2013/02/07  同じ日の紀頌之5つのブログ
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#1>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1889
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Ⅱ中唐詩・晩唐詩 原道 韓退之(韓愈)詩<115-9>Ⅱ中唐詩581 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1890
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Ⅲ杜甫詩1000詩集
贈蜀僧閭邱師兄 杜甫 成都(3部)浣花渓の草堂(3 -7-#3)  杜甫 <391>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1891 杜甫詩1000-391-572/1500
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Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集
登安陽城樓 孟浩然 (02/07)
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Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩
唐才子傳 辛文房  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-69-5#1   漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1892
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古詩十九首 (1) 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67676781.html
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上  http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。


李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首
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雑詩其四(閨情詩) 曹植 魏詩<34-#1>玉台新詠 巻二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1889


玉台新詠集 巻二 曹植
雑詩
其一 (七哀詩)
明月照高樓,流光正徘徊。
上有愁思婦,悲歎有餘哀。
借問歎者誰?言是宕子妻。
君行踰十年,孤妾常獨棲。
君若清路塵,妾若濁水泥;
浮沈各異勢,會合何時諧?
願為西南風,長逝入君懷。
君懷良不開,賤妾當何依!
七哀詩 魏詩<33-1>文選 哀傷 666 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1881

其二
西北有織婦。綺縞何繽紛。
明晨秉機杼。日昃不成文。
太息終長夜。悲嘯入青雲。
妾身守空閨。良人行從軍。
自期三年歸。今已歷九春。
飛鳥遶樹翔。噭噭鳴索 。
願為南流景。馳光見我君。
雜詩六首其三 曹植 魏詩<20>古詩源 巻三 三国時代の詩646 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1801


其三 情詩
微陰翳陽景,清風飄我衣。
遊魚潛淥水,翔鳥薄天飛。
眇眇客行士,徭役不得歸。
始出嚴霜結,今來白露泺。
遊者歎黍離,處者歌式微。
慷慨對嘉賓,悽愴內傷悲。
情詩 曹植 魏詩<17>古詩源 巻三 女性詩643 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1789


其四 閨情詩 雑詩
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
空室自生風。百鳥翩南征。
春思安可忘。憂戚與我幷。
佳人在遠遁。妾身單且煢。
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
倘終顧盻恩。永副我中情。



南國有佳人。容華若桃李。
朝游江北岸。夕宿瀟湘沚。
時俗薄朱顏。誰為發皓齒。
俛仰歲將暮。榮曜難久恃。
雜詩六首其四 曹植 魏詩<21>古詩源 巻三 女性詩647 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1805





雑詩 其四 (閨情詩)#1 
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
空室自生風。百鳥翩南征。
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
春思安可忘。憂戚與我幷。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
佳人在遠遁。妾身單且煢。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。
#2
歡會難再遇。芝蘭不重榮。
人皆棄舊愛。君豈若平生。
寄松為女蘿。依水如浮萍。
齎身奉衿帶。朝夕不墮傾。
倘終顧盻恩。永副我中情。

衣を携りて中閨を出で、逍遙して 兩楹【りょうえい】に歩む。
閒房【かんぼう】何んぞ寂寞【せきばく】たる、綠草【りょくそう】階庭【かいてい】を被う。
空室【くうしつ】自から風を生じ、百鳥翔りて南に征く。
春思安んぞ忘る可けんや、憂戚【ゆうせき】我と幷【あ】わせり。
佳人【かじん】遠道【えんどう】に在り、妾身【しょうしん】独り単発たり。
歓会【かんかい】再びは遇い難く、蘭芝【らんし】重ねては栄えず。
人皆旧愛【きゅうあい】を棄つ、君豈に平生の若くならんや。
松に寄りて女蘿【じょら】と為り、水に依りて浮萍【ふひょう】の如し。
身を齎【つつ】しみて衿帯【きんたい】を奉じ、朝夕 【ちょうせき】堕傾【だけい】せず。
倘【も】しくは顧眄【こめん】の恩を終えたまわば、永く我が中情【ちゅうじょう】に副【そ】え。


『雑詩其三(情詩)』 現代語訳と訳註
(本文)
其四 閨情詩 雑詩
攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
閒房何寂寞。綠草被階庭。
空室自生風。百鳥翩南征。
春思安可忘。憂戚與我幷。
佳人在遠遁。妾身單且煢。


(下し文)
衣を携りて中閨を出で、逍遙して 兩楹【りょうえい】に歩む。
閒房【かんぼう】何んぞ寂寞【せきばく】たる、綠草【りょくそう】階庭【かいてい】を被う。
空室【くうしつ】自から風を生じ、百鳥翔りて南に征く。
春思安んぞ忘る可けんや、憂戚【ゆうせき】我と幷【あ】わせり。
佳人【かじん】遠道【えんどう】に在り、妾身【しょうしん】独り単発たり。


(現代語訳)
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。


(訳注)
其四 閨情詩 雑詩

○雜詩 「玉台新詠」に従って、「雑詩」其四とする。この節の詩題を、各本は「閏情」とする。なおこの詩の制作時期は明瞭でないが、229年太和三年、東阿王に国がえになった後、明帝を懐しんで作るとされる。
参考(1)では、220年頃~223年にかけての情勢の概略をのべる。参考(2)で224~230年の情勢をのべるのでこの詩の背景として参考にされたい。


攬衣出中閨。逍遙步兩楹。
今宵はもう我慢が出来ません。寝られないので、ころものすそをたくし上げ、手にとって、閨から外へ出たのです。堂前の二本柱のあいだをいったりきたりさまよい歩くのです。
○撹衣 衣の裾を手にとって。「古詩十九首」之十九首
明月何皎皎,照我羅床緯。
憂愁不能寐,攬衣起徘徊。
客行雖雲樂,不如早旋歸。
出戶獨彷徨,愁思當告誰!
引領還入房,淚下沾裳衣。に基づいて作る。。
○中閨 閨中におなじ。ねやの中。
○逍遙 さまよいあるく。
曹丕『芙蓉池作』 
乗輦夜行游、逍遥歩西園。双渠相漑灌、嘉木繞通川。
卑枝払羽蓋、脩条摩蒼天。驚風扶輪轂、飛鳥翔我前。
丹霞挟名月、華星出雲間。上天垂光彩、五色一何鮮。
寿命非松喬、誰能得神仙。遨游快心意、保己終百年。
〇兩楹 堂の入り口の二本の柱。この句で女性の自慰行為とも読める。不遇のものは性描写することで反骨を表すことが多い。


閒房何寂寞。綠草被階庭。
しずかなガランとしたこの部屋には、なんとものさびしいさがただよっています。緑の草が、もう随分伸びてきて、きざはしや中庭におおいかぶさるほどなのです。
○閒房 しずかな部屋。正室の傍にある部屋を房という。
○被 おおう。
○階庭 庭へおりる階段と中庭のこと。


空室自生風。百鳥翩南征
誰もいない部屋のあいた戸口には、どこからか自然な風が吹いて来るのです、そうすると思うのは多くの鳥が南へ飛んでゆくのに添い、ついて行きたいと思うのです。
○空室/空穴 開いた門戸をさす。うつろな部屋。


春思安可忘。憂戚與我幷。
どんなに我慢をしていても春が来ればあなたと過ごしたいこの思いは、どうしてわたしの心を去りましょう。この苦しい思いとやるせなさが、わたしの心と体のどちらにも感じてしまうのです。
○春思 万物が冬の間は我慢をしている「春女陽気に感じて男を思う。」という。曹植の春思はこれにもとづくのであろう。。「天地陰陽、不革而成。」『易経、革』「上六、君子豹変、小人革面」(上六、君子は豹変し、小人は面を革む。)四季の移り変わりのように自然と直ってゆくことを言う。年が改まり、去年の秋冬の風が初春の景色へと変わってゆくように、何かが新しく、正しく改革されてゆく。それは下から登ってきた陽気が去年の陰気に取って代わられてゆくからである。易では下の陽気が上昇し、陰気と入れ替わってゆくことで春が来る。初春は泰(上が坤で下が乾の卦)で表し、地面の上は去年から残る秋冬の風の陰気が「緒風」として残っているが、地面には既に陽気が登ってきて、春が来たのが感じられる。ということで万物が性に目覚める季節の思い。
○憂戚 憂も戚も、ともにうれいの意。
○与我幷 私と一つになる。私とともに存在してはなれない。この語は男女の合体を意味する。


佳人在遠遁。妾身單且煢。
季節は変わろうとしているのに愛しい方は遠い旅路の空の下、私のこの身はなにもかもがひとりぼっちなのです。
○佳人 表面的には夫をさす
○単煢 孤独のさま。


参考(1)
■曹操の死と漢王朝の滅亡
220年1月23日。洛陽において魏王曹操が逝去する。享年六十六歳であった。
偉大なる覇王の跡を継いだ曹丕は、そつなく国内をまとめあげ、曹操の死による動揺は蜀と呉の陣営が期待したほどにはなかった。
220年10月、曹杢は漢王朝より禅譲を受け、皇帝となる。かくして前漢も合わせれば四百年にわたって続いた漢王朝は滅亡し、代わって魏王朝が成立するのであった。
221年4月、曹丕の魏皇帝即位に対抗して、劉備もまた漢王朝の皇帝として即位する。後に蜀と呼ばれる国家の成立であるが、彼としては劉備が漢王朝の血を引くと自称しており、あくまで漢王朝の正当なる後継者としての皇帝即位であったが、一般的に表現の混乱を避けるため以後「蜀」と表記する。
皇帝に即位した劉備は、荊州奪回を決意する。これは、彼の配下や兵士たちには荊州出身者が多く含まれており、彼らのためにも荊州を奪還せねば人心をまとめあげることが難しかったのである。ただ、義弟である関羽の復仇に意固地になったため過去の劉備とまったく異なるほどの冷静さを欠いてたたかっている。ただこれは劉備の個人的な感情に走るほど無理な戦争であったということなのだ。つまり、蜀から呉を攻め落とせるだけの力量がなかったということであろう。


■夷陵の戦いと劉備の死
221年7月。劉備は蜀の軍勢の大半を動員して、孫権陣営に宣戦布告する。
開戦当初、劉備の勢いは凄まじく、いっきに長江を下っていった。呉の総司令官である陸遜は、蜀軍の勢いを受け流すかのように防衛線を五百里も後退していく。
222年2月、陸遜は夷陵に最終防衛線を張り、ここを堅守して持久戦の態勢に入るのであった。
夷陵における劉備と陸遜の対陣は三カ月にも及び、蜀軍も疲労と倦怠の色が濃くなっていく。
222年5月、陸遜は蜀軍の士気が緩み切ったのを見計らい総攻撃をかける。火攻と夜襲による陸遜の奇襲は見事に成功し、蜀軍は潰滅する。劉備は身一つで白帝城に逃げ込んだものの、蜀軍は多くの将が討たれ、兵員の損害は甚大なるものとなった。ほぼ全滅といえる敗戦である。
このまま陸遜が劉備を追撃し、続けて益州まで攻め入っていれば蜀はこの時点で滅亡していたかもしれない。呉も一時的には蜀を攻め落とせても長期的には伸びすぎた戦力として魏の進行に敗れるとした。蜀は呉の冷静さに救われたということだ。


■曹丕の参戦
曹丕が蜀と呉の戦いの隙を突いて、大軍を南下させようとしていたのである。この報を受けるまでもなく、陸遜は追撃をしなかったのである。
223年、曹丕は濡須口において呉軍と開戦する。しかし呉と蜀の戦いは曹丕の予想よりも早く決着し、防備を整備見直していた呉軍の前に撃退されることになる。結果としては、蜀を救うだけの徒労な遠征となった。ここで三権の力関係がバランスを取れた段階に入ったということだ。
223年4月、劉備は成都に戻ることなく白帝城にて失意のまま没する。そして跡を継いだ劉禅が蜀の皇帝に即位することになった。これを丞相である諸葛亮が補佐するという体制がとられるが、主力軍の大半を失ったうえに、夷陵の敗戦と劉備の死の動揺は大きく、早くも国内では反乱が頻発する。建国間もない蜀は、滅亡の道を啜家と思われるほどの同様であったのだ。
ともあれ漢王朝もまた滅び、後漢末の動乱を飾った最後の群雄である曹操と劉備が没したのである。時代は後漢末から三国時代へと、名実ともに移り変わっていく。