入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩431 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1110


謝霊運が懐かしい都を出て、再び隠遁のため故郷始寧に向かうときの感情を歌ったものである。朝早く旅立ちをするのが当時の習いであったが、ちょうど大風の吹いている日であった。それも、向かい風で歩きにくいものであった。しかし、出発の日は清明節、陽暦の四月五日または六日にあたるが、旅立つにはきわめて縁起のよい日であった。再び都に来たが、無念にも、再び故郷に隠遁しに帰る謝霊運の心情は、さぞかし感慨無量なものがあったと思う。


入東道路詩(東の道路に入るの詩)#1
整駕辭金門.命旅惟詰朝.
懷居顧歸雲.指塗泝行飆.
屬值清明節.榮華感和韶.
陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.
#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
滿目皆古事.心賞貴所高.
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
魯連謝千金.延州權去朝.
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
行路既經見.願言寄吟謠.

人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。



(東の道路に入るの詩)
駕を整えて金門を辞す、旅を命ず惟【こ】れ 詰朝【きつちょう】。
居を懐かしみ帰る雲を顧みる、塗を指し飆【おおかぜ】に泝【さかのぼ】り 行く。
属【たまた】ま 清明【せいめい】の節に値【あ】う、栄華 感じて韶【しょう】に和す。
陵隰【りょうしつ】に繁れる緑の杞【き】、墟園【きょえん】に粲【さん】たる紅桃【こうとう】。
#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里は密、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。


現代語訳と訳註
(本文) #2

鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.
隱軫邑里密.緬邈江海遼.
滿目皆古事.心賞貴所高.
魯連謝千金.延州權去朝.
行路既經見.願言寄吟謠.


(下し文)#2
鷕鷕【えいえい】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
隱軫【いんしん】として邑里 密かに、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。
 

(現代語訳)#2
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。


(訳注)#2
鷕鷕翬方雊.纖纖麥垂苗.

鷕鷕【きょうきょう】として翬【きじ】は方に雊【な】く、纖纖【せんせん】として麦は苗に垂る。
オスの雉の鳴き声はきょうきょうと今まさに啼いている。しょうしょうと麥は作物栽培の畑に植え付けた苗は育ち垂れている。
鷕鷕 オスの雉の鳴き声のさま。・ 作物栽培や植林を行う場合に畑や林地に植えつける若い植物を苗


軫邑里密.緬邈江海遼.
隱軫【いんしん】として邑里 密かに、緬邈【めんばく】として江海 遼かなり。
春の盛りの村里は春の息吹がひそかに進んでいる。はるかに遠い江河と東海がはるかにある。
・隱 さかんなさま。・緬邈 1 はるかに遠い。「緬邈(めんばく)」 2 細く長い糸。


滿目皆古事.心賞貴所高.
満目 皆な古事、心の賞するは高き所を貴ぶ。
目に見えるかぎりのものすべて皆故事にかかわるものだ。そして、それは心に賞賛するものでと音いことは高い志を持ち続けることである。
満目 見わたすかぎり。目に見えるかぎり。


魯連謝千金.延州權去朝.
魯連【ろれん】は千金を謝し、延州は権【かり】に朝を去る。
魯中連は千金をもってしても高節を守って誰にも仕えず、春秋時代の呉の季札は清廉賢哲を以って知られ朝、固辞して朝立ち去った。
魯連 魯仲連(約西元前305年~西元前245年)戦国時代の斉の雄弁家。高節を守って誰にも仕えず、諸国を遊歴した。生没年未詳。魯連。・延州 季札(きさつ、生没年不詳)は、中国春秋時代の呉で活躍した政治家。姓は姫。呉の初代王寿夢の少子。清廉賢哲を以って知られ、延陵の季子として知られる。


行路既經見.願言寄吟謠.
行路 既に見を経たり、願わくは言 吟謡に寄せんことを。
人生の行路は既に、経験してわかってきた、、願うことなら、詩にして吟じたり、民用にして語り伝えたい。




延州權去朝.兄弟相続・末子相続の風習を儒教的な美談をいう。
春秋呉王寿夢は息子のうち賢人として名高い季札を跡継ぎとしたいと思ったが、季札は兄を差し置いて王位に即くことを拒み、野に下った。それでも諦め切れなかった寿夢は、死に際して季札に後を継がせるように遺言したので長子の諸樊は季札の元へ赴いて王位につくことを願ったが、季札はまたしてもこれを拒んだ。そこで季札以外の兄弟たちは相談して王位を兄弟で継承していくことにし、ひとまず諸樊が王位に即いた。
諸樊の死後、次子余祭は季札に即位を願ったが季札はこれを拒んだ。そこで余祭はせめて領内の一都市の治世を担当してもらうように望み、季札もこれを断りきれず延陵の地に封ぜられた。季札はこの地を見事に治め、この後季札は延陵の季子と呼ばれるようになる。
その後、三男余昧の死後、またしても使者が季札の元を訪れて王位に就くことを願ったが、季札はまたしてもこれを拒み、王位は結局余昧の子である僚[2]へと継承された。これを不服に思った諸樊の子の光が呉王僚を殺して闔閭として即位すると、呉は最盛期を迎えて春秋五覇の一国に数えられるまでになった。