孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #1 詩集 370
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)


永嘉の太守
 このような状態であったので『宋書』の本伝によると、

出でて永嘉の太守と為る。郡に名山水有り。霊運の愛好する所。

守に出でて既に志を得ず。遂に意を肆ままにして遊遨し、諸県を偏歴し、動もすれば旬朔を瞳ゆ。民間の聴訟復た懐いに関せず。

至る所綴ち詩詠を為り以って其の意を数す。


至る所綴ち詩詠を為り以って其の意を数す。

と記されている。つまり、永嘉の太守にされたのは彼の軽率なる行動に対する処罰であって、華やかな中央官庁から、地方官庁への左遷であった。時に、親友の顔延之も遠く広西の始安(今の桂林)の太守に流されている。この永嘉郡とは現在の浙江省の温州地帯で、謝霊運の育った会稽の真南にあたり、直線で約250kmも離れた土地である。その中心が温州で、甌江の下流の南岸に発達した町である。海までも約三〇キロで、気侯も温暖で、日本では温州蜜柑の故郷として知られている。したがって、植物もよく繁茂した美しい町であった。『温州府志』によれば、付近には相当高い山も多く、いろいろと名勝や山水にはなはだしく恵まれたところであった。
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 謝霊運が左遷されて都の建康を出たのは、『文選』の巻二十六の「行旅」に引用された彼の詩によると、413年永初三年、霊運三十八歳の七月十六日であった。これは劉裕つまり宋の武帝の葬儀のあった七月八日から八日目のことである。おそらく、追われるごとく、秋の初めに都を去って行かねばならぬ謝霊運にとっては、寂しさも加えて、心はさぞかし煮えたつものがあったろう。
特に、謝霊運は当時の中国ではもう若くもなく、希望に燃えた青春は過ぎ、老齢であった。そのうえの左遷、精神的に相当がっくりしていたであろう。その悲しみ、苦しみを歌ったのが、「永初三年七月十六日之郡初発」(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)の詩である。


永初三年七月十六日之郡初発#1
述職期闌暑、理棹變金素。
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。
秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。
辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。
愛似莊詩昔、久敬曾存故。

他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。
#2
如何懐土心、持此謝遠度。
李牧愧長袖、郤克慙躧歩。
良時不見遺、醜状不成悪。
曰余亦支離、依方早有慕。
#3
生幸休明世、親蒙英達顧。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
將窮山海迹、永絶賞心唔。

(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)
#1
述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。
秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。
辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。
似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。

#2
如何んぞ土を懐う心、此を持して遠き度【たび】を謝【や】めたく。
李牧【りぼく】は長袖を愧【は】じ、郤克【げきこく】は躧歩【あしのはこび】に慙【は】ず。
良時には遺て見れず、醜状も悪を成さず。
曰【ここ】に余も亦た支離【や】せて、方【みち】に依り早く慕う有り。
#3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす


永初三年七月十六日之郡初発
現代語訳と訳註

(本文) #1
述職期闌暑、理棹變金素。
秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
愛似莊詩昔、久敬曾存故。


(下し文)#1
述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。
秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。
辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。
似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。


(現代語訳)#1
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。
他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。


(訳注)
永初三年七月十六日之郡初発
述職期闌暑、理棹變金素。
(述職【つとめ】は闌暑【なつのおわり】を期せしに、棹を理【ととの】え金素【あき】に変われり。)
朝廷での仕事に区切りをつけるのは夏の終りの時であった。出発の準備を整えるのはもう秋になっていた。


秋岸澄夕陰、火旻團朝露。
(秋の岸は夕陰に澄み、火旻【かびん】に朝露 団【まど】かなり。)
出発の渡し場には秋が訪れ、日が短くなり、すぐに火が暮れ、吹く風も涼やかなものになってきた。


辛苦誰爲情、遊子値頽暮。
(辛苦誰か情を為さん、遊子も頽暮【としより】に値【な】れり。)
旅にでるのはつらく苦しいもので誰にわかってもらえるのだろう。この歳になって旅人になるなんてもっと老けてゆくのが堪えるものになるだろう。


愛似莊詩昔、久敬曾存故。
(似を愛せし荘の昔を念うがごと、久しきが敬われるのは曾の放を存【した】うがごとし。)
他人の類似したものに愛することは荘子の時代におもわれることであった、長く敬長することについては曾子の故事にならうものである。
愛似 孟子『盡心下』「孔子く悪似而非者。」(孔子曰く似て而して非なる者を悪む。)○ 敬長 孟子『盡心上』「親親仁也。敬長羲也。」(親を親しむるは仁なり。長を敬するは羲なり。)○曾子(そう し 紀元前506年 - ?)は、孔子の弟子で、儒教黎明期の重要人物である。諱は参(しん)。字は子與(しよ)。父は曾皙、子に曾申。十三経の一つ『孝経』は、曽子の門人が孔子の言動をしるしたと称されるものである。「曾参、人を殺す」と言う言葉の中に姿を残している。この話は「ある時に曾参の親類が人を殺し、誰かが誤って曾参の母に『曾参が人を殺した』と報告した。母は曾参のことを深く信じていたのでこれを信用しなかったが、二度・三度と報告が来ると終いにはこれを信じて大慌てしたと言う。」『戦国策』に載っている説話で、あまりに信じがたい嘘であっても何度も言われると人は信じてしまうと言う意味の言葉だが、このような説話に使われる事は逆に曾参の人柄と母との間の深い信頼関係が当時の人にとって常識であったと言うことを示している。