李白《巻24-21 嵩山采菖蒲者 》(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。
183 《巻24-21 嵩山采菖蒲者 》Index-11 Ⅱ―6 -731年開元十九年31歳 43首 <183> Ⅰ李白詩1406 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5578
年:731年開元十九年31歳
卷別: 卷一八四 文體: 五言古詩
詩題: 嵩山採菖蒲者
作地點: 嵩山(都畿道 / 河南府 / 嵩山)
及地點: 嵩山 (都畿道 河南府 嵩山) 別名:嵩高山、嵩、嵩丘、嵩高
九疑山 (江南西道 無第二級行政層級 九疑山) 別名:蒼梧山
金城 (京畿道 京兆府 金城) 別名:興平
嵩山採菖蒲者
(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)
神仙多古貌,雙耳下垂肩。
むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。
嵩嶽逢漢武,疑是九疑仙。
嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。
我來採菖蒲,服食可延年。
そこで、自分も今、菖蒲を採取し、これを服食し、齢を延べて長生するつもりだと言っていたのだ。
言終忽不見,滅影入雲煙。
だが、そう言い終わると、忽ち見えなくなり、影を滅して雲煙の中に入ったが、この人は、けだし有道者の流れで、菖蒲を服して、天晴、見事に昇天する。
喻帝竟莫悟,終歸茂陵田。
しかし、九疑の仙人は、あれほどまでに武帝を諭したのに、武帝はそれを悟ることが出来ず、菖蒲を服しても、悶を覚えて不快だといい、やがて中止したものだから、ついに仙を得ず、人並みの死にざまであったし、果ては茂陵に葬られたということだ。
(嵩山に菖蒲を採る者)
神仙 古貌多し,雙耳 下って肩に垂る。
嵩嶽に漢武に逢い,疑うらくは是れ九疑の仙。
我れ來って菖蒲を採り,服食 年を延ぶ可し。
言終って忽ち見えず,影を滅して雲煙に入る。
帝に喻すも竟に悟る莫し,終に歸す茂陵の田。
『嵩山採菖蒲者』 現代語訳と訳註解説
(本文)
嵩山採菖蒲者
神仙多古貌,雙耳下垂肩。
嵩嶽逢漢武,疑是九疑仙。
我來採菖蒲,服食可延年。
言終忽不見,滅影入雲煙。
喻帝竟莫悟,終歸茂陵田。
(下し文)
(嵩山に菖蒲を採る者)
神仙 古貌多し,雙耳 下って肩に垂る。
嵩嶽に漢武に逢い,疑うらくは是れ九疑の仙。
我れ來って菖蒲を採り,服食 年を延ぶ可し。
言終って忽ち見えず,影を滅して雲煙に入る。
帝に喻すも竟に悟る莫し,終に歸す茂陵の田。
(現代語訳)
(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)
むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。
嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。
そこで、自分も今、菖蒲を採取し、これを服食し、齢を延べて長生するつもりだと言っていたのだ。
だが、そう言い終わると、忽ち見えなくなり、影を滅して雲煙の中に入ったが、この人は、けだし有道者の流れで、菖蒲を服して、天晴、見事に昇天する。
しかし、九疑の仙人は、あれほどまでに武帝を諭したのに、武帝はそれを悟ることが出来ず、菖蒲を服しても、悶を覚えて不快だといい、やがて中止したものだから、ついに仙を得ず、人並みの死にざまであったし、果ては茂陵に葬られたということだ。
(訳注)
嵩山採菖蒲者
(李白が嵩山にいた時に、菖蒲を採るものを見つけて、漢の武帝の故事を思い出して作った詩。)
神仙多古貌,雙耳下垂肩。
むかしの神仙のものは、古めかしく貌奇なものであり、両耳は下がって肩に持たれる位である。
古貌 貌奇で古めかしいこと。仙人スタイル。
嵩嶽逢漢武,疑是九疑仙。
嵩山に於いて、漢の武帝に遭い、いろいろ不老長寿を説いたのは、多分、九疑の仙人であったろう。
嵩嶽逢漢武 《神仙傳·王興》: 昔漢武帝元封二年上嵩山,登大愚石室,起道宮,使董奉君東方朔等,斎潔思神,至夜,忽見仙人長二丈余,耳下垂至肩,武帝禮而問之,仙人曰:「吾九疑仙人也,聞中嶽有石上菖蒲,一寸九節,服之可以長生,故來采之。」忽然不見,武帝顧謂侍臣曰:「彼非欲學道服食者,必是中嶽之神,以此教朕耳。」乃采菖蒲服之,且二年,而武帝性好熱食,服菖蒲每熱者,輒煩悶不快,乃止。時從官多皆服之,然莫能持久,唯王興聞仙人使武帝常服菖蒲,乃采服之,不息,遂得長生。魏武帝時猶在,其鄰裏老小皆雲傳世見之,視興常如五十許人,其強健,日行三百裏,後不知所之。
九疑仙 舜が蒼梧の野で死去して零陵の九疑山に葬られたという伝説になり、その時に、二妃がこれを追って追いつかず、途中で溺れたというのは、だれもが信ずることができない伝説なのである。二妃の素晴らしさが後追いの伝説に変わった。
我來採菖蒲,服食可延年。
そこで、自分も今、菖蒲を採取し、これを服食し、齢を延べて長生するつもりだと言っていたのだ。
言終忽不見,滅影入雲煙。
だが、そう言い終わると、忽ち見えなくなり、影を滅して雲煙の中に入ったが、この人は、けだし有道者の流れで、菖蒲を服して、天晴、見事に昇天する。
滅影 天晴、見事に昇天する。
喻帝竟莫悟,終歸茂陵田。
しかし、九疑の仙人は、あれほどまでに武帝を諭したのに、武帝はそれを悟ることが出来ず、菖蒲を服しても、悶を覚えて不快だといい、やがて中止したものだから、ついに仙を得ず、人並みの死にざまであったし、果ては茂陵に葬られたということだ。
茂陵 前漢の武帝の墓。長安 (現在の西安) の北西,渭 (い) 水をへだてた丘陵上にある。この付近には文帝,宣帝を除く前漢9帝の陵があり,茂陵はそのなかの最大の陵で方台状をなし,方約 250m,高さ 36m。
渭北高原の前漢陵墓中最も西辺にあり,かつ最も規模が大きい。陵は東西231m,南北約234m,高さ46.5mの方形台状である。四周に東西430m,南北414mの土壁をめぐらし四方に門闕をもつ。陵の西北に李夫人墓があるほか,東方には衛青・霍去病(かくきよへい)墓が北寄りに,霍光(かくこう)墓ほか十数基の陪冢(ばいちよう)が南寄りに,それぞれほぼ東西に列をなし,始皇陵と同じく陵が東向きであった可能性がある。