眷【かえり】みて言【ここ】に君子を懷い、沈痛は中腸【ちゅうちょう】を切【き】る。
道消【みちき】えて慣懣【ふんまん】を結び、運開いて悲涼【ひりょう】を申【の】ぶ。
#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。

#3
平生疑う若【かくのごと】き人を疑えり、通【つう】蔽【へい】互に相 妨【さまた】ぐることを。
理もて感ずるは深く情は慟【いた】む、識【しき】の將【おこ】なう所に非ずと定めぬ。
脆促【ぜいそく】は良【まこと】に哀【かな】しむ可し、 夭枉【ようおう】は特に常を兼ぬ。
一【ひと】たび往化【おうか】に随って滅ぶ、安んぞ用いん空名【くうめい】の揚【あが】るを。
声を挙げて泣【なみだ】已【すで】に灑ぎ【そそ】、長歎【ちょうたん】して章を成さず。

demen07


現代語訳と訳註
(本文)#2

神期恆若在,德音初不忘。
徂謝易永久,松柏森已行。
延州協心許,楚老惜蘭芳。
解劍竟何及,撫墳徒自傷。

(下し文)#2
神期【しんき】は恆【つね】に在るが若【ごと】く、徳音【とくいん】は初【はじめ】より忘れられず。
徂謝【そしゃ】して永久なり易く、松柏【しょうはく】は森【しん】として已【もっ】て行【つら】なる。

延州【えんしゅう】は心許【しんきょ】に協【かな】い、楚老【そろう】は蘭芳【らんぽう】を惜しむ。
劒を解くも竟【つい】に何ぞ及ばん、墳【つか】を撫【ぶ】して徒【いたず】らに自ら傷む。


(現代語訳)#2
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。
かつては季札や楚老の剣を捧げたり墓を撫でたりするような行いというものは、何で賢い人がこんなに感情に突き動かされるのかがわからない。


李白の足跡55

(訳注)#2
神期恆若在,德音初不忘。
神の意志はいつもこのような結果をもたらすものであり、君子の仁徳は変わるものではないのでとても忘れられるものではない。
神期 神の心、神の意志。廬陵王の御霊。○ 『易経』「雷風恆」にある。天地自然は変転を繰り返しながらも、その根本は変わらない。廬陵王は運命に翻弄されてしまったが、王の価値は不易であり、その徳のある人の言葉(徳音)はもとより忘れられない。謝霊運は、廬陵王に掛けていたのである。


徂謝易永久,松柏森已行。
盧陵王はこの世を去られたが、世を去られてしまえばあっという間に永遠の時が流れ去ってしまうものであり、墓に植えた松や柏は森となってしげるのである。
徂謝 徂、謝、どちらも去ってゆく、逝くという意味がある。世を去ってしまえば、徂は歩みを重ねてゆくことで、あの世へ行くことや、世代を重ねてゆくことをいう。謝は弓の弦を緩めることで、緊張を解くところから「あやまる」「ことわる」「礼を言う」という意味にもなる一方、生命がなくなるという意味で死ぬ、萎むという意味をも持つ。○ ヒノキ、コノテガシワ、栢などの常緑樹をいう。陵墓には木を植え、庭園のようにする習慣があり、天子は松、諸侯は柏、大夫はおおち、庶人は楊柳を植えた。長安の五陵などがある。李白、雜言古詩『王昭君』「漢家秦地月、流影照明妃。一上玉関道、天涯去不帰。漢月還従東海出、明妃西嫁無来日。燕支長寒雪作花、娥眉憔悴没胡沙。生乏黄金枉図画、死留青塚使人嗟。」にみえる「青塚」が松柏である。

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 漢の仲長統の『昌言』には、「古之葬者、松柏梧桐以識墳也(古の葬は、松柏梧桐を以て墳を識るなり。)」」とある。『文選』の古詩の「去るものは日々に疎く」の詩にある「松柏催為薪(松柏くだかれて薪と為る)」一般には、長寿で貞節を象徴する常緑の松柏も、伐って薪にされている、と解釈され、死者がいかに早く忘れ去られてゆくかを詠んだもので、墓所に植えられた松柏も伐られて薪になる。王朝が続けば、管理者が入るので、薪にはならないが、王朝が滅べば薪になる。杜甫の「北征紀行」の詩に出て來るものである。



延州協心許,楚老惜蘭芳。
寿夢の末子、季札は心を許す家臣徐君のように多くのすぐれた家臣をもっていた、楚の老人、龔勝の忠君は蘭芳の美徳としておしまれた。(ここでいう家臣は謝霊運、自らや顔延之を指している。)
延州 春秋戦国時代の呉の王、寿夢の末子、季札のことで、延陵の季子と呼ばれている。寿夢は季札に王位を継がせようとするのだが、季札はこれを頑なに固辞しつづけた。○ 多くのものが一つに合わさる所から、一致する、かなうという意味になる。「叶」も同じで、十人の口(意見)があることをいう。○心許 心許せる全幅の信頼を持つ家臣。○楚老 楚老は、『漢書』に記されている、龔勝【きょうしょう】という前漢末の忠臣の死を嘆いた老人のこと。○蘭芳 蘭のか詳しい香り。転じて、美徳のたとえ。



解劍竟何及,撫墳徒自傷。
しかし季札のように剣を解いて捧げたからといってどうなるわけでもなく、楚老のようにただいたずらに墳墓を撫でても自分の心を痛めるだけのことだ。
○解劍 季札は徐王が死んで後に欲しがっていた剣を徐陵の松にかざした故事を踏まえる。○撫墳徒自傷 前漢末の忠臣龔勝が天子が死んでもなお嘆いたことに基づく。



《参考》この時代の人。
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劉裕 356~420~422
 高祖、武帝。彭城(江蘇省徐州市)出身。字は徳興。寒門出身の北府軍人で、孫恩鎮圧で認められ、桓玄討滅を主導して北府軍を掌握した。410年に南燕を滅ぼして斉魯を回復し、嶺南の盧循を鎮圧して武威を示す一方で、尚書僕射謝混・江州刺史劉毅ら反対派を粛清して大権を掌握した。417年に後秦を滅ぼして洛陽・長安を回復すると、翌年には世論の支持を背景に相国・宋公となり、安帝を殺して恭帝を立てると宋王に進み、420年に禅譲を行なって宋朝を樹立した。
 刁氏・虞氏などの京畿の大荘園を没収して貧民に分配し、又た僑郡僑県の併省や、土断法の全国的な実施で財政を好転させ、短期間で宋朝の基盤を確立した。土断法の徹底や質倹の率先などは、東晋朝廷の奢侈放縦や過度の名族偏重の体制に批判的な輿論の主潮に配慮したものだったが、即位直後には名族の白籍化を認めるなど僑姓との妥協を余儀なくされ、北府・西府など軍府の統帥を宗室に限定することで、簒奪の防止を図った。


徐羨之 364~426
 東海郡郯県(山東省郯城)の出身。字は宗文。劉裕の幕僚として信任され、416年の北伐では建康に鎮し、尚書僕射に進んで劉裕の禅譲を準備した。禅譲後は司空・録尚書事・揚州刺史とされ、劉裕の死後は託孤六傅の筆頭として傅亮らとともに少帝を後見したが、424年に不行跡を理由に傅亮らと少帝を廃弑して文帝を迎立し、司徒に昇った。後に専権を忌まれ、弑逆を理由に自殺を命じられた。