孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

(祖の徳を述べる詩 二首 序文 )

述祖徳詩 二首(1)序
謝霊運の先祖は『南史、謝霊運傳』「謝霊運は安西将軍奕の曾孫にして、方明の従子なり」と記されいる。「奕の曾孫」つまりひまごに当たり、「方明の従子」とは彼の甥に当たることになる。この奕については『晋書』の四十九に略伝があり、当時、政治家として活躍していた人で、経済的にも、知識的にもすぐれた要素をもっていた。当時の社会の最も重要な血縁、門閥について謝霊運は最も恵まれていた。そして、誇り高い人であった。


沈約は『宋書』の本伝で、「祖の玄は晋の車騎将軍」と、その祖父より筆を起こしている。「車騎将軍」とは、各地に反乱があったとき、その征伐を司る将軍で、漢の文帝がこの役を定めて以後あったものである。この玄の伝記については『晋書』の本伝に詳しい。特に「少くして薪悟、従兄の期と供に叔父安の器重する所と為る」と記されているのをみると、非常に頭脳明噺であったらしい。

謝霊運はよほど、この祖父、玄について自慢であったらしく、「山居賦」の自注でも、また、「祖徳を述ぶる詩」でも、その徳をたたえてはばからない。

沈約(しんやく)441年 - 513年 南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。

述祖徳詩 二首
序曰、太元中、王父龕定淮南。
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
負荷世業、尊主隆人。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
逮賢相徂謝、君子道消、
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
拂衣蕃岳、考ト東山、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。

miyajima 709330


現代語訳と訳註
(本文)
述祖徳詩 二首
序曰、
太元中、王父龕定淮南。
負荷世業、尊主隆人。
逮賢相徂謝、君子道消、
拂衣蕃岳、考ト東山、
事同樂生之時、志期范蟸之擧。


(下し文)
序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。


(現代語訳)
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。


(訳注)
序曰、太元中、王父龕定淮南。

序に曰く、大元中(376-396)王父 准南【わいなん】を龕【かち】定め、
序にいう。晋の太元(376-396)という年号の間に、祖父謝玄は淮水の南、淝水の戦いに前秦の苻堅に勝って乱を定めた。
○述祖徳 祖父謝玄の徳か述べる詩。○太元 東晋の武帝の年号(376-396)。 ○王父 租父。父の亡父。王は尊称。 ○ 勝つの意味。○淮南 淮水がの南。淝水の戦(383)。


負荷世業、尊主隆人。
世業を負荷【うけつ】ぎ、主を尊び人を隆んにせり。
世々伝えられた仕事として治世の任を引きうけて、君主を尊び人民をさかえさせた。
負荷 任を引きうける。○隆人 人民を栄えさせる。 


逮賢相徂謝、君子道消、
賢相【けんそう】徂【ゆ】き謝【しゃ】して、君子の道消ゆるに逮【およ】ぶ。
しかし徳のすぐれた宰相が死に去り、君主の正しい道が衰えるようになって、
道消 『易経、天地否』「小人道長、君子道消」(小人は道長じ、君子は道消するなり)」とあり、君子の道が消えることをいう。これに基づいている。


拂衣蕃岳、考ト東山
衣を蕃岳【ばんがく】に払い、ト【ぼく】を東山に考へ。
諸侯としての任地、会楷の山に衣を振って塵を払い、去って志を潔くして隠居し、亀の甲を焼いてうらないを考え住まいを東山に定めて、

払衣 衣の俗塵を払い故郷に帰り隠居すること。 ○蕃岳 藩岳、潘岳(はんがく) 247年 - 300年西晋時代の文人。字は安仁。中牟(河南省)の人。陸機と並んで西晋時代を代表する文人。また友人の夏侯湛と「連璧」と称されるほど、類稀な美貌の持ち主としても知られている。 『世説新語』によると、潘岳が弾き弓を持って洛陽の道を歩くと、彼に出会った女性はみな手を取り合って彼を取り囲み、彼が車に乗って出かけると、女性達が果物を投げ入れ、帰る頃には車いっぱいになっていたという。潘岳の作る文章は修辞を凝らした繊細かつ美しいもので、特に死を悼む哀傷の詩文を得意とした。 愛妻の死を嘆く名作「悼亡」詩は以降の詩人に大きな影響を与えた。"諸侯。藩屏。ここでは次句の東山に対して任地の山岳、会稽山の意味も兼ねる。○考ト 亀の甲を焼いて割れ目で古凶を考えて、居を定める。卜居のこと。○東山 始寧の東山。会稽郡上虞県にある。謝安が隠居していたところ。
李白は謝安を詠う詩が多くある。
李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
「攜妓東山去。 春光半道催。
遙看若桃李。 雙入鏡中開。」
( 姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り。妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。)
李白『憶東山二首其二』
「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。
欲報東山客。 開關掃白云。」
(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。 東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。) 

事同樂生之時、志期范蟸之擧。
事は楽生の時に同じくし、【こころざし】は范蟸【はんれい】の擧に期す。
昔楽毅が燕の昭王のために斉の七十余城か攻め落としたと同じ事栗をしながら、志は越王句践のために呉を滅した後は、五湖に舟を浮かべて行くえをくらまし、優遊自適の生活をした范蠡のような行ないをしたいと願ったのである。
楽生 楽毅。楽 毅(がく き、生没年不明)は、中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。楽毅の先祖は魏の文侯に仕えた楽羊であり、楽羊は文侯の命令により中山国(燕と斉と趙が接する所にあった小国。現在の河北省保定市の周辺。)を滅ぼし、その功により中山の首都霊寿に封じられた。子孫はそのまま霊寿に住み着き、その後復興された中山国に仕えたようである。その縁から楽毅も中山国に仕えていたとも言われているが、彼の前歴は今でも明らかになっていない。燕の昭工の卿、紀元前284年に趙・楚・韓・魏・燕五国の兵を率いて斉を伐ち、斉の七十余城を下した。 ○范蟸【はんれい】越玉句践を助げて呉を滅した(前473年)。後范蟸は五湖(太湖)に浮かんで越を去り野に隠れ、名を鴟夷子皮と変えて産を成し、自ら陶の朱公と号した。
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