(班固)《兩都賦序》(3) 武帝・宣帝の代になり、はじめて礼楽の制度を重視し、文教政策を検討し、宮廷内には、文学の士の出仕する金馬門という役所、石葉という図書館を設け、宮廷外には、楽府という音楽関係の役所、協律都尉という音楽長官の制度を新設し、廃止されたものを再興し、中絶したものを継続し、偉大な帝業を潤色して飾る。



班孟堅(班固)《兩都賦序》(3) 文選 賦<111―3>13分割41回 Ⅱ李白に影響を与えた詩949 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3293



《兩都賦序》#1

(後漢の皇帝である和帝(在位88 -105年)が都を洛陽(東都)から前漢時代の都の長安(西都)に移そうとするのを危惧して、この賦を作りいさめた賦。序文)

或曰:賦者,古詩之流也。

「賦は古詩の流派」という者がある。

昔成康沒而頌聲寢,王澤竭而詩不作。

思えば、昔周の初期、成王・康王が世を去って、頌歌の声はいつのまにかとだえ、康王の恩沢はつきはてて、詩はあらたに復活することもなかった。

大漢初定,日不暇給。

大漢の御代が定まったばかりのころは、多事多忙、詩を作る余裕はない。

#2

至於武宣之世,乃崇禮官,考文章,

武帝・宣帝の代になり、はじめて礼楽の制度を重視し、文教政策を検討し、

宮廷内には、文学の士の出仕する金馬門という役所、石葉という図書館を設け、宮廷外には、楽府という音楽関係の役所、協律都尉という音楽長官の制度を新設し、

以興廢繼

廃止されたものを再興し、中絶したものを継続し、偉大な帝業を潤色して飾る。

是以眾庶悅豫,福應尤盛,

そのため、万民は悦び楽しみ、めでたいしるしは、ことの外盛んに現れる。

白麟赤雁芝房寶鼎之歌,薦於郊廟。

その瑞祥にちなみ、白麟、赤雁、芝房、宝鼎の歌が作られて、天地を祭る廟にささげられる。

#3

神雀五鳳甘露黃龍之瑞,以為年紀。

神雀()、五鳳、甘露、黄龍の瑞祥は、年号にあてられる。

故言語侍從之臣,若司馬相如虞丘壽王東方朔枚皋王褒劉向之屬,
そうして、言語で天子に侍従する文学の臣には、司馬相如・虞丘寿三・東方朔・枚皋・王褒・劉向とい

った面々が属し、
朝夕論思,日月獻納;

朝から夕方まで討論沈思して、日々月々に天子に善言をたてまつるのである。

而公卿大臣,御史大夫倪寬、
そして公卿大臣には、御史大夫の侃寛を、

太常孔臧、太中大夫董仲舒、
太常の官の孔臧、大中大夫の董仲舒を、

宗正劉德、太子太傳蕭望之等,時時間作。
宗正の官の劉徳、太子太傳の蕭望之などのお歴々が、時々こもごもに文を綴る。

#4

或以抒下情而通諷諭,或以宣上德而盡忠孝,雍容揄揚,

著於後嗣,抑亦雅頌之亞也。

故孝成之世,論而錄之,蓋奏御者千有餘篇,

而後大漢之文章,炳焉與三代同風。

桜桃002

『兩都賦序』 現代語訳と訳註

(本文) #3

神雀五鳳甘露黃龍之瑞,以為年紀。

故言語侍從之臣,若司馬相如虞丘壽王東方朔枚皋王褒劉向之屬,

朝夕論思,日月獻納;

而公卿大臣,御史大夫倪寬、太常孔臧、太中大夫董仲舒、宗正劉德、太子太傳蕭望之等,時時間作。


 (下し文)

雀【しんじゃく】五鳳【ごほう】甘露【かんろ】黄龍【こうりょう】の瑞【ずい】、以て年紀と為す。

故に言語侍従の臣には、司馬相如、虞丘轟王、東方朔、枚皐、王襲、劉向の属の若き、

朝夕に論思して、日月に厳刑す。

而して公卿大臣には、御史大夫侃寛、太常孔威、大中大夫董仲野、宗正劉徳、太子太樽蒲望之等、時時間作る。


(現代語訳)

神雀()、五鳳、甘露、黄龍の瑞祥は、年号にあてられる。

そうして、言語で天子に侍従する文学の臣には、司馬相如・虞丘寿三・東方朔・枚皋・王褒・劉向といった面々が属し、朝から夕方まで討論沈思して、日々月々に天子に善言をたてまつるのである。

そして公卿大臣には、御史大夫の侃寛を、

太常の官の孔臧、大中大夫の董仲舒を、

宗正の官の劉徳、太子太傳の蕭望之などのお歴々が、時々こもごもに文を綴る。

文具-峡



(訳注) #3

神雀五鳳甘露黃龍之瑞,以為年紀。

神雀()、五鳳、甘露、黄龍の瑞祥は、年号にあてられる。

神雀五鳳甘露黃龍 宣帝の在位期間中(前73年 - 前49年)の年号

本始 : 前73年 - 前70年

地節 : 前69年 - 前66年

元康 : 前65年 - 前61年

神爵 : 前60年 - 前58年

五鳳 : 前57年 - 前54年

甘露 : 前53年 - 前50年

黄龍 : 前49年

故言語侍從之臣,若司馬相如虞丘壽王東方朔枚皋王褒劉向之屬,朝夕論思,日月獻納;

そうして、言語で天子に侍従する文学の臣には、司馬相如・虞丘寿三・東方朔・枚皋・王褒・劉向といった面々が属し、朝から夕方まで討論沈思して、日々月々に天子に善言をたてまつるのである。

言語 言葉。孔門の四科の一つ。辞令(ことばづかい)と同じ。その修辞にすぐれている侍従の臣を言語侍従の臣という。

司馬相加 あざなは長卿(前石九-前二七)。宮廷賦家。「子虚・上林の賦」「長門の賦」は『文選』にある。外に「大人の賦」も有名。

司馬相如 《子虚賦 》(1)#00 文選 賦<109-#0-09分割26回 Ⅱ李白に影響を与えた詩880 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2948

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司馬相如 《上林賦 》(41)―#13-5  文選 賦<110-#13-5>13分割41回 Ⅱ李白に影響を与えた詩946 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3278 (上林賦―最終回)

虞丘寿王 吾丘とも書く。生歿年月未詳。格五(五目ならべの頼)で宮廷にとり入り、学者董仲野に『春秋』を学び、言論で知られた。辞賦の作品は記録がない。元鼎四年、宝鼎が出土した時、群臣は周のものを得たとはめでたいとしたが、寿王だけ反対した。武帝にとがめられて、こう答えた。「周は名天子がいたから鼎が出た。秦は始皇帝がこれを求めても出なかった。漢は高祖以来武帝まで聖天子であったから、おのずから出土することになった。まさに天が漢に賜ったもの。周の宝でなく漢の宝である」と(『漢書』本伝)。まさに言語侍従の臣である。

東方朔 (前154‐前93)中国,前漢時代の文学者。字は曼倩。滑稽と弁舌とで武帝に侍した,御伽衆(おとぎしゆう)的な人物。うだつの上がらぬ彼を嘲笑した人々に答えて〈答客難〉を書く。彼は,自分は山林に世を避けるのではなく朝廷にあって隠遁しているのだと主張する。この〈朝隠(ちよういん)〉の思想は六朝人の関心をあつめ,例えば彼の生き方をたたえる夏侯湛〈東方朔画賛〉には王羲之の書がのこることで有名である。また漢代すでに彼にまつわる神仙伝説が発展し,太白星の精であり,長寿を得たともされるほか,トリックスターとして,孫悟空の天宮を閙(さわ)がすといった物語のもとになる伝説も彼に付随する。

枚皋 あざなは少帯(在世年数未詳)。有名な賦家枚乘の庶子。「平楽観の賦」を作り、武帝にみとめられ、郎となる。「皇太子生るるの賦」を東方朔とともに作り、武帝は枚皋の作を東方朔のより上だと評した。賦の題材は種々で、天子の巡行にも従い、狩猟、射術、馬術、蹴鞠、刻鐘(彫刻)などを始め、武帝が感ずるところがあれは、すぐ賦にのせたという。大文人の司馬相如よりでき上がるのが早く、そのため俳侶なみに見なされた。東方朔も同じだが、朔を嘲笑し、そしてみずからも自嘲したといわれる。戯れの賦多く、人をよろこばす芸人の卑屈さを知っていたのであろう。読むに足るもの百二十篇があったというが、読むに足らぬ数十篇とともに今は見ることができない(『漢書』本伝)。朗詞による修辞の妙技、それにのせた内容が低級にせよ一種の賦であり、知識階級はともかく、一般の人々には人気があり、楽しまれたであろう。それは高級作品の現れてくる底辺の広さを示するものであり、文学の域を広げるものである。

王褒 あざなほ子淵、前漢中期宜帝の時の賦家(在世年数未詳)、蜀郡士女讃の人。武帝に関する故事ならびに六芸の群書に通じた。諌大夫に任用さる。宣帝の文学奨励のもとでその文才をみとめられる。「洞簫の賦」(『文選』)はその最大傑作。宣帝の太子は後宮の貴人らにこれを詞読させた。また「頌」と題する「甘泉の頌」「金馬碧鶏の頌」(以上「全漢文」)、「聖主賢臣を得るの頌」(「全供文」所載)を作る。「頌」と題するが賦体である。前記「洞篇の賦」を「頌」に作る(『漢書』)例もあり、賦が宮廷頌歌である場合では、「賦頌」ともいわれた。蜀の益州刺史王褒のため作った「中和、楽職、宣布の詩」は、宣帝の文教政策が地方におよんだことを示すものであるが、これも頌といわれた。この外「九懐」(『楚辞』系)、「四子講徳論」(『文選』)、「傽約」(「全漢文」)などがあり、後の二第も賦体をなす。最後の一第は奇文といわれ、宮廷頒歌と違い局の民間地主と使用人との対話をユーモア気味に表現した。『漢書云文志』には、十六篇あったと記す。神雀(爵とも書く)、五鳳、甘露、黄龍などの瑞祥がしきりに現れ、宣帝は年号の名とした。天下太平のしるしであり、文学の土はこれに対応したのである。

劉向 前漢の学者。本名は更生(成帝即位の年,前32年に向と改名),字は子政。沛(はい)(江蘇省沛県)の人。漢高祖の同父弟である楚元王交の子孫。12歳で任子により郎官となり諫大夫に任用される。宣帝が学者をブレーンとして集めたとき,彼もそこに加わる。春秋学の中の春秋穀梁学を修め,また宮中の図書館(石渠閣)で五経を講じた。郎中から給事中,光禄大夫,中塁校尉と官職を歴任するが,特に元帝期には蕭望之,同堪らとともに国政を指導,元帝期の宦者(かんじや)石顕,成帝期の外戚王氏らの横暴に反対し,ためにしばしば投獄免官される。

而公卿大臣,御史大夫倪寬、

そして公卿大臣には、御史大夫の侃寛を、

公卿 三公九卿、三公は武帝のころは、丞相、御史大夫、大司馬を指す。成帝の時は、丞相、大司空、大司馬。哀帝の末年は、大司徒、大司空、大司馬とする。九卿は、太常(宗廟の礼を掌る)。光緑勲(宮殿の門を掌る)、衛尉(または中大夫令といい、宮門を警衛、駐屯する兵を掌る)、太僕(輿馬を掌る)、廷尉(または大理といい刑獄を掌る)、大鴻矑(または大行令。諸侯、属国の蛮夷を掌る)、宗正(または宗伯といい、王族を掌る)、大司農(または大農令。穀物家畜を掌る)、少府(山海地沢の税を掌る)。以上九人の中央官庁の長官をさしていう、行政に当たる。

大臣 官位の高貴なものの敬称。

倪寬 兒にも作る。あざな、在世年数未詳。刻苦して学問にはげみ、試験に及第、司法関係の職につき、御史大夫となり、武帝に知らる。侍御史、中大夫(諌大夫の上位の官)、左内史(京師の左馮翊地区の長官も歴任した。司法はもとより、農業、潅漑工事、租税などの問題を解決、また封禅には、諸儒に反対し、司馬相如の遺書(封禅文のこと。『文選』に見える)を見せ、武帝の意にそうて新しい礼を行う。典型的模範官僚。そして「よく文を属(車)る。然れども武につたなし」といわれた。芸文志に「賦二篇あり。亡ぶ。」とある。


太常孔臧、太中大夫董仲舒、

太常の官の孔臧、大中大夫の董仲舒を、

 孔子九世の子孫孔鮒の従曾孫、孔子十二世の子孫孔安国(武帝の時諌議大夫)の従兄。あざな、在世年数未詳。文辞の時蓼公となる。武帝の時太常(前掲)。官吏の文教政策を推進、五経博士らとはかり、地方官の再教育を太常で行い、また小吏の律令に暗いものも教育し、文学礼儀の士をそこから抜擢した。辺地の郡では暗詞の優劣できめた。これには細則もついており、それぞれ服務する官位も定まっていた。賦家としては、芸文志に賦二十簾と記すも今は多くはほろんでしまった。

太中大夫 議論を掌る官。この下に中大夫、諌太夫あり。

董仲舒 前漢の学者。広川(河北省)の人。若くして春秋公羊学(くようがく)を修め,3年のあいだ庭に出ることもなく,猛勉強したという。人柄が謙虚であり,言動はつねに礼法にかなっていたので,信望が高く,景帝のとき博士となった。武帝が位につくと,賢良として策問に応じて,〈六芸(りくげい)の科,孔子の術にあらざる〉諸子百家をしりぞけて,儒教を唯一の正統思想とすべきことを奏上し,この意見がきっかけとなって儒教の国教化が実現した。


宗正劉德、太子太傳蕭望之等,時時間作。

宗正の官の劉徳、太子太傳の蕭望之などのお歴々が、時々こもごもに文を綴る。

劉德 あざなは路叔。在世年数は未詳。劉向の父。宗主の中で抜群の人材であった。宗正には武帝の子の昭帝の時になったが、その間謀叛事件を裁き、大鴻矑の丞、大中大夫となる。時の権力者霍光を非難し庶人となったが、一年有余で復帰する。宣布擁立の功で、関内侯の爵位を得、ついで陽城侯となる。子の錬金術失敗を罪すべしと上書し、大臣の資格なしとされ、諡を繆侯とされた。一生を漢家の護持にささげたといってよかろう。芸文志に「陽成侯劉徳の賦、九篇」とあるが今は全くほろんで残った断片もない(『漢書』本伝)。

太子太傳 太子の教育輔導官。ここは、宣帝の皇子、後の元帝。宣帝の許皇后自殺後、王皇后に表わる。

蕭望之 (しょう ぼうし、? - 紀元前46年)は、前漢の政治家。字は長倩、東海郡蘭陵の人で後に杜陵に移る。実家は代々農業を家業としていたが、彼は学問を好み、詩経、論語、儀礼(礼服篇)などを学び、長安でも名を知られるようになった。

大将軍霍光の時代、その部下であった丙吉が彼を推薦したが、霍光が面会の際に武器を持っているか身体検査をし、更に両脇に役人がつき従うという扱いに抗議し、周公旦の態度との違いを直言したことで霍光に嫌われ、任用されなかった。

その後、問題に対する解答が優秀であったことで郎になるが、数年後、弟が法を犯したことで罷免され、郡の役人となった。その後当時御史大夫だった魏相が彼を御史府の役人に取り立て、孝廉に挙げられ大行治礼丞となった。 民間にいた時代に学問を学び、既に儒者蕭望之の名を知っていた宣帝は、霍氏を排除して有能な者を任用せよという上奏を納れ、彼を謁者とした。蕭望之は更に諫大夫、丞相司直と一気に昇進し、一年間で二千石の官にまで登り、霍氏が排除されると更に重用されるようになる。

宣帝は彼を平原太守に任命したが、朝廷で活躍することを望む蕭望之は「朝廷が重要であって外郡が治まらないのは憂うまでもない」と暗に自分を朝廷に戻すことを要求し、納れられて少府に任命された。 その後、蕭望之を今度は左馮翊に任命した。今回も蕭望之はこれを左遷と考えて病気を称し仕事に就こうとしなかったが、治民の能力を試す必要があるという宣帝の説得で仕事に就いた。 左馮翊として優れた実績を挙げ、大鴻臚に移り、神爵3年(紀元前59年)御史大夫丙吉が丞相に昇進すると御史大夫となった。

あさがお002 




2013年11月15日 の紀頌之5つのブログ
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