白石巌下径行田詩 #2 謝霊運<18>  詩集 384
白石巌下径行田詩謝霊運(白石巌下行田を経ふ)

「白石巌」とは永嘉郡楽成県の西30里(17km)にある白石山のことである。


白石巖下徑行田詩
小邑居易貧。災年民無生。
知淺懼不周。愛深憂在情。」
舊業橫海外。蕪穢積頹齡。
饑饉不可久。甘心務經營。
千頃帶遠堤。萬裏瀉長汀。』
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(白石巌下行田を経ふ)
小邑【しょうゆう】の居は貧なり易く、災いの年には民 生くるなし。
知は浅く周【あまね】からざることを懼【おそ】る、愛は深く 憂いは情に在り。
旧業は海の外に横たわり、蕪穢【ぶあい】 頹齢【たいれい】を積む。
饑饉【ききん】 久しくす可からず、甘心 経営に務む。
千頃【せんけい】 遠き堤を帯び、万里 長汀【ちょうてい】に潟【そそ】ぐ。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑑 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。


現代語訳と訳註
(本文) #2

洲流涓澮合。連統塍埒幷。
雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
雖非鄭白渠。每歲望東京。
天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』

(下し文)#2
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。

(現代語訳)#2
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。


(訳注)#2
洲流涓澮合。連統塍埒幷。
州流して涓澮【いんかい】に合し、連統して塍埒【しょうれつ】を幷【あ】わす。
中州のある川の流れ、小さい小川が集まっている。連続した筋のように堤防が合わさっている。
涓澮 ちいさいながれ。小さいものの形容。合。連統 連続した筋.○塍埒 堤防。塍はあぜ、埒はつつみ。


雖非楚宮化。荒闕亦黎萌。
楚宮の化に非ずと雖ども、荒閥【こうけつ】 亦た黎萌【れいぼう】。
いまは戦国楚の国の頽廃化のようなことにはなっていないが、あれはてた楚宮の宮殿にまた草木の芽が萌えてきている。
荒闕【こうけつ】かって宮殿のあった宮城の門の左右の横にある台が荒れ果てている。○黎萌【れいぼう】。芽吹く前のつぼみの黒い部分。芽吹いていることをいう。


雖非鄭白渠。每歲望東京。
鄭白の渠に非ずと雖ども、毎歳 東京【とうけい】を望む。
鄭白の渠によってもたらされた生活がゆとりあるものということは言えないけれど、毎年、都に向かって希望しているのである。
鄭白の渠 中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ。


天鑒儻不孤。來茲驗微誠。』
天鑒 儻し 孤ならずば、来茲【らいじ】 微誠を験せん。
天の鏡が、もし一つしかないものとしたら、おそらく、わずかな真心を示すことだろう。
天鑒 鑒は人の姿や物の形を映し見る道具。古くは青銅・白銅・鉄などの表面に水銀に錫(すず)をまぜたものを塗って磨いて作った。形は方円・八つ花形などがある。現在のものは、ガラス板の裏面に水銀を塗ってある。○來茲[読み]まさに~すべし;応(應)~ [意味]おそらく(きっと)~だろう。○微誠 わずかな真心。


この田舎はいろいろと生活への条件が悪く、物の産出も少なく、人民ははなはだしく貧乏になりやすいため、凶災の年にはその生命すら全うしがたく、そのうえ、知能も低い。それゆえ、一生懸命、政治に励み、物の豊かになれるように努力したいという。この詩のうちで、「鄭白の渠」とは鄭渠と白渠の灌漑により人民は衣食が満ち足りるようになったという後漢の班固の「西都賦」を意識して歌っているのだ。謝霊運が地方の政治家として真剣に取り組んでいる姿が浮かんでくる。

 また、産業の指導にも熱心に当たったようで、それを物語るものとして、「種桑」の詩が伝えられている。地方の政治家謝霊運の一面を語る資料としてつぎに挙げてみる。