孟浩然・王維・李白に影響を与えた山水詩人、謝霊運<11> 永初三年七月十六日之郡初発都 #3 詩集 372
422年38歳
(永初三年七月十六日郡に之かんとし、初めて都を発す)

永初三年七月十六日之郡初発都#3
生幸休明世、親蒙英達顧。
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。
將窮山海迹、永絶賞心唔。

そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない。

#3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす。



永初三年七月十六日之郡初発都 現代語訳と訳註
(本文) #3

生幸休明世、親蒙英達顧。
空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
従来漸二紀、姶得傍歸路。
將窮山海迹、永絶賞心唔。


(下し文) #3
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし
永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす。


(現代語訳)
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。
そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない。


(訳注)
生幸休明世、親蒙英達顧。
幸いに休明【たいへい】の世に生まれ、親しく英達の顧を蒙り。
さいわいに太平の時代に生まれた、盧陵王という英雄に親しく使えることができた。


空班趙氏璧、徒乖魏王瓠。
空しく趙氏の璧に班せしに、徒らに魏王の瓠【こ】に乖【そむ】くこととなれり。
空しく趙氏の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たということがあったし、ただいたずらに「魏王の瓠」をつまらぬものだとしたがそうではなくもっと工夫を凝らさないといけないのだ
趙氏  趙の恵文王。在位前298~前266。○ 連城璧のこと。趙の恵文王の持っていた「和氏の璧」とよばれる宝玉を、秦の昭王が十五の城を連ねて交換したいと申し出たという故事。『史記』廉頗藺相如列伝に見える。○魏王瓠 荘子『逍遥遊第一』「惠子謂莊子曰: 魏王貽我大瓠之種,我樹之成而實五石。」(恵子、荘子に謂いて曰く、魏王、我に大瓠の種を貽る。
 我之を樹うるに成りて五石を実る。以て水漿を盛れば、其の堅きこと自ら挙ぐる能わず。之を剖きて以て瓢と為さば、則ち瓠落して容る所無し。)
恵子が親友の荘子(荘周)に言う。「魏王が僕に『ひょうたんの種』をくれた。僕がこれを植えたら、成長して『五石も入るでっかいひょうたん』が実った。でも、その『ひょうたん』は水を入れても堅くないから中身が漏れ、持ち上げたら壊れてしまう。『ひょうたん』を切って『ひしゃく』にしてもボロボロに欠け、多くの水は汲めない。素晴らしい『大きなひょうたん』でも役に立たなかった。だから、打ち砕いた」とし、最後には、水を入れることばかり考えないで、水に浮べば浮き輪として役立つものだ、という教えである。


従来漸二紀、姶得傍歸路。
従り来たりて漸【ようや】く二紀にして、始めて帰路に傍【そ】うを得たり。
そんなことがありながらも、24年経過してきた、初めて故郷に帰るということができることになったのだ。


將窮山海迹、永絶賞心唔。
将に山海の泣【あと】を窮めんとし、永く賞心【こころにかなう】隨【むか】うを絶たんとす
そして、隠棲して山や海に遊ぶことををまさに極めたいとおもってるし、長く心にある隠遁にあこがれる気持ちはなくなることはない

韓愈の地図00


その心情は左遷の不幸を嘆きつつも、未知の地でこれから山水の美をのみ求めて、大いに人生を楽しもうという希望を述べている。謝霊運は山水詩を詠うことによって人々の心をとらえ、後世に影響を残すことになった。謝霊運、詩人がこの大きな精神的苦痛からの逃避を山水の美に求めたのは、人生における苦を浄土に求めた慧遠の教えにきわめてかなうものであった。しかし、その不幸のなかでも、盟主盧陵王への思慕が強調されていることは注目すべきである。
 謝霊運がいよいよ都を出発するにあたり、左遭であるから、感情の鋭い霊運は見送りの人々の心の冷たさを強く感じた。

名族謝氏ともなれば、こんな不幸の場合でも、盛大な見送りがあったそのときのお別れパーティーで謝霊運が作った詩が、『文選』の巻二十の「祖餞」に引用されている「鄰里相送至方山」(隣里のひと相い送りて方山に至る)の詩である。「方山」とは江蘇省の江寧にあって湖の渡し場のあったところである。


○方山 江蘇省江寧県東五十里 (87km) 。江寧区(こうねい-く)は中華人民共和国江蘇省南京市に位置する市轄区。280年(太康元年)、西晋により秣陵県より分割設置された臨江県を前身とする。翌年江寧県と改称された。
唐代になると620年(武徳8年)に帰化県、625年(武徳8年)に金陵県、626年(武徳9年)に白下県、635年(貞観9年)に江寧県、761年(上元2年)に上元県と改称されている。