李白  白田馬上聞鶯  

黃鸝啄紫椹,五月鳴桑枝。我行不記日,誤作陽春時。

蠶老客未歸,白田已繅絲。驅馬又前去,捫心空自悲。
(馬に乗って楚州寶應縣南門外に在る白田渡を通過するとき、高麗鶯の啼き声が聞えてきて、馬上で作った詩)五月の頃、高麗鶯は桑の枝に上って鳴きつつ、紫に熟した桑の賓を啄んで居る。われは、こうして旅行をしていて、何日とも記憶せず、この高麗鶯の聲に因り、陽春三月の頃と間違って思ってしまった。今しも、蚕は既に老いて、繭を作るに際し、われは、客中に在って、未だ歸らず、白田の村里に於いては、早くも、繭を煮て、糸を繰って居る。そこで、馬を駆って、又、進んで行こうとするのであるが、安陸に残した妻を思い胸を撫でて、空しく自ら悲しむばかりである。

280 《巻二十四26白田馬上聞鶯》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <280> Ⅰ李白詩1558 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6338

 
 2015年7月23日の紀頌之5つのBlog 
 ●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、その後に李白再登場 
 Ⅰ李白と李白に影響を与えた詩
 
LiveDoorBlog
280 《巻二十四26白田馬上聞鶯》Index-19 Ⅱー14-739年開元二十七年39歳 <280> Ⅰ李白詩1558 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6338 
 孟浩然 詩 index李白詩index謝霊運 詩 index司馬相如 《 子虛賦 ・上林賦 》揚雄 《 甘泉賦 》 ●諸葛亮(孔明)出師表 
 曹植(曹子建)詩 65首 index文選 賦)兩都賦序・西都賦・東都賦 (班固)《李白 全詩》
  総合案内
(1)漁父辞 屈原『楚辞・九歌』東君 屈原《楚辞 『九辯』》 宋玉  <案内> 
 ●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首  
 Ⅱ中唐詩・晩唐詩
 
 LiveDoorBlog
76-#21 《八讀巻六11 祭十二郎文》-#21-§6-3 韓愈(韓退之) 803年貞元19年 38歳<1472> Ⅱ【21分割】 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6344 
 ・李商隠詩 (1) 136首の75首・李商隠詩 (2) 135首の61首●韓愈index-1 ・孟郊、張籍と交遊・汴州乱41首●韓愈詩index-2[800年 33歳~804年 37歳]27首●韓愈詩index-3 805年 38歳・]陽山から江陵府 36首●韓愈詩index-4 806年 39歳 江陵府・権知国子博士 51首(1)25首 
 index-5 806年39歳 50首の(2)25首index-6[807年~809年 42歳]20首index-7[810年~811年 44歳] 34首index-8 [812年~814年47歳]46首index-9[815年~816年 49歳] 57首index-10[817年~818年 51歳]・「平淮西碑」28首 
 index-11 819年 52歳 ・『論佛骨表』左遷 38首index-12 820年 53歳 ・9月國子祭酒に。18首index-13 821年~822年 55歳 22首index-14 823年~824年 57歳・病気のため退職。没す。 14首韓愈 哲学・儒学「五原」賦・散文・上奏文・碑文など 
 孟郊張籍     
 ●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。" 
 Ⅲ杜甫詩全1500首   LiveDoorBlog766年-79杜甫 《1716西閣,二首之二》 杜甫詩index-15-766年大暦元年55歲-79 <942> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6345 
 杜甫詩(1)736~751年 青年期・李白と交遊期・就活の詩 53首杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73首(青年期・就活の詩) 杜甫詩(3)755年~756年、45歳 安史の乱に彷徨う 26首杜甫詩(4)作時757年、46歳 安史軍捕縛、脱出、左拾遺 43首杜甫詩(5)758年;乾元元年、47歳 左拾遺、朝廷疎外、左遷 53首杜甫詩 (6)759年;乾元二年、48歳 三吏三別 官を辞す 44首 
 杜甫詩(7)759年;乾元二年、48歳 秦州抒情詩 66首杜甫詩(8)作時759年、48歳 秦州発、同谷紀行、成都紀行 36首杜甫詩(9)760年;上元元年、49歳 成都浣花渓草堂 45首杜甫詩(10)761年;上元二年、50歳 成都浣花渓草堂 82首杜甫詩(11)762年寶應元年 杜甫51歳  浣花渓草堂~蜀中転々 43首杜甫詩(12)762年寶應元年 杜甫51歳 蜀中転々 49首 
 ●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている 
 Ⅳブログ漢・唐・宋詞詩集 Fc2Blog 
        
 ●花間集全詩●森鴎外の小説『魚玄機』、芸妓で高い評価を受けた『薛濤』の詩。唐時代にここまで率直な詩を書く女性が存在した奇跡の詩。唐から五代詩詞。花間集 
 Ⅴ.唐五代詞詩・宋詞詩・女性 LiveDoorBlog7毛文錫《巻五14贊浦子一首》『花間集』215全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6347 
 薛濤の全詩花間集(1巻花間集(2巻花間集(3巻花間集(4巻花間集(5巻 
 魚玄機全詩花間集(6巻花間集(7巻花間集(8巻花間集(9巻花間集10巻 
 温庭筠66首 花間集1・2巻皇甫松11首 花間集二巻韋莊47首 花間集二巻薛昭蘊19首 花間集三巻牛嶠31首 花間集三・四巻張泌27首 花間集四巻 
 毛文錫31首 花間集5巻牛希濟11首 花間集5巻欧陽烱17首 花間集5・6巻和凝20首 花間集6巻顧夐56首 花間集6・7巻孫光憲47首 花間集7・8巻 
 魏承班15首 花間集8・9巻鹿虔扆6首 花間集9巻閻選8首 花間集9巻尹鶚6首 花間集9巻毛熙震29首 花間集9・10巻李珣39首 花間集10巻 
  ■最近Best5 賦・詩・詞(漢詩4ブログ各部門)漢詩総合サイト 07ch 
 杜甫全詩案内韓愈全詩案内李白全集文選古詩源花間集案内 
 
 

 

年:739年開元二十七年39

卷別:    卷一八四              文體:    五言古詩

詩題:    白田馬上聞鶯

作地點:              白田(淮南道楚州安宜)

及地點:              白田(淮南道楚州安宜)

 

 

白田馬上聞鶯

(馬に乗って楚州寶應縣南門外に在る白田渡を通過するとき、高麗鶯の啼き声が聞えてきて、馬上で作った詩)

黃鸝啄紫椹,五月鳴桑枝。

五月の頃、高麗鶯は桑の枝に上って鳴きつつ、紫に熟した桑の賓を啄んで居る。

我行不記日,誤作陽春時。

われは、こうして旅行をしていて、何日とも記憶せず、この高麗鶯の聲に因り、陽春三月の頃と間違って思ってしまった。

蠶老客未歸,白田已絲。

今しも、蚕は既に老いて、繭を作るに際し、われは、客中に在って、未だ歸らず、白田の村里に於いては、早くも、繭を煮て、糸を繰って居る。

驅馬又前去,捫心空自悲。

そこで、馬を駆って、又、進んで行こうとするのであるが、安陸に残した妻を思い胸を撫でて、空しく自ら悲しむばかりである。

(白田、馬上、鶯を聞く)

黃鶴、紫椹を啄み、五月、桑枝に鳴く。

我が行、日を記せす、誤って、陽春の時と作す。

蠶老いて、客、未だ歸らず、白田すでに絲を繅る。

馬を駆って又前み去る、心を椚でて、空しく自ら悲む。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->
<!--[endif]-->

唐時代 地図615 長江下流域 

『白田馬上聞鶯』 現代語訳と訳註解説
(
本文)

白田馬上聞鶯

黃鸝啄紫椹,五月鳴桑枝。

我行不記日,誤作陽春時。

蠶老客未歸,白田已繅絲。

驅馬又前去,捫心空自悲。

(下し文)
(白田、馬上、鶯を聞く)

黃鶴、紫椹を啄み、五月、桑枝に鳴く。

我が行、日を記せす、誤って、陽春の時と作す。

蠶老いて、客、未だ歸らず、白田すでに絲を繅る。

馬を駆って又前み去る、心を椚でて、空しく自ら悲む。

(現代語訳)
(馬に乗って楚州寶應縣南門外に在る白田渡を通過するとき、高麗鶯の啼き声が聞えてきて、馬上で作った詩)

五月の頃、高麗鶯は桑の枝に上って鳴きつつ、紫に熟した桑の賓を啄んで居る。

われは、こうして旅行をしていて、何日とも記憶せず、この高麗鶯の聲に因り、陽春三月の頃と間違って思ってしまった。

今しも、蚕は既に老いて、繭を作るに際し、われは、客中に在って、未だ歸らず、白田の村里に於いては、早くも、繭を煮て、糸を繰って居る。

そこで、馬を駆って、又、進んで行こうとするのであるが、安陸に残した妻を思い胸を撫でて、空しく自ら悲しむばかりである。

楚州0015
(訳注)

白田馬上聞鶯

(馬に乗って楚州寶應縣南門外に在る白田渡を通過するとき、高麗鶯の啼き声が聞えてきて、馬上で作った詩)

白田 淮南道楚州寶應縣の白田渡のこと。白田渡は寶應縣南門外に在った。

李白 《0804贈徐安宜》「白田見楚老,歌詠徐安宜。製錦不擇地,操刀良在茲。」(白田に 楚老を見る,歌詠す 徐安宜。錦を製して 地を擇ばず,刀を操って 良に茲に在り。)“楚州白田へ行って、楚地の父老が何をしているのかと思うと安宜縣令の徐君の徳をたたえて、しきりに歌詠をやっている。徐君は、その才能によってその地を錦を裁断するのも意のままに、施政よろしく治め、刀を操ることに熟達して、軍事的にもこの地をよくした。

【解説】前半は、題意の正面。後半は、蚕が老いたら、或は糸を繰ったりして居ることを言い、因って、旅愁に入ったのである。嚴滄浪は「情事能く達す、必ずしも深く求めず」といい、乾隆御批には「曲にして直あるの体、深く楽府の意を得たり」とある。

 

黃鸝啄紫椹,五月鳴桑枝。

五月の頃、高麗鶯は桑の枝に上って鳴きつつ、紫に熟した桑の賓を啄んで居る。

○黃鸝 高麗鶯、黄鳥。スズメ目コウライウグイス科の鳥。全長約25センチメートル。全体が黄色で,目から後頭部にかけて黒色帯があり美しい。シベリア・中国・朝鮮などに生息し,日本へはまれに渡来する。鳴き声がよいのでこの名があるが,ウグイスとは別種。朝鮮ウグイス。(おうちよう)。

○紫椹 クワの実。春に開花する。雄花は茎の先端から房状に垂れ下がり、雌花は枝の基部の方につく。果実は初夏に熟す。キイチゴのような、柔らかい粒が集まった形で、やや長くなる。熟すと赤黒くなり、甘くて美味しい。落葉性の高木で、大きいものは15mに達するが、普段見かけるのは数m程度のものが多い。桑は、樹皮は灰色を帯びる。葉は薄く、つやのある黄緑色で、縁にはあらい鋸歯がある。大きい木では、葉の形はハート形に近い楕円形だが、若い木では、葉にあらい切れ込みが入る場合がある。

 

我行不記日,誤作陽春時。

われは、こうして旅行をしていて、何日とも記憶せず、この高麗鶯の聲に因り、陽春三月の頃と間違って思ってしまった。

 

蠶老客未歸,白田已繅絲。

今しも、蚕は既に老いて、繭を作るに際し、われは、客中に在って、未だ歸らず、白田の村里に於いては、早くも、繭を煮て、糸を繰って居る。

○蠶老 《埤雅》「蠶足於葉三俯三起,二十七日而蠶已老」(蠶 葉に足れば、三俯三起,二十七日にして、蠶 已に老ゆ。)とある。カイコはチョウ目・カイコガ科に属する昆虫の一種。正式和名はカイコガで、カイコは本来この幼虫の名称だが、一般的にはこの種全般をも指す。クワを食餌とし、絹を産生して蛹の繭を作る。桑の葉、クワのみ、蚕は古代女性がしなければいけない職業で、折った反物が租税となっていた。律令制の唐代の均田法下の税法があり、給田を受けた丁男(2159歳)に課したもので、租は粟(あわ)2石、庸は年20日(閏年は22日)の労役、または代納として1日当たり絹3尺、調は絹2丈と綿3両、または布2.5丈と麻3斤。

古代女性の労働の中で、機織りは最も生産性の高い蜀主であった、その他、田植えとか脱穀、食料採取、調理はもちろん、酒づくり、土器づくり、も女の仕事であった。

 

 

驅馬又前去,捫心空自悲。

そこで、馬を駆って、又、進んで行こうとするのであるが、安陸に残した妻を思い胸を撫でて、空しく自ら悲しむばかりである。

○捫心 むねをなでる。高麗鶯のなきごえ、紫椹,桑枝、これらは妻を思い起こす語であり、安陸に残した妻を思い胸を撫でたという意味。

 

 

一農家の女性

 

「男耕女織」、これは中国古代の標準的な農家の生活風景である。唐代の農民は官府に租税を納める外に、なお調として絹、綾、布、綿などを納めねはならず、これらの任務はみな女性たちが担わされていた。少数の豪紳地主の家の女性を除いて、大多数の農家の女性は、その生涯のすべてを養蚕や紡織の仕事に投じた。社会全体の「衣と食」という二つの大仕事は、彼女たちがその半分を担ったのであるが、それと同時に彼女たちは精美な織物を大量に作って古代文明に貢献したのである。

「夫は田中の郎、妾は田中の女。当年君に嫁し得て、君の為に機杼を秉る。筋力は日に巳に疲るるも、窓下の機を息めず。如何せん紈素を織るに、自らは襤褸の衣を著くるを」(孟郊「織婦辞」)。これが一般の農家の女性たちの労働と生活の状況であった。

春が来るとすぐに彼女たちは明ければ桑の葉を摘み、蚕を飼うことに暮れるまでするようになる。

「暁夕桑を採んで苦辛多く、好花の時節も不閑身」(来鵠「蚕婦」)。

「桑林植黒く蚕は再び眠り、婦姑は桑を採んで田に向かわず」(張籍「江村行」)。彼女たちは天の神様に御加護を祈る、どうか繭がたくさん取れますようにと。

「但だ青天を得て雨下らず、上に蒼蝿無く下に鼠無からんことを。新婦は族を拝して繭巌がるを願い…。三日配か開けば割く酢邸先ず新たな繭を群で県官に送る。田に聞く郷里にては織作を催すと、去きて誰人の身上に著けられん」(王建「族蚕辞」)。

 

女たちは養蚕の収穫が悪いと悲しんで涙を流す。

「春風は蚕を吹き細きこと蟻の如く、桑の芽は挽く青鵜の嘆を努す。侵農に探り来るは誰が家の女、手に長き条を挽きつつ涙は雨の如し。……愁い聴く門外に里背の催すを、官家は二月に新しき糸を収む」(唐彦謙「桑を採る女」)。

桑摘みと養蚕で多忙を極めているのに、官府は納税を迫るので、女たちは夜を日に継いで手足を休めず横を織らねばならない。

「妾が家は豪門に非ざるに、官賦は日に相い追う。槙を鳴らして夜より暁に達するも、猶お時に及ぼざらんことを恐る」(司馬札「蚕女」)。

「貧家の女は富家の為に織り、……水は寒く手は渋み糸は脆くも断つ、続来続去 心腸は欄る。芋虫は促促と横の下にて噂き、両日 催して一匹半を成す。官に輸むれば上頭に零落有りと、姑は未だ衣を得ず 身も著けざるに」(王建「当窓の織」)。

蚕桑、紡織の他に、さらに彼女たちは山菜や野の果実を採ったり、薪を集めたり、米を掩いたりする重労働にも従事した。夜が更けても、村の女はまだ仕事を続けている。

「田家 秋作に苦しみ、鄭女 夜 番くに寒し」(李白「五松山下の苛姐の家に宿す」)。

白髪の老婆は、朝早くから夜遅くまで橡の実を拾って家人の食糧にする。

「侭侮った黄髪の姐 之(橡の実)を拾って農霜を踏む。時を移して(しばらくして)始めて掬に盈ち、日を尽して方て筐に満てり。幾びか曝し復た幾びか蒸し、用て三冬糧(冬三カ月の食糧)と作す」(皮目休「橡姐の嘆」)。

租税を納めると生活できない貧家の女たちは、ただ麦の落穂を拾って飢えをしのぐしかなかった。

「復た貧しき婦人有り、子を抱きて共の傍らに在り。右の手にて遺ちた穂を乗り、左の常には徹れたる筐を懸く……。家も田も税を輸めて尽き、此を拾いて飢えたる腸を充たす」(自居易「麦を刈るを観る」)。

また、ある貧苦の農婦は日傭いに出ねはならなかった。

「貧窮せる田舎の漠、……妻は即ち春梅に客わる」

「黄昏 家裏に到れば、米無く復た柴無し」(楊公磯『唐代民歌考釈及変文考論』第八簾、書林人民出版社、完六二年)。

山村の女の多くは柴を軟り、それを売って生活した。彼女たちは、

「乱蓬を贅となし布を巾と為し、暁に寒山を踏んで自ら薪を負う」(白居易「薪を売る女に代って諸妓に贈る」)。

大部分の女はすでに四、五十歳、頭髪は半ば白くなっているが、なお

「十に猶お八九は薪を負うて帰り、薪を売り銭を得て供給に当つ」。

彼女たちの生活はきわめで幸いものであり、心は悲しみと苦しみに満ちていた。

「面を救い首を飾るも噂の痕を雑じえ、地は編く衣は寒く石根に苦しむ」(杜甫「負薪行」)。

苛酷な労働、困難な生活は、彼女たちの青春の血と汗を消耗し尽くし、衣服はぼろぼろ、顔はやつれはてた。

「粉色は全く無く飢色加わる、山豆に人世に栄華有るを知らんや。年年 我に這う 蚕は辛苦なりと、底事ぞ 浮身に苧麻を着くるは」(杜荀鶴「蚕婦」)。

猛暑と風霜の苦しみをいやというほど味わったので、彼女たちの顔は黒く髪は赤茶けた。一年中あくせく働いたので、化粧を顧みることもできなかった。詩人によって描写された、ある里帰りの農婦の姿は次のように粗末なものであった。

「二升の酸館をば瓦瓶に盛り、姑婦に請い得たり十日の程。赤黒く眉を画き水に臨んで(水に顔を映して)笑い、草鞋もて脚を竜み風を逐って行く。黄ばめる糸のごとき髪は乱れて琉棟は繁く、青き符の裾は高く種掠は軽し」(種掠は意味不詳。張砧「戯れに村婦に贈る」)。

彼女たちは決して生れつき粗野で醜かったわけではない。ほかならぬ辛く苦労多い生活が早々と彼女たちの青春の輝きを奪い去ったのである。