司馬相如 《子虚賦 》(24それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。

 

2013年9月30日  同じ日の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
   
LiveDoor
司馬相如 《子虚賦 》(24)#10-1 文選 賦<109-#10-1>9分割26回 Ⅱ李白に影響を与えた詩903 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3063
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoor
《庭楸》韓愈(韓退之) 194-#3Ⅱ中唐詩 <816>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3064韓愈詩-194-#3
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集  LiveDoor 659 《將適吳楚留別章使君留後兼幕府諸公得柳字》 蜀中転々 杜甫 <564-#2>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3065 杜甫詩1000-564-#2-807/1500
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2 28曹植(曹子建) 《贈白馬王彪 序》 魏詩 kanbuniinkai 紀 頌之の詩詞 fc2ブログ 3066 (09/30)
●●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩
Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor 荷葉盃 三首 其一 温庭筠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-304-5-#58  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3067
 
 ■最近の人気の文・賦・詩・詞(漢詩の5ブログ各部門)
 ■主要詩人の一覧・詩目次・ブログindex

『楚辞・九歌』東君 屈原詩<78-#1>505 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1332 
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67664757.html 
『楚辞』九辯 第九段―まとめ 宋玉  <00-#35> 664 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ2304 
http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10-rihakujoseishi/archives/6471825.html 
安世房中歌十七首(1) 唐山夫人 漢詩 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67710265.html 
為焦仲卿妻作 序 漢詩<143>古詩源 巻三 女性詩http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67729401.html 
於凊河見輓船士新婚別妻一首 曹丕(魏文帝) 魏詩http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67759129.html 
朔風 (一章) 曹植 魏詩<25-#1>文選 雑詩 上 http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67780868.html 
謝靈運詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/1901_shareiun000.html 謝靈運詩 六朝期の山水詩人。この人の詩は上品ですがすがしい男性的な深みのある詩である。後世に多大な影響を残している。 
謝靈運が傲慢で磊落だったというが彼の詩からはそれを感じさせるということは微塵もない。謝靈運、謝朓、孟浩然は好きな詩人である。 
登永嘉緑嶂山詩 #1 謝霊運 <20> 詩集 386ーhttp://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67474554.html 
登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  ー http://blog.livedoor.jp/kanbuniinkai10/archives/67502196.html 
孟浩然の詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/209mokonen01.html 孟浩然の詩 盛唐初期の詩人であるが謝霊運の詩に傾倒して山水詩人としてとてもきれいな詩を書いている。特に山水画のような病者の中で細やかな部分に動態を感じさせる表現力は素晴らしい。

李商隠詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/3991_rishoin000.html 
李商隠詩 華やかな時はほんの1年余り、残りは不遇であった。それが独特な詩を生み出した。この詩人の詩は物語であり、詩を単発で見ては面白くなく、数編から十数編のシリーズになっているのでそれを尊重して読まれることを進める。 
女性詩人 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/0josei00index.html 女性詩人 古代から近世に至るまで女性の詩は書くことを許されない環境にあった。貴族の子女、芸妓だけである。残されている詩のほとんどは詞、楽府の優雅、雅なものへの媚の詞である。しかしその中に針のような痛みを感じさせるものがあるのである。 
孟郊詩 http://www10.plala.or.jp/kanbuniinkai/328_moukou001.html 「文章得其微,物象由我裁。」詩人が作り出す文章は細やかなる描写表現を得ているものだ、万物の事象をも作り出すことさえも詩人自身の裁量でもってするのである。 
李商隠詩 http://kanbuniinkai7.dousetsu.com/99_rishoinn150.html Ⅰ李商隠150首

 

司馬相如 《子虚賦 》(24#10-1 文選 賦<109-#10-19分割26回 Ⅱ李白に影響を与えた詩903 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3063

 

 

武帝の宮廷へ

ところで、中央では景帝が死に、武帝が皇帝の位についていた。武帝は景帝と違って、文学を大変好んでいた。あるとき、武帝は「子虚の賦」を読んで、大いに感動し、「この賦の作者と同じ時代に生きられなかったのは残念だ」とまで言った。武帝は「子虚の賦」が、ずっと昔の人によって書かれたと思っていたのだ。司馬相如と同郷である側近の楊得意という者が、「子虚の賦」の作者が今生きている人間で、名を司馬相如というと武帝に教えた。

武帝は早速司馬相如を召した。そのとき、司馬相如は、「子虚の賦」が諸侯のことを書いた内容であり、天子(皇帝)にたてまつるのにはふさわしくないと言った。そして、司馬相如は天子にふさわしくなるように「子虚の賦」を改作して、「天子游獵賦(『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分割。「子虚・上林賦」と称されることが多い。)」として、武帝にたてまつった。武帝は大いに喜び、司馬相如を郞に復職させた。

 

 

(24)10-1

且齊東陼鉅海,南有琅邪,

それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。

觀乎成山,射乎之罘;

成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。

浮勃澥,游孟諸。

渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。

邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界,

東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。

 (25) #102

秋田乎青丘,傍偟乎海外,

吞若雲夢者八九,其於匈中曾不蔕芥。

若乃俶儻瑰偉,異方殊類,

珍怪鳥獸,萬端鱗崒,

(26) #103

充仞其中者,不可勝記,

禹不能名,契不能計。

然在諸侯之位,不敢言游戲之樂,苑囿之大;

先生又見客,是以王辭不復,

何為無以應哉!」

 

(24) #10-1

且つ齊は東のかた鉅海【きょかい】を陼【しきり】とし,南のかた琅邪【ろうや】を有【たも】てり,。

山に觀 乎【つく】り,之罘【しふ】に射る。

勃澥【ぼっかい】に浮かび,孟諸【もうちょ】に

【なな】めに肅慎【しゅくしんと】鄰たり,右は湯谷を以って界と為せり。

(25) #102

秋には青丘に田【かり】し,海外に傍偟【ほうこう】す

雲夢の若き者も八九を吞めども,其の匈中に於て曾て蔕芥【たいかい】にもせず

若し乃ち俶儻【てきとう】瑰偉【かいい】として,方を異にし類を殊にするは,

珍怪鳥獸,萬端にして鱗【うろこ】もごとく【あつま】る

(26) #103

其の中に充仞【じゅうじん】し,勝【あ】げて記す可からず。

禹も名つくること能わず,契も計【かぞ】うること能わず。

然れども諸侯の位に在りては,敢て游戲の樂しみ,苑囿【えんゆう】の大いなることを言わず。

先生 又た 客と見【せ】られたり,是を以って王辭して復【こた】えず

何んぞ以って應【こた】うること無しと為さんや!」

 

 

『子虛賦』 現代語訳と訳註

(本文) 10

且齊東陼鉅海,南有琅邪,

觀乎成山,射乎之罘;

浮勃澥,游孟諸。

邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界,

 

 

(下し文) (24) #10-1

且つ齊は東のかた鉅海【きょかい】を陼【しきり】とし,南のかた琅邪【ろうや】を有【たも】てり,。

山に觀 乎【つく】り,之罘【しふ】に射る。

勃澥【ぼっかい】に浮かび,孟諸【もうちょ】に

【なな】めに肅慎【しゅくしんと】鄰たり,右は湯谷を以って界と為せり。

 

 

(現代語訳)

(烏有先生の言葉の続き)

それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。

成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。

渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。

東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。

 

 

(訳注) 10

(#10の理解のため)

2巡行秦始皇帝

・始皇帝の二回目の巡行は、B.C.219年、一回目の一年後である。二回目は東方の郡県をめぐり、南方に下ってかえった。

・鄒の嶧山に上り、魯の儒生らを招いてこの時封禅のことを問うた。 儒家の一致しない意見を無視して封禅を行った始皇帝は、山を下りた時ににわかに風雨に遭い、五大夫松の下で休んだという。

・そして渤海に沿って東行し、黄縣を通り、成山を極め、之罘山に登って秦の頌徳碑を立てた。そして南の琅琊山に登り大いに楽しみ、滞留3ヶ月、 黔首3万戸を琅琊山の麓にうつし、12年間賦税を免除して琅琊台を作った。

・ここで徐芾に命じて童男童女数千人を出して海上に僊()人を求めた。

・彭城を通ったとき、斎戒して祈り、周の鼎を泗水から引き揚げようと1000人に命じて水中に探させたが見つからなかった。この逸話は、おそらく後世儒家が作り出した話である。

・南行して南郡で長江に浮かび、湘山祠に行ったところ、大風にあい、舟が覆りそうになる事件があった。 始皇帝は大いに怒って罪人3000人を使い湘山の樹をみな伐って禿げ山にした。そして南郡から武関を通って咸陽に帰った。

 

且齊東陼鉅海,南有琅邪。

それに、斉は、東は大海に臨み、南は琅邪山まで領有しています。

・鉅海 大きな海。 勢力のあるうみ。

・琅邪 中国の古地名。瑯邪,瑯琊,琅とも書く。春秋時代越王句践(こうせん)が現在の山東省膠南県南西の地に黄海を望む台館を起こし,諸侯と会盟を行ったという。秦の始皇帝はここを治所に琅邪郡を置き,28(219)の泰山封禅ののち琅邪台を設け,秦朝の頌徳碑を建てた(琅邪台刻石)。前漢も今の諸城県を治所に琅邪郡を置き,後漢は今の臨沂(りんぎ)県を中心に琅邪国とした。東晋・南朝で第一流の名族とされた王導一族は,琅邪・臨沂の出身である。

 

觀乎成山,射乎之罘。

成山に台を建て観察し、之罘山で狩りをおこなった。

・之罘 之罘山

 

浮勃澥,游孟諸。

渤海に船を浮かべ、孟諸の沢に遊びます。

・孟諸 孟諸沢は宋城の東北に沼沢が広がっていて、良い猟場であった。

 

邪與肅慎為鄰,右以湯谷為界。

東北に在る粛慎國と隣り合い、東は湯谷を境界としています。

・粛慎 先秦時代の古典に見える東北境外の民族。〈東夷〉の一つで,中国の威徳を慕って来朝し,特産品の楛矢石砮(こしせきど)(人参木の枝で作った矢に石のやじりをつけたもの)を献上したことが記されているが実体は不明。3世紀,魏・晋期以降になると,今の吉林・黒竜江両省から沿海州方面に居住した漢代の挹婁(ゆうろう),南北朝期の勿吉(こつきつ),隋・唐期の靺鞨(まつかつ),宋以降の女真をその後裔とする考えが行われた。

・湯谷 《山海經》記載之湯谷就在古琅琊(現山東省日照市)
 01tonorakuzu4