孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<9> 述祖徳詩 二首(3)其二 #2 詩集 368


(3)述祖徳詩 二首 其二 #1
中原昔喪亂,喪亂豈解已。崩騰永嘉末,逼迫太元始。
河外無反正,江介有蹙圮。萬邦咸震懾,橫流賴君子。
拯溺由道情,龕暴資神理。」
#2
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
賢相謝世運,遠圖因事止。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。


中原 昔 喪亂【そうらん】,喪亂豈解【と】け已【や】まんや。
永嘉の末に崩騰【ほうとう】し,太元の始に逼迫【ひょくはく】す。
河外【かがい】に反正無く,江介【こうかい】に蹙圮【しゅくひ】有り。
萬邦【ばんぽう】咸【みな】震【ふる】い懾【おそ】れ,橫流【おうりゅう】君子に賴【よ】る。
溺を拯【すく】うて道情に由り,暴に龕【か】ちて神理に資【と】る。」
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」


現代語訳と訳註
(本文)  述祖徳詩 二首
 其二 #2
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。
賢相謝世運,遠圖因事止。
高揖七州外,拂衣五湖裏。
隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
遺情捨塵物,貞觀丘壑美。」


(下し文) #2
秦趙【しんちょう】は来らば蘇【よみがえ】らんと欣【よろこ】び、燕魏【えんぎ】は文軌【ぶんき】を遲【ま】つ。
賢相【けんそう】世運【せいうん】謝【しゃ】し,遠圖【えんと】事に因【よ】りて止【や】む。
七州の外【ほか】に高揖【こういう】し,衣を五湖の裏【うち】に拂う。
山に隨って濬潭【しゅんたん】を疏【うが】ち,巖【いわお】に傍【そ】いて枌梓【ふんし】を蓺【う】う。
情を遺【わす】れて塵物【じんぶつ】を捨て,貞【ただ】しく丘壑【きゅうがく】の美を觀る。」


(現代語訳)
泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。

miyajima 681

(訳注)
秦趙欣來蘇,燕魏遲文軌。

泰や趙の国では祖父が来て暴君を討てば、殷の湯王が来たように、民は生き返るであろうと喜び、燕や魏の民は周の文王の車が来るのを待ちこがれるように、祖父の救済を願った。
○秦趙欣来蘇 秦や起の国では、祖父謝玄か来て暴君を討てぱ、生き返るであろうと欣ぶ。『書経仲虺之誥』「予が后を俟つ、后来らば其れ蘇らん」と。夏の民が殷の湯王を欣び迎えた語。○遲文軌 周の文王の車のわだちが及ぶのを待つ。文王か救済に来るのを待つ。


賢相謝世運,遠圖因事止。
このように天下を平定することに尽くしたけれども、徳すぐれた宰相謝安が世を去り、深遠な謀は事件のためにやめられた。
賢相 謝安李白『憶東山二首其二』「我今攜謝妓。 長嘯絕人群。欲報東山客。 開關掃白云。」(我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群を絕つ。東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。)晉の時代の謝安は、あざなを安石といい、四十歳になるまで浙江省の東山という山にこもって、ゆうゆうと寝てくらし、朝廷のお召しに応じなかった。当時の人びとは寄ると彼のうわさをした。「安石が出てこないと、人民はどうなるんだ」。時期が来るまで、待っている賢者というものは、一喜一憂しない。敵を油断させる方法にも幾通りもある。ここに言う「芸妓を携えて」というのは、国外のみならず国内にも敵がおり、国を建てなおすにも相手の状況の分析を行い、時機が到来して立ち上がったのであるが、東山に白雲堂、明月堂のあとがあり、山上よりの眺めは絶景だという。薔薇洞というのは、かれが妓女をつれて宴をもよおした所といわれ、妓女と酒を飲んで時期を待っていたことを言う。謝安について李白『送裴十八図南歸嵩山其二』「謝公終一起、相與済蒼生。」とあり、送裴十八図南歸嵩山 其二 李白 :Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白164。○謝世運 時世の進展から去る。世を去る。


高揖七州外,拂衣五湖裏。
そうして、祖父は晋が支配した天下七州の外に、高く俗世をのがれて辞し去り、衣の座を払って瓦湖のほとりに潔く隠退した。
七州 中国全土九州うち七州。○高揖 高く超越して俗世を謝絶する。揖は両手を胸に組んでする会釈。
払衣五湖裏 五湖は太瑚の別名。茫蟸 のように、太湖の中に衣の俗塵を振って帰隠する。


隨山疏濬潭,傍巖蓺枌梓。
そして山に随って深い潭を切り開き、大岩の傍に枌【にれ】や梓の木を植えて終焉の地とさだめたのだ。
濬潭 深い淵。○枌梓 にれとあずさ。墳墓に植える。


遺情捨塵物,貞觀丘壑美。
俗世の塵の世で役人として着た衣冠などの物を捨てさる、これらのことをすべて忘れてしまい、丘や谷の美しい景色を正しく眺め暮らしたのであった。
塵物 汚れた物。役人の衣冠等。○ 正。



このように具体的にその徳を歌う。この詩が謝霊運の何歳の作かは明らかでない。昭明太子は『文選』の巻十九の「述徳」にも名作として引用し、謝霊運の子孫と称する唐の詩僧皎然もその著『詩式』にこれを名吟の一つとして高く評価している。身分制度の身で社会が構成されていく時代にあり、こうした先祖の表現法の重要性は高まったはずで、手本とされるものになったのである。

この時代、どこで生まれたのか、どんな血族に生まれたかによって、人生は決められるのである。謝霊運は、この偉大な祖父を背負うのであるからスタート地点が、誰よりも良い所にある。よいものは、心の誇りであり、手本にするというより、先祖の築き上げたものを崩壊させなければ、絶対に失敗はないのである。謝霊運はちがった。祖父を凌ぐ働きがしたかったのである。そして、たぐいまれなその要素を備えていたということなのである。難をいえば、良すぎたのである。これが、政治家でなく、学問、詩文の部分だけなら、どんなに卓越していても、全く問題はないが、政治、権力、統治ということになるとバランス感覚がないといけない。いわゆる腹芸も必要になってくる。

恵まれた家に生まれ、抜群の才能を持っていることでうまくいかないのである。貴族の中に無能力の権力者が大半なのである。

この詩に見るように、家系、先祖の功績は、何かにつけて謝霊運に影響を与えた。謝霊運の母の家系も祖父が王羲之であった。女性の文盲率が九割を超える時代にあって、母が知識人であったことは、謝霊運の詩人としての能力は、両方の地を受けついだものであった。
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