班固《東都賦》(2) 兵卒の婁敬は地勢を考えて長安を都とせよと説得し、将軍蕭何は臨機応変の処置をとり、未央宮の造営を推進する。この時まさかぜいたくしてここに落ち着いておられるものか。計略上やむを得なかったからである。あなたは、とんとここを看破できず、かえって後嗣の武帝や成帝などの退廃的な神仙好みの建築や後宮の華麗な造作を誇示なさるが、実はよくわかっておられないからである。

 

2014年1月9日  の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
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《贈別元十八協律,六首之一》韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <917>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3569韓愈詩-232-3
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集  LiveDoorブログ 743廣徳2年764-1 《韋諷錄事宅觀曹將軍畫馬圖-#3》 蜀中転々 杜甫 <652>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3570 杜甫詩1000-652-908/1500
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
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●●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集
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班孟堅(班固)《東都賦》(2)1-2 文選 賦<1125018分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1004 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3568

 

 

東都賦 (1)1-1

東都主人喟然而歎曰:

東都洛陽の主人は、ふっとため息ついて話かける。

「痛乎風俗之移人也!

「胸がが痛む。風俗が人を変えるというのか。

子實秦人,矜夸館室,保界河山,

貴君はまことに秦のお人である。秦の宮室を得意になって誇り、大河黄河や嵩山をたのみにされる。

信識昭襄而知始皇矣,烏睹大漢之云為乎?

たしかに西周を征服した秦の昭襄王のことをわきまえ、天下統一の始皇帝のことも存じておられるようだ。それにしても大湊の主張や行為については、どうしてしっかりとお目をとめられないのか。

夫大漢之開元也,奮布衣以登皇位,

そも大漢の高祖が国を開かれる時、民間より身を起こして、皇位に登り、

由數期而創萬代,

数年にして万世の基礎をきずかれた。

蓋六籍所不能談,前聖靡得言焉。

これは思うに六籍の古典も語れぬことであったし、前代の聖人も予言できなかったことである。

 (2)1-2

當此之時,功有橫而當天,討有逆而順民。

天下を定める時にあたり、武力は非道だったが天意にかなうところがあり、計画は反逆ではあったが民意にそうところがあった。

故婁敬度勢而獻其,蕭公權宜而拓其制。

だから兵卒の婁敬は地勢を考えて長安を都とせよと説得し、将軍蕭何は臨機応変の処置をとり、未央宮の造営を推進する。

時豈泰而安之哉?計不得以已也。

この時まさかぜいたくしてここに落ち着いておられるものか。計略上やむを得なかったからである。

吾子曾不是睹,顧曜後嗣之末造,不亦暗乎。

あなたは、とんとここを看破できず、かえって後嗣の武帝や成帝などの退廃的な神仙好みの建築や後宮の華麗な造作を誇示なさるが、実はよくわかっておられないからである。

今將語子以建武之治,永平之事。

これからあなたに、東都の光武帝の建武の治、明帝の永平の政を語る。
監于太清,以變子之惑志。

その飾りなき無為の治世に照らし手本とし、西都の豪華に眩惑したあなたの心を改めたい。

 

(東都賦)

東都の主人、喟然【きぜん】として歎じて曰く:

「痛ましいかな風俗の人を移すや!

子は實に秦人なり,館室を矜夸【きょうか】し,河山を保界す,

信【まこと】に昭襄【しょうじょう】を識り始皇を知るも,烏【いずく】んぞ大漢の云為【うんい】を睹【み】んや?

夫【そ】れ大漢の元を開くや,布衣より奮【おこ】りて以て皇位に登り,

數期【すうき】に由りて萬代を創【はじ】む。

蓋【けだ】し六籍【りくせき】も談ずる能わず,前聖も得て言う靡【な】き所なり。

(2)1-2

此の時に當り,功橫【ほしいまま】なるも天に當る有り,討【とう】逆【さから】えども民に順なる有り。

故に婁敬【ろうけい】勢を度【はか】りて其の【ぜい】,蕭公宜しきを權【はか】りて其の制を拓【ひら】けり

時 豈に泰【おご】りて安り之【な】らんや?計【はかりごと】以て已むを得ざればなり。

吾子【ごし】曾て是う睹【み】ず,顧って曜後嗣【こうし】の末造【まつぞう】を【かがやか】すは,亦た暗からずや。

今 將に子に語る建武の治,永平の事を以てす。

太清に監【かんが】み,以て子の惑志【わくし】を變ぜんとす。」

漢魏隋唐の洛陽城 

『東都賦』 現代語訳と訳註

(本文) (2)1-2

當此之時,功有橫而當天,討有逆而順民。

故婁敬度勢而獻其,蕭公權宜而拓其制。

時豈泰而安之哉?計不得以已也。

吾子曾不是睹,顧曜後嗣之末造,不亦暗乎。

今將語子以建武之治,永平之事。

監于太清,以變子之惑志。」

 

 

(下し文)

此の時に當り,功橫【ほしいまま】なるも天に當る有り,討【とう】逆【さから】えども民に順なる有り。

故に婁敬【ろうけい】勢を度【はか】りて其の【ぜい】を獻じ,蕭公宜しきを權【はか】りて其の制を拓【ひら】けり。

時 豈に泰【おご】りて安り之【な】らんや?計【はかりごと】以て已むを得ざればなり。

吾子【ごし】曾て是う睹【み】ず,顧って曜後嗣【こうし】の末造【まつぞう】を【かがやか】すは,亦た暗からずや。

今 將に子に語る建武の治,永平の事を以てす。

太清に監【かんが】み,以て子の惑志【わくし】を變ぜんとす。」

 

(現代語訳)

天下を定める時にあたり、武力は非道だったが天意にかなうところがあり、計画は反逆ではあったが民意にそうところがあった。

だから兵卒の婁敬は地勢を考えて長安を都とせよと説得し、将軍蕭何は臨機応変の処置をとり、未央宮の造営を推進する。

この時まさかぜいたくしてここに落ち着いておられるものか。計略上やむを得なかったからである。

あなたは、とんとここを看破できず、かえって後嗣の武帝や成帝などの退廃的な神仙好みの建築や後宮の華麗な造作を誇示なさるが、実はよくわかっておられないからである。

これからあなたに、東都の光武帝の建武の治、明帝の永平の政を語る。
その飾りなき無為の治世に照らし手本とし、西都の豪華に眩惑したあなたの心を改めたい。

 

(訳注) (2)1-2

當此之時,功有橫而當天,討有逆而順民。

天下を定める時にあたり、武力は非道だったが天意にかなうところがあり、計画は反逆ではあったが民意にそうところがあった。

功有橫而當天 『後漢書』「高祖、関中に入り、秦王の子嬰は降りて、而して五星東井に聚る」とある。子嬰は二世皇帝胡亥の兄の子で、その死後即位して王という。高祖が秦軍を破りこれを降服させた。武力で秦を倒すことを「功は横」といい、星が東井の分野に集まるのは「天意に当る」である。漢の元年のことである。当は、順う。

 

故婁敬度勢而獻其,蕭公權宜而拓其制。

だから兵卒の婁敬は地勢を考えて長安を都とせよと説得し、将軍蕭何は臨機応変の処置をとり、未央宮の造営を推進する。

婁敬 蕭何。蕭何。高祖の相国(宰相)となる。 何(しょう か、? - 紀元前193年)は、秦末から前漢初期にかけての政治家。劉邦に天下を取らせた、漢の三傑の一人。『西都賦』「蕭曹魏邴,謀謨乎其上。」高祖の宰相蕭何・曹参や、宣帝の宰相魏相・邴吉などは、その堂上で国事の方針を決めた。

権宜 権は、手段をえらばずまに合わせる。臨機応変に処置して目的に合すること。

拓 推進する。

 

時豈泰而安之哉?計不得以已也。

この時まさかぜいたくしてここに落ち着いておられるものか。計略上やむを得なかったからである。

泰 おごる。「時」は「是」と同じに読む説あり。末央宮の造営をいそいだのは、蕭何の建言による。未央宮は南面しているが、東闕・北闕の大門を立て、前殿・武庫・大倉を造った。その壮麗に高祖は怒って「成敗のほどはまだわからないのに、宮室は度を過ぎるぞ」と責めた。しかし蕭何は「天下が定まらないからこそ宮室を完成させねはならぬ。天子は四海を家とする。壮麗でないと権威もない。後世もこれ以上のものがないように建てたい」(高市紀、漢の七年)といった。

計 はかりごと。「功」「計」は諸本によって異同があり、五臣本は「攻」「討」に作り、班固伝は「功」「討」に作り、「順人」も「民」ではない。

 

吾子曾不是睹,顧曜後嗣之末造,不亦暗乎。

あなたは、とんとここを看破できず、かえって後嗣の武帝や成帝などの退廃的な神仙好みの建築や後宮の華麗な造作を誇示なさるが、実はよくわかっておられないからである。

吾子 親愛をこめた二人称。

末造 挙世。後世の子孫の造す所。武帝の神仙、成帝の後宮に関する豪華と執着とを指す。ともに「西都の賦」「西京の賦」を参照のこと。

 

今將語子以建武之治,永平之事。

これからあなたに、東都の光武帝の建武の治、明帝の永平の政を語る。

建武 光武帝の年号。光武帝(こうぶてい、前6 - 57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽(湖北省棗陽市)の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。

永平 明帝の年号。明帝(めいてい)は、後漢の第2代皇帝。明帝の治世は、光武帝、章帝と並び、約200年続いた後漢朝では安定した全盛期を現出した。馬皇后(光武帝配下の武将馬援の娘)は陰皇后とともに賢夫人とされ、自制によって外戚勢力が抑制されていたことがその理由として考えられている。和帝以降は幼少の皇帝が続き、幼少の皇帝の外戚勢力と宦官勢力とが政争を繰り広げ、結果として後漢の滅亡の大きな要因となった。

 

監于太清,以變子之惑志。」

その飾りなき無為の治世に照らし手本とし、西都の豪華に眩惑したあなたの心を改めたい。

太清 無為の飾りのない世。質朴で虚偽や欲望のない世界。

唐時代 韓愈関連01