還舊園作見顔范二中書 謝霊運(康楽) 詩<62-#2>Ⅱ李白に影響を与えた詩461 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1200

還舊園作見顏范二中書 謝靈運
五言

#1
辭滿豈多秩,謝病不待年。
この官を満了しないで官を辞するのは禄が多くて重いのが原因であろうというわけでもないが、病気と言いたてて、老年になるのを待たずに退きやめた。
偶與張邴合,久欲還東山。
これは、思い続けていたとはいえ張長公や邴曼容の隠退の志と合うものであって、あの謝安の東山のある会稽に帰りたいと、長らく欲していたのである。
聖靈昔回眷,微尚不及宣。
かつて、今は亡き聖天子、宋の高祖武帝の恩遇を受けて仕えたことをふりかえる、しかしそのためわが隠退の志を達せられなかったのである。
何意沖飆激,烈火縱炎烟。

ところが、少帝の即位後はからずも大暴風のたけり狂う如くに徐羨之らの乱が起り、やつらのすることは火勢はげしく炎や煙がのたうちまわる如くに猛威をふるったのだ。
#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
#3
流沫不足險,石林豈為艱。閩中安可處,日夜念歸旋。
事躓兩如直,心愜三避賢。託身青雲上,棲岩挹飛泉。
#4
盛明蕩氛昏,貞休康屯邅。殊方咸成貸,微物豫采甄。
感深操不固,質弱易版纏。曾是反昔園,語往實款然。
#5
曩基即先築,故池不更穿。果木有舊行,壤石無遠延。
雖非休憩地,聊取永日閒。衛生自有經,息陰謝所牽。
夫子照清素,探懷授往篇。

(旧園に還りて作り、顔范二中書に見す)#1
満をのぞまず辞す 豈 秩【ちつ】多くありとや、病と謝するに年を待たず。
偶【たまた】ま張邴【ちょうへい】と合い、久しく東山に還らんと欲す。
聖靈【せいれい】は昔 廻眷【かいけん】せしも、微尚【びしょう】は宣【の】ぶるに及ばず。
何ぞ意【おも】はん沖飆【ちゅうひょう】激し、烈火【れっか】は炎烟【えんえん】を縦【ほしいまま】にせんとは。
#2
玉を焚くこと崑峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。

#3
流沫【りゅうまつ】も險とするに足らず、石林【せきりん】も豈【あに】艱【かん】と為さんや。
閩中【びんちゅう】には安んぞ處【お】る可けん、日夜に歸旋【きせん】を念【おも】う。
事は兩如【りょうじょ】の直に躓【つまづ】けるも、心は三避の賢に愜【あきた】る。
身を青雲の上に託し、巌【いわお】に棲みて飛泉【ひせん】を挹【く】む。
#4
盛明【せいめい】は氛昏【ふんこん】を蕩【あら】ひ、貞休【ていきゅう】は屯邅【ちゅうてん】を康んず。
殊方【しゅほう】は咸【みな】貸【めぐみ】に成り、微物【びぶつ】も采甄【さいけん】に豫【あずか】る。
感は深くして操は固からず、質は弱くして版纏【はんてん】し易し。
曾ち是れ昔園【せきえん】に反り,語往を語りて實に款然【かんぜん】たり。
#5
曩基【のうき】即ち先に築けり,故池【こち】は更に穿たず。
果木【かぼく】舊行【きゅうこう】有り,壤石【じょうせき】は遠延【えんえん】無し。
休憩の地に非ず雖ども,聊【いささ】か永日【えいじつ】の閒を取る。
生を衛【まも】るには自ら經【つね】有り,陰に息いて牽く所のものを謝せん。
夫子【ふうし】は清素【せいそ】を照【あきら】かにす,懷【ふところ】に探りて往篇【おうへん】授【さづ】く。


現代語訳と訳註
(本文)
#2
焚玉發昆峰,餘燎遂見遷。投沙理既迫,如邛原亦愆。
長與懽愛別,永絶平生緣。浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。


(下し文)#2
玉を焚くこと昆峰【こんぽう】より發し、餘燎【よりょう】に遂に遷さるを見る。
沙に投じて理は既に迫り、邛【きょう】に如【ゆ】きて 願 亦【たちまち】愆【あやま】つ。
長く懽愛【かんあい】と別れ、永く平生の緣を絶つ。
舟を千仞【せんじん】の壑【たに】に浮べ、轡【たずな】を萬尋【ばんじん】の巔【いただき】に揔【と】る。


(現代語訳)
かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。


(訳注)#2
焚玉發崑峰,餘燎遂見遷。

かくて徐羨之らの暴挙は崑崗に火がもえさかり、玉を焚く如くに盧陵王らを殺し、とうとうその火はのびてこのわたしにも及び、永嘉太守に左遷されたのだ。
○焚玉 尚書の胤征篇に、「祝融司夏,萬物焦爍,火炎昆崗,玉石俱焚,爾無與焉。天吏逸德烈于猛火。」火の崑崗と炎えさかるや、玉も石も俱に焚かる。天吏の逸徳は猛火よりも烈し」。○崑峰 棟両端の金幣、屋根上の宝珠は崑崗が中国随一の金銀の産地であることに由来し、金塊を現している。○余燎 余火。もえ広がる火の余り。宋書に、「少帝は位につく、権は大臣に在り、靈運は異同を構扇し、執政を非毀す。司徒の徐羨之が患ひ、出して永嘉の太守となす」。霊運は時に盧陵王の司馬となっていたのである。


投沙理既迫,如邛原亦愆。
わたしは長沙に流された賈誼のごとく、臨邛にゆける司馬相釦のごとく、永嘉に赴いたが、とても快かなものではなかったばかりか、旧園に帰りたい願いも遂げられなかった。
投沙 身を長沙に投ず。長沙にゆくこと。漢書に、「賈誼は謫せられて長沙に居る。長沙は卑濕なれは、自ら傷悼し、おもへらく、壽ながきを得ざらんと」。・賈誼 漢の孝文帝劉恒(紀元前202-157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び鵩(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「鵩鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。○理迫 運命がさしせまる。「理は法官なり」という。それは、徐羨之らに厳しく監視されて、さし迫った立場に置かれた、というもの。○如邛 漢書に「卓文君は司馬相如に謂って曰く、しばらく臨邛にゆきて昆弟に従ひて仮貸せば、なお以て生を為すに足らん。何ぞ自ら苦しむこと此くのごときに至らん、と。相加ときに臨邛にゆく」。○ あやまつ、たがう、失。


長與懽愛別,永絶平生緣。
かくて長らく親愛の情で親交を深めていた顔延之と范泰と別離し、監視の目が厳しく日常の親しい縁も接触も絶たれた。
長與懽愛 長らく親愛の情で親交を深めていた付き合いをいう。詩を贈った相手の名前ではないが貰った相手にはすぐわかる表現である。顔延之と范泰である。・顔延之(ガンエンシ)384~456
瑯邪の人。字は延年。諡は憲子。顔含の曽孫。御史中丞、秘書監などを経て金紫光禄大夫になった。 当時延之と謝霊運とは詩才をもって有名で、西晋の潘岳、陸機以来の文士といわれていた。 延之は貴族としては第2流であるが、その言動には当時の貴族のもつ特性が顕著に現われている。
范泰【ハンタイ】355~428 南陽・順陽の人。字は伯倫。諡は宣侯。〈後漢書〉の著者范曄の父。 晋の太学博士として任官、父范寧の遂郷侯の爵をついだ。 のち宋の武帝と文帝に仕え、侍中となり、国子祭酒・領江夏王師であった。 晩年には仏教に傾倒した。謝靈運と親交があった。 文章にすぐれ、いくつかの上奏文は正史に載せられている。 文集20巻のほか、古今の善言を集めた24編があったが、全て現在に伝わっていない。
范曄(ハンヨウ)398~445
字は蔚宗。順陽・山陰の人。父范泰は宋の車騎将軍。 范曄は家をでて従伯范弘之の家を継ぎ武興県五等侯を襲封。 経史にひろくわたり、文章・隷書・音律にひいでた。 晋末に彭城王劉義康の冠軍参軍となり、宋に入っては荊州別駕従事まですすみ、父の死をもって退いた。 のち征南将軍檀道済の司馬となったが、脚疾を理由に従軍をがえんじないことなどがあり、不覊の行為が多かったが、累遷して尚書吏部郎となった。 これよりさき、424〔元嘉元〕年、彭城太妃が没し、その葬祭のとき、故僚の集まっているときに、彼は弟の范広義の家で酒を飲み、窓を開いて挽歌を聞きながら楽をかなでた。 そのため、彭城王の怒りをかい、宣城太守に左遷された。しかしその志をえぬ間に、彼は諸家の〈後漢書〉をつづり、一家の作をなした。 范曄は完成をみぬまま没した。 439〔元嘉16〕年、母の死で退いた范曄は、ふたたび仕えて左衛将軍太子せん事にまだいたったが、家庭は修まらず、門地が高いわりに朝廷の優遇を得ず、同じく不平の徒、魯の孔熙先とむすび、彭城王の擁立をはかったが、事がもれて棄市の刑に処された。


浮舟千仞壑,揔轡萬尋巔。
永嘉への左遷の旅は千仞もある深い谷の流れに舟を浮かべ、ある時は萬尋の高い山の路にたずなをとったのだ。
○仞 一仞は八尺、また七尺、もしくは四尺。○尋 八尺。

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