李白《讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季 -#2その諸葛亮が南陽に引き籠っていたころは、「梁甫吟」を吟じて、隴畝の間を躬耕していたのである。劉備は、三度これを草盧に尋ね顧みて魚水の遇合を為し、四海の風雲はここから生まれてくるのである。


 
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143-2 《讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季 -#2Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 李白<143-2> Ⅰ李白詩1335 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5223

 

 

 

 

諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。ただ親友の(崔州平 太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。

 

舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の長姉は蒯祺の妻、次姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。

 

三顧の礼

この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。

諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。

 

この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。

 

 

年:730年開元十八年30

卷別: 卷一六八      文體: 五言古詩

詩題: 讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季

作地點:      長安(京畿道 / 京兆府 / 長安)

及地點:      長安 (京畿道 京兆府長安) 別名:京、京師、中京、京城、上都、京畿、西都

臥龍岡 (山南東道 鄧州 南陽)  

南陽 (山南東道 鄧州 南陽) 別名:南都       

交遊人物:崔叔封     書信往來(京畿道 京兆府長安)

 

 

讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季 -1

漢道昔云季,群雄方戰爭。

霸圖各未立,割據資豪英。

赤伏起運,臥龍得孔明。

-2

當其南陽時,隴畝躬自耕。

魚水三顧合,風雲四海生。

武侯立岷蜀,壯志吞咸京。

何人先見許,但有崔州平。

-3

余亦草間人,頗懷拯物情。

晚途子玉,華髮同衰榮。

託意在經濟,結交為弟兄。

毋令管與鮑,千載獨知名。

 

讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季 -1

(諸葛亮の伝記を読み、その感慨を写して、常侍長安縣の県令であった崔叔封・昆季兄弟に寄せたものである。)

漢道昔云季,群雄方戰爭。

昔、漢道、まさに衰え、その運もしだいに衰退していったときに、群雄は戦争を事として居たのである。

霸圖各未立,割據資豪英。

群雄それぞれ霸図を建てようと画策していたが、どれもうまくいかなかった、諸方に割拠して、もっぱら豪英の士によって、その勢いを張っていた。

赤伏起運,臥龍得孔明。

この時、劉備は『赤伏符』の祥をもって帝王道をはじめとし、後漢の天子と同じ血をひくことから、王朝の衰運を挽回しようとし、臥龍という称で荊州に隠遁していた諸葛亮を得た。

-2

當其南陽時,隴畝躬自耕。

その諸葛亮が南陽に引き籠っていたころは、「梁甫吟」を吟じて、隴畝の間を躬耕していたのである。

魚水三顧合,風雲四海生。

劉備は、三度これを草盧に尋ね顧みて魚水の遇合を為し、四海の風雲はここから生まれてくるのである。

武侯立岷蜀,壯志吞咸京。

こうして、諸葛亮は、岷江を中央に広がる沃野の地である巴蜀一体を平定し、はじめて漢の帝基を定めて、やがて咸陽、長安を克服しようという壮志を抱いていたのである。

何人先見許,但有崔州平。

諸葛亮は、大人物であるが、その初めは、誰も彼の才能を許すものはなかった。ただ、崔州平だけが大人物になるだろうと思っていたのである。

 

(諸葛武侯傳を讀み,懷を書して長安の崔少府叔封・昆季に贈)-1

漢道 昔 云【ここ】に季【すえ】,群雄 方に戰爭。

霸圖 各の未だ立たず,割據 豪英に資す。

赤伏 運をし,臥龍 孔明を得たり。

-2

其の南陽の時に當って,隴畝【りょうほ】躬 自ら耕す。

魚水 三顧して合し,風雲 四海に生ず。

武侯 岷蜀に立ち,壯志 咸京を吞む。

何人を先づ許る見【さ】る,但し崔州平有るのみ。

-3

余も亦た草間の人,頗る懷く物を拯【すく】うの情。

晚途 子玉に華髮 衰榮を同じゅうす。

意を託するは經濟に在り,交を結んで弟兄と為す。

管と鮑とをして,千載 獨り名を知ら令むる毋【な】かれ。

嚢陽一帯00 

 

『讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季』 現代語訳と訳註解説

(本文)-2

當其南陽時,隴畝躬自耕。

魚水三顧合,風雲四海生。

武侯立岷蜀,壯志吞咸京。

何人先見許,但有崔州平。

 

(下し文)-2

其の南陽の時に當って,隴畝【りょうほ】躬 自ら耕す。

魚水 三顧して合し,風雲 四海に生ず。

武侯 岷蜀に立ち,壯志 咸京を吞む。

何人を先づ許る見【さ】る,但し崔州平有るのみ。

 

(現代語訳)

その諸葛亮が南陽に引き籠っていたころは、「梁甫吟」を吟じて、隴畝の間を躬耕していたのである。

劉備は、三度これを草盧に尋ね顧みて魚水の遇合を為し、四海の風雲はここから生まれてくるのである。

こうして、諸葛亮は、岷江を中央に広がる沃野の地である巴蜀一体を平定し、はじめて漢の帝基を定めて、やがて咸陽、長安を克服しようという壮志を抱いていたのである。

諸葛亮は、大人物であるが、その初めは、誰も彼の才能を許すものはなかった。ただ、崔州平だけが大人物になるだろうと思っていたのである。

 

 

(訳注) -2

讀諸葛武侯傳,書懷贈長安崔少府叔封昆季

(諸葛亮の伝記を読み、その感慨を写して、常侍長安縣の県令であった崔叔封・昆季兄弟に寄せたものである。)

 

當其南陽時,隴畝躬自耕。

その諸葛亮が南陽に引き籠っていたころは、「梁甫吟」を吟じて、隴畝の間を躬耕していたのである。

南陽・隴畝・躬自耕 これらは、以下の詩と解説に詳しく述べている。

諸葛亮《梁甫吟》梁甫吟 諸葛亮 漢詩<96>Ⅱ李白に影響を与えた詩819 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2643

李白《梁甫吟》梁甫吟 #4 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -298

 

魚水三顧合,風雲四海生。

劉備は、三度これを草盧に尋ね顧みて魚水の遇合を為し、四海の風雲はここから生まれてくるのである。

魚水 魚水之契:魚と水がきりはなせない関係にあるように親密な交際。

三顧 劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。

 

武侯立岷蜀,壯志吞咸京。

こうして、諸葛亮は、岷江を中央に広がる沃野の地である巴蜀一体を平定し、はじめて漢の帝基を定めて、やがて咸陽、長安を克服しようという壮志を抱いていたのである。

岷蜀 岷江を中央に広がる沃野の地である巴蜀一体。

壯志 雄大な志を立てる.勇壮な感情と偉大な志で胸をいっぱいにする.

咸京 咸陽、長安。

 

何人先見許,但有崔州平。

諸葛亮は、大人物であるが、その初めは、誰も彼の才能を許すものはなかった。ただ、崔州平だけが大人物になるだろうと思っていたのである。

崔州平 博陵の人。大尉崔烈の子、崔鈞の弟《諸葛亮伝》。諸葛亮・徐庶らとともに荊州に遊学した。諸葛亮はみずからを管仲・楽毅になぞらえていたが、崔州平はその通りだと思っていた《諸葛亮伝》。

李白図102 

この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。

諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。

この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。