従斤竹澗超嶺渓行 謝霊運(康楽) 詩<57-#3>Ⅱ李白に影響を与えた詩449 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1164


從斤竹澗越嶺溪行詩
斤竹澗から峰を越え谷川ぞいに行く時の詩
猿鳴誠知曙。穀幽光未顯。
猿が鳴いて、本当に夜が明けていくことがわかるのであるが、谷が深く、しずかで暗く、朝日の光はまだあらわれない。
巌下雲方合。花上露猶泫。
岩の下に雲がわいてきてちょうどそこで集まり合わさっている、谷に咲く花の上には露がまだしたたっている。
逶迤傍隈隩。迢遞陟陘峴。
うねうね峰は続き、山のくぼみに沿って、高く遠く山の切り通しや小さい嶺にのぼってゆく。
#2
過澗既厲急。登棧亦陵緬。
石の上に瓜先き立って岩から飛び出す滝の水を汲み、林の枝を引きよせて若葉を摘むのである。
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
觀此遺物慮。一悟得所遣。
谷川を過ぎてゆけばやがて急流を服を着たまま川を渡り、急傾斜に木を組んで造った桟道を登ってはるかな山の上に出る。
川渚屢徑複。乘流翫回轉。
川のなぎさをしばしば向こう岸に往ったりかえったりし、流れに随い下って川の廻転を楽しむのである。
蘋萍泛沉深。菰蒲冒清淺。
浮草が深い淵にただよい集まり、まこもやがまは清んだ浅瀬を蔽って生えている。
企石挹飛泉。攀林摘葉卷。


(斤竹澗より嶺を越えて溪行す。)
猿鳴いて誠に曙【あけぼの】を知り、谷幽にして光未だ顯【あら】われず。
巌下に雲 方【まさ】に合し、花上に露猶 泫【したた】る。
逶迤【いい】として隈隩【わいおう】に傍【そ】ひ、迢遞【ちょうてい】として陘峴【けいけん】を陟【のぼ】る。
#2
澗を過ぎて既に急を厲【わた】り、桟を登って亦 緬【めん】を陵【しの】ぐ。
川渚【せんしょ】は屡【しばし】ば 徑複【けいふく】し、流に乗じて回轉【かいてん】を翫【もてあそ】ぶ。
蘋萍【ひんべい】は沈深【ちんしん】に泛び、菰蒲【こほ】は清淺【せいせん】を冒【おお】えり。
石に企【つま】だてて 飛泉を挹【く】み、林を撃ちて葉巻【ようけん】を摘む。
#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。



現代語訳と訳註
(本文)
#3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
握蘭勤徒結。折麻心莫展。
情用賞為美。事昧竟誰辨。
觀此遺物慮。一悟得所遣。


(下し文)#3
想見【そうけん】す山阿【さんあ】の人、薜蘿【へいら】眼に在るが若し。
蘭を握りて勤【ねんごろ】に徒【いたずら】に結び、麻【ま】を折りて心展【の】ぶる莫し。
情は賞して美と為すを用いて。事 昧【くら】くして竟に誰か辨せん。
此を觀て 物慮を遺【わす】れ、一たび 悟って遣る所を得たり。


(現代語訳)
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。


(訳注) #3
想見山阿人。薜蘿若在眼。
そのうちに、楚評九歌の山鬼籍に「ここに人山の阿に有り、辞茅(まさきのかずら)薜茘を被【き】て、女蘿(ひかげのかずら)を帯にす」とある、あの祇園精舎とする山の阿に住む人を想い見て、その人のかずらの衣帯がまのあたりにあるようである。
山阿人 祇園精舎で左土地を開く修行をしているひと。山の端に住む人。楚辞九歌山鬼篇に「若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。」(ここに人山の阿に有りし薜茘を被り女蘿を帯にす)と。・薜羅 薜茘の衣、女蘿の帯。山鬼の衣帯。
楚辞九歌山鬼篇
若有人兮山之阿,被薜荔兮带女萝。既含睇兮又宜笑,子慕予兮善窈窕。
乘赤豹兮从文狸,辛夷车兮结桂旗。被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。
余處幽篁兮终不見天,路險難兮獨后来。表独立兮山之上,云容容兮而在下。
杳冥冥兮羌昼晦,东风飘兮神灵雨。留灵修兮憺忘归,岁既晏兮孰华予。
采三秀兮于山间,石磊磊兮葛蔓蔓。怨公子兮怅忘归,君思我兮不得閒。
山中人兮芳杜若,飲石泉兮陰松柏。君思我兮然疑作。
雷填填兮雨冥冥,猿啾啾兮狖夜鳴。風颯颯兮木萧萧,思公子兮徒離憂。


握蘭勤徒結。折麻心莫展。
楚辞の詩人と同様に、私も蘭草を取っては贈るすべもなく、心をこめてただむだに結ぶだけであり、浄土に咲く大麻の花を折っても心はふさがって伸べることができない。
握蘭 香ばしい蘭草を握る。山鬼篇に「被石蘭兮带杜衡,折芳馨兮遗所思。」(石蘭【せきらん】を被【き】て杜衡【とこう】を带【おび】とし,芳馨を折りて思ふ所に遣らん。)「棗拠の逸民賦に曰く、春蘭を握りて芳を遣ると」とある。・折麻 麻の白い花を折って離れている人に贈る。楚辞九歌大司命篇に「折疏麻兮瑶華、将以兮離居。」(疏麻の瑶華〈白玉のような花〉を折りて、将に離れ居るもの遣らんとす。)と。沈徳潜注に「此れ徒に勤に心を結ぶを云ふ」と。・心莫展 遣る人がないのでこころはふさがる。沈徳潜注に「友に贈らんと欲して由末きを言ふなり。上の二句を承けて看れは便ち明かなり」と。
楚辞九歌大司命篇
廣開兮天門,紛吾乘兮玄雲;
令飘风兮先驱,使涷雨兮洒尘;
君回翔兮以下,逾空桑兮从女;
纷总总兮九州,何寿夭兮在予;
高飞兮安翔,乘清气兮御陰陽;
吾与君兮齐速,导帝之兮九坑;
灵衣兮被被,玉佩兮陆离;
壹陰兮壹陽,衆莫知兮余所爲;
折疏麻兮瑶,将以遗兮离居;
老冉冉兮既极,不寢近兮愈疏;
乘龍兮轔轔,高騁兮冲天;
結桂枝兮延佇,羌愈思兮愁人;
愁人兮奈何,愿若今兮無虧;
固人命兮有当,孰離合兮何爲?


情用賞為美。事昧竟誰辨。
人間の情念は美しいものこそ浄土を為すべきものとして心から賞賛するのであり、この事の真理は蒙昧で未熟なものにとって誰がよく見わけることができよう。
 偽りのない心。・用賞為美 極楽浄土をもとめる心の賞賛をよいとする。・事昧 その事の真理は無知蒙昧にとって悟り難い。・竟誰辨 仏陀は分け隔てをしない。善人も悪人でも分け隔てなく極楽浄土にゆけること。


觀此遺物慮。一悟得所遣。
しかしこの山水の美しきを観ては、人の心にひたすらに浄土に遣るために外物や余計な配慮を忘れ去ることである、浄土に遣ることだけを心に悟って心の悩みをもつことはないということがよく理解された。
遣物慮 物欲の外物や内心のやましい心慮を忘れる。・一悟 浄土に遣ることだけを心に悟って。・ 悩みを去る。心をなぐさめる。煩悩を棄て極楽浄土へ遣ること。謝靈運にとって、天子のほかに仏陀がいるのであり、中華思想では判断できない思想がある。儒者道教者は、施政者の哲学の中に入っていて天子の徳が施されることを基本に論理が組み立てられる。謝靈運には、天子、皇帝より極楽浄土が基本であり、ましてや太守の発言行動に敬意を表することも尊重することもないのである。仏陀のもとにゆけるのか、極楽浄土へ行けるのかが最も重要な判断基準であるのだ。