謝靈運 《擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀》 蔡邕に師事して、学問を修めた。曹洪が書記として任用しようとしたが従わず、笞打たれた。建安初年、曹操によって司空軍謀祭酒・記室に任ぜられた。陳琳とともに章表書記にすぐれ、檄文の起草にあたった。


 

2013年6月13日 同じ日の紀頌之5つのブログ
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《擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀》 謝靈運 六朝詩<84-#1>  劉楨 794 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2518


建安文学の文学者 
有名、無名を合わせ、数多くの文学者が建安の文壇に名を連ねてはいるが、中でも著名なのが、建安七子と呼ばれる文学者たちである。
孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀ら七人を総称して、建安の七子と呼ぶ。それに加えて、建安文学の擁護者であり、一流の詩人でもあった曹一族の曹操・曹丕・曹植の三人(三曹と呼ぶ)を同列とし、建安の三曹七子と呼称することもある。
また、繁欽・何晏・応璩・蔡琰・呉質といった著名文学者たちも、この建安文学に携わり、大きく貢献した文壇の一員であるとされている。"   

阮瑀(?~212)
  字は元瑜。陳留郡尉氏の人。蔡邕に師事して、学問を修めた。曹洪が書記として任用しようとしたが従わず、笞打たれた。建安初年、曹操によって司空軍謀祭酒・記室に任ぜられた。陳琳とともに章表書記にすぐれ、檄文の起草にあたった。倉曹掾属に上った。若くして没して、曹丕に惜しまれた。建安七子のひとり。『阮元瑜集』。

終南山03

建安の七子の一人である阮瑀(未詳~212)、字は阮喩について、すでに曹丕は「呉質に与うる書」で「元喩書記翩翩を致して楽を足す」といい、「典論」の「論文」で「琳・瑀の章表書記今の雋なり」と、評しているが、謝霊運もその小序で、


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擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀
(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首 阮瑀について。)
管書記之任,有優渥之言。

阮瑀は曹操に仕えて書記の任務をとっていたので、主君の厚いめぐみを感謝することばがある。
#2
河洲多沙塵,風悲黃雲起。
金羈相馳逐,聯翩何窮已。
慶雲惠優渥,微薄攀多士。
念昔渤海時,南皮戲清沚。
#3
今複河曲遊,鳴葭泛蘭汜。
躧步陵丹梯,並坐侍君子。
妍談既愉心,哀弄信睦耳。
傾酤系芳醑,酌言豈終始。
自從食蓱來,唯見今日美。


(魏の太子の鄴中集の詩に擬す八首「阮瑀」)
 
書記の任を管【つかさど】る,故に優渥【ゆうあく】の言有り。

#2
河洲には沙塵【さじん】多く,風悲しみて黃雲起る。
金羈は相い馳逐【ちちく】し,聯翩【れんぺん】何んぞ窮り已まん。
慶雲は優渥【ゆうあく】を惠み,微薄は多士を攀づ。
念う 昔 渤海の時,南皮にて清沚【せいし】に戲れしを。
#3
今複た河曲に遊び,葭を鳴らして蘭汜【らんし】に泛ぶ。
躧步【しほ】して丹梯【たんてい】を陵ぎ,並び坐して君子に侍す。
妍談【けんだん】は既に心を愉しましめ,哀弄【あいろう】は信【まこと】に耳を睦【やわら】ぐ。
酤【こ】を傾けて芳醑【ほうしょ】を系ぎ,酌言は豈に終始あらんや。
蓱【へい】を食いしより來【このかた】,唯だ今日の美を見る。



『擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀』 現代語訳と訳註
紅梅002(本文)
管書記之任,有優渥之言。


(下し文)
書記の任を管【つかさど】る,故に優渥【ゆうあく】の言有り。


(現代語訳)
阮瑀は曹操に仕えて書記の任務をとっていたので、主君の厚いめぐみを感謝することばがある。


(訳注)
阮瑀は曹操に仕えて書記の任務をとっていたので、主君の厚いめぐみを感謝することばがある。



擬魏太子鄴中集詩八首 阮瑀

(魏の太子、曹丕の鄴の宮殿にいたとしての詩八首 阮瑀について。)


管書記之任,有優渥之言。

4岳陽樓詩人003
建安文学 (けんあんぶんがく)  後漢末期、建安年間(196年 - 220年)、当時、実質的な最高権力者となっていた曹一族の曹操を擁護者として、多くの優れた文人たちによって築き上げられた、五言詩を中心とする詩文学。辞賦に代わり、楽府と呼ばれる歌謡を文学形式へと昇華させ、儒家的・礼楽的な型に囚われない、自由闊達な文調を生み出した。激情的で、反骨に富んだ力強い作風の物も多く、戦乱の悲劇から生じた不遇や悲哀、社会や民衆の混乱に対する想い、未来への不安等をより強く表現した作品が、数多く残されている。建安の三曹七子 1)孔融・2)陳琳・3)徐幹・4)王粲・5)応瑒・6)劉楨・8)阮瑀、建安の七子と曹操・曹丕・曹植の三曹を同列とし、建安の三曹七子と呼称する。   

 
1)孔 融 (こう ゆう) 153年 - 208年   後漢末期の人。字は文挙。孔子20世の孫に当たる。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。子の名は不詳。 


2)陳 琳(ちん りん)  ? - 217年  後漢末期の文官。建安七子の1人。字は孔璋。広陵郡洪邑の出身。はじめ大将軍の何進に仕え、主簿を務めた。何進が宦官誅滅を図って諸国の豪雄に上洛を促したとき、これに猛反対している。何進の死後は冀州に難を避け、袁紹の幕僚となる。官渡の戦いの際、袁紹が全国に飛ばした曹操打倒の檄文を書いた。 飲馬長城窟行    易公孫瓚與子書


3)王 粲(おう さん) 177年 - 217年 、)は、中国、後漢末の文学者・学者・政治家。字は仲宣。王龔の曾孫、王暢の孫、王謙の子。王凱の従兄弟。子に男子二名。山陽郡高平県(現山東省)の人。曽祖父の王龔、祖父の王暢は漢王朝において三公を務めた。文人として名を残し、建安の七子の一人に数えられる。 登樓賦   公讌詩   詠史詩   七哀詩三首   從軍詩五首


4)徐幹 (とかん)  ? - 217年  
北海郡劇県の出身。字は偉長。零落した旧家の出で、高い品行と美麗典雅な文章で知られた。建安年間に曹操に仕え、司空軍謀祭酒掾属・五官将文学に進んだ。隠士的人格者で、文質兼備であると曹丕から絶賛された。『詩品』では下品に分類される。 


5)応瑒 (おうとう) ?~217   字は徳璉。汝南郡南頓の人。応珣の子。応劭の甥。学者の家の出で、曹操に召し出され、丞相掾属に任ぜられた。平原侯(曹植)の庶子を経て、五官将文学に上った。建安七子のひとり。 


6)劉 楨 (りゅう てい) ? - 217年
後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)劉 楨(りゅう てい、? - 217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)[1]。
曹操に招かれ丞相掾属となり、五官将文学・平原侯庶子に転じて、曹操の息子の曹丕や曹植と親しく交際した。後に宴席の場で、曹丕が夫人の甄氏に命じて挨拶させた時、座中の人々が平伏する中、一人彼女を平視した。このことを聞いた曹操に不敬を問われたが、死刑を許されて懲役にされた。刑期が終わると吏に任じられた。217年に死去。


劉楨は文才に優れ、数十篇の作品を著したという。特に五言詩は「其の五言詩の善き者、時人に妙絶す」(曹丕「呉質に与うる書」)として高く評価された。後世においても「真骨は霜を凌ぎ、高風は俗を跨ぐ」(鍾嶸『詩品』)と評されるように、骨太で高邁な風格を特徴とする作風は、王粲とともに建安七子の中で最も高い評価を受けている。劉 楨(りゅう てい、? - 217年)は、中国、後漢末に曹操に仕えた文学者。字は公幹。建安七子の一人。東平寧陽(現山東省)の人。後漢の宗室の子孫、劉梁の子(あるいは孫)[1]。
曹操に招かれ丞相掾属となり、五官将文学・平原侯庶子に転じて、曹操の息子の曹丕や曹植と親しく交際した。後に宴席の場で、曹丕が夫人の甄氏に命じて挨拶させた時、座中の人々が平伏する中、一人彼女を平視した。このことを聞いた曹操に不敬を問われたが、死刑を許されて懲役にされた。刑期が終わると吏に任じられた。217年に死去。
劉楨は文才に優れ、数十篇の作品を著したという。特に五言詩は「其の五言詩の善き者、時人に妙絶す」(曹丕「呉質に与うる書」)として高く評価された。後世においても「真骨は霜を凌ぎ、高風は俗を跨ぐ」(鍾嶸『詩品』)と評されるように、骨太で高邁な風格を特徴とする作風は、王粲とともに建安七子の中で最も高い評価を受けている。" 贈従弟三首


7)阮瑀 (げんう) ?~212  陳留尉氏の出身。字は元瑜。蔡邕に就いて学問を修め、曹洪の招聘を拒否して鞭打たれたこともあったが、建安初年に曹操の司空軍謀祭酒・記室となった。章表書記において陳琳と双璧と謳われたが若くして病死し、殊に曹丕に惜しまれたという。『詩品』では下品に位する。 
王琰(おうえん) 177~217 後漢から魏(ぎ)にかけての文人。高平(山東省)の人。字(あざな)は仲宣。博覧多識で知られる。詩賦に長じ、建安七子の一人。「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」など。  「従軍詩」「七哀詩」「登楼賦」