李白  古風,五十九首之四十三

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。淫樂心不極,雄豪安足論。

西海宴王母,北宮邀上元。瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。

李太白集巻一43

五十九首之四十三

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-369-043巻一43 古風,五十九首之四十三 (周穆八荒意,) 

作時年:

744

天寶三年

44

全唐詩卷別:

一六一  1-43

文體:

五言古詩

李太白集 

01-43

 

 

詩題:

古風,五十九首之四十三

序文

 

作地點:

 長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:

 崑崙山

 

交遊人物:

 

 

 

 

古風,五十九首之四十三

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

淫樂心不極,雄豪安足論。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

西海宴王母,北宮邀上元。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。

(古風,五十九首之四十三)

周穆 八荒の意,漢皇 萬乘の尊。

淫樂 心極らず,雄豪 安んぞ論ずるに足らん。

西海 王母を宴し,北宮 上元を邀う。

瑤水に遺歌を聞き,玉杯 竟に空しく言う。

靈跡は蔓草を成し,徒らに千載の魂を悲しまん。

 

漢長安城 00 

『古風,五十九首之四十三』 現代語訳と訳註

(本文)

古風,五十九首之四十三

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。

淫樂心不極,雄豪安足論。

西海宴王母,北宮邀上元。

瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

 

 

(下し文)

(古風,五十九首之四十三)

周穆 八荒の意,漢皇 萬乘の尊。

淫樂 心極らず,雄豪 安んぞ論ずるに足らん。

西海 王母を宴し,北宮 上元を邀う。

瑤水に遺歌を聞き,玉杯 竟に空しく言う。

靈跡は蔓草を成し,徒らに千載の魂を悲しまん。

 

(現代語訳)

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。

 

(訳注)

古風,五十九首之四十三

(周の穆王、漢の武帝を幷挙し、これを借りて、玄宗の崩御を悼んだのである。玄宗は豪奢を事とし、殊に神仙の道を好んだその点が、二君に酷似しているので、これに擬したものである。)

 

周穆八荒意,漢皇萬乘尊。

周の穆王は八駿の名馬に乗って、造父を馭者として、八荒の遠いところまで、巡遊せられ、漢の武帝は万乗の君位にいて、四海を経営された。

1 周穆 齊賢曰“《列子》「周穆王駕八駿至赤水之陽、升崑崙丘觀黄帝之觴王母於瑶池之上。」王母爲王謡王和之。”(《列子》に「周の穆王、八駿に駕して赤水の陽に至り、崑崙の丘に升って黄帝の、王母に瑶池の上に觴す。」王母、王の爲に謡い、王、之に和す。周の穆王は8頭たての馬車に乗り、西の彼方にある赤水の南の神々が住むとされた崑崙山に立ち寄り西王母に会い、黄帝のを觀、王母に瑶池の上に酒を飲み、ねぎらってくれた。王母は王のために謡、穆王はこれに答えて歌った。

周穆王;在位期間:前985? - 940年。穆王(ぼくおう)は周朝の第5代王。昭王の子であり、昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。すなわち、土を踏まないほど速い「絶地」、鳥を追い越す「翻羽」、一夜で5,000km走る「奔霄」、自分の影を追い越す「越影」、光よりも速い「踰輝」と「超光」、雲に乗って走る「謄霧」、翼のある「挟翼」の8頭である。穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。また、司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。また彼は西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う。このことは穆天子伝としてまとめられている。神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。

2 漢皇 この句は太平廣記に見える故事で、前漢の武帝が仙道を求め,7月7日に女仙の西王母と上元夫人とが武帝のもとに降臨して道教経典と教戒とを授けたが,武帝が行いを慎まなかったため,結局,道を得ることができなかったことを記す。《太平廣記》「元封元年七月七日、王母乘/紫雲輦、駕九色斑麟降漢東向坐。帝跪問寒暄。畢因呼帝坐、遣侍女、與上元夫人相聞云、「比不相見四千餘年、劉徹好道、適來觀之。夫人可暫來否。」帝問、「上元何真也。」曰「是三天真皇之母、上元之官。」俄而夫人至可。年二十餘、頭作三角髻、餘髮散垂至腰。帝拜。夫人曰「汝好道乎。汝胎性暴、胎性淫、胎性奢、胎性酷、胎性賦、五者常舎于榮衛之中、雖暴長生亦自勞耳。」(元封元年七月七日、王母、/紫雲の輦に乘じ、九色の斑麟に駕して漢降る。東向して帝、跪いて寒暄を問う。畢るや、因って帝を呼んで坐せしめ、侍女を遣して、上元夫人と相聞して云う、「比れ相い見ざること四千餘年、劉徹 道を好む、適ま來って之を觀る。夫人、暫く來るべきや否や。」と。帝問う、「上元は何の真ぞや。」曰く「是れ三天真皇の母、上元の官。」と。俄にして、夫人至る可し。年二十餘ばかり、頭には三角髻を作し、餘髮は散垂して腰に至る。 夫人曰く「汝 道を好むや。汝、胎性暴、胎性淫、胎性奢、胎性酷、胎性賦、五者 常に榮衛の中に舎す、長生を暴うと雖も亦た自ら勞するのみ。

漢の武帝。159BC-87BC。前漢7代目。在位141BC-87BC。若くして皇帝となり、治世は54年に及ぶ。内外にわたり思い切った施策を行なう。匈奴には対抗的な政策を取り、衛青、霍去病などを登用する。この匈奴との抗争の際、捕虜となった李陵をめぐり、正論を発した司馬遷を宮刑にするなど、狭量な面もある。張騫を西方に遣わし、シルクロードを創始する。巨視的に見れば、卓越した君主であった。

 

淫樂心不極,雄豪安足論。

穆王は淫樂の心は極まらず、果ては中原で満足せず、何か変わったところに行ってみたいという考えを起こしたからであるし、武帝は、雄豪な人であったが、その結果を見ればもとより論ずるに足らないのである。

3 淫樂 みだらな楽しみ。肉欲の楽しみ。禎卿曰 淫樂二句言人君好荒淫樂佚則雖其/氣度超邁亦何足論哉。

 

西海宴王母,北宮邀上元。

穆王は、西海の端まで行って、西王母と酒宴を催して、武帝は北宮に於いて、上元夫人を迎えられた。

4 西王母 中国の神話上の女神。玉山または崑崙(こんろん)山に住む,人面・虎歯・豹尾の女神。のち,神仙思想の発展とともに仙女化され,周の穆(ぼく)王が西に巡狩した時,瑶池で宴を開き,漢の武帝に降臨して仙桃を与えたという。道教の成立後は東王父と一組の神格とされた。

5 北宮 北宮 長安城内にある。桂宮と近い。未央宮の北にある。周回十里。前殿の広さ五十歩(凡そ58m) 甘泉宮 またの一名を雲陽宮という。

・上元 『漢武内伝』王母侍女ヲ遣シテ上元夫人ヲ迎フ王母乃ち侍女郭密香を遣はし 上元夫人 ( じょうげんふじん ) に相問して云く、九光の王母敬謝す。 但し相見ざること四千余年なり。天事我を労し、以て  ( めん )   ( たが ) ふことを致す。

・六朝(りくちよう)初期の霊宝派や上清派の道教と密接な関係をもちつつ形成された仙伝『漢武内伝』。前漢の武帝が仙道を求め,7月7日に女仙の西王母と上元夫人とが武帝のもとに降臨して道教経典と教戒とを授けたが,武帝が行いを慎まなかったため,結局,道を得ることができなかったことを記す。七夕における女神たちとの神秘的な会合の場は,後世しばしば詩文の題材となった。

 

瑤水聞遺歌,玉杯竟空言。

二君ともに、その当時はこの上もないことだと思っておられたのだろうが、穆王が瑤池の宴が終わると、やがて西王母に別れを告げて帰ってしまい、白雲の詩のみが残っているだけで、その楽しみは決して再びすることはできない。武帝は間もなく崩御になって、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話もあって、いずれ誰かに墓を暴かれたのであろう。

5 瑤水 西王母が 穆王を接待したのが瑤地であり、天山山脈中の地点に比す人もある。

6 玉杯 武帝が崩御されて、茂陵に葬られ、その中に収められた玉杯が知らぬ間に長安の街にでたという話は三輔黄圖、廟記にみえる。《三輔黄圖、廟記》“曰「神明臺武帝。祭仙人處、上有承露盤、有銅仙人、舒掌、捧銅盤、玉杯、以承雲表之露。以露和玉屑、服之以求仙道。」(曰く「神明臺、武帝つくる。仙人を祭る處、上に承露盤有り、銅仙人有り、掌を舒べ、銅盤、玉杯、を捧げ、以って雲表の露を承く。露を以て玉屑に和し、之を服して、以て仙道を求む。」)とあり、別に、《太平御覽、漢武故事》には「上崩後鄠縣有一人。于市貨玉杯。吏 疑其御物、欲捕之。因忽不見。縣 送其器推問、乃茂陵中物也。霍光、自呼吏問之、説市人形貌、如先帝其事。」”「上崩ぜし後、鄠縣に一人有り。市に于て玉杯を貨す。吏 其の御物たるを疑うて、之を捕えんと欲す。因って忽ち見えず。縣 其の器を送って推問すれば、乃ち茂陵の中の物なり。霍光、自ら吏を呼んで之を問う、市人の形貌を説く、先帝の其の事の如し。」)とあることが、李白のこの詩と合致する。

 

靈跡成蔓草,徒悲千載魂。

そうしてみれば、これら帝王と雖も、死後には一物の存在するものはなく、折角の霊跡も、曼草となって、千歳の下、いたずらに人の魂を悲しませるのは誰しも皆同じことで、殊に淫楽をほしいままにし、雄豪をもって自ら心良しとしたとしても何にもならないことであろう。
長安付近図00