又贈丁儀王粲 曹植(曹子建)

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又贈丁儀王粲 曹植(曹子建) 魏詩<38-#1>文選 贈答二 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1917



この詩の建安十六年とは、
「魏志」の曹植伝及び裴松之の注によれば、丁儀が曹植に接近し始めたのは建安十六年頃からであり、建安十九年には丁儀が曹植の羽翼となったと明記している。曹操配下の鍾繇の漢中遠征に対して、関中馬超が疑心を抱き、韓遂・楊秋・李堪・成宜らとともに反乱を起こす。
建安十六年秋七月曹操は西のかた、馬超・韓遂を攻め、九月に関中(陝西)を平定し、冬十月長安より北のかた、安定(甘粛東部)に楊秋を包囲し、敵を投降せしめた。この西征に曹植が従軍したことは、彼の「離思賦」の序にも見える。
曹操は、安定の楊秋を降伏させ、夏侯淵を長安に駐留させた。『三国志』(魏書・武帝紀)
この年、益州の劉璋が法正の意見を容れ、劉備を益州に迎え入れる。
曹植000

贈丁儀王粲
從軍度函谷,驅馬過西京。
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
山峰高無極,涇渭揚濁清。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
壯哉帝王居,佳麗殊百城。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。
員闕出浮雲,承露概泰清。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。
#2
皇佐揚天惠,四海無交兵。權家雖愛勝,全國為令名。
君子在末位,不能歌德聲。丁生怨在朝,王子歡自營。
歡怨非貞則,中和誠可經。


又丁儀・玉条に贈る
軍に従いて函谷を度り、馬を駆りて西京を過ぐ。
山岑 高くして極り無く、涇・渭 濁と清とを揚ぐ。
壮んなる哉 帝王の居、佳麗なること百城に殊なり。
員闕は浮雲より出で、承露は泰清に概る。

#2
皇佐は天恵を揚げ、四海には兵を交うる無し。
権家は勝を愛すと維ども、国を全うするを令名と為す。
君子は末位に在れば、徳声を歌うこと能わじ。
丁生は怨みて朝に在り、王子は歓びて自ら営む。
歓と怨とは貞則に非ず、中和をば誠に経とす可し。


函谷関長安地図座標005



『贈丁儀王粲』 現代語訳と訳註
(本文)
又贈丁儀王粲
從軍度函谷,驅馬過西京。山峰高無極,涇渭揚濁清。
壯哉帝王居,佳麗殊百城。員闕出浮雲,承露概泰清。


(下し文)
丁儀・玉条に贈る
軍に従いて函谷を度り、馬を駆りて西京を過ぐ。
山岑 高くして極り無く、涇・渭 濁と清とを揚ぐ。
壮んなる哉 帝王の居、佳麗なること百城に殊なり。
員闕は浮雲より出で、承露は泰清に概る。


(現代語訳)
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。


 (訳注)
贈丁儀王粲

○丁儀 (未詳―220年)字は正札、沛郡(安徴、宿県の西北)の人。曹植の最も親しい側近の一人で、曹植を帝位につけようと種々画策したため、兄の曹丕に忌まれ、曹丕が帝位につくや殺された。
○王粲 (177-217年)字は仲宜、山陽高平(山東、金郷県西北)の人。《建安七子》の一人。劉柏(171-217年)とともに、曹植につぐ建安文学の担い手で、悲愴憂愁に富む作品が多い。


從軍度函谷,驅馬過西京。
我々は、馬超ら関中西域を支配するものを討伐する為軍に従って函谷関をこえた。さらに戎馬を馳せて西京長安制覇しこれを通りすぎ隴西の楊秋討伐に向かうのである。
度函谷 函谷関は河南省鉄門県の東北にある。そこを通ったとは、前述の馬超・韓遂征伐をさす。潼関から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地(北緯34度38分19.23秒東経110度55分16.59秒、現在の三門峡・霊宝市函谷関鎮)に作られた。3層の楼閣2棟があったという。
過西京 西京は長安のことで東京は洛陽。そこをすぎたとは、前述の楊秋討伐を言う。


山峰高無極,涇渭揚濁清。
あたりにはけわしい山岳がそびえたっている。渭水を昇っていくと涇水合流地点では、それぞれ涇水は濁った水しぶきがあがり、渭水は清らかな水しぶきをあげている。
山峰 山岑のテキストもあり、河川両翼の峻険なる山をいう。
渭水と涇水。ともに甘粛より流れ、陝西で合流(地図のG3)し、黄河にそそぐ。涇水は濁り、渭水は澄んでいる。
後世中唐の孟郊は『罪松』「涇流合渭流,清濁各自持。」
“涇水の流れは、黄土を流して南流して、西から清く澄みきった水をたたえて東流する渭水の流れに合流する。清濁各々自らの特徴をもっている。”とうたっている。また、『詩経豳風』『詩経、大雅、公劉篇』、でその地域を詠っている。周の部族が、豳に住むようになったのは、に大王九世の祖公劉のときからである。豳は長安の北、黄河支流渭水の支流涇水の流域で岐山を南に控えた高原地帯である。公劉のときから古公亶父まで数百年そこに住んだ、農耕部族である。『詩経、豳風』にその生活の様子を歌ものである。


壯哉帝王居,佳麗殊百城。
そこにそそり立つ我が帝王の居城は結構壮大なものである。まことに帝王の居城たるにふさわしく、その立派さも、天下の百城の中で比べ物にならないし、また他の多くの町とは、その類を異にしている。


員闕出浮雲,承露概泰清。
円闕とよばれる楼門は、高く浮雲のうえにそびえたち、承露盤は天空にとどかんばかりである。
・円闕 員は圓に同じ。建章宮の宮門の北に円関が造られ、高さ二十五丈、上に銅鳳台とある。闕とは楼門である。
・承露 承露盤のこと。上天の柄をうけるべく空中高く作られた大きな皿。