班固《東都賦》(4) この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。王莽の朝廷軍である太師軍・更始軍は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。
 

2014年1月11日  の紀頌之5つのブログ
●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場
Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
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班孟堅(班固)《東都賦》(4)#2(光武帝の即位)-2 文選 賦<113―2>18分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1006 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3578
●唐を代表する中唐の韓愈の儒家としての考えのよくわかる代表作の一つ
Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
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《贈別元十八協律,六首之三》韓愈(韓退之) Ⅱ中唐詩 <919>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3579韓愈詩-234
●杜甫の全作品1141首を取り上げて訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"
Ⅲ杜甫詩1000詩集  LiveDoorブログ 744廣徳2年764年―2 《送韋諷上閬州錄事參軍 》 蜀中転々 杜甫 <651-#1>  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3580 杜甫詩1000-651-#1-910/1500744
●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている
Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ
●●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集
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班孟堅(班固)《東都賦》(4)2(光武帝の即位)-2 文選 賦<113218分割55回 Ⅱ李白に影響を与えた詩1006 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3578

 

DCF00048 

王莽が禅譲により新朝を開くと、周代の政治を理想とし現実を無視した政策を実施したため民心は離れ、国内各地で叛乱が発生し、匈奴・西羌・高句麗等周辺諸国・諸族の反感を買った。

14年(天鳳元年)、山東の琅邪郡で呂母なる老女が県令に殺害された息子の仇を撃つために私財を投じて数千の徒党を集め、反乱を起こした。呂母は県令を殺害した後に死去するが、一旦集まった軍勢は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、18年(天鳳5年)、同郷の樊宗が兵を挙げると合流し一大勢力となった。この軍は敵味方の識別に眉を赤く塗ったので赤眉軍と称されている。王莽の朝廷軍である太師軍・更始軍は強引な兵糧徴収などで民心を失い、世間では「寧ろ逢うなら赤眉軍、太師軍には逢うな、太師ならまだしも更始軍であれば殺される」と囃される有り様であった。また同時期に王匡が貧民を集結し緑林山を拠点に叛乱を起こしている(緑林軍)。

 

 

(3)2-1

「往者王莽作逆,漢祚中缺。

(光武帝の即位) 昔日、王莾が大逆をはかり、漢の皇位は一時空位となった。

天人致誅,六合相滅。

天と人、ともに彼を誅殺し、天下をあげてうちほろぼしたのだ。

于時之亂,生人幾亡,鬼神泯

この時の戦乱に、生民はほとんど死に絶えて、亡者も消えて現れないほどであった。

壑無完柩,郛罔遺室。

谷間にはまともな死体がなく、村里には残る人家もない。

 

(4)#2-2

原野厭人之肉,川谷流人之血。

原野には人の肉に満ちあふれ、河水の水流は人の血を流していった。

秦項之災猶不克半,書契以來未之或紀。

秦の始皇帝や項羽の戦禍でも、この半ばにも達しない。文字あってこのかた、まだこれほどの惨禍を記録したものはない。

故下人號而上訴,上帝懷而降監。

されば、大地の民草は号泣して上天に哀訴し、天の神はあわれに思われて下界を見られのである。

乃致命乎聖皇。

それで、はじめて聖帝の光武帝に天子となるよう命じなされた。

 

 (3)2-1

「往者【むかし】王莽【おうもう】 逆を作して,漢祚【かんそ】中ごろ缺【か】く。

天人 誅を致して,六合 相い滅す。

時の亂に于【おい】て,生人 幾【ほと】んど亡し,鬼神 泯【びんぜつ】す

【たに】には完柩【かんきゅう】無く,郛【さと】には遺室罔【な】し

 (4)#2-2

原野は人の肉に厭【あつ】せられ,川谷は人の血を流す。

秦項の災も猶お半【なかば】なるを克【あた】わず,書契より以來 未だ之【これ】を紀する或【あ】らず。

故に下人 號【な】いて上訴し,上帝 懷いて 降監【こうかん】す。

乃ち命を聖皇に致せり。

 

 

『東都賦』 現代語訳と訳註

(本文) (4)#2-2

原野厭人之肉,川谷流人之血。

秦項之災猶不克半,書契以來未之或紀。

故下人號而上訴,上帝懷而降監。

乃致命乎聖皇。

唐時代 韓愈関連01 

(下し文) (4)#2-2

原野は人の肉に厭【あつ】せられ,川谷は人の血を流す。

秦項の災も猶お半【なかば】なるを克【あた】わず,書契より以來 未だ之【これ】を紀する或【あ】らず。

故に下人 號【な】いて上訴し,上帝 懷いて 降監【こうかん】す。

乃ち命を聖皇に致せり。

 

(現代語訳)

原野には人の肉に満ちあふれ、河水の水流は人の血を流していった。

秦の始皇帝や項羽の戦禍でも、この半ばにも達しない。文字あってこのかた、まだこれほどの惨禍を記録したものはない。

されば、大地の民草は号泣して上天に哀訴し、天の神はあわれに思われて下界を見られのである。

それで、はじめて聖帝の光武帝に天子となるよう命じなされた。

 

(訳注) (4)#2-2

光武帝(こうぶてい、前6 - 57年;在位期間     25 - 57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽(湖北省棗陽市)の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。

 

原野厭人之肉,川谷流人之血。

原野には人の肉に満ちあふれ、河水の水流は人の血を流していった。

原野厭人之肉 楊雄の『法言』に「秦将白起長平の戦に四十万人死し、原野は人の肉に厭き、川谷は人の血を流す」とある。

 

秦項之災猶不克半,書契以來未之或紀。

秦の始皇帝や項羽の戦禍でも、この半ばにも達しない。文字あってこのかた、まだこれほどの惨禍を記録したものはない。

秦項 秦皇と項羽。

書契 文字をいう。

 

故下人號而上訴,上帝懷而降監。

されば、大地の民草は号泣して上天に哀訴し、天の神はあわれに思われて下界を見られのである。

下人 下民、生民。

 

乃致命乎聖皇。

それで、はじめて聖帝の光武帝に天子となるよう命じなされた。

堅皇 光武帝。

 

 

22年(地皇3年)冬、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん)が挙兵する。最初は思うように兵が集まらずに苦しんでいたが、慎重な性格と評判であった劉秀が参加すると、劉秀の判断を信じ叛乱に参加する者が増えるようになった。この反乱軍は舂陵軍と称されている。

挙兵時には劉秀は貧しく馬を買うことができず牛に乗っており、緑林軍に合流してから朝廷軍より捕獲した馬に乗るようになったという逸話がある。

まもなく緑林軍は疫病が蔓延したために、南陽を拠点として新市軍と、南郡を拠点とする下江軍に分裂した。新市軍は南陽の豪族の平林軍(この軍には劉秀の本家筋に当たる劉玄が加わっていた)や劉縯の舂陵軍と連合した。後にこの連合軍が下江軍を再度吸収、劉縯が淯陽で官軍を打ち破った。連合軍が南陽宛城を包囲した後、新皇帝を擁立すべく新市・平林軍の部将らが協議を行った。劉縯擁立の動きもあったが、実績のある有能な人物を擁立すると自らの勢力が弱体化することを恐れた新市・平林軍の部将らはこれを却下し、凡庸な人物と見做されていた劉玄が更始帝として擁立されることとなった。

 

23年(更始元年)夏、更始帝討伐を計画した王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、朝廷軍は63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。王莽軍は劉秀が拠点としていた昆陽城を包囲・攻撃した。劉秀は夜陰に乗じ僅か13騎で昆陽城を脱出、近県3千の兵を集め、昆陽包囲軍と対決する。王莽軍は総大将が数千を率いて迎撃したが、劉秀やその部下の奮闘により大敗を喫した(昆陽の戦い)。

昆陽の勝利に前後して劉縯も宛城を落城させている。これにより縯秀兄弟の名声は高まり、その名声を恐れた更始帝は両者への牽制を始める。劉玄即位に反対していた劉縯の部下が、更始帝により官位が授けられた際に固辞したため、更始帝はこれを反逆として誅殺しようとした。この時、劉縯は部下を擁護したため、更始帝はこれを口実として劉縯をも殺害した。この事件に際し劉秀は宛城に到着すると、更始帝に兄の非礼を謝罪し、また周囲が劉縯の弔問に訪問しても事件については一切語らず、自ら災禍に巻き込まれるのを防いでいる。

昆陽・宛県での結果を知ってそれまで傍観していた地方の豪族が次々と更始帝軍に合流し、更始帝軍は短期間で一大勢力と成長した。更始帝軍は洛陽と長安(当時は常安)を陥落させ、更始帝は洛陽、長安(当時は常安)へ遷都する。洛陽が都城とされていた時まで、劉秀は更始帝と側近達に昆陽での戦功と劉縯の弟であることから危険視され、中央から出ることが出来なかったが、河北へ派遣する適当な武将がおらず、大司徒劉賜が「諸家の子独り文叔有って用いる可し」と推挙したために赴任を命ぜられた。これによって劉秀への監視が解かれ、長安に遷都した更始帝の朝政が乱れ民心を失うことで、劉秀に自立の機会が与えられることとなった。

 

23年(更始元年)冬、劉秀は河北へと向かう。河北で劉秀が邯鄲を離れ北上した際、邯鄲で王郎が漢の成帝の落胤であると称し劉林や李育らと挙兵、劉秀の首に10万戸の賞金を掛けて捕えようとした。そのため劉秀は鄧禹、王覇、馮異ら僅かな部下を率いて河北を転戦することとなった。それは厳しい行軍となり極寒の中馮異が薪を集め鄧禹がたき火をし豆粥や麦飯で寒さと飢えをしのぐ状態であったと伝えられている。

その後は王郎を拒否し劉秀の庇護を求める信都郡の太守任光とその配下の李忠と萬脩、和成郡の太守邳彤らが劉秀を迎え入れ、地方豪族の劉植、耿純が陣営に加わる。これにより任光、李忠、萬脩、邳彤、劉植、耿純は後世に雲台二十八将として名を連ねることとなった。

劉秀は王郎の配下で10余万の兵を持っていた真定王の劉楊(『漢書』に拠る。『後漢書』は、「劉揚」に作る)への工作を開始し、劉楊の妹が豪族の郭昌に嫁いで産んだ娘、すなわち劉楊の姪の郭聖通(後の郭皇后)を劉秀が娶ることで、劉楊を更始帝陣営に組込むことに成功した。

こうして王郎と対峙する中、精鋭の烏桓突騎を擁する漁陽郡と上谷郡が劉秀側につき、後世の雲台二十八将とされる呉漢、蓋延、王梁(以上漁陽)、景丹、寇恂、耿弇(以上上谷)らを派遣して劉秀と合流した。これにより勢いを増した劉秀軍は王郎軍を撃破、24年夏には邯鄲を陥落させ、王郎は逃走中に斬死する。

劉秀の勢力を恐れた更始帝は、劉秀を蕭王とし兵を解散させて長安に呼び戻そうとしたが、劉秀は河北の平定が完了していないとこれを拒否し、自立する道を選択した。その後は銅馬軍なる地方勢力軍を下し、その兵力を旗下に入れた劉秀軍は数十万を越える勢力となった。


25
年(建武元年)、河内の実力者となった劉秀は部下により皇帝即位を上奏された。幽州からの凱旋途中において2度までは固辞したが、3度目の要請には「之を思わん」と返答、『赤伏符』という讖文を奏上された4度目の要請で即位を受諾し6月に即位、元号を建武とした。

この年、更始帝は西進してきた赤眉軍に降伏後殺害される。その赤眉軍も長安やその周囲を略奪し、食糧が尽きたことにより山東への帰還を図った。27年(建武3年)、光武帝(劉秀)の派遣した大司徒鄧禹・征西大将軍馮異は赤眉軍攻撃を行う。一旦は敗北した馮異は、その敗れた軍を立て直して赤眉軍を撃破、西への退路を絶ち、東の宜陽で待ち構えていた光武帝軍は戦うことなく、兵糧の尽きた赤眉軍を下して配下に入れた。


30
年(建武6年)には山東を平定、33年(建武9年)には隴西を攻略し隗囂は病み且つ餓えて死し、継いだ子の隗純を降伏させ(34年建武10年)、36年(建武12年)に蜀の公孫述を滅ぼしここに中国統一を達成した。


光武帝は洛陽を最初に都城と定め、長安を陥落させた後も、荒廃した長安に遷都することなく洛陽をそのまま都城とした。漢王朝を火徳とする光武帝は洛のサンズイを嫌い、洛陽を雒陽と改めた[4]

また光武帝は中国統一と前後して奴卑の解放や租税の軽減、軍士の帰農といった政策により王朝の基礎となる人民の生活の安定を図る一方、統治機構を整備して支配を確立した。

56年に建武中元と改元して封禅の儀式を実施し、その翌年に死去した。
漢魏隋唐の洛陽城 



東都賦 (1)1-1

東都主人喟然而歎曰:

「痛乎風俗之移人也!

子實秦人,矜夸館室,保界河山,

信識昭襄而知始皇矣,烏睹大漢之云為乎?

夫大漢之開元也,奮布衣以登皇位,

由數期而創萬代,

蓋六籍所不能談,前聖靡得言焉。

 

 (2)1-2

當此之時,功有橫而當天,討有逆而順民。

故婁敬度勢而獻其,蕭公權宜而拓其制。

時豈泰而安之哉?計不得以已也。

吾子曾不是睹,顧曜後嗣之末造,不亦暗乎。

今將語子以建武之治,永平之事。

監于太清,以變子之惑志。」

 

 

(3)2-1

「往者王莽作逆,漢祚中缺。

天人致誅,六合相滅。

于時之亂,生人幾亡,鬼神泯

壑無完柩,郛罔遺室。

 

(4)#2-2

原野厭人之肉,川谷流人之血。

秦項之災猶不克半,書契以來未之或紀。

故下人號而上訴,上帝懷而降監。

乃致命乎聖皇。

 

(5)3-1

於是聖皇乃握乾符,闡坤珍。

披皇圖,稽帝文。

赫然發憤,應若興雲。

霆擊昆陽,憑怒雷震。

遂超大河,跨北嶽。

立號高邑,建都河洛。

紹百王之荒屯,因造化之盪滌。

 

(6)3-2

體元立制,繼天而作。

系唐統,接漢緒。

茂育群生,恢復疆宇。

勳兼乎在昔,事勤乎三五。

豈特方軌並跡,紛綸后辟,

治近古之所務,蹈一聖之險易云爾哉?

 

 

(7)#4-1

且夫建武之元,天地革命

四海之,更造夫婦,肇有父子。

君臣初建,人倫寔始。

斯乃伏犧氏之所以基皇德也。。

分州土,立市朝,

作舟輿,造器械,

斯乃軒轅氏之所以開帝功也。

(8)

龔行天罰,應天順人,斯乃湯武之所以昭王業也。

遷都改邑,有殷宗中興之則焉;

即土之中,有周成隆平之制焉。

不階尺土一人之柄,同符乎高祖。

(9)

克己復禮,以奉終始,允恭乎孝文。

憲章稽古,封岱勒成,儀炳乎世宗。

案六經而校德,眇古昔而論功,

仁聖之事既該,而帝王之道備矣。

 

 

#5

「至乎永平之際,重熙而累洽。盛三雍之上儀,脩袞龍之法服。鋪鴻藻,信景鑠。揚世廟,正雅樂。人神之和允洽,群臣之序既肅。乃動大輅,遵皇衢。省方巡狩,躬覽萬國之有無。考聲教之所被,散皇明以瀦幽。然後增周舊,脩洛邑。扇巍巍,顯翼翼。光漢京于諸夏,總八方而為之極。

 

#6

於是皇城之,宮室光明,闕庭神麗。奢不可踰,儉不能侈。外則因原野以作苑,填流泉而為沼。發蘋藻以潛魚,豐圃草以毓獸。制同乎梁鄒,誼合乎靈囿。

 

#7

若乃順時節而蒐狩,簡車徒以講武。則必臨之以王制,考之以風雅。歷騶虞,覽駟鐵。嘉車攻,采吉日。禮官整儀,乘輿乃出。

 

#8

於是發鯨魚,鏗華鐘。登玉輅,乘時龍。鳳蓋棽麗,龢鑾玲瓏。天官景從,寢威盛容。山靈護野,屬御方神。雨師汎灑,風伯清塵。千乘雷起,萬騎紛紜。元戎竟野,戈鋋彗雲。羽旄掃霓,旌旗拂天。焱焱炎炎,揚光飛文。吐爓生風,山。日月為之奪明,丘陵為之搖震。

 

#9

遂集乎中囿,陳師按屯。駢部曲,列校隊。勒三軍,誓將帥。然後舉烽伐鼓,申令三驅。輶車霆激,驍騎電騖。由基發射,范氏施御。弦不睼禽,轡不詭遇。飛者未及翔,走者未及去。指顧倏忽,獲車已實。樂不極盤,殺不盡物。馬踠餘足,士怒未。先驅復路,屬車案節。

 

10

於是薦三犧,效五牲。禮神祇,懷百靈。覲明堂,臨辟雍。揚緝熙,宣皇風。登靈臺,考休徵。俯仰乎乾坤,參象乎聖躬。目中夏而布德,瞰四裔而抗稜。西盪河源,東澹海漘。北動幽崖,南燿朱垠。殊方別區,界而不鄰。自孝武之所不征,孝宣之所未臣。莫不陸讋水慄,奔走而來賓。遂綏哀牢,開永昌。春王三朝,會同漢京。

 

11

是日也,天子受四海之圖籍,膺萬國之貢珍。撫諸夏,外綏百蠻。爾乃盛禮興樂,供帳置乎雲龍之庭。陳百寮而贊群后,究皇儀而展帝容。於是庭實千品,旨酒萬鍾。列金罍,班玉觴。嘉珍御,太牢饗。爾乃食舉雍徹,太師奏樂。陳金石,布絲竹。鐘鼓鏗鍧,管絃燁煜。抗五聲,極六律。歌九功,舞八佾。韶武備,泰古畢。四夷間奏,德廣所及。僸佅兜離,罔不具集。萬樂備,百禮。皇歡浹,群臣醉。降煙熅,調元氣。然後撞鐘告罷,百寮遂退。」

 

12

「於是聖上睹萬方之歡,又沐浴於膏澤,懼其侈心之將萌,而怠於東作也,乃申舊章,下明詔。命有司,班憲度。昭節儉,示太素。去後宮之麗飾,損乘輿之服御。抑工商之淫業,興農桑之盛務。遂令海棄末而反本,背偽而歸真。女脩織紝,男務耕耘。器用陶匏,服尚素玄。恥纖靡而不服,賤奇麗而弗珍。捐金於山,沈珠於淵。

 

13

於是百姓滌瑕盪穢,而鏡至清。形神寂漠,耳目弗營。嗜欲之源滅,廉恥之心生。莫不優游而自得,玉潤而金聲。是以四海以,學校如林,庠序盈門。獻酬交錯,俎豆莘莘。下舞上歌,蹈德詠仁。登降飫宴之禮既畢,因相與嗟歎玄德,讜言弘。咸含和而吐氣,頌曰:盛哉乎斯世!」

 

14

「今論者但知誦虞夏之書,詠殷周之詩。講羲文之易,論孔氏之春秋。罕能精古今之清濁,究漢德之所由。唯子頗識舊典,又徒馳騁乎末流。溫故知新已難,而知德者鮮矣!且夫僻界西戎,險阻四塞,脩其防禦。孰與處乎土中,平夷洞達,萬方輻湊?秦嶺九嵕,涇渭之川。曷若四瀆五嶽,帶河泝洛,圖書之淵?建章甘泉,館御列仙。孰與靈臺明堂,統和天人?太液昆明,鳥獸之囿。曷若辟雍海流,道德之富?游俠踰侈,犯義侵禮。孰與同履法度,翼翼濟濟也?子徒習秦阿房之造天,而不知京洛之有制也;識函谷之可關,而不知王者之無外也。」

 

15

主人之辭未終,西都賓矍然失容。逡巡降階,然意下,捧手欲辭。主人曰:「復位,今將授子以五篇之詩。」賓既卒業,乃稱曰:「美哉乎斯詩!義正乎楊雄,事實乎相如。匪唯主人之好學,蓋乃遭遇乎斯時也。小子狂簡,不知所裁。既聞正道,請終身而誦之。」其詩曰:

 

16

明堂詩

於昭明堂,明堂孔陽。

聖皇宗祀,穆穆煌煌。

上帝宴饗,五位時序。

誰其配之,世祖光武。

普天率土,各以其職。

猗歟緝熙,允懷多福。

 

17

辟雍詩

乃流辟雍,辟雍湯湯。

聖皇蒞止,造舟為梁。

皤皤國老,乃父乃兄。

抑抑威儀,孝友光明。

於赫太上,示我漢行。

洪化惟神,永觀厥成。

 

18

靈臺詩

乃經靈臺,靈臺既崇。

帝勤時登,爰考休徵。

三光宣精,五行布序。

習習祥風,祁祁甘雨。

百穀蓁蓁,庶草蕃廡。

屢惟豊年,於皇樂胥。

 

19

寶鼎詩

嶽脩貢兮川效珍,吐金景兮歊浮雲。

寶鼎見兮色紛縕。煥其炳兮被龍文。

登祖廟兮享聖神。昭靈德兮彌億年。

 

20

白雉詩

靈篇兮披瑞圖,獲白雉兮效素烏。

嘉祥阜兮集皇都。

發皓羽兮奮翹英,容絜朗兮於純精。

彰皇德兮侔周成。永延長兮膺天慶。