李白《巻24-21 嵩山采菖蒲者 (李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。

 

 
 2015年2月20日の紀頌之5つのブログ 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
LiveDoorブログ
183 《巻24-21 嵩山采菖蒲者 》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <183> Ⅰ李白詩1406 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5578 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> 
 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
  LiveDoorブログ
36-(1) 《巻05-30 答孟郊 -1》韓愈(韓退之)ID 798年貞元十四年31歲<1319> Ⅱ韓昌黎集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5579 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorブログ766年大暦元年55歲-40-#2奉節-31-#2 《巻16-03 八哀詩八首〔一〕贈司空王公思禮 -2》 杜甫index-15 杜甫<903-03> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5580 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2ブログ 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoor『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-76-2皇甫松10《巻2-26 夢江南二首其二》皇甫松12首巻二26-〈76〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5582 
 薛濤の全詩花間集(1)花間集(2)花間集(3)花間集(4)花間集(5) 
 魚玄機全詩●花間集(6)●花間集(7)●花間集(8)●花間集(9)●花間集(10) 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
  ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門)漢詩総合サイト 07ch 
 杜甫全詩案内韓愈全詩案内李白全集文選古詩源花間集案内 
 
 

183 《巻24-21 嵩山采菖蒲者 Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31 43首 <183> Ⅰ李白詩1406 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5578

 

 

年:731年開元十九年31

卷別:    卷一八四              文體:    五言古詩

詩題:    嵩山採菖蒲者

作地點: 嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)

及地點: 嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高      

九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山     

金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平         

 

 

嵩山採菖蒲者

(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)

神仙多古貌,雙耳下垂肩。

むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。

嵩嶽逢漢武,疑是九疑仙。

嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。

我來採菖蒲,服食可延年。

そこで、自分も今、菖蒲を採取し、これを服食し、齢を延べて長生するつもりだと言っていたのだ。

言終忽不見,滅影入雲煙。

だが、そう言い終わると、忽ち見えなくなり、影を滅して雲煙の中に入ったが、この人は、けだし有道者の流れで、菖蒲を服して、天晴、見事に昇天する。

帝竟莫悟,終歸茂陵田。

しかし、九疑の仙人は、あれほどまでに武帝を諭したのに、武帝はそれを悟ることが出来ず、菖蒲を服しても、悶を覚えて不快だといい、やがて中止したものだから、ついに仙を得ず、人並みの死にざまであったし、果ては茂陵に葬られたということだ。

(嵩山に菖蒲を採る者)

神仙 古貌多し,雙耳 下って肩に垂る。

嵩嶽に漢武に逢い,疑うらくは是れ九疑の仙。

我れ來って菖蒲を採り,服食 年を延ぶ可し。

言終って忽ち見えず,影を滅して雲煙に入る。

帝にすも竟に悟る莫し,終に歸す茂陵の田。

 

 

『嵩山採菖蒲者』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

嵩山採菖蒲者

神仙多古貌,雙耳下垂肩。

嵩嶽逢漢武,疑是九疑仙。

我來採菖蒲,服食可延年。

言終忽不見,滅影入雲煙。

帝竟莫悟,終歸茂陵田。


(下し文)
(嵩山に菖蒲を採る者)

神仙 古貌多し,雙耳 下って肩に垂る。

嵩嶽に漢武に逢い,疑うらくは是れ九疑の仙。

我れ來って菖蒲を採り,服食 年を延ぶ可し。

言終って忽ち見えず,影を滅して雲煙に入る。

帝にすも竟に悟る莫し,終に歸す茂陵の田

(現代語訳)
(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)

むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。

嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。

そこで、自分も今、菖蒲を採取し、これを服食し、齢を延べて長生するつもりだと言っていたのだ。

だが、そう言い終わると、忽ち見えなくなり、影を滅して雲煙の中に入ったが、この人は、けだし有道者の流れで、菖蒲を服して、天晴、見事に昇天する。

しかし、九疑の仙人は、あれほどまでに武帝を諭したのに、武帝はそれを悟ることが出来ず、菖蒲を服しても、悶を覚えて不快だといい、やがて中止したものだから、ついに仙を得ず、人並みの死にざまであったし、果ては茂陵に葬られたということだ。



(訳注)

嵩山採菖蒲者

(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)

 

神仙多古貌,雙耳下垂肩。

むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。

古貌 貌奇で古めかしいこと。仙人スタイル。

 

嵩嶽逢漢武,疑是九疑仙。

嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。

嵩嶽逢漢武 《神仙傳·王興》: 昔漢武帝元封二年上嵩山,登大愚石室,起道宮,使董奉君東方朔等,斎潔思神,至夜,忽見仙人長二丈余,耳下垂至肩,武帝禮而問之,仙人曰:「吾九疑仙人也,聞中嶽有石上菖蒲,一寸九節,服之可以長生,故來采之。」忽然不見,武帝顧謂侍臣曰:「彼非欲學道服食者,必是中嶽之神,以此教朕耳。」乃采菖蒲服之,且二年,而武帝性好熱食,服菖蒲每熱者,輒煩悶不快,乃止。時從官多皆服之,然莫能持久,唯王興聞仙人使武帝常服菖蒲,乃采服之,不息,遂得長生。魏武帝時猶在,其鄰裏老小皆雲傳世見之,視興常如五十許人,其強健,日行三百裏,後不知所之。

九疑仙 舜が蒼梧の野で死去して零陵の九疑山に葬られたという伝説になり、その時に、二妃がこれを追って追いつかず、途中で溺れたというのは、だれもが信ずることができない伝説なのである。二妃の素晴らしさが後追いの伝説に変わった。

 

我來採菖蒲,服食可延年。

そこで、自分も今、菖蒲を採取し、これを服食し、齢を延べて長生するつもりだと言っていたのだ。

 

言終忽不見,滅影入雲煙。

だが、そう言い終わると、忽ち見えなくなり、影を滅して雲煙の中に入ったが、この人は、けだし有道者の流れで、菖蒲を服して、天晴、見事に昇天する。

滅影 天晴、見事に昇天する。

 

帝竟莫悟,終歸茂陵田。

しかし、九疑の仙人は、あれほどまでに武帝を諭したのに、武帝はそれを悟ることが出来ず、菖蒲を服しても、悶を覚えて不快だといい、やがて中止したものだから、ついに仙を得ず、人並みの死にざまであったし、果ては茂陵に葬られたということだ。

茂陵 前漢の武帝の墓。長安 (現在の西安) の北西,渭 () 水をへだてた丘陵上にある。この付近には文帝,宣帝を除く前漢9帝の陵があり,茂陵はそのなかの最大の陵で方台状をなし,方約 250m,高さ 36m

渭北高原の前漢陵墓中最も西辺にあり,かつ最も規模が大きい。陵は東西231m,南北約234m,高さ46.5mの方形台状である。四周に東西430m,南北414mの土壁をめぐらし四方に門闕をもつ。陵の西北に李夫人墓があるほか,東方には衛青・霍去病(かくきよへい)墓が北寄りに,霍光(かくこう)墓ほか十数基の陪冢(ばいちよう)が南寄りに,それぞれほぼ東西に列をなし,始皇陵と同じく陵が東向きであった可能性がある。