初発石首城 謝霊運(康楽) 詩<56-#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩444 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1149


謝霊運は、臨川の内史をもって呼ぶ習慣があったがこの地の内史になったのは天子の特別なるおばしめしで、彼にとっては思わざる栄転であったとされるが、謝霊運は喜んではいなかった。
その臨川に赴任するとき、都の建康の西にあった石首城、すなわち石頭城を出発するときにその感慨を歌ったものに「初めて石首城を発す」がある。これは『文選』の巻二十六の「行旅」の部に引用されているが、この詩にはその不満の感情が実によく歌われているからである。



初發石首城
白珪尚可磨,斯言易為緇。
天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
寸心若不亮,微命察如絲。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
日月垂光景,成貸遂兼茲。」
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう
#2
出宿薄京畿,晨裝摶魯颸。重經平生別,再與朋知辭。
故山日已遠,風波豈還時。苕苕萬里帆,茫茫終何之?」
#3
游當羅浮行,息必廬霍期。越海淩三山,遊湘曆九嶷。
欽聖若旦暮,懷賢亦淒其。皎皎明發心,不為歲寒欺。」


(初めて石首城を発す)
白き珪【けい】は尚 磨く可きも,斯の言は緇【くろ】と為し易し。
中孚【ちゅうふ】の爻【こう】を抱くと雖ども,猶 貝錦【ばいきん】詩に勞するごとし。
寸心【すんしん】の若し不亮【あき】らかならずんば,微命は察するに絲の如く。
日月 光景を垂れ,貸を成して遂に茲【これ】を兼ねしむ。」
#2
出宿をて京畿【けいき】に薄【いた】り,晨に裝いて魯颸【ろし】摶つ。
重ねて平生の別を經て,再び朋知に辭を與【あた】う。
故山【こざん】日に已に遠く,風波もて豈 還る時あらんや。
苕苕【ちょうちょう】萬里の帆,茫茫【ぼうぼう】終【つい】に何れに之かん?」

#3
游びには當に羅浮【らふ】に行くべし,息うは必ず廬 霍に期す。
海を越えて三山を淩ぎ,湘に遊びて九嶷【きゅうぎ】を曆ん。
欽聖【きんせい】旦暮【たんぼ】の若く,懷賢【かいけん】亦た 淒其【せいき】たり。
皎皎【きょうきょう】明發を心し,歲寒に欺【あざむ】かるるを為さず。」


現代語訳と訳註
(本文) 初發石首城

白珪尚可磨,斯言易為緇。雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
寸心若不亮,微命察如絲。日月垂光景,成貸遂兼茲。」


(下し文)
白き珪【けい】は尚 磨く可きも,斯の言は緇【くろ】と為し易し。
中孚【ちゅうふ】の爻【こう】を抱くと雖ども,猶 貝錦【ばいきん】詩に勞するごとし。
寸心【すんしん】の若し不亮【あき】らかならずんば,微命は察するに絲の如く。
日月 光景を垂れ,貸を成して遂に茲【これ】を兼ねしむ。」


(現代語訳)

天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう


(訳注)
初發石首城

石首城 石頭城のこと。建康の都の西にある石頭城から任地臨川に赴くときに作った。
江蘇省南京市清涼山。 本楚金陵城, 漢建安十七年孫權重築改名。 城負山面江, 南臨秦淮河口, 當交通要沖, 六朝時為建康軍事重鎮。
戦国時代,周?王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっとも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。
石頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部には石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。
南京清涼山後方位置(南京時内で30分距離)にある石頭城は南北の長さ3km,城遺跡は赤い色,城内には大量の河工石があって高さが0.3-0.7m,一番高いところは17mに達する自然岩石で造成され中間部位何ヶ所は飛び出してきた赤い色の水成岩になって険悪な顔と似て(鬼脸城)という。 本城は楚威王の金陵邑として楚威王7年(333年)に建造した。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵とした。東漢建安16年(211年)呉の孫権は秣陵(今日南京)に遷都して翌年に石頭山金陵邑旧跡に城を築いて石頭と名付けた。 明洪武2年(1369年)石頭城を応天府城(現南京)の一つ部分で再建した。 長江の軍事要地に当たるので歴代軍事家らの必須争奪地域になったし,石城虎距という名前を持つようになった。


白珪尚可磨,斯言易為緇。
天子に賜る白い玉は磨けば磨け砕け良いことになるが、言葉は讒言など黒く汚れたものでも容易にもちいられている。
白珪 【けい】諸侯に封じる時に、天子が授ける玉。「珪璧(けいへき)」白い玉はまた磨けばいいが、言葉は黒く汚れ易い、とある。『詩經』大雅、抑篇「白圭之玷,尚可磨也。斯言之玷,不可爲也。」(白圭の(王占)けたるは、なお磨くべし、この言の(王占)けたるは、為(おさ)むべからず。)、白い玉の欠けたのは、また磨けばいいが、言葉を誤ると改めようがない、とあるを引く。 ・ 悪口


雖抱中孚爻,猶勞貝錦詩。
誠、真心というものを易の卦のようにして大事にしているのであるが、それでもなおいろんな讒言によって苦労をしているのだ。
中孚 誠、真心ということ。・(こう)は、易の卦を構成する基本記号。
貝錦詩 議言


寸心若不亮,微命察如絲。
自分のほんの少しの気持ちが、もし人に明るくはっきりしていることができないのであれば、私の徴命は察するに糸のように危ういことである。
寸心 ほんの少しの気持ち。自分の気持ちをへりくだっていう語。


日月垂光景,成貸遂兼茲。」
太陽や月のように我々に暖かい慈愛を施してくれる文帝は私に光景を垂れてくだされた、誰もがするように賄賂を贈ることをしてでも臨川の内守を何とか勤め上げることにしよう
 宝。まいなう、賄賂を贈ること。・茲 江西省の臨川の内史という役につけられたが、これは謝霊運を太守扱いにするというもので実質謝霊運の上に大守がいた。